過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の氷室さん等だヨ(=^◇^=)

 


■広島 蔦屋書店
10/01(金)
10/10(日)
https://www.m-on-music.jp/0000481322/

氷室京介エキシビジョン、全国8店舗の蔦屋書店にて巡回開催決定
2021.06.17 ニュース氷室京介
■氷室京介のファンクラブ会報誌『KING SWING』で紹介された、貴重な写真やアートワークを展示!
氷室京介のファンクラブ会報誌『KING SWING』で紹介された貴重な写真やアートワークをリアルで展示する『KYOSUKE HIMURO KING SWING EXHIBITION』。
3年目の開催となる本年は、7月16日からスタートする奈良 蔦屋書店を皮切りに、代官山 蔦屋書店、六本松 蔦屋書店、広島 蔦屋書店、名古屋 みなと蔦屋書店、枚方 蔦屋書店、江別 蔦屋書店、函館 蔦屋書店の、全国8店舗の蔦屋書店で巡回開催される。
本展示では、直近の『KING SWING』No.78、79、80で掲載された、操上和美、半沢克夫、半田也寸志、桑本正士、4名のフォトグラファーの選りすぐりの写真や、粟津泰成が描くアートワーク原画など、普段は誌面上でしか見られない作品を展示。
また、展示されたアート作品を自宅でも楽しめるように製作された「KYOSUKE HIMURO ART COLLECTION」からは、額装写真や複製画などの作品や、オリジナルグッズの販売も予定している。
蔦屋書店ならではの氷室京介とクリエイターとのコラボレーションを、ぜひ体感しよう。
■イラストレーター・粟津泰成によるポートレートドローイングも開催
粟津泰成は、感覚的なドローイングスタイルで、広告・雑誌・WEBサイト等で活躍中のイラストレーター。ファッショナブルで印象的な作品を生み出している。氷室京介のファン会報誌『KING SWING』でも多くの氷室アートを描いてきた粟津泰成が、目の前であなたの似顔絵を描く貴重なイベントとなる。

『KYOSUKE HIMURO KING SWING EXHIBITION 2021』
■奈良 蔦屋書店
期間:07/16(金)~07/25(日)
■代官山 蔦屋書店
期間:07/30(金)~08/15(日)
■六本松 蔦屋書店
期間:08/20(金)~08/29(日)
■枚方 蔦屋書店
期間:09/03(金)~09/12(日)
■名古屋みなと 蔦屋書店
期間:09/17(金)~09/26(日)
■広島 蔦屋書店
期間:10/01(金)~10/10(日)
■江別 蔦屋書店
期間:10/22(金)~10/31(日)
■函館 蔦屋書店
期間:11/12(金)~11/21(日)

*入場料無料。予約・事前申し込み不要。
※会場では、各自治体における新型コロナウイルスの感染拡大防止のガイドラインを遵守しながら開催してまいります。
※営業時間は店舗によって異なりますので、それぞれの店舗のホームページをご確認ください。また、新型コロナウィルス感染拡大防止のため、予告なく営業時間や会期が変更になる場合がございます。
※店舗により展示内容、 販売商品は一部変更がございます。
『ポートレートドローイングイベント』
■奈良 蔦屋書店
07/17(土)~07/18(日)
■代官山 蔦屋書店
07/31(土)~08/01(日)
■六本松 蔦屋書店
08/21(土)~08/22(日)
■枚方 蔦屋書店
09/04(土)~09/05(日)
■名古屋みなと 蔦屋書店
09/18(土)~09/19(日)
■広島 蔦屋書店
10/02(土)~10/03(日)
■江別 蔦屋書店
10/23(土)~10/24(日)
時間: 11:00~19:00 (休憩時間有) お一人様30分
場所:KYOSUKE HIMURO KING SWING EXHIBITION 2021 各会場
参加費 : 6,600円(税込)
参加方法:7月1日(木)17時より各店舗へお電話にてご予約ください。
※函館 蔦屋書店でのポートレートドローイングイベントの開催予定はございません。

『KYOSUKE HIMURO KING SWING EXHIBITION 2021』の詳細はこちら
https://www.himuro.com/news/

氷室京介 OFFICIAL WEBSITE
http://www.himuro.com


 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃KING OF ROCK SHOW "FLOWERS FOR ALGERNON"┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 2007(平成19)年07月14日(土) 17:07 氷室京介 ツアーデータ
    bass:KEN YOSHIDA
 Keyboards:NISHIHIRA AKIRA
   guitar:SHUGO SHISHIKURA
   Drums:TOSHIMITSU NAGAI
‡1988(昭和63)年10月01日(土) 01 高松市民会館
 1988(昭和63)年10月04日(火) 02 福岡国際センター
 1988(昭和63)年10月12日(水) 03 広島サンプラザ
 1988(昭和63)年10月27日(木) 04 東京ドーム(GREAT DOUBLE BOOKING 氷室京介×STING)
 1988(昭和63)年10月30日(日) 05 新潟産業文化センター
 1988(昭和63)年11月17日(木) 06 東京ベイNKホール
 1988(昭和63)年11月18日(金) 07 日清パワーステーション
 1988(昭和63)年11月19日(土) 08 日清パワーステーション(ゲスト:高橋まこと)
 1988(昭和63)年11月22日(火) 09 大阪城ホール
 1988(昭和63)年11月24日(木) 10 名古屋市総合体育館レインボーホール
 1988(昭和63)年11月30日(水) 11 月寒グリーンドーム
 1988(昭和63)年12月08日(木) 12 仙台市体育館
 1988(昭和63)年12月14日(水) 13 香港QUEEN ELIZABETH STADIUM
 1989(平成元)年01月03日(火) 14 東京ドーム
 1989(平成元)年01月04日(水) 15 東京ドーム
 セットリスト (1/3 1/4 東京ドーム公演)
 01.SEX&CLASH&ROCK'N'ROLL 
 02.SHADOW BOXER 
 03.LOVE&GAME 
 04.たどりついたらいつも雨降り 
 05.STRANGER 
 06.わがままジュリエット 
 07.CLOUDY HEART 
 08.ALISON 
 09.COME TOGETHER 
 10.SAFFRAGET CITY 
 11.GIVE IT TO ME 
 12.PUSSY CAT 
 13.ROXY 
 14.IMPRESSED    ※Withチャーリーセクストソン,東京ドームのみ1/3
 15.DON'T LOCK BACK ※Withチャーリーセクストソン,東京ドームのみ1/3,1/4
 16.TO THE HIGHWAY 
 17.TASTE OF MONEY 
 18.ANGEL 
~ ENCORE① ~
 19.HONKY TONKY CRAZY 
 20.IMAGE DOWN 
~ ENCORE② ~
 21.DEAR ALGERNON
「DON'T KNOCK THE ROCK TOUR」終了後、一ヶ月間のインターバルと経てスタートしたこのツアー、この一ヶ月の間に、記念すべきソロデビューアルバム、『FLOWERS FOR ALGERNON』が発売されており、このツアーは、それを受けてスタートしたものである。演奏された楽曲は、「DON'T~TOUR」で披露された内容を並べ替えたり、一部楽曲を入れ替えたりする程度ではあったものの、特に前ツアーと比較して、遜色はなかったと記憶している。しかし、セットリストを参照してみると、こういった構成は、今では決してお目にかかれないレアな曲がカバーされていたりして、マニア垂涎の内容となっている。このツアー最大の特徴は、その豪華なステージ。宮殿をイメージした華麗なものであった。前ツアーのセットは、建設中の宮殿をイメージさせたものであったが、このツアーでは、その建設中であった建物が完成したという解釈ができる。ツアーそのものは、こういった趣向を凝らした内容もあり、また、BOφWY解散直後ということもあって、大きな話題を呼び、各地でチケットは完売状態になった。最終日には東京ドーム2Days公演が組まれ、ファンを驚かせたが、そんなファンの心配をよそに、ドーム公演は完売することとなる。
 1988(昭和63)年11月19日(土) また、日清パワーステーション公演の二日目では、元BOφWYの高橋まことがアンコールで飛び入り参加するといううれしいハプニングがあり、ツアーの最終日にはアルバム制作にギタリストとして参加したチャーリー・セクストソンがゲスト出演するという一幕も見られた。このツアーの終盤は、昭和天皇の崩御直前であり、世間の自粛ムードか高まる中で行われ、
 1989(平成元)年01月04日(水) とりわけ最終日のドーム公演はその開催が危ぶまれたが、天皇は崩御されず、中止という最悪の事態を免れることが出来た。氷室自身も、ドーム最終日で「天皇陛下様もどうやらお隠れにならなかったし、安心して騒ごうぜ!」と、発言している。最終日の東京ドームでは、二度目のアンコールでアコースティックギターを持って登場し、弾き語りで「DEAR ALGERNON」を演奏して客席を大いに喜ばせた。これは今でも名シーンとして語り継がれている。このドーム公演の成功によって、BOφWY解散ライブである「LAST GIGS」のアンコールの最後に発言した「今度は一人ひとり別々で、必ずここ(東京ドーム)で会おうぜ!」という約束が、とりあえずは果たされたことになる。ツアーグッズについては、パンフレットをビデオ形式にして販売するという、今では見られない斬新な方法が採用されていた。その他には、Tシャツ、ステッカー、ツアータオルなどが販売されているが、現在では入手困難である。この年、氷室は自身のファンクラブ「KING SWING」を立ち上げており、同時に香港で公演を行うという初の海外公演を行っている。この海外公演は、ファンクラブでツアーが組まれ、多くのファンが帯同していた。私自身も、当時大学生であった従兄弟とこの公演に参加するべく、真剣にその方法を検討し、資金面の調達なども行ったのだが、結局、参加することは叶わなかった。資金的、日程的には調整がついたのだが、二人ともパスポートを持っていなかったという、致命的なミスによるものだった。
 1988(昭和63)年12月31日 余談になるが、氷室はこの年、レコード大賞で「アルバム賞」を受賞している。授賞式には珍しくテレビに出演し、♪ANGEL♪と♪ALISON♪の二曲を披露した。なお、その時の挨拶では「この賞はファンとスタッフと・・・あとは俺の実力だと思ってます」と強気なコメントを行っている。なお、このツアーでは東芝EMIよりビデオが発売されたが、DON'T~KING OF~のライブ映像だけでなく、当時世田谷にあった氷室の自宅でのインタビューも収録。その際には「LAST GIGS」の映像を白黒ながら挿入するといった、サービス満点の作りになっていた。現在では絶版であり、入手は困難である。また、NHKが7月からスタートしたツアーのダイジェスト版を放送しており、表示された曲名の一部が赤字で表示され、それを繋げてゆくと「THANKS BYE BYE BOφWY」になるという、粋な演出がとられていた。内容も販売のビデオとは若干異なり、インタビューはなく、放送された曲も市販のものとは少し異なる。このツアーも、海賊盤は音源・映像共に存在する。まず音源に関しては、全公演分が存在する。特に、大阪公演と仙台公演では「ライン物」、いわゆるスタッフが録音した高音質の物が出回り、当時かなりの高値がついていた。映像に関しては、最終日のドーム公演の完全版が存在する。会場のモニターに映されたと思われる映像で、本編終了からアンコールまでの、ほぼ前編が収録されている。なお、この映像には、かなり画質がよいものと劣悪な画像のものの二種類が存在する。さらには、近年になってパワーステーションの映像(二日分、プロショット)もYAHOO!オークションなどで流出するようになった。現在はあまり見かけなくなったが、画質自体はあまりよくない。
 1988(昭和63)年11月17日(木) なお、東京ベイNKホール公演のプロショット映像も存在すると言われているが、こちらは確認はできていない。
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 http://blog.livedoor.jp/c_taixian/archives/1206589.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/KING_OF_ROCK_SHOW_of_88%27S-89%27S_TURNING_PROCESS
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【コミックバンドじゃねぇゼ】
『スタジオ・ギャング バトルロイヤル AT LOFT 4Days』
‡1983(昭和58)年10月01日(土) 新宿LOFT
 01.IN MY HEAD
 02.ROCK'N ROLL(CLOUDY HEART)
 03.INSTANT LOVE
 04.THIS MOMENT
 05.FUNNY-BOY
 06.MY HONEY
 07.OH! MY JULLY PartⅡ
 08.OH! MY JULLY PartⅠ
 09.FUCK OFF(TEENAGE EMOTION)
 10.LONDON GAME
 11.MIDNIGHT RUNNERS(音源なし)
 12.BOOGIE
 13.ATOMIC CADILLAC
 14.SCHOOL OUT
 15.NO N.Y.
 16.IMAGE DOWN
『1983年10月01日 新宿LOFT』レビュー ⇒ アマチュアバンドイベントのゲストとして出演。「内輪のノリ」とMCで言っていますが、全体的に和やかな雰囲気のライブです。アルバム『INSTANT LOVE』から『SYMPHONIC』以外の8曲を披露していますが、このライブの5日前にリリースされたばかりだからなのか、『TEENAGE EMOTION』を元の曲名『FUCK OFF』と紹介してしまったり、『FUNNY-BOY』を「いじけちまうゼ」から始まるリリースされていないバージョンで歌っています。『ATOMIC CADILLAC』はグダグダで、氷室狂介さんは1回目のミスは笑っていましたが、2回目のミスに対してはメンバーをシメるようなトーンで「コミックバンドじゃねぇゼ」と。その後はもちろんビシっと演奏しきりました。
 https://21st-century-boowy.com/entry/19831001
 ┏━━━━━━━━━━━┓
 ┃ ♪HOT SUMMER RAIN♪ ┃
 ┗━━━━━━━━━━━┛寺西修一
 1980(昭和55)年09月05日(金) released
 ┏━━━━━━━┓
 ┃『IN & OUT』 ┃
 ┗━━━━━━━┛寺西修一
 1980(昭和55)年09月21日(日) released
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%82%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%AF%E3%83%BC
 https://ja.wikipedia.org/wiki/MORAL
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 スピニッヂパワーは氷室がBOOWY結成前に加入していたバンド。群馬時代の氷室のバンド「ディスペナルティ」はYAMAHA『EAST WEST'79』での入賞をきっかけにメンバーの松井恒ニ(松井恒松)菊池アツシ(諸星アツシ暴威初期メンバー)の3人で上京する。所属した音楽事務所「ビーイング」の社長長戸大幸により、解散を命じられ「ディスペナルティ」は、バラバラにさせられた。その後、氷室は、「スピニッヂ・パワー」へ加入させられ契約書にサインをしてしまう。その時にこの「ホットサマーレイン」という曲を受け取り、翌々日からスタジオに入ることとなった。氷室京介の本名は寺西修だが、スピニッジパワー時代は、“寺西修一”でクレジットされている。メンバーには暴威の初期ドラマーの木村マモル、ソロ時代のサポートメンバーの春山信吾らが在籍していた。氷室はこのバンドの第3期ヴォーカリストで初代ヴォーカリストは織田哲郎。
 http://boowydouga.seesaa.net/article/55245577.html
 映像◆スピニッヂ・パワー 「ホット・サマー・レイン」 TVスタジオライブ
‡1980(昭和55)年10月01日(水)『11時に歌いましょう』TBS平日朝の歌謡番組出演時
 https://www.nicovideo.jp/watch/sm24840389
 映像◆HOT SUMMER RAIN ( SPINACH POWER )
 https://www.dailymotion.com/video/x5lion
 音源◆ホット・サマー・レイン / スピニッヂ・パワーhttps://youtu.be/5it8VGQ_-9A
 
 音源◆スピニッヂ・パワー / ホット・サマーレイン (1980) https://youtu.be/qbtzCTkPbTw
 
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃BOΦWY STORY ARCHIVE【1985~1988:鶴田正人】Vol.02┃
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 2016(平成28)年01月29日(金)
 2015(平成27)年10月01日(木) @西小山WAREHOUSEにて
 関係者によるBOOWY伝説を裏付けるドキュメンタリー!
 鶴田正人(Wooly magazine/Wooly arts代表/元東芝EMI BOOWY担当A&R)
1985年以降、東芝EMI(当時)にてBOOWYのアーティスト担当として、主にプロモーション、マーケティング面に力を注がれたBOOWY伝説の立役者のひとり。そんな鶴田氏に、BOOWYが東芝EMIに移籍してきた経緯、ロンドンでの海外GIG、音楽雑誌を活用したメディア・プロモーションなどについてレコード会社目線から語っていただいた。なお、鶴田氏はBOOWY解散後、社内レーベルを起こし100万枚を突破したドラマ『ロングバケーション』のサウンドトラック制作、800万枚をセールスした宇多田ヒカルのデビュー時のマーケティングを担当し、現在では独立されアートプロジェクト『Wooly(http://wooly-web.com/)』を運営されている。3時間に渡って繰り広げられた、数々のBOOWY伝説を裏付ける貴重な2万字トークをお届けしよう。
※クローズドなメディア掲載での発言、多くの登場人物が敬称略であることをご了承下さい。
テキスト:ふくりゅう(音楽コンシェルジュ)https://twitter.com/fukuryu_76
――鶴田さんは、これまで公の場でBOOWYについてお話をされてきませんでしたよね? でも、最近福岡でお話をされる機会があったとか。
 いま『Wooly』というアート・プロジェクトをやってまして、トークショーをやる機会が多いんです。福岡にもブランチがあって。たまたま、以前僕の部下で、その後布袋さんのマネージャーになった阿部くんと福岡で出会って「じゃあBOOWYの話でもしようか?」って自然になったんですよ。全然関係ないアートのイベントなのに、2人でBOOWYの話をしました。もちろん音楽だってアートだからね。それが僕としては人前でBOOWYについて初めて語った場となりました。なぜ急にやったかっていうと、いま横浜と福岡でラジオ番組を作ってるんですが、その番組にBOOWYのベルリンやロンドンでの写真を撮影してくれたフォトグラファー、ハービー山口さんがゲストで来てくれたんです。MCは雑誌『POPEYE』や『BRUTUS』の発行人のマガジンハウスの石渡健文さんと、僕が担当しているシンガー・ソングライターのQi Fang。その時にハービーさんが話してくれたBOOWY話に感動しちゃって。うちのミュージシャンも番組中に泣いちゃったんです、すごいでしょ? その時に、昔のことでもちゃんと伝えたら、すごい意味があるんだなってことを身をもって教えてもらいました。
――なるほど。
 それで、たまたまブッキングされていたアートイベントに阿部ちゃんが「挨拶しに伺います!」って言うから「一緒になんか話そうよ!」って。彼が以前マネージャーを担当していた布袋さんの話となると阿部ちゃんも緊張しちゃうだろうから「俺もBOOWYの話を初めてすることにしたから、君も付き合って。横で聞き役になって!」と説得をして。ちょうど一月くらい前ですよ。そうしたら、アートイベントなのに盛り上がっちゃって。いまでもBOOWYを好きな人がいっぱいいるんだなって。
――お~、それは嬉しいですね。しかも当時のスタッフが語る場は貴重です。
 ははは(苦笑)。ていうか、1988年の解散後、メンバーが語ってないから、余計ね。もうそれだけ。ほら、RED WARRIORSのダイヤモンドユカイとかさ、タレントとしてテレビ出まくっちゃってるじゃん? BOOWYは、むしろ封印しちゃったんだよね。そしてそれぞれが現役で頑張ってるし。誰も蓋をあけないからね。でも、本当のことを周りにいた人間が話すことって大事かもしれないと思って。僕がスイッチ入れられたのはハービー山口さんのおかげ。その会場にいた人たちも、まさかBOOWYの話を聞けると思ってなかったと思うんです。福岡のオシャレなカフェでやってはいるものの、田舎じゃないですか? でも、みんな「自分はBOOWYファンです!」ってカミングアウトし始めちゃって(笑)。アートのイベントだったのに全然目の色変わっちゃってさ。すごいバンドだったんだなと思いました。アートギャラリーのギャラリスト福岡NO.1ともそこで通じちゃうんです。あらためてBOOWYの影響力の大きさを知りました。面白かったですよ。
――それはすごいですねぇ。まさにBOOWYは、時代を超えて共有できる歴史に残るエンタテインメントってことですよね。ちなみに鶴田さんは、レコード会社である東芝EMIへ入社されたのって何年くらいですか?
 1981年頃だね。
――入社当時はどんなお仕事をされてたんですか?
 第2制作部といって、所謂『エキスプレス・レーベル』というニューミュージックの旋風を巻き起こしたセクションに配属されたから、長渕剛さんとか、寺尾聡のヒットで初めてボーナスもらったりしてました。小室哲哉さんがTM NETWORKの前にやっていた大所帯のバンドSPEEDWAYがいたり、オフコースもいたよね。
――名物プロデューサー、新田和長さんが活躍されていた部所ですね?
 そうです、新田さんです。よく知っているね?
――息子さんと同世代なんですよ。その頃、長渕剛さんのマネージャーだった糟谷銑司さん(BOOWYの事務所プロデューサー)にお会いしたんですか?
 長渕さんは大ヒット・プロジェクトだから、新入社員だった僕は糟谷さんとは接触できなかったんじゃないかな。糟谷さんとは、BOOWYのロンドンではじめてお会いしました。
――鶴田さんは、BOOWY以前はユーミンのプロジェクトにも関わられていたんですよね?
 そう。あの頃ってアリスが独立したり。僕が配属されたセクションがスタッフごと抜けて、ファンハウスってレコード会社を作ったり、東芝EMIは大変だったんです。
――それってすごいことですよね?
 僕をEMIに呼んでくれて、最初の初期設定をしたボスというか先輩の新田さんが、新しいレコード会社としてファンハウスを作っちゃったんです。しかもアーティスト連れていってしまって……。それで、どうしたものかと思ったら、当時ユーミンだけ動かなかったんですよ。それで、最若手だったこともあって、ユーミン付きになって。この経験は最高におもしろかったです。しかも一人でアー担だから、マネージャーさんと、ほとんどずっと一緒にいました。で、付き人みたいな修行で。ユーミンがプールで歌うときには、滑らないようにヒールの裏にゴムを張るのが初めてのユーミンの仕事でした。マネージャーに怒られながらね(苦笑)。
――えっ、それレーベルの人がやることなんですか(笑)
 そういう感じですよ。アー担と言ってもできることなんてそのぐらいでしたから(苦笑)。
――そこからBOOWYとの出会いへの期間は?
 えっと、数年ありますね。
――そうなんですね。その間もいろんなアーティスト担当されたり?
 邦楽の部所が抜け殻になったところで、シティ・ポップな山本達彦が出てきたり。角川映画のプロジェクトで薬師丸ひろ子とかね。後にユニバーサルやワーナーを立て直した石坂敬一さんの邦楽セクションが産声をあげたタイミングでしたね。
――そんななか、東芝EMIとしては新人や、ロックに力入れていこうみたいな風潮だったのですか?
 そうでもなかったかなぁ。でも、演歌とユーミンしか残ってなかったんですよ。そんな時にもともと洋楽にいらっしゃった石坂さんが邦楽畑に殴り込んで来たんです。ご存知の通り、ビートルズやピンクフロイドをやられていたロック一筋な方でしたから。そんな意味では一気にロックな風土ができたのかもね。
――その後、完全に東芝EMIというレコード会社は邦楽でもロックのイメージが固まっていきましたよね。
 とはいえ、エピックソニーの丸山茂雄さんがやられたようにゼロからやるノウハウもないじゃん? そうなるとどうするかって言うと、移籍に頼るしかないんだよね。石坂さんがもうガンガン契約をとって。そこにはRCサクセションがあり、サンディー&ザ・サンセッツがあり、M-BANDがいたんだよね。その移籍シリーズのひとつに、ビクターと徳間を経由してきたBOOWYがいたんです。
――BOOWYは、東芝EMIへは3社目の移籍だったんですよね。
 移籍です。当時の東芝EMIは、ひと月に2アーティストは契約してました。他社のロックバンドをね。で、我々は「あ、まただ」と思っていて。で、「鶴田どうだ?」なんて一番年下なのでよく聞かれました。そのなかにBOOWYという、全くスタッフの誰もが知らなかったバンドがいたんです。
――まだそういう存在だったんですね。
 だからまぁ新人ですよね。移籍っていうのも、担当になって調べたら「あ、移籍じゃん!」みたいな。
――しかも2社経由ですもんね。なぜ鶴田さんが担当になったのですか?
 ユーミンのプロジェクトが一段落したタイミングがあって、何も担当してない状態だったんです。今でも覚えているのは、いまはももいろクローバーZなどをやられているスターダスト出版の菅谷憲さんが課長で、まったく情報を知らないまま「お前BOOWY担当だからよろしくね!」って言われて「あ、頑張ります!」って。「早速だけどロンドン行ってくれる?」って言われて(苦笑)。「事務所やミュージシャンに現地で挨拶して」って(苦笑)。「いやだから、もう向こうにいるから!」ってせかされて。なんじゃこりゃと思って。初海外出張の手続きをしてるうちに、アーティストについて調べなきゃってなって、そうしたら先輩の子安次郎さんが担当だってことがわかったんです。「メンバーを子安が紹介するから」という話だったんですよ。
――ちなみに、東芝EMIとBOOWYを結び付けたのは最初のきっかけは誰だったんですか?
 糟谷さんが長渕をやっていたから、事務所のユイ音楽工房の代表の後藤由多加さんだと思いますね。後藤さんが、新田さんがいなくなった後に石坂さんとつながったんでしょうね。
――なるほど。
 石坂さんってプロモーションの主軸がラジオだったんですよ。音専誌でもファッション誌でも有線でもテレビでもなくて。もともと洋楽全盛期にラジオでヒット出していた人だから、なので、BOOWYを糟谷さんにつないだ東海ラジオのディレクター、加藤与佐雄さんとのパイプもあったと思います。ある種、洋楽の人って制作と言ってもA&Rじゃないですか? 石坂さんってやっぱり一流のビートルズのプロモーターだったから。
――そんな流れがもしかしたら、BOOWYのイギリスでのライブにつながったのかもしれませんね?
 そうかもしれないね。で、結局、子安さんはレコーディング、ミックスが長引いてロンドンには行けませんってことになったんですよ。「え、じゃあ俺は誰にアーティストを紹介されて、誰と仕事するの?」みたいな(苦笑)。でも、とにかく行けって。それなりに一生懸命調べて。でも音はないんですよ、かつての音しか。新作のレコーディング中なので。
――ああ、そうですよね。
 で、ミッションが2つあると言われたんです。キーとなるアーティスト写真をロンドンで撮影してこいと。そして「デビュー前の大トピックのために、ロンドンの伝説的なライブハウス、マーキー・クラブで日本人として初めてライブやるから、そこをちゃんと成り立たせて、且つトピックとして持って来い、日本での宣伝に反映させろ!」っていうのが僕のミッション。ただ、まだ入社したての若造でしたから。ユーミンで修業したとはいえ。まず海外に行ったことないし、英語はしゃべれない、バンドとは会ってないし、事務所の人とも会ってない、子安さんは来ないっていうし「ああヤバイ!」と思ったんですよ(汗)。しかも、石坂さんからは「絶対コーディネーターなんか雇うんじゃないぞ!」って言われて……。雇おうと思ってたのに(苦笑)。菅谷さんとは「雇っちゃえばいいんだよ。お前ロンドンわかんないだろ!」って話してたんだけどね。でも、石坂さんには「お前が全部自分でやれ!」って言われたんですよ。あと、もう一つミッションが増えちゃって。イギリス本国のEMIに連れてけって言われたの、BOOWYを。
――あ、本社ってことですね。
 そう。石坂さんに「これから日本でNO.1になるアーティストをEMIにプレゼンして来い!」言われたの。「あ、もう終わった、俺もうできない……」って思ったんだけど、まぁ一応やりましたよ。
――ちなみにロンドンへは誰と行ったんですか?
 音楽評論家の平山雄一さんです。
――新宿LOFTでの最初のライブも平山さんは観てらっしゃるんですよね。
 僕がBOOWYの情報をもらったのは、子安さんでも石坂さんでもなく、全部平山さんなんですよ、飛行機の中で。
――すごい、そうなんですね。
 平山さんがベーシックな、情報を全部教えてくれました。
――その時の平山さんの話で印象に残る話ってあります?
 すごいなと思ったのは、僕が何にもできそうにないというのを見透かされていて。でも優しくて、そしてフォトグラファーとしてハービー山口さんをブッキングしてくれたんですね。「ハービー山口がいれば写真は安心だから!」って。
――初の海外出張でロンドンに着いたときはどんな状況だったんですか?
 まずホテルに行ってメンバー4人とマネージメントの糟谷さん、土屋浩さんへ挨拶しました。ものすごい存在感を感じましたね。なんかこうキレがあるというか。挨拶自体は淡々としていたと思いますね。
――4人に会ってみて誰が一番印象的でしたか?
 そのときは氷室さんでしょうね。リーダーとしての立ち居振る舞いが素晴らしかったんです。アー担になってからもリーダーだなって思うシーンがいっぱいありました。BOOWYは氷室さんがリーダーのバンドなんだと感じましたね。
――ライブや撮影はどんな感じでしたか?
 ロンドンでは、3月12日にマーキー・クラブでライブをやって、それが終わってリラックスしてから、街で写真撮影をしました。マーキー・クラブでのライブは、本当になんだろ、ものものしいというか、すごい緊張感がありました。リハの後も毎日深夜にミーティングをしてたんですよ。ユイが雇ったコーディネーターとメンバーと我々でミーティングをする毎日。一つにはライブを成功させること。そして、あわよくばロンドンで話題にしたいというレベルの高い目標がありました。で、もう一個驚いたのは、マーキー・クラブでライブをやるリスクがあったんですね。最悪壊し屋というか、パンクな輩が、日本人がこんな伝説的なクラブに来るなんて許せないって潰しに来るだろうっていう最悪のシナリオの対策も考えていて。時代ですよね。なので、いわゆるニュース作りですごい楽しみだねって感じでは全くないんです(苦笑)。ピリピリしてました。
――うわ~、実際トラブルはあったのですか?
 これが全然なかったんです。
――あ、大丈夫だったんですね。
 いっぱい客も来たしね。あと、映画監督の石井聰互(現 石井岳龍)さんも観に来てました。8mmカメラもまわしてましたよ。スタッフ以外で日本人は彼ぐらいだったんじゃないかな。
――ちょうどロンドンにいらしてたんですね。ロック好きでパンクな方ですもんね。
 そうそう。この時点からすでにプロジェクトは上手くすすんでました。コーディネーターとしても、事務所経由でクマ原田さんとカズ宇都宮さんという当時のイギリスでのトップ・コーディネーターがダブルでついていて。一番感動したのは、ロンドンの街を歩いたり、シューティングのロケハンをしているとBOOWYのポスターがたくさん張られていたんです。
――それはすごいですね!
 スミスとかそういう地元のバンドが貼ってあるところにBOOWYのポスターがあるのよ。しかもすごい良いデザイン。イギリスのバンドのデザインにも負けてなくって。今でも鮮やかに覚えているのですが、綺麗なブルーのね。わりとダークな色が多いじゃないですか、向こうのポスターって。でも綺麗な鮮やかなブルーに白でBOOWYって書いてあって、バンドがどんな風貌かもわかるデザインで。
――1985年当時の日本のアーティストの海外進出って、前例があまりなかった時代ですよね。しかも新人バンドで。ライブ後はどんな感じだったのですか?
 その時のエピソードは、音楽雑誌の『B-PASS』で喋ったことがあるんですけど、実はちょっとしたトラブルがありました。単純な話なんですけど、スタッフがシールド(ケーブル)を忘れたんですね。それをホテルに取りに戻らないとリハができないってなって、マネージャーの土屋さんが「鶴田さんすみません、部屋の鍵を渡すから、シールドを取りにもどってもらっていいですか?」ってなって。もちろん「いいですよ!」って。時間もありましたから。タクシーでホテルに取りに戻って全然間に合ったんです。ライブも大成功して。その晩、打ち上げの後にミーティングがあって、で、みんな「これ良かった!」、「あれ良かった!」、「ボンドガールが観に来てたよね!」とか、いろんな話があるなかで、氷室さんが土屋さんに「なんでレコード会社のスタッフにシールドをトリに行かせたんだ?」って言い出して。僕はびっくりしたんだけど「それはマネージャーの仕事だろ!」ってことだったんですね。筋を通すのが大切というか、バンドのプロフェッショナルなアティチュードをみましたね。
――仕事のあり方ですね。いいお話ですね。氷室さん、かっこいいなぁ。
 仕事の考え方に感動しましたね。そういう風に気を回してくれたってことじゃなくて、リーダーとしてのマネージャーとの真剣なやり取りにね。
――その後、ロンドンでのハービー山口さんとの撮影はどんな感じだったんですか?
 もうね、本当にハービーさんが、平山さんの言うとおりで、ロンドンを知り尽くしてる男だったんです。車の運転も彼が、俺は運転もできなかったからね(苦笑)。ロケハンも彼がやって。デュランデュランはここで撮ったとか、ポールジ・マッカートニーやジョージ・ハリスンがよくお店とか、で「まじすか!?」ってなって(笑)
――それはテンション上がりますね(笑)
 ロック観光もしながら、ベストな場所でガンガン撮っていくんです。そして、ベルリンでのミックスが終わってプロデューサーの佐久間正英さんも合流したんです。ディレクターの子安さんはテープを持って日本へ帰国したんですけどね(苦笑)
――なかなか子安さんには会えなかったんですね(笑)
 そうなんですよ(苦笑)。佐久間さんはバンド、プラスチックスでの活動など、ロンドン経験があって、バンドを食事に連れていってくれることになって、僕も便乗したんです。超おしゃれなレストランに連れてってくれて。とてもジェントルマンなんですね。その時の佐久間さんの立ち振る舞いや、おもてなしに感動しました。あと、やっぱりみんな真面目だからレコーディングの話になりましたね。「ミックスはどんな感じっすか?」みたいな。音楽の先輩としてのレクチャーだね。すごいなんかいい晩餐でした。あ、俺も「レコーディング順調だったんですか?」みたいなね(苦笑)
――スタッフ同士が海外でまず最初に出会うというシチュエーションが奇跡的ですよね。そして、実は海外進出からリスタートしたBOOWYというストーリーの面白さ、ワクワク感。しかも、帰国後すぐに赤坂ラフォーレ・ミュージアムで、マスコミ招待のコンベンション・ライブを4月13日に行ったんですよね。
 ロンドンのマーキー・クラブでのライブからちょうど1ヶ月後ですね。当時、赤坂ラフォーレ・ミュージアムはライブで簡単に使える会場ではなかったんですよ。しかも、まだまだ売れているわけじゃない人たちに貸すような会場でもなくて。でも、やっぱり移籍後のインパクトと、マスコミに対してベルリン?ロンドンでスタートしたバンドのハイレベルなテンションを伝えるために会場探しにこだわったんですね。「いやもう、今回やばいですよ、本気ですよ!」って気持ちを伝える為にね。結果、素晴らしいライブでコンベンションはめっちゃくちゃ盛りあがりました。
――そして、ベルリンでレコーディングした新作音源をもってマスメディアへプロモーションされたじゃないですか? 3rdアルバム『BOOWY』の手応えはいかがでしたか?
 実は、マスメディアへの評価は非常に厳しかったんですよ。ライブの評価はどんどんあがっていたんですけどね。でも、まだパンクやニュー・ウェーヴをメジャーな媒体が扱う時代ではなかったんです。まだコアな存在というか、ものすごい先入観があったんですよね。なので媒体へ行くと「お前、ユーミンどうしたの?」って話になるんだけど、BOOWYの話をしても「無理無理」って感じで。「わかるけど、ウチではないじゃん?」みたいな。それでも、ロンドンの熱狂や赤坂ラフォーレでのコンベンションの成功、そしてアルバムの素晴らしさついて丁寧に伝えていったのですが、マスコミからの返答は非常に冷たかったですね。そんななか、媒体よりも音楽ジャーナリストからの評価は高かったんですよ。平山さんに次ぐ若いライターたちや、女性編集者とかね。
――そんななか、テレビの深夜番組『オールナイトフジ』に出演していますよね?
 そうそう。このタイミングで東芝EMIのアーティスト担当スタッフに一人加わってくるわけですよ、小澤啓二くんが。彼はフジテレビに強かったんだよね。あとは、有線をまわったね。氷室さんも有線試聴会にも来てくれたし、やれることはゲリラ戦ではあったけどいろいろチャレンジしました。
――後からこの時期のBOOWYの歴史を振り返ってみると、アルバム『BOOWY』を1985年6月21日にリリースして、25日に渋谷公会堂でワンマン公演をやってるんです。それって、ブレイク前であったのにキャパ的にはものすごい挑戦的にランクアップをされているんですよね。
 まだライブハウス、渋谷ライブ・インでやってた頃だよね。あの頃はライブ・インがオシャレっていうか、メジャーな新人がやるハコだったんだよ。でも、すでにBOOWY自身のライブでの勢いは本当にすごかったんです。お客さんはいっぱい掴んでいたんです。だからさっきお話ししたマスメディア受けに対してのチグハグな感じとかには全く心配なかったんです。要するにバンドとしての人気、ライブ動員はものすごい勢いで伸びていました。会場のキャパを広くしていくのと、客が増えていくスピードがもう追いかけっこみたいな感じでしたね。だからコンベンションで使った赤坂ラフォーレにも一般の客さんがたくさん来て大変だったんですよ。コントロールが。
――そうなんですねぇ。渋公での最初のワンマン時のエピソードで覚えていることはありますか? 実は1回目の渋公の時のエピソードってあまり残っていないんですよね。

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