ON THE ROAD 86 ”I’m a J.BOY”
2008/5/8(木) 午後 10:09 浜田省吾資料館 練習用
ON THE ROAD 86のツアーパンフです。もう22年も前になりましたね。この中にとても気になる、心に残る文章があります。
父さん、昨夜夢を見たよ。
家族が昔のように一緒に暮らしている夢だ。
夢の中では、兄弟3人にひとつずつ部屋があるんだ。
その家を持つことが出来て、父さんはとても得意げだったよ。
16歳の時から働きはじめた父さんの夢といったら、
おれ達の為に家を建てることだったものね。
おれ達いつも転勤の度に借りたちっぽけなアパート暮らしで、
重なるみたいにして暮らしてたものね。
65才の時、やっと田舎に小さな家を持つことが出来たけど、
その時はもう皆ばらばらだった。
病気のお袋の世話もその年でするのは大変だっただろう。
それ以上にお袋も辛かっただろう。
時々、男と女そして夫婦って何だろうと思うよ。
若い頃のおれといったら
”親父と同じような人生は送りたくない”が口癖のようだった。
金や美しい女や自由を追いかけて、ROCK&ROOLのバンドをはじめた。
そして今も九州の高速道路をツアーバスに揺られて走っている。
おれは、33才になった。
父さんがあの苦しい時代を生き抜き、
おれ達子供を育てたことがどういうことなのかわかるようになった。
父さん、何も心配しなくていいよ。
子供たちはうまくやってゆく。
父さんたちに負けないようにね。
このON THE ROAD 86、J.BOYツアーは86年の9月にスタートしました。
そして翌87年4月6日まで続いた。すでに闘病生活を送っていた父さんは、このツアーが終わるのを待っていたかのように、
87年4月30日に死去。この文章の中に、のちの曲に繋がっていくような言葉や想いが詰まっているような気がします。かなりグッとくるものです。当時、高校生だった自分にも心に響いたくらいですからね。
https://blogs.yahoo.co.jp/maeda_51311/31535342.html
大阪城ホール/1987.2.3 open5:00pm/start6:00pm S-¥3800
1987.2.3 大阪城ホール二日目 ⇒ 今、考えて、なぜ歌ったのかと思うと、なんだか俺は世の中にものすごい貸しがあるような気がしてたんだね。二十歳くらいの時。親父の人生も含めてすっごい貸しがあるから、俺はその貸しを返してもらうんだ、っていう気分で結構その…怒りみたいな気持ちもあったしねぇ。で、最近はなんだか世の中に借りができてしまったなぁ・・・と。今度は借りを返すために音楽をやっているような気がする。で、前回のツアーで大阪の大阪城ホールっていうところで、2日間。すごい大きなホールでね、超満員ですっごい嬉しかったんだけどコンサートのお客さんも良くて・・・。2日目の夜♪遠くへ♪っていう歌を歌う前にふっと、「なんだか俺って、親父の人生の借りを返してるみたいだなぁ。敵討ちしてるみたいだな人生だなぁ」と思った・・・。ちょうどその時親父は癌でね、つい2、3ヶ月前に亡くなっちゃったんだけど、まだその時は生きてて、ベッドで、一番痛みが酷くて苦しんでる時で、まぁいろんな事がステージの上でふっと思い出されてね。「俺って親父の敵をとってるような人生だなぁ」なんて思った・・・。だけど最近ふと思うんだけど、親父は子供達を育てて、立派な人生を送ったなぁ・・・。それに比べてなんか俺の人生ってなんか・・・どうだったのかなぁ・・・。借りばっかりみんなにできてしまったなぁ・・・、これからローンで少しずつみんなに借りを返していこうかなぁ、みたいなことを今は思いながら、ちょうど今、アルバムの曲作りなんかをしてます。
1986(昭和61)年[33歳] M14.♪J.BOY♪ http://www8.big.or.jp/~most/bbs/nfm13.html
浜田省吾 ON THE ROAD '86 "I'm a J.BOY"大阪城ホール 1987.2.3 [風雲音楽帖]
初めて行ったコンサートは誰のコンサートだったのだろう? もう、数え切れないほど行ったコンサートだが、未だに忘れられないコンサートがある。今週は、そんなコンサートのレポートをこのブログで紹介しようと思う。
第1回目は、1987年2月3日、大阪城ホールで観た「SHOGO HAMADA ON THE ROAD '86 "I'm a J.BOY"」僕が浜田省吾にのめりこんだのは、故郷の広島を離れて大阪で暮していた時代…。ちょうど、「J.BOY」というアルバムが発表されて、人気が急上昇したときです。すでに二十歳を過ぎていましたから、かなり遅れて来たファンといえます。十代の頃、例えば初めての武道館公演、ライヴ・アルバムの録音へ向けての地元・広島の盛り上りは、ものすごいものがありましたから、当然、浜田省吾のことは知っていました。でも、まわりのみんなが盛り上っているのが、何かしら気に入らなくて、「そんなにすごいか?」と、妙な反発心があったのです。さらに決定的だったのは、当時、アマチュア・バンドをやっていたのですが、あるコンテストに出場したとき、審査員に浜田省吾が来ていて、若くて“根拠の無い自信”だけは満々だった私たちは、「浜田にええとこみせちゃろう!」くらいの気持ちでいたのですが、演奏はへろへろで、当然のように落選…。やりばのない苛立ちが、「もう、浜田なんか絶対聞かん!」という屈折した方向へいったわけです。でも、「J.BOY」というアルバムは本当にすごかった。1曲目の「A NEW STYLE WAR」から、ラストの「滑走路」まで、それこそ“レコードが(すでにCDでしたが)擦り切れるまで”聞きこみました。例のコンテストの件も、「浜田省吾と同じステージで歌った」と、みんなに自慢したりするようになっていました。故郷を離れて、はじめて故郷の良さを知る…という部分もあったでしょうし、二十歳を過ぎてやっと、「よいものはよい」といえるようになったのでしょう。1曲目のイントロがスタートすると、「SHOW ME YOUR WAY SHOGO HAMADA & THE FUSE ON THE ROAD '86 I'm a J.BOY」とかかれた緞帳が落とされ、浜田省吾をはじめメンバーが登場!
1.A NEW STYLE WAR
2.HELLO ROCK&ROLL CITY 当然、♪HELLO OSAKA CITY~。エンディングでは「やぁ、OSAKA CITY。今夜は気分はどうだい?HEY! 気分はどうだい?(イェーイの声に)俺たちも…」
3.DANCE「やぁ、ひさしぶり。えー1年6ヶ月ぶりに、今年も大阪に帰って来れて、そして、こんなにたくさんの人が集まってくれて、本当に俺たち、嬉しく思っています。コンサートに来てくれて、どうもありがとう!今夜は久しぶりということもあって、あの、すごいゆったりとしたステージにしたいと思うんで、みんなもそれぞれ、自由に、他の人のコンサートでは、どうか知らないけど、とにかく俺のステージでは、みんな自由に、自分の個性と、年齢と、体力に合わせた、楽しみ方をしてほしい。最後までよろしく!」「去年出したアルバムなんだけど、「J.BOY」というアルバムはもう聞いてくれた?えー、プロのミュージシャンになって、12年から3年目にはいるとこで、ソロになって10年なんだけど、初めてチャートでNo.1のアルバムになって、もう、あまりそういうことにこだわらなくなったところもあるんだけど、やっぱり、1位っていうのは嬉しいもんで、えー、ずいぶんアルバムが出て、時間が経つんだけど、あらためて今夜みんなに、ありがとうといいたい…。えー、あのアルバムは去年、バンドのFUSEといっしょに、レコーディングして、夏にはロサンゼルスでトラックダウンして、向こうに行ったときに、えー、フォードのムスタングのコンバーチブル…オープンカーを借りて、あちこち行って、例えば、サンフランシスコ行ったり、サンディエゴ・フリーウエイに乗って、メキシコ行ったり、すごいおんぼろのムスタングで、カーステレオもついてなくて、ハンドルはすごい甘くて、ブレーキには全然遊びが無いっていう、ひどい車だったんだけど、長く乗っているとそれなりに愛着も出てきて…。いろんな街へ行くとき、自分の持ってった、小さなカセットデッキで、よくこんな歌を聴いてた…」
4.YOUR BABY BRIGHT BLUES~AMERICA
5.A RICH MAN'S GIRL
6.想い出のファイヤー・ストーム 曲のエンディングで…「大阪ハイスクール・ベースボール・ゲーム!今日の試合のスターティング・ラインナップを発表します。1番、ドラムス、高橋信之!4番、ピッチャー、浜田省吾!」曲が終わって…「今年、阪神はどうかな?今のフォームは、いちおう山田のまねだったんだけどわかったかな…。さて、俺のチームのもう一人のクリーンナップを打つスラッガー!サキソフォーン、古村敏比古!」
7.晩夏の鐘
8.悲しみの岸辺
9.もうひとつの土曜日
10.勝利への道
11.路地裏の少年「どうもありがとう! ここで10分間、短い、えー、休憩をとりたい。えー、今夜は少しね、あの、長いステージになるんで、みんなも休んでほしい。ロビーへ行ってもいいし、そこで座って友だちと話してもいいし、えー、とにかくゆったりしていてほしい。すぐ帰ってくるから…」
休憩
12.STAND BY ME~反抗期「ヘイ、この歌知ってるかい? いっしょに歌えるかい?」
13.MAINSTREET
14.MONEY
15.DADDY'S TOWN「ねェ、今日、10代ってどのくらいいる? じゃ、20代は? じゃ、遠慮がちに30代は?まぁ、30代のお兄さんお姉さんがねェ、10代のみんなが、ワーッと盛りあがってる横で、座ってやってても、あんまり気にしないように…。彼らだってすぐ、生まれてすぐ30になったわけじゃないんだから…。もちろん、俺にだって10代のときはあったし、11のときもあったし…。俺は10代のときは、高校生んとき野球部だったから、丸坊主でねェ、丸坊主でホンダのスーパーカブに乗って、レッド・ツェッペリンを聞いてるという、おかしなロック少年だったんだけど、みんな…、いずれ…。(イントロが始まって)19歳の子っているかい? …この歌を、贈ろう…」
16.19のままさ「さっき、言いかけてやめたことなんだけど…、まぁ、なんか、すごくえらっそうになるからね。おまえはそんなに人生を達観しているのかって言われるといやだから…。あのー、最近思うんだけど、例えばいつまでも10代のままじゃいられないじゃない?誰でも年老いていくし、誰もが、あの、豊かなわけじゃない。人によっては貧しい人もいるし…、だけど基本的に人生って、幸福で幸せなんだなぁ…。そん中に、すごく大きな幸せん中に、年老いていったり、貧しかったり、いろんな悲しみが一杯あるんだなぁ…なんて、ふと、思ったりするときがあるんだけど…。えー、二十歳の頃の俺といったら、まだ、音楽はただ聞くだけで、まさか自分がミュージシャンになれるなんて思ったこともなくて、1年広島で浪人して、横浜の大学に行って、で、自分の描いてた大学生活って、例えば「いちご白書」ん中の、リンダみたいな女の子や、「ラヴ・ストーリー」ん中のジェニファーみたいなガールフレンドができて、それから自分は、新聞記者になりたかったから、新聞記者目指して、えー、一生懸命勉強するんだろうな…って思ってた…。ところが、俺が大学に行った頃っていうのは、1970年代、ほんとに初めの頃で、ちょうど、60年代後半に盛りあがった学生運動が、悲惨な形を迎えて、みんなも知ってるかもしれないけど、それがセクトの争いに変わる時代で…、俺の行った大学はそん中でも、特にひどい学生運動のあった大学で、1年のうち半分は、学校側によってロックアウトされてて、そして半分は学生たちがストライキして封鎖してたから、授業に出るも、ガールフレンドができるも、そんなことはまったく無くて、ひたすらアルバイトするか、もしくは部室でタイコ叩いてるか…、そんなことしかなかった。で、親父はもうその年、定年退職だったから、まぁ、このまま無駄に親の金を使ってもしょうがないなぁと思って、もう、大学やめてしまおうかと迷ってた頃…。それがちょうど大学2年生の秋だった…、10月20日の夜で、その日、俺は大学の前のアパートに住んでたんだけど、夜の11時ごろ、大騒ぎがするので外にでてみた、そして学校の方に行ってみた。白いヘルメットや、青いヘルメットや、自分と同じような年頃の、若いヤツらが、夜の11時から、朝の7時まで、延々、1つの教室をめぐって…、闘ってる。その、その抗争っていうか、その争いで、3人の学生が死んで、26名の重傷者が出て、あと怪我をした人は、数知れない。そして、今でも、植物人間のように、ずっと病院に入ったままの人もいる。それで、おれは、その次の日に、大学を辞める決心をした。みんなには少し、なじみの薄い話かもしれないけど、それが自分の20歳の頃の話で、今でも心に残ってる。あの時代に、俺たちが何を学んだのか、そして、あれからあとの世代が、そっからどんなふうに成長したのか、今でもわからない…。ただ、残ったのは、二十歳の頃作った、こんな歌…」
17.遠くへ~1973年・春・20歳
18.八月の歌
19.マイホームタウン
20.BIG BOY BLUES「俺たち、何度も同じような失敗をして、成長してきたはずなのに、いつも、また同じような過ちを繰り返す…。俺にせよ、この国にせよ、かつて何度もチャンスがあった。そう、胸を張って、志を高く持って、進むべき道もあったのに…、見失ってしまう…。いったい、何処にたどり着こうとしてるのか? ほんとにわかってるのか?J.BOY…」
21.J.BOY「Thank you J.BOYS…。Thank you J.GIRLS…。今夜はどうもありがとう!」
アンコールⅠ
「今夜は本当にありがとう、おおきに!」
1.SWEET&SOUR MEDLEY~メンバー紹介「ドラムス、高橋信之! ベース、江沢宏明! ギター、町支寛ニ!いっしょに踊ってくれるかい? シンセサイザー、ドクター、梁邦彦!ピアノ、シンセサイザー、板倉雅一! パーカッション、そしてサキソフォーン、古村敏比古!サキソフォーン、中村治! トロンボーン、清岡太郎!最後に、トランペット、小林正弘!フューズ&J・ホーンズ…もう一度大きな拍手を!いっしょに歌ってくれるかい? 聞こえないよ。そろそろ疲れたかい? 帰りの時間が気になるかい? それともデートの相手が気になるかい?それとも親父サンとおふくろサンが早く帰って来いって、おこってるのかな?まだ元気あるかい? もう1曲いくかい?さて、今夜、最終のロックンロール・トレインが出ます。みんなご乗車願います。次は、広島。プラットホームの皆さん、全員ご乗車願います。次の駅は、岡山。最終列車が入ってきます。プラットホームの皆さん、この列車に乗ってくれますか?次の駅は、姫路。全員ご乗車願います。最終列車が出ます。次の駅は、神戸。全員、一人残らず、ご乗車願います。これが終電車です。みんな一人残らず、この列車に乗ってくれるかい?次の駅は…(「大阪!」)。次は? (「大阪!」)最終列車がきます。大阪の皆さん、一人残らずご乗車願います!」
2.~土曜の夜と日曜の朝「どうもありがとう!」
アンコールⅡ「どうもありがとう! えー、改めて言うのもなんなんだけど、初めて大阪で歌を唄ったのは、もう、10年ぐらい前かな…。えー、しーんとしないでくれる?みなみでねぇ、喫茶店、小さな喫茶店で唄った…。そのあと、厚生年金の小ホールとか、いろんな場所で唄わしてもらって、今回初めて、大阪でいちばん大きな、大阪城ホールでやることんなって、(拍手)こんなにたくさんの人が集まってくれて、本当に、幸せモンです…。また、必ず、大阪に帰ってこようと思ってます。そのときに、会えるのを楽しみにしてます。それまでみんな元気で、がんばって…」
1.こんな夜はI MISS YOU
2.SWEET LITTLE DARLIN'
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378 : 1987(昭和62)年2月3日(火) 大阪城ホール No.①
2017/02/03(金) 17:03:13.90 ID:zJoKcfRf
379 : 1987(昭和62)年2月3日(火) 大阪城ホール No.②
2017/02/03(金) 17:04:17.23 ID:zJoKcfRf
380 : 1987(昭和62)年2月3日(火) 大阪城ホール No.③
2017/02/03(金) 17:05:21.68 ID:zJoKcfRf
381 : 1987(昭和62)年2月3日(火) 大阪城ホール No.④
2017/02/03(金) 17:07:05.24 ID:zJoKcfRf
382 : 1987(昭和62)年2月3日(火) 大阪城ホール No.⑤
2017/02/03(金) 17:07:40.04 ID:zJoKcfRf
451 : NO MUSIC NO NAME
2017/02/04(土) 02:10:09.38 ID:svaPvfmM
はぁ。J.BOY大阪城ホールのMC全部読んだ。
かっけー。
すげーな、浜田省吾33歳。感動した。
なんでJ.BOY DVDにMC収録しなかったんだ。こんなに良いのに勿体ない。
455 : NO MUSIC NO NAME
2017/02/04(土) 07:31:03.56 ID:syw65g7F
>>451
あの話は何度か見聞きしたことがあるけど。改めて読むと本当にかっこいい・・・。
省吾 すげえ。
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/musicjm/1484917179/
┏━━━━━━━┓
┃ 烏丸せつこ ┃1955(昭和30)年2月3日(木) 生誕
┗━━━━━━━┛https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E4%B8%B8%E3%81%9B%E3%81%A4%E3%81%93
浜田省吾の番外編という感じになるかも知れませんが‥。浜省が、アルバム「愛の世代の前に」でブレイクした後、女優・烏丸せつこさんの為に曲を提供した事がありました。(最近の若い人は、「烏丸せつこ」さんと言っても、ピンと来ないかも?)烏丸せつこさんのアルバム「Kiss Me」のA面の一曲目「Rock'n Roll Doll」とB面の最後の曲「バラード」の二曲は、作詞作曲:浜田省吾とクレジットされています。当時、烏丸せつこさんがDJをしていたNHK-FMの「サウンドストリート」(月曜の夜でしたっけ?)で、省吾をゲストに招き、番組の中でこの二曲を放送していたのを覚えています。省吾も、相手が若くて綺麗な女優さんだったので、結構ウキウキしながら出演?しており、「ハウスハウスフィッシュフィッシュの浜田省吾です」等と挨拶していました。烏丸さんが「ハウスハウス‥(何それ)?」省吾「いぇいいぇいうぉううぉう(家家魚魚)(笑)」もう、出だしから乗り乗りの省吾(笑)その後、省吾がDJをしてた番組「君が人生の時」(でしたっけ?)にも、烏丸せつこさんをゲストとして招くなど、更にテンションを高める省吾。確か、二人が女性週刊誌にもゴシップとして取り上げられた事があった様な‥。ちなみに、このアルバムからは、「Jinx(ジンクス)」という曲がシングルカットされ、それなりに売れた様ですが、これが浜省の作った曲なら、もっと売れてたと思います。当時は金が無くて(今もですが)、このアルバムを買う金は無かったのですが、その後、中古レコードとして発見!確か300円だったので、喜び勇んで買いました。しかし、レコードなので、今となっては聴く事が出来ないのであります「Rock'n Roll Doll」はアップテンポな曲で、サビの部分は♪♪Walking In The Rain」に似ている様な気がします。「バラード」は、文字通り、しっとりとしたバラードです(笑)久し振りに聴いてみたいんですけどね~。
♪Rock'n Roll Doll♪
9時の電車で 人ゴミにもまれて
仕事へ出掛けてゆく
20才過ぎるまで 私もまた挫折とは
ただの言葉のひとつだったわ
誰もが勝つことを信じて
ゲームを続ける 心すり減らして
負けてもいいのよ 恥じることなんてない
失うものは 何ひとつ無い
安っぽいロマンスは いくらでも
手に入るけど 愛が見つからない
泣いてもいいのよ 恥じることなんてない
私もひとり 何度も泣いたわ
泣いてもいいのよ 恥じることなんてない
私もひとり 何度か泣いたわ
負けてもいいのよ 恥じることなんてない
失うものは 何ひとつ無い
♪バラード♪
ドアの隙間 ソファーでひとり
タバコふかす あなたを見てる
真夜中 ベッドに腰かけて
私もひとりじゃ眠れない
振り向いて 振り向いて
寂しさをひとりじめしないで
抱きしめて 抱きしめて
凍えそうな私の肩を
喧嘩しても怒らないのね
でも 決して許さないのね
あなたの心の中のスーツケース
荷物は もうまとめてるのね
行かないで 行かないで
私をひとりにしないで
追わないで 追わないで
途切れた愛の行方を
二人 ベッドの中でいつの間にか
別々の夢を追いかけてた
心遠く離れて
二人 閉じ込め合うのは今夜が最後
もう明日は あなたを自由にさせてあげる
でも今夜は
振り向いて 振り向いて
寂しさをひとりじめしないで
抱きしめて 抱きしめて
凍えそうな私の肩を
行かないで 行かないで
私をひとりにしないで
追わないで 追わないで
途切れた愛の行方を
http://blogs.yahoo.co.jp/imai4405/4776921.html
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┃ 浜田省吾 #08 軽井沢 ┃
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2016(平成28)年03月30日(水)
1980(昭和55)年の冬、浜田省吾さんのリハーサルが軽井沢の山荘で行われました。その頃のお話を。
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1979(昭和54)年の秋から始まったツアーを
1980(昭和55)年02月01日(金)の横須賀文化会館で終えたぼく達は、次のツアーまでの短い間をそれぞれに過ごしていた。ぼくはこの頃、浜田さんと並行して松原みきさんのバンドにも参加していたため、浜田さんのツアーのスケジュールを縫うようにみきさんのスケジュールが入っていた。浜田さんのツアーは終わったのだが、ツアーが終わった後にも浜田さんのラジオの公録の仕事がちょこちょこ入っていて、横須賀の直後の
‡1980(昭和55)年02月03日(日)にも日帰りで札幌での公録の仕事が入っていた。この時ぼくは
1980(昭和55)年02月02日(土) 前日の夜遅くにニッポン放送でのみきさんの仕事を終えて、次の日の早朝の飛行機で札幌入りするために、空港近くのホテルに宿泊した。横須賀のコンサートあたりから何となく風邪っぽかったのだが、札幌に行く日の朝から極端に調子が悪くなった。飛行機の機内で猛烈な悪寒が襲って来た。千歳に着く頃には悪寒で歯がガチガチ鳴りだした。札幌STVのスタジオに到着する頃には立っているのも辛くなってきて、しばらく楽屋で横になっていた。この日はちょうど札幌雪まつりが行われていて、本番まで少し時間があるので雪まつりを観に行こうということになった。ぼくは高熱が出て来たのを自覚していたので、辞退しようと思ったのだが、ラジオ局やイベンターの方の手前、そういうわけにもいかず這うようにしてみんなに付いて行った。外に出ると結構吹雪いていて気温は氷点下。高熱の身には自殺行為に等しい。ますます悪寒がひどくなって来たので、ぼくは口実をつけて先に戻らせてもらった。みんなには体調が悪いことは伏せていた。この時の雪まつりの会場で、みんなで撮った写真が手元に残っているのだが、にこやかに微笑んでいる浜田さんと町支さんの横で、真っ青な顔をしたゾンビのようなぼくが写っている(笑)。その後はどうやって演奏して、どのように帰ったのかよく覚えていない。朦朧とした意識の中、ようやく夜に羽田に着くと、そこから倒れ込むようにタクシーに乗って家まで帰った。そのまま二日間寝込んで、すぐにまた広島に飛んだ。広島から戻る頃にようやく体調も回復して来た。そしてそれから少し経った
1980(昭和55)年02月25日(月)から
1980(昭和55)年02月29日(金)までの五日間、浜田省吾さんの春のツアーのリハーサルも兼ねた合宿のため、ぼく達は軽井沢の山荘に向かった。上野発10時46分のあさま7号に乗って軽井沢に着いた。軽井沢駅から車に乗って走ること数十分、山奥のログハウスのような大きな山荘に到着した。あたりは他にもたくさん別荘が立ち並ぶ、いわゆる別荘地帯。夏には避暑地として賑わう場所なのだろうが、我々が行ったのは真冬の軽井沢。周りを見渡しても当然人っ子一人いない。しかもすごく寒い。山荘の中に入ると一階に大きなリビングとキッチンの他に、何部屋か仕切られた部屋がある。二階は吹き抜けになっていて、廊下を囲むようにツインの部屋が何個かあった。バンドのメンバーは二階の部屋で、浜田さんとスタッフは一階の部屋で寝泊まりすることになった。山荘に着いたのはいいのだが、肝心の楽器を載せたトラックまだ到着していなかった。楽器が着くまでぼく達はやることがなく、お腹もへって来たので、駅前で買い込んだパンやおやつを食べて楽器の到着を待った。写真はその時の様子。この合宿に同行したのは浜田省吾&バンド以外に、マネージャーとプロデューサー、雑誌の取材で来ていたカメラウーマンの中村ねこさん。他にも何人かいたかもしれない。がらんとした底冷えのする山荘で待つこと数時間、やっと楽器を積んだトラックが到着した。早速一階のリビング部分に楽器と簡単なPAをセットした。
1980(昭和55)年02月25日(月) 初日は楽器のセッティングと簡単なサウンドチェックをした後、少しリハーサルをして終了。リハーサルも勿論大事だが、人里離れた雪深い場所での合宿生活のため、食材の買い出しが結構大変だった(と思う)。周りにはお店などあるはずもなく、車で下山して町まで行かないと、それこそ飲み物一本もタバコも買えない。そのため、ぼく達がリハーサルをしている間、スタッフは食材の買い出しも大切な仕事となった。リハに煮詰まると、外に出てキャッチボールをしたりして気分転換をして遊んだ。しかし凍ってしまいそうな寒さのため、すぐに部屋に戻ってまたリハーサルを続けた。この合宿でのリハーサルは、まだ演奏したことのない曲のチェックや新曲の練習、バンドのアンサンブル等に重点を置いて行われた。まわりに何も無い環境ゆえ、逆にリハーサルに集中することが出来、ぼく達は充実した五日間を過ごすことが出来た。リハーサルが終わると夜はスタッフが作った料理をみんなで食べた。お酒も少し。文字通りぼく達は同じ釜のメシを食う仲間だった。合宿が終わる頃、浜田さんとバンドの連帯感はいっそう強まった。軽井沢での合宿は実り多いものとなった。そして
1980(昭和55)年02月29日(金) リハの最終日、ぼくとベースの岡島ブンちゃんは、佐野元春さんのレコーディングに参加するため、そのまま軽井沢から新宿のスタジオに向かった。
写真◆キーボード隊の楽器。ぼくの場所は奥で、ヤマハCP80&フェンダーローズ・スーツケースピアノを使用。
写真◆山荘のリビング。まだ楽器が到着していない。
写真◆山荘の外観。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/03/8.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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