過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)

 県内の緊急事態宣言 最終日 広島
 2021(令和三)年06月20日(日) 16:51配信 HOME広島ホームテレビ
 県内への緊急事態宣言は20日で最終日です。原爆資料館など臨時休館となっている広島市の施設は21日から再開されます。緊急事態宣言の解除決定を受けて、広島市は原爆資料館や安佐動物公園など474施設を21日から順次再開します。一部施設では県の方針に合わせて来月11日まで開館時間が午後8時までに短縮されます。県は
‡2021(令和三)年06月21日(月)から来月
 2021(令和三)年07月11日(日)まで広島市、東広島市、廿日市市の酒を出す飲食店を対象に、酒の提供時間と営業時間の短縮を要請しています。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/a2b13239938a4c2b2a00584b82a689f4f2fa0038

 尾道ラーメン新潮流「朱華園」去って1年、味やメニューで勝負 新機軸の店も台頭
‡2020(令和二)年06月21日(日)
 写真◆魚介風味を強めて独自色を出す「尾道ラーメン 丸ぼし」
「尾道ラーメン」のけん引役として尾道市民や観光客に愛された「朱華園」が事実上閉店し、19日で1年になった。先駆者なき今、ブームの中で出店した新興組は味やメニューで個性を打ち出そうとする。一方、新機軸の店もじわり評価を上げている。尾道のラーメン文化はどこへ向かうのか。新興組として存在感を示すのが、2016年開業の「尾道ラーメン丸ぼし」だ。豚の背脂入りしょうゆ味スープに平打ち麺というスタイルは、一見するとオーソドックス。しかし、タイの煮干しでだしを取るなど魚介風味を前面に出す。福山市で飲食店を手掛ける有限会社が出店した。佐藤光正社長(47)は「独自の味で勝負に出た」。JR尾道駅近くに18年、約30年ぶりに復活した「日乃出食堂」。店主の田口栄治さん(72)は、祖父の時代になかった尾道ラーメンを軸にする。ニンニクや唐辛子、豚の背脂などを炒めて入れたペペロンチーノ風も人気を集める。両店が意識するのは、各店に並ぶ観光客だ。田口さんは「尾道ラーメンを掲げなければ取り込めない。その中で、個性もどう出していくかが勝負」という。尾道ラーメンは、戦後間もない1947年ごろから朱華園が屋台で出した中華そばが源流とされる。90年代以降は全国区となり、尾道の観光地化に伴って中心部に店が増えていった。ところが、近年は全く違う系統の出店も相次ぐ。昨年開いた「尾道家系ラーメン 轟(とどろき)や」は、関東発の家系ラーメン。府中市出身で東京で修行した大江由次さん(51)の味は、市民を中心に徐々に固定客をつかむ。17年に開業した鮮魚系の「オノミチ潮ラーメン でんやす」は人気が高じて店を畳み、東京へ進出した。尾道観光協会によると、市中心部でラーメンを出すのは約40店。うち約6割が尾道ラーメン系という。広島の食文化を研究し、著書もあるシャオヘイさん=広島市西区=は「ラーメン店は本来、新陳代謝が激しい。朱華園が一番であり続けたことが特異で、新しいタイプの店が増えるのは自然」とみる。観光客は今、新型コロナウイルスの影響で激減している。「元祖の店あってこその尾道ラーメン文化でもあった。今後も残っていくには地元の住民に食べられ続けられることが大切」と指摘する。(神田真臣、田中謙太郎、森田晃司)※記事中の店など5店を写真とともに紹介します(会員登録が必要です)
 尾道ラーメン丸ぼし 日乃出食堂 尾道家系ラーメン 轟(とどろき)や
 拉麺 またたび めん処(どころ)みやち
 関連記事「尾道「朱華園」、最後のラーメンに長蛇の列」
 関連記事「尾道のラーメン店「でんやす」、東京出店 独自のタイだしで挑戦」
 https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=654657&comment_sub_id=0&category_id=112

 山下商店
‡2017-06-21 07:50:16 テーマ:岡山県
 https://ameblo.jp/75810000/entry-12239245075.html
 https://tabelog.com/okayama/A3301/A330101/33010711/dtlrvwlst/B281096246/

 映像◆Muay Thai VS Karate https://youtu.be/px1Ivctja4w
 『ゴング』『沢村 忠 衝撃のKO敗、その真実!!』
‡1966(昭和41)年06月21日 東京・渋谷 リキ・スポーツパレス
 沢村 忠 これがサマン戦の真実だ!!
 

 人間ドッグ、行けば行くほど殺される・・・? #与国秀行 #一般社団法人武士道 https://youtu.be/-qM9zpuvqcY
 1984(昭和59)年07月09日(月) 01:03『日本経済新聞』「ユダヤ人のアメリカ」
  アメリカはユダヤ人のものだよと言った最後なんです。吉田さん『日本経済新聞』支局長が日本に呼び出され編集長もダメ!それほどユダヤ問題はデリケートで
‡タブーだらけの自由の中で葬られて逝く孤立した叫び声
 
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 ┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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 1961(昭和36)年06月21日(水) 柔道とバレーボールが東京五輪の正式種目に ⇒ 国際オリンピック委員会(IOC)総会で、東京五輪に柔道とバレーボールが正式種目として採用されることが決定した。1964年の東京五輪で女子バレーボールは金メダルを獲得。「東洋の魔女」の異名を取った。写真は東京五輪決勝戦の日本対ソ連。日本は3?0で圧勝した=東京・駒沢体育館【時事通信社】
 1962(昭和37)年06月21日(木) 司馬遼太郎「竜馬がゆく」の連載が産経新聞で開始
 1995(平成七)年06月21日(水) 羽田発函館行きの全日空機を銀行員がハイジャック
 https://www.jiji.com/jc/daily
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①┃    Moses Fleet Walker    ┃
 ┃ モーゼス・フリート・ウォーカー ┃
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 1856(安政三)年10月07日(tue) Born
 1884(明治17)年05月01日(thu) MLB debut メジャー初出場
 1884(明治17)年09月04日(thu) Last MLB appearance 最終出場
 1924(大正13)年05月11日(sun) Died (aged 67)
 Note・・・弟のウェルデイ・ウォーカーとともに、現在メジャーリーグで最初にプレイしたアフリカ系アメリカ人とされているヨ(=^◇^=)
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②┃ Weldy Walker ウェルディ・ウォーカー ┃
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 1860(万延元)年07月27日(fri) Born 
 1884(明治17)年07月15日(tue) MLB debut メジャー初出場
 1884(明治17)年08月06日(wed) Last MLB appearance 最終出場
 1937(昭和12)年11月23日(tue) Died (aged 77)
 Note・・・現在メジャーリーグで最初にプレイしたアフリカ系アメリカ人とされているヨ(=^◇^=)
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 ┃    William Edward White    ┃
 ┃ ウィリアム・エドワード・ホワイト ┃
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 1860(万延元)年10月XX日(XXX) Born 
‡1879(明治12)年06月21日(sat) MLB debut メジャー初出場
‡1879(明治12)年06月21日(sat) Last MLB appearance 最終出場
 1937(昭和12)年03月29日(mon) Died (aged 76)
 Note・・・アメリカ野球学会の研究により、メジャーリーグで最初にプレーしたアフリカ系アメリカ人である可能性が示唆されているヨ(=^◇^=)
******************* https://www.uta-net.com/song/78844
①https://en.wikipedia.org/wiki/Moses_Fleetwood_Walker
②https://en.wikipedia.org/wiki/Weldy_Walker
③https://en.wikipedia.org/wiki/William_Edward_White
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 ┃ 王貞治 ホームラン(本塁打)記録 ┃
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‡1973(昭和48)年06月21日(木) 550号 中日ドラゴンズ11回戦 中日スタヂアム 4回表 伊藤久敏 右越ソロ 2人目
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/王貞治
 https://www.uta-net.com/song/2025
 https://www.uta-net.com/song/78844
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1995(平成七)年06月21日(水) ヤクルト・稲葉篤紀が初打席初本塁打デビュー
‡2017(平成29)年06月21日(水) 11:10 プロ野球の歴史の中で、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は6月21日だ。 
 写真◆公式戦初打席初アーチはヤクルトでは88年のデシンセイ以来
 すでに引退しているが、SHINJOとともに、日本ハムの象徴的存在となっているレジェンド・稲葉篤紀。1995年6月21日は、その稲葉が前球団のヤクルトで華々しいデビューを飾った日だ。 
 95年、稲葉は法大からドラフト3位でヤクルト入団。当時の野村克也監督が明大にいた息子・克則(カツノリ)の試合を観戦した際、対戦相手だった法大の左打者・稲葉の素材に注目し、指名に至ったという逸話もある。開幕から二軍スタートだったが、結果に加え「練習の虫」と首脳陣の評価も高く、一軍昇格は時間の問題と言われていた。 
 前日、携帯電話で一軍登録を知らされ、広島に急きょやってきた稲葉だったが、21日の広島戦(広島市民)で、いきなり「八番・一塁」でスタメン。その第1打席で中京高の先輩・紀藤真琴から右中間に本塁打。「緊張もなく、無心でボールに集中できました」と稲葉。その後もヒットが続き、4打数3安打の猛打賞。試合も4対0で完勝とあって、野村監督は「遠い東京の空から幸運を運んでくれたわ」とニヤリ。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2008(平成20)年6月21日(土)「今日は村田の風が吹いていた」。ハマにはまだ気力が残っているぞ!
‡2018(平成30)年6月21日(木) 8:04 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は6月21日だ。 
 写真◆6月21日の西武戦(横浜)で同点&サヨナラ弾を放った横浜・村田外
 2008(平成20)年、横浜は94敗を喫し、ダントツの最下位。交流戦は6勝18敗に終わった。 
‡2008(平成20)年6月21日(土)は、屈辱の中で、この年、3度目の連勝を飾った日だ。まず、
 2008(平成20)年6月18日(水)の対ロッテ戦(横浜)。8回を終わって4対1と珍しく横浜ペースの試合展開。ここで勝たなくて、いつどこで勝つのだ、という試合だった。リリーフの寺原隼人がムキになって三振を取りまくった。2回で5奪三振。9回表は3者三振で4対1のまま終わった。負ければ借金30。もちろん12球団最悪だ。借金が2ケタなのは横浜のみである。 
 この試合、2二塁打、3出塁と活躍した仁志敏久は「今日のような形で乗り切ることが大事。でも、1試合じゃどうにもならない。2試合続けないと意味がない」と厳しい表情を浮かべた。 
 それが2試合続いた! 
‡2008(平成20)年6月21日(土)の対西武戦(横浜)は8回表を終わって1対4と弱い横浜に逆戻り。 
 この「またか」を「まさか」に変えてくれたのが主砲・村田修一だった。8回裏に中越えの起死回生17号同点3ラン。それまでは引っ張りにかかって3打席凡退していたが、この打席は外のチェンジアップを素直にセンター方向に運んだ。 
「そろそろ緩い球が来るかなと思っていたからね」と村田。力みが消え、狙いも当たったとなれば、この男はノリノリになる。 
 延長10回裏二死、村田はグラマンの148キロ速球を右中間にたたき込んだ。劇的なサヨナラ18号(5対4)。 
「今日は村田風が吹いていた。ライトスタンドにたくさんのお客さんが入ってくれたし、打てばいいことがあると思った」 
 とファンに感謝した。 
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③┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2009(平成21)年06月21日 ヤクルトが史上12度目の3試合連続サヨナラ勝ち
‡2019(令和元)年06月21日(金) 7:07 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は2009年6月21日だ。 
 写真◆20日の西武戦でサヨナラ打を放ったデントナ
 好調ヤクルトが本拠地・神宮で3試合連続のサヨナラ勝ちの離れ業を見せて7連勝を果たし、最高の形で交流戦を終えた。 
 まず、6月17日のロッテ戦では右手人さし指のマメに苦しむなど約2カ月、白星から遠ざかっていた由規が復活の3勝目を挙げて4連勝。サヨナラ劇場が始まったのは、翌18日の同カードからだ。 
 5対5の延長11回、勝負を決めたのはガイエルだ。シコースキーの直球を迷いなく振り抜き、右中間へ高々上がる「自身初」というサヨナラ弾。お立ち台で「チョーキモチイイ!」と喜びを表した。続く20日の西武戦で打棒を振るったのはデントナ。2回にソロを放つと、1対4の8回には起死回生の同点3ラン。そして延長10回一死満塁の好機に、野上亮磨からレフト前へV打。チームの全得点をたたき出す活躍だった。 
 21日の同カードは守護神・林昌勇が9回に久々の失点を与えて5対5の同点とされる嫌な展開だったが、その裏に満塁のチャンスを作ると、福地寿樹の一塁ゴロを中村剛也が本塁悪送球し、勝負あり。プロ野球史上、3試合連続のサヨナラ勝ちは12度目。ヤクルトは78年、95年に次いで球団史上3度目だった。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170621-01
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180620-04
 ③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190621-11
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③┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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 2008(平成20)年6月22日(日) 野村楽天が岩隈久志、田中将大の豪華リレー
 2018(平成30)年6月22日(金) 10:35 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は6月22日だ。 
 写真◆お立ち台での2人。右から岩隈、田中
 前年3位となった楽天だったが、今季は投打の歯車がかみ合わずダントツの最下位。ついに梨田昌孝監督が辞任となった。 
 2005(平成17)年結成の楽天。
 2013(平成25)年、星野仙一監督による優勝、日本一は記憶に新しいところだが、Aクラス入りは、この日本一と梨田監督の17年を除けば
 2009(平成21)年の1年しかない。 
 野村克也監督の4年目、投手には現メジャー・リーガー、岩隈久志、田中将大がいた(岩隈13勝6敗、田中15勝6敗)。 
 今回はその前年、2008(平成20)年6月22日(日)の出来事だ。 
 この日、交流戦最終盤、広島戦(広島)で、初めて岩隈─田中のリレーが実現した。 
 2008(平成20)年の交流戦は大混戦となり、楽天にも優勝の可能性はあったのだが、この前戦
 2008(平成20)年6月18日(水)の敗戦で可能性が消えた。ちなみに野村監督にとって、これが1454敗目。三原脩(西鉄ほか)を抜く、歴代単独最多敗戦となった。 
「おそらく不滅やろ。名を残したな、汚名を。俺らしくていいんじゃないかな」と野村監督。
 73歳の誕生日も目前だった ⇒ 1935(昭和十)年6月29日(土) その後、
‡2008(平成20)年6月21日(土)が流れ、
 2008(平成20)年6月22日は日曜日の試合となった。 
 翌月曜の試合が楽天にとって交流戦ラストゲームで、再開まで3日空くことも豪華リレー実現の背景にあったのだろう。 
 先発の岩隈は6回1失点で交代し、7回から田中がロングリリーフ。プロ2年目で初のリリーフだった田中は、「初めてなのでとにかく緊張しました」と立ち上がりはスライダーが決まらず苦労したが、東出輝裕、前田智徳連続三振でギアが入った。 
 8、9回は6人で片付け、3イニング無失点でプロ初セーブ(3対1。田中は日本時代3セーブ)。 
「相手チームへの応援が盛り上がったところでポンと出てくる。岩隈さんの勝ちを消さなくてよかった」と笑顔を見せた。 
 一方の岩隈は、広島・ルイスとの“10勝対決”を制し、11勝目。同年は21勝4敗、防御率1.87で最多奪三振(ソフトバンク・杉内俊哉)以外の先発投手のタイトルを総なめしている。
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④┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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 1998(平成十)年07月07日(火) 千葉ロッテ、七夕の悲劇と18連敗の状況
 2018(平成30)年07月07日(土) 7:07 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は7月7日だ。 
 7月07日(火)、七夕のオリックス─ロッテ戦。GS神戸には平日にもかかわらず2万人の観衆が集まり、異様な盛り上がりを見せていた。ロッテの先発は、ここのところクローザーとして起用され、先発は
 6月18日(木)以来となる黒木知宏。ロッテは3対1とリードし、9回裏オリックスの攻撃を迎えていた。黒木の球威は衰えず、先頭のイチローを三振、ニールにライト前ヒットを許すも、谷佳知をファウルフライで二死。続くプリアムも2ストライク1ボールと追い込む。1球外した後の139球目だった。サインどおり、プリアムが苦手なはずの内角低めの速球を投げ込んだが、プリアムがまさかの同点2ラン。黒木はそのままマウンドに崩れ落ち、交代。ベンチ裏で号泣した。そして同点で迎えた延長12回裏にロッテの三番手・近藤芳久からオリックスの広永益隆が満塁サヨナラ弾。試合後、黒木は脱水症状と体力消耗から全身がけいれんし、コーチに抱きかかえられながら無言でバスに向かった。 
 6月13日(土)から始まったロッテの連敗はこれで17。単独のチームワースト記録になった。さらに翌日も破れ、18連敗。ようやく泥沼から脱出したのは、
 7月09日(木)のオリックス戦だった。 ただし、18連敗は決して一方的なものではなく、逆転負け10度、サヨナラ4度と紙一重の試合も多かった。今回は18連敗を簡単に振り返ってみよう。 
‡07連敗 6月21日(日) 日本ハム戦10対11(東京ドーム)※10対9とリードしての9回裏、日本ハム・田中幸雄が同郷宮崎の黒木からサヨナラ2ラン。 
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ③http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180622-01
 ④http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180706-01
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.369 ┃  50円
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‡1965(昭和40)年06月21日(月)号 ファイヤーマン・宮田征典で巨人首位に
 2018(平成30)年12月25日(火) 10:14 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎マッシ―のアメリカンドリーム
 写真◆表紙は左から阪神・吉田義男、山内一弘
 今回は『1965年6月21日号』。定価は50円だ。 
 エースと期待した金田正一がヒジ痛で本調子でない中、巨人がついに首位に立った。 
 原動力は、抑えでフル回転する宮田征典。39試合中19試合に登板し、1完投もある。 
 川上哲治監督は開幕前、周囲が大投手・金田の加入で大騒ぎとなる中、 
「金田が入ったから投手陣は万全とか優勝は確実とは思っていない。問題は宮田がファイヤーマン(火消し。消防士)としてやってくれるかどうかです」 
 と語っていた。 
 心臓に持病があり、長いイニングを投げさせられないと抑えに指名した選手だが、さすがに「オーバーワークでは」の声も上がっていた。 
 ただ宮田本人は「そうは思わない」ときっぱり否定。 
「投げる日はだいたい分かっているし、投げる回は少ない。7回くらいから投げるつもりでウォーミングアップしています。ゲームはピッチング練習してると思えばなんでもないです。それに試合によく出ると言っても、もしサラリーマンが会社に行って仕事がなかったら寂しいでしょ。僕だって同じだ。みんなに完投されたら寂しくなっちゃう(笑)」 
 また、川上監督が、先発が打ち込まれる前に宮田に代えていることに批判や疑問の声があるという記事もあった。 
 当時、リリーフ専門の投手はすでにいたが、あくまで先発のカバー的な存在であり、勝利の継投として使っていたのは、川上監督が先駆者ということだろう。 
 村上雅則のメジャー生活のルポもあった。もちろん、本業の野球で活躍してこそなのだが、サンフランシスコの街を歩いていると少年少女から「マシー」と声がかかり、生活は豪華なホテル暮らし。ホテルのプールサイドでくつろいでいると、金髪美女が取り囲む……。 
 まさにアメリカンドリーム。南海の相部屋の寮には戻りたくなかっただろう。 
 では、またあした。<次回に続く> 
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.700 ┃  90円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1971(昭和46)年06月21日(月)号 ヤクルトが三原マジックで2試合連続サヨナラ勝ち
 2020(令和二)年04月30日(木) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎最初から押し出し狙い?
 写真◆表紙は阪神・藤田平
 今回は『1971年6月21日号』。定価は90円。 
 独走を続けてきた巨人だが、5月22日から5勝4敗1分と少し足踏み。 
 うち26日が神宮でのヤクルト戦だった。三原脩監督が就任し注目されたヤクルトは、開幕から5勝2敗と好スタートを切ったが、以後、ふるわず、5月23日までに5連敗で順位も5位にしていた。 
 しかし、まず前日25日の同カードは、溜池敏隆のサヨナラ本塁打で先勝。宿敵巨人相手に三原コンピューターが冴え始めていた。 
 26日の試合は、4対4のまま、ヤクルトが9回裏無死満塁とした。 
 打席には代打出場し、8回に二塁打を放っていた外山義明。5月18日の巨人戦(富山)では9回に逆転の決勝本塁打を放った左打者だ。 
 投手、外野手の二刀流でヤクルト版三原マジックの象徴とも言えたが、投手としては波が大きく、25日の試合では先発し、4失点KOとなっていた。 
 ここで巨人・川上哲治監督がマウンドに左の高橋一三を送ると、三原監督はすかさず右打者の大塚徹に。 
 左対右はセオリーともいえるが、打でもラッキーボーイ的活躍をしていた外山に対し、大塚はこの時点で打率.192。三原は真意を明らかにしていないが、のち、このときコーチだった中西太さんが、大塚は三原監督に「アウトになってもいいから振るな」と言われていたと教えてくれた。 
 いわゆるかく乱だ。左投手に右を送れば、「打つ」と思うはず。高橋は別に右打者を苦にしないが、それは外角に沈む球スクリューがあったからだ。 
 ただし、この球は見送れば、ほとんどボールになる。 
 警戒させ、ボール球を投げさせ、決め球は見送る。ノーアウトだから三振になったら次の策に出ればいい、というところか。 
 高橋は2-2からストライク臭い球を大塚が見送った際、「これは、待て」かもしれないと感じたという。 
 しかし、大塚はここで芝居を打つ。 
 審判にボール交換を要求。森昌彦捕手は渋ったというが、審判がニューボールを高橋に送った。ここはあくまで勝負に行くと見せかけるとともに、力投型の高橋がやや滑りやすいニューボールで指先を誤れば、という考えもあったようだ。 
 試合後、巨人ナインは口をそろえた。 
「大塚のボールを変えてくれ、という声が震えていた。あれは自分の意思ではないはずだ」 
 勝負というのは、面白い。ここで高橋がストライクを投げ切れば、のちに振り返ることもない普通のシーンだったが、次の1球が高めに外れ、押し出し。ヤクルトは2日連続のサヨナラ勝ちとなった。 
 ヤクルトで言えば、謹慎が明け、一軍出場を果たした荒川堯が打撃不振で5月25日二軍落ち。三原監督は「鼻が高くなっている」と冷たく突き離した発言をしていた。 
 では、次回は5月7日に。 
 感染予防は大切なことですが、かなり長丁場になってきました。家に閉じこもってばかりは体の毒です。天気のいい日は外に出掛け、ぜひリフレッシュを。<次回に続く>
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③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.701 ┃  90円
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‡1971(昭和46)年06月21日(月)号 中日・水原茂監督に反旗をひるがえした一枝修平
 2020(令和二)年05月05日(火) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎水原の求心力にも衰え?
 写真◆表紙は阪神・藤田平
 今回は『1971年6月21日号』。定価は90円。GWは休むつもりだったが1本アップしておく(あしたは未定)。ただ、前回と同じ号からのもう1ネタだ。
 前回はヤクルトの三原脩監督について書いたが、今回は並び称される名将・中日・水原茂監督にまつわる事件だ。 
 三原監督同様、カリスマ的指揮官だが、序盤戦はBクラスに低迷。さらに言えば、強引な江藤慎一引退騒動以後は、少しずつ批判の声もあがり始めていた時期だ。 
 6月1日、遊撃手・一枝修平が突如、「自信がなくなった。退団させてほしい。退団がダメならトレードに出してほしい」と球団に直訴した。 
 引退とは言っていないので、自由契約に、ということか。 
 もともと水原監督とは合わなかったようだが、オフに水原監督が遊撃手のバートを獲得し、一枝をトレード要員にして投手を探したことで亀裂が決定的になる。 
 球団フロントは水原が獲得した外国人選手に失敗が多いこともあり、一枝放出に難色を示し、移籍は棚上げとなったが、この動きが一枝に漏れた。 
 一枝は怒り心頭となり、本当かどうか分からないが、キャンプでは打撃練習用のサンドバックに「水原」と書いていて思い切りスイングしていたらしい。 
 開幕してからもバートが遊撃を守り、一枝は控え。バートはメジャー時代から守備には定評があり、水原監督も「うちの内野がみんなあのプレーを見習ってくれたらと思っている。どうもうちの選手のプレーは軽率でいかん」と評価していたが、問題はバッティング。 
 これがさっぱりで、一枝の中には「使ってくれたら、自分のほうが」という不満があった。 
 近鉄、東映が一枝獲得に手を上げたという。では、またあした(か、あさって)。<次回に続く>
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 なぜ、米田哲也は22年間投げて故障ゼロだったのか?
‡2018(平成30)年6月21日(木) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 野球以外のスポーツも
 阪急・米田哲也
 1950年代から70年代、阪急などで活躍した米田哲也は22年間の現役生活で350勝をマークしたが、ただの一度も故障しなかったという。 
 子どものころからさまざまなスポーツをやり、野球一筋の大方の選手とは違った育ち方をした。サッカー、陸上、卓球、剣道など何でもござれで、ことにハイジャンプでは中学時代に170センチも跳んだそうだ。 
 こうしたいろいろなスポーツをやったことが、投手として長持ちした秘訣の一つかもしれないが、当の米田は「僕はクヨクヨしないタイプでしたからね。気分転換も早かったし、それに野球でKOされても、ほかのスポーツをやって忘れたりしましたから」と言っている。 
 949試合に登板し、完投が264もある。これだけでもすごいが、なんと入団2年目の
 1957(昭和32)年から
 1974(昭和49)年までの18年間もずっと2ケタの勝ち星をマークしているのである。これは、あの金田正一(国鉄ほか)でもやれなかった大記録だ。
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