過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のMr.ブルース・リーの出来事と映画作品の公開日だヨ(=^◇^=)


 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『猛龍過江 THE WAY OF THE DRAGON』 ┃
 ┃『最後のブルース・リー ドラゴンへの道』┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛Mr.BRUCE LEE 主演映画作品第3弾!!!
‡1972(昭和47)年12月30日(土) 香港初公開 Startin’
 1973(昭和49)年01月24日(土) 香港  公開 The End.
 1974(昭和49)年09月11日(水) 東映は『THE WAY OF THE DRAGON』の配給を発表
 1975(昭和50)年01月25日(土) 日本初公開 配給・・・東映洋画部
 1977(昭和52)年04月06日(水) 日テレ 水曜ロードショー『出た!!ブルース・リーのドラゴンへの道』
 1977(昭和52)年04月11日(水) 日テレ 水曜ロードショー
 1984(昭和59)年02月27日(月) TBS 月曜ロードショー
 制作配給・・・嘉禾電影(ゴールデン・ハーベスト)
  映像◆キイハンター95話「俺は世界の賞金稼ぎ」http://video.fc2.com/content/20130123w9cwkcMN
   千葉が宿敵の死顔にハンカチをかけるところはドラゴンへの道であり洞窟での死闘はマサに燃えよドラゴンの源流ともいえるキー作品
  映像◆月曜ロードショー1984.02.27解説・CM  http://youtu.be/t1j6jHYIeys
   主題歌はマイク・レメディオス版です。次回予告で出てくる国産某映画は未だソフト化されていませんので、今となっては貴重だと思います。おまけとして、テープの端に残っていた水曜ロードショーのエンディング部分(次回予告:「スティング」)を付けています。
  コロッセウム映像◆日清 カップヌードル CM SURVIVE 「初めての合コン」篇  http://youtu.be/Y1s64F_AMzY
 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Way_of_the_Dragon

 映像◆中村頼永 師父 - ジークンドー - 03 - 『ドラゴンへの道』の技術  http://youtu.be/_i6NxVOdzJA
 
 映像◆Chuck Norris vs. Bruce Lee (April 12 on CNBC)  http://youtu.be/Mcl81ldNODc
 Chuck Norris tells Michael Eisner about his friendship with the kung fu master Bruce Lee. Who would win in a fight? Michael asks him! Watch the whole interview ●April 6th on CNBC. 9 pm ET/ 10PM PT
 
 Category:ローマを舞台とした映画作品
 http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%92%E8%88%9E%E5%8F%B0%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E6%98%A0%E7%94%BB%E4%BD%9C%E5%93%81
  ポスターサイズ!日本版劇場ロビーカード(未カット)『ドラゴンへの道』http://www.amazon.co.jp/dp/B00CQHPR8A
  The Way Of The Dragon : Back Alley Restaurant Fight  http://youtu.be/QcyKLHuKTtc
 チャック・ノリスはブルース・リーの実力を・・・あくまでも俳優だと述べています。
 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12106710692
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃『乱暴者 The WILD ONE あばれもの』┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡1953(昭和28)年12月30日(wed) N.Y.C released
 1954(昭和29)年02月25日(thu)  JP released
 1947(昭和22)年07月04日(fri) 独立記念日『ライフ』誌に掲載された、かなり誇張されたカリフォルニア州ホリスターであったバイカーの集会の記事と写真を元に、フランク・ルーニーが『The Cyclists' Raid』という短編小説を『ハーパーズ』誌に発表した。この作品の映画化権をコロムビア映画のスタンリー・クレイマーが買い取ったが、犯罪者の映画を撮ることへの反発もあり、低予算で撮られることになる。このため、全ての撮影は撮影所の中で行われ、映画の舞台はアメリカ中部の架空の街になっている。ホリスターの集会は、翌年のバイク集団の結成につながっていった。その反社会的な内容から、イギリスでは1968(昭和43)年まで公開を認められなかった
φhttps://www.uta-net.com/song/53808/
愛https://www.uta-net.com/song/41195/
 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Wild_One
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃『SGT PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND』┃
 ┃アルバム・カヴァーに登場しているのは誰?┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛STORIES
 2020(令和二)年05月30日(土)『discovermusic.jp』Published
 ザ・ビートルズの『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』は、史上最高にアイコニックなアルバム・ジャケットの座をいまだ維持し続けている。ポール・マッカートニーの着想から、イギリスのポップ・アーティスト、ピーター・ブレイクと妻のジャン・ハワースによる最終デザインに至るまで、これは単なるアルバム・ジャケットの枠を超えている。当時を象徴する見事なモダン・アート作品なのだ。このアートワークは、当時としては画期的なデザインだった。また、制作費用が3,000ポンド(現在では5万ポンド以上に相当する)と破格で、当時のポップ・アルバムのジャケットでは最高額である。コンセプトは、ザ・ビートルズが「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に扮して登場し、今ちょうどコンサートを終えたところで影響力の大きな人々の集団に囲まれている、というものだ。合計58人が、最終版のアートワークに登場している。ジャケットに登場した人々は、ジョン、ポール、ジョージ、ピーター・ブレイク、ジャン・ハワース、そしてロンドンの美術品商、ロバート・フレイザーが共同で作ったリストから選ばれた。イエス・キリストとアドルフ・ヒトラーは、掲載には不適切とされ、マハトマ・ガンジーやレオ・ゴーシーといった人々は、別の理由で削除された。また、エルヴィス・プレスリーの顔がないのも気になるが、これはポール・マッカートニーが後年語っているが、「あまりに重要で、雲の上の存在すぎて、口にするだけでも畏れ多い存在」だったからだという。最終ヴァージョンに残った人々は、文化人や重要人物、さらにはザ・ビートルズのメンバーが関心を持つ人々が並ぶ魅惑的な顔ぶれだ。「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」の歌詞のように、「皆さんも長年、このバンドのことは知っているだろう。それでは、『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』のジャケットに掲載されている残りの人々を皆さんに紹介しよう……」
 ┌─――――――――┐Third row <三行目>
39| Marlon Brando |『Wikipedia』
39|マーロン・ブランド|『discovermusic.jp』
 └─――――――――┘ 1953(昭和28)年の映画『乱暴者 The Wild One』で、ジョニー・ステイブラーという伝説的な役柄を演じたマーロン・ブランドは、ロックン・ロールを生み出した世代に募る欲求不満を見事に表現した。史上最高の名優のひとりとして称賛されている。なお、『乱暴者』でブランドと敵対する暴走族が、ザ・ビートルズとほぼ同名(The Beetles)も注目に値するヨ(=^◇^=)
 1924(大正13)年04月03日(thu) Born
 2004(平成16)年07月01日(thu) Died. 80 years old
***************************************
 https://sgtpepper.udiscovermusic.com/
 https://en.wikipedia.org/wiki/Marlon_Brando
 https://www.udiscovermusic.jp/stories/whos-who-on-the-sgt-peppers-album-cover
 https://www.udiscovermusic.com/stories/whos-who-on-the-beatles-sgt-peppers-lonely-hearts-club-band-album-cover/
 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_images_on_the_cover_of_Sgt._Pepper%27s_Lonely_Hearts_Club_Band
***************************************

 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『THE LOST WEEKEND 失われた週末』 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 1945(昭和20)年11月16日(fri) US released ※wiki Japanese
 1945(昭和20)年11月29日(thu) US released ※wiki English
‡1947(昭和22)年12月30日(tue) JP released
 1977(昭和52)年02月07日(mon)『月曜ビッグスクリーン』テレビ神奈川
 amazon・・・ドン・バーナムは33歳、大学時代から小説家になるつもりで、中途退学してニューヨークに飛び出してきたのだが、学窓の天才も世に出てはいっこうに小説が売れない。書けなくなってきて、焦慮をまぎらそうと一杯の酒を飲んだのが諸悪の始まりで、どうやらアルコール中毒になってしまい...
 https://www.amazon.co.jp/dp/B08HQGY9JD
 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Lost_Weekend_(novel)
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%B1%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F%E9%80%B1%E6%9C%AB
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『The Bruce Lee Library vol.① Words of the Dragon Interviews. 1958~1973』  ┃ John Little
 ┃       『李小龍大全 vol.① ドラゴンかく語りき インタヴュー[1958~1973]』 ┃ジョン・リトル編
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┌─――――――――――――┐ 第2部:カトー時代(1965~1967) P.79~82
 |1966(昭和41)年12月30日(金)|『シアトル・ポスト・インテリジェンサー』――ジョン・オーウェン
 └─――――――――――――┘「ブンブンいってたのはなに?」
  P.79:さらに見物だったのが、ロン・シンというものひとりのグンフー使いとのあいだでくり広げられた闘いだ[注48]。「ああ、あれは大した闘いだった。ひたいにちょっとひっかき傷ができたけど、最後にはぼくが勝ったヨ(=^◇^=)」エディ・コットンと異なり、ブルースは審判の宣告を待つ必要はなかった。「殺しちゃったんだ」とカトーは、恥ずかしそうに説明する。ボクシングの世界でこれは、ユナニマス・ディシジョンと呼ばれている。
  [注48]「火を吐く空手(The Praying Mantis)」と題された『グリーン・ホーネット』のエピソードより。グンフーをテーマにしたこのストーリーで、ブルース・リーは存分に自分のアートを見せつけることができた。ロン・シンの役は、ヴェテラン俳優のマコ岩松が演じた(ただしグンフーの格闘シーンでは、ブルース・リーの実生活での弟子、ダニー・イノサントが代役を務めた)。
******************************** http://www.bruceleejkd.com/
 http://www.amazon.co.jp/dp/4789713342 http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=55555
 http://www.takeboh.com/lee/lee.html http://en.wikipedia.org/wiki/Bruce_Lee 
************************************************************

 Dean Martin Bruce Lee THE WRECKING CREW http://youtu.be/u61AT6BzRys
 ┏━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『The Wrecking Crew』 ┃
 ┃ 『サイレンサー破壊部隊』 ┃
 ┃  『風流特務勇破迷魂陣』  ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛アメリカ・コロムビア映画作品
 1968(昭和43)年07月05日(金) Mr.ブルース・リー、アクション(武術)指導を担当した日
 1968(昭和43)年12月25日(水) カナダ『The Wrecking Crew』
‡1968(昭和43)年12月30日(月) 米国『The Wrecking Crew』
 1969(昭和44)年04月08日(火) 日本『サイレンサー破壊部隊』
 1969(昭和44)年02月27日(木) 香港『風流特務勇破迷魂陣』上映 START
 1969(昭和44)年03月12日(水) 香港『風流特務勇破迷魂陣』上映THE END
 1976(昭和51)年01月07日(水)『水曜ロードショー』
 1990(平成二)年09月21日(金) VHS日本発売 RCAコロンビア・ピクチャーズ・インターナショナル・ビデオ
 2005(平成17)年11月23日(水) DVD日本発売 ソニー・ピクチャーズ  
  備考・・・チャック・ノリス出演(端役)、アクション・シーン振り付け(Mr.ブルース・リーと共同)※ノンクレジット 
 amazon・・・デンマークで10億ドルの金塊を積んだ列車が強奪された!世界の経済破綻の危機を回避すべく、ICEはただちにマット・ヘルムをコペンハーゲンに送り込む。制限時間は到着から48時間ー。自らを旅行案内係と称するフレヤと共に黒幕を暴き出すが、敵も手強い二人の美人暗殺者を放ってきた。果たしてマットは無事に金塊を取り戻すことができるのか!?
 https://www.amazon.co.jp/dp/B00FW65QH4
 http://en.wikipedia.org/wiki/The_Wrecking_Crew_(1969_film)
 http://ameblo.jp/godzilla-lennon-lee/entry-10159894996.html
 写真◆http://blog.livedoor.jp/yamamotoryuji819-yamamotoryuji819/archives/65684909.html

 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ Mr.ブルース・リーの生涯 世界への雄飛 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┌─――――――――――――┐・この年、イップ・マン師、盟友ジェームズ・リー他界
 |1972(昭和47)年12月30日(土)|『ドラゴンへの道』公開。さらに記録を塗り変える大ヒット
 └─――――――――――――┘・『燃えよドラゴン(龍争虎闘/Enter the Dragon)』の契約を結ぶ。英語タイトルは、企画段階では「Blood and Steel」、その後「Han's Island」になったが、クランク・アップ後、ブルース・リー師祖の主張で最終的に『Enter the Dragon』と決定した。
**************** http://www.bruceleejkd.com/
 http://www.bruceleejkd.com/aboutjkd/blbio3
 http://en.wikipedia.org/wiki/Bruce_Lee
 http://www.takeboh.com/lee/lee.html
********************************************
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ Mr.BRUCE LEEの過去の今日の出来事 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┌─――――――――――――┐
 |1972(昭和47)年12月 1日(金)| 葉問師匠死去。李小龍は仮通夜に参列
 |1972(昭和47)年12月28日(木)| 友人ジェームズ・リー 『炭肺症』で死去
‡|1972(昭和47)年12月30日(土)|『ドラゴンへの道』香港公開またもや前2作を上回る史上最高記録を樹立
 |1972(昭和47)年12月?日(?)| 過労のために倒れ、一ヶ月間自宅療養
 └─――――――――――――┘
************************ http://www.takeboh.com/lee/lee.html
 http://ameblo.jp/gonsuke77/entry-10530910383.html
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC
************************************************************
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『ブルース・リー・メモリアル(The Bruce Lee Memorial)』 ┃著:リンダ・リー他
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛訳:柴田京子
 ┌─――――――――――――┐ キネマ旬報社 定価:本体2000円+税
 |1972(昭和47)年12月30日(土)|P.119 
 └─――――――――――――┘一九七二年十二月三十日、ブルースはロスアンジェルスのある友人に香港から直接電話をかけてきて、ジェイムズ・リーの死を知らせた。ブルースはほんとうに心をとり乱し、話すこともできなかった
************************** http://www.bruceleejkd.com/
 http://www.amazon.co.jp/dp/4873760925 http://ameblo.jp/storongest3-sabaki9/
 http://ameblo.jp/storongest3-sabaki9/ http://en.wikipedia.org/wiki/Bruce_Lee
******************************************************

 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『THE LOST WEEKEND“失われた週末”』 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┌─――――――――――――┐
 |1945(昭和20)年11月16日(金)|アメリカ 公開
‡|1947(昭和22)年12月30日(火)|日  本 公開
 └─――――――――――――┘
************************************************************
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%B1%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F%E9%80%B1%E6%9C%AB
************************************************************
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『007 ダイヤモンドは永遠に “Diamonds Are Forever”』 ┃第07作
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┌─――――――――――――┐主演・・・ショーン・コネリー
 |1971(昭和46)年12月14日(火)|西ドイツ 公開
‡|1971(昭和46)年12月30日(木)|イギリス 公開(プレミア)
 |1971(昭和46)年12月25日(土)|日  本 公開
 └─――――――――――――┘監督・・・ガイ・ハミルトン 
**********************************************************
 http://ja.wikipedia.org/wiki/007_%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AF%E6%B0%B8%E9%81%A0%E3%81%AB
 http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=7101 1990
**********************************************************

ブルース・リー カフェの思い出
  1998(平成十)年12月28日(月)から31日(木)にかけて、私は大変思いで深い旅行を体験しました。女ばかり5人のキャピキャピ旅。2003年現在、その内の2名が既婚者となりましたが、まだその時点では全員独身でした。気のおけない仲間というだけでなく、英語がペラペラな才女や、学生時代から海外旅行に親しんでいるメンバーが多かったため、私の立場もとても楽なものとなりました。そして何と言っても、この旅行の初日は私の30回目の誕生日!こんな人生の節目を素晴らしい仲間に囲まれ、愛する香港で迎えられたなんて、私は何という幸せ者でしょう!
  メンバー其々がなかなかの行動派であったため、3日めともなると趣味の合うメンバー同志が2~3組に分かれ、各自好きな所へと出向いてゆきました。
  12月30日(水)。香港アイドルの追っかけに出発した1名を除いた4人は、午前中香港仔(アバディーン)へ出かけ、小船のサンパンに乗って 燃えよドラゴンごっこ を楽しみました。映画を観ていないメンバーも周りの雰囲気と、初めて見る水上生活者たちに興味津々。私自身も、船の舳先でリー先生と同じポーズをとったりして大はしゃぎ。
  午後は一旦中環(セントラル)に戻り、各自行きたい所へ向かうべく2手に分かれました。私のグループは3人。前から行きたい行きたいと思っていた ブルース・リー・カフェ に向かいます。
  ブルース・リー・カフェは、世界一長いエスカレーター、ヒルサイド・エスカレーターを、上って上って 『もう、いい加減にしてくれ!』 と思った辺りにある摩羅廟街(モスク・ストリート)に建っています。
  ワクワクドキドキしながら坂を上って行くと、Bruce Lee Cafe と書かれた看板が見えてきました。「ウキョ~ッ!ここだここだ!」 とひとり大興奮の私を他の2人がニコやかに撮影。でもここはお店の裏門であることに、はたと気がつきました。さらに坂を上り表の看板を目にした時の感動といったら、そりゃあもう大変なものでした。黒い看板に、先ほど見た文字よりずっと大きい Bruce Lee Cafe と書かれたその建物は、私の瞳に恋の手錠をかけました。

ブルースリー・カフェ前にて 
 中を覗くと、満席という訳ではありませんでしたが、すでに何組かのお客さんで賑わっています。我々3人も、写真撮影を済ませて早速中へ。おずおずと入って行くと、お店の男性が我々を入り口近くの席へ案内してくれました。テーブルの上には、ファンにはたまらない程イケてるランチョン・シート!

ランチョン・シート(左端は百円ライター)  それは、「ドラゴン怒りの鉄拳」 の1シーンがアップになっているものの周りに、他の主演作の写真が映画のフィルムのような形で描かれた傑作。「うわ~!絶対汚せねぇ~」と、緊張しながら食事したのは言うまでもありません。
  メニューは、カフェというだけあって全てが西洋風で、ハンバーガーなどが中心でした。ボリュームもアメリカン・サイズで、日本人女性がひとりで全部平らげるのはなかなか困難。日頃大食の私でも結構ギリギリの量でした。飲み物がまた洒落ていて、カクテルには其々 「Enter The Dragon」 とか、「Fist Of Fury」 など、リー先生主演作の名前がつけられていて、お酒の飲めない私をちょっぴり嫉妬させました。
お店の1階部分が食事スペースとなっていて、リー先生のプライベート写真や映画のポスターなどがズラリ。地下に下りる階段の目の前には 「死亡遊戯」 でリー先生が実際に着ていたと思われるトラックスーツがドドン!階段の手摺り横にも写真がびっしり。
地下に下りると、そこはブルース・リー・ミュージアム兼バーになっており、「もう、どうにでもしてっ!」 と、服を脱ぎだしたくなるほど素晴らしい空間。『あ~~~、死ぬ程幸せってこういうことなのね~』 と、目を潤ませお茶をすすっていると、突然我々のテーブルに白い人影が。
「お味はいかがですか?」 と英語で話し掛けてきたその紳士と目が合った途端、私ゃ腰を抜かしちまいました!だってそれは、「ドラゴンへの道」 でリー先生に往復ビンタを食らわしていた ジョン・ベン氏 だったんですもの。
そう! このブルース・リー・カフェ、このジョン・ベン氏がオーナーとなって開いたお店なんです。私は彼の正体を知っていたのでガチガチでしたが、他の2人にとっては単なるお店の人。大学の英文科を卒業した友人が、「とても素晴らしく大満足です」 と答えると、「それはよかった」 とジョン氏もニコニコ。ここで私が2人に、「この人はここのオーナーで、リー先生の共演者なの」 と告げると、初めて驚きの反応を見せました。
するとジョン氏が、「3人のお名前を教えて下さい。ポスターに私のサインを入れて差し上げましょう」 と、信じられないお言葉を掛けてくれました!ドキドキしながら 「マイ・ネーム・イズ megumi。M.E.G.U.M.I.」 と伝えると、ジョン氏はそれを一生懸命復唱しながらポスターにサインしてくれました。

そのポスター ← そのポスター(新聞紙大)と↓手のひら部分、サインのアップ アップ 
他の2人も、この思いがけないプレゼントに心からの笑顔。「サンキュー・ベリー・マッチ」 を何度も繰り返しジョン氏と握手。ジョン氏が地下のミュージアムに戻ってからも、その興奮はしばらく収まりませんでした。
お茶もすっかり飲み終え、最後に地下のミュージアムをもう一度覗いていこうと席を立った時、他の2人共がランチョン・シートを汚さないでいてくれた事に気が付きました。「はい、これで3枚手に入りましたね」 と手渡してくれた彼女達。『女の友情も深いぜ』 としみじみ感じた瞬間でした。
地下に下りてみると、ジョン氏がスタッフ数人と飾り付けなどの打ち合わせをしているところでした。するとジョン氏、私を見つけ、そのスタッフ達に向かって「彼女は今日の僕のガールフレンドさ」と叫ぶと、また私達の方に歩いて来てくれました。そして近くにあった 「ドラゴンへの道」 のポスターを指差し、「僕はこれに出ているんだよ」 と言いました。私がつたない英語で、「もちろん知っていますとも。私はブルースの大ファンですからね、あなたがやったことも知ってます。」 と言ってパンパンと往復ビンタをする真似をすると、彼は 「そうそう」 と嬉しそうに笑いました。

ジョン・ベン氏と田野恵 
その後、2000年10月と2001年3月にもブルース・リー・カフェを訪れたのですが、看板の色が黒から赤に変わっていただけでなく、お客さんも明らかに減っていて、あの頃の活気は全くありませんでした。もちろんジョン氏の姿もなく、従業員は何故かインド人になっていました。
そしてとうとう2001年5月、ブルース・リー・カフェはその姿を消しました。こんなに素敵な思い出がつまった場所がなくなってしまったのは本当に残念ですが、きっと又いつか香港のどこかでブルース・リー・カフェが復活してくれると私は信じています。そして又ジョン氏にこう言ってもらうのです。「彼女は今日の僕のガールフレンドさ」と。

その後のブルース・リー カフェ 
こちらが2003年4月のブルース・リー・カフェあと。違うレストランの看板に変わっています。 
http://www.h4.dion.ne.jp/~b3k/9ron/otakara/frame.htm

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「日記」カテゴリーもっと見る