過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の氷室さん等だヨ(=^◇^=)


 う~ん、なんだろうね。ある種の賭けっていうか、余裕はなかったと思うな。とりあえずチャレンジでやろうみたいな感じで。あと、動員はあってもレコードのセールスに結びついてなかったんですよね。やっぱり、一般的には露出ができなかったんですよ。インタビューやレビューも載っけてくれなかった。繰り返しちゃうけど、当時を振り返ると過渡期というか、日本のロックをメジャーなメディアで紹介するっていう考え方が、残念ながらまだできあがってなかった。それをスイッチしたのがBOOWYやREBECCAだったんだよね。相当、壁は分厚かったねえ。だって、俺はがっつりユーミンでだいたいの雑誌メディアの担当を押さえていたんですよ。だから簡単にインタビューもレビューも載っけられるって会議で言っちゃたぐらいで(苦笑)。全然ダメだったね……。それはBOOWY自身の問題ではなくて、日本のメディアの人たちのロックへの理解の前提がなくて「そんなもの何で載っけなきゃいけないの? 違うものあるじゃないいっぱい、もっとアイドルとかわかりやすいヤツ!」という反応との戦いでもありました。
――音楽シーンのターニングポイントだったわけですね。しかもBOOWYから80年代末の熱狂的なバンドブームが生まれていきましたからねぇ。
 そうですよね。当時はネットがなかったんですけど、一番のプロモーションになったのはファンによるクチコミのすごさでした。ツールとしてカセットテープでのコピーでどんどん広がっていったんですよ。ライブの違法録音も広がってましたから。それこそネット的な現象ですよね。そして、ライブ動員が伸びていく早さに驚かされました。
――動員が伸びたであろう気になるポイントとして、NHKの番組『ミュージックウェーブ』で、日本青年館でのライブが1985年12月31日に放送されてますよね。NHKは80年代初頭、積極的にロックやインディーズ文化をいち早く紹介していました。そこでBOOWYが紹介されたことが一般的な飛躍のきっかけに感じました。
 今でいうロックフェスに近いバンドのライブの盛り上がり、いわゆるオムニバス・ライブ。仙台の『ロックンロールオリンピック』もNHKで放送してたでしょ? NHKがロックをヤングカルチャーの兆しとして捉え始めたんだと思う。あと、この頃エピックソニーとか含めて、邦楽ロックの玉がそろい始めてきたんですよね。
――そういうタイミングでもありますね。
 うん。レコードショップなどお店は実は気がつき始めていて。メディアはちょっと時間かかっただけどね。「ロックってジャンルはニューミュージックの次にいけるんじゃない?」みたいなバイヤーがあらわれ始めたんだろうね。
――ちょうど1985年といえば10月21日発売でREBECCA「フレンズ」のヒットもあったりとか。
 大きいよね、REBECCAの存在は。ロックバンドからスタートしたけど、NOKKOを軸に洋楽センスを邦楽として上手くローカライズしてポップスターになったんだよね。この頃、時を同じくしてソニマガ系というか音楽雑誌がブレイクしていくんですよ。『GB』や『PATi・PATi(パチパチ)』とか、ヴィジュアル重視の紙面作りが時代性にハマったんだよね。BOOWYは『Arena 37℃ (アリーナサーティセブン)』など、音楽専門誌には早いタイミングから出ていたんだよね。しかも、BOOWYを掲載すると部数がガンガン出るってことに編集者が気がついてきたのが1986年ぐらいなのかな。メディアのコントロールはマネージャーだった土屋さんがすごかったよ。各雑誌別にネタも写真もしっかり分けてるんだよね。お互いに信頼関係をもってやってた。それは素晴らしいマネージメントだったと思う。
――たしかに、BOOWYは媒体ごとに露出イメージを変えてましたよね。普通だったらどの媒体も同じような記事になりがちなところを。
 その辺がさっきのほら、ある意味びっちゃん(土屋)の強いところっていうか、ファンが喜ぶイメージとかストーリー作りね。なんたって紺待人(小説『BOOWY STORY 大きなビートの木の下で』の作者)ですからね。雑誌が面白く売れるように、ネタや写真の伝え方や振りワケはすごい見事だったと思う。
――書き手であるライターもキャラクター別に明確に分けていましたもんね。
 音専誌をバランスよくやっていくうちに、びっちゃんと俺で、ライター・グループときっちりアライアンスを組むっていうことをやったんです。BOOWYに関しては、5人のライターだけに全部情報を出していくという。いわゆるオフィシャル・ライター、BOOWYライターズっていうのをやり始めたんですね。正しい情報を深くしっかり届けたいという理想型ね。音専誌が盛り上がってきたタイミングで、一歩BOOWYのPRが抜きん出ていた理由はこれだよね。もうしょっちゅうみんなで飯を食ってたわけ。場所まで決まってたの、赤坂の寿司屋なんだけど。そこに2週間に1回くらいは集まって濃い情報を伝えていたんです。ものすごく効果的なジャーナリスト対策。雑誌『ロッキングオン』出身の佐伯明、水村達也、藤沢映子とかね。編集者や編集長にも協力してもらいつつ、だんだんとソニマガの『PATi・PATi(パチパチ)』が主戦場になっていくんだよね。アルバム『JUST A HERO』の頃だね。
――1986年3月1日リリース、4枚目のアルバム『JUST A HERO』で一気にセールスも上がったわけなんですが、その理由をどう考えましたか?
 あれはシングル「わがままジュリエット」の効果だと思うよ。もともと戦略的に、ちゃんと認知されるためのブレイクポイントはシングルだって考えていたんです。「ラジオでかかったり、普通の音楽ファンが聞ける音楽とはなんだ?」ってなって、バンドが出してきたのが「わがままジュリエット」だったんです。レコード会社もびっくりするくらいのポップさというか。この曲から、メディアへの壁がこわれて、とにかくレビューも掲載されてラジオもかかるようになったの。シングル戦略でそれをこじ開け始めたという。
――よくその後も氷室さんはソロ時代でも「シングルは名刺代わり」だってずっと言い続けてましたけど、「わがままジュリエット」での効果がきっかけなのかもしれませんね。
 そして、アルバム『JUST A HERO』はオリコンチャート5位に入ったから、一気に変わるよね。メディアの人たちが手のひらを返してきました。あと、やっぱりフジテレビの音楽番組『夜のヒットスタジオDELUXE』への出演だよね。クチコミで広がっていた流れが一般層まで一気に広がりました。それこそチェッカーズとか聴いてた子たちまで巻き込んでさ。音楽性はもちろん、ヴィジュアルのインパクトもあったよね。チェッカーズもおしゃれなんだけど、BOOWYはそこにパンクさもあって尖ってたんだよね。びっくりしたと思うよ、こんなバンドがいるんだって。
――あと、「わがままジュリエット」のミュージックビデオを力入れて作られてるじゃないですか? BOOWYにとってミュージックビデオはあれが初なんですよね。なんであそこまでアーティステックにしっかりした作品が作れたんですか? いま観てもクオリティの高さに驚かされます。
 シングルヒットを考えると、当時はスペシャなどCS放送はまだなかったけど、ビデオは大事だって認識はあったんだよね。洋楽的な石坂さんのセクションでもあるし、メンバー本人たちも洋楽志向だから力を入れたんだよね。で、あのビデオってのはレコードショップの店頭で流したんだよ。お店が熱い時代で、エピックソニーがビデコン(ビデオコンサート)をショップで始めた時期。その後は、TV神奈川の音楽番組『ミュートマ』とかでミュージックビデオは使えたけど、まだまだお店のためにって時代。MTVムーヴメントが日本ではまだ追いつけていなかった時代。それこそロックフェス『ロックンロールオリンピック』があったから、アルバムは仙台のお店ですっごく売れてたね。東北は熱かったね。『JUST A HERO』の頃なんかは、お店主催でサイン会とかやってたよ。フィルムコンサートもやったよね。ベルリンやロンドンのレアな映像を使ってさ。
――あと、1986年の全国ツアーでのホールのキャパがどんどん右肩上がりになってますよね? 伝説となった武道館でのワンマンもありました。これって、ヒットの兆しが見えた『JUST A HERO』のリリース前段階から、前もってハコを押さえていたわけですよね? すごい戦略的なプランニングですよね。
 パートナーシップとしてのイベンター、DISK GARAGEの存在が大きかったんじゃないかな。ものすごい力が入ってたよね。事務所、レコード会社、イベンターに温度差がまったくない。ほんとに3社がっつり組んでいたから。そして、とても挑戦的だったから。
――1986年のBOOWYってものすごい密度の濃いスケジュールなんですよね。ツアーがありながら、3月1日 に4thアルバム『JUST A HERO』発売して、7月2日に日本武道館、そして7月31日にライヴアルバム『“GIGS”JUST A HERO TOUR 1986』。さらに11月8日に 5thアルバム『BEAT EMOTION』を発売という。なかでも日本武道館での公演は、BOOWYにとってターニングポイントになったと思うのですが、どんな印象でしたか?
 1年にアルバムの重要作を3枚出しているなんてほんと駆け抜けているよね。でも武道館公演ってバンドにとって、別モノというかオリンピックみたいに目指してきたものだったから特別だったよね。でも、ライブが終わったあと打ち上げに行くバンにたまたま一緒に乗ってたけど、はしゃいだりとかまったくなかったんですよ。すごい感無量だったんだろうね。そこから打ち上げへの途中で、いつもなんだけど沈黙を破るのがドラムのまこっちゃん(高橋まこと)。「やっと風呂付きのアパートに移れるのかな」って言ってました。みんなクールに黙ってるのに、まこっちゃんだけが生活感があったなぁ(苦笑)。
――しかも、武道館公演は同じ月の月末に、ライブ盤『“GIGS”JUST A HERO TOUR 1986』としてレコード、カセットテープ、CDの3種類をボックス10万個限定で発売されてますね(1989年にCDのみで再発)。日本ではライブアルバムでのヒットってなかなか貴重な出来事でしたよね。まさにBOOWYがライブバンドであることの証明というか。
 ライブ盤で限定版というのは、レコード会社の掟破りだから。わりと彼らが温めていた秘策だよね。武道館いっちゃったからこその、BOOWYらしさというか、ファンとの絶妙な距離感をあらわしたインディペンデントな表現だよね。にわかなファンじゃ聴けないアイテムってすごいよね。
――翌月にはメモリアルになった新宿都有3号地でのイベント『ウォーターロックフェス』を開催という、今のロックフェスに繋がるようなイベントを主催して、その1週間後には仙台のロックフェス『ロックンロールオリンピック』へ出演という。このアグレッシヴなスピード感をどんな風に見てましたか?
 世の中がBOOWYを認めたタイミングで、新宿都有3号地とか、誰もやってない場所でライブをするという試みが新らしかったよね。そういう意味ではキャッチアップされても、もっと先に行くというライブ戦略を打ち出せていたんでしょうね。マスコミは、渋公や武道館だと行きやすいんだけど、都有なんとか地とか言われてもわけわかんないじゃない? そうすると、ほんとに好きな人しか来なくなるからね。
日本武道館公演あたりから、メディアも増えてきました?
 ちょっと大変だったね。みんな手のひらをひっくり返したように観たいっていうからさ。インビテーションをすごく厳しくしたよね。レコード会社の中からも観たいって言われたけど、まぁ今更という(苦笑)。
――BOOWYの成功とともに、東芝EMIというレコード会社がよりロックなイメージになっていきましたよね。
 当時、それまで主流だったニューミュージックっていうポップスがなくなっちゃったからね。このタイミングでロックバンドとしてポップシーンを切り開いていったBOOWYと契約できたことはラッキーでした。でも、レコード会社としては、コンセプトワークとか、ロックのレーベルとしてのイメージ作りとかが結構たいへんだったのよ。かたや新興レーベルとしてエピックソニーとか出てきちゃうしさ、お店でエピック祭りとか盛り上がるんだよね。そこで東芝EMIのロックでのブランディングを『オン・ザ・ロック』っていう名前ではじめたんです。BOWWOWやRCサクセションとかでくくって、ロック新聞をレーベルから出しました。で、雑誌『宝島』編集部の佐川秀文さんにやってもらって。すごいぐちゃぐちゃな感じなんだけど、BOOWYがしっかり売れ始めたときに後からレーベルを整える一つの試作になったよね。ラジオ番組もやったしね。
――アルバム『JUST A HERO』を売っていくにあたってプロモーションで、ちょっと変わったことをされたりってありましたか?
 原宿の竹下通りのシャッターに、BOOWYのジャケットアートワークのペイントをしましたね。シャッターだからお店の閉店時しか見れないんだけど盛り上がったよね。ストリートプロモーションの走りだと思います。当時の原宿は情報発信力がすごかったんだよね。
――そういえば、その名残が赤羽の飲み屋のシャッターに残っていて、誰かが勝手に書いているBOOWYのペイントがあるんですよ(笑)。今度行きましょう!
 へぇ~(笑)。
――『JUST A HERO』のブレイクから間髪を空けずに5枚目のアルバム『BEAT EMOTION』のレコーディングへ入り、9月29日には先行シングル「B・BLUE」を発売という。当時、どうやってこの勢いあるプランニングを発案されたのかが気になっています。ツアーがあって、取材もやって、レコーディングもしてってことですよね。
 ねぇ。でも、やっぱりすごいクレバーだと思ったのは、ライターのチームを作ったことで効率よく効果的なプロモーションができたんだよね。書き原稿も含めて、紙面での露出はずっとし続けているんだよ。なので、メンバーのストレスはあまりなかったと思う。レコーディングやライブに集中できてたんじゃないかな。余計なプロモーションやメジャーなお話は断っていたからね。いわゆるアイドルがブレイクして寝る暇がないっていうような状況ではなかったから。
――情報出しのこだわりの結果、バンドを芸能界的に消費されずにすんだということですね。
 メンバー稼働させない話題作りというか仕掛けを工夫してましたね。ひとつひとつのキャッチコピーや、アートワークのインパクトへのこだわりとか。本人たちに依存しないでできること。デザインやジャーナリストに頑張ってもらうこと。そこは割とクールにやってました。土屋さんの戦略でもあったし。
――あと、5枚目のアルバム『BEAT EMOTION』のクレジットに“B・BLUE BOYS & GIRLS”って書いてありますけど、あれはなんなんでしょうか?
 そもそもなんだけど、氷室さんから「B・BLUE」はタイトルも含めて、PRチームに任せるって言われたのよ。で、「B・BLUE」ってタイトルはBOOWY宣伝チームが曲を聞いて名付けたのね。宣伝スタッフの小澤案なんですよ「B・BLUE」って。もとは「TRUE BLUE」というタイトルだったんだけど、マドンナがたまたま同名のアルバムを発表したので変更を迫られて。スタッフもさ、タイトルを付けると盛り上がるでしょ、レコード会社。そりゃ宣伝も頑張るよね。
――確かにそうですよね。
 で、BOOWYプロジェクトの下に、若いなんでもやるチーム作ろうってなって“B・BLUE BOYS & GIRLS”ってのができて。後にピチカートファイブを担当された飯塚君や、レコード会社のフォーライフに入社した水野君がいたんだよね。有線プロモーションや、リクエストはがきを書いたり、ストリート・プロモーションをやってくれたんです。すごい地道な、いわゆる、大手ファンクラブの若手がボランティアでやってるようなことを、インターン感覚で有能な学生がやっていたの。もちろんBOOWYファンだし、一番お客さんに近い子たちだから、マーケティングにもつながってくるよね。いまだとアンバサダー・マーケティングっていうのかな?
――完全にそうですよね。ファンの人たちにより広めてもらうという。その施策の時に、白いコートみたいなの作られたり帽子など配ったそうですね。レアアイテムですよね。
 当時、今以上に渋谷や原宿に発信力があっったんですよ。要はメディアとかじゃなくて街からの発信がいいよねっていう発想で。“B・BLUE BOYS & GIRLS”にBOOWYオフィシャルのコートとかカバンとか帽子を持たせて、ただ歩かせるみたいな、すごい変わったプロモーションしてました。
――何人くらいいたんですか?
 マックス60人くらいいたんじゃないかな? でも、オフィシャルではあるんだけど学生に運営は任せていたんだよね。
――そして「B・BLUE」は、当時超絶人気だった音楽テレビ番組『夜のヒットスタジオDELUXE』に出演されて、そこでのライブパフォーマンスは伝説的なカッコよさとなりました。今もYouTubeに動画があがってますが、痺れますね。
 当時、フジテレビの現場にいたのでよく覚えています。メンバーは相変わらずクールで余裕がありましたよ。ぜったいに売れるバンドだとは思っていましたが、『夜のヒットスタジオDELUXE』をきっかけに、もっと予算がついちゃうバンドになるなぁと思ってました。俺はわりと会社の中でヒットに関われた担当でもあるんですけど、業界の政治力の怖さも感じてたんですね。このまま成功していくと、いろんなことがBOOWYに押しかかる予感があったから。だからテレビ番組の出番前に、久々に待ち時間があったので「BOOWYでレーベルを作りましょうよ!」って話をしました。メンバーは覚えてないかもしれないけど。
――なるほど、BOOWYのレーベルっていいですね。
 BOOWYレーベルを作っておけば、フットワークの軽い対応も出来るようになるし、いろんな事がこの先自由になるんじゃないかなと。でも、1年後に解散するとは思ってなかったからね。
――大きな枠組みである『エキスプレス・レーベル』の中でやるよりもということですね。発想が新しいです。
 唐突な話ではないんですよ。それまでに、レコード会社から発信するメディアを作っていたから、これはもう次なる一手はレーベルでしょっていう。
――そして、鶴田さんの考え通りに『夜のヒットスタジオDELUXE』出演から3日後、11月8日アルバム『BEAT EMOTION』が発売され、ついにチャート1位を記録。これが決定的な人気の裏付けとなりました。さらにマスメディアからの注目度も高まるなか、全国ツアーが始まっていくんですよね。
 きっかけとしては、『夜のヒットスタジオDELUXE』でのライブもすごかったんだけど、「B・BLUE」ミュージックビデオもアーティスティックでよかったんですよ。アートワークもシンプルに洗練されているよね。いろんな意味でロックミュージックのあり方を塗り替えていったんだよね。
――そしてシングルでのチャート1位を記録したシングル「Marionette」のリリース。こちらもアートワークへのこだわりを感じます。アニメーションを活用したミュージックビデオも画期的でした。
 やっぱり早いよね。デザインとか映像に目覚めていって、余計なことしないで、他アーティストをまた引き離していくみたいな。「Marionette」のミュージックビデオにおけるアニメのアイディアは、デザイナーの永石勝さんかな。制作はアニメ制作会社ガイナックスだったんだよね。通常ミュージックビデオって短期間で制作するんだけど、アニメだと時間がかかるんですよ。なので、実は宣伝タイミングには間に合わなかったので、メイキングと称して2ヴァージョンあるんですよね。
――映像は、完全に漫画『AKIRA』的なデストピア世界観なんですが、映画『AKIRA』のちょい前なタイミングだったことに驚かされます。
 へ~、そうなんだね。1987年は、バンドはテレビにもでなかったからミュージックビデオは宣伝として大活躍しました。6枚目のアルバム『PSYCHOPATH』はタイトルやアートワークから、難解な雰囲気も含めて、アーティスティックに到達した作品というのが伝わってきたんだよね。考えさせられる作品を生み出してきたよね。なんでもできる状況だからこそ、誰にもできない作品を作り出した、みたいな。そこがまた、予測を裏切る感じであって最高だったよね。
――鶴田さんは『PSYCHOPATH』のリリースのときにもうラストって知っていたんですか?
 ははは(笑)どうだろうね……。……まぁ、知ってたと思うよ。でも、一回聞いて忘れた感じだったかな。そうしないとねぇ。友達がどんどんいなくなっていくよね……。だって宣伝していくにあたって自分も知らない風になりきるしかないでしょ?
――たしかに、そうですよね。アイディア満載のプロモーションをやってきたBOOWYが、『PSYCHOPATH』に関しては突飛なことをやってないんですよね。それは何かあったんですかね?
 難しい質問だね。……芸術的、音楽的にやりたいことをやりきったアルバム作品が完成したから、大事にプロモーションしようみたいな感じだよね。……最後だからとかじゃなくて。でもすごい難しかったねえ。やっぱり。アートワークとか一般的な目線からは反対意見をものすごい言われたの。俺たちはかっこいいと思ったんだけどね。でも、だからこそBOOWYだなって思いましたよ。めちゃめちゃマニアックなジャケットじゃないですか? それが売れちゃうんだから。
――躍動感ある『BEAT EMOTION』のアートワークとの対比がすごいですよね。
 『PSYCHOPATH』というタイトル自体が相当難解なキーワードだったしね。いまの時代でこそ理解できるキーワードでしょ? しかも『DR.FEELMAN'S PSYCHOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR』なんて、難しくも長いツアータイトルも付けちゃってるし。
――1987年10月26日にリリースした最後のシングル「季節が君だけを変える」の発売エピソードも印象的でした。
 解散を知らないスタッフは勢いのある8ビートな「PLASTIC BOMB」を推してたんだよね。でも「季節が君だけを変える」で押し切ったっていう。ミュージックビデオもメンバー本人たちが極力出ない映像として最高の出来だったよね。
――1987年12月24日の渋谷公会堂。ライブビデオ『1224』の映像見ると鶴田さんも映っていたんですけど、当日はどんな雰囲気でしたか?
 やっぱり長い一日だったね。武道館あたりからメディアのインビテーション対応をめちゃめちゃ厳しくしてたんだよね。なのでそういった仕事は終わらせていたんだけど、入れないファンがどんどん集まってきちゃって、不穏な感じでした。
――解散するかもしれないという噂は広がっていたんですか?
 噂というか、何かしらステートメントがあるらしいっていうのが流れちゃっていたね。内容じゃなくて。だから、会場の中にいないと聞けないじゃないですか? ライブが観たいってよりもその場に立ち合いたいって感じだろうね。一部暴徒化しちゃっていて、実際俺の部下は殴られてました。ワイルドな感じではないんだけど、人が多すぎちゃって、渋公のガラスが割れちゃって。それでもう、イベンターのDISK GARAGEのスタッフもやばいってなって。で、メンバーと話して、メッセージを聞きに来てるんだったら、メッセージは会場の外でも伝えるからお騒がないでってお願いして。
 で、実際DISK GARAGEの中西健夫さんが、氷室さんの発言を全部伝えるっていう約束をしたら、みんな騒がなくなって。
――ライブ後はどんな行動をされてたんですか?
 その後は……覚えてないな。あ、その日さ、俺の親戚があらわれて。なんか入り口にいたらDISK GARAGEのスタッフから「鶴田さん親戚の人が来てます」って言われて。「それどころじゃないから行けないんだけど、ていうか親戚が来るわけがないよ」って。なんか俺の名前をかたって裏口から入ろうとした女の子が来てたらしいんだよ。でも嘘じゃん? そうしたら「じゃあ表に回します」って言われちゃって、知らない子に会ったんですよ(苦笑)。暴動寸前だわ、部下は殴られるわ、ガラスは割れるわ、嘘の親戚があらわれるわ、すげえ日だなって(苦笑)。
――そして、翌日新聞で解散メッセージが新聞で発表されました。
 全紙で出したんだよね。当時は新聞で伝えるのが一番早かったから。翌日は、テレビや雑誌メディアからのオファーがすごかったです。でも「新聞に載っている通りです」ってね。会社のエグゼクティブも解散を知らなかったようなプロジェクトだったから。まぁ、情報統制は身内からだよね、徹底するっていうのは。
――で、そこから東京ドームでの最後のライブ『LAST GIGS』まで4か月間空くんですよね。その期間は何をされていたんですか?
 意外と淡々としててさぁ、レコード会社って担当を複数持つから、BOOWYだけじゃないからね。なんか新しい仕事に戻ったんじゃないかな。『LAST GIGS』は、もう次のプロジェクトも動いていたから、割とみんなすごいすっきりしていたよね。あれって早すぎた再結成みたいな感じで。準備も割と粛々と進めていて、それこそBOOWYライターズに任せていたよね。
――東京ドームでやるっていう話はいつ頃耳にされました?
 年明けくらいかな。俺は広告担当だったから割と早めに知っていたと思います。オープンしたばかりの新しい会場なのでBOOWYらしいなって思いました。しかも、キャパ10万人でも観れないファンもいっぱいいるだろうって、そこで一ヶ月後にライブ盤をリリースすることになったからね。発売前に音がなくてもレコード店から受注していたってことでしょ? すごいよね。
――たしかにそうですね。音楽への真摯な向き合い方ですよね。ファンを大事にされていますね。そんなBOOWYプロジェクトに関わられたことで、鶴田さんはどんな成長がありましたか?
 やっぱりなんだろう、こんな短い期間でスターって生まれていくんだって目の当たりにしたよね。やっぱり4人のヒーローとしての存在感がすごかったから。売れるだけじゃなくて、音楽とファッションの先端を走っている存在としてのスター性なんか極めて洋楽っぽいし、なかなか真似ができないよね。うん、何か一つの真似できでも、トータルには真似できないというか。ステージ衣装で着ていたジャン・ポール・ゴルチェのタイアップとかもあって、バンド・シーンと文化服装なツバキハウス的なシーンの両面いけてたのもすごいよね。それでメジャーで売れていくっていう。そこがやっぱりBOOWYらしさだよね。
――「何か一つの真似できでも、トータルには真似できない」ってたしかにBOOWYの魅力の本質を言いあらわしていますね。
 ゴルチェとのタイアップは、国内代理店のオーワードと打ち合わせしたことをよく覚えています。いまでこそあるのかもしれないけど、ゴルチェの売り場にBOOWYの情報をちゃんと出していたからね。ミュージシャンがブランドに寄り添うってより、ほぼ対等なタイアップだったんだよね。
――それって時代的にも早いし、画期的な組み方ですね。
 いまの女の子が、女子モデルを追いかけるかのようにBOOWYを追いかけてたんだと思う。スタッフにも音楽業界にはいなそうな女の子がいつの間にか入って活躍していたからね。レコード会社をも変えてしまう勢いがBOOWYにはあったね。やっぱり不思議な力のある4人だったんじゃないかな。
<インタビューを終えて>『BOOWY STORY ARCHIVE』第2弾、元東芝EMI BOOWY担当A&R 鶴田正人 氏への3時間に渡る2万字インタビュー。いかがでしたでしょうか。BOOWYの躍進のきっかけとなった数々のプロモーション秘話。時代を彩った音楽雑誌でのアプローチや、原宿竹下通りシャッターでのペイント、B・BLUE BOYS & GIRLSといった知る人ぞ知るストリートプロモーションの存在。レコード会社視点からの貴重なトークを語って頂きました。引き続き、ロックの歴史を変えたBOOWYの伝説の物語を、関係者の証言を追い求めていきたいと思います。これら記憶と記録が、次世代の音楽シーンへの正しい継承となることを信じて。
次回アップデート予告:株式会社ディスクガレージ 代表取締役社長 中西健夫 氏
 https://sp.boowyhunt.com/interview/?id=2

 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 新宿ロフト Shinjuku Loft ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛
‡1976(昭和51)年10月01日(金)、西新宿で平野悠によってオープン
 1992(平成四)年、ビルのオーナーから立ち退きを命じられ「新宿LOFT立ち退き裁判」になる
 1998(平成十)年12月15日(火)、ビルのオーナーと和解成立
 1999(平成11)年03月17日(水)、退去
 1999(平成11)年04月01日(木)、歌舞伎町新宿コマ劇場横に移転
 2006(平成18)年には30周年を迎え、イベント「SHINJUKU LOFT 30th ANNIVERSARY -ROCK OF AGES 2006-」が開催
*********** https://rooftop.cc/loftarchives
 https://www.loft-prj.co.jp/LOFT/boowyloft
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%95%E3%83%88_(%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9)
*******************************************
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ KING OF ROCK SHOW TOUR 1988~1989  ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡1988(昭和63)年10月01日(土) 高松市民会館
 1988(昭和63)年10月04日(火) 福岡国際センター
 1988(昭和63)年10月12日(水) 広島サンプラザ
 01.SEX&CLASH&ROCK'N'ROLL 
 02.SHADOW BOXER
 03.ROXY
 04.LOVE&GAME 
 05.たどりついたらいつも雨降り
 06.わがままジュリエット
 07.CLOUDY HEART
 08.ALISON
 09.COME TOGETHER
 10.SAFFRAGET CITY
 11.SHUFFLE
 12.STRANGER
 13.DEAR ALGERNON
 14.GIVE IT TO ME
 15.TO THE HIGHWAY 
 16.MONY MONY
 17.PUSSY CAT
 18.TASTE OF MONEY 
 19.ANGEL 
 ~ ENCORE ① ~
 20.HONKY TONKY CRAZY 
 21.IMAGE DOWN
 http://midnightrunners.web.fc2.com/hk/kingofrock.html#hi19881001

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