過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の浜省さんとetSETOraだヨ(=^◇^=)

 省吾vsトシちゃん in 1987
 https://mobile.twitter.com/aaaaa_011112/status/935885771088658432
 1987年5月号『Cancam』田原俊彦×浜田省吾 興味深い対談ですね
 https://twitter.com/wingsiu339/status/1347195567466635264

 映像◆新宿 1975年・冬  http://youtu.be/s8GcPXX3xrQ
 2012(平成24)年08月18日(土) この動画は NHK総合TV『特ダネ!投稿DO画 夏のスペシャル』で放映
 
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①┃ 『愛奴』 ┃
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 1974(昭和49)年12月10日(火) 録音開始
 1975(昭和50)年01月22日(水) 録音終了
‡1975(昭和50)年05月01日(木) released LP
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①┃ 『AIDO』 ┃
 ┗━━━━━━┛
 1982(昭和57)年XX月XX日(X) released LP再発
 1987(昭和62)年07月22日(水) released CD
 1990(平成二)年06月21日(木) released CD再発
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②┃ 『AIDO Complete Collection』 ┃
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 2015(平成27)年04月29日(水) released
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①https://ja.wikipedia.org/wiki/愛奴_(アルバム)
②https://ja.wikipedia.org/wiki/AIDO_Complete_Collection
 https://music.amazon.co.jp/albums/B00W9N08TE
 https://music.amazon.co.jp/albums/B00FS80MGQ
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 CBSソニーの♪二人の夏♪視聴会時??、150万枚は売れると期待した♪二人の夏♪
 15:13 ♪片想い♪の後、本人の口から初めて父の逝去が公表される
‡1987(昭和62)年05月01日(金) 16時間かけて横浜から
 1987(昭和62)年05月02日(土) 父の里山口までGET BACK
 1987削除動画◆浜田省吾 NHK-FM MY SELECTION からトーク(前半)https://youtu.be/153r0pTOjP0

 広島が生んだ新しいポップスを創造するグループ
 5/1デビュー!
 ♪広島フォーク村から巣立った若者らが、新しいサウンドを創造して、
 ついに5月1日 LPシングルでデビューします・
『愛奴』を大きく育てま省!
 CBS・ソニー 番号なし
 盤に「CBS・ソニーニューミュージック情報」「見本盤」等のプリント。
 解説:
 愛奴と国吉氏を紹介する内容なのに・・・ジャケには愛奴の事だけ。
 文章から察するに「ジャケは広島で作った物か?」と推測してしまう。
 https://blogs.yahoo.co.jp/fostw66/8802097.html

 動画◆THE ALFEE 御三方が語る、愛奴 恋の西武新宿線  アルフィー 高見沢俊彦 坂崎幸之助 桜井賢https://youtu.be/ssM0Qgf752Y
 2018(平成30)年11月07日(水)
 

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 ┃ ON THE ROAD '88 FATHER'S SON ┃前半戦 日程
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‡018.1988(昭和63)年05月01日(日) 山口市民会館
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 http://www.flashandshadow.com/shogo/live/on/on1988.html
 https://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11600186984.html
 http://ameblo.jp/futabayama69/entry-10819384548.html
 http://www9.plala.or.jp/bt-pearl/dear_memories.html
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 89.1.28♪ON THE ROAD♪映像◆http://www.nicovideo.jp/watch/sm13810282#

二人の夏 作詞・作曲 浜田省吾  愛奴  
CBSソニーとしては強力なプッシュもしてて、150万枚は売れる!な~んて前評判で、結局は全然売れなかったんだよね、この歌(笑)。
でも、いい歌だぁ。愛奴は、浜田省吾が在籍していた広島出身のグループ。他には町支寛二と青山徹がいた。
町支寛二は広島フォーク村のアルバムにも名前があるから、そんなツテなのか(詳しいことは知らない)、愛奴は最初、吉田拓郎のバックバンドとして名前が知られた。よしだたくろう&かまやつひろしのデュエット曲『シンシア』のB面 、『竜飛崎』のバッキングがレコード・デビュー。
その後、拓郎が小室、陽水、泉谷の4人でフォーライフを設立してCBSソニーを離れ、その75年に愛奴のデビュー・シングル『二人の夏』は発売になった。
当時のことはよく憶えてる。兎に角、フォーライフ一色だったんだよ、話題は。フォークが台頭してきて、フォークは商売になる!と各レコード会社が動き始めたその矢先、ドル箱だった拓郎(CBSソニー)と陽水(ポリドール)が抜けて、自分達でレコード会社を興しちゃうってんだから、行く末の不安を抱えながらも、ギョーカイはこの話で持ちきり。学校でも、結構な話題だったもん。
そこへ持ってきて拓郎は、かぐや姫と一緒につま恋でオールナイトのイベントをするなんて云い出して、夏の話題をかっさらってたからね… 『二人の夏』なんて人知れず発売されて、人知れず散ったようなもの(笑)。
でも、ラジオでオン・エアされたこの歌を聴いて、「あ、オシャレな歌だな」って思った。フォーク一色の機運の中にあって、とっても印象的だった。聴こえるか聴こえないかのギターの短いイントロだから、初めて聴いた時にはイントロ無しで「ふ~たりの~夏~は~♪」のファルセット・ボイスが飛び出したように勘違いしてたな。
全編聴けば、ビーチ・ボーイズの雰囲気がモロなんだけど、歌い出しの「ふ~たりの~夏~は~♪」のメロディーはビーチ・ボーイズじゃないよね。歌のコード運びやコーラス・ワークよりも先に、この「ふ~たりの~夏~は~♪」のメロディがとても気になった。
ボーカルは町支寛二と青山徹。きっちりとしてるし、上手いよね。浜田省吾が歌ってたら、きっと台無しだったと思う(後にソロで出してるけど(笑))。
…あれからもう26年 !???26年も、夏がくる度僕はこのレコードをかけてるんだ(笑)。 
http://www.begets.co.jp/doda/archive/038.html

 映像◆【貴重なバンド時代】浜田省吾「何度辞めようと思ったか」https://youtu.be/c625mNL86fk 
 ハマショー「最初は太鼓でボーカル、そして下手でした」浜省さん、愛奴ももちろんプロ、、、プロ意識がスゴいですね
 

1974年のある日、新人ディレクターからデモテープを渡された。バンド名は「愛奴」だった…本日は浜田省吾の誕生日
2015年12月29日 執筆者:川瀬泰雄
1974年のことである。
CBS/SONYレコードでアンドレ・カンドレ(後の井上陽水)の担当だった中曽根プロデューサーから新人ディレクターを紹介された。吉田拓郎のいた「広島フォーク村」出身のディレクターで、僕に見てほしいバンドを抱えているという。その新人ディレクター蔭山氏から紹介されたバンドが「愛奴」だった。そんな名前のアングラ映画があったような気がするな、というのが最初の印象だった。バンド名から想像するとあまり期待できそうもないなと思いつつ彼らのデモテープを聴いた。音を聴いてイメージはガラっと変わった。上質のポップスだった。
メンバーは青山徹(Guitar & Vocal)、町支寛二(Guitar & Vocal)、山崎貴生(Percussion, Keyboard & Vocal)、高橋信彦(Bass)、浜田省吾(Drums, Percussion & Vocal)の5人。
音楽に前向きな好印象の若者たちだった。ちょうど井上陽水がホリプロを離れた時でもあり、次のロック系のアーティストを探している時期だった。
デモテープのサウンドもかなり自分好みのサウンドだった。堀威夫社長にその話をすると、川瀬がいいと思うのならやってみろという話だった。すぐに連絡を取りレコーディングの話を進めていくことにした。練習に立ち合い相談しつつ選曲をしていく。メンバーのほとんどが作曲もするし歌も歌うというバンドである、ともすればそれは強みでもあるが、ちょっと焦点がぼけてしまう恐れもあった。蔭山氏とメンバーとの話をした結果、最初のアルバムということもあり、メンバーの個性を出していきたいということなのでとりあえず納得して、全員の作品の中で作っていくことにした。作っていくうちに、浜田の作ってくる曲が個人的には一番好みのメロディが多いことにも気が付いた。
バンドの成り立ちを簡単に書くと、「広島フォーク村」の音楽仲間で山崎貴生、町支寛二、高橋信彦の3人で「グルックス」というグループが結成される。(「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』の中に収録されている)
一度解散をするが広島時代からの友人である青山徹と浜田省吾の2人が参加して「愛奴」が結成された。そして、全員が大学を中退して広島へ戻り、ひたすら練習の日々を過ごしたということだった。
レコード・デビューは1975年5月1日にアルバム「愛奴」、シングル「二人の夏」が同時にリリースされる。
実はデビュー・シングルは当時としては斬新なビーチボーイズ風の「二人の夏」と2枚目に発売された「恋の西武新宿線」との2曲が候補にあがり、どちらの曲にするか非常に迷っていた。当時レコード会社のCBS/SONYでは学生を主体とした社外モニター制度があり、そこでいい曲だという評価が20~30%くらいあるとヒットするということだった。そこで「愛奴」の「二人の夏」と「恋の西武新宿線」の2曲をモニターしてもらった。 
結果はどちらの曲も40~45%以上の高評価ということだった。どちらを出しても大ヒットだという話である。だったら当初の予定通り「二人の夏」をリリースしようということになった。しかし結果は惨敗。それでも2枚目は当たるだろうと「恋の西武新宿線」をリリース。また惨敗。それ以来モニター制度は信用しないことが習性になってしまった。
「愛奴」のそれぞれのメンバーの才能はかなり水準が高かった。浜田の作曲能力、町支のボーカリストとしての才能、青山の卓越したギター・テクニックなどその後の活躍を見れば納得してもらえると思う。しかし、この音楽がヒットするということと才能とは必ずしも一致しないのが、この世界の厳しいところであり、面白いところでもある。
余談だがその頃、町支が結婚することになり、立会人をすることになった。教会で一緒にバージンロードを歩いてサインをするだけだということで気軽に引き受けた。1年後くらいに浜田も結婚するので立会人をやって欲しいとのこと。気軽に引き受けたところ浜田のお父上から「このたびはご媒酌人をお引き受けくださり…」の格調の高いお手紙を頂戴した。今さらお断りすることもできずお引き受けしたのだが、媒酌人の挨拶などまともに出来ず、トラウマになってしまい、それから10年以上人前で話すことが苦手になってしまった。
1年も経たずに、最初に感じた予感のようなものが、当たってしまったと思った。
バンドにはリーダーは沢山入らない。全員が作曲し、それぞれの意見を汲み上げることなど所詮無理なのである。ジョン・レノンとポール・マッカートニーのように二人の強いリーダーが同居する事などは本当に稀である。浜田は自身のバンドのドラマーとしての自信のなさと、自分の曲をバンドで生かし切れていないということなどがあり、ドラマーとして岡本郭男を加入させる。そしてメンバーの引き留めにもかかわらずバンドを抜けることを決意した。
「愛奴」の2枚目の録音は始まったが、浜田のソロ・デビューはまだ決定していない状況だった。その間、浜田は曲を作り続けた。1本ごとに沢山の作曲した曲が詰まったカセットが、数10本僕の家の段ボール箱に保存してある。
当時のことが本人の言葉で書かれている。http://shogo.r-s.co.jp/disco/aido01.html>
浜田の作るメロディが好きな僕は、まだソロ・デビューも決まっていない状態の浜田に少しでも収入の助けになるかとの思いもあり、他の担当アーティストやアイドルのためにかなりの曲数を作ってもらった。山口百恵も浜田の曲が気に入り、百恵本人が詞をつけたいと申し入れしてきたほどだった。新人のデビュー曲などで浜田本人が気に入らないものもあったかもしれないが、曲を集めるときは必ず作曲家の候補に入れていた。
そして『路地裏の少年』のデモテープが出来上がってきた時、今まで書き溜めてきた曲の中でも詞が一つ抜き出てきたように感じた。
浜田のソロ・アーティストとしてのプロデュースをしたいと思った。
浜田の文章は以下のサイトでhttp://shogo.r-s.co.jp/disco/album01.html>
ただ、その当時僕が、同時進行で担当しているアーティストは10組以上いた。
アイドルから、ポップス、シンガー&ソングライター、etc.
ソロ・アーティストとしての活動はレコーディングと同時にマネージメントも重要である。他のアーティストとの兼ね合いをどうやって作っていこうかと悩んでいる時に、堀社長の所に、MOPSを解散した後、プロデュースの仕事をしたいという相談をしにMOPSのドラマーで僕とも気の合っていたスズキミキハル氏が来ていたのである。
浜田をミキハル氏に任せることにした。船頭が多くなると、船がろくなところへ進まないと思い、参加したいのはヤマヤマだが口を出すのは極力我慢することにした。
結果は大成功だった。ミキハル氏のセンスも任せて良かったと思った。
何年かの間に、僕の家の段ボールの曲も何曲か詞が替わって復活されていた。
先日12月9日のNHKホールのコンサートを観た時、還暦をすぎてもパワフルな浜田省吾を見た。ポール・マッカートニーやミック・ジャガーに感じたのと同質の本物の大人のロッカーだった。カッコ良かった。
日本にも大人のロックが出来上がったことが心底うれしかった。
http://music-calendar.jp/2015122901 

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 ┃ 浜田省吾 #17 1983年1月24日 郡山市民会館 ┃
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‡2016(平成28)年05月01日(日)
 現在に至るまでぼくはおそらく千回以上のライブに出演してきましたが、今まで一度も穴を空けたことはありません。賞とはあまり縁の無い音楽人生ですが、これだけはぼくの矜持です。しかし時には這うようにしてステージに出たこともあります。今回はそんな話を。
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 浜田省吾1982(昭和57)年秋のツアーは年を跨いで、翌
 1983(昭和58)年2月22日(火)の大阪フェスティバルホールまで続いた。
 1983(昭和58)年1月20日(木)から始まった上越~東北の旅は、
 1983(昭和58)年1月20日(木)長岡市立劇場、
 1983(昭和58)年1月21日(金)新潟県民会館、
 1983(昭和58)年1月22日(土)宮城県民会館、
 1983(昭和58)年1月24日(月)郡山市民会館と続く5泊6日の旅だった。
 1983(昭和58)年1月22日(土)の仙台公演のあたりから何となく風邪っぽいなと思っていたぼくは、これ以上悪化させないように細心の注意をはらっていた。オフだった
 1983(昭和58)年1月23日(日)は極力ホテルで安静にしていた。冬のホテルの部屋はとても乾燥するため、加湿器を全開にしてバスタブにもお湯をはり、部屋が乾燥しないようにし、市販の風邪薬を飲んで一日中寝ていた。しかし深夜にひどい悪寒に襲われた。悪寒でほとんど眠れずに朝を迎えた。朝になってベッドから起きようとすると、身体が震え全身の関節が痛む。身体を暖めなければと思い入浴してみるも、悪寒が酷くて浴槽に入っていられない。入浴することをあきらめ、フロントで体温計を借りて熱を測ってみた。みるみる温度があがって行く。39度近い熱があった。この日は郡山市民会館でのコンサートがある。会場入りまではまだ少し時間があったので、病院に行くことにした。ひとまず浜田さんのマネージャーに事情を説明して、フロントで教えてもらった病院に駆け込んだ。ホテルから病院までは歩いて数分の距離だったが、高熱のためふらふらして歩けない。病院までの距離が数十倍にも感じた。ようやく病院に着いて受付を済ませるも、院内は診察待ちの患者で超満員。いくら待てども一向に順番が回ってくる気配がない。あまりにしんどいので待合室の長椅子に横たわらせてもらってひたすら順番を待った。待つこと約3時間、ようやくぼくの番になった。この時すでに時間はお昼を回っていた。会場入りまであまり時間が無い。診察の結果はやはり風邪の症状とのこと。とにかく薬を飲んで安静にしているようにと言われた。しかしこの後コンサートが行われる。バックのミュージシャンが風邪で発熱したぐらいでは、コンサートを中止するわけにはいかないのである。ぼくはドクターに事情を話して懇願した。
「先生、そんなわけでコンサートに穴を空けるわけにはいかないんです。お願いですから本番の二時間の間だけ生かして下さい!」ドクターはあきれた顔で言った。
「そんな無茶言って貰っちゃ困るよ。コンサートなんてやったら肺炎になりますよ。無理だから休ませて貰いなさい。」ぼくは藁をもすがる気持ちでお願いした。
「先生、それは無理です。お願いですから二時間だけ!」
「しようがないなぁ。では一応解熱の座薬と頓服、あと注射を打っておきます。但し無理をして肺炎になっても責任持ちませんよ。」ぼくは注射二本と点滴を受け、薬を貰ってホテルに戻った。しかし高熱が下がる気配はなく、とてもじゃないがリハーサルをやれる状態ではなかった。マネージャーに連絡して、本番ギリギリまでホテルの部屋で休ませてもらうことにした。それから少しの間、ぼくは座薬と薬を飲んで泥のように眠った。開場時刻の6時を過ぎた頃、イベンターが用意してくれた車に乗って会場入りした。時刻はすでに6時30分近くになっていた。薬のおかげで熱は38度前半に下がっていたが悪寒は続いていた。楽屋に着くと代わる代わるメンバーが心配してくれた。どうにか衣装に着替え横たわっていると、浜田さんが心配そうな顔で寄って来た。「板さん、大丈夫?熱は?」ぼくはリハーサルをキャンセルしてしまったことをまず詫びた。
「リハ出られなくてすみませんでした。何とか大丈夫です。」
「そう、でも無理しないようにね。コーラスとか辛かったら町支に任せてくれていいから。」
「はい、でも大丈夫です。何とか歌えると思います。」「分かった。じゃ本番よろしく。」実は全然大丈夫じゃなかった。熱と薬で朦朧としていたぼくは、本番が始まってからも何をやっているのかよく分からないほど最悪の体調だった。コーラスのパートを歌おうとするたびに、吐き気が襲って来て気が遠くなりそうになる。リハーサルが出来なかったため、PAチームがぼくのモニターを最適の状態に調整してくれていた。ピアノはスタッフが代わりに弾いてバランスを整えていたくれた。そんなスタッフの心遣いも無駄になるほど、ぼくは本番中に何をやっているか分からないような状態だった。それでも何とかコンサート終え、楽屋に戻ってくるなりぼくはその場に倒れ込んだ。しかしこの日は終演後、新幹線で帰京の予定だったため、倒れ込んでいる暇は無かった。すぐに支度をして出なければならなかったため、急いで着替えを済ませ楽屋口で待機していたタクシーに乗り込んだ。郡山の駅に着いて新幹線に乗り込むとぼくはすぐに目を閉じた。当時は新幹線が大宮止まりで、そこから上野駅まではリレー号という列車に乗り換える必要があった。大宮駅でリレー号に乗り換え、やっと深夜の上野駅に到着した。するとずっとぼくの様子を見ていた浜田さんが、今夜は俺の家に泊まれと言った。ぼくは家に帰っても一人なので申し訳ないと思いつつも、浜田さんの家に泊めてもらうことにした。この頃、プライベートなことで沈み込んでいたぼくを見かねた、浜田さんなりの優しさだった。浜田さんの家に到着するなり、またしてもぼくは泥のように眠った。次の朝、目が覚めると体調はだいぶ良くなっていた。朝食をごちそうになり、もう大丈夫なのでお暇しようとすると、ちょっと出かけるが程なく戻るので、それまで犬を看ていて欲しいと言われた。ぼくはしばらくの間、浜田家の犬と一緒に暖かな部屋でまどろんでいた。やがて戻って来た浜田さんに丁重にお礼を言い、日も暮れた頃自宅に帰った。家に戻ったぼくは空腹な事に気がついた。近所の定食屋でサンマの塩焼き定食を食べた。ちょっとしょっぱいサンマの塩焼きを食べながら、なんだかぼくは急に泣けて来た。
 写真◆1982(昭和57)年頃。どこかの楽屋にて。 
**************** http://air.edisc.jp/ima/
 http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/05/17-1983124.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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 ┃ 東京市 TOKYO CITY ┃
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‡1889(明治22)年05月01日(水) 東京府 ⇒ 東京市
 1943(昭和18)年07月01日(木) 東京市 ⇒ 東京都
 1878(明治11)年07月22日(月) 東京府は府下を区と郡に分かち、府税収入の多い地域を吟味選定のうえ、郡区町村編制法第2条の定めるところに従って旧幕時代の地称を付し麹町区・神田区・浅草区以下の東京15区を設けた。同時に、江戸四宿といわれた内藤新宿、品川宿、千住宿、板橋宿という4箇所の市街地に隣接する旧街道宿場および農村部に荏原郡・東多摩郡・南豊島郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の6郡を置いた
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 https://en.wikipedia.org/wiki/Tokyo_City
 https://www.uta-net.com/song/38563
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 ┃ 『the CATCHER in the RYE 危険な年齢』         ┃1952(昭和27)年 訳:橋本福夫 ダヴィッド社
 ┃ 『the CATCHER in the RYE ライ麦畑でつかまえて』    ┃1964(昭和39)年 訳:野崎孝  白水社
 ┃ 『the CATCHER in the RYE ライ麦畑の捕手』       ┃1967(昭和42)年 訳:繁尾久対 英潮社版
 ┃ 『the CATCHER in the RYE キャッチャー・イン・ザ・ライ』 ┃2003(平成15)年 訳:村上春樹 白水社
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 ┌─――――――――――――┐a novel by J.D.SALINGER
 |1951(昭和26)年 7月16日(月)|FIRST EDITION $3.00 LITTLE, BROWN
 |1964(昭和39)年12月20日(日)|訳:野崎孝 白水社 第001刷発行
 |1973(昭和48)年 5月22日(火)|訳:野崎孝 白水社 第025刷発行 ¥600 新しい世界の文学20
 |1984(昭和59)年 5月 1日(火)|訳:野崎孝 白水社 白水Uブックス P.340
 |2010(平成22)年 2月15日(月)|白水社公式HP『ライ麦畑でつかまえて』解説 公開
 └─――――――――――――┘インチキ野郎は大嫌い! 純潔を愛する子供の感覚と社会生活を営むおとなの工夫と衝突をテーマに<<危険な年令>>の内面を描いて若い世代の共感を呼んだベストセラー
  映像◆Catcher in the Rye. J.D. Salinger. 1st edition, $3,500  https://youtu.be/xAj9K025MgA
  
************************ http://www.uta-net.com/song/175886/
  http://ameblo.jp/tamtam-y/entry-11460418467.html http://www.hakusuisha.co.jp/book/b205511.html
  https://en.wikipedia.org/wiki/The_Catcher_in_the_Rye http://www.uta-net.com/song/38564/
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 映像◆浜田省吾 ラジオ番組 君が人生の時 82 15  https://youtu.be/edZ0yECDoC4
『AIDO』の話ONLYなDJお願いなんですヨ(=^◇^=)
 


≪浜田省吾と山口智充のオールナイトニッポンGOLD≫
2015(平成27)年5月1日(金)放送分 浜田省吾・家族を語る!35年ぶりラジオ出演!  https://youtu.be/_8kivJ077z0
10年ぶりにNEWアルバムをリリースした浜省が、35年ぶりにラジオのパーソナリティーを務めた。プライベートはあまり語らない浜田省吾だが、珍しく家族の事について語っている。

 Q ⇒ sakuramicyouwakamono412さん 2015/6/807:05:43 浜田省吾さんのアルバム「I was born in 1952」の表紙に載っている車の名前を教えてください。 
 A ⇒ jboowy1969さん 2015/6/819:34:47 ⇒ 先月のラジオ出演した際、車の話が出た時に
 浜田省吾本人の口から「サンダーバード!」と言っているのが㊦↓のラジオ音源から確認できますヨ(=^◇^=)
 浜田省吾と山口智充のオールナイトニッポンGOLD 【2015 05 01】 
 https://youtu.be/-x3aSiAIps8 https://youtu.be/YKKnWxCAgwk
 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13146472108
 ┏━━━━━━━━┓┌─――――――――――――┐
 ┃ 『AIDO』 ┃|1975(昭和50)年 5月 1日(木)|LP
 ┗━━━━━━━━┛|1990(平成二)年 6月21日(木)|CD
           |1974(昭和49)年12月10日(火)|録音開始
           |1975(昭和50)年 1月22日(水)|録音終了
           └─――――――――――――┘
 ┏━━━━━━━━┓┌─――――――――――――┐
 ┃ ♪二人の夏♪ ┃|1975(昭和50)年 5月 1日(木)|
 ┗━━━━━━━━┛|1987(昭和62)年 6月21日(日)|
           └─――――――――――――┘
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 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%A5%B4_(%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%A4%8F_(%E6%84%9B%E5%A5%B4%E3%81%AE%E6%9B%B2)
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓1987(昭和62)年8月24日(月)
 ┃ NHK-FM『マイ・セレクション』DJ 浜田省吾 ┃    ON AIR 日
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛http://www.uta-net.com/song/78347/
  1975(昭和50)年[22歳] M01.♪二人の夏♪ http://www8.big.or.jp/~most/bbs/nfm.html
  音源◆浜田省吾 ラジオ番組 マイ・セレクション Vol.① https://youtu.be/9ZBvEBwQ-ns
  
  ※これは1987年8月にNHK-FM『マイ・セレクション』という番組で放送されたものから、にゃみこさんがテープ起こし&タイプ打ちしたものです。14曲分、いきまっせ~~~!! 
  ■1975(昭和50)年[22歳] こんばんは!!浜田省吾です(BGM♪二人の夏が流れ始める)もうすぐ夏も終わろうとしていますが、みんなにとっていい夏でしたか?さて、この夏の終りの夜、「NHK FM マイセレクション」ということで、11時50分までDJというものをやってみたいと思います。DJなんてあまりやったことがないので、皆を退屈させないだろうかとチョッと心配なんだけど、まあ付き合ってください。どういう風にね、番組を進めようかと、エー結構悩んだんだけど、まあ友人というかね、が、「まあ自分のことでも話せば。」ということで・・・。1974年にプロのミュージッシャンになって、最初はドラマーとして吉田拓郎という人のバッキング・バンドから始めたんだけど、それから14年経ってます。で、その間にバンドのアルバムを含めて、ソロも含めて、14枚アルバムを出してるんで、14曲、そのアルバムから1曲ずつ選んで、あのー、聞きながら、昔の話でもしてみようかという番組にしてみようかと思います。 今バックで聞いてもらっているのは、これは今年リテイクした『二人の夏』なんだけど、この『二人の夏』が俺の最初のプロのデビューということになります。これは二十歳の夏に、まだ大学生だったんだけど、凄く蒸し暑い四畳半の大学の下宿で作った歌です。それがその後2年ほどして、バンドを作った時の最初のシングルになりました。まず今夜は最初に、その、アハ、浜田省吾の華々しい・・・・その後すぐしぼんでしまったんですけど・・・5、6年。華々しいデビュー!  皆が150万枚は売れると言った、1975年のこの曲です。愛奴で、♪二人の夏♪・・・・♪二人の夏♪がかかる・・・
1975年の春に出たアルバムです。ぇー愛奴のファーストアルバムから♪二人の夏♪。ぇー昔の話となるとどうしても苦労話ってやつになるのね。俺が子供の頃よく大人が、「俺が若い頃はよー」とかさぁ、「わしが若い頃はのー。」とかねー言ってね。なんで大人っていうのはこう苦労話をするんだろう、と思っていたんだけど。ぇー、今自分がこうして話をすると、そういうの出てきそうでね、怖い。だから出来るだけそういうことは省こうと思ってるんだけど。どっから話すればいいんだろう、随分長いからね。この愛奴というグループを結成したのが俺が二十歳の時で、ぇー、学園紛争、ストライキ、ロックアウトの大学がもう嫌んなってねぇ。で「アメリカに行くんだ。」って感じで。「お金を貯めて、イージーマネーを貯めて、アメリカに行くんだ」っていう感じでバイトを始めた。で、バンドを始めて大学を辞めたものの、当然仕送りもないし、自分で働いて。一回広島に帰って、ギターの青山くんっていうのが居るんだけど、彼の家の屋根裏部屋で練習しながら、あの・・・ピザハウスでウエーターをやってた。当時はねぇ、オイルショックてのがあって、ぇー大学生でも卒業してもなかなか就職できなくてねぇ。「絶対バンドで成功しなきゃ俺はこのままずっとピザハウスでピザ焼いてなきゃいけない!」。別に今考えてみたらそれもいい人生だなぁ、と思うんだけどね。当時はすごい野心があったからねぇ。「絶対バンドで成功しよう!」なんて。それで、なんかのキッカケで吉田拓郎のバックをやって、それから愛奴というグループがソロアルバムを出して。でもなかなかうまくいかなくてねぇ。自分はドラムを当時叩いていたんだけど、なかなかドラムが上手くならなくて、それよりも曲を書いた方がいいかなぁ、という事で、バンドがデビューして半年もしないうちに辞めてしまった。当時は「シュガーベイブ」とかね、「センチメンタル・シティー・ロマンス」とか、そういったバンドがいたんだけど。えーそん中から山下達郎君なんかも今も頑張ってて、時々話しで会ったりすると、「お互いよく頑張っているなぁ。」みたいな話をしてます。それで、23の時かな? 23の春にソロでデビューした。まだバンドも雇えなくてねぇ。当然そのー、独りで生ギターで。自分ではすごいロックがやりたくて、頭ん中ではすごいバンドのビートが鳴っているんだけど、実際はバンドを雇うお金なくて。生ギター一本でねぇ、あっちこっちの街をまわってた。例えば北海道に行った時には、北海道のライブハウス巡りって言うんだけど。なんか酒場とかねぇ、音楽教室とかね、そういったところで歌う。で、車にギター一本積んで、あっちこっちの街行くんだけど、まだそのー、ツアーみたいな形式がちゃんとしてなくて、一回やっては、一晩やっては、2,3日休みで、サロマ湖の方行ったり、阿寒湖の方行ったり,そんなことしながら回ってたんだけど。ある日洗濯物があまりに沢山たまってどうしようかと思っていた時に、ちょうどそのライブハウスに来ていた女の子がいて、その子はレコード店の女の子で、僕のレコード聞いてくれて、まあ、気に入ってくれたんだねぇ。で、「洗濯物困ってるんだよ。」なんて言ったら、「じゃあ私が洗ってあげる。」みたいに言ってくれてねぇ。で、次の日の朝、ホテルからその子のうちに洗濯物を取りに行ったら、その子が、その・・・パンツやらねぇ、恥ずかしながらパンツやらねぇ、Tシャツやら、ジーンズやらをねぇ、袋に詰めて、「頑張ってくださいね。」なんて、朝日の中を送ってくれた光景っていうのは今でも覚えています。ぇー、当時ライブハウスで、3カポの、E♭っていうキーで、ハーモニカ・フォルダーを肩にかけて、ハーモニカを吹きながらよくこの歌を歌っていました。1976年、俺は23歳でした。♪路地裏の少年♪・・・・(♪路地裏の少年♪がかかる・・・・)

浜田省吾と渋谷陽一のラジオでのトークから 『二人の夏』 http://youtu.be/SDYYsJ_oJiI
二人の夏(愛奴バージョン)…イントロがもろプラターズのオンリーユー 
http://www.eonet.ne.jp/~nonpis/justice/hamada2.htm

 ♪二人の夏♪1975.5.1
【意外!?】浜田省吾「とても苦しい思いをして買ったギター」http://youtu.be/y6snhyKtDLY
 
 
 浜田省吾 ♪二人の夏♪ 1987 無修正PVです④(=^◇^=)
  アニメ◆動画:浜田省吾  ♪二人の夏♪ 1987  無修正PVです④(=^◇^=)
  ダイジェスト◆動画:浜田省吾  ♪二人の夏♪ 1987  無修正PVです④(=^◇^=)
  静止画◆動画:浜田省吾  ♪二人の夏♪ 1987  無修正PVです④(=^◇^=)

 愛奴♪二人の夏♪http://ameblo.jp/futabayama69/entry-11111653539.html
 音源◆去りし友よ~愛奴のテーマ/愛奴ライブ(1/2)  https://youtu.be/QoW6j9OabkU
 1975年8月の日比谷野音のライブ。カセットテレコで録音。ドラム岡本ベース高橋ギ-ター青山ギター町支キーボード山崎ボーカル浜田。
 
 音源◆恋にしびれて/愛奴ライブ(2/2)  https://youtu.be/VFyngPhnP9Q
 1975年8月日比谷野音のライブ。レコードには入っていない曲。浜田省吾のМCから-。この後生まれたところを遠く離れてなのだが録音していない。残念!
 
 いつかもうすぐ(弾き語り)http://youtu.be/qdOpxgPHVqM
【日付不明・ラジオ局不明】1980年頃アルバム「君が人生の時・・・」発売後のスタジオライブより
 ★いつかもうすぐ(弾き語り)★いつかもうすぐ ★とぎれた愛の物語

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 ┃ 1994&95年の出来事 ┃
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 2017(平成29)年12月07日(木) 今回は1994年と95年のことを。
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 1994(平成六)年と95(平成七)年の二年間、ぼくはほとんどツアーには出ずに、スタジオでのレコーディングワークに精を出した。そして93年の後半からすでに実務は開始していたが、94年から正式にマネージメントオフィスに所属することになった。ぼくにマネージャーと楽器関係のスタッフが帯同してくれることになって、スケジュールのブッキングや調整、楽器の運搬等から解放されて、ぼくは音楽だけに専念することが出来るようになった。94年の前半はロックバンドinfixの、4枚目のアルバムのプロデュースとレコーディングに明け暮れた。ぼくはinfixの2枚目のアルバムからプロデュースを担当するようになって、今回で3作目となるアルバムは、彼等にとっても勝負の作品になるアルバムだった。この頃のinfixはアメリカンロック的なサウンドを指向していて、ぼくも彼等の持ち味を充分に発揮出来るよう、レコーディング前から綿密なコンセプトを練った。結果、なるべく余計な音は省いて、シンプルでタイトでギターを全面に出した音作りを目指した。アルバムには初めてギターの佐藤晃くんと、ベースの野間口くんがリードボーカルをとる曲や、6管編成のホーンセクションが入る曲もあったりと、更に音楽の幅が広がったアルバムになった。また、久しぶりにサックスの古村敏比古くんにも参加してもらった。infixとのアルバムのレコーディングは3枚目ともなると、ぼくとメンバーとのコミニュケーションもよりスムーズになり、過去のアルバムの時よりもレコーディングは順調に進んだ。ボーカルの長友くんの歌入れには少しナーバスになったりしたが、約半年近くに及ぶレコーディングの末、infix4枚目のアルバム「MOTHERLAND」は完成した。3部作の集大成とも言うべき堂々たる作品に仕上がった。アルバムがリリースされると、チャートアクションも売り上げも過去最高を記録するスマッシュヒット作となった。inifixのレコーディングが終わるとすぐに、今度は俳優で歌手でもある原田龍二さんのレコーディングが始まった。ぼくはアレンジとキーボード、コーラスを担当した。レコーディングメンバーの人選も任されていたので、信頼しているメンバー達にお願いした。原田龍二さんのレコーディングに集まってくれたメンバー達は以下の通り。
  ドラムス:高橋伸之
   ベース:美久月千晴、江澤宏明
   ギター:鎌田ジョージ、増崎孝司
 キーボード:板倉雅一、友成好宏
  サックス:阿部剛
  コーラス:町支寛二, 江澤宏明, 板倉雅一
 レコーディングは世田谷のスタジオ・サウンドダリとクレッセント・スタジオ、東京ベイエリアの東雲にあった、布袋寅泰さんのスタジオでもあるIRC2 STUDIOで行われた。主たるレコーディングエンジニアは、infixの3枚のアルバムでも一緒だった森元浩二くん。ドラムスは高橋くん、ベースは江澤くんと美久月くんの浜田省吾チーム、ギターの鎌田くんは中村あゆみのバンドメンバー、サックスの阿部さんは尾崎豊のバンドメンバー、キーボードの友成くんは角松敏生のバンドメンバーという、凄腕のミュージシャン達でレコーディングを行った。コーラスには元The Fuseの町支さん、江澤くんに参加してもらい、ぼくを含めた3人で担当した。久しぶりに浜田省吾さんのコンサートの時のコーラスを思い出したりもして、とても楽しいレコーディングだった。他にも貞富英樹くんというシンガーソングライターのプロデュースも担当した。こちらのレコーディングには高橋、江澤、板倉のFuseのメンバー+松山千春さんのツアーで一緒だったギターの高村周作くんに参加してもらった。94年は他にinfixのライブサポートも担当した。95年に入ると更にレコーディングのスタジオワークがメインとなった。この年にぼくがレコーディングに参加したアーティスト達は、元The東西南北の久保田洋司、2人組のユニットThe Kids、声優の日高のり子、シンガーソングライターの青西高嗣、中国出身の三人組ダイヤオ、チャンチェン、リウジエ、元レベッカの古賀森男等、多岐にわたった。久保田洋司くんとはアルバム「ピエロ」の制作で、共同プロデュースという形でレコーディングをした。ドラムの高橋くん、ベースの江澤くんにも参加してもらった。町支さんには一人多重コーラスを入れてもらったりと、元The Fuseのメンバーとの交流は変わらずにずっと続いていた。日高のり子さんのレコーディングはTBS系で放映されたテレビアニメ「OZキッズ」のテーマソングだった。ぼくはアレンジとキーボードで参加した。コーラスにシンガーソングライターの山本英美くんと、須藤薫さんに参加してもらった。須藤薫さんは80年代にCBSソニーから何枚ものアルバムをリリースしていた女性シンガーで、松任谷由実さんの「Surf&Snow」というアルバムでのコーラスワークが高く評価され、その後大活躍をされた方。ぼくは薫さんの大ファンだったので、自分がアレンジしたコーラスパートを、薫さんに一人多重コーラスで歌ってもらって完成した時はとても感激した。まさにレコードで聴いていたあの声と素晴らしいコーラスワークだった。青西高嗣くんのレコーディングは、アルバムのほぼ全曲をアレンジ&演奏することになり、アレンジをしている日にちがあまり無かったこともあってとても大変だった。しかもリズム録りを一日か二日で全曲終えなければならず、レコーディングではとても集中して演奏した。おかげで緊張感のある良いパフォーマンスを記録する事が出来た。このころぼくはスタジオ・サウンドダリのエンジニアである森元浩二くんと頻繁に一緒に仕事をしていた。久保田洋司くんのアルバムも森元くんのミックスだった。ぼくは彼の作る音がとても好きだった。青西高嗣くんのレコーディングも勿論森元くんにお願いした。森元くんらしい張りのある素晴らしいサウンドになった。元レベッカの古賀森男くんとは同じ事務所だったこともあって、ぼくはレコーディングのみならず古賀くんのライブサポートにも参加するようになった。古賀くんは自分のサウンドポリシーとビジョンをはっきり持っている人で、一緒にプレイしていても最初は少し戸惑ったが、直に彼の意図を汲み取ることが出来るようになって、それからはスムーズだった。古賀くんはそれまでぼくが一緒にプレイしたどのギタリストとも違っていた。独特の個性溢れるスタイルとフレージングは本当に素晴らしかった。ぼくは彼の人柄や感性にシンパシーを感じ、次第により親しくなっていった。古賀くんと初めて一緒にレコーディングした曲は、マキシシングルのカップリング曲だった「BOY」という曲だった。ぼくはアレンジとピアノとシンセ、アコーディオンをプレイした。ドラムは元フェビアンの熊倉隆くん、ベースは久しぶりに一緒にプレイした池間史規くん、そしてマンドリンを笛吹利明さんに演奏してもらった。ホリプロダクションが手がけた、ダイヤオ,リウジェ,チャンチェンの中国新世代三人娘と名付けられたグループのレコーディングはとても楽しかった。ぼくはアレンジと演奏で参加。ミュージシャンは、ドラムに高橋伸之くん、ベースは岡沢茂くん、ギターは高村周作くんにお願いをした。リズム録りは東京で行い、ホーンセクション等のダビングはアメリカ西海岸のバーバンクで行われた。他にも多くのレコーディングに参加したが、ぼくの場合はスタジオミュージシャンとして呼ばれていってプレイするというよりも、アレンジやプロデュース込みでプレイすることのほうが圧倒的に多かった。また久しぶりに松山千春さんからお誘いを受けて、
 1995(平成七)年03月26日(日)に札幌で行われた阪神・淡路大震災被災者支援コンサート「1995HANSHIN AID」に千春さんのサポートバンドとして参加させてもらった。メンバーは、ドラムス:島村英二 ベース:岡沢茂 ギター:松原正樹、笛吹利明 キーボード:エルトン永田、板倉雅一
‡1995(平成七)年05月01日(月)には同じメンバーでフジテレビ系「HEY!HEY!HEY!」ミュージック・チャンプにも出演した。浜田省吾さんのネット配信による、デジタルカレンダーに付帯する音楽も、少しだけだが担当させてもらった。また浜田さん関連の音楽制作に参加することが出来て、ぼくはとても嬉しかった。そしてこの時のことがきっかけとなって、再びぼくは浜田省吾さんのレコーディングに参加することになる。
 写真◆1995(平成七)年01月28日(土) 久保田洋司レコーディング。スタジオ・サウンドダリ。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
 http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2017/12/199495.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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