過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

肉だヨ(=^◇^=)OK♂♀


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①┃ 『Mr.Children 1992-1995』肉 ┃TFCC-88180
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛\2,800(with tax)
 Mr.Children 2回目(2枚目)のベスト・アルバム作品
 2001(平成13)年07月11日(水) リリース日
 2001(平成13)年07月23日(月) オリコン週間アルバムチャート第1位
 2001(平成13)年07月30日(月) オリコン週間アルバムチャート第1位
 2001(平成13)年10月01日(月) オリコン週間アルバムチャート第10位
 2012(平成24)年05月14日(月) オリコン週間アルバムチャート第55位
 2012(平成24)年05月21日(月) オリコン週間アルバムチャート第9位
 2012(平成24)年05月28日(月) オリコン週間アルバムチャート第10位
‡2018(平成30)年05月10日(木) mora配信開始日
 備考・・・・・・・・・・・・・・・・『Atomic Heart』以来、06回目のオリコン週間アルバムチャート第1位獲得作品
 備考・・・『Mr.Children 1992-1995』以来、連続01回目のオリコン週間アルバムチャート第1位獲得作品
 備考・・・今作は初動120.2万枚を記録し、2013(平成25)年10月までに累積237.6万枚を売り上げている。Mr.Childrenでは初めてオリコンチャートでの登場週数が300週を突破した作品である。また、発売から約11年後の2012年に発売されたベストアルバム『Mr.Children 2001-2005 <micro>』『Mr.Children 2005-2010 <macro>』が第1位・第2位を独占した2012年5月21日付オリコンチャートで前週55位から9位へ急上昇し、2001年10月1日付オリコンチャートで第10位を記録して以来約10年7か月ぶりにTOP10返り咲きを果たしたヨ(=^◇^=)
********************** http://www.mrchildren.jp
 ①http://www.mrchildren.jp/disco/#album/album10
 ①https://ja.wikipedia.org/wiki/Mr.Children_1992-1995
 ①音源◆https://music.amazon.co.jp/albums/B07D34RLVC
 ①mora◆https://mora.jp/package/43000034/TFCC-88180/
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 バンドには二種類ある。作ったバンドと作られたバンドだ。しかし成り立ちがどうあれ、バンドは作り続けていかなければ先へ進めない。このベスト・アルバムの主人公、ミスター・チルドレンがそうだったように。
 彼らが生まれたのは、1969(昭和四十四)年(桜井だけ早生まれで70年)。あのウッドストック・フェスティヴァルが開かれ、ロックにとってエポック・メイキングといわれた年だった。田原健一と中川敬輔と鈴木英哉は、東京都狛江市の同じ中学校の出身である。桜井和寿は、東京都練馬区の出身。この4人は、多感なティーンを似た環境、つまり東京とはいえ、まだ自然が多く残る地域で過ごした。その後同じ高校で、桜井と田原と中川が出会う。
 彼らがバンドを組みたいと思ったのは必然だった。世の中が、BOΦWYやレベッカの活躍に端を発するバンド・ブームだったからだ。中学の文化祭で、田原と中川は同級生が演奏する姿に感激。高校に進学したら、バンドをやろうと、卒業を期に楽器を購入する。この時すでに、田原がギターで中川がベースと、まだバンドもないのに担当を決めていたのが面白い。音楽に関して早熟だったのは鈴木で、すでに中学生の頃からギターやドラムを演奏していた。家の近くに多摩川の河川敷があり、何ならドラムの練習場にもなった。
 姉のギターを借りて、見よう見まねで弾いたところ、その姉にいたく褒められたことから音楽に積極的になっていく桜井も、高校は絶対に「軽音楽クラブ」のあるところ(で、共学のところ!)と考えていた。「どうせやるなら絶対にプロでやりたい」。この年代の男子にしては、しっかりした考えの持ち主で、甲斐バンドや浜田省吾のレコードに合わせて歌っているうち、歌うことの喜びも涌いてきていた。
 高校に入ると、警音で出会った仲間と最初のバンドが結成される。女性キーボード奏者も加わって、当初は「Beatnik」と名乗り、他人の曲のコピーはそこそこに、すぐオリジナル作りに励んだ。「最初は満足に出来なかったけど、オリジナルなら、自分達のやれるはんいでやればいい」(田原)。プロ指向ゆえのオリジナル重視、とは別に、そんな切実な理由もあったのだ。まもなく桜井は、曲作りの才能を発揮し始める。ガールフレンドを讃えた爽やかなラブ・ソングも作ったが、社会の授業でベルリンの壁崩壊の意味を知るや、そんなテーマの歌も作った。田原はリトル・リーグで活躍してきた経緯から、いったんはバンドを諦め野球部に所属するが、彼がテレキャスター・モデルを所有してることを知った桜井が、ある日こう告げる。「明日から、バッドをギターに持ちかえろ!」。新入生の時に最初に仲良くなった中川は、程なく出席日数が減少していった。でも桜井は、中川を失いたくなかった。学食の自販機でホット・レモネードを奢り、こう言った。「学校はやめても、バンドは続けよう!」。苦心したのはドラム探しだ。なかなか続く人が見つからない。しょうがないから、桜井がドラムを叩きながら歌う時期が続いた。でも彼らの「プロになる」という意志は、周囲の好反応もあり、萎えることはなかった。そもそも尾崎豊は、十代ですでにプロとして認められていたし、若すぎるとも思わなかった。オーディションに応募すると、いつも楽曲審査でいいところまで行った。ライヴハウスにも、ちょくちょく出始めていた。
 そんなある日のこと。吉祥寺のライヴハウスで一緒になった幾つかのバンドの中に、田原と中川の中学校の同級生の顔があった。当時「フェアリーランド」という名のバンドに所属していた鈴木である。3人で、彼を誘った。高校卒業という岐路のなかで、メンバー間で進路が話し合われ、桜井、田原、中川が残った。そこに新加入の鈴木と、この4人で固まった。その後間もなく、彼らはめでたく、当時プロへの登竜門であった、「SDオーディション」の決勝大会に進出する。しかし合格はならなかった。当時は「The WALLS」と名乗っていたのだが、文字通り、壁にぶちあたってしまったのだった。このオーディションにはユニコーンがゲスト出演しており、そのカラフルで力強い音楽性には、大いに刺激を受けた。
 オーディション終了後、グループ名を「ミスター・チルドレン」に改名し、年が変わり1989(平成元)年からは、この名前で活動することを決意する。いつも4人が集まっては四方山話をしていたファミレスのテーブルの上で、いくつかの候補の中から選ばれた名前だ。それまでの彼らは、辻仁成率いるエコーズに影響され、問題意識を歌ったナンバーも多かった。しかし、「本来自分の中にないものを、無理してつくろってたのかもしれない」(桜井)と言う通り、さらに広い視野で音楽に向かっていく意思が、この改名とともに確認された。渋谷のライヴハウス「ラ・ママ」のオーディションに合格し、出演出来ることになったのもラッキーだった。
 「ラ・ママ」で着実に動員を増やしつつあった彼らは、関係者の目にとまり、デビューの誘いもいくつか舞い込むようになる。当時はまだ、ホコ天やイカ天の影響によるアマチュア・バンドの“デビュー・ブーム”が続いていたからだ。しかし彼らは慎重だった。そして1991(平成三)年。転機がやってくる。自ら望んで3ヵ月間の活動休止を申し出た後、桜井は新たな気持ちでの曲作りに励み、バンドは音楽性を広げ、ライヴハウスに戻ってきた。大方の意見は、「前の方が良かった」だった(この時4人はドドンパ風の楽曲まで手がけていた)。しかし、トイズ・ファクトリーの稲葉は「今の君たちにこそ可能性を感じる」と言った。当時、色々と世話をしてくれた人達のつてもあり、ジュン・スカイ・ウォーカーズが所属する「バッド・ミュージック」への所属も決まった。プロへのお膳立てが整った。4人はジュンスカのライヴのオープニング・アクトを務め、プロのバンドが成すべきことを学んだ。さらに大きな出来事は、プロデューサーの小林武史との出会いである。小林は桑田佳祐のソロや小泉今日子の♪あなたに会えてよかった♪の作曲者として知られていたが、4人を手がけるにあたり、まず「バンド・ブームに対して“カウンター・カルチャー”となるべき方策”を練った。重要なのは、たとえアーティスト写真一枚でも疎かにしないことだ。そのディレクションは、ユーミンやフリッパーズ・ギターを手掛け、CDジャケットをアートにまで押し上げたと言われた、コンテムポラリー・プロダクションの信藤三雄が手掛けることとなった。
 そして4人と小林との曲作りのコラボレーションが、彼の家で始まる。こと作品作りに関しては、ここまで挫折もなくやってきた桜井は、ここでプロの凄さと厳しさを知る。小林は楽曲に対して忌憚のない意見を述べ、曲の構成や詞の在り方を、どんどん手直ししていった。1992(平成四)年に出た7曲入りのデビュー・アルバム『Everything』は、勢いの良さが魅力な部分もあるものの、曲の完成度の確かさこそが印象的な内容だった。反応の良さから、♪君がいた夏♪がシングル・カットされた。
 彼らがデビューした頃といえば、チェッカーズなど大物バンドの解散が相次ぎ、通信カラオケの普及で「歌」への需要がさらに高まった時期だった。ドラマ主題歌からミリオン・セラーが生まれ始め、300万枚のセールスも夢ではなく、日本人アーティストがアリーナ公演を可能にしたころでもあった。もし第一線で活躍しようとするなら、音楽シーンの巨大化への対応は、避けて通れないものだ。そんな時、彼らが最初に行ったのは、曲作りを確固たるものにすることだった。小林と桜井がアイデアをぶつけ、楽曲を練り上げることに集中したアルバム『Kind of Love』が完成した。技術革新も著しかった。コンピューター上に生楽器の音まで取り込めるシステムが開発され、いち早く彼らは、それを活用した。アルバムは、名曲揃いだった。しかしバンドの作品集というより、小林と桜井、二人のタッグによるところが大きい。
 ミスチルはバンドなんだ。その原点に立ち戻る必要があった。次の『Versus』は、楽器おのおのの音に、さらなる生命力を吹き込むべく、ニューヨークの「ウォーター・フロント・スタジオ」が使用された。レニー・クラヴィッツがアナログ・ロック復興の拠点としていた場所だ。結果、楽曲とバンドの骨格が、タイトル通り対峙した作品となり、雑誌のネクスト・ブレイク候補に、彼らの名前があがり始めた。まだデビュー2年。
 それと並行して、「幅広く認められる曲」を目指し奮闘したのが桜井だ。「確かによく言っていた。必ず100万枚セールスする曲を作るって」(鈴木)。最初にタイアップがついたのは、お菓子のCFで流れた♪Replay♪だ。手応えは上々。その4ヵ月後、彼らにとって、初のドラマ主題歌となったのが、♪CROSS ROAD♪だった。桜井が捜し求めていた、人を感動へ誘う黄金律のようなものを、ついにこの曲で見つけたのだ。バンドをやる楽しさだけでは、ロック幻想のぬるま湯のままだ。「姿勢」は残せても「楽曲」は残せない。かといって、バンドをないがしろにしてまでセールスに走っても、4人でいる存在理由がなくなる。しかし彼らには、そんな心配はなかった。ツアーの動員が順調な中、♪CROSS ROAD♪は演歌のように売れた。チャートのベスト5には一度も入らなかったが、発売22週目には、遂に初のミリオンを達成したのだ☆\(=^◇^=)/☆。
 ♪CROSS ROAD♪のヒットにより、「青春の甘酸っぱいラブ・ソングを歌わせたら定評のあるバンド」と認知された彼ら。さらに♪innocent world♪のヒットが続き、人気は不動のものに。しかしこの曲は、バンドの節目となる内容だった。というのも、それまでの曲は「より幅広く受け入れられる事」を目指し、登場人物やシチュエーションがドラマチックに整えられたものが大半だった。しかし♪innocent world♪、詞の中に“ミスター・マイセルフ”という言葉が出てくるように、桜井個人が自らの内面をぶちまけた歌だった。彼は「このあたりから、どんどん自我を解放していく」(桜井)ことになり、しかしそれがより多くの人達に支持されたことで、前代未聞の快進撃が始まるのだ。「もっと巨大な怪獣になりたいという欲求」(桜井)が、次なる目標へと駆り立てる。その結果完成したのが、あの『Atomic Heart』だ。バンドの生音にデジタルなサウンドを大胆にぶつけていくデジ・ロックの手法と、遺伝子レベルまで遡って愛を考察しようという歌世界が合体した、今までになく実験的で、なおかつ新たなポップ観をまとった作品となった。
 バンドを巡る状況も急変した。より腰を据えた活動を目指し、所属事務所を現在のウーロン舎に移したのもこの時期だ。そして、先を見据えた小林武史のプロデュース・ワークも、最高潮へと達していく。彼はこの『Atomic Heart』というアルバムを軸に、内容のまったく異なるふたつのツアー、“tour innocent world”と“Tour Atomic Heart”を、途切れる事なく連続して敢行するアイデアを考える。肉体的パフォーマンスを重視する前者、巨大セットと最新テクノロジーの中にバンドを同居させようとする後者。その対比。さらにバンドの急成長を、ドキュメンタリー映画に記録する。かくして1994(平成六)年から1995(平成七)年にかけてのミスチルは、彼らの人生の中で、もっとも多忙な日々を迎える事となる。
 しかしツアーがメインとはいえ、創作意欲は衰えない。その最初のツアー中にリリースされたのが♪Tomorrow never knows♪で、まさにツアー先のホテルで書かれた曲だった。生きていくことそのものを歌ったようで、バンドが置かれている状況をリアルに歌っているようにも聞こえるこのバラードには、大物バンドとしての風格すら備わってきた。
 当初、そのカップリング用に考えられていた♪everybody goes ~秩序のない現代にドロップキック~♪を、新しいシングルとして1ヵ月後にリリースしようと思ったのは、ツアーをしながらツアーでさらに盛り上がる曲を作るという、1分1秒たりとも無駄にしない、あの当時の彼らの実に濃密なクリエイティヴィティのなせる技だった。こうして桜井の曲つくりのタブーが、ますます無くなっていく。そして、バンドを始めたのなら、ひとつの到達点である初の武道館公演(いきなり2日間だった)も、この年の暮れに実現する。しかしそのすぐ後に“Tour Atomic Heart”という巨大なものが待っていたため、まさに通過点という感覚しかなかった。♪innocent world♪は、レコード大賞を受賞。ミスチルは、こうして1994(平成六)年の顔となったヨ(=^◇^=)
 クリスマスも正月も殆ど休まず、新しい年がやってくる。明けて7日には、新しいツアーがスタートした。トータル72面のキューブ・スクリーンが積み上げられ、『Atomic Heart』というアルバムが、立体的に語りかけた。観る者の予想を遥かに越えた、音と光が織りなす一大エンターテインメントだった。肥大の一途を辿っていたバンドへの期待感に、こうして見事に応えてみせたのだ。
 チャリティにも積極的になっていったのがこの時期でもあった。桑田佳祐から誘いを受けて、AAA(Act Against AIDS)のコンサートに参加。その桑田と桜井がデュエットした♪奇跡の地球♪は、AAAの新たなキャンペーン・ソングとなり、「LIVE UFO」のステージは、ロック・オペラ仕立てで、ストーンズやディランなど、黄金時代のロック・スタンダードを次々と熱唱していく構成。しかし、こうして走り抜けてきた日々を、ここらで振り返る時期がやってきた。ドキュメンタリー映画『【es】Mr.Children in FILM』は、新たな海外ロケを含み、そしてテーマ曲の完成とともにロードショー公開された。夏には野外イベント「空」で、実りの多かったこれらの日々が、感謝を込めて、夏の夜空に、そしてファンの元へと還されたのだった。

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01|♪君がいた夏♪|(5:53) 01stシングル
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 肉・・・1992(平成四)年08月21日(金)にリリースされた、記念すべきデビュー曲。夏の終わりの甘酸っぱい想いを、桜井の印象的なスライド・ギターとともに聞かせる。彼らがアマチュア時代から演奏していた作品だが、プロデューサー小林武史との出会いにより、よりフックの効いた、ダイナミックな展開に。その小林の、風景のパノラマを眼前に見せるアレンジが、まさに素晴らしい。ちなみに詞の背景となったのは、桜井が子供の頃に親しんだ、山形の海。『君がいた夏』というタイトル自体は、1988(昭和六十三)年の同名アメリカ映画からとられたようだ。オリコン最高位69位。25万枚のセールスを記録。
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02|♪星になれたら♪|(5:03)
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 1992(平成四)年12月01日(火) 02ndアルバム『Kind of Love』収録曲
 肉・・・曲は当時ジュンスカイ・ウォーカーズのベーシストとして活躍し、現在はゆずのプロデュースで知られる寺岡呼人との共作曲。デビュー前年の初夏、桜井は寺岡のセッション・バンド「ヒズ・フレンズ」に参加、ツアーに帯同するが、その時期に作られたのがこの作品だ。出だしのAメロは寺岡作で、続けて桜井が書き、両者の掛け合いにより、メロディが完成されていった。詞は、当日、寺岡宅から自転車で帰宅途中、ふと桜井の頭に浮かんだもの。「星」や「虹」など、古典ミュージカルの専売特許と思われがちだった言葉に、新たな息吹を与えたのもこの頃の彼の詞の功績だろう。セカンドアルバム『Kind of Love』収録曲。
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03|♪抱きしめたい♪|(5:25) 02ndシングル
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 肉・・・愛することへの不信感を1ミリたりとも感じさせない盤石なラブソングとして、幅広いファンにお馴染みの曲。でもそれもその筈。「ヒトの結婚式でギターの弾き語りで歌うような前向きのラブソングがない!」というのが、この曲が作られた動機だから。実際、ジュン・スカイ・ウォーカーズの宮田和弥の結婚式の為に作られたのが、この曲の原型で、歌詞の♪抱きしめたい♪や♪歩いていこう♪は、彼らの作品にまつわる言葉を折り込んだ、ニクい演出だった。その後、サビの絶妙な転調部分などが加えられ、現在の形に。
 1992(平成四)年12月01日(火)に、2枚目のシングルとしてリリースされ、最高位56位、70万枚のセールスをあげる。
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04|♪Replay♪|(4:30) 03rdシングル
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 肉・・・「グリコポッキー」のCF曲として、広くお茶の間にも流れ、バンドの知名度を一気にあげた楽曲。恋に落ち、でもお互いに慣れ過ぎて、別れ話のひとつも出始めたカップルが、その倦怠期を声、どう前向きに歩んでいけるのかが歌のテーマ。ポップ・ソングのキャッチーさを追求することに余念が無かった頃の作品だけに、頭の印象的なサビに始まり、その後も珠玉のメロディの連続で、冒頭で示された今現在の二人の想いに至るまでのことが、AメロBメロで遡って“リプレイ”されていく曲構成がニクい。
 1993(平成五)年07月01日(木)に3枚目のシングルとしてリリース。最高位19位。30万枚のセールス。
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05|♪LOVE♪|(4:06)
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 1993(平成五)年09月01日(水) 03rdアルバム『Versus』収録曲
 肉・・・イントロのギターのフレーズからして、とても覚えやすい曲調ながら、よく聴くと、細かいところが凝ったり作りの飽きの来ない出来。タイトルからして人類愛を訴える内容と思いきや、作者の桜井自身、「この娘もいいな、あの娘もいいなって気持ち、そのまま書いた(笑)」と回想する通り、ひとりの青年の、恋に欲張りな気持ちを開けっ広げに歌ってみせたところが斬新。サビの凝った展開は、山中湖に合宿して考えられたもの。ちなみに中川の友人で、後にこの曲の歌詞を大学の卒論のテーマにした人物がいるとか。
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06|♪my life♪ |(4:28)
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 1993(平成五)年09月01日(水) 03rdアルバム『Versus』収録曲
 肉・・・♪62円の値打ちしかないの?♪で始まる冒頭が、発表されるや評判に。そして「ラブレター(1番)、破れた~(2番)、フラれた~(3番)」と、韻の踏み方も絶好調。でもこういう曲ほど、「なんとなく頭のとこからスラスラ出てきた」(桜井)ものだったりする。現在の封書の値段は80円。ロクジュウニエンだったからこそ、このメロディを呼び込めたと思うと、歌を作るのって、つくづく瞬間の集中力、という気もする。イントロや間奏のシンセのフレーズが、この歌の七転び八起き的人生観を、大いにもり立てる。ちなみに当時JENは、女の子に振られるたびに、「俺ってまたmy lifeしちゃったよぉ~」と呟いていたとか。
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07|♪CROSS ROAD♪|(4:34) 04thシングル
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 肉・・・ドラマ『同窓会』の主題歌として、桜井が第一回放送分の台本を読み、この曲を作った。しかもスケジュールは非常にタイト。でも、1993(平成五)年の秋、ツアーの合間の山中湖「ビクター・スタジオ」で、この曲の完成形が見えるやいなや、「遂に100万枚セールスする曲が出来た!☆\(=^◇^=)/☆」と叫んだエピソードは有名だ。それほどまで、詞・曲・アレンジのバランスに、今までにない達成感を得たのだろう。予言は的中し、
 1993(平成五)年11月10日(水)のリリース以来、最高位こそ第6位だが、以後、しぶとくチャートに居続けて、発売22週目にして遂に100万枚突破☆\(=^◇^=)/☆。130万枚のヒットとなる。
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08|♪innocent world♪|(5:46) 05thシングル
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 肉・・・彼らにとって最大の転機となった曲。当初は♪Replay♪的なラヴ・ソングを磨き上げる方向だったが、「今、Mr.桜井和寿が歌うから意味のあるものを」という、そんな小林武史の提案で、自らの心情を飾らずに吐き出した。この歌の独自の世界観が生まれる。楽曲を練り上げる作業は、東京・新宿の「ヒルトン・ホテル」の一室を長期貸し切って行われ、詞は曲が完成した当日、環状七号線早稲田通り付近を走行中の桜井の頭に浮かんだもの。間奏の中川のベース・ソロが効果的で、バンドの成長を伺わせる。
 1994(平成六)年06月01日(水)にリリースされて、185万枚の大ヒットを記録する。
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09|♪Dance Dance Dance♪|(4:59)
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 1994(平成六)年09月01日(木) 04thアルバム『Atomic Heart』収録曲
 肉・・・エッジの効きまくった“ジャガジャガジャガッ”のギターの音は、田原の弾くC7sus4のコードをサンプリングして作られたもの。生音にエフェクディヴな音を大胆に同居させる方法論(当時はデジ・ロックとカテゴライズされもした)が、小林武史の提案のもと、一気に開花していった曲でもある。マイクにオートバイのマフラーを括り付けて録音されたスネアの音が、聴く者の胸に突き刺さる。そして、一見無機的なコードの並びからメロディを掴み取っていく桜井のボーカルには、まさに音楽的な運動神経を感じてしまうのだ。もともとは、「今の自分達が武道館のような大ホールでやるとしたら?」というところから発想され、武道館はおろか、アリーナ・クラスの会場をも涌かす、コンサートの起爆剤的ナンバーへと成長していった。
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10|♪雨のち晴れ♪|(5:36)
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 1994(平成六)年09月01日(木) 04thアルバム『Atomic Heart』収録曲
 肉・・・桜井は曲作りに疲れた時、「これは自分用の曲ではないのだから・・・」という気楽な気分になり、そのことで別の引き出しを開け、びっくりするような名曲を生んできた。この曲も、『Atomic Heart』製作中の重圧の中、「JENがもしもサラリーマンだったとしたら?」という発想のもとで作り始められた。スタイル的にはローファイなラップを目指し、当初はJENのボーカル曲の予定でもあったが、詞が完成するや曲に愛着間を感じ始めた桜井は、「自分で歌わせて欲しい」と志願。“TOUR INNOCENT WORLD”の際にはアンコールで演奏され、しかもメンバー全員サラリーマン姿というパフォーマンスでやんやの喝采を浴びた。このステージでの構成を踏まえたリミックス・ヴァージョンが、♪【es】~Theme of es~♪のカップリングとなったが、これはオリジナル・ヴァージョン。
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11|♪Over♪|(4:43)
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 1994(平成六)年09月01日(木) 04thアルバム『Atomic Heart』収録曲
 肉・・・悲しく切ない、でも決してくじけない愛の幕切れの歌。桜井がこの曲に関して、「悲しいことを悲しいことと思わない僕の性格が出た」と言ってたのを思い出す。だからたいとるのオーバーは、「これで終わりにしよう」と、「でもここを越えてかなきゃ」という、このふたつを掛けているのだろう。揺らいだ歩幅を元の力強いものへと整えようとするかのようにリズムにアクセントを加えるタンバリンの音、主人公達の背中を何とか押そうとするかのように浮かびあがる、きらびやかなラッパの音やビーチボーイズ風のコーラスが効果的。「顔のわりに小さな胸」といった、独特な女性観による桜井の詞は、他の追従をまったく許さない領域に。
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12|♪Tomorrow never knows♪|(5:09)  06thシングル
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 肉・・・ドラマ『若者のすべて』の主題歌として大ヒットしたこの曲は、夏のイベント中の1994(平成六)年8月、滞在先の名古屋で、まず先に曲の方が完成している。「痛みを突き放し、そこに出口を見つける」という小林武史の提案のもと、なんと3時間という速さで作られた。詞が完成するキッカケは、翌月。♪勝利も敗北もない孤独なレース♪というフレーズは、石神井公園でジョギング中の桜井の頭に浮かんだもの。
 1994(平成六)年11月10日(木)にリリースされ、初登場第1位を獲得し、280万枚のセールスをあげる。ここに収録されたのは『BOLERO』に収められたアルバム・ヴァージョン。オリジナルでは打ち込みだったリズム・トラックが、中川と鈴木のこなれた演奏に差し替えられたもの。オーストラリアのグレート・オーシャン・ロードの断崖で空撮されたプロモ・ビデオも大評判になった。
  備考・・・本作に収録されているのは6thアルバム『BOLERO』に収録されていたアルバムバージョン音源で収録
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 |     ♪everybody goes     |
13|~秩序のない現代にドロップキック~♪|(4:38) 07thシングル
 └─―――――――――――――――――┘
 肉・・・小林武史と桜井の間で「コンサートで盛り上がる新たな曲を」という構想のもとに作り始められた曲。小林の提示したコード進行に桜井がギター・利府を考案、そこにバンドが加わることで、アドレナリンが洪水になりそうなロックンロールが出来上がった。詞は“TOUR INNOCENT WORLD”の真っ只中、に移動中の車内などで書いたもの。気がつくと世の中の様々な欺瞞をぶちまけた内容になっていた。当初は♪Tomorrow never knows♪のカップリングのために書かれたものだったが、あまりの出来の良さに、急遽その1か月後のリリース目指しシングル化が決定した。しかし過激な歌詞が災いし、タイアップからヒットが生まれる時代なのに、その申し出は一切なし。にも関わらず、
 1994(平成六)年12月12日(月)に初登場第1位を獲得。136万枚をセールス。
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14|♪【es】 ~Theme of es~♪|(5:51)
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‡1995(平成七)年05月10日(水) 08thシングル
 肉・・・95年6月から東宝系でロードショー公開されたミスチル初の同名映画の主題歌。その内容がロードムービー的だったからか静かに、語り始めるようなテイストのオープニングである。歪んだギターの音と華麗なストリングスの遠慮のない競演は、清濁併せ飲むことで真のポップを追求してきた彼らの姿勢を、雄大なバラードの形で証明した結果でもあった。詞のモチーフとなったのは、当時桜井が『月刊カドカワ』に連載していたエッセイで、「自分の理想の人間像」に関して執筆したものが土台となっている。1月にこの曲のプリ・プロを雪深い札幌で行っている最中、阪神・淡路大震災が起こり、気がつくとそれが♪何が起こっても変じゃない♪という詞のフレーズとしてインプットされる結果にも。1995(平成七)年05月10日(水)にリリースされ、初登場第1位。168万枚のセールスをあげるヨ(=^◇^=)
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15|♪シーソーゲーム~勇敢な恋の歌~♪|(4:31) 09thシングル
 └─――――――――――――――――┘
 肉・・・【es】で何かを悟ったかにみえたが、「またここで人生の過ちを繰り返すシーソーゲームというか・・・・・・。分かっちゃいるけど、やめられないというか(笑)」。当時のインタビューで桜井がこう発言していたように、ここのところシリアスなシングルが続いていた彼らにとって、久々の恋愛ソングとなった。その駆け引きに熟達したかのような主人公が、実はその渦中で翻弄されまくっている様を、ユーモアとペーソスで描き切る。しかし途中で、神代の昔まで遡って恋心を考察してるあたり、♪LOVE♪の頃と較べ、人間的な成長が・・・。曲調は彼らが尊敬するイギリスのロック☆スター、エルヴィス・コステロばりのヒネった感覚が、バッチリ決まってる。なおこの楽曲の印税は、阪神・淡路大震災の義援金に充てられた。
 1995(平成七)年08月10日(木)にリリースされ、初登場第1位。203万枚のセールス。

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