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┃『僕と彼女と週末に』┃
┗━━━━━━━━━━┛7th DVD
2010(平成22)年10月06日(水) released SEBL-2030
2021(令和三)年06月23日(水) re-released SEBL-2030
‡2009(平成21)年06月20日(土) 07,SF4「2009 FAN CLUB CONCERT」JCB HALL
07 とらわれの貧しい心で「2009 FAN CLUB CONCERT」JCB HALL
■Special Features[特典映像]
04 とらわれの貧しい心で「2009 FAN CLUB CONCERT」JCB HALL
解説・・・貴重な未発表ライブ映像をベースに、歴史上の記録写真や映像をミックスし、池上彰氏によるそれぞれの時代や各テーマの解説文、年表・キャプションなどを付加し偏りなく史実を伝えられるよう構成。さらに未発表ライブ映像のみで編集された特典映像も収録。
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https://shogo.r-s.co.jp/disco/dvd07.html
平https://www.amazon.co.jp/dp/B003X03COA
令https://www.amazon.co.jp/dp/B094VR58X1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%95%E3%81%A8%E5%BD%BC%E5%A5%B3%E3%81%A8%E9%80%B1%E6%9C%AB%E3%81%AB_(%E6%98%A0%E5%83%8F%E4%BD%9C%E5%93%81)
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吉田拓郎「金沢事件」 女子大生の狂言でCM自粛、放送禁止に
2011(平成23)年09月21日(水) 16:00 公開日 プレイバック芸能スキャンダル史
‡2018(平成30)年06月20日(水) 15:42 更新日
ー1973年5月ー食道がんを克服した桑田佳祐が宮城で復活ライブを行った。パワフルな桑田を見て誰もが「あの人は……」と思い浮かべたのが、肺がんを患った吉田拓郎(65)。8年前に手術。2年前には生涯最後と銘打った全国ツアーを途中で打ち切る事態になったが、今はラジオ「オールナイトニッポンGOLD」にレギュラー出演している。そんな拓郎にも人に歴史ありのスキャンダルがあった。
「男を殴り、女性を監禁して乱暴した」「落ちた偶像」……。拓郎が一斉にバッシングされたのは
1973(昭和48)年05月23日(水)朝、拓郎宅に石川県警金沢中署の3人の刑事がやってきた。容疑は“婦女暴行致傷”。警視庁の取調室で逮捕され、手錠をかけられた拓郎は金沢に連行された。マスコミはこれに飛びついた。ヒットを連発し、“テレビ出演拒否宣言”など生意気な言動にイラだっていたこともあり、「フォークの貴公子」をこき下ろした。拓郎、陽水が出現した70年代、フォーク歌手はテレビに出なかった。今にして思えば、目立つためのパフォーマンスにしか思えないが、チャラチャラしたテレビを低く見てマスコミの取材も拒否したりで敵をつくった。もっとも、事件はとんだ茶番、女子大生の狂言だった。
1973(昭和48)年04月18日(水)深夜。金沢でのコンサートを終え、メンバー3人と入った市内繁華街のスナックに“被害者”となる女子大生A子がいた。一緒にいたボーイフレンドが拓郎と意気投合するA子に気分を害して険悪な雰囲気に。一緒に店を出る時に男は拓郎に捨てぜりふを吐き、むかついた拓郎が男の顔をポカリと殴った。唇から血を流していた男は拓郎のホテルで手当てを受け、ひとり帰宅。部屋に拓郎とメンバー、一緒についてきたA子、スナックの女子店員が残った。それから酒を飲みながら皆でトランプなどに興じたが、その後、拓郎とA子の姿が消え、隣の拓郎の部屋に移った。ここからが事件の核心。金沢中署の発表ではA子は拓郎から20分にわたって監禁され、暴行されかけたが、懸命の抵抗で未遂に終わったという。が、逮捕から10日後、拓郎は不起訴処分で釈放――。
「襲われたというのはA子の狂言。部屋に鍵はかかっておらず、途中でメンバーが将棋盤を借りに入ってきたりもしたのです。拓郎は彼女が部屋を出ていく際、おでこにキスしただけ。A子はもちろんケガもしていなかった」(元女性誌記者)A子は翌日大学で「拓郎とデートした」と自慢していた。それがなぜ暴行致傷になったのか。
「A子はあの日、友人の家に泊まると言って朝帰りしたんですが、ウソがばれ、両親に責められ、とっさに拓郎に暴行されたと口走ったんです」(同)A子には別に婚約者がいた。その晩のことを知った婚約者は激怒し、A子はますます口からデマカセを引っこめられなくなり、告訴せざるをえなくなったのだが……。
「その後、現場にいた人の証言が次々に出て、結局、A子側は告訴を取り下げました」(同)拓郎の受けたダメージは大きかった。ツアーは中止。歌うCMは自粛。他人に提供した楽曲まで放送禁止。にもかかわらず敵対していたマスコミからの謝罪はなかった。(敬称略)
◇1973年5月 当時公開されていた映画は『同棲時代―今日子と次郎―』。主演の由美かおるが初のヌードを披露して話題だった。均整のとれた肉体を惜しげもなくさらしたポスターは貼ったそばから盗まれていった。映画の平均入場料金は500円。シングルレコードは400円だった。
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https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geinox/133609
■超参考■http://www.tapthepop.net/story/76557
https://www.uta-net.com/song/3233/
https://www.uta-net.com/song/34843/
https://www.uta-net.com/song/53997/
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┃ よしだたくろう 全国縦断リサイタル '74 秋 (愛奴・春のツアー) ┃
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‡1974(昭和49)年6月20日(木) 14回 倉敷市民会館
01♪おろかなるひとり言♪
02♪ひらひら♪
03♪君去りし後♪
04♪むなしさだけがあった♪
05♪親切♪
06♪竜飛崎♪
07♪もうすぐ帰るよ♪
08♪祭りのあと♪
09♪落陽♪
♪これからは君の世代だ♪
♪夏の光の中で♪
10♪今日もまたペニーレインで♪ ※♪ペニーレインでバーボン♪の原曲
11♪襟裳岬♪
12♪高円寺♪or♪リンゴ♪
13♪夏休み♪
14♪忘れかけた一日♪
15♪野の仏♪
16♪シンシア♪
17♪イメージの詩♪
18♪私♪ ※♪悲しいのは♪の原曲
概要・・・デビュー後初めて開催された単独コンサートツアーである。日本のファークシンガーとして初の全国ツアー。広島フォーク村の後輩である『愛奴[29]』をバックバンドに従えた全国縦断ツアー[30]。
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http://setlist.mx/concerts/215349 http://setlist.mx/events/40308?page=1
https://www.uta-net.com/song/51514 https://www.uta-net.com/song/44469
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賛同者・浜田省吾さんの父・敏太さんの原爆投下朝の体験記
2015/6/20(土) 午前 0:00
昨年の暮れに中国新聞社の方から「広島世界平和ミッション」に寄稿を依頼され、広島で救援活動中に二次被爆した父のことを書きました。
明けて、2004年の正月に姉宅を年始で訪ねた時に、姉から「お父さんの原稿が出てきたのよ」と、これを渡され読んだ時、あまりの偶然に驚きました。
内容が父の「原爆投下の朝の体験記」だったからです。
残念なことに、おそらくは長い体験談になったであろうこの原稿は、第一章までしか書かれていません。
日々の忙しさに追われ、そのままになってしまったのでしょう。
それとも、この先を書くことが精神的に困難だったのかもしれません。
これを書いた当時、父は54歳で大竹署に勤務しており、定年を次の年にひかえていました。
私は18歳の予備校生で初恋やら家出やら、今思えばまさに青春していた時期でした.
そんな私も今やこの当時の父と同じ世代になり、感慨深いものがあります。
この原稿は校正せず、そのままタイプしました.
途中数個所判読できない字があることをご了承下さい。
これをタイプしている今日は2004年4月30日、父の17年目の命日です。
浜田省吾
◇ ◇ ◇
■原爆被爆26周年に憶(おも)う/大竹署 浜田敏太
■はじめに
あれから26年、被爆地広島市が世界平和のシンボルとして、
生々発展してゆくよう心から祈ろう。
今被爆当時の記憶をペンで綴(つづ)ろうとするとき、いささか抵抗を感じるのは何故だろうか。
私だけの心の片隅に、そっとしておきたかった、
それが原爆犠牲者、そして先輩、同僚の霊に対する礼であろう。
多くの体験者は静かに見守り、祈りを捧げているではないか。
そして広島市と私の体内に滲(し)みついた悪夢にも似た傷跡をかき廻すことのおろかしさと不安…
さまざまなほろ苦い感情と疑問のもつれがうずまく心地がするのです。
勿論文才のないことは論外としておこう!
最近各専門家によって多角的に資料が収集され、高度な文筆技術等によって広島の記録が著書「広島原爆戦災証」として近く出版されると聞いているとき、今日の記念日のできごとを瞑想しつつ、当時の記憶の一ページを一気に書きなぐってみたくなったことを了承願いたい。
■原爆投下の前夜
当時私は木江署(1)で兵事、労政主任をしていた。
広島市に原爆が投下された数日前だった。
広島市において、広島?隊区司令部主催による、各署の兵事主任会議が開催された。
8月5日、私はこの会議の状況を各市町村役場の兵事政労関係者に急遽(きょ)伝達の使命を携えて、管内の豊島村に行き、
その日は豊島駐在所に一泊させてもらった。
その晩、福山、今治市がB29の空襲を受けたのを駐在所の一室で見た。
今治市の場合は比較的距離も近いので、照明弾、続いて焼夷弾投下が繰り返され、見る間に夜空を焦がす状況が手に取るようであった。
竹槍訓練や防空体制の強化叫ばれている時、こうして毎日のように、つぎつぎと各都市が空襲の被害に見舞われていったのである。
■会議に出席して
翌8月6日、午前7時過ぎから豊島村役場で広島?隊区司令部の伝達会議を開催した。
8月の太陽は会場一杯に照りつけ、会場は熱っぽい空気に満ち始めたころだった。
閃光一閃(せんこういっせん)!
瞬間、出席者一同が目を見張った。
雲ひとつない青空だ、稲妻でもない。
しかし、あの強烈な光ぼうは一体何だろう?
不吉な予感と憶測が入り混じり、会場内はざわめき、会議は一時中断した。
しかし会議中何事もなかったかのように会議は予定どおり終了した。
■原子雲を見た
続いて私は次の目的地である、御手洗町(2)に向かった。
波静かな海上を、豊島から小さな渡し舟で、大崎下島(3)に渡り、徒歩で矢?港に到着したときだった。
船待客の一団が、広島方向の上空を見上げながらどよめいていたので、私は何事かと振り返ってみると、キノコ型の雲が豊島の北端山頂の青空に浮かび、むくむくと広がってゆく異様な光景を見た。
船待客は、
「ひどいこと やられたもんじゃのォ」
「こんなァ B29の爆弾ぐらいじゃぁ あがんならんよのォ」
「スパイが侵入って広島の火薬庫を爆破したんじゃろう」
「それにしても火薬庫ぐらいじゃ あがにならんじゃろう」
「火薬庫と云っても、火薬の他にもいろいろなものがあるけのォ」
「そうかのォ」
たわいもない話は繰り返された。
すると今度は、一人の船待客が付近のラジオの傍で、
「このラジオは先刻まで、大きな声で放送していたが、ピカッと光ってから放送せんようになったんじゃ、それが今何やら言いだしたんじゃ」
私もラジオの方に近づいて、耳を澄ましていると、
「大阪放送局、こちらは広島放送局です。聞こえますか、聞こえたら返事をして下さい」
と…悲痛な叫びが、かすかに繰り返され、応答を求めていたが…
私は先を急いだ。
灼熱(しゃくねつ)の太陽が降り注ぐ中を徒歩での山越えである。
上着を脱いだ。
剣が重く、歩くのに邪魔になりはじめたので、剣の先端に脱いだ上着を引っ掛けて、肩にかついで一路御手洗町に向かった。
■出動命令
午前11時頃だった。
本署との連絡用務もあり、途中「大長駐在所」(4)に立ち寄った。
そこで私を待っていたのは、本署からの命令であった。
「今朝、広島がやられた、被害は甚大らしいが通信網もやられており詳細はわからない。とにかく大崎下島在住の警防団、医師、看護婦を最大限に動員し、君が指揮して、直ちに広島へ救援に行かれたい。」
私は深く頷(うなず)いた。
駐在所をはじめ、地方の方々の積極的な応援を得て、180名に及ぶ多数の参集と救急薬品などを取り揃(そろ)えて、借り上げ船に乗り込み川尻港に向かった。
■広島への道は遠かった
搬送列車に乗った。
海田駅が近くなった頃、車掌がやって来て、
「この列車は広島がやられたため、海田駅で折り返し運転をしておりますので、海田駅で降りて下さい」と…。
海田駅で下車した私達救援隊は、徒歩で広島に行くしか方法が無い。
広島に近づくにつれて、破壊と混雑で行く手は遮られた。
状況判断の結果、山陽本線北側から東錬兵場に入ることに決定したのである。
広島が燃えている黒煙は夕焼けに映えて、上空を覆っている。
私達救援隊は遅々として日暮れの田んぼ道を、広島へ、広島へ、黙々として歩き続けた。
中には暑さと疲労で列外組も出始めるようになった。
もう広島への道は近い、しかし広島への道は遠かった。
■その夜の広島で
1名の落伍者もなく、東錬兵場の広島駅裏に到着した。
そこで私達を待ちうけていたのは、生死の境をさまよう、おびただしい数の被爆者と猛火に狂う広島の夜であった。
「こりゃぁひどい、まるで生き地獄じゃのォ」と誰かがポツリと呟いた。
救護本部への連絡は至難と諦め、その夜は野宿することにして、明日を待った。
隊員はみんな疲れていた。
だが休んではいられない、と言い聞かせているようであった。
今まで一番バテていると思われた医師と看護婦は、必死に訴える被爆者の要求に応じて、持参した医療品を取り出して、早速救護活動にとりかかった。
殆(ほとん)どまどろみもしないで夜明けをむかえようとする姿には頭が下がった。
各救援隊員も眠れないまま、焼け爛(ただ)れた被爆者が必死に求めている水を運んでは与えた。
被爆者は水を飲んで満足そうに眠った。
そして朝、被爆者はもう起き上がらなかった。
私は合掌した。
【編注】(1) 木江署(広島県豊田郡) (2)御手洗町(広島県豊田郡) (3)大崎下島(広島県豊田郡) (4)大長駐在所(広島県豊田郡)
http://blogs.yahoo.co.jp/u_t_r_s_m/19398302.html
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┃ 浜田省吾 #16 怪奇現象? ┃
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2016(平成28)年04月24日(日)
浜田省吾1982年の春のツアーで起きたちょっとコワい話です。
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1982(昭和57)年6月15日(火) 松山市民会館を皮切りに、浜田省吾の四国?中国?山陰?大阪と廻る長い旅がスタートした。この時点で82年春のツアーは約50本のコンサートを消化して、残りはあと3分の1ぐらいの本数になっていた。松山から始まったツアーのスケジュールは以下の通り。
6/15(火) 松山市民会館
6/16(水) 高知県民文化会館
6/17(木) 徳島文化センター
6/19(土) 倉敷市民会館
‡6/20(日) 広島郵便貯金会館
6/22(火) 三原市文化会館
6/23(水) 山口市民会館
6/24(木) 岩国市民会館
6/26(土) 島根県民会館
6/27(日) 鳥取市民会館
6/29(火) 島根県民会館
7/01(木) 大阪フェスティバルホール 17泊18日の長い旅だった。
1982(昭和57)年6月15日(火) 初日の松山公演を終え、この日は疲れていたこともあって、ホテルのレストランで食事を済ませたぼく達は早々に各自の部屋に戻った。ぼくも部屋に戻って、シャワーを浴びるために着替えをバッグから取り出そうと思って腰を屈めた時、どこからかヘンな音がすることに気がついた。何かパチン!という手を叩いたときのような音がどこからか聞こえてくる。部屋のドアを閉め忘れたため、廊下から聞こえてくる音なのかな?と思ってドアを確認すると、部屋のドアは確かに閉まっている。気のせいかと思い、再び鞄から着替えを出そうとすると、またパチン!という音が。あれっ?ヘンだな?と思い、今度はバスルームの中を確認してみる。当然のごとくそこには誰もいない。部屋の窓が開いているのかと思って窓も確認してみる。キッチリ閉まっている。うーん、何だろ?疲れているせいで幻聴が聞こえたのかと思い、あまり気にしないことにした。ひとまずシャワーを浴びるのは後回しにして、テレビをつけようと壁に近づいた時にまたもパチン!という音が今度はハッキリと聞こえた。
「ん??何か壁のあたりから聞こえたぞ。」ぼくは独り言を言いながら、壁に耳をあててみた。
「パチンっ!!」壁の中からすごく大きな音が聞こえた。実際は耳を壁にあてていたため、すごく大きく聞こえたような気がしただけだった。音は聞こえたり止んだり、不規則に繰り返されていた。ぼくは何だか気味が悪くなって、町支さんと江澤くんに部屋に来てもらった。
「ねぇ、さっきかヘンな音が聞こえて気味が悪いんだけど、聞いてくんない?」ぼくは町支さんに言った。
「またぁ、そんなこと言って脅かそうとしてるんでしょ。」町支さんは半分以上信じていない様子だった。
「イタさぁ、疲れてて耳鳴りでもしてるんじゃないの?」江澤くんも信じていない様子。
「とにかく音がするんだ。聞いてみてよ」ぼくは二人に言った。しばらくするとまた例の「パチン!」が聞こえて来た。
「ん?何か音がした。」江澤くんが不審そうな顔をした。再び「パチン!」「えっ?何か聞こえたねぇ」町支さんも不思議そうな顔をしている。
「でしょでしょ!確かに聞こえたよね!なんか壁の中から聞こえて来るんだけど。」すると今度は連続で「パチン!」が聞こえて来た。さすがにみんなこれはヘンだ、と思い始めていた。すると町支さんが一言
「これって、ひょっとしたらラップ現象かも。」
「エェ~~!!ラップ現象ぉ??マジですか、マヂですかぁぁぁ!!」ぼくは急に言い知れぬ恐怖を感じて叫んだ。
「うん、そうかもしれない。オレもなんかの本で読んだことあるわ。」追い打ちを掛けるように江澤くんが言った。
「やめてよー!オレ怖くて眠れないよー!」ぼくはホントに怖くてたまらなくなって来た。臆病なことにかけては世界でも屈指の存在だと自負しているぼくは、もう一刻も早くこの部屋から逃げ出したい衝動にかられていた。そんなことを言ってる間にも例の音は続いている。町支さんと江澤くんは「フロントに電話して確認してもらったほうが良いかもよ。オレ風呂入るから。じゃあねー。」とかなんとか言って、さっさと自分の部屋に帰ってしまった。再び誰もいなくなった部屋で例の音は続いている。ぼくは速攻でフロントに電話した。
「あのぅ、部屋からヘンな音がですね、聞こえてですねぇ、聞こえるとですたい。」ぼくはコワさのあまり、何故かおかしな九州弁になってしまった。フロントの人に確認してもらうと、確かに音は聞こえるけれど別に不審な音ではないのでは?とのなんだかやる気の無さ全開の返事。でももうこの部屋に居るのは絶対にイヤだったぼくは、部屋を変えてもらうことにした。ところが生憎この日はシングルの部屋が満室で、空いている部屋は四人部屋のファミリータイプの部屋しか用意出来ないとのことだった。ファミリータイプだろうがファミリーレストランだろうが、パートリッジ・ファミリーだろうが、もう何でもいいから部屋変えて!無理矢理お願いして、どうにかぼくは四人部屋に移った。やっとこさ恐怖から解放されたぼくは、ファミリータイプの部屋に入ると改めて部屋の中を見渡した。うなぎの寝床のような横長の部屋にベッドが四つ置かれていた。
「ひ、広い…。」ここで一人で寝るの?寝るの??寝るのぉぉぉ???…絶対に無理!臆病なぼくは今度は別の恐怖に襲われた。四つ並んだベッドが棺桶のように見えて来て、もう居ても経ってもいられなくなったぼくは、江澤くんの部屋に電話をかけた。
「オメツ(江澤くんのあだ名)さぁ、悪いんだけど今夜オレの部屋に泊まってくれないかなぁ?」おそるおそるぼくは江澤くんに言った。
「え~~!なんで?イヤだよオレ。だいいち面倒くさいし。」江澤くんは本当に嫌そうに言った。
「部屋変えてもらったのは良いんだけど、広すぎてコワくて眠れそうもないのよ。お願い!今夜だけオレの部屋に泊まって!」まるで女の子を口説くかのような口調で、ぼくは江澤くんに懇願した。こうなったら何か何でも口説き落としてみせるぞー!…相手は男であった(笑)渋る江澤くんをどうにか説得して、この夜は四人部屋に泊まってもらうことにした。急に安心したぼくはコンサートの疲れもあって、あっという間に深い眠りに落ちて行った。次の朝、爽快な気分で目覚めると、眠そうな目をした江澤くんがすでに起きていた。
「あれっ?オメツもう起きたの?早いねー。」昨夜の騒動のことなど、どこ吹く風でぼくは言った。
「あのなぁ、オマエ~殺すぞ。さっさと一人だけ先に寝やがって、オマエのいびきがうるさくて全然眠れなかったじゃねーかよ!」これ以上無いというくらい、超不機嫌そうな顔で江澤くんは言った。
写真◆これがその四人部屋。起きてから江澤くんの機嫌が直ったところで記念に一枚(笑)
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/04/16.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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お金を湯水のように使うとはこのことか!
2000-12-22
以前、生保会社の2人と飲みに行ったことがあった。1990年代の前半、まだバブルの余韻が残っているころだ。彼らと料理屋で仲良く食っているうちは良かった。そのうち2人は、ちょっと前に行った六本木の外人バーにどうしても行こうと言い出した。私はそういうところへは行ったことがないので、連れていってもらうことにした。
防衛庁の近くで、ちょっと繁華街からはずれたところにあるんだけど、にぎわっていたなあ。そこに座るや否や、2人はもう金髪女性に夢中である。既に酔っ払っていたから、事は早い。1人がほとんど裸の金髪のパンツに札束をガバッと入れたかと思うと「じゃあスペシャルサービスに行ってくるから」とその金髪と2人で奥の方へ姿を消したのである。
それからしばらくして、彼は上機嫌で戻ってきたのだが、どうもいろいろマッサージをしてもらうらしい。そしてすかさずもう一人がパンツにガバッと札束を入れると、やっぱり「じゃあね」と行ってしまった。それから2人はもうひっきりなしに交互に札束をパンツにガバッと入れ、奥に消える行為を繰り返していたのである。
いやいやそれだけではない。そのバーには舞台があって、そこでほぼ全裸の金髪たちが踊っている。その舞台で生保社員が口に札束をくわえて仰向けになると、金髪たちがしゃがんで股に札束を挟むようにしてまた立ち上がるのだ。2人はそれを交互に繰り返してはウハウハ遊んでいた。2人のうち一人は入社1年目で新婚である。酒を飲んだときに聞いたのだが、彼は結婚式に1千5百万円つかったとのたまっていた。それでこのザマである。彼らがパンツに突っ込んだり、口にくわえたりしている札束は、会社から交際費として出ると言っていた。いくらか分からないが、万札か5千円札を手掴みで扱っていたのは覚えている。若手である彼らに交際費がいくら支給されるのかは聞かなかったが、彼の上司には毎月交際費として、驚くなかれ、1人で1千万円が支給されていると話していたのである!!!私はこのとき、金を「湯水のように使う」とはこのことかと思った。毎日30万円30日間使っても、まだ交際費は100万円余るほどなのである。
しかし常識的に考えて、皆様が万が一に備えて毎月支払っている無け無しのお金をこんなぞんざいに扱っていいのだろうか。私はこの時から、生保の人とは付き合うのをやめた。常識を見失ってしまいそうになったからだ。その前後に聞いたのは、生保というのは保険外交員を除けば、ほとんどやることがなくて、午後5時には職場を後にし、それで課長ともなれば年収1500万円はくだらないということだった。
それが今やどうだ。お約束の利率を確保できないので、法律を変えて政治家主導でみんなでいっせいに利率を下げて契約を反故にしようというのではないか!そんなことが許されるのか。特にこれまで散々遊んで、月に1千万円もの交際費を湯水のように使っておきながら。
しかしこういう話は生保だけに限らない。あちこちでこういう話があるのである。それが日本の現実だ。失われた90年代の実態です。
http://d.hatena.ne.jp/yumyum2/20001222/977485807
NHK SONGS 2015.6/20(土)「Mr.Children~その一言から世界が始まる~」https://youtu.be/1wfwjq_9rGk
平成27年6月20日の23時に放送されたNHKのSONGSでMr.Childrenが[fantasy] [HANABI]などほかにも新曲などが歌われています
アラフォーコンピ第2弾サマフォーも、催涙弾級の感涙曲づくし
2009(平成21)年06月20日(土) 10:59:04
2008(平成20)年10月 1日(水)に発売されるやいなやいきなりバカ売れ、20万枚を超す大ヒットとなったコンピレーションアルバムが『Around40~アラフォー~』。潔い直球のタイトルは、アラフォー世代の青春の灯火を再燃させたのです。
◆参照記事「アラフォー世代に良く効くいいコンピあります」
そんな緑色のジャケ写『Around40~アラフォー~』に続く第2弾コンピが、黄色のジャケットで6月17日(水)にリリースとなった『Around40~サマフォー~』。今回はそのタイトルどおりキーワードは夏。4000曲のリクエストの中から「今の私も歌えちゃう」をテーマに選曲された15曲を収録、どれもが青春をプレイバックさせる歌ばかり。あー、元カレ元カノの眩しい笑顔が脳裏に…。あ、緩んだ涙腺を引き締めて、大不況の荒波を突き進もうではないか。このコンピを自分へのエールに代えて。ちなみに『Around40~サマフォー~』のTV-CMには、まさにアラフォー世代にお馴染みのモデル、加藤幸子が出演。さっちゃんの愛称で雑誌「セブンティーン」のモデルとして絶大なる人気を獲得、「non-no」「anan」の専属モデルとしても活躍していたリアルアラフォーモデルだ。2008年12月に初めての出産を体験し、現在は新米ママとして育児を楽しみながら、雑誌「Mart」をはじめとする雑誌や広告でモデルとしても活躍している、まさしく頑張れてしまうアラフォー世代のイメージリーダーそのもの。お財布管理はしっかりしているものの、自分への投資には糸目はつけないあなた、このコンピは、あなたの心のオアシスの水量をグンとアップさせてくれますよ。
『Around40~サマフォー~』
01.夏を待ちきれなくて/TUBE
02.世界でいちばん熱い夏/プリンセス プリンセス
03.私の夏/森高千里
04.夏の扉/松田聖子
05.モニカ/吉川晃司
06.アクアマリンのままでいて/カルロス・トシキ&オメガトライブ
07.ふたりの夏物語 NEVER ENDING SUMMER/杉山清貴&オメガトライブ
08.ラストショー/浜田省吾
09.夏のクラクション/稲垣潤一
10.夢をあきらめないで/岡村孝子
11.MOON/REBECCA
12.LA・LA・LA LOVE SONG/久保田利伸withナオミ キャンベル
13.あなたに会えてよかった/小泉今日子
14.サマータイム ブルース/渡辺美里
15.夏の終りのハーモニー/井上陽水・安全地帯
◆アラフォー・コンピ・オフィシャルサイト
http://www.barks.jp/news/?id=1000050423
40年前の本日6月20日、荒井由実のアルバム『コバルト・アワー』が発売された
2015年06月20日 執筆者:北中正和
40年前の本日6月20日、荒井由実のアルバム『コバルト・アワー』が発売された。
1975年。日本のポップスはかつてないスピートで変化しようとしていた。その流れを加速した曲がある。同年2月に発売されたユーミンこと荒井由実の「ルージュの伝言」だ。
この曲のヒロインは、浮気な男をこらしめようと、バスルームの鏡に口紅の伝言を残して、彼のママに会いに行く。その設定や言葉づかいは、まるでアメリカのテレビ・ドラマの世界のようだ。
ユーミンの自伝『ルージュの伝言』によれば、実際、このヒロインの行動は、エリザベス・テイラーか誰かの映画のイメージから想像をふくらませていったのだという。
メロディやサウンドのすみずみにも、60年代前半のアメリカン・ポップスの要素が散りばめられていた。タイトルからコニー・フランシスの「カラーに口紅」へのオマージュを連想する人もいただろう。
この曲はユーミンの初めてのヒット曲になった。『日本ロック大百科・年表篇』によれば、45位7万枚とあるから、ヒットの規模としては、それほど大きな数字ではない。彼女はテレビの歌番組によく出る人でもなかったから、ヒットしても、人気はまだ目ざといファンの間だけにとどまっていた。
しかしそれまでの彼女の2枚のアルバム『ひこうき雲』や『MISSLIM』の文学的な世界とちがって、わずか30分ほどで仕上がったというこの曲には、ポップにはじける力があった。小規模なヒットとはいえ手応えは大きく、彼女やスタッフは、この曲を含む新しいアルバムが、それまでにない展開をとげると確信したにちがいない。
4月にユーミンとハイ・ファイ・セットは、新宿の紀伊国屋ホールで8日間連続のコンサートを行なう。共演のハイ・ファイ・セットは、人気グループ「赤い鳥」が解散して生まれた都会的なポップ・トリオだ。彼らは2月にユーミン作の「卒業写真」でデビューしたばかりだった。
コンサート用の資料には「今春最大のビッグ・イベントそして日本のニュー・ミュージック界初のビッグ・マッチ」という説明が残っている。「ニュー・ミュージック」は、ちょうどそのころからシンガー・ソングライター系の音楽に対して使われはじめた言葉だ。
同じ月には、ニュー・ミュージックにとって、もうひとつ画期的な出来事があった。吉田拓郎、小室等、井上陽水、泉谷しげるが、それまで所属していた大手レコード会社から離れ、フォーライフ・レコードを設立すると記者会見で宣言したのだ。
レコード会社にとって、アーティストが自分たちのレコード会社を作るのは、晴天の霹靂の事件だった。従来の歌謡曲やアイドル・ポップスとシンガー・ソングライター系の音楽の勢力地図が大きく変わろうとしていた。
6月20日に発売されたユーミンの『コバルト・アワー』は、そんな時代に出るべくして出たアルバムだ。ここでの彼女は、文学的な作風に加えて、「ルージュの伝言」に見られるような、ポップなソングライターとしての才能も発揮していた。
夜明けの光景に魔法をかけるタイトル曲。青春の終わりを回想する「卒業写真」「航海日誌」「雨のスティション」。ミュージカル・ナンバー的な「Chinese Soup」…。この時点でユーミン以外の誰が「アフリカへ行きたい」という曲と「ルージュの伝言」を同じアルバムに入れようと考えただろうか。これは自由な解放感のあるアルバムだった。
自伝『ルージュの伝言』の中で、ユーミンは当時をこう振り返っている。
「それまでの二枚とすごく発想が変わったのよ」「企画物をつくらなきゃいけないという気になって、すごくプロになったアルバムだと思う」
『コバルト・アワー』は飛行機の爆音にはじまり、飛行機の爆音で終わる。その工夫も、新たな時代への旅立ちを告げているようだった。
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┃ ♪勝手にしやがれ♪ ┃1977(昭和52)年5月21日(土)リリース
┗━━━━━━━━━━━┛1977(昭和52)年6月20日(月) 1977年の今日6月20日、沢田研二「勝手にしやがれ」がオリコン1位を獲得! この年のレコード大賞曲となる
2016(平成27)年6月20日(月) 執筆者:小野善太郎
6月7日の岸部シロー誕生日のコラムでも書いたように、今もなお進行形である大河ドラマ『ザ・タイガース物語』とは実に良く出来ているものだなあ、と折に触れて思わずにはいられない。
とりわけ今回のエピソード、すなわちタイガースがレコード・デビューした1967年からジャスト10年後の1977年、ついにジュリーがレコード大賞を獲ることになる曲を得て、それが当人の誕生日の週にオリコン・チャートの1位に輝く、なんてことにしたら、そりゃあ出来過ぎ、もっとリアルに描きなさいよ、と言われるだろう。
しかし、もちろん現実はその通り。ソロになってからの「危険なふたり」「追憶」「時の過ぎゆくままに」に続くオリコン1位となり、かつてレコード大賞には届かなかった「危険なふたり」を超えて、同じく日本歌謡大賞も、そして日本レコード大賞も獲得、併せて当時は演歌系限定の賞という印象だった日本有線大賞をも初受賞するなど、全方位の国民的ヒットとなった。
なお、この前年の南佳孝のアルバム『摩天楼のヒロイン』に、そして同1977年の同6月の25日(奇しくもジュリー誕生日!)発売の中島みゆきのアルバム『あ・り・が・と・う』にも「勝手にしやがれ」という曲がある。
当然ながら全て異曲だが、それもこれもタイトルの元ネタは、ジャン=リュック・ゴダール監督1959年製作の初長編映画、その‘日本題’に決まってる。
実は、このフランス映画の原題は『息を切らして』といった意味であり、英語タイトルも『Breathless』。
初公開当時、日本の映画会社では邦題を色々考えていたが決定打が無く、締め切りに追われた担当女史が崖っぷちで破れかぶれに「もう、勝手にしやがれっ」と付けたタイトルが採用されたというような伝説もあるが、とにかく日本独自のものであり、それが原題以上にズバリとハマっているというのは、ビートルズの「抱きしめたい」などと同様、世界に誇れるセンスだと思う(ゴダール自身はオリジナル・タイトルを気に入っていなかったというし)。
ちなみにジュリーには英語詞ヴァージョンもある。未だ日本ではリリースされないままだが、英国ではシングル盤のB面として、また香港などで発売されたアルバムにも収録。タイトルは「One Man And A Band」。
オケは同じでも詞は全然異なり、「成層圏を飛ぶジェット機でシャンパンを口にするスーパースターに、貴方の物語は何処でどのように始まったのかと尋ねたら、彼は言うだろう、1人の男とバンドからさ」。あらま、タイガースでの出自を彷彿させる内容。
さらに見逃せないのは、もう1つの「勝手にしやがれ」。
同じく1977年、その11月に日本でリリースされた、ある英国バンドのLPに、オリジナル・タイトルとは異なる『勝手にしやがれ』の邦題が付けられた。
そう、かのセックス・ピストルズのデビュー・アルバムである。
担当した日本コロムビアの本間孝男氏によれば、やはりゴダール映画が頭にあり、ジュリーが先に使っていたが、これしかないと、どうしても付けたかったとのこと(『レコード・コレクターズ』誌 2013年2月号より)。
既存の体制に破天荒に挑んだ唯一無二の革新的作品ということでならば、ゴダール映画に通低するのはジュリーよりも圧倒的にピストルズの方と思われるが、ここには誠に不可思議な因縁話も潜んでいる。
このピストルズのアルバム・デザインの大胆に蛍光色を使ったカラーリング(配色の異なるアメリカ盤もある)から、何か別のアルバムを思い起こしませんか?
1967年のフォーク・クルセイダーズの自主製作LP『ハレンチ』のジャケットは、そこに収録されていた「帰って来たヨッパライ」のシングル盤にも流用されたが、目がチカチカする蛍光色のデザインだった。
描いたのは松山猛。作詞家としても加藤和彦と組んであまたの曲を生み出し、もちろんサディスティック・ミカ・バンドでも、かの傑作アルバム『黒船』(1974年)も書いている。それを自分から申し出てプロデュースしたのは英国人クリス・トーマス。
また加藤は1970~71年頃に「ヨッパライ」の豊富な印税を懐にロンドンを漫遊していた際、出入りしていたブティックの経営者マルコム・マクラーレンと服のセンスが合致して友人になった。
で、1976年、ピストルズを結成させた仕掛人はマルコム、そのデビュー・レコードのプロデューサーはクリス。この2人が『ハレンチ』を知らなかったってことは、ま、無いでしょうが…。
今までも何度か書かせていただいたように、同じ1965年に同じ京都で結成され、メンバーの大半が「戦争を知らない子供たち1歳児」の同じ学年(1946年~47年早生まれ)でもあったタイガースとフォークルは、全く別々の道をたどりながら1967年暮れにメジャーの土俵で相まみえることになった。そして、それからジャスト10年、どちらもグループ自体はもはや存在していなかったが、それぞれの(いわば)末裔が、「勝手にしやがれ」の旗の下、遥か英国を経由して交錯する。
…何ともわざとらしい話で、そんなの現実にはあり得ない、ですよね。
http://music-calendar.jp/2016062001
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ヤフオク★沢田研二★勝手にしやがれ【英語ver】♪ONE MAN AND A BAND♪★ドイツ・オリジナル7'★
開始日時:2018.01.28(日)22:50
終了日時:2018.01.31(水)22:49
開始価格:15,900 円
■沢田研二(KENJI SAWADA)
『IN THE CITY / ONE MAN AND A BAND (Katte ni shiyagare)』
※西ドイツ盤オリジナルレコード 1978年(Polydor International)
美品レア!西ドイツ・完全オリジナル盤!
「勝手にしやがれ」の激レア英語バージョン収録!
ジュリーファン/コレクターはもちろん和モノ好きも必聴!
沢田研二さんの数ある海外盤の中でも最も探されている激レア・シングル盤。 サビの高揚感がたまらないA面「IN THE CITY」(試聴2)も素晴らしい一曲なのですが、ここで注目すべきはやはりB面。「ONE MAN AND A BAND」(試聴1)があの「勝手にしやがれ」の英語バージョン(もちろん本人による歌唱です)ということで非常にマニア人気の高い一枚になります。
この英語バージョンは海外曲を集めた香港盤とこの盤のみに収録されたファン垂涎の激レア・バージョン。 出品盤からの試聴をご用意いたしましたので、以下のリンクよりどうぞお試しください!
【試聴】(↓をクリック→立上った画面中央青色のアドレスをもう一度クリック)
http://www.geocities.jp/glttn/sawada-onemann1.mp3
http://www.geocities.jp/glttn/sawada-onemann2.mp3
専門店ではかなりの高値がつく一枚です。今回の入荷品はこれまで何度か取り扱ってきた中でもトップコンディションで、40年の経年を考えれば美品クラスのレコードです。長らく探されていた方はもちろん、より良い状態のものへの買い替えを狙っていた方もどうぞこの機会をお見逃しなく。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/c638404115
音源◆♪ONE MAN AND A BAND♪https://youtu.be/qZFFu-fDa9s
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%89%8B%E3%81%AB%E3%81%97%E3%82%84%E3%81%8C%E3%82%8C_(%E6%B2%A2%E7%94%B0%E7%A0%94%E4%BA%8C%E3%81%AE%E6%9B%B2)