超高層ビルとパソコンの歴史http://www.eonet.ne.jp/~building-pc/index.htm
■浜田省吾記録サイト■
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■浜田省吾記録サイト■
映像◆メインストリートCMhttps://youtu.be/_uYm_EBA2_E
浜田省吾 12インチ「DANCE」 こんな夜には踊り続けるのさ
2020-05-22 浜田省吾
https://moonlight-cats.com/blog-entry-1390.html
浜田省吾の「MONEY」を聴いて考える、自分の本当の欲望って何だ?
これは、浜田省吾が今まで所属していたホリプロを離れ、個人事務所「ロード&スカイ」を設立してから制作した最初のオリジナルアルバムであったからだ(多分そうだ)。
「ロード&スカイ」、なんとも浜田省吾の作った事務所らしい名前だ。個人事務所の設立、何か新しい浜田省吾が始まるような予感。僕は当時、この『DOWN BY THE MAINSTREET』のリリースを首を長くして待っていた。
同アルバムは、浜田省吾にとって非常に思い入れのある作品だと言われている。それは、浜田省吾が初めて自分でプロデュースした作品であり、第2のデビューアルバムを作ったと公言しているからだ。
「ファーストアルバムのあの時期、70年代の、20代の頃に作るべきアルバムを作り損ねた。だから今、作るって感じ。こういうアルバムが、本来自分が作るべきアルバムだったんだ」
―― と浜田省吾は語っている。
また、独立して、作りたい音楽を作れるようになったから、作り損なった音楽を作ったという一方で、「30代になったからこそ、しっかり20代や10代のことを見据えて作れるようになった」とも語っている。
浜田省吾が語る通り、このアルバムは、まさに10代から20代の若者の人生のサウンドトラックのようだ。1984年の僕は大学1年生。このアルバムの主人公達と同じ世代。そのメッセージに影響されない訳がない。
だから、僕にとってもこれは非常に思い入れのある作品で、浜田省吾のアルバムの中で最も聴いた回数が多いアルバムだ。
特に影響を受けたのは1曲目の「MONEY」。言わずと知れた浜田省吾の代表曲でもあるハードロックテイストの曲だ。初めてレコードに針を落とした瞬間に聴こえてきた印象的なギターフレーズに鳥肌が立ったことを今でも思い出す。
「世の中金だ」、「金こそ全てだ」と歌っているように思われがちだけど、実は逆。確かにこの曲の主人公は、金を巡る人間模様に嫌気が差し、いつかは自分もビッグマネーを手にすることを夢見ているけど、「大切なものは金じゃ買えないってことが何でわからないんだ」というのが浜田省吾の本当のメッセージだ。
欲しいものはすべて
ブラウン管の中
まるで悪夢のように
この部分がこの曲の核だと浜田省吾は言う。金が欲しいというよりも、ブラウン管の中から大量の購買意欲を刺激され、そこには、一生手に入らないものや手の届かない生活がある。しかし、それらがあたかも身近にあるように描かれ、リアリティーがあるように見えるけど、本当はリアリティーなんてない。
本当はないのに、すごくリアルなものとしてブラウン管には映って、それに煽られてそれを目指すも、自分には手が届かない事に気づき、自分の欲望に傷付く。
僕は、この曲を聴くと “自分の居場所はここでいいのか、良かったのか”、と今でも自問自答する。この曲に出会った18歳の時も、自分のリアルな欲望ってなんだろうって真剣に考えた。そりゃ金は欲しいけど、金で人を選んだり、場所を選んだりはしないぞ、と心に決めたりもした。
実際にそういう場面には出くわす事なくここまで来たけど、この曲に18歳で出会って良かったと思っている。自分を見つめ直すきっかけをくれたのだから。
ちなみに、メルセデスが嫌いになったのもこの曲のせいだ。ドンペリの存在もこの曲に教えてもらった。結構いろいろ影響受けちゃってる「MONEY」という曲、恐るべし。
歌詞引用: MONEY / 浜田省吾
※2017年11月14日に掲載された記事をアップデート
2019.10.21
https://reminder.top/132483701/
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┃ 『Down by The Mainstreet』 ┃
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‡1984(昭和59)年10月21日(sun) released
1984(昭和59)年11月01日(thu) CD released ※初CD発売
1990(平成二)年06月21日(thu) CD released ※再CD発売
1999(平成11)年09月08日(wed) REMIX AND MASTERING 初回限定版 SRCL-4604
1999(平成11)年09月29日(wed) REMIX AND MASTERING
『PROMISED LAND~約束の地』ですごく大きなテーマを抱えたんで、もう1回等身大のところに戻って、ふつうに生きている少年たちというか、自分がかつて作りそこねた曲を作りたくて、このアルバムになったんです。『生まれたところを遠く離れて』というアルバムを作ったあと、『君が人生の時…』まで、すごくポップなものばっかりだったでしょう、本当はその頃に作らなきゃいけなかったんです。それをはじめて自分でプロデュースして作ったんです。だからアレンジにしてもサウンドを作るにしても失敗だらけだったんですけど、はじめてプロデュースして、はじめてツアー・バンドで作ったアルバムなのですごく思い入れがありますね。このアルバムの主人公というのは、みんな少年なんです。ここではじめたことが、『J.BOY』につながるんです。
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https://shogo.r-s.co.jp/disco/album11.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/DOWN_BY_THE_MAINSTREET
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『ニュー・サウンズ・スペシャル~浜田省吾~』
1984(昭和59)年11月24日(土) 22:00~23:00 NHK-FM
O.A内容
‡1984(昭和59)年10月21日(日)にリリースされた最新アルバム『DOWN BY THE MAINSTREET』の収録曲を紹介
ラジオ欄の曲目:
1. ハロー・ロックンロール・シティ(HELLO ROCK&ROLL CITY)
2. ダンス(DANCE)
3. メインストリート(MAINSTREET) ほか
http://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11600790153.html
参考URL■https://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11596940023.html
浜田省吾 DOWN BY THE MAINSTREET https://www.youtube.com/playlist?list=PLMzK6hzWYssUNwhDIPyT60cIw2zsaYpOc
浜田省吾の経済学 ~ビッグマネーはいくらなのか?
2014(平成26)年 5月14日(水) 10時20分
http://news.livedoor.com/article/detail/8829886/
1984音源◆https://youtu.be/MY-Ulfwn8CE
2011映像◆『Money (ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend")』 https://youtu.be/tHjFsTsEb0I
映像◆メインストリートCMhttps://youtu.be/51OyTB94QzQ
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①┃ 浜田省吾 #24『DOWN BY THE MAINSTREET』 ┃
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2016(平成28)年06月24日(金)
『DOWN BY THE MAINSTREET』レコーディング話の続きです。
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浜田省吾のアルバム『DOWN BY THE MAINSTREET』のレコーディングは、
1984(昭和59)年8月17日(金)からのツアーが始まってもまだ続いていた。バックバンドは新たなメンバーが加入して、雰囲気がガラッと変わった。それまでのバンドっぽさは無くなり、セッションミュージシャンの集合体のような雰囲気になった。ぼく達はツアーのリハーサルと並行しながらレコーディングを行っていた。レコーディングスタジオのロビーのテレビでは、連日ロサンゼルスオリンピックの模様が映し出されていた。河口湖でボツとなったテイクは、リアレンジされて信濃町のソニースタジオで新たに録音し直した。町支さんアレンジの
「Money」はギターのカッコいいリフから始まる、重心の低いハードなサウンドに変貌した。ぼくアレンジの
「The Pain」も、ほぼ全面リニューアルされた。イントロは「F#m add9(エフシャープ・マイナー・アド・ナインス)」と言う、物悲しい響きのするコードから始まるアレンジにした。ぼくはこの一小節目のコードを決めた時点で、遥か彼方にではあったがアレンジの全体像が見えた。楽曲のアレンジをする際、毎回そうなのだがぼくはイントロが完成すると、八割方アレンジが出来た気分になる。間奏はクロマティック・ハープ(ハーモニカ)を八木のぶおさんに吹いてもらった。 八木さんは日本で数少ないハープ奏者で、勿論その腕前は超一流。素晴らしいクロマティック・ハープの演奏にぼくは感激していた。美しいアコースティック・ギターを弾いているのは笛吹利明さん。数々のレコーディングに参加している、日本を代表するアコースティック・ギター奏者の一人である。曲のタイトルは「The Pain」から最終的に「Pain」に変更になった。夏から始まったコンサートツアーが始まっても、まだレコーディングは続いていた。 旅から帰って家には帰らずに、そのままレコーディングスタジオへ直行することも珍しくはなかった。ぼくはツアーにポータブルキーボードを持参して、移動の電車やバスの中でもキーボードを出してアレンジを考えた。
『Daddy'sTown』のアレンジはぼく主導でアレンジして、ベースの江澤くんにアシストしてもらった。東北を廻るツアーで山形県酒田から弘前への移動日に、弘前のホテルに籠りきりになって『Daddy'sTown』のスコアを書いた。アイデアに詰まると江澤くんからアドバイスを受けた。個人的には間奏で転調する部分が気に入っている。この曲で素晴らしく正確でタイトなドラムを叩いているのは島村英二さん。元ラストショウのメンバーで、吉田拓郎や松任谷由実、井上陽水等々数えきれないほどのレコーディングやライブに参加している名ドラマー。島村さんのドラムはリズムがクリック(レコーディングの際にテンポが変わらないようにガイドとして鳴らす音。)のタイミングと合いすぎていて、クリックが聴こえなくなるほど正確で、レコーディング中にとても驚いた記憶がある。イントロのドラムのフィルインのフレーズが恐ろしいほどカッコいい。
『Daddy'sTown』は曲の冒頭にピアノとサックスのインストゥルメンタルが入っているが、あれは浜田さんからのリスエストで、イントロの前に導入部分的なものが欲しいとの要望に応えたもの。レコーディングスタジオであまり考えずにほぼ即興で弾いた。ピアノのテイクがOKになると、今度は古村くんがやはり即興でサックスを吹いた。
『Dance』と『Silence』は河口湖でレコーディングしたオケのベーシックな部分は採用になって、ダビングものをやり直すことで決着した。残りの曲はすべて都内のスタジオでレコーディングした。
『EDGE OF THE KNIFE』は江澤くんのアレンジ。新加入のドラマー野口さんが味わい深いドラムを叩いている。野口さんは元シュガー・ベイブで、元センチメンタル・シティ・ロマンスのドラマーだった方。ぼくはシュガー・ベイブもセンチメンタル・シティ・ロマンスも大好きで、レコードもよく聴いていたので、野口さんと一緒にやれることはとても光栄なことだった。
『MIRROR』は町支さんアレンジ。町支さんによる一人多重録音のコーラスが格好良い。
『A THOUSAND NIGHTS』はぼくと江澤くんの共同アレンジ。この曲も最初のバージョンは一度レコーディングしたのだがボツになった。ボツになったバージョンはオールディーズっぽいサウンドで、もっとシンプルなビートのアレンジだった。浜田さんからの要望もあって、リアレンジ後はモータウンビートのリズムに落ち着いた。
『HELLO ROCK&ROLL CITY』は古村くんアレンジ。ホーンセクションが活躍するご機嫌なR&Bナンバーになった。ぼくはピアノとハモンドB3オルガンを弾いた。ハモンドB3はいつ弾いてもゴキゲンな音がするが、とにかくバカでかくて凄く重いのと、必ずレスリースピーカーとのセットで鳴らすので、個人で所有するのは保管場所、重さ、価格(超高い)の問題があってとても難しい。なので、レコーディングの時はレンタルしていた(レンタル代もバカ高い)
『MAINSTREET』は浜田さんアレンジ。スタジオで浜田さんと「イントロにこんな音はどう?とか、サビのバックにカウンターメロディを入れよう!」とか言いながらキーボードのダビングを行った。なんだかワクワクしながら演奏した記憶がある。レコーディングは河口湖スタジオ、信濃町ソニースタジオ、六本木ソニースタジオ、セディックスタジオで行われた。この四つのスタジオは残念ながら今はすべて無い。セディックスタジオは六本木の「WAVE」という商業施設のビルの6階か7階にあったスタジオで、レコーディングがあるたびに下の階のレコードショップ「WAVE」でよく輸入盤のLPを買った。何年か後にWAVEも取り壊しになって、今は跡地に六本木ヒルズが建っている。『DOWN BY THE MAINSTREET』のジャケット撮影は世田谷で行われた。バンドメンバーで撮影の日に来れる人は、ジーンズにスニーカーかブーツを履いて集合とのことだったが、残念ながらぼくはスケジュールが合わずに行けなかった。ジャケットに描かれている足は浜田さんと、もう一人は江澤くんか町支さんのどちらかではないかと思う。このレコーディングが行われたあたりから、レコーディングがアナログ録音からデジタル録音に変わった。初めてスタジオで見るソニーのデジタルテープレコーダーPCM-3324は結構大きくて、その存在感も含めて初めて見るデジタルレコーダーにみんな興味津々だった。PCM-3324は24チャンネル録音が可能だった。それまでのアナログレコーダーも24チャンネルでの録音が可能だったが、デジタルレコーダーになってテープの巻き戻しや早送りが飛躍的に早くなった。当初はPCM-3324のノイズの無いクリアな音質にみんな驚いた。しかしまだこの頃のデジタル録音技術はスタートしたばかりだった。確かに音質は素晴らしくクリアになったが、音の奥行き感や厚み等がアナログ録音に比べるとどこか違って聴こえた。そのあたりの問題は後継機であるPCM-3348(48チャンネルレコーダ)の登場で徐々に改良されては行くが、デジタル録音された音質の特徴なのではないかと個人的には思う。現在はデジタル録音技術も飛躍的に向上して、超ハイクオリティなレコーディングが可能になったが、ぼくは今でもアナログ録音された時代の音にも魅力を感じている。それでもぼくにとって初のデジタルレコーディングは、とてもエキサイティングな出来事だった。最終ミックスを手がけたのは日本を代表するトップエンジニアの吉田保さん。大滝詠一や山下達郎の多くの作品のミックスを手がけたことでも有名。『DOWN BY THE MAINSTREET』は、
‡1984(昭和59)年10月21日(日)に発売されるとチャートの二位を記録した。まるでハリウッドの良質な青春映画を観ているかのような、ストーリー性溢れるこのアルバムは、ぼくにとっても大切な作品である。足の人物は右が浜田さん、左はおそらく江澤くんor町支さん?
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②┃ 浜田省吾 #23 河口湖レコーディング 1984 ┃
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2016(平成28)年06月10日(金)
1984(昭和59)年の初夏、浜田省吾のニューアルバム『DOWN BY THE MAINSTREET』のレコーディングが始まりました。今回はその話を。
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1984(昭和59)年6月23日(土)、ぼく達は河口湖でのレコーディングに向けて、それぞれ車で東京を出発した。その頃ぼくは環七沿いのマンションを出て世田谷区経堂に引っ越していた。ルームシェアをしていたビビノ音響のMくんが、次の浜田省吾さんのツアーのPAを担当することになって、西本明くんの時と同じくまたもぼくは、旅に出ても家に帰っても同居人と一緒の生活が始まろうとしていた。しかしもう同じ轍は踏みたくなかったので、ぼくはMくんが浜田さんのツアーに出ることが決まった時から密かに部屋を物色していた(笑)そして横浜スタジアムでのコンサートが終了してしばらくたったある日、ぼくは一人で経堂に引っ越した。河口湖に出発する日、ぼくの車に同乗したのはベースの江澤くんと、浜田省吾のマネージャー。ぼく達三人は経堂を出発するとすぐに甲州街道に出て、そこから中央高速で河口湖に向かった。小雨が降りしきる中、約二時間程で一口坂・河口湖スタジオに到着した。この日は梅雨の真っ最中で河口湖周辺もどんよりとした雲に覆われていた。スタジオに着くと間もなく、機材のセッティングに取りかかった。今日から二日間で四曲のリズムセクションのレコーディングを行う予定になっていた。この日河口湖スタジオに集結したメンバーは以下の通り。
ドラムス:滝本季延 (としのぶ)
ベース:江澤宏明
ギター:町支寛二
キーボード:板倉雅一
サックス:古村敏比古
The Fuseからの残留組+ドラムの滝本くんという編成だった。滝本くんは以前、浜田さんのバンドメンバーだったドラマーで、当時のバンドは滝本くんと鈴木俊二くんとのツインドラム編成だった。滝本くんは、ぼくやベースの江澤くんとも旧知の間柄で、ぼくは彼の素晴らしさを知っていたので、滝本くんと一緒にレコーディング出来ることがとても楽しみだった。各楽器のサウンドチェックを終えると、早速レコーディングが始まった。広いスタジオ内は音のかぶりを防ぐために、各楽器ごとにパーテーションで仕切られていた。ドラムとアコースティックピアノは、ちょっとした個室のようなスペースにセットされていた。最初に録音したのは
「Money」。アレンジはギターの町支さん。この時レコーディングしたアレンジは、後に正式バージョンとして発表されたものとは全く別のバージョンで、後にアルバム『DOWN BY THE MAINSTREET』に収録されたバージョンよりもかなりテンポも速くて、もっとパンクっぽい軽めのサウンドだった。あまりの曲のテンポの速さに、演奏しながらみんな手がつったほどだった。次に録音したのは
「The Pain」という仮タイトルの付いたバラード。アレンジはぼく。この曲も当初はレコードになったものとはかなり違うアレンジだった。もう少しブラコン(ブラック・コンテンポラリー)っぽいアレンジで、ちょっと洋楽っぽいと言うか完成版よりはあっさりとした感じのサウンドだった。二曲のリズムを録り終える頃、ちょうど夕食の時間になった。河口湖スタジオは賄い付きで、朝夕と美味しい食事が用意されていた。ぼく達はレコーディング作業が一段落すると、スタジオに併設された建物の二階にある広いリビングに集まって食事をした。夜はここでお酒を飲みながらその日に録った音を聴いた。スタジオの二階にあるルーフバルコニーからは、雲の隙間から時折顔をのぞかせる美しい富士山を眺める事が出来た。食事を終えるとまだダビング作業が残っていた。ダビング作業は主にぼくと町支さんの担当で、リズムを録り終えた滝本くんと江澤くんはすでにこの日の仕事を終えて寛いでいた。ベーシックなキーボードとギターのダビングが終わるとすでに深夜だった。スタジオには宿泊施設も付いていて、さながらシンプルなリゾートホテルと言った趣だった。明けて24日は残りの二曲のリズム録りから始まった。一曲目は
「DANCE」。12インチシングルバージョンとは違うアレンジで、中心になってアレンジを担当したのは浜田さん。こちらのバージョンはスティーリー・ダンのような、ちょっとアーバンな雰囲気の漂うアレンジだった。ぼくはスタジオに常備されていたフェンダー・ローズ・スーツケースピアノを弾いた。河口湖スタジオのローズはとても良い音がして、ぼくは弾いていてとても気持ちが良かった。ローズピアノは個体差が激しくて、モノによっては全く良い音がしない場合もある。ここのスタジオのローズは当たりだった。もう一曲録音したのは後に
「Silence」と題されるナンバー。この曲は古村くんアレンジ。先日のぼくの家でのプリプロで骨格が出来上がっていた曲。独特のベースラインに特徴のある、古村くんのアイデアが光るカッコいいアレンジだった。このベースラインを演奏した江澤くんは大変そうだったが、二つの異なるフレーズをダビングして重ねることで、あのカッコいいベースラインが完成した。「Silence」のドラムにはリズムマシンを使用した。ドラムの滝本くんが持って来たアメリカのメーカー、シーケンシャル・サーキット社の「ドラムトラックス」という、まだ発売されたばかりのリズムマシンを使用した。このドラムマシンは当時としては結構ハイスペックで、8ビットPCM音源 6パラアウトという仕様だった。今では笑ってしまうぐらい貧弱なスペックだが当時はこれが先端だった。この日も夕食後に少しダビング作業を行ってから、ぼく達は河口湖スタジオを後にした。河口湖から戻って何日から経ったある日、浜田さんから電話がかかって来た。
「この間、河口湖でレコーディングしたオケだけど一旦ボツにするから。」
「えぇ??!?ボツですか?」「そう、あれから何度も聴いたんだけど何か物足んないんだよね。特にMoneyとThe Painの二曲。」どうも浜田さんは町支さんがアレンジした曲と、ぼくがアレンジしたバラードのオケが今一つしっくり来ないらしい。「せっかくレコーディングしたのに悪いんだけど、もう一度アレンジを練り直してくれないかなぁ。」「そうですか、分かりました。もう一度考えてみます。」そうしてぼくと町支さんは再びアレンジをし直すこととなったのである。以下続く。
写真◆ボツになった♪Money♪と♪Pain♪が収録されたテープ。
写真◆スタジオに併設されたレジデンスエリア。二階部分がリビングで一階が宿泊施設。
写真◆♪Silence♪で使用したドラムトラックス(Wikipediaより)
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③┃ 浜田省吾 #21 プリプロ顛末記 ┃
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2016(平成28)年05月30日(月)
1984(昭和59)年、浜田省吾のアルバム「Down By The Mainstreet」のレコーディングに向けてのプリプロ作業が始まりました。今回はその顛末記です。
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1984(昭和59)年の春、浜田省吾とThe Fuseからの残留メンバーは、ニューアルバムのプリプロダクションの為に、河口湖畔の貸し別荘で数日間の合宿を行うことになった。ぼく達は車数台と楽器を積んだトラックで河口湖のコテージに到着した。まだ寒さの残る日だった。そのコテージは河口湖沿いの人気(ひとけ)のない森の中に何棟も点在していた。すでにあたりは日も沈んで暗くなってきていた。さっそくぼく達はコテージに楽器を運び込んでセッティングを開始した。ようやく楽器のセッティングが完了して軽く音を出して諸々確認をしてみた。さしたる問題もなく一通りの楽器の音が出た。ようやく一息ついて、これから数日間の合宿プリプロに向けて士気も高まってきた矢先、浜田さんから爆弾発言が飛び出た。「何かさぁ、ここって思ってた感じとちょっと違うなぁ。フィーリングが合わないと言うかさぁ…。ん??…やっぱり帰ろう!!」えぇぇぇぇ????!!???「やっと楽器のセッティングも済ませたばかりなのに帰るってマジっすかぁ??」誰からともなくほぼ同時にみんなの口から似たような言葉が出た。どうも浜田さんはこの場所とコテージの感じがしっくり来ないらしい。「せっかく楽器もセットしたのに悪い!、ホント申し訳ないけどここではやりたくないんだ。」確かそんなような内容のことを浜田さんは言った。本人がやりたくないというのを引き止めるわけにも行かず、ぼく達は渋々組んだばかりの楽器をバラし始めた。結局河口湖には一泊もせずにその日のうちに東京に戻った。河口湖でのプリプロがドタキャンになって、さてどうしたものかと思っていたところに、またしても浜田さんから爆弾が投下された(笑)
「板倉の家は部屋が何個かあったよね?リビングも広いし。そうだ!板倉の家でプリプロやろう!!」
えっ!?…えぇぇぇぇ????!!???
何ですってぇぇ?!?
「マジっすかぁぁ!?ホントにオレんちでやるのぉ?」
「そう。我ながらグッドアイデアだと思わない?」ニヤッと笑いながら、勝ち誇ったように浜田さんは言った。
「全然グッドじゃ無い無い!!そんなの無理だよぉ?!」困惑しながらぼくは答えた。
「ん?、にゃ!もう決めたから。みんなもそう思わない?」浜田さんは一度決めたらテコでも動かないと言った様子で、みんなにも同意を求めた。
「そうね、板さんちだったらみんな近いし、環七沿いだからちょっとぐらい音出しても大丈夫そうだし、眺めも良いしいいかもね。」とかなんとか、みんなで調子のいいことを言って、強引にぼくの家でプリプロをやることに決めてしまった。かくして河口湖での合宿から一転、ぼくの家で浜田省吾の新曲のプリプロが行われることとなった。
1984(昭和59)年某月某日、浜田さんとバンドメンバー、スタッフはぼくの家に集結した。これから数日間に渡って新曲の骨格を練り上げて行くのだが、ぼくは自分の家でプリプロが行われることが心配で何か落ち着かなくて仕方がなかった。当時住んでいた僕の家は環七沿いの13階建てのマンションで、ぼくの部屋は10階の角部屋だった。間取りは2LDKで、六畳の部屋が二部屋と約15畳程度のリビングダイニングが付いていた。割と高台に建っているマンションだったので、部屋の窓からは素晴らしい眺望が堪能出来た。ベランダからは羽田空港に発着する飛行機や、空気の澄んだ日には房総半島までもが見えた。夜になると新宿の高層ビル群や東京タワーの夜景等がとても綺麗だった。そんな部屋に後に浜田省吾のモニターエンジニアを担当することになる、ヒビノ音響のMくんとルームシェアする形で住んでいた。そしてMくんが仕事で留守な時に合わせてプリプロの日程が組まれた。曲のアレンジを担当する者が中心となって、三つの部屋に別れて作業が始まった。例えばAという曲のアレンジは町支さんと浜田さんで六畳の部屋、Bという曲のアレンジはぼくと江澤くんでもう一つの部屋、Cという曲のアレンジは古村くんでリビング、といったような感じで部屋ごとに作業が同時進行していった。そしてある程度アレンジの骨格が出来たら、みんなで楽器を持ってそれぞれの部屋に集まり、軽く演奏して確認してみたりした。さすがに部屋にドラムは持ち込めないので、ドラムはドラムマシーンを使って代用した。あっという間にぼくの家は、楽器やケーブル、譜面等々がそこいらじゅうに散乱して足の踏み場も無いような状態になった。 そんな作業の様子を事務所のスタッフは、こたつに入ってみかんなど食べながら眺めていた(笑)ギターやベース、ピアノやサックス等、控えめながらも実際に音を出して作業していたので、遂にぼくが心配していた事態が起こってしまった。下の階の部屋と隣の部屋からクレームが来た。そりゃそうだ。防音も何も無い部屋で一斉に音を出して作業しているのだからうるさくないわけが無い。それでもぼく達は隣人からのクレームにめげることなく、数日間のプリプロを敢行した。夜になってその日の作業が終わると、近くの店にみんなでご飯を食べに繰り出したりした。さすがにぼくの家で合宿は出来ないので、みんな自分の家からの通いだったが、何だか学生のクラブ活動のようでとても楽しかった。そして新曲の骨格が完成したところで、ぼく達は今度は河口湖の貸別荘ではなく同じく河口湖にあるレコーディングスタジオで、数日間に及ぶ新曲のレコーディングを行うため、再び河口湖に向けて出発した。いよいよニューアルバム「Down By The Mainstreet」のレコーディングが始まった。しかしここでまた新たな問題が発生することとなる。以下続く。
写真◆1984(昭和59)年頃。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
①http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/06/24-down-by-mainstreet.html
②http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/06/23-1984.html
③http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/05/21.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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┏━━━━━━━━━━┓ 広島FM放送
┃ 『音の仲間たち』 ┃‡1984(昭和59)年10月21日(日)
┗━━━━━━━━━━┛ www.csf.ne.jp/~kumi/radio-nakamatati.htm
DJは女優の手塚理美さんです。。。
綺麗な女優さんを目の前にして省吾も心が弾んだのでは・・・ジェラシ~メラメラ~(笑)
恋愛について色々と話していますよ♪
以下省吾手塚理美さん
「いつもはね、真面目な話が多くて皆さん真面目な方だと思っていらっしゃると思うのね。
例えばインタビューとか受けても真面目な話が多いと思うんですけど・・・」
「そうですね。。。」
「今日はどういう風に真面目じゃなく、聞き出そうかなーと思っているんですが・・・
女の子に対してはどうですか?研究って言うかしてますか?」
「そうね~研究してるようであまり勉強してないね(笑)」
「やっぱり女性は好きですか?」
「(笑)そりゃぁ~男ですからね~一番大切な物は・・・あのぉ~音楽です(笑)」
「じゃ~2番目ですか。。。」
「2番目です!!どっちを取るかって言われたら女の子の方を取っちゃうね、今は。。。
でも、女の子はいいなぁ~って思いますね。僕は一応妻帯者ですからそういう事は
考えないようにしています。。。悲しい結果に終わりますから。。。」
「そうですか~そっか~。。。でもね、結婚してもやっぱり恋ってしますか?」
「いや~しないです。」
「しない?」
「はい!」
「絶対に?」
「はい。。。僕は妻帯者ですからしないです。」
「ほんと?」
「相手を不幸にしますから。。。(笑)ほんとうです!」
ほんとかなぁ~としつこく質問する手塚さん。。。声がだんだんと小さくなっていく省吾・・・。
「今ね、私がやっている役の中のセリフで結婚したら人を好きになっちゃいけないんですか?
って言うセリフがあるんですよ。相手に結婚をせまる役なんですが・・・。」
「で、相手は何って言うんですか?」
「相手は黙っちゃうんですね。だからやっぱり痛いとこなのかなぁ~と思って・・・」
「はぁ~・・・好きになっちゃいけないんです・・・。」
「つまんないじゃないですかぁ~~」
「それが、あの~人生の最初の挫折なんです。でも、そういう事ってすごく多いみたいですね
女の子ってずっとお父さんを見たり、お兄さんを見たり、年上の人を見て育ってきて、自分と同じ年ぐらいの
人って物足りないんじゃないのかな~、だから完成された人って言うの、人に惹かれる。でも
完成された人って言うのも20歳の頃とあまり変わらないのね、だからいかに魅力がこれから伸びてゆく
かっていう、そういう目をたぶん持ってないんだろうね。だから、出来上がった物をすごく欲しがる・・・
などと偉そうな事を言ってしまいましたが・・・ こんなラジオで偉そうな事は言った事がない(笑)」
「え~~!!ホントですか~?やっぱり、あの~まじめですね、浜田さん」
「いや~僕はすごく不真面目ですよ!!
音楽をやっている時だけは真面目なんですが・・・後はほとんど不真面目です。。。」
「ハイ!!わかりました!(笑)」
誰が聞いていても省吾は”まじめな人”ってわかるよ!
って手塚さん同様ラジオの前で うなずいていた私。(笑)
後半は本日発売の「メインストリート」のニューアルバムについて話していました。
省吾は手塚さんにドラマの続きはどうなるの?って聞いて反対に省吾が聞き役になっていました。
やっぱり省吾の声って渋いです!!
www.csf.ne.jp/~kumi/radio-nakamatati.htm
409 : NO MUSIC NO NAME
2017/01/11(水) 17:23:20.37 ID:AIFzNXbC
MONEYとDANCEが22439円???
MONEYはよくわからんが
DANCEはイントロがフェードイン
MONEYhttps://youtu.be/bFmWQk-PbCw
DANCEhttps://youtu.be/9uAEQBxTVv8
¥22,439 (税込)
http://www.soundfinder.jp/products/view/1752623/%E6%B5%9C%E7%94%B0%E7%9C%81%E5%90%BE_Money___Dance
411 : NO MUSIC NO NAME
2017/01/11(水) 17:29:53.40 ID:AIFzNXbC
アルバム「DOWN BY THE MAINSTREET」から
12INCHシングルでのプロモカット
http://www.flashandshadow.com/shogo/discography/pr/pr04.html
・アルバム「DOWN BY THE MAINSTREET」からのプロモーショナルシングルカットです
12INCHシングルでのプロモカット(XDAH93038)もあります
http://www.geocities.jp/mikakyon/shogo/index.htm
おまけhttps://youtu.be/8Nl0vEQlIP0 ??
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/musicjm/1483162281/l50
2011(平成23)年04月30日(土) 呉シネマ閉館
2011(平成23)年05月15日(日) 呉のまち
http://blog.goo.ne.jp/spaceharrier/e/25c68e5b94db761522f41fc1651c4ba2
♪MONEY♪のモデルは浜田さんが育った広島県呉市です。♪MONEY♪の歌詞に出て来る「この町のメインストリート」は呉駅近くの本通り(国道185号線)で、「さびれた映画館」は去年閉館になった呉シネマです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1479014184
♪MONEY♪が収録されているアルバム『DOWN BY THE MEINSTREET』は、1960年代~1970年代前半頃の小さな貧しい工業都市で育った少年達の物語が描かれています。本人が書いたアルバム解説では、「主人公は僕自身を投影させた少年達です。」と言っています。浜田省吾さんが育った広島県呉市周辺の工場地帯がモデルになっています。「MONEY」の歌詞に出て来る「この町のメインストリート」は呉駅近くの本通り(国道185号線)、「さびれた映画館」は今年で閉館になった呉シネマだそうです。その頃の浜田省吾さんは貧しく、確かに「いつかBIG MONEYをつかんでやる。」と思っていたかもしれませんが、「世の中はカネが全て。」とは思っていなかったでしょう。当時はカネについて歌った歌が少なかったので、「あえて心の叫びを強調する為に、分かりやすいあの様な歌詞にした。」と、本人も言っていますし。「カネは無くても愛が有れば良い。」という様な歌詞だと、生身の身体から出ている心の叫びが伝わらないので、「あえてカネが欲しいという歌を作った。」とも、本人が言っていますね。その頃の時代は、ちっぽけな街を飛び出し、大都会に出て一攫千金を目指す様な時代でしたからね。でも、浜田省吾さんのその後の生き方を見れば、カネが全てでは無いと思っている事が一目瞭然だと思います。長年「J.S.FOUNDATION」を通してチャリティー活動を欠かしていないし、儲け主義的な音楽活動をしていないですからね。浜田省吾さんの歌には、実体験を基にしたものが結構多いですよ。でも、色々な解釈が出来る様な歌詞作りなので、分かりづらいですけどね。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1270941772
(※1)MONEYのプロモ盤 (放送局などに配布される非売品)
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浜田省吾事典 より
(真ん中の段、右と中)
↓↓↓とっちゃんの部屋でも紹介済みです↓↓↓
【MONEY/DANCE】
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12インチシングル盤のほうですね。
【MONEY/DANCE】XDSH93084
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こちらはEP盤
(※2)このアルバム
↓↓↓『Down by the Mainstreet』 のこと↓↓↓
【Down by the Mainstreet】
(過去記事 2011年5月26日 付 )
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28KH1550 ¥2,637
☆とっちゃんメモ★
正式名称の「DOWN BY THE MAINSTREET」とは別に、片仮名で「メインストリート」という邦題が付いてた(↑最初の画像参照)のですが、再発盤からは邦題が消えました。
浜田省吾アルバムの中で、曲のタイトルが全て英語という最初の作品。(後に「CLUB SNOW BOUND」や「Father’s Son」なども(但しサブタイトル(副題)には日本語表記アリ)。 )
そして、浜田省吾初のセルフプロデュース作品。
あ、カセットテープ本体には、同じ作品なのに「仕様違い」があるんですね。
ほら…オレンジラベルバージョンがコチラ!
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そして、スケルトン仕様がコチラ!
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実は、カセットのみならず、アナログ(ドーナツ盤)レコードのラベルにも、オレンジラベル以外に青ラベルバージョンがあって、しかもその青ラベルは印字されてる文字は凹凸がある刻印バージョンになってたりするんです。
「風を感じて」「青春のヴィジョン」なんかのシングルでそれが確認出来ています。トレカでいうところの「インサートカード」のような稀少盤といっていいでしょう。
オリコンアルバムチャート最高2位!(惜しい!)次のオリジナルアルバム「J.BOY 」で初のチャート1位を記録するんですが、もうこのメインストリートで2位ですからね♪その下地は出来ていたという。
【DADDY'S TOWN】町支さんのコーラスアレンジが秀逸!浜田省吾さんから「ビーチ・ボーイズ風に!」とリクエストがあったとか。この曲の舞台設定はお父様も住み、自身も育った広島県大竹市。
【HELLO ROCK&ROLL CITY】このアルバムといえば、やはりこの曲。ライブでは、その都市の名に代えて歌われる、浜田省吾ライブの「挨拶代わりナンバー」♪
【DANCE】
1984年8月1日Release
省吾さま17枚目のシングルにして初の12インチシングル。
B面は THE LITTLE ROCKER'S MEDLEY
とっちゃんが浜田省吾ファンになってからリリースされた最初のシングルがコレ!
(えっ、そんな情報いらない W)
省吾さまにとって「風を感じて」「ラストショー」「「ON THE ROAD」に続き自身4度目のシングルチャートイン!
しかも自身最高位記録も「風を感じて(25位)」を抜いて、初のトップ20位入り!( 週間ランキング=20位 )
☆とっちゃんメモ★
あ…読者のみな浜、覚えていらっしゃいますか?浜田省吾史上最短襟足の記事(笑)
↓↓↓ポッチして↓↓↓
史上最短!!!(笑)
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↑DANCEの裏ジャケに、その頃の写真が(^m^) カワイイでしょ?
あ、つまり『浜田省吾公式作品掲載写真での最短襟足は???』
と浜田省吾カルトQで出題されたら、迷わず「DANCE」とお答えください(^0^)b
実は、浜田省吾事典には掲載が漏れてますが(もちろん、とっちゃんの部屋ではバッチリ網羅されてましたね☆)、この曲、というかこの12インチシングルは両面とも意外な人にCoverされているんですドキドキそれはコチラ
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石川秀美『BURN UP HIDEMI ~秀美の熱い一日~(笑)
石川秀美さん=’80年代のトップアイドルの1人。TBSはなまるマーケットの司会・やっくんこと薬丸さん(元・シブがき隊)の奥様。
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見えますか?A面(SIDE 1)の最後2曲。
キチャッターーー(・∀・)ーーーーーッ (笑)
なっち(安倍なつみさん)が「片想い」をカヴァーする以上に違和感あります(^_^;)
「みんなも一緒に歌ってねぇ~~~♪ ロ~ックンロ~ハイハイハイッ! 」って・・・
まさに秀美ちゃんにとって、本当に熱い1日だったようです(*^_^*) ハイ
ちなみに THE LITTLE ROCKER'S MEDLEYというのは浜田省吾ロックンロールメドレー(今夜はごきげん~HIGH SCHOOL ROCK&ROLL~あばずれセブンティーン)のことです。
DVD「ON THE ROAD “FILMS”」の中のTour Scrapの中で(紙吹雪の中)横浜スタジアムで歌われてるのがソレですね。
「B面の『THE LITTLE ROCKER'S MEDLEY』は、ライヴ・バージョンで、当時ツアーでアンコールに、ほとんどもどしそうになりながらやってた。すごいハードなの。最後の疲れ切ってるところにもってきて、10分以上のアップ・テンポなロックンロール・メドレーでしょ。もう死ぬんじゃないかと思いながら(笑)。だから、このライヴ・バージョンには、すごい思い入れがある。12インチだからこそやれたという長さだし。これを聞くと、当時一緒にやってたTHE FUSEのメンバーを思い出す。ツアーがいちばん楽しくていちばんきつくて、いちばん長かった時代のメンバーだからね。」(『浜田省吾事典』より。本人談)
『いちばん楽しくて(でも)いちばんきつくて…』
一見相反(あいはん)する言葉が並んでるから矛盾するようですが、これはもう省吾さまの本心なのでしょうご。
きつかったけど、それでも続けてこれたのは、それ以上に楽しかったからなんでしょう。苦しい時代の省吾さまを支えてくれたメンバー&スタッフの方々にあらためて感謝ですクローバー
『12インチだからこそやれたという長さだし。』
これは そう、このDANCEはドーナツ盤ではなく12インチシングルといって当時のアルバム(LP盤)と同じ大きさの(だから)一見アルバムと間違うシングルなんですね。
若い読者のかたに、分かるかな~???(^-^;
大きさはLP盤と同じでも回転数はシングルと同じ45回転(アルバムは33回転)だからアルバムと12インチを交互にかけた場合、回転数を切り替えないと当時、大変なことになったもんです(笑) エェ
Σ( ̄□ ̄;)
ダレ、コノコエ???
みたいな みたいな(笑)
あ、そーいえば、昔「トリビアの泉」でやってましたヨ。
一青窈さんの『もらい泣き』の回転数を変えると、平井堅さんの声になる(笑)
へ~ へ~ へ~ ☆
ま、↑ここまで話してもなお若い読者のかたにはチンプンカンプンでしょうけど (^-^;
パパかママに聞いてください!(笑) ←
最後にDANCEといえば…
LOVE HAS NO PRIDE の時もそうでしたが、発表当時かなり酷評された(というか、評論家達が難色を示した)らしいですね。
「浜田省吾がダンス~~~?」って。
あのシンプの大越(正実)さんでさえ
「正直に言えば、この曲を初めて聴いたとき、『ウソやろ』と思いました。『どうしちゃったの、浜田さん』というか。なんで浜田省吾がダンスやねん!浜田省吾に近しいあるスタッフも、戸惑いの言葉を語っていたのを覚えてます。でも、この疑問もライヴを観ていくことで、氷解していくのは『MONEY』と同じだった。これをうたわねば、先に進めないと、きっと浜田省吾は確信したのだ。思えば『DOWN BY THE MAINSTREET』は、とても思い切ったアルバムだった。ただし、この曲を発表後、ライヴでこの曲をうたいながら『ダンス』をする浜田省吾はあんまりかっこよくなかったと記憶している。すみません(笑)。」
と懐述されてます。
これ、この大越さんのコメント・・・よぉ~く分かるなぁ~(笑)
思わず、10年前のNHK「浜省特番4部作」で省吾さまが披露してくれたあのヒップホップ・ダンスを想像して苦笑いしてしまいました。 (*^_^*)
もちろん、シングル(今回紹介の12インチシングル)とアルバムでバージョンが違います。(バージョンというより、一部歌詞まで違います!)
12インチシングルバージョンを聴いたことがないかたは、この機会に是非!
~~~ ここまで ~~~
さて、昨日最終回だった短期集中連載・横浜スタジアムの記事 のアンコール1曲目で、
「新曲を聴いてください!」といって披露されたのが このDANCE だったでしょうご。
つまりあの時(横スタで)、リリースの3ヶ月も前に生で先行披露してくれたという事になります♪
(ライブが4/29 リリースが8/1)
厳密に言うと・・・ ↑過去記事でもそれは書いてますが、この12インチシングルバージョンのDANCEは、アルバム収録のソレとはバージョンが(一部歌詞も)違いますケドね・・・。
でも、そんなの長渕さんは知らないでしょうし・・・「おかしいなぁ? DANCEってシングルになってなかったっけ?」みたいな狐につままれた感じだったでしょうね(笑) これは完全な省吾さまのケアレスミス(あのアルバムからシングルになってる)といえましょうご。
https://ameblo.jp/futabayama69/entry-11521214177.html
■浜田省吾記録サイト■
http://www.flashandshadow.com/shogo/
http://www.flashandshadow.com/shogo/
■浜田省吾記録サイト■
映像◆メインストリートCMhttps://youtu.be/_uYm_EBA2_E
浜田省吾 12インチ「DANCE」 こんな夜には踊り続けるのさ
2020-05-22 浜田省吾
https://moonlight-cats.com/blog-entry-1390.html
浜田省吾の「MONEY」を聴いて考える、自分の本当の欲望って何だ?
これは、浜田省吾が今まで所属していたホリプロを離れ、個人事務所「ロード&スカイ」を設立してから制作した最初のオリジナルアルバムであったからだ(多分そうだ)。
「ロード&スカイ」、なんとも浜田省吾の作った事務所らしい名前だ。個人事務所の設立、何か新しい浜田省吾が始まるような予感。僕は当時、この『DOWN BY THE MAINSTREET』のリリースを首を長くして待っていた。
同アルバムは、浜田省吾にとって非常に思い入れのある作品だと言われている。それは、浜田省吾が初めて自分でプロデュースした作品であり、第2のデビューアルバムを作ったと公言しているからだ。
「ファーストアルバムのあの時期、70年代の、20代の頃に作るべきアルバムを作り損ねた。だから今、作るって感じ。こういうアルバムが、本来自分が作るべきアルバムだったんだ」
―― と浜田省吾は語っている。
また、独立して、作りたい音楽を作れるようになったから、作り損なった音楽を作ったという一方で、「30代になったからこそ、しっかり20代や10代のことを見据えて作れるようになった」とも語っている。
浜田省吾が語る通り、このアルバムは、まさに10代から20代の若者の人生のサウンドトラックのようだ。1984年の僕は大学1年生。このアルバムの主人公達と同じ世代。そのメッセージに影響されない訳がない。
だから、僕にとってもこれは非常に思い入れのある作品で、浜田省吾のアルバムの中で最も聴いた回数が多いアルバムだ。
特に影響を受けたのは1曲目の「MONEY」。言わずと知れた浜田省吾の代表曲でもあるハードロックテイストの曲だ。初めてレコードに針を落とした瞬間に聴こえてきた印象的なギターフレーズに鳥肌が立ったことを今でも思い出す。
「世の中金だ」、「金こそ全てだ」と歌っているように思われがちだけど、実は逆。確かにこの曲の主人公は、金を巡る人間模様に嫌気が差し、いつかは自分もビッグマネーを手にすることを夢見ているけど、「大切なものは金じゃ買えないってことが何でわからないんだ」というのが浜田省吾の本当のメッセージだ。
欲しいものはすべて
ブラウン管の中
まるで悪夢のように
この部分がこの曲の核だと浜田省吾は言う。金が欲しいというよりも、ブラウン管の中から大量の購買意欲を刺激され、そこには、一生手に入らないものや手の届かない生活がある。しかし、それらがあたかも身近にあるように描かれ、リアリティーがあるように見えるけど、本当はリアリティーなんてない。
本当はないのに、すごくリアルなものとしてブラウン管には映って、それに煽られてそれを目指すも、自分には手が届かない事に気づき、自分の欲望に傷付く。
僕は、この曲を聴くと “自分の居場所はここでいいのか、良かったのか”、と今でも自問自答する。この曲に出会った18歳の時も、自分のリアルな欲望ってなんだろうって真剣に考えた。そりゃ金は欲しいけど、金で人を選んだり、場所を選んだりはしないぞ、と心に決めたりもした。
実際にそういう場面には出くわす事なくここまで来たけど、この曲に18歳で出会って良かったと思っている。自分を見つめ直すきっかけをくれたのだから。
ちなみに、メルセデスが嫌いになったのもこの曲のせいだ。ドンペリの存在もこの曲に教えてもらった。結構いろいろ影響受けちゃってる「MONEY」という曲、恐るべし。
歌詞引用: MONEY / 浜田省吾
※2017年11月14日に掲載された記事をアップデート
2019.10.21
https://reminder.top/132483701/
┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 『Down by The Mainstreet』 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡1984(昭和59)年10月21日(sun) released
1984(昭和59)年11月01日(thu) CD released ※初CD発売
1990(平成二)年06月21日(thu) CD released ※再CD発売
1999(平成11)年09月08日(wed) REMIX AND MASTERING 初回限定版 SRCL-4604
1999(平成11)年09月29日(wed) REMIX AND MASTERING
『PROMISED LAND~約束の地』ですごく大きなテーマを抱えたんで、もう1回等身大のところに戻って、ふつうに生きている少年たちというか、自分がかつて作りそこねた曲を作りたくて、このアルバムになったんです。『生まれたところを遠く離れて』というアルバムを作ったあと、『君が人生の時…』まで、すごくポップなものばっかりだったでしょう、本当はその頃に作らなきゃいけなかったんです。それをはじめて自分でプロデュースして作ったんです。だからアレンジにしてもサウンドを作るにしても失敗だらけだったんですけど、はじめてプロデュースして、はじめてツアー・バンドで作ったアルバムなのですごく思い入れがありますね。このアルバムの主人公というのは、みんな少年なんです。ここではじめたことが、『J.BOY』につながるんです。
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https://shogo.r-s.co.jp/disco/album11.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/DOWN_BY_THE_MAINSTREET
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『ニュー・サウンズ・スペシャル~浜田省吾~』
1984(昭和59)年11月24日(土) 22:00~23:00 NHK-FM
O.A内容
‡1984(昭和59)年10月21日(日)にリリースされた最新アルバム『DOWN BY THE MAINSTREET』の収録曲を紹介
ラジオ欄の曲目:
1. ハロー・ロックンロール・シティ(HELLO ROCK&ROLL CITY)
2. ダンス(DANCE)
3. メインストリート(MAINSTREET) ほか
http://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11600790153.html
参考URL■https://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11596940023.html
浜田省吾 DOWN BY THE MAINSTREET https://www.youtube.com/playlist?list=PLMzK6hzWYssUNwhDIPyT60cIw2zsaYpOc
浜田省吾の経済学 ~ビッグマネーはいくらなのか?
2014(平成26)年 5月14日(水) 10時20分
http://news.livedoor.com/article/detail/8829886/
1984音源◆https://youtu.be/MY-Ulfwn8CE
2011映像◆『Money (ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend")』 https://youtu.be/tHjFsTsEb0I
映像◆メインストリートCMhttps://youtu.be/51OyTB94QzQ
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①┃ 浜田省吾 #24『DOWN BY THE MAINSTREET』 ┃
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2016(平成28)年06月24日(金)
『DOWN BY THE MAINSTREET』レコーディング話の続きです。
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浜田省吾のアルバム『DOWN BY THE MAINSTREET』のレコーディングは、
1984(昭和59)年8月17日(金)からのツアーが始まってもまだ続いていた。バックバンドは新たなメンバーが加入して、雰囲気がガラッと変わった。それまでのバンドっぽさは無くなり、セッションミュージシャンの集合体のような雰囲気になった。ぼく達はツアーのリハーサルと並行しながらレコーディングを行っていた。レコーディングスタジオのロビーのテレビでは、連日ロサンゼルスオリンピックの模様が映し出されていた。河口湖でボツとなったテイクは、リアレンジされて信濃町のソニースタジオで新たに録音し直した。町支さんアレンジの
「Money」はギターのカッコいいリフから始まる、重心の低いハードなサウンドに変貌した。ぼくアレンジの
「The Pain」も、ほぼ全面リニューアルされた。イントロは「F#m add9(エフシャープ・マイナー・アド・ナインス)」と言う、物悲しい響きのするコードから始まるアレンジにした。ぼくはこの一小節目のコードを決めた時点で、遥か彼方にではあったがアレンジの全体像が見えた。楽曲のアレンジをする際、毎回そうなのだがぼくはイントロが完成すると、八割方アレンジが出来た気分になる。間奏はクロマティック・ハープ(ハーモニカ)を八木のぶおさんに吹いてもらった。 八木さんは日本で数少ないハープ奏者で、勿論その腕前は超一流。素晴らしいクロマティック・ハープの演奏にぼくは感激していた。美しいアコースティック・ギターを弾いているのは笛吹利明さん。数々のレコーディングに参加している、日本を代表するアコースティック・ギター奏者の一人である。曲のタイトルは「The Pain」から最終的に「Pain」に変更になった。夏から始まったコンサートツアーが始まっても、まだレコーディングは続いていた。 旅から帰って家には帰らずに、そのままレコーディングスタジオへ直行することも珍しくはなかった。ぼくはツアーにポータブルキーボードを持参して、移動の電車やバスの中でもキーボードを出してアレンジを考えた。
『Daddy'sTown』のアレンジはぼく主導でアレンジして、ベースの江澤くんにアシストしてもらった。東北を廻るツアーで山形県酒田から弘前への移動日に、弘前のホテルに籠りきりになって『Daddy'sTown』のスコアを書いた。アイデアに詰まると江澤くんからアドバイスを受けた。個人的には間奏で転調する部分が気に入っている。この曲で素晴らしく正確でタイトなドラムを叩いているのは島村英二さん。元ラストショウのメンバーで、吉田拓郎や松任谷由実、井上陽水等々数えきれないほどのレコーディングやライブに参加している名ドラマー。島村さんのドラムはリズムがクリック(レコーディングの際にテンポが変わらないようにガイドとして鳴らす音。)のタイミングと合いすぎていて、クリックが聴こえなくなるほど正確で、レコーディング中にとても驚いた記憶がある。イントロのドラムのフィルインのフレーズが恐ろしいほどカッコいい。
『Daddy'sTown』は曲の冒頭にピアノとサックスのインストゥルメンタルが入っているが、あれは浜田さんからのリスエストで、イントロの前に導入部分的なものが欲しいとの要望に応えたもの。レコーディングスタジオであまり考えずにほぼ即興で弾いた。ピアノのテイクがOKになると、今度は古村くんがやはり即興でサックスを吹いた。
『Dance』と『Silence』は河口湖でレコーディングしたオケのベーシックな部分は採用になって、ダビングものをやり直すことで決着した。残りの曲はすべて都内のスタジオでレコーディングした。
『EDGE OF THE KNIFE』は江澤くんのアレンジ。新加入のドラマー野口さんが味わい深いドラムを叩いている。野口さんは元シュガー・ベイブで、元センチメンタル・シティ・ロマンスのドラマーだった方。ぼくはシュガー・ベイブもセンチメンタル・シティ・ロマンスも大好きで、レコードもよく聴いていたので、野口さんと一緒にやれることはとても光栄なことだった。
『MIRROR』は町支さんアレンジ。町支さんによる一人多重録音のコーラスが格好良い。
『A THOUSAND NIGHTS』はぼくと江澤くんの共同アレンジ。この曲も最初のバージョンは一度レコーディングしたのだがボツになった。ボツになったバージョンはオールディーズっぽいサウンドで、もっとシンプルなビートのアレンジだった。浜田さんからの要望もあって、リアレンジ後はモータウンビートのリズムに落ち着いた。
『HELLO ROCK&ROLL CITY』は古村くんアレンジ。ホーンセクションが活躍するご機嫌なR&Bナンバーになった。ぼくはピアノとハモンドB3オルガンを弾いた。ハモンドB3はいつ弾いてもゴキゲンな音がするが、とにかくバカでかくて凄く重いのと、必ずレスリースピーカーとのセットで鳴らすので、個人で所有するのは保管場所、重さ、価格(超高い)の問題があってとても難しい。なので、レコーディングの時はレンタルしていた(レンタル代もバカ高い)
『MAINSTREET』は浜田さんアレンジ。スタジオで浜田さんと「イントロにこんな音はどう?とか、サビのバックにカウンターメロディを入れよう!」とか言いながらキーボードのダビングを行った。なんだかワクワクしながら演奏した記憶がある。レコーディングは河口湖スタジオ、信濃町ソニースタジオ、六本木ソニースタジオ、セディックスタジオで行われた。この四つのスタジオは残念ながら今はすべて無い。セディックスタジオは六本木の「WAVE」という商業施設のビルの6階か7階にあったスタジオで、レコーディングがあるたびに下の階のレコードショップ「WAVE」でよく輸入盤のLPを買った。何年か後にWAVEも取り壊しになって、今は跡地に六本木ヒルズが建っている。『DOWN BY THE MAINSTREET』のジャケット撮影は世田谷で行われた。バンドメンバーで撮影の日に来れる人は、ジーンズにスニーカーかブーツを履いて集合とのことだったが、残念ながらぼくはスケジュールが合わずに行けなかった。ジャケットに描かれている足は浜田さんと、もう一人は江澤くんか町支さんのどちらかではないかと思う。このレコーディングが行われたあたりから、レコーディングがアナログ録音からデジタル録音に変わった。初めてスタジオで見るソニーのデジタルテープレコーダーPCM-3324は結構大きくて、その存在感も含めて初めて見るデジタルレコーダーにみんな興味津々だった。PCM-3324は24チャンネル録音が可能だった。それまでのアナログレコーダーも24チャンネルでの録音が可能だったが、デジタルレコーダーになってテープの巻き戻しや早送りが飛躍的に早くなった。当初はPCM-3324のノイズの無いクリアな音質にみんな驚いた。しかしまだこの頃のデジタル録音技術はスタートしたばかりだった。確かに音質は素晴らしくクリアになったが、音の奥行き感や厚み等がアナログ録音に比べるとどこか違って聴こえた。そのあたりの問題は後継機であるPCM-3348(48チャンネルレコーダ)の登場で徐々に改良されては行くが、デジタル録音された音質の特徴なのではないかと個人的には思う。現在はデジタル録音技術も飛躍的に向上して、超ハイクオリティなレコーディングが可能になったが、ぼくは今でもアナログ録音された時代の音にも魅力を感じている。それでもぼくにとって初のデジタルレコーディングは、とてもエキサイティングな出来事だった。最終ミックスを手がけたのは日本を代表するトップエンジニアの吉田保さん。大滝詠一や山下達郎の多くの作品のミックスを手がけたことでも有名。『DOWN BY THE MAINSTREET』は、
‡1984(昭和59)年10月21日(日)に発売されるとチャートの二位を記録した。まるでハリウッドの良質な青春映画を観ているかのような、ストーリー性溢れるこのアルバムは、ぼくにとっても大切な作品である。足の人物は右が浜田さん、左はおそらく江澤くんor町支さん?
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②┃ 浜田省吾 #23 河口湖レコーディング 1984 ┃
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2016(平成28)年06月10日(金)
1984(昭和59)年の初夏、浜田省吾のニューアルバム『DOWN BY THE MAINSTREET』のレコーディングが始まりました。今回はその話を。
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1984(昭和59)年6月23日(土)、ぼく達は河口湖でのレコーディングに向けて、それぞれ車で東京を出発した。その頃ぼくは環七沿いのマンションを出て世田谷区経堂に引っ越していた。ルームシェアをしていたビビノ音響のMくんが、次の浜田省吾さんのツアーのPAを担当することになって、西本明くんの時と同じくまたもぼくは、旅に出ても家に帰っても同居人と一緒の生活が始まろうとしていた。しかしもう同じ轍は踏みたくなかったので、ぼくはMくんが浜田さんのツアーに出ることが決まった時から密かに部屋を物色していた(笑)そして横浜スタジアムでのコンサートが終了してしばらくたったある日、ぼくは一人で経堂に引っ越した。河口湖に出発する日、ぼくの車に同乗したのはベースの江澤くんと、浜田省吾のマネージャー。ぼく達三人は経堂を出発するとすぐに甲州街道に出て、そこから中央高速で河口湖に向かった。小雨が降りしきる中、約二時間程で一口坂・河口湖スタジオに到着した。この日は梅雨の真っ最中で河口湖周辺もどんよりとした雲に覆われていた。スタジオに着くと間もなく、機材のセッティングに取りかかった。今日から二日間で四曲のリズムセクションのレコーディングを行う予定になっていた。この日河口湖スタジオに集結したメンバーは以下の通り。
ドラムス:滝本季延 (としのぶ)
ベース:江澤宏明
ギター:町支寛二
キーボード:板倉雅一
サックス:古村敏比古
The Fuseからの残留組+ドラムの滝本くんという編成だった。滝本くんは以前、浜田さんのバンドメンバーだったドラマーで、当時のバンドは滝本くんと鈴木俊二くんとのツインドラム編成だった。滝本くんは、ぼくやベースの江澤くんとも旧知の間柄で、ぼくは彼の素晴らしさを知っていたので、滝本くんと一緒にレコーディング出来ることがとても楽しみだった。各楽器のサウンドチェックを終えると、早速レコーディングが始まった。広いスタジオ内は音のかぶりを防ぐために、各楽器ごとにパーテーションで仕切られていた。ドラムとアコースティックピアノは、ちょっとした個室のようなスペースにセットされていた。最初に録音したのは
「Money」。アレンジはギターの町支さん。この時レコーディングしたアレンジは、後に正式バージョンとして発表されたものとは全く別のバージョンで、後にアルバム『DOWN BY THE MAINSTREET』に収録されたバージョンよりもかなりテンポも速くて、もっとパンクっぽい軽めのサウンドだった。あまりの曲のテンポの速さに、演奏しながらみんな手がつったほどだった。次に録音したのは
「The Pain」という仮タイトルの付いたバラード。アレンジはぼく。この曲も当初はレコードになったものとはかなり違うアレンジだった。もう少しブラコン(ブラック・コンテンポラリー)っぽいアレンジで、ちょっと洋楽っぽいと言うか完成版よりはあっさりとした感じのサウンドだった。二曲のリズムを録り終える頃、ちょうど夕食の時間になった。河口湖スタジオは賄い付きで、朝夕と美味しい食事が用意されていた。ぼく達はレコーディング作業が一段落すると、スタジオに併設された建物の二階にある広いリビングに集まって食事をした。夜はここでお酒を飲みながらその日に録った音を聴いた。スタジオの二階にあるルーフバルコニーからは、雲の隙間から時折顔をのぞかせる美しい富士山を眺める事が出来た。食事を終えるとまだダビング作業が残っていた。ダビング作業は主にぼくと町支さんの担当で、リズムを録り終えた滝本くんと江澤くんはすでにこの日の仕事を終えて寛いでいた。ベーシックなキーボードとギターのダビングが終わるとすでに深夜だった。スタジオには宿泊施設も付いていて、さながらシンプルなリゾートホテルと言った趣だった。明けて24日は残りの二曲のリズム録りから始まった。一曲目は
「DANCE」。12インチシングルバージョンとは違うアレンジで、中心になってアレンジを担当したのは浜田さん。こちらのバージョンはスティーリー・ダンのような、ちょっとアーバンな雰囲気の漂うアレンジだった。ぼくはスタジオに常備されていたフェンダー・ローズ・スーツケースピアノを弾いた。河口湖スタジオのローズはとても良い音がして、ぼくは弾いていてとても気持ちが良かった。ローズピアノは個体差が激しくて、モノによっては全く良い音がしない場合もある。ここのスタジオのローズは当たりだった。もう一曲録音したのは後に
「Silence」と題されるナンバー。この曲は古村くんアレンジ。先日のぼくの家でのプリプロで骨格が出来上がっていた曲。独特のベースラインに特徴のある、古村くんのアイデアが光るカッコいいアレンジだった。このベースラインを演奏した江澤くんは大変そうだったが、二つの異なるフレーズをダビングして重ねることで、あのカッコいいベースラインが完成した。「Silence」のドラムにはリズムマシンを使用した。ドラムの滝本くんが持って来たアメリカのメーカー、シーケンシャル・サーキット社の「ドラムトラックス」という、まだ発売されたばかりのリズムマシンを使用した。このドラムマシンは当時としては結構ハイスペックで、8ビットPCM音源 6パラアウトという仕様だった。今では笑ってしまうぐらい貧弱なスペックだが当時はこれが先端だった。この日も夕食後に少しダビング作業を行ってから、ぼく達は河口湖スタジオを後にした。河口湖から戻って何日から経ったある日、浜田さんから電話がかかって来た。
「この間、河口湖でレコーディングしたオケだけど一旦ボツにするから。」
「えぇ??!?ボツですか?」「そう、あれから何度も聴いたんだけど何か物足んないんだよね。特にMoneyとThe Painの二曲。」どうも浜田さんは町支さんがアレンジした曲と、ぼくがアレンジしたバラードのオケが今一つしっくり来ないらしい。「せっかくレコーディングしたのに悪いんだけど、もう一度アレンジを練り直してくれないかなぁ。」「そうですか、分かりました。もう一度考えてみます。」そうしてぼくと町支さんは再びアレンジをし直すこととなったのである。以下続く。
写真◆ボツになった♪Money♪と♪Pain♪が収録されたテープ。
写真◆スタジオに併設されたレジデンスエリア。二階部分がリビングで一階が宿泊施設。
写真◆♪Silence♪で使用したドラムトラックス(Wikipediaより)
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③┃ 浜田省吾 #21 プリプロ顛末記 ┃
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2016(平成28)年05月30日(月)
1984(昭和59)年、浜田省吾のアルバム「Down By The Mainstreet」のレコーディングに向けてのプリプロ作業が始まりました。今回はその顛末記です。
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1984(昭和59)年の春、浜田省吾とThe Fuseからの残留メンバーは、ニューアルバムのプリプロダクションの為に、河口湖畔の貸し別荘で数日間の合宿を行うことになった。ぼく達は車数台と楽器を積んだトラックで河口湖のコテージに到着した。まだ寒さの残る日だった。そのコテージは河口湖沿いの人気(ひとけ)のない森の中に何棟も点在していた。すでにあたりは日も沈んで暗くなってきていた。さっそくぼく達はコテージに楽器を運び込んでセッティングを開始した。ようやく楽器のセッティングが完了して軽く音を出して諸々確認をしてみた。さしたる問題もなく一通りの楽器の音が出た。ようやく一息ついて、これから数日間の合宿プリプロに向けて士気も高まってきた矢先、浜田さんから爆弾発言が飛び出た。「何かさぁ、ここって思ってた感じとちょっと違うなぁ。フィーリングが合わないと言うかさぁ…。ん??…やっぱり帰ろう!!」えぇぇぇぇ????!!???「やっと楽器のセッティングも済ませたばかりなのに帰るってマジっすかぁ??」誰からともなくほぼ同時にみんなの口から似たような言葉が出た。どうも浜田さんはこの場所とコテージの感じがしっくり来ないらしい。「せっかく楽器もセットしたのに悪い!、ホント申し訳ないけどここではやりたくないんだ。」確かそんなような内容のことを浜田さんは言った。本人がやりたくないというのを引き止めるわけにも行かず、ぼく達は渋々組んだばかりの楽器をバラし始めた。結局河口湖には一泊もせずにその日のうちに東京に戻った。河口湖でのプリプロがドタキャンになって、さてどうしたものかと思っていたところに、またしても浜田さんから爆弾が投下された(笑)
「板倉の家は部屋が何個かあったよね?リビングも広いし。そうだ!板倉の家でプリプロやろう!!」
えっ!?…えぇぇぇぇ????!!???
何ですってぇぇ?!?
「マジっすかぁぁ!?ホントにオレんちでやるのぉ?」
「そう。我ながらグッドアイデアだと思わない?」ニヤッと笑いながら、勝ち誇ったように浜田さんは言った。
「全然グッドじゃ無い無い!!そんなの無理だよぉ?!」困惑しながらぼくは答えた。
「ん?、にゃ!もう決めたから。みんなもそう思わない?」浜田さんは一度決めたらテコでも動かないと言った様子で、みんなにも同意を求めた。
「そうね、板さんちだったらみんな近いし、環七沿いだからちょっとぐらい音出しても大丈夫そうだし、眺めも良いしいいかもね。」とかなんとか、みんなで調子のいいことを言って、強引にぼくの家でプリプロをやることに決めてしまった。かくして河口湖での合宿から一転、ぼくの家で浜田省吾の新曲のプリプロが行われることとなった。
1984(昭和59)年某月某日、浜田さんとバンドメンバー、スタッフはぼくの家に集結した。これから数日間に渡って新曲の骨格を練り上げて行くのだが、ぼくは自分の家でプリプロが行われることが心配で何か落ち着かなくて仕方がなかった。当時住んでいた僕の家は環七沿いの13階建てのマンションで、ぼくの部屋は10階の角部屋だった。間取りは2LDKで、六畳の部屋が二部屋と約15畳程度のリビングダイニングが付いていた。割と高台に建っているマンションだったので、部屋の窓からは素晴らしい眺望が堪能出来た。ベランダからは羽田空港に発着する飛行機や、空気の澄んだ日には房総半島までもが見えた。夜になると新宿の高層ビル群や東京タワーの夜景等がとても綺麗だった。そんな部屋に後に浜田省吾のモニターエンジニアを担当することになる、ヒビノ音響のMくんとルームシェアする形で住んでいた。そしてMくんが仕事で留守な時に合わせてプリプロの日程が組まれた。曲のアレンジを担当する者が中心となって、三つの部屋に別れて作業が始まった。例えばAという曲のアレンジは町支さんと浜田さんで六畳の部屋、Bという曲のアレンジはぼくと江澤くんでもう一つの部屋、Cという曲のアレンジは古村くんでリビング、といったような感じで部屋ごとに作業が同時進行していった。そしてある程度アレンジの骨格が出来たら、みんなで楽器を持ってそれぞれの部屋に集まり、軽く演奏して確認してみたりした。さすがに部屋にドラムは持ち込めないので、ドラムはドラムマシーンを使って代用した。あっという間にぼくの家は、楽器やケーブル、譜面等々がそこいらじゅうに散乱して足の踏み場も無いような状態になった。 そんな作業の様子を事務所のスタッフは、こたつに入ってみかんなど食べながら眺めていた(笑)ギターやベース、ピアノやサックス等、控えめながらも実際に音を出して作業していたので、遂にぼくが心配していた事態が起こってしまった。下の階の部屋と隣の部屋からクレームが来た。そりゃそうだ。防音も何も無い部屋で一斉に音を出して作業しているのだからうるさくないわけが無い。それでもぼく達は隣人からのクレームにめげることなく、数日間のプリプロを敢行した。夜になってその日の作業が終わると、近くの店にみんなでご飯を食べに繰り出したりした。さすがにぼくの家で合宿は出来ないので、みんな自分の家からの通いだったが、何だか学生のクラブ活動のようでとても楽しかった。そして新曲の骨格が完成したところで、ぼく達は今度は河口湖の貸別荘ではなく同じく河口湖にあるレコーディングスタジオで、数日間に及ぶ新曲のレコーディングを行うため、再び河口湖に向けて出発した。いよいよニューアルバム「Down By The Mainstreet」のレコーディングが始まった。しかしここでまた新たな問題が発生することとなる。以下続く。
写真◆1984(昭和59)年頃。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
①http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/06/24-down-by-mainstreet.html
②http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/06/23-1984.html
③http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/05/21.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
****************************************
┏━━━━━━━━━━┓ 広島FM放送
┃ 『音の仲間たち』 ┃‡1984(昭和59)年10月21日(日)
┗━━━━━━━━━━┛ www.csf.ne.jp/~kumi/radio-nakamatati.htm
DJは女優の手塚理美さんです。。。
綺麗な女優さんを目の前にして省吾も心が弾んだのでは・・・ジェラシ~メラメラ~(笑)
恋愛について色々と話していますよ♪
以下省吾手塚理美さん
「いつもはね、真面目な話が多くて皆さん真面目な方だと思っていらっしゃると思うのね。
例えばインタビューとか受けても真面目な話が多いと思うんですけど・・・」
「そうですね。。。」
「今日はどういう風に真面目じゃなく、聞き出そうかなーと思っているんですが・・・
女の子に対してはどうですか?研究って言うかしてますか?」
「そうね~研究してるようであまり勉強してないね(笑)」
「やっぱり女性は好きですか?」
「(笑)そりゃぁ~男ですからね~一番大切な物は・・・あのぉ~音楽です(笑)」
「じゃ~2番目ですか。。。」
「2番目です!!どっちを取るかって言われたら女の子の方を取っちゃうね、今は。。。
でも、女の子はいいなぁ~って思いますね。僕は一応妻帯者ですからそういう事は
考えないようにしています。。。悲しい結果に終わりますから。。。」
「そうですか~そっか~。。。でもね、結婚してもやっぱり恋ってしますか?」
「いや~しないです。」
「しない?」
「はい!」
「絶対に?」
「はい。。。僕は妻帯者ですからしないです。」
「ほんと?」
「相手を不幸にしますから。。。(笑)ほんとうです!」
ほんとかなぁ~としつこく質問する手塚さん。。。声がだんだんと小さくなっていく省吾・・・。
「今ね、私がやっている役の中のセリフで結婚したら人を好きになっちゃいけないんですか?
って言うセリフがあるんですよ。相手に結婚をせまる役なんですが・・・。」
「で、相手は何って言うんですか?」
「相手は黙っちゃうんですね。だからやっぱり痛いとこなのかなぁ~と思って・・・」
「はぁ~・・・好きになっちゃいけないんです・・・。」
「つまんないじゃないですかぁ~~」
「それが、あの~人生の最初の挫折なんです。でも、そういう事ってすごく多いみたいですね
女の子ってずっとお父さんを見たり、お兄さんを見たり、年上の人を見て育ってきて、自分と同じ年ぐらいの
人って物足りないんじゃないのかな~、だから完成された人って言うの、人に惹かれる。でも
完成された人って言うのも20歳の頃とあまり変わらないのね、だからいかに魅力がこれから伸びてゆく
かっていう、そういう目をたぶん持ってないんだろうね。だから、出来上がった物をすごく欲しがる・・・
などと偉そうな事を言ってしまいましたが・・・ こんなラジオで偉そうな事は言った事がない(笑)」
「え~~!!ホントですか~?やっぱり、あの~まじめですね、浜田さん」
「いや~僕はすごく不真面目ですよ!!
音楽をやっている時だけは真面目なんですが・・・後はほとんど不真面目です。。。」
「ハイ!!わかりました!(笑)」
誰が聞いていても省吾は”まじめな人”ってわかるよ!
って手塚さん同様ラジオの前で うなずいていた私。(笑)
後半は本日発売の「メインストリート」のニューアルバムについて話していました。
省吾は手塚さんにドラマの続きはどうなるの?って聞いて反対に省吾が聞き役になっていました。
やっぱり省吾の声って渋いです!!
www.csf.ne.jp/~kumi/radio-nakamatati.htm
409 : NO MUSIC NO NAME
2017/01/11(水) 17:23:20.37 ID:AIFzNXbC
MONEYとDANCEが22439円???
MONEYはよくわからんが
DANCEはイントロがフェードイン
MONEYhttps://youtu.be/bFmWQk-PbCw
DANCEhttps://youtu.be/9uAEQBxTVv8
¥22,439 (税込)
http://www.soundfinder.jp/products/view/1752623/%E6%B5%9C%E7%94%B0%E7%9C%81%E5%90%BE_Money___Dance
411 : NO MUSIC NO NAME
2017/01/11(水) 17:29:53.40 ID:AIFzNXbC
アルバム「DOWN BY THE MAINSTREET」から
12INCHシングルでのプロモカット
http://www.flashandshadow.com/shogo/discography/pr/pr04.html
・アルバム「DOWN BY THE MAINSTREET」からのプロモーショナルシングルカットです
12INCHシングルでのプロモカット(XDAH93038)もあります
http://www.geocities.jp/mikakyon/shogo/index.htm
おまけhttps://youtu.be/8Nl0vEQlIP0 ??
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/musicjm/1483162281/l50
2011(平成23)年04月30日(土) 呉シネマ閉館
2011(平成23)年05月15日(日) 呉のまち
http://blog.goo.ne.jp/spaceharrier/e/25c68e5b94db761522f41fc1651c4ba2
♪MONEY♪のモデルは浜田さんが育った広島県呉市です。♪MONEY♪の歌詞に出て来る「この町のメインストリート」は呉駅近くの本通り(国道185号線)で、「さびれた映画館」は去年閉館になった呉シネマです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1479014184
♪MONEY♪が収録されているアルバム『DOWN BY THE MEINSTREET』は、1960年代~1970年代前半頃の小さな貧しい工業都市で育った少年達の物語が描かれています。本人が書いたアルバム解説では、「主人公は僕自身を投影させた少年達です。」と言っています。浜田省吾さんが育った広島県呉市周辺の工場地帯がモデルになっています。「MONEY」の歌詞に出て来る「この町のメインストリート」は呉駅近くの本通り(国道185号線)、「さびれた映画館」は今年で閉館になった呉シネマだそうです。その頃の浜田省吾さんは貧しく、確かに「いつかBIG MONEYをつかんでやる。」と思っていたかもしれませんが、「世の中はカネが全て。」とは思っていなかったでしょう。当時はカネについて歌った歌が少なかったので、「あえて心の叫びを強調する為に、分かりやすいあの様な歌詞にした。」と、本人も言っていますし。「カネは無くても愛が有れば良い。」という様な歌詞だと、生身の身体から出ている心の叫びが伝わらないので、「あえてカネが欲しいという歌を作った。」とも、本人が言っていますね。その頃の時代は、ちっぽけな街を飛び出し、大都会に出て一攫千金を目指す様な時代でしたからね。でも、浜田省吾さんのその後の生き方を見れば、カネが全てでは無いと思っている事が一目瞭然だと思います。長年「J.S.FOUNDATION」を通してチャリティー活動を欠かしていないし、儲け主義的な音楽活動をしていないですからね。浜田省吾さんの歌には、実体験を基にしたものが結構多いですよ。でも、色々な解釈が出来る様な歌詞作りなので、分かりづらいですけどね。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1270941772
(※1)MONEYのプロモ盤 (放送局などに配布される非売品)
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浜田省吾事典 より
(真ん中の段、右と中)
↓↓↓とっちゃんの部屋でも紹介済みです↓↓↓
【MONEY/DANCE】
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XDAH93038
12インチシングル盤のほうですね。
【MONEY/DANCE】XDSH93084
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こちらはEP盤
(※2)このアルバム
↓↓↓『Down by the Mainstreet』 のこと↓↓↓
【Down by the Mainstreet】
(過去記事 2011年5月26日 付 )
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28KH1550 ¥2,637
☆とっちゃんメモ★
正式名称の「DOWN BY THE MAINSTREET」とは別に、片仮名で「メインストリート」という邦題が付いてた(↑最初の画像参照)のですが、再発盤からは邦題が消えました。
浜田省吾アルバムの中で、曲のタイトルが全て英語という最初の作品。(後に「CLUB SNOW BOUND」や「Father’s Son」なども(但しサブタイトル(副題)には日本語表記アリ)。 )
そして、浜田省吾初のセルフプロデュース作品。
あ、カセットテープ本体には、同じ作品なのに「仕様違い」があるんですね。
ほら…オレンジラベルバージョンがコチラ!
泣き笑いせつなブログ『週刊とっちゃんの部屋』-110521_123613.jpg
そして、スケルトン仕様がコチラ!
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実は、カセットのみならず、アナログ(ドーナツ盤)レコードのラベルにも、オレンジラベル以外に青ラベルバージョンがあって、しかもその青ラベルは印字されてる文字は凹凸がある刻印バージョンになってたりするんです。
「風を感じて」「青春のヴィジョン」なんかのシングルでそれが確認出来ています。トレカでいうところの「インサートカード」のような稀少盤といっていいでしょう。
オリコンアルバムチャート最高2位!(惜しい!)次のオリジナルアルバム「J.BOY 」で初のチャート1位を記録するんですが、もうこのメインストリートで2位ですからね♪その下地は出来ていたという。
【DADDY'S TOWN】町支さんのコーラスアレンジが秀逸!浜田省吾さんから「ビーチ・ボーイズ風に!」とリクエストがあったとか。この曲の舞台設定はお父様も住み、自身も育った広島県大竹市。
【HELLO ROCK&ROLL CITY】このアルバムといえば、やはりこの曲。ライブでは、その都市の名に代えて歌われる、浜田省吾ライブの「挨拶代わりナンバー」♪
【DANCE】
1984年8月1日Release
省吾さま17枚目のシングルにして初の12インチシングル。
B面は THE LITTLE ROCKER'S MEDLEY
とっちゃんが浜田省吾ファンになってからリリースされた最初のシングルがコレ!
(えっ、そんな情報いらない W)
省吾さまにとって「風を感じて」「ラストショー」「「ON THE ROAD」に続き自身4度目のシングルチャートイン!
しかも自身最高位記録も「風を感じて(25位)」を抜いて、初のトップ20位入り!( 週間ランキング=20位 )
☆とっちゃんメモ★
あ…読者のみな浜、覚えていらっしゃいますか?浜田省吾史上最短襟足の記事(笑)
↓↓↓ポッチして↓↓↓
史上最短!!!(笑)
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↑DANCEの裏ジャケに、その頃の写真が(^m^) カワイイでしょ?
あ、つまり『浜田省吾公式作品掲載写真での最短襟足は???』
と浜田省吾カルトQで出題されたら、迷わず「DANCE」とお答えください(^0^)b
実は、浜田省吾事典には掲載が漏れてますが(もちろん、とっちゃんの部屋ではバッチリ網羅されてましたね☆)、この曲、というかこの12インチシングルは両面とも意外な人にCoverされているんですドキドキそれはコチラ
泣き笑いせつなブログ『週刊とっちゃんの部屋』-120131_082633.jpg
石川秀美『BURN UP HIDEMI ~秀美の熱い一日~(笑)
石川秀美さん=’80年代のトップアイドルの1人。TBSはなまるマーケットの司会・やっくんこと薬丸さん(元・シブがき隊)の奥様。
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見えますか?A面(SIDE 1)の最後2曲。
キチャッターーー(・∀・)ーーーーーッ (笑)
なっち(安倍なつみさん)が「片想い」をカヴァーする以上に違和感あります(^_^;)
「みんなも一緒に歌ってねぇ~~~♪ ロ~ックンロ~ハイハイハイッ! 」って・・・
まさに秀美ちゃんにとって、本当に熱い1日だったようです(*^_^*) ハイ
ちなみに THE LITTLE ROCKER'S MEDLEYというのは浜田省吾ロックンロールメドレー(今夜はごきげん~HIGH SCHOOL ROCK&ROLL~あばずれセブンティーン)のことです。
DVD「ON THE ROAD “FILMS”」の中のTour Scrapの中で(紙吹雪の中)横浜スタジアムで歌われてるのがソレですね。
「B面の『THE LITTLE ROCKER'S MEDLEY』は、ライヴ・バージョンで、当時ツアーでアンコールに、ほとんどもどしそうになりながらやってた。すごいハードなの。最後の疲れ切ってるところにもってきて、10分以上のアップ・テンポなロックンロール・メドレーでしょ。もう死ぬんじゃないかと思いながら(笑)。だから、このライヴ・バージョンには、すごい思い入れがある。12インチだからこそやれたという長さだし。これを聞くと、当時一緒にやってたTHE FUSEのメンバーを思い出す。ツアーがいちばん楽しくていちばんきつくて、いちばん長かった時代のメンバーだからね。」(『浜田省吾事典』より。本人談)
『いちばん楽しくて(でも)いちばんきつくて…』
一見相反(あいはん)する言葉が並んでるから矛盾するようですが、これはもう省吾さまの本心なのでしょうご。
きつかったけど、それでも続けてこれたのは、それ以上に楽しかったからなんでしょう。苦しい時代の省吾さまを支えてくれたメンバー&スタッフの方々にあらためて感謝ですクローバー
『12インチだからこそやれたという長さだし。』
これは そう、このDANCEはドーナツ盤ではなく12インチシングルといって当時のアルバム(LP盤)と同じ大きさの(だから)一見アルバムと間違うシングルなんですね。
若い読者のかたに、分かるかな~???(^-^;
大きさはLP盤と同じでも回転数はシングルと同じ45回転(アルバムは33回転)だからアルバムと12インチを交互にかけた場合、回転数を切り替えないと当時、大変なことになったもんです(笑) エェ
Σ( ̄□ ̄;)
ダレ、コノコエ???
みたいな みたいな(笑)
あ、そーいえば、昔「トリビアの泉」でやってましたヨ。
一青窈さんの『もらい泣き』の回転数を変えると、平井堅さんの声になる(笑)
へ~ へ~ へ~ ☆
ま、↑ここまで話してもなお若い読者のかたにはチンプンカンプンでしょうけど (^-^;
パパかママに聞いてください!(笑) ←
最後にDANCEといえば…
LOVE HAS NO PRIDE の時もそうでしたが、発表当時かなり酷評された(というか、評論家達が難色を示した)らしいですね。
「浜田省吾がダンス~~~?」って。
あのシンプの大越(正実)さんでさえ
「正直に言えば、この曲を初めて聴いたとき、『ウソやろ』と思いました。『どうしちゃったの、浜田さん』というか。なんで浜田省吾がダンスやねん!浜田省吾に近しいあるスタッフも、戸惑いの言葉を語っていたのを覚えてます。でも、この疑問もライヴを観ていくことで、氷解していくのは『MONEY』と同じだった。これをうたわねば、先に進めないと、きっと浜田省吾は確信したのだ。思えば『DOWN BY THE MAINSTREET』は、とても思い切ったアルバムだった。ただし、この曲を発表後、ライヴでこの曲をうたいながら『ダンス』をする浜田省吾はあんまりかっこよくなかったと記憶している。すみません(笑)。」
と懐述されてます。
これ、この大越さんのコメント・・・よぉ~く分かるなぁ~(笑)
思わず、10年前のNHK「浜省特番4部作」で省吾さまが披露してくれたあのヒップホップ・ダンスを想像して苦笑いしてしまいました。 (*^_^*)
もちろん、シングル(今回紹介の12インチシングル)とアルバムでバージョンが違います。(バージョンというより、一部歌詞まで違います!)
12インチシングルバージョンを聴いたことがないかたは、この機会に是非!
~~~ ここまで ~~~
さて、昨日最終回だった短期集中連載・横浜スタジアムの記事 のアンコール1曲目で、
「新曲を聴いてください!」といって披露されたのが このDANCE だったでしょうご。
つまりあの時(横スタで)、リリースの3ヶ月も前に生で先行披露してくれたという事になります♪
(ライブが4/29 リリースが8/1)
厳密に言うと・・・ ↑過去記事でもそれは書いてますが、この12インチシングルバージョンのDANCEは、アルバム収録のソレとはバージョンが(一部歌詞も)違いますケドね・・・。
でも、そんなの長渕さんは知らないでしょうし・・・「おかしいなぁ? DANCEってシングルになってなかったっけ?」みたいな狐につままれた感じだったでしょうね(笑) これは完全な省吾さまのケアレスミス(あのアルバムからシングルになってる)といえましょうご。
https://ameblo.jp/futabayama69/entry-11521214177.html