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┃ 『The BEATLES (WHITE ALBUM)』プレスリリース訳全文 ┃
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2018(平成30)年09月24日(月) ロンドン発
1968年11月、数百万セットの2枚組LPが世界中のレコード店に向けて出荷された。騒乱に満ちたこの年、そのレコードの登場は、世界中の音楽ファンにとって、どんなものにも勝る最大のニュースになった。1968年11月にリリースされたそのレコードが『The BEATLES』―― やがて『WHITE ALBUM』と呼ばれることになるダブル・アルバムである。ザ・ビートルズは、通算9作目に当たるこのアルバムで、人々をそれまで体験したことのない世界に誘った。『The Beatles』は扇動的なジェット機の逆噴射音を伴い、ポール・マッカートニーが、エネルギッシュで活力に満ちたヴォーカルを披露する“Back In The U.S.S.R”から始まる。続いて登場するのはジョン・レノンの“Dear Prudence”で、ここで彼は友人たちと、私たちみんなに向かって穏やかに手招きし、“look around(周りをよく見てごらん)”と呼びかけている。そしてジョージ・ハリスンは“While My Guitar Gently Weeps“で、”With every mistake we must surely be learning(僕たちはあらゆる過ちから、何かを学び取っていかなければならない)“と歌い、私たちに普遍的な知恵を授けてくれた。このアルバムにはまた、リンゴ・スターの単独作とクレジットされた初めての楽曲“Don’t Pass Me By”も収録されていた。リリースから50年のあいだ、“The White Album”は、その多彩で野心的な音楽で新たな聴き手を虜にし、喜びと刺激を与え続けてきた。来たる
2018(平成30)年11月09日(金)、ザ・ビートルズはその”The White Album”の50周年を記念した豪華パッケージを複数のフォーマットでリリースする(Apple Corps Ltd./Capitol/Umeから)。”スーパー・デラックス・エディション“には、プロデューサーのジャイルズ・マーティンとミックス・エンジニアのサム・オケルによって新たに制作されたアルバム所収の30曲の新規ステレオ・ミックスと5.1サラウンド・ミックス、さらにアルバムのレコーディングに先立って録音された27曲のアコースティック・デモ、アルバムのセッション・テープから起こされた50テイク(その大半は完全な未発表音源)が収録される。ポール・マッカートニーは今回リリースされる“The White Album”のアニヴァーサリー・エディションに以下のような序文を寄せている。「僕たちは陽を浴びた天上の世界で演奏するためにペパー軍曹のバンドを脱退した。そして地図も持たず、新たな方向を目指し始めたんだ。」”The Beatles (White Album)”のリミックス・ヴァージョンがリリースされるのも、この作品が、デモ音源やセッション音源を追加した拡張版としてリリースされるのも、今回が初めてである。2017年に発表され、全世界で高い評価を受けた“Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band”の一連のアニヴァーサリー・エディションと同様、”The White Album”も、今回のアニヴァーサリー・エディションで、まったく新しい作品に生まれ変わっている。”The White Album”のニュー・ステレオ・ミックスと5.1サラウンド・ミックスは、マーティンとオケルが、ロンドンのアビー・ロード・スタジオのトップ・クラスのエンジニアと音源修復のスペシャリストとの共同作業を経て完成した。”The White Album”の“アニヴァーサリー・エディション”は複数のパッケージで発売されるが、アルバム収録曲の新規ステレオ・ミックス(制作にはオリジナルの4トラック/8トラックのセッション・テープが使用されている)は全パッケージに収録される。ジャイルズ・マーティンはこれらの“ニュー・ミックス”の制作に当たって、父ジョージ・マーティンがプロデュースした68年版のオリジナル・ステレオ・ミックスを参考にしたという。「”The White Album”をリミックスする際、僕たちが心がけたのは、ザ・ビートルズがスタジオで奏でていたそのままのサウンドを届けることだ。」これは、ジャイルズ・マーティンが今回のパッケージに寄せた序文の一節だ。「僕たちは、”Glass Onion(ガラスの玉葱)”の皮を1枚ずつ剥がしていった。そうすることで、アルバムに親しんできた人たちにも、今回初めて”The White Album”を聴く人にも、きっと作品に没頭してもらえると思った。この、歴史上例のないほど刺激的で、多様性に富んだアルバムにね。」必要最小限の要素のみから成る、”The White Album”のミニマリズム的なアートワークを手がけたのは、イギリスのポップ・アートの草分け、リチャード・ハミルトンである。見開きジャケット(ジャケット上方からレコードを挿し込む形になっている)の裏、背、表の地色は白で、表側に箔押しされた”The BEATLES”の文字、背面に、カタログ・ナンバーと、同じ”The BEATLES”の印字があるのみ。ただし、初期プレスの表面には個別の通し番号も印字されていた。今回リリースされる”The White Album”の”スーパー・デラックス・エディション“には、それら初期プレスに倣い、ナンバリングが施されている。この”スーパー・デラックス・エディション“は、164ページのハードカヴァーのブックレットに、CD6枚とブルー・レイを収納した特殊仕様になっており、4枚のカラー写真と大判のポスターも同梱されている。写真はジョン、ポール、ジョージ、リンゴのポートレートでいずれも光沢紙を使用。ポスターは片面にさまざまな写真のコラージュ、片面に英詞を記載したもので、どちらもLPに封入されていたものの復刻版になっている。ハードカヴァーのブックレットにはメンバー手書き/メモ書きの歌詞やレコーディング・シート、テープ・ボックス、アルバム発表時の広告等々を含む貴重な写真資料(ここで初出となるものも含まれている)を掲載。さらに、個々のトラックの詳細な解説、“Sgt. Pepper”のリリースから“The White Album”の完成に至るまでの時期をカヴァーしたセッション・ノート、1968年7月28日にロンドン周辺で行われたフォト・セッション“Mad Day Out”、”The White Album”のアートワークやそのリリースに至るまでの経緯、同作の計り知れない影響力等に言及した膨大な文字資料が掲載されている。執筆者は作家/ラジオ・プロデューサーで、ビートルズの歴史の研究家でもあるケヴィン・ヒューレット、ジャーナリスト/作家のジョン・ハリス、テート・ブリテン(国立美術館)で近現代美術部門の主任を務めているアンドルー・ウィルソンの3名。また、ポール・マッカートニーとジャイルズ・マーティンも共に書下ろしの序文を寄せている。CD3枚から成る“デラックス・エディション”の“CDヴァージョン”は、エンボス加工を施したデジパック仕様でのリリース。同パッケージには、“スーパー・デラックス・エディション”の抜粋から成る24ページのブックレットが同梱されており、さらに折り畳まれたポスターとメンバー4人のポートレートも封入されている。“デラックス・エディション”の”LPヴァージョン”は上部に蓋のある箱に4ページのブックレットとLP4枚で構成。4枚のディスクのうち2枚はオリジナル盤を忠実に再現したゲートフォールド・ジャケットに、折り畳まれたポスター、4枚のポートレートともに封入されており、“イーシャー・デモ”を収録した2枚のディスクは、エンボス加工を施したゲートフォールド・スリーヴに収納されている。“The White Album”収録曲の多くは、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの4人が、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの“Academy of Transcendental Meditation”で学ぶために、インドのリシケーシュに滞在していた1968年2月から4月かけて、彼の地で書かれた。ジョン・レノンは、このとき、3人より一足早くイギリスに帰国したリンゴに宛てたハガキに以下のように記している。「俺たちは、もうLP2枚に纏めるに十分な楽曲を書き上げている。ドラム・セットを準備しておいてくれよ。」
1968(昭和43)年の5月の最終週、ザ・ビートルズの4人はサリー州はイーシャーのジョージの家に集まり、これらの楽曲のうち27曲のアコースティック・デモをレコーディングした。“イーシャー・デモ”として知られるこれら27曲のデモは、今回、オリジナルの4トラック・テープから起こされ、”The White Album”の”デラックス・エディション“と”スーパー・デラックス・エディション“に収録された。なお、この27曲のうち21曲は、ほどなくスタジオに場所を移して始まったレコーディング・セッションでも取り上げられ、19曲が”The BEATLES (The White Album)“の収録曲として陽の目を見ている。”The BEATLES (The White Album)“のスタジオ・セッションは、
‡1968(昭和43)年05月30日(木)にアビー・ロード・スタジオで始まっている。以降、およそ20週間に亘って、ザ・ビートルズの4人は大半の時間をニュー・アルバムのレコーディングに充てている。この間、アビー・ロードを離れ、トライデント・スタジオでセッションが行われることもあった。そして
1968(昭和43)年10月16日(水)、グループはプロデューサーのジョージ・マーティンとともに、アビー・ロードで24時間に及ぶマラソン・セッションを敢行。この際、アルバムの曲順が決められ、個々の楽曲のエディットやクロス・フェードといった作業が行われ、”The White Album”のセッションは完了した。ザ・ビートルズの面々は、”The White Album”のレコーディングに、”Sgt. Pepper”のそれとはかなり異なったアプローチで臨んでいる。”Sgt. Pepper”は、マルチ・トラック・テープに、個々のメンバーがそれぞれにオーヴァーダビングを重ねていくことで完成させたアルバムだったが、”The White Album”のレコーディング・セッションの大半では、メンバー全員が揃って演奏と歌唱を披露し、それを4トラック/8トラックのテープに記録していくという手法が取られた。この際、彼らは同じ曲の録音を数え切れないほど重ねていくこともあり、この点は今回の“スーパー・デラックス・エディション”所収の“Not Guilty”(オリジナルの“The BEATLES (The White Album)”には収録されなかった)の“テイク102”にも明らかな通りである。こうした”スタジオ・ライヴ“的手法を採用した結果、”The White Album”はよりシンプルで自由度の高いアルバムになった。そしてこうした作風の変化は、ロック・ミュージック全体のあり方を変化させ、後年のパンク・ロックやインディ・ロックにも影響を及ぼすことになった。この時期から、ザ・ビートルズの面々は夜を徹してのセッションを行うことが多くなったが、プロデューサーのジョージ・マーティンにとって、これは時間的にも、また心身両面にもあまりに過剰な負担を強いるやり方だった。当時、マーティンには自身のAIR (Associated Independent Recording)のマネージメントという仕事もあり、さらにザ・ビートルズの面々が登場するアニメーション映画“Yellow Submarine”(1968年7月に公開されている)のスコアの作曲という仕事も抱えていた。スタジオ・セッションの開始から3ヶ月が経過したころ、マーティンは3週間の休暇を取得。その不在はマーティンの若いアシスタント、クリス・トーマスと、ジェフ・エメリック(1968年7月中旬にセッションを外れていた)に代わってエンジニアのポジションに就いたケン・スコットが埋めることになった。そして
1968(昭和43)年08月22日(木)にはリンゴ・スターがセッションから離脱。
1968(昭和43)年09月03日(火) その11日後、しかし、彼は無事に職場に戻り、メンバーはドラム・セットを花で飾り、彼のスタジオへの復帰を歓迎した。4ヶ月半に及ぶ長時間のレコーディング、さらには同じ楽曲の度重なる録り直しは、しばしばレコーディング中のスタジオに軋轢をもたらしたが、セッションの模様を伝える音源から感じ取れるのは、ザ・ビートルズの4人、そして彼らとジョージ・マーティンのあいだにある親密さや仲間意識、団結力の揺るぎない強さである。『The BEATLES (WHITE ALBUM)』はザ・ビートルズが、自身のレーベル、アップル・レコーズからリリースした最初のアルバムで、イギリスではモノラル盤、ステレオ盤の2種、アメリカではステレオ盤のみが発売されている。このLP2枚から成るこのアルバムは瞬く間にベストセラーになり、イギリスではチャート入りと同時に1位をマーク。以来8週に亘って首位を維持し、計22週のあいだチャート圏内に留まっている。アメリカのチャートでも、“The White Album”は初登場と同時に首位に輝いたが、こちらでは9週に亘ってそのポジションを維持。65週ものあいだチャート圏内に留まり、その後も、幾度かチャート入りを繰り返した。ローリング・ストーン誌の創始者の一人、ヤン・ウェナーは同誌に掲載されたレビューで”White Album”を熱烈に支持し、以下のように記している。「これは彼らがリリースしたアルバムの中で最高の1作だ。より優れたアルバムを作ることができるのは、ザ・ビートルズだけだ。」2000年、RIAA(アメリカ・レコード協会)は“The White Album”のセールスが950万セット(1900万枚)を超えたとして、”19× Platinum“に認定(RIAAは100万枚のセールスを上げたアルバムをプラチナ・アルバムに認定している)。また、同作は米レコーディング・アカデミーからも、その”恒久的な質的/歴史的な価値“を認められ、同協会の設立したグラミーの殿堂(グラミー・ホール・オブ・フェイム)入りを果たしている。
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『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』全曲の新ステレオ・ミックスと5.1サラウンド・ミックスに加えて、同時期にレコーディングされたデモ、同作のレコーディング時に残されたセッション・レコーディング等の未発表音源を収録。
1968年11月、ザ・ビートルズ通算9作目であり、初のダブル・アルバムとして発売された『ザ・ビートルズ』。自身のレーベル、アップル・レコードからの第1弾でもあるこの作品はのちに“ホワイト・アルバム”と呼ばれることになり、リリースから50年にわたり、その収録された多彩で野心的な音楽で新しい聞き手を魅了し続けてきた。
2017年に発売され世界中で大きな話題となり、成功をおさめた『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に続き、今回『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』の50周年記念エディションが複数フォーマットでリリース。
新ステレオ・ミックスと5.1 サラウンド・ミックスはプロデューサーのジャイルズ・マーティンとミックス・エンジニアのサム・オケルが担当。
https://sp.universal-music.co.jp/beatles
《 Single"Love me Do"から"Please Please Me"へ 》
1962(昭和37)年10月02日(火)に発表された「Love me Do」は、ブライアン・エプスタインにとって、そしてビートルズにとっては絶対にヒットさせなければならない曲で、彼はその為にあらゆることを考え、熱心に曲を紹介ます。彼の謙虚なところは「ビートルズはあくまでも自然な勢いで世間に知られて欲しい。この曲も同様で売り込むつもりは無い!」と明言し、「激しい売り込み」を否定する発言です。「Love Me Do」は大企業のロンドンのEMI社から発売されたと云うだけあり、全国に注目を浴びることとなります。「Love Me Do」と云う曲は、世間のイメージでは「かなり風変わりな曲」と言われることが多い中、発売当初のイギリスのヒットチャートでの記録は最高17位まで達しますが、大ヒットと云う訳には行きません。
1962(昭和37)年10月24日(水)の全国チャートでは48位となり少しずつ人々に浸透して行きます。ビルボード(Billboard)誌では、
‡1964(昭和39)年05月30日(土)に週間ランキング第1位を獲得、ビルボード誌1964年年間ランキングでは第14位、「キャッシュボックス」誌でも最高位第1位を獲得し、1964年度年間ランキングでは13位、アメリカでは100万枚以上のセールスを記録します。イギリスでは、デビュー20周年を記念して1982年に再発された時は最高位第4位となり最終的にはトータルで30万枚以上のセールスを記録することになります。このシングルはオリジナル盤・リイシュー盤ともに、パーロフォンの赤ラベルと黒ラベルが存在しており、オリジナル盤の方はいずれも希少価値の高いレコードで、特に黒ラベルは入手困難であり、ビートルズコレクターの間では人気アイテムとなります。しかし、ブライアンの回りは彼への心配が募り、忠告される日々を迎えます。「あんな若者たちと関わり続けると大変なことになる!」「音楽業界の連中など信じるな!」彼の両親に至っては「ビートルズがエルヴィス・プレスリーよりもビッグになるなんて信じられない!」と告げ、彼の将来を案じます。これらは、至極当たり前の接し方には違いありません。ジョージ・マーティンにもまた別の「やらなければならないこと」が存在し、それは、「マーティン自らが評価し、契約したリバプールの若者達が、間違いなく素晴らしかったと云うことの証明」です。それは言いかえれば、デビュー曲「Love Me Do」で注目を浴びたからには、次は彼らに大ヒット曲を与えなければならないと云う使命です。ビートルズにとって、「ジョージ・マーティンとの出会い」は必然ではあるものの「幸運」と云う言葉が適切でしょう。何も考えずに行動している者同士では、「普通」こうは行かないはずです。そして、ジョージ・マーティンは、ファースト・スングル「Love me Do」に続き、セカンド・シングルの候補を挙げます。マーティンは、一度封印した「How Do You Do It」を提案しますが、ビートルズはマーティンが用意したこの曲にまたも難色を示し、対抗曲として「Please Please Me」と云うオリジナル曲を提案します。今ならば多くの人が「なるほどあの曲ならば、ヒット間違いなしだ!」と納得されるでしょうが、ジョンが作ったこの曲はこの時まったくと云って使い物にならない作品で、マーティンはこの曲に違和感を覚えます。ジョージ・マーティンは語ります、「ビング・クロスビーの「Please」と云う古い曲からタイトルを引用した云う『Please Please me』を初めて聴いた時、ジョンはロイ・オービソン風のファルセット唱法で歌った。スローで、もても悲しげで、全く売れそうもなかったと感じた」。しかし、ジョージ・マーティン・マジックここから始ります。マーティンは「このままの曲調では使えないが、リズムをアレンジし、テンポを上げればヒットする可能性はある」と提案し、彼らも受け入れます。「Please Please me」はこうした経緯により、今私たちの前に現れることになります。
1962(昭和37)年11月26日(月)、ビートルズはEMIスタジオ(通称:アビーロード第2スタジオ)で「Please Please Me / Ask Me Why」を録音をすることになるのですが、その前にこの曲の注目すべき点を少し書かせて頂きます。この曲をモニターヘッドホンなどで聴いて頂くとよく分かるとは思いますが、ベースとヴォーカルそしてコーラスが結構複雑な構成で仕上げられています。演奏全体の印象としてジョンの素晴らしいハーモニカが目立ち、ギターの音が聴き取りにくい感じに仕上がっています。ここで注目べきはポールのベースとジョージのギターで、「Come on」のコードA ⇒ F#m ⇒ C#m ⇒ A のところでは、ジョージが意図的に「Come on」に合わせ BとC#を弾き、ポールのベースが3回目のC#mのところでは、主音と5度の音をひっくり返し G# ⇒ C# と弾いていることです。これはビートルズの音創りが当たり前でない証拠で、簡単ではありますが、工夫を凝らしています。エンディングの E ⇒ G ⇒ C ⇒ B ⇒ E と云うコードも曲の終わりを意識させる音創りの奥深さが感じられます。そしてボーカルでは、曲の冒頭の「Last night I said these words to my girl」と云う個所のメロをポールはEの音だけで歌い、ジョンはそのEの音から D# ⇒ C# ⇒ B と移って行き、ポールの少し揺れながらの声とジョンの安定した声がマッチし、素晴らしいハーモニーを作り出しています。また、3部にコーラスになる部分でもジョンとポールの高低音パートが入れ替わり、その下をジョージがコーラスをつけています。このように3人同時に歌う個所では互いが意識してトーンを近づけている感が強く、完全に一つの固まりでスピーカー(ヘッドホン)から飛び出てきます。デュエットになるエンディング「Please please me, who, yeah, like I please you…」の部分も「please」と「you」の高低音がジョンとポールで入れ替わります。この複雑な入れ替わりハーモニーと3部コーラスは、ビートルズの大きな特徴で、後に発表される「From me To You」や「I Wont Horld Your Hand」などでも多用されることとなります。サビのところのジョンのボーカルの合間に「In my heart」とバックが入りますが、これもこの曲で重要な雰囲気作りの個所で、マーティンのアイデアかもしれません。(ビートルズ大研究から引用)
1962(昭和37)年11月26日(月)、ビートルズはロンドンのセント・ジョンズ・ウッド・アビー・ロード3番にあるEMIスタジオ(通称:アビーロード第2スタジオ)での3時間のレコーディング・セッションを行い、セカンド・シングル「Please Please Me / Ask Me Why」の録音を開始します。1時間のリハーサルが用意されていたため、ビートルズは午後6時にスタジオに姿を現します。そして、午後7時、「Please Please Me」のレコーディングが開始されます。まずは、あの印象的なハーモニカ抜きで録音されます。それは、この曲は歌いながらハーモニカを吹くことができる構成ではないからで、そのパートはその日オ-バーダブされます。ハーモニカの編集用を含め『Pleas Pleas me』は18テイク録音されます。レコーディングが終了すると、ジョージ・マーティンはトーク・バックを使いこう叫びます、「初のナンバー1ヒット曲、間違いなしだ!」。「Please Please Me」収録後、ビートルズはB面「Ask Me Why」のレコーディングに開始します。この曲は、6テイクを録り、これにてこの2曲は完成に至ります。マーティンは放った「初のナンバー1ヒット曲、間違いなしだ!」と云う言葉の奥には、マーティンの想いと予感が多分にあったのでしょう。
1962(昭和37)年10月30日(火)、「Please Please me / Ask Me Why」のリミックス作業は行われます。この日はまず「Please Please Me」がミックス・ダウンされ、そのモノラルミックスはシングル盤とアルバム「Please Please Me」の両方に収録、その後「Ask Me Why」の第6テイクがモノラルにミックス・ダウンされます。この作業の開始・終了時間は記録に無く、またビートルズは、昼はキャバーン・クラブのランチタイムショーに出演し、夜はニュートン=ル=ウィローズのタウン・ホールに出演していたため、この場にはおらず、リミックス作業に参加するようになるのは、ずっと後の話になります。このシングルは
1963(昭和38)年01月11日(金)に英国で発売されますが、メロディ・メーカー紙、NME紙、ディスク紙では確かに発売6週間でNo.1を獲得します。しかし、、ニュー・レコード・ミラー紙 (New Record Mirror) が指標としていたレコード小売店チャートでは2位どまりとなり、正真正銘のNo.1をビートルズが獲得するのは「From Me To You」以降となります。ジョージ・マーティンは語ります、
「自分が高く評価したビートルズは、E.M.I.では評価されなかった。ビートルズとEMIの契約に関しては、トップも批判的で、保守的な考え方の持ち主である宣伝部長も『マーティンは「今まで見たことのない可能性を秘めているグループ」だと言うが、ビートルズには何の将来性も見い出せない!』と言う始末だった。」。ビートルズのデビュー曲「Love Me Do」は、E.M.I.としてヒットさせようという努力がなされず、放置とも云える状態になります。いつの世も、グループやレコードをヒットさせるためには、当然、大変な企業努力が必要であり、全国的に宣伝するには、かなりの出費を覚悟せねばなりません。当時の宣伝部長はあまりにも保守的過ぎて、その決断ができなかったと云うことです。「Love Me Do」がごく限定されたラジオでのオン・エアしかされなかったのは、このような背景があったせいだと推測されます。ブライアン・エプスタインは、ほとんど宣伝しようともしないE.M.I.に失望し、マーティンに相談します、
「ビートルズの次の曲は出版社に話を持ちかけて、そこで宣伝してもらうようにしたい」。E.M.I.の宣伝部門が殆ど動いていなことの知ってたマーティンは、冷静かつ積極的にアドバイスします、「ブライアン、僕はアメリカの会社よりもイギリスの会社の方がいいと思うよ。出来れば、とてもハングリーな人間がベストだ。ビートルズや君のために一生懸命やってくれる会社を探すんだよ。」。エプスタインはマーティンに告げます、
「僕はエルヴス・プレスリーの曲を出版している“ヒル&レンジ社”との契約を考えいる。あなたはどう思いますか?」、それを聞いたマーティンは、「ヒル&レンジは、君達がいなくても全然困らない。彼らにはエルヴィス・プレスリーがいるから、君達はきっと重要視されないと思うよ」とブライアンに再びアドバイスします。エプスタインは、ヒル&レンジ社の他にこれと云う会社に心当たりが無く、ここでもジョージ・マーティン相談するとことになります。エプスタインは語ります、
「これまで事あるごとに僕たちに幸運をもたらしてくれたジョージ・マーティンに話しを聞いてもらうしかなかった。彼はアメリカの出版社の人間とイギリスの出版社二人、計三人を紹介してくれた。」。そして、マーティンの紹介で、イギリス資本の出版社を経営する“ディック・ジェイム”に話を持ちかけることとなります。ディック・ジェイムズは、マーティンととても親しい間柄で、ビートルズのデビューにふさわしい曲をマーティンが探している時、「How Do You Do It」を提供してくれた人物であり、マーティンのプロデュースの下、歌手活動の経験も積んだ人物で、テレビドラマの主題歌をヒットさせことも多々あり、二人は強い信頼関係で結ばれていたのです。ディック・ジェイムズは語ります、
「ジョージ・マーティン氏がその依頼で僕に電話してきた。尊敬する彼が選んだグループなので、素晴らしいことは間違いないはず、使用できたよ。」。この時、エプスタインも独自で動いており、EMI傘下の子会社の出版社の幹部と会う約束を取り付けますが、約束の時間にその会社を訪れた彼を、担当者は30分近く待たせます。エプスタインは語ります、
「約束を守れない人間ではダメだと判断し、その会社の秘書にその旨を伝え、その足でディック・ジェイムズの会社に向かった」。
★マーティンとブライアンの間に居るのが「ディック・ジェイムズ」です。ディック・ジェイムズの会社に向かったブライアンは、彼のオフィスに、約束の時間より随分早く着いてしまいます。ブライアンは受付の女性に、
「ここで待たせて頂けますか」と告げると、彼女はジェイムズに連絡し、ジェイムズは待っていましたとばかりにオフィスから現われ、ブライアンを笑顔で迎えます。ディック・ジェイムズは、マーティンの云うところの「まさにハングリーな心情で、ブライアン、そしてビートルズのために全力を注いでくれる存在」だったようで、歌手としてそれなりのヒット曲も出した過去もあり、曲を作り上げる仕事にも係わりそこでもヒット曲を生み出し、約1年前に現役を引退し、出版社として独立したばかりの44歳の彼へのオファーはチャンスとも云える出来事だったのです。ディック・ジェームズは語ります、
「あの時、すぐに、出来たばかりのシングルレコード『Please Pleas me』を聴かせてくれとブラインに告げたんだよ、聴き終えた僕は感動したね。これは行けると思ったよ。」。彼もまた、ヒット曲を見い出す才能に長けた男だったと云うことです。この時、ジェイムズは思いがけない行動をとります。エプスタインが長期契約の話を持ちかけた時、「please please Me」が間違いなくナンバーワンになると信じたジェイムズはその場で歌手だった頃の友人関係や各方面に電話をかけ始めます。エプスタインはじっと見守ります。ジェイムズはフィリップ・ジョーンズと云うテレビ番組のプロデューサーに電話し、頼みごとをします、「リバプール出身の素晴らしいグループがいる。彼らを土曜のショーに出演させてくれないか」。しかし、一流のプロデューサーであるジョーンズはこう返答します、
「如何に友人と云えど、自分で彼らの実力を確認するまでは、予定を変更してまで特別に出演させるわけにはいかない」。しかし、それで引き下がるジェイムズではありません。彼は、「Please Please Me」を電話を通して聴かせると云う行動に出ます。これは、如何に彼が「Please Please Me」に感激したかを物語ります。曲を聴き終えた友人ジョーンズは即答します、
「とても素晴らしいサウンドだ。合格だよ!今週の土曜のショーに出演させよう!」電話を終えたジェイムズはブライアンに伝えます、
「彼らの土曜の予定はどうなっている?空いているか確認して欲しい。テレビに出られるんだ!」そしてビートルズにジョーンズが担当する全国ネット人気番組「サンク・ユア・ラッキー・スターズ」の
1963(昭和38)年01月13日(日)の出演予約が入ることとなります。そして、周りの人を巻き込む奇跡がとうとう起こり始めます。
1963(昭和38)年01月13日(日)の人気TV音楽番組『サンク・ユア・ラッキー・スターズ』への出演は、ビートルズにとってこれまででもっとも重要なことだと云えるしょう。『サンク・ユア・ラッキー・スターズ』とは、ABCテレビがTVネットワークのために制作し、ミッドランドと北イングランドのエリアで放送され、撮影収録にはABCとATVの共同所有のバーミンガム・アストンにある「アルファ・スタジオを使い、ミッドランドでは平日に、ロンドンでは週末に放映される番組です。この日ビートルズはその「アルファ・テレビジョン・スタジオ」で演奏、収録します。当時の『サンク・ユア・ラッキー・スターズでは、通常出演者はスタジオの観衆を前にレコードに合わせてリップシンク (くちパク)するのが恒例で、1961年4月から出演している多くのミュージシャン同様、7組の出演者リストの最後の出演リストに書かれたビートルズも「Please Please Me」をリップシンクし、この時の収録は6日後の
1963(昭和38)年01月19日(土)にオンエアされます。番組での彼らの登場部分は前半最後で、CMの直前と云う記録が残っています。当時『サンク・ユア・ラッキー・スターズ』は非常に人気の高い番組で、前述通りビートルズが出演できたことは、大事件とも云え、また、彼らの出演を演出したディック・ジェームスは、ビートルズの曲を管理するようになってから巨万の富を蓄積することとなり、彼にとっても一大事件だと云うでしょう。そして、このTV出演が起爆剤となりビートルズの快進撃は始まります。下記写真は、
1962(昭和37)年09月下旬の水曜日、
1962(昭和37)年09月19日(水)、
1962(昭和37)年09月26日(水)、リヴァプール埠頭周辺の倉庫にて、写真家レス・チャドウィックによって撮影されたものです。そしてついに、
1963(昭和38)年02月07日(木)、ビートルズは待望のセカンド・シングル「Please Please Me / Ask me Why」をリリースします。この曲の販売権のオファーを受けていたE.M.I.のアメリカ・レーベルである「Capitpl Record」は突然その権利を辞退することをE.M.I.に申し出ます。その後販売権は、国外のマスターをアメリカのレコード・レーベルに移すことを業務にしているE.M.I.系列子会社「Transglobal」に委託され、「Transglobal」は、「Atlantic」にオファーをするも受けてもらえず、最終的に「Vee-Jay」がアメリカでの販売を引き受けることになります。これが、アメリカでのデビュー・シングルとなり、イギリスでは
1963(昭和38)年02月25日(月)、日本では
1963(昭和38)年03月04日(月)のリリースとなります。面白いことに、最初のプレスでは「The Beattles」と記載されます。このシングルはイギリスのレコード・リテイラー、ミュージック・ウィークでは最高2位、メロディー・メイカーで2週連続1位、ニュー・ミュージカル・エクスプレスで3週第2位、イギリスでは35万枚のセールス記録、アメリカのビルボード(Billborad)誌では、
1964(昭和39)年03月14日(木)に、週間ランキング最高位の第3位を獲得し、ビルボード誌1964年年間ランキングでは第36位、『キャッシュボックス』誌でも最高3位を記録し、年間ランキング37位を獲得します。尚、B面には、イギリスでは3枚目のシングルとなった「フロム・ミー・トゥ・ユー」が収録され、アメリカでは100万枚以上のセールスを記録ます。イギリス本国でのシングル盤はオリジナル盤・リイシュー盤ともに、パーロフォンの赤ラベルと黒ラベルが存在しており、オリジナル盤はいずれも希少価値の高く、特に赤ラベルのほうが入手困難であり、ビートルズ・コレクターの間では人気アイテムとなります。作曲クレジットは前作のLennon-McCartneyからMcCartney-Lennonに変更された。この表記はアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』を挟み次作シングル「フロム・ミー・トゥ・ユー」まで使用されることとなります。
<ポールが語る" Lennon=McCartney"の曲作りについて>ビートルズのオリジナル曲の8割は作曲者が「レノン=マッカートニー(Lennon=McCartney)」とクレジット(Credit)されています。ジョンとポールが作曲を始めたのはまだ学生だった10代の頃で、二人は良く学校をさぼりポールに家に行き、曲のアイデアを次々とノートに書き留めて行きます。
「レノン=マッカートニー(Lennon=McCartney)」と題されたそのノートは、現在ポールが所有しています。アメリカのソングライターチーム、「ゴフィン=キング(Goffin=King)(ジェリー・ゴフィン=キャロル・キング)」に憧れた二人は、純粋に二人で共作した曲も、片方がメインでもう片方が手伝った曲も、どちらか一方が書いた曲も、全て「レノン=マッカートニー(Lennon=McCartney)」で発表しようと約束します。この取り決めは1970年のビートルズ解散まで貫かれ、1969年のジョンのソロ「平和を我等に(Give Peace a Chance)」にまで適用されます。興味深いことに、デビュー直前の一時期に限って「マッカートニー=レノン(McCartney=Lennon)」と云うクレジットが使われており、確かな理由や経緯は明らかにされていませんが、1963年7月のシングル「シー・ラヴズ・ユー(She Loves You)」以降は順序が決められ、ジョンの名前が先に来るようになります。ポールは語ります、
「僕とジョンは学校をさぼって、良く僕の家でギターを掻き鳴らしていた。父は働きに出ていたからここが一番いい場所なんだ。パイプに紅茶を詰め込んで吸ったこともある。味は良くなかったけど、大人の気分を味わっていたんだ。二人でアコースティック・ギターを持って、向かい合って吸った。曲を作ろうと自分の心を見つめる代わりに、目の前でプレイするジョンを見ている。まるで自分自身を映す鏡を見てるかのような、最高の時間だった。僕らは一緒に曲を作った。僕がノートに書きつけたタイトルはいつも『アナザー・レノン=マッカートニー・オリジナル(ANOTHER LENNON = MCCARTNEY ORIGINAL)』だった。次のページも『アナザー・レノン=マッカートニー・オリジナル』なんだ。ノートには歌詞とコード・ネームをメモしてるだけだ。カセットテープなんかまだなかったし、グランディグ社のテープレコーダーなんか買う金もなかった。だからメロディは頭に入れておかなければならない。バック・コーラスのところには"oh-"と云う印を付けた。他に書き方を知らなかったんだ。テープレコーダーを持っている友達がいたけど、僕らは録音することはほとんどなかった。まだ僕らが自分たちの曲に入れ込んでなかったせいもあるけど、ジョンと僕の間に、自分たちが覚えられないような曲を他の人が聴いて覚えられるわけがないと云う暗黙の了解があったからなんだ。」。(書籍『Beatles Gear』抜粋参照)
https://beatles-in-ashtray.jimdofree.com/1962-%E5%BE%過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)