┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓金曜ロードショー
┃ 『全国高等学校クイズ選手権 ALL JAPAN HIGH SCHOOL QUIZ CHAMPIONSHIP』 ┃日本テレビ系列
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛21:00~
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|2005(平成17)年 9月 2日(金)|第25回
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E5%9B%BD%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%BA%E9%81%B8%E6%89%8B%E6%A8%A9
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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ベースボールマガジン社 分冊百科 全60巻
┃ データファイル 『日本プロレス激闘60年史』 ┃記憶に残る960の激闘をファイルせよ!
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛PRO-WRESTLING DATA FILE 定価:680円(税込)
┌─――――――――――――┐ 全60巻ラインナップ!
|2012(平成24)年 5月23日(水)|発売 第05号
└─――――――――――――┘ 長州、藤波に反逆!"下剋上事件"勃発
日本プロレス激闘史 ⇒
‡2000(平成12)年 9月 2日(土) 蝶野正洋 VS 渕正信 東京・日本武道館
*********** http://www.sportsclick.jp/pro60/index.html
http://www.sportsclick.jp/pro60/lineup/05/index.html
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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓┌─――――――――――――┐
┃ マグナス・サミュエルソン Magnus Samuelsson ┃|1969(昭和44)年12月21日(日)|
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192kg 握力世界一(世界一。ギネスブック登録)
300kg ベンチプレス(ノーギア)
140kg*3reps アームカール
250kg*10reps フロントスクワット
370kg バックスクワット
375kg デッドリフト
2012(平成24)年12月08日(土) 11:18 やる気が出る動画 握力1⑨②kg男のスゴ腕相撲
http://nikutaikaizoyaro.blog.jp/archives/1932052.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3
┏━━━━━━━━━━━━━━━┓┌─―――――――――――――┐四国総支部元婦人部長 寺田富子
┃ 私は池田大作に二度奉仕した ┃|1984(昭和59)年 7月12日(木)号|『週刊新潮』P36~41
┗━━━━━━━━━━━━━━━┛└─―――――――――――――┘http://hironori0915.blog.shinobi.jp/%E5%85%83%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E5%93%A1%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E6%9A%B4%E9%9C%B2/%E7%A7%81%E3%81%AF%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E3%81%AB%E4%BA%8C%E5%BA%A6%E5%A5%89%E4%BB%95%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%80%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E7%B7%8F%E6%94%AF%E9%83%A8%E5%85%83%E5%A9%A6%E4%BA%BA%E9%83%A8%E9%95%B7%E3%80%80%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%AF%8C%E5%AD%90%E3%81%95%E3%82%93
┏━━━━━━━━━━━━━━━┓┌─――――――――――――┐四国総支部元婦人部長 寺田富子
┃ 私は池田大作に二度奉仕した ┃|2012(平成24)年 9月24日(月)|16時21分50秒
┗━━━━━━━━━━━━━━━┛└─――――――――――――┘
『池田大作スキャンダル』に焦点を当てた月刊ペン裁判
(隈部裁判)の控訴審の第一回公判(昭和五十九年五月二十三日)で、
衝撃の証言をするといわれながら却下された証人――創価学会四国総支部元婦人部長の寺田富子さんが、週刊新潮・昭和五十九年七月十二日号にその『証言』の中身を告白している。創価学会の草創期から婦人部の幹部として活動し、池田大作の周辺で起こった数々の出来事を目撃し、また自らも痛恨の体験をしていることを語ったものである。
(以下、その抜粋)
隈部裁判の差戻し第一審公判(東京地裁)に、私は一度、証人として出廷したことがあります。ところが、その証人出廷の後、『創価新報』という学会青年部の機関紙で、私について、あることないこと、激しい誹謗中傷の記事を書かれたため、それなら、第一審の公判ではいえなかった、それこそ決定的証言をしてやろうと思い、控訴審に証人として再び出廷する決心をしたのです。恥をさらすようですが、その『創価新報』にはこう書かれていたのです。
「……今は離婚して寺田姓を名乗っているが、昭和三十八年に金銭問題が発覚するなどして、高知支部の婦人部長の役職を解任され、学会から除名された、いわくつきの退転者。また男性問題で蒸 発するなど、夫婦間の争いもたえない札つきの女性でもあった… …」いかにも私が学会のお金を使い込んだかのように書いたり、また何を血迷ったのか男性問題で蒸発したとか――このように学会を離れた人間に対して、事実を捏造し誹謗するのは、彼らの常套手段なのです。しかし、いくらなんでも、私が学会のお金を「二千万円」拐帯して男と逃げたなどと書かれたんでは、私の名誉にかけても許すわけにはいきません。私は釈明と反撃の機会がほしかったのです。事実は逆なのです。創価学会の草創期、私どものような最古参の人間は、学会の活動資金を自分たちで持ち出していたのです。とくに選挙となると、すべて持ち出しでした。後に、学会員の夜逃げが各地で続発しましたけれども、たいがいは、選挙資金の肩代わりや、学会活動の資金を立て替えているうちに、事業が倒産したりしたためでした。「二千万円」は、私の家が学会に立て替えたお金なのです。学会に、返してもらいたいと、私の方が要求していたのです。それを、私が持ち逃げしたなどとは何事ですか。学会が私をそこまで貶めるなら、私がこの十数年、誰にも告白しなかった様々な事実を、この際、ぶちまける以外にないのではないか――と思ったのです。私もかつて、『聖教新聞』にこんなふうに書かれた女です。「全国の婦人部長のなかでは最古参のひとり、富子さんは、昭和三十一年九月以来、婦人部長として活躍してきた。いまや、支部員の信頼も厚く、堂々と折伏の先陣を切って戦っている。しかし、ひとたびは婦人部長を解任となり、一会員として戦ったという経歴が物語るように、その信仰の道は平坦ではなかった」
(昭和三十六年八月三十日付)学会を告発することは、私自身も告発することです。私は、自分の身を削るようにして、隈部裁判の証言台に立つつもりでした。
■プロ野球コーチに折伏され ⇒ 私の入信は昭和二十八年のことです。当時のプロ野球チームで『毎日オリオンズ』というのがありまして、高知でキャンプを張りました。その『毎日オリオンズ』の、上林繁次郎というコーチとピッチャーの野村という選手が、私の母が信心していました大乗寺という日蓮正宗のお寺に寄って、戸田城聖という人が創価学会というのをつくったからやらないか、というわけです。上林さんは、後に参議院議員になった、東急フライヤーズのピッチャーの白木義一郎氏に折伏されたのです。まず母が入会し、それから私や家族が入りました。一粒種といいますか、四国で最初にできた学会の組織だったのです。私が母に代わって高知支部の婦人部長になったのは、昭和三十四年のことです。ちょうど、池田大作氏が会長になる一年前でした。当時、学会は、いわゆる折伏活動に狂気のごとく熱中していまして、また選挙となると、組織の票をどの候補に割り当てるか、ということに奔走していました。たとえば、『山陽作戦』というのが当時ありまして、岸信介さんが危ないというので、山口県ばかりでなく四国からも学会員がかけつけ、折伏をしながらその票を岸さんに入れさす、ということをやったのです。当時から、将来は自民党と手を組む、というのが方針でした。このときの総指揮官が池田大作氏でした。だいたい、学会員というのは、社会の底辺層で、お金なんかありません。そういう人たちに、入信すればご利益があるといって、学会はいろんなものを売りつけました。聖教新聞はむろんのこと、『折伏教典』それに『人間革命』……これを親戚にも、とかなんとかいって、五冊だ十冊だと買わせる。こういった本や雑誌、新聞を買うだけで、何万円もの出費になります。お金のない人ばかりですから、たいへんでした。私の家は印刷会社をやっていて、多少融通がききましたので、立て替えてやるわけですね。お山(注=大石寺)にだって、月一回は行かなければならない。これも大変な出費でした。学会員の人たちは、これらの費用を捻出するために、卵二つ食べるところを一個にして貯金したものです。貧者の一灯なんです。それを学会は、なんと説明したと思います。戸田記念館だって、本部の会館だって、池田会長が一人でお建てになるところを、われわれがお願いして、御供養でやらせていただくとお願いしたんだ、というんです。おかしな説明をするものだと、当時から思っていました。ここで、婦人部の活動について少し触れておきますが、学会支部のお金のことは、たいがい各婦人部がおさえているといいますか、サイフのヒモは握っているわけです。学会の主体は女性ですから、折伏でも組織,活動でも、ほとんどが女性なのです。その折伏の一つに『飛び込み折伏』というのがありまして、突然、どこかの家に押しかけて折伏するんです。どこかの知り合いを通じて行くことが多いんですが、相手はびっくりします。そして、三日も四日も折伏するわけです。そうすると、折伏する方が、会社を休んだりしてクビになる。そういうクビになる人が何人も出て、あんまりひどいんで、本部から人がきて、学会活動のために仕事を休んで、それでクビになるようじゃあ信心が足りない、なんてわけのわからないことをいって煙に巻いたものでした。
■岡山・後楽園の夜の出来事 ⇒ 高知市に創価学会の四国会館ができたのは、昭和三十六年のことです。会館の二階には、豪華な会長室もできました。池田会長がまいりますと、会館よりもっと大きい建物を借りて四国支部総会をやったりしますが、夜は支部長クラスが指導を受けに四国会館に集まります。それも十時には終わります。会長は寝室へ行かれ、男の人はもう全員いなくなります。そういうとき、私と二宮文造(元公明党副委員長)夫人の二人が、池田会長のお世話をすることになります。あるいは、中国総支部婦人部長の山田郁子さんが、池田会長について四国入りすることもあり、その場合は、山田さんと私がお世話することになります。会長室の寝室は、ベッドではありません。畳の上に、一尺以上の高さに敷きぶとんを重ね、池田会長はそこにゴロンと寝るわけです。なぜ、そんなに敷きぶとんを高くするか、後でわかったのですが、ちょうど池田会長の下半身のところに、座ったまま顔をうずめられるんです。なるほど、うまい仕掛けだな、と思いました。山田郁子さんは、ほんとに池田会長にかしずいてる感じでした。この二人ができていることは、九十九%間違いない事実です。山田郁子さんのダンナさんは、山田徹一といって元参議院議員。岡山市の新屋敷というところで『中国メッキ』という会社を経営していますが、その敷地にデカい家が突然、建ったことがあります。それが池田会長の岡山の別宅でした。池田会長は、岡山へ来ると必ずここへ泊まります。この『別宅』の存在は、学会関係者にも秘密にしていました。私は偶然知ったのですけど、学会の資金で建てられた、と聞いております。とにかく、山田家に対しては、池田会長も特別に目をかけているようで、学会活動もしていなかった山田太郎という親戚の者が、突然、衆議院議員にパッと出まして、ちょっと前に公明党の定年六十歳に引っかかって引退しましたけど、それまでずっと代議士でした。池田会長が岡山や四国に来られると、よく山田郁子さんが会長の食事を作っていました。池田会長は水炊きが好きで、朝からということも、よくありました。とにかく、池田会長の周辺には、婦人部の幹部が出入りし、なんというか、互いが競争のようになって池田会長にかしずくんです。そういうふうに仕向けることが、池田会長はまた上手なんです。あれは、昭和三十六年のことでしたが、岡山に後楽園というところがありますね。そこの離れの東屋に、池田会長が休憩したことがありました。夏の盛りで暑かったのでしょうか、東屋の三方から雨を降らすような仕掛けになっていて、池田会長は、例によってクレープのステテコに肌シャツの上下といったかっこうで、横になっていました。会長のそばにいたのは、山田郁子さんと私でしたが、他の者は、さーっと出て行きまして、そうして、池田会長が山田さんに何か用事をいいつけたんです。私一人になりまして……、こういう話をするのは、本当に心苦しいんです。控訴審の法廷に出てこのことを聞かれたら、傍聴席や新聞記者には退席してもらって裁判官にだけお話しよう、と思っていたくらいです。とにかく、池田会長はプライドが高いのでしょうか、自分から手を引っ張ったりはしないんです。あの人(池田会長)は畳の上に横になって、最初は山田さんと私と雑談していて、背中を押してあげたり、腰を押してあげたり。あの人はマッサージが好きなんです。で、山田さんがちょっと出ていって、そういう関係になってしまった。これが私の池田会長への最初の『奉仕』でした。しかし、その晩は、山田郁子さんがずっと一緒でした。私は、池田会長が好きでしたけど、私の出る幕じゃないと思いました。山田さんの後ろでかしずいてる方が賢いなあ、とその時は思いました。山田郁子さんというのは、将軍綱吉につかえる柳沢吉保のような人で、池田会長への人身御供でした。
■四国会館の風呂場でも ⇒ 岡山・後楽園の後、池田会長とどうなったかというと、四国本部は高松市松島というところにあるんですが、ある日、池田会長がそこに来られて、風呂に入られた。そのとき、誰もいなかったんで、私が浴衣と下着を持って行きました。今でも、その浴衣の色を覚えてるんですが、紺と白の鎖模様でした。それで、風呂場に入っていって、『背中、流しましょう』といって流しました。その場は何もありませんでした。で、風呂場から出てゴロッと横になられて、その後、私が手でしたか口でしたか……。これが二度目の『奉仕』でした。相手は身内だと思って、裸を見せても平気だ、という気持ちが向こうにはあるんです。あるとき、岡山の山田郁子さんから電話がかかってきて、『会長が来るから、いらっしゃい』という。夜の夜中に出かけるわけにもいかず、電話でボソボソいってると、主人が、『おまえ、会長や二宮文造と出歩いてばかりいるが、いったい、どういうことだ』といって、家庭的にも面白くなくなってきたんです。主人がダメだと言ってる、と山田郁子さんに伝えると、その翌日ですよ、主人に副総支部長の辞令が届いたんです。そればかりではありませんでした。次は主人を衆議院選に出馬させる、とまで約束してくれました。話は変わりますけど、池田大作会長と間違いなく関係のあった婦人部幹部は、私が目撃したかぎりでは、渡部通子さん、多田時子さん、山田郁子さんの三人です。私は、この三人の女性について、隈部被告が『月刊ペン』に書かれたのを読んで、ああ、これはホントの話だと思ったくらいです。この三人は、婦人部の幹部としては毅然としていましたけれども、会長の前では、まことに女らしく振舞うんです。不思議だと思いましたが、『奉仕』した後の私もそうでしたから。私は、これ以上深入りしては、と考えて身を引きましたが、そんなことがあったからか、会長からトルコ石などの指輪三個、時計一個、反物二反をいただきました。反物の一つは会長夫人から届いたものでした。それから、会長は私に、沖縄に連れて行く、とも約束してくれたのですが……。とにかく、池田会長ほど女好きはいないのではないでしょうか。しかし、白痴美人のようなのは嫌いなようです。インテリ女性で、かしずいてくれる人が好きなんです。ウンといえばツーと返ってくるような人。北条浩元理事長(故人・四代会長)の奥さんなんか嫌ってました。大作夫人と似てて、ムクッとしていたからでしょう。都会議員の龍年光という人の奥さんも嫌っていました。イヤリング付けて爪を真っ赤にして会合に現われるので、会長でなくとも嫌われました。創価学会を脱会する決心をしたのは、昭和三十八年の選挙の後始末をめぐってトラブルが持ち上がったからでした。この選挙に、どれだけお金をつぎ込みましたか。立て替えた分を返してもらえないか、と本部にも訴えました。北条浩副理事長とも話し合いを持ちました。そのときは、いちおう、話はまとまったのですが、今度は、山田郁子さんのダンナの山田徹一元参議院議員(中国総支部長)が乗り込んできて、それは御供養のお金だろう、というんです。そして、『寺田さん、あなたは総婦人部長をやめて、庶務室に入りなさい。ご主人は一年間、活動をやめて家業に専念しなさい』といってきた。二宮文造氏(※当時、公明党副委員長)もかさにかかって私を批難し、池田大作にここぞと忠誠のスタンドプレーをやりました。私は呆れ返って、もうこれまで、と思って創価学会から手を引いたのです。
■「池田の下半身醜聞は当然クロ」脱会後、東京に出て来た私は、池袋でクラブと喫茶店を経営したりして、女一人で生きてきました。そんな私に、創価学会側は「売春婦になりさがった」なんてデマまで飛ばす始末です。しかし、私が、創価学会の婦人幹部としてその内幕を握っているということがあってか、私の店にはよく公明党関係の国会議員サンが、ご機嫌伺いのように飲みにきました。それにしても、池田大作氏の女性スキャンダルが果たしてシロかクロか――と争われていますけども、私の証言を含めて考えていただければ、クロであることは当然のことです。しかし、私のように、女性幹部は自ら傷ついても事実を明らかにしようとはしません。なぜなら、彼女たちは、池田会長に何かをされた、という感じよりも、池田会長に『奉仕』した、という感じが強いからです。また、池田会長は、手なずけた女性幹部に対して、その主人、家族などの面倒をじつによく見て、ボロが外へ出ないように用意周到な措置をとっていることです。手を付けた女性幹部を国会議員にするなんて、それこそツルの一声。世間で渡部通子さんがどうの、多田時子さんがどうのといわれていますが、私のように内部にいてもそう感じていたくらいなのです。繰り返すようですが、私の主人に対しても衆議院議員立候補の話があったし(ついに実現しませんでしたが)、信仰というものを陰れ蓑にして、やりたい放題のことをやっているのが、池田大作氏の正体なのです。私のような古参の元幹部が、ものを書いたり、しゃべったりすれば、学会内部から私に対してどんなひどい中傷が飛び出して来るか、だいたい想像がつきます。しかし、私は、神を畏れぬ池田大作氏と創価学会に対して、ささやかではありますが、今後も戦いを続けなければならないと思っています。http://8724.teacup.com/sokasoda/bbs/3958
池田大作破廉恥行状記http://www.erigonomi.net/erigonomi4.html
池田大作の品格〈PART2〉創価テロリズムを許すな 単行本 ? 2009/7
小多仁 伯 (著), 小川 頼宣 (著) 単行本: 365ページ
出版社: 日新報道 (2009/07)
http://www.amazon.co.jp/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%A4%A7%E4%BD%9C%E3%81%AE%E5%93%81%E6%A0%BC%E3%80%88PART2%E3%80%89%E5%89%B5%E4%BE%A1%E3%83%86%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%82%92%E8%A8%B1%E3%81%99%E3%81%AA-%E5%B0%8F%E5%A4%9A%E4%BB%81-%E4%BC%AF/dp/4817406844
コージ 2015年7月12日 22:02 ⇒ そういえば、某サイトより、こんな内容の記述を見つけました『藤原弘達が「創価学会を斬る」という本を出す。創価学会を批判するとんでもない本だ。書店を回ってそれを押さえろ。』書店での口上も支持されました。『この本を、ここにある棚から中にしまって下さい。そうしてもらえなければ、「人間革命」などの扱いをしません』。『人間革命』は書店にとって売れ筋の本でしたから、十分圧力になると考えたのでしょう。そして最終的には『創価学会を敵に回すのか』と。そこまで圧力をかけろ、と言われたのです。書店を地域別に分けて担当する区を決め、行動開始です」この手法は今も生きている。反学会・公明党系の出版物が出ると、店頭で平積みされていた本が、いつのまにか書棚の中に、一冊も目立たないように置かれている。ある読者が大手書店で『池田大作の品格パート2』を店員に求めた。店員は「ありません」という。「え、先週までここで10冊ぐらい平積みされてたよ?」と突っ込むと、パソコンで調べて、本のある所に案内してくれた。見渡したところ本は見当たらない。どこにあるのだろうと思ったら、下の引き出しを開けて、そこから一冊出してくれた。『池田大作の品格パート2』の本が多数収納されている。「どうしてこんなことになるんですか?」「書店が売れないと判断したから引き出しに入ったんです」店員から呆れた答えが返ってきた。この手の呆れた説明は多数聞いた。~以上、某サイトより転載されたものを掲載させていただきました~
https://signifie.wordpress.com/2015/07/12/%e5%89%b5%e4%be%a1%e3%82%92%e7%9f%a5%e3%82%8b%e3%81%9f%e3%82%81%e3%81%ae%e5%8f%82%e8%80%83%e6%9c%ac%e3%82%92%e7%b4%b9%e4%bb%8b%e3%81%97%e3%81%a6%e3%81%8f%e3%81%a0%e3%81%95%e3%81%84/#comment-13025
悪しき天才〝池田大作〟巨大な俗物
そこまで〝脱税・詐欺で〟いいんかい!!
http://blog.goo.ne.jp/youthuman/e/a29c3c938d3fec59b35a2c94edcbae3e?fm=entry_awp
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓┌─――――――――――――┐第3の説
┃ 日本の終戦の日 戦没者を追悼し平和を祈念する日 ┃|1945(昭和20)年 9月 2日(日)|日本政府が
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛└─――――――――――――┘ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 終戦記念日を9月2日とする国家 ┃
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アメリカ合衆国、イギリス、フランス、カナダ、ロシアでは、9月2日を対日勝戦記念日(VJデー)と呼んでいる。当時のアメリカ合衆国大統領トルーマンは、降伏文書に調印した9月2日を「V-J Day」として宣言した。
アメリカ:1995年9月2日には、対日戦勝50周年を記念して、記念切手が発行された。ただし、州レベルでは8月14日や8月15日とされることも多い。
カナダ:2005年に、戦勝60周年を記念して、「Victory 2-9-45」と刻印されたメイプルリーフ銀貨を発行した。
フランス:2000年に、終戦記念日(フランス語: Fete de la victoire de 1945)である5月8日のVEデーに、反ファシズム戦争の勝利55周年を記念してイベントが開催された[1]。2000年9月2日に、対日戦勝55周年を記念する式典が、フランス国防省主催で行なわれた[2]。
ロシア:2010年、9月2日を「第二次世界大戦終結記念日」に指定した。この他、独ソ戦の終結日である5月9日を「大祖国戦争終結記念日」(祝日)に指定している
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%82%E6%88%A6%E3%81%AE%E6%97%A5
鉄条 http://www.uta-net.com/song/4064 勲章 http://www.uta-net.com/song/41194
東京 http://www.uta-net.com/song/7256 故郷 http://www.uta-net.com/song/6447
1985 http://www.uta-net.com/song/3798 1986 http://www.uta-net.com/song/2385/
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1945(昭和20)年9月 2日■昭和天皇陛下がミズーリ-豪上で調印式http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/50nen15.html
1945(昭和20)年9月27日 マッカーサーに会いに行った天皇陛下と一杯のコーヒー
1951(昭和26)年5月3日(木) アメリカ上院軍事外交合同委員会の公聴会にて
マッカーサーの告白 新http://youtu.be/jg3qqeDqLvI
マッカーサーの告白 旧http://youtu.be/CD2c1MpXkqQ
池田大作の実像http://sudati.iinaa.net/ikeda.html
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 児童の権利に関する条約 (略称:子どもの権利条約) ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┌─――――――――――――┐
|1989(平成元)年11月20日(月)|(ニューヨークで署名)国連総会で採択された国際条約であるヨ(=^◇^=)
|1990(平成二)年 9月 2日(日)|(発効)効力発生
|1994(平成六)年 5月22日(日)|日本国内ではから効力が発生
└─――――――――――――┘
***************** http://ja.wikipedia.org/wiki/SAVE_OUR_SHIP
①http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/pdfs/1006_kj03_kenkai.pdf
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%AB%A5%E3%81%AE%E6%A8%A9%E5%88%A9%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84
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┏━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 『ピンキーパンチ大逆転』 ┃ TBS系列
┗━━━━━━━━━━━━━━┛19:00~19:30
┌─――――――――─―――――――――――――――┐
|1982(昭和57)年 9月 2日(木) 第23話「ミクロの決死隊」|
└─―――――――――─――――――――――――――┘
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%81%E5%A4%A7%E9%80%86%E8%BB%A2
http://starlight.to/room/seiko/history/actress/index.cgi?mode=view&id=1284265714
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┏━━━━━━━━━━━━┓
┃ 『オールナイトフジ』 ┃フジテレビ
┗━━━━━━━━━━━━┛番組編成上の都合により、1988(昭和63)年11月5日から1989(平成元)年3月までのおよそ5か月間、別番組として「強力45」という番組が内包されていた。これはフジテレビの若手ディレクター7人が毎週、週替わりで様々な企画の45分番組を制作するという「実験枠」であった(この枠は「別番組」扱いとして、別途スポンサーもついていた)[4]が、なぜオールナイトフジの番組内に内包されていたかは不明である。ちなみにこの「強力45」は番組後半にさしかかる手前の午前3時前後(入り時間はアンタイム=任意時間)に挿入され、その間オールナイトフジは「中断」の扱いとなっていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%B8
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 『さんまのまんま』スタジオ歴代番組セット ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┌─――――――――――――┐マンションの一室のようなセット
|1992(平成四)年 4月13日(月)|2代目番組セット 開始
|1997(平成九)年 9月?日(火)|2代目番組セット 終了
└─――――――――――――┘この番組は在阪局制作ながら、東京で収録を行っている。番組開始当初はフジテレビの河田町本社第1スタジオ(当時)で行われていた[⑦]が、その後渋谷ビデオスタジオを経て、現在のレモンスタジオへと移っている。セットの変貌は、さんまさんの年齢やキャリアが上がるに連れて変わるという設定だヨ(=^◇^=)。[⑦]当初のエンドロールでは制作協力にフジテレビのロゴがあったヨ(=^◇^=)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%BE%E3%81%AE%E3%81%BE%E3%82%93%E3%81%BE#.E3.82.B9.E3.82.BF.E3.82.B8.E3.82.AA.E6.AD.B4.E4.BB.A3.E7.95.AA.E7.B5.84.E3.82.BB.E3.83.83.E3.83.88