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過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)


 尾道城、令和の「落城」進む解体工事 千光寺山山頂近くの天守閣風の元博物館
 2020(令和二)年06月24日(水) 7:02配信 中国新聞社
‡2020(令和二)年06月22日(月)◆写真◆屋根などが撤去され、解体が進む尾道城。眼下には尾道市街地が=手前右(22日)
 広島県尾道市の千光寺山山頂近くで、「尾道城」の解体が進んでいる。
 2020(令和二)年03月末に始まり、鉄骨一部鉄筋4階建てのうち既に3、4階部分が撤去された。石垣や基礎と一体化した1階部分を残し、秋には工事が終わる予定。
 尾道城は市が所有する、天守閣風の元博物館。高さは約25メートルあった。
 2020(令和二)年06月23日(火)に解体現場に入ると、2階部分は鉄骨や鉄筋がむき出し。城の模型やパネルがあった面影はない。全国の城を示すジオラマがあった1階はがれきの山で、屋根に飾られていたしゃちほこが隅に置かれていた。
 現場責任者の大山隆之さん(38)は「解体してみると、斜面地への建材運搬や頑丈な構造など建設に大変な労力がかけられたと分かる」と説明する。
 解体後、2021年度中にウッドデッキなどを備えた展望スペースに生まれ変わる。市まちづくり推進課の高原俊樹課長は「観光スポットとしてできるだけ早くお披露目したい」と話している。
【写真】解体が進み鉄骨がむき出しになった尾道城の2階部分
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 商都尾道に、なぜ「お城」?
◎少し前のNHKの解体番組で、この建物が取り上げられていたな。「戦後に建てられた、鉄筋コンクリート造りの(城と名前をつけた)博物館」で、
 1964(昭和39)年に尾道商工会が建設。尾道のシンボル的な建物にもなっていたが、尾道城に歴史的背景は全く無い。ほんの2,3年前まで個人の所有物だったらしく、
 1992(平成四)年に閉館してから30年近く放置されて廃墟化していた。眺めを生かした観光施設を建てる前提で尾道市が寄付を受けて、ようやく手が付けられるようになったとか。 
◎お城というのは、やはり個人の権威の象徴なんだろうな。例え高度成長期やバブルの頃に建てたとしても、時の権力者が大金叩いて建てれば、もし100年200年経てば「昭和の時代の権力者がー」と呼ばれるのかもしれない。今ある姫路城や犬山城なども、当時はどういう風に語られたのだろう。神社仏閣もそうだけど、歴史があって初めて価値が出るように思えてしまう。昨日今日できたモノに価値を見出だせないのは、やはり今を生きてるからなのだろう。私自身も新しい現代風の神社にはあまり興味ないけど、200年先がどうなってるか、興味はあります。 
◎尾道は観光で行くなら素晴らしい町だと思う。しかし、歴史上存在しなかった尾道城の建設費や解体費に巨額の税金が投入されていること、利用者の少ない新尾道駅の建設費や維持費に税金が注ぎ込まれていることを思うと複雑である。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/258312c5731771b46f4abdade2e00e83bcd3179f

 2時間で売り切れる!ラーメン好きが列をなす透明な豚骨スープのラーメン
‡2019(令和元)年06月22日(土) 最終更新日
 営業は僅かに週4日、県内外のラーメン好きが常に行列をなす、透明な豚骨スープの魔力!福岡市内から、車で約1時間ほどの所に位置する、飯塚市の中心部ながら看板はなく、言われなければラーメン屋とは気付かない店舗。ネット上では、開店11時と記されているのですが、我先にと行列の先頭を目指して早い時間から並び、それが過熱して9時ぐらいから並ぶファンも多く、店主も仕方なく前倒しに開店されている状態です。ラーメンは並盛りか大盛り、併せて30杯がこの店の仕込みでは精一杯との事で、替え玉もなく必然的に大盛りを注文率が高いことも、この店の特徴と言えるでしょう。ラーメン650円・大盛り750円・ご飯100円のみ、チャーシュー麺すら存在しない潔い商品構成で、後のお楽しみ用にご飯とのセットが定番メニューです。とにかくご覧通りで、透明でうっすら琥珀色のスープは豚骨のみで、低めの温度でじっくりと白濁しないように炊き、抽出したスープの上澄みだけを使って提供しています。福岡の豚骨と言えば、極細の麺をカタで茹でたイメージが全国的で、中には「ハリガネ」や「粉落とし」など、カタよりも短い茹で時間で頼む方もいますが…地元の放送局がラーメン特集番組で、福岡県内の製麺所の店主50人へのインタビューで、「ハリガネ」や「粉落とし」は美味しいのか?と尋ねられ、半数ぐらいの店主が「不味いです…、腹こわします!」と、苦笑いしながら答えていました。いかに極細麺といえども、15秒~30秒しか茹でないとなれば芯は残ったままで、サクサク食感を楽しむぐらいでスープとの絡みや、ツルッとした喉越しなど全く無縁であり、私個人としてもお勧めできない注文です。しかしここ『来来』の店主は、久留米ラーメンの流れを汲む佐賀ラーメンが大好物で、それ系のヤワめに茹でた中細麺で提供してくれます。しっかりと火が通され、表面のグルテンが茹で釜に流れ落ちることで、麺本来のポテンシャルがきちっと引き出され、つるっとした食感とスープを持ち上げる醍醐味を、頂くことができる1杯に仕上がっています!チャーシューは、部位の違うものが2種類浮かべられ、それぞれの味わいを楽しめる趣向で、薄切りながらも枚数はご覧の通り多めで、ご飯を頼んで肉飯で頂くファンもいるほどです♪私が通い始めた数年前は、表面に小さな海苔とネギが浮かんでいましたが、店主の味への拘りと引き算の美学から導き出した答えが、このビジュアルそのものなのです!ここまで読むと、変わり者の店主だと感じる人もいるかも知れませんが、40半ばの細身で優しい口調で話してくださる方で、漫画家としても活躍する某芸人さんに似ているとネット上でも評判で、正直、私も似ていると思います(笑)ラーメンは勿論のことながら、県の内外を問わず蕎麦やうどんの経験値も高く、店主の人柄が好きで通っている女性客もいる程です!また、この店のもう一つのお楽しみが入り口脇にある、名刺半分ぐらいの大きさで手書きの日替わり屋号で、これも見逃せないポイントです。店主がご贔屓する「佐賀」を使った物や時事ネタ、またその日の気分や意味不明な物あったりしますが、この札が下がっている時は営業している証でもあります!駐車場はなく、近隣のコインパーキングに停めてから行列に並んで、後はひたすら店主から呼ばれるまで待機ですが、1時間近く待つこともあります。また、せっかく待っていたとしても、それまでの先客が大盛りばかり頼んでしまえば、麺が品切れで予定より早く店じまいとなり…私もこれまでに、目の前で店主から「すみません、売り切れてしまいまして…」と言われ、諦めて帰った経験が2回ほどあります(笑)常連であろうとも、そこは他のお客さんと同様に扱われますので、ここに行く日はしっかりと用を足して、並ぶ覚悟をしてから自宅を出掛けております!紹介しているお店はこちら!
   店名:来来(らいらい)
   住所:福岡県飯塚市片島1丁目3-38
 営業時間:営業中の札が掛かっていれば(スープが無くなり次第終了)
  定休日:月曜・木曜・金曜
 https://mecicolle.gnavi.co.jp/report/detail/14073/
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 ┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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 1986(昭和61)年06月22日(日) サッカー・アルゼンチン代表のマラドーナが伝説の5人抜きゴール ⇒ サッカー・アルゼンチン代表のFWディエゴ・マラドーナがワールドカップ・メキシコ大会準々決勝のイングランド戦で相手守備陣5人を抜き去る伝説的なゴールを決めた。同選手は大会を通じて圧倒的な活躍を演じ、アルゼンチンを2度目の優勝に導いた。写真は次々に相手守備陣をかわすマラドーナ【AFP時事】
 1987(昭和62)年06月22日(月) プロ野球広島の衣笠祥雄選手に国民栄誉賞
 2013(平成25)年06月22日(土) 富士山、世界遺産に
 https://www.jiji.com/jc/daily
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1994(平成六)年06月22日(水) 投手が怒った!打者が怒った?同日に起こった2つの死球事件
‡2017(平成29)年06月22日(木) 11:10 プロ野球の歴史の中で、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は6月22日だ。 
 写真◆激高するブラッグス(中央)を両軍で必死に止める
 今回は、同年同日にあった2つの死球事件について書いてみよう。1994年6月22日のことだ。 
 まずは巨人─広島(東京ドーム)の2回裏だ。広島・佐々岡真司のフワ~としたカーブのすっぽ抜けの球が巨人の打者・コトーに向かう。しゃがみ込むように逃げたコトーのヘルメットが脱げ、スキンヘッドがあらわになった頭部に軽くコツン。コトーは痛がりもせず、苦笑しながら一塁に歩いた。しかし、この後、審判団が集まって協議。実は、この年の5月後半以降、頭部死球が「故意・過失を問わず退場」となったばかりだった。 
 結果、佐々岡は退場。佐々岡は試合後、「誰が見てもすっぽ抜けでしょ。コトーのよけ方にも問題があった。検討の余地があるはずです」と不満を爆発させた。 
 そして同日、ナゴヤ球場の中日─横浜戦でも外国人選手相手の死球でひと騒動があった。8回表、中日・与田剛の147キロのストレートが横浜・ブラッグスの左手首に当たる。ブラッグスは、「与田の態度が挑発的だった。許せん」とマウンドに突進。与田に殴りかかった。結果、ブラッグスは退場(翌日から10日間の出場停止)、与田は首や右肩の挫傷で全治2週間。暴力は悪いが、佐々岡の「フワ~」と与田の「147キロ」。どっちが本当の「危険球」だったかは、はっきりしている。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2008(平成20)年6月22日(日) 野村楽天が岩隈久志、田中将大の豪華リレー
‡2018(平成30)年6月22日(金) 10:35 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は6月22日だ。 
 写真◆お立ち台での2人。右から岩隈、田中
 前年3位となった楽天だったが、今季は投打の歯車がかみ合わずダントツの最下位。ついに梨田昌孝監督が辞任となった。 
 2005(平成17)年結成の楽天。
 2013(平成25)年、星野仙一監督による優勝、日本一は記憶に新しいところだが、Aクラス入りは、この日本一と梨田監督の17年を除けば
 2009(平成21)年の1年しかない。 
 野村克也監督の4年目、投手には現メジャー・リーガー、岩隈久志、田中将大がいた(岩隈13勝6敗、田中15勝6敗)。 
 今回はその前年、‡2008(平成20)年6月22日(日)の出来事だ。 
 この日、交流戦最終盤、広島戦(広島)で、初めて岩隈─田中のリレーが実現した。 
 2008(平成20)年の交流戦は大混戦となり、楽天にも優勝の可能性はあったのだが、この前戦
 2008(平成20)年6月18日(水)の敗戦で可能性が消えた。ちなみに野村監督にとって、これが1454敗目。三原脩(西鉄ほか)を抜く、歴代単独最多敗戦となった。 
「おそらく不滅やろ。名を残したな、汚名を。俺らしくていいんじゃないかな」と野村監督。
 73歳の誕生日も目前だった ⇒ 1935(昭和十)年6月29日(土) その後、
 2008(平成20)年6月21日(土)が流れ、
‡2008(平成20)年6月22日は日曜日の試合となった。 
 翌月曜の試合が楽天にとって交流戦ラストゲームで、再開まで3日空くことも豪華リレー実現の背景にあったのだろう。 
 先発の岩隈は6回1失点で交代し、7回から田中がロングリリーフ。プロ2年目で初のリリーフだった田中は、「初めてなのでとにかく緊張しました」と立ち上がりはスライダーが決まらず苦労したが、東出輝裕、前田智徳連続三振でギアが入った。 
 8、9回は6人で片付け、3イニング無失点でプロ初セーブ(3対1。田中は日本時代3セーブ)。 
「相手チームへの応援が盛り上がったところでポンと出てくる。岩隈さんの勝ちを消さなくてよかった」と笑顔を見せた。 
 一方の岩隈は、広島・ルイスとの“10勝対決”を制し、11勝目。同年は21勝4敗、防御率1.87で最多奪三振(ソフトバンク・杉内俊哉)以外の先発投手のタイトルを総なめしている。
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③┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2014(平成26)年06月22日(日) 巨人が頂上決戦を制して交流戦2度目のV(=^◇^=)
‡2019(令和元)年06月22日(土) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は2014年6月22日だ。 
 写真◆優勝トロフィーを高々と掲げた原監督
 インタビューに応じるため、お立ち台へと上がった巨人・原辰徳監督は、開口一番「ギリギリでした」。ホッと胸をなでおろしたのにはワケがある。 
 6月20日時点で交流戦優勝の可能性を残していたのは、首位・巨人、2位・ソフトバンク、3位・オリックスの3チーム。21日から首位攻防2連戦(東京ドーム)で、巨人はどちらかを勝利すればよかったのだが、必勝を期して送り出した大黒柱・菅野智之で第1戦に惜敗(1対3)、逆に後がなくなってしまう。この日の敗戦でソフトバンクと順位が逆転、翌22日の第2戦は、勝った方が交流戦V(引き分けならソフトバンクがV)という、文字どおりの天王山、しびれる展開となっていた。 
 結果的に巨人は2回までに7得点と大一番で打線が爆発。投げても交流戦期間中に2勝を挙げていた先発・小山雄輝が、12球団でNo.1の得点力を誇る鷹打線に再三好機を許すものの、6回を3失点、最後は10対5の完勝で、2012年以来2度目の交流戦優勝を果たした。 
 16勝8敗、勝率.667と、8つの勝ち越しに成功したものの、期間中、巨人は圧倒的な強さを見せたわけではない。3連敗(1度)以上の大型連敗こそないが、16勝のうち2点差以内の接戦が10、2点差以内の敗戦も3つある。交流戦開幕直後はレギュラーシーズンからの連続1ケタ安打を球団ワーストの19(交流戦期間中は14試合)に伸ばすなど、打線が振るわなかった。 
 指揮官は「しぶとく接戦を勝利できたこと」を勝因に挙げたが、リリーフ陣の奮闘を抜きには語れない。セットアッパーの山口鉄也は12試合に登板して失点はわずかに1。高木京介、西村健太朗の戦線離脱により、久保裕也、香月良太、青木高広らベテランのブルペン組の負担が増したが、イニングをまたいでのロングリリーフも辞さず、流れが傾くまで粘り強く投げ抜いたことが、2度目の戴冠へとつながった。 
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170622-01
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180622-01
 ③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190622-12
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④┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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 1990(平成二)年6月28日(木) 職人・平野謙が犠打の日本記録更新
 2018(平成30)年6月28日(木) 7:20 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は6月28日だ。 
 写真◆球団から贈られた花束を手にファンの声援に応える平野
 2017年はセの犠打が624、パが704となっている。 
 最初から話が脱線し恐縮だが、送りバントが代名詞だった巨人・土井正三のシーズン自己最多犠打は、ラストイヤーとなった
 1978(昭和53)年の27。 
 1965(昭和40)年から1973(昭和48)年までの、いわゆるV9時代では、ほとんどが20犠打以下と意外に少ない。この期間、チーム全体でもリーグ最多は
 1966(昭和41)年のみ、逆に
 1970(昭和45)年はリーグ最少の65犠打だった。 
「石橋をたたいても渡らない」「バントばかりでつまらない」と言われた川上哲治監督時代の巨人だが、実際の戦いは違っていたのかもしれない。 
 これについては生前に土井に質問したことがあるが、「僕はふつうに打ちにはいかなかったからね。バントの構えで投手をダッシュさせたり、わざとファウルにしたこともあった。それで多く見えたんじゃないかな」と話していた。 
 送りバントの急増は80年代半ばからだったと思う。その象徴が世界最多533犠打を誇る巨人の川相昌弘と日本プロ野球史上通算2位の451犠打の中日─西武の平野謙だった。 
 犠打記録は、決して派手なものではないが、常に優勝争いの渦中にあった強豪チームで、打撃(特にパワー)に課題がありながらも、守備走塁を武器にスタメンをキープした証しとも言える。 
 1990(平成二)年6月28日(木)は、のちに自分も川相に抜かれてしまうのだが、35歳の平野が当時、元阪神・吉田義男が持っていた最多犠打記録265を抜いた日だ。 
‡1990(平成二)年6月22日(金)、ロッテ戦で吉田の記録に並んだ平野は、
 1990(平成二)年6月28日(木)のオリックス戦(西武)、初回無死一塁の場面で打席に入る。 
 新記録の絶好の機会だったが、さすがの職人にも緊張があったのか、平野はバントを試みるもシュルジーの球を2球連続ファウル。たちまち2ストライクに追い込まれた。 
 記録は次打席に持ち越しかと思われたが、ベンチのサインはスリーバント。 
 ここで「開き直った」という平野のバントはきれいに決まって、ついに日本新記録を達成。吉田が2007試合をかけて達成した記録を約半分の1105試合で更新した。 
「西武は投手陣がいいから1点の重みがある。送りバントもやりがいがあるよ。これからも一番(打者)に頑張って塁に出てもらって、記録を伸ばします」と平野は笑顔を見せた。
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⑤┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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 1987(昭和62)年06月13日(土)“鉄人”広島・衣笠祥雄が2131試合連続出場
 2017(平成29)年06月13日(火) 11:10 プロ野球の歴史の中で、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は6月13日だ。 
 写真◆記念の花輪を手にし、観客の大声援に応える衣笠
 今年、現阪神監督・金本知憲(広島─阪神)が持つ1766試合を抜き、歴代単独2位の連続試合出場記録を達成した阪神・鳥谷敬。しかし、歴代1位2215試合への道はまだまだ遠い。 
 1987(昭和62)年06月13日(土)は、この記録保持者である広島の衣笠祥雄が、当時のメジャー記録だったルー・ゲーリッグ(ヤンキース)の2130試合を抜き、2131試合の世界新記録を樹立した日だ。 
 衣笠は65年に平安高から広島入団。当初は捕手で、背番号は28だった。のち頑丈な体に加え、この28が人気漫画『鉄人28号』を想起させたことで「鉄人」の異名を取り、さらに頑丈な選手たちの代名詞となっていくのだから面白い。68年に一塁手としてレギュラー定着、75年からサードにコンバート、背番号ものち永久欠番となる3となった。記録は、
 1970(昭和45)年10月19日(月)の巨人戦から、この日の中日戦(広島市民)まで足かけ18年。その間、数え切れないほどのケガ、そしてスランプもあったが、すべてを乗り越えての大記録だった。 
 セレモニーで「野球の神様に感謝します」と語った衣笠。
‡1987(昭和62)年06月22日(月)には中曽根康弘首相から野球界では巨人・王貞治に次ぐ国民栄誉賞を授与され、記録は87年10月22日、自身の引退まで2215試合続いた。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ④http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180627-03
 ⑤http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170613-01
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 ┃ 巨人王貞治本塁打世界記録樹立40周年企画が開催 ┃
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‡2017(平成29)年06月22日(木) 15:10 Weekly Topic
 2017(平成29)年06月14日(水)のソフトバンク戦(東京ドーム)で、『王貞治本塁打世界記録樹立40周年企画』が開催され、ジャイアンツOBで現ソフトバンク球団会長の王貞治氏が来場した。試合前、試合中にはオーロラビジョンで往年の名場面映像が放映され、背番号「1」の懐かしい一本足打法に球場は大いに沸いた。 
 また、5回終了時には、
 1977(昭和52)年09月03日(土)の世界記録達成となる756号(対ヤクルト、後楽園球場で鈴木康二朗から)をプレーバック。この後、グラウンドに登場した王氏は「練習もバカみたいにやったし、とにかく1本でも多くと、追いかけていました」と振り返り「今の選手は今に満足せず、もっと高いところを目指してほしい」とエールを送った。 
 https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=016-20170703-08
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.115 ┃  30円
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‡1960(昭和35)年6月22日(水)号 川上コーチと巨人の若手打者
 2018(平成30)年2月19日(月) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎巻頭グラビアは『三年目の長嶋茂雄』
 写真◆表紙は巨人・堀本律雄
 今回は『1960年6月22日号』。定価は30円だ。表紙は巨人の新人・堀本律雄だが、後ろの緑系の縦オビがかなりすごい。なぜこの写真を選んだかを含め、史上に残る変わり種表紙の1つと言っていいかもしれない。 
 巻頭グラビアは『三年目の長嶋茂雄』。この時点で打率はセ・リーグ2位の.338ながらホームランが自身では物足りないらしい(44試合で4本)。なお、1位は国鉄の飯田徳治。35歳のベテランが頑張っている。 
 本文巻頭『おれの好きなようにさせてくれ!』にも長嶋は登場。投手の徹底した外角攻めに遭い、思うように引っ張りの打球が増えてこないようだ。「なんといっても、インコースをカーンと打ちたいですね。やはりレフトに打てない右打者なんて寂しいものですよ」と、元気印の男が珍しく、しみじみ語った。 
 首位を陥落した大毎の西本幸雄監督も登場。評論家・苅田久徳の「ただ球場に来て、ヒットを打つ、そして帰る。こうした個人主義がいかん」と個性派がそろう打者陣への批判があったことについて「球場に来てヒットを打つ、そして帰る、それがなぜいけないんです。夜遅くまで酒を飲んで遊び歩くのがチームプレーなんですか」と反論している。実は、この時期、週べではないが、ほかの週刊誌では、巨人・水原茂監督が来季から大毎監督になるという記事も出ていたらしい。評論家・大井廣介はコラム『プロ野球時評』で、これらの記事を無責任であり、義憤を禁じ得ないと書いている。 
 表紙タイトルになった『川上コーチと巨人の若手打者』は、川上哲治コーチの下で成長を見せる王貞治らについてだった。川上は「王も今年は2年目だ。自分でも、今年こそやらねばいかんと奮起したのだろう。とにかく練習はよくやった。結局、王の意欲が生んだ快打、と言えるのではないか。王は、どちらかと言えば天才型だ」と語っている。 
『12球団週間報告』では南海に面白い記事があった。「鶯嬢と労働基準法」というものだ。 
 場内アナウンサー、いわゆるウグイス嬢の話だ。勤務時間が3時から10時までの7時間なので、試合が10時を過ぎた途端、野太い男の声に変わったらしい。12球団で南海だけだった。 
 なお、以下は宣伝です。しばらく、まったく同じ文を掲載します。 
 現在、週刊ベース60周年企画として「週べでつづる12球団史」を制作中。第1弾は3月14日発売予定の巨人編です。 
 では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.317 ┃  50円
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‡1964(昭和39)年06月22日(月)号 大阪球場の大乱闘
 2018(平成30)年10月12日(金) 10:14 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎別当薫監督の怒り
 写真◆表紙は左から阪神・村山実、西鉄・中西太
 今回は『1964年6月22日号』。定価は50円だ。
 1964年6月7日夜、大阪球場が事件の舞台になる。 
 9回表、2対1とリードした場面で、南海・スタンカは近鉄のブルームに二塁打を浴びた後、土井正博にも四球で一、二塁のピンチを招く。 
 さらに、この後、バントの構えをした島田光二の胸元にスタンカの球が食い込むと、大きな音がし、バックネット方向に転がった。 
 すぐさま一塁に向かった島田。その後、少し間を置いての浜口球審のデッドボールの宣告に「当たってないやろ。ファウルやないか」と怒ったのが、野村克也捕手だった。森下整鎮は「あれはワシらもようするヤツや。当たったふりをしとるだけじゃ」と自爆気味(?)に怒鳴る。 
 南海・鶴岡一人監督もベンチから出て強く抗議したが、すぐ引き下がった。 
 コワモテの鶴岡監督だが、1950年に判定に抗議し、試合放棄となったことがあった。その際、周囲に大きな迷惑をかけたことを反省し、以後、抗議はあまり長くならないようにしていたという。 
 話は終わらない。 
 二死満塁となった後、スタンカは児玉弘義にまたも胸元への厳しい球。児玉は自ら「デッドボール!」と叫んだが、今度は浜口球審が「ファウルボール」。 
 怒ったのが、近鉄・別当薫監督だ。「ここを見ろ」と赤くなった児玉の左手小指を審判に突き出し、判定が覆らぬと、数分後には満塁の走者をすべて引き揚げさせた。 
 放棄試合寸前、近鉄の選手が塁に戻り、何とか試合再開となったかに思えた。 
 しかし、再び審判を指さし、何か抗議していた別当監督に向かい、マウンドから2メートルの巨人・スタンカが突進し、つかみかかり、振り回す。 
 すぐさま両軍入り乱れの大乱闘。近鉄の山本八郎がバットを振り上げ、味方に後ろから抑えられている写真もあった。 
 さすがケンカ八だ。 
 スタンカは退場。制裁金5万円となったが、ほかはすべて注意のみで終わっている。これも時代だろう。 
 この試合は2対1で南海の勝利。退場はしたがスタンカが勝ち投手になった
 スタンカは言う。 
「別当監督は、いつもあんなやり方をする。僕はずっと投げ続けていないといいピッチングができない。別当監督はその癖を知っていて引き延ばしたんだ。そう思ったらカーッときて……」 
 一方、別当監督は浜口球審に対して、 
「放棄試合にするなりなんでもやったらええ。お前、自信があるならケツまくったらどうや」 
 とすごみ、さぞスタンカにも怒り心頭と思ったが、試合後に聞くと、 
「間を置くと肩が冷えると思ったんだろう。ジャッジの問題だから連盟へ提訴はしない」 
 と意外と淡々。 
 しかし、その後、再び浜口球審の話になると、 
「うちにとって大事な同点の場面や。それを未熟な技術でパーにされたんだからな。怒るのはあたり前や。あんな審判では一生懸命やっている選手がかわいそうだ」 
 と再びカッカしていた。 
 残念ながら当時(以後もかなり長い間そうだったが)、日本の審判の権威は低かった。選手、監督は平気で審判に毒づいたが、明らかに手を出したようなケース以外は、なかなか退場にならなったし、観客が乱入し、審判を手を出すこともあった。 
 全員がそうだというわけではないが、審判も自分の安全を守るため、弱気になっても仕方がない。 
 前日扱かったバッキーの件もそうだが、「行って来い」、つまりミスジャッジで不利にさせたなと思う相手に対し、わざと有利なジャッジで返す(ように見える)ことが頻繁にあったそうだ。 
 それを外国人選手が見透かして、さらに“なめる”という悪循環もあったのかもしれない。 
◎中日監督がドタバタ
 低迷が続いていた中日は6月6日、杉浦清監督に休養の打診をしたが、「自分はベストを尽くし、チームが立ち直るよう努力する」と拒否。 
 しかし7日の試合後、今度は「休養命令」。西沢道夫コーチが代理監督となることが決まった。 
 中日は次期監督に、東映監督ながら球団幹部、さらには選手との対立がウワサされた水原茂が有力と書かれていたが、その実現は69年からとなる。 
 では、また月曜日に。<次回に続く>
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‡1970(昭和45)年06月22日(月)号 任意引退の江藤慎一がロッテで球界復帰!
 2020(令和二)年01月31日(金) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎黒い霧はいつ晴れる
 写真◆表紙は巨人・長嶋茂雄
 今回は『1970年6月22日号』。定価は80円。 
 1970年6月3日、16時30分、東京のホテルで会見が開かれ、中日を任意引退していた江藤慎一とロッテの川畑和人のトレードが発表された。 
 江藤は水原茂監督との確執から移籍を言い渡されたが、「中日で終わりたい」と拒否。中日も意地になって、自由契約ではなく、任意引退となっていた。 
 64、65年の首位打者で、69年も打率.280、25本塁打と大きく力が落ちたわけでもない。豪傑選手として人気も高く、「このまま消えるのはもったいない」とセの鈴木龍二会長が動き、開幕直前にヤクルトへの移籍がほぼ決まったが、急に中日側が「金銭ではダメ。交換で15勝級の選手がほしい」と言い出したことで、実現しなかった。 
 ロッテ・永田雅一オーナーは、江藤の移籍話が出たときから中日・小山オーナーの話を通したうえで、直接、江藤に連絡するなど、獲得に熱心に動いたが、このとき江藤は「中日の江藤で終わりたい」をかたくなに繰り返し、一度はあきらめたという。 
 しかし、その後、中日の状況が変わった。オートレースの八百長でエースの小川健太郎が永久追放になってしまい、結果的には、「とにかく投手がほしい」となった。 
 中日側から動いたのかどうかは分からないが、ロッテは江藤の日鉄二瀬時代の恩師・濃人が監督でもあり、69年は3勝しかしていない川畑とのトレードが実現したらしい。 
 半年のブランクはあったが、江藤は、 
「僕は筋肉質だから半年のブランクでも太らなかった。バットの素振りもやっていたし、ファームで練習させてもらえば」 
 と話していた。 
 球界から永久追放となった池永正明の近況もあった。自宅で取材したようだが、 
「いまは何もする気がしません。今後のことも考える気がしません」 
 と放心状態。ほぼ“引きこもり”だったようだ。 
 周囲では池永の復権運動やメジャーへの移籍話(ウワサ)もあったようだが、池永は関心を示さず、言葉にも力がない。唯一、コミッショナーの話になった際、 
「なぜこんな処分になったか分からん。納得できない」 
 と語気を強めたという。 
 話が前後するが6月3日、オートレースの八百長で逮捕された中日・小川健太郎がコミッショナーから永久追放処分を受けた。 
 小川は田中調の紹介で、今回の事件の中心である元暴力団員・藤縄と知り合い、ギャンブルでできた借金340万を出してもらったらしい。 
 また、同じく藤縄ルートで名前が挙がった東映の森安も、八百長は否定していたが、藤縄と永易将之と博多で飲み歩いていたことは認めている。 
 何度も書くが、藤縄という人物が野球賭博の中心にいたわけではないはずだ。ある意味、小物の一人をつかまえただけで、これだけの騒ぎになった、という見方もある。 
 では、また月曜に。 
 そういえばだが、黒い霧事件を出してから、この連載のPVが異様に増えている。それはそれでありがたいのだが、大河ドラマのようにストーリーがあるわけではなく、劇的なクライマックスが待っているわけでもない。 
 もう少ししたら、ふつうに野球の話題のみになっていくはずだ。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180219-13
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20181011-01
 ③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200131-04
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
 ┃ プロ野球仰天伝説 No.182 ┃ ONLINE
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 メーカーも舌を巻く感覚を持っていたオマリー
‡2018(平成30)年6月22日(金) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 2、3度スイングを繰り返して……
 阪神・オマリー
 1990年代、阪神、ヤクルトで活躍したトーマス・オマリーは用具メーカー泣かせとして知られていた。 
 常人には計り知れない繊細なバランス感覚を発揮し、いくつにも細分化されたオーダー項目の完璧履行を要求するのだ。 
 バットのグリップの太さから、重量の幅まで、それこそ数ミリ、数グラム単位の世界がそこに展開される。「開幕時の4月が930グラムで、以後1カ月ごとに10グラムずつ落としていく」(担当者)という特装バットが、メーカーの真空密閉室に保管されていた。 
 1度、こんなこともあったという。メーカーが注文どおりに納入した新品のバットを手にしたオマリーは、2、3度スイングを繰り返した後に、担当者をつかまえて「ちょっと感覚が違う」と言ってきたという。 
 半信半疑で再度採寸し直してみたところ、グリップの太さが0.5ミリ以下で確かに薄い。「恐れ入った」と舌を巻く担当者にオマリーが再び近寄り、そのバットにワックスを塗り出した。 
「これでちょうどいいはずだ」と笑って差し出したグリップの寸法は、ピッタリの注文サイズになっていた。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180622-11
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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 「金曜8時」の新日本プロレス生中継、34年ぶりに復活…7月3日、NJC準決勝を放送
‡2020(令和二)年06月22日(月) 19:28配信 スポーツ報知(新聞社)
 写真◆新日本プロレスの「エース」棚橋弘至
 2020(令和二)年06月15日(月)に110日ぶりに大会を再開した新日本プロレスの試合が34年ぶりに「金曜午後8時」から生中継されることが22日、分かった。この日、無観客、会場非公表で行われた「NEW JAPAN CUP2020」(NJC)大会の試合前に新日・菅林直樹会長がリング上で発表した。今年4月からBS朝日で毎週金曜午後8時から放送されている1時間の放送「ワールドプロレスリング・リターンズ」で
 2020(令和二)年07月03日(金)に同じく無観客、会場非公表で行われる32選手出場のシングル最強決定トーナメント・NJCの準決勝2試合が生中継されるもの。地上波でこそないが、往年のプロレスファンならおなじみの「金曜8時」の生中継は1986年9月以来、34年ぶりとなる。テレビ朝日は前身のNET時代の1969年にプロレス中継を開始。昨年50周年を祝った老舗中の老舗だ。70年代にはアントニオ猪木(77)、80年代には初代タイガーマスク(佐山聡=62)というドル箱スターを擁し、視聴率20%超えが当たり前。実況アナウンサーから古舘伊知郎氏(65)というスターまで生み出した。しかし、1986年9月に金曜から撤退、87年3月に生中継を終了。93年4月からは毎週土曜深夜2時からの30分間録画ダイジェスト放送の「ワールドプロレスリング」に落ち着いていた。
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◎折角この時間に枠があるんだから、通常の興行形態に戻るまでは、月に1度くらいはやってほしいな。
◎BSかいいな~てか夜中のワールドプロレスリングは27年も続いてるんだね それはそれですごいな 
◎まさに80年代はプロレスバブルだったな 新日本プロレスバブルだったとも言っていい 毎日が満員御礼、視聴率が20%超え 特番だってあった。でもこの裏で猪木がアントンハイセルや永久電池に多額の金を注ぎ込む訳で選手のギャラなんて全然上がらない クーデターが起こりタイガーマスクは引退するわ 前田、高田の若手や長州らも離脱 なんでブームを維持出来なかったのかが不思議 人間、金があるとおかしくなるんだろうな
 https://news.yahoo.co.jp/articles/a29fea0b14008f746f9dc5b9d5c5631add2995c8
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 獣神サンダー・ライガー、vsヘビー級への挑戦!
 2019(平成31)年04月03日(水)  
‡1989(平成元)年06月22日(木) 新日本プロレス長野県佐久市総合体育館のメインで藤波辰己がビックバン・ベイダーと対戦、ベイダーの奇襲を受けた藤波はラリアットで反撃するが、ヘッドロックで捕らえた際にベイダーのバックドロップを喰らい、腰を負傷して一気に動きが鈍くなってしまう。それでも痛い腰をかばって試合を続行させた藤波はベイダーをバックドロップで投げようとするが、腰の痛みで上手く投げられず、首固めで強引に丸め込んで勝利となるも、納得いかないベイダーが藤波に襲い掛かり場外へ放り投げる。ベイダーはエプロンに立つと背後から獣神ライガーがドロップキックで場外へ追いやり、スライディングキックを浴びせた。この模様はワールドプロレスリングでも放送され、ライガーもバックステージで「体重差があろうが、相手の重心さえ崩せば勝てる!」と豪語して、ヘビー級との対戦を積極的にアピールした。ライガーはドーム元年と言われた
 1989(平成元)年04月23日(日)に東京ドームでデビュー、当時テレビ朝日では土曜夕方に永井豪原作のアニメ「獣神ライガー」が放送されており、そのアニメとのタイアップでライガーのデビューが企画され、ライガーにはイギリス遠征中のYを抜擢、Yは獣神ライガーに変身してデビュー戦で小林邦昭を降し、5月25日の大阪城ホールでは馳浩を破りIWGPジュニアヘビー級王座を奪取していた。当時の新日本プロレスはヘビー級、ジュニアと階級に別れてマッチメークされており、ジュニアの選手がヘビー級に挑む機会はなかなか訪れなかったが、現場監督に就任したばかりの長州は藤波が椎間板ヘルニアで長期欠場したのもあって、ノーテレビの会場でメインの6人タッグ戦にライガーを抜擢してベイダーと対戦させ、ライガーは勝つことは出来なかったが、豪語したとおりベイダーをスピードで翻弄してキリキリ舞いさせた。ライガーは後年「そう、あの頃は強くなりたいの一心で練習をした。猪木さん、藤原さんのような強さを目標にしていた。ジュニアの頂点に立っても、それが自分の中に合って、ジュニアもヘビーも関係ない!1vs1でやったらどっちが強いんだ!という気持ちですよ」と答えていたとおり、新日本がヘビーとジュニアを分けようとしてもリングの中では関係ない、その考えがvsヘビー級へとライガーを駆り立てていったが、アニメが終わり、獣神ライガーが獣神サンダー・ライガーとなり、IWGPジュニアヘビー級王者に君臨したことで、vsヘビー級は一旦休止となったが、vsヘビー級は諦めたわけではなかった。
 1994(平成六)年02月24日(木)、日本武道館大会で橋本真也vs獣神サンダー・ライガー戦が実現した。ライガーはこの年の東京ドーム大会ではウルティモ・ドラゴンを破り、IWGPジュニアヘビー級王座を奪還したばかりだが、橋本も前年の9月にグレート・ムタを破ってIWGPヘビー級王座を奪取しただけでなく、1週間前の両国国技館大会では天龍源一郎を破るなど、絶頂期に差しかかろうとしていたことから、まさに橋本、ライガー共に絶頂期となったところで、ヘビーとジュニアの王者同士の対戦が実現となったのだが、実は1993年10月15日の後楽園大会で行われた「SGタッグリーグ」公式戦で橋本は蝶野正洋、ライガーはワイル・ペガサスと組んで対戦しており、橋本が勝利を確信してペガサスをセーブして、背中を見せている間に、ライガーが蝶野を回転十字固めで破るという大金星を収めていた。ライガーはこの戦いのために特別コスチュームを用意した。ライガーは以前に山本小鉄から「オマエ、鍛えているのに、もったいないな、なぜ身体を隠しているんだ」と指摘されたことがあった。この時はライガーも「いや、これがライガーのキャラなんで」と答えるしかなかったが、橋本戦に向けて「脱ぐのはここだな!」と考えていた。マスクは角を取って、視界を見えるように目の網の部分を取っ払い、口のところも呼吸しやすいように大きく開け、また全身タイツをやめて上半身裸、見事に盛り上がった大胸筋を見せる、まさしく実戦用バトルライガー、いや本来のライガーのあるべきスタイルだったのかもしれない。レフェリーは二人の教官である山本小鉄が務め、リングアナである田中秀和氏も「IWGP無差別級決戦60分1本勝負」とコールすることで決戦を多いに盛り上げた。両者は握手でスタート、ライガーはロープへ走って牽制、打撃を構えると橋本も構え、橋本がヘッドロックを仕掛けて力任せで絞り上げる。ライガーはロープへ振るがマッチアップはタイミングが合わなかったのか避け、今度はフィンガーロックとなり、橋本が押し込むとライガーがブリッジで耐え、橋本はスタンディングで脚へローキック、袈裟斬りからボディースラムと豪快な攻めで先手を狙う。ライガーはレッグシザースから、橋本の脚を固めにいくが、リストロックの攻防で橋本が制して爆殺ミドルキックも連発も、ランニング掌打から仕掛けたライガーは掌打の乱打で正面突破すると、浴びせ蹴りの骨法殺法で攻勢をかけ、橋本もたまらずコーナー付近でダウンしてしまう。ライガーは橋本に再び浴び蹴りから胸板へローキックを放つと、だがロープへ振り返した橋本はドロップキックを発射、ライガーはたまらず場外へ吹き飛ばされ、リングに戻っても橋本がストンピングからラリアット、風車式ストマックブロックからエルボードロップと再び自身の流れに戻してアームロックに捕らえ、体格を生かして動きを封じにかかり、腕を固めたままローキック、ストンピングと左腕攻めから、爆殺ミドルキックを浴びせる。橋本のキックは誰もが受けることを嫌っていたが、「それを受け止めてこそプロレスラーじゃん!来るならこいや!」と敢えて受けて立っていた。だが実際受けてみて橋本のキックの威力の凄さを感じていたのかもしれない。橋本は左腕へショルダーアームブリーカーから爆殺ミドルキック、ローキックとライガーを蹴りまくる、逆水平の連打もロープへ振ったさいに、ライガーがスライディングで橋本の股をくぐって脚めがけて低空ドロップキックを連発から膝十字固めで反撃、そして橋本の巨体にロメロスペシャルを狙うが、橋本はロープに逃れ、ライガーはインディアンデスロックと足攻めで流れを変え、橋本チョップや頭突きで抵抗してもライガーは掌打で黙らせる。しかし技が解けたところで橋本は腕十字で切り返すと、ライガーはレッグロックで切り返し、橋本は再度腕十字で切り返し、技を解いたところでフロントスープレックス、シュミット流バックブリーカーも、ライガーは掌打からライガーボムを狙うが、橋本が堪えると、突進するライガーにトラースキックで迎撃する。橋本はブレーンバスタースラムで叩きつけると、ニールキックを狙うがライガーは避けて突進も、迎撃した橋本はニールキック、だが勝負を狙ったDDT狙いをライガーが膝十字で切り返し、ヒールホールドへと移行、足めがけてコーナーから低空ドロップキック、足四の字固めで充分に足を攻め、踏ん張りがきかなくなったところでライガーボムを決めるが、橋本はカウント2でキックアウトしても、ライガーは続けて雪崩式DDT(ライガー自身は雪崩式ブレーンバスターを狙ったつもりが、腹がまで腕が回りきれなかったという)を敢行して橋本を追い詰める。ライガーは串刺しでの浴びせ蹴りからフィニッシュだった雪崩式フランケンシュタイナーも敢行、ジャーマンスープレックスホールドも決め、橋本の後頭部めがけてミサイルキックも発射も、突進したところで橋本が左での逆一本背負いで反撃すると、爆殺ミドルキックを浴びせ、ライガーは掌打で応戦も、橋本はここ一番で出る水面蹴りからハイキック、垂直落下式DDTで3カウントを奪い、ヘビー級王者としての意地を見せたが、試合後は互いにベルトを持ってノーサイドとなった。ライガーは橋本戦では空中戦を敢えて封印しレスリングで真正面から挑んだが、ライガーは後年「ええ。僕のスタンスは楽しむこと、マスクマンとしての夢とか、こうしたらどうなることよりも、自分が楽しむことをやってみたい。もちろん楽しいことをやる前には、それなりに厳しく鍛えて、辛さもあるし、努力しなければならないけど、その先の楽しさのために行動する。橋本戦もそうでした。僕はライガーのファンであり、プロレスファンなんですよ、今までと同じようにこれからも楽しんでプロレスをやっていきたいですね」と答えていた。最終的には橋本の力にねじ伏せられ敗れてしまったが、強いライガーを充分に見せつけ、敗れはしたがライガー自身も充分に楽しめ満足できた一戦だった。だがこの一戦でライガーのvsヘビー級への挑戦は続き、2000年にはG1 CLIMAXに出場して後藤達俊を破り、2001年、2006年と3回G1へと出場してヘビー級の厚い壁へと立ち向かっていった。そのライガーのプロレス人生も2020年1月の東京ドームで幕を閉じようとしている。
 参考資料 日本プロレス事件史Vol.13『マスクマンの栄光と悲劇』
 参考資料 新日本プロレスブックス『獣神サンダー・ライガー自伝』新日本プロレスワールド、ライガーvs橋本戦は新日本プロレスワールドで視聴できます)
 https://igapro24.com/2019/04/03/lyger0403/
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 腰痛で引退寸前の藤波辰爾が奇跡の復活!
 2021(令和三)年03月12日
‡1989(平成元)年06月22日、新日本プロレス佐久市総合体育館大会、この日は土曜日夕方4時で放送されていた「ワールドプロレスリング」の収録日で、メインでは藤波辰巳がビックバン・ベイダーと対戦したがベイダーのバックドロップを食らった際に藤波の腰はダメージを負ってしまい、それでも藤波はベイダーにバックドロップを仕掛けようとしたが、ベイダーの重さもあって腰がグキっと腰砕けになって力が入らず押しつぶされてしまう。試合は藤波が咄嗟に首固めで丸め込んで3カウントを奪い勝利も、まさかの敗戦に怒ったベイダーは藤波に襲い掛かるが、藤波は全く動こうとしない。異変を察知した獣神ライガー(獣神サンダー・ライガー)が駆けつけてベイダーを排除するも、控室に戻って1時間に及ぶマッサージを受けても容態は改善しなかった。この時から藤波の腰痛との長い戦いが始まった。この年の新日本プロレスは起死回生で開催した東京ドームが成功、そしてアントニオ猪木が参議院議員に出馬して当選したため最前線から一歩退いた立場となったため、猪木不在の新日本を藤波と現場監督となった長州力と支えることになったが、藤波の負傷はまさにその矢先だった。佐久大会での藤波は自家用車で会場入りしていたが、藤波は痛み運転できないためリングスタッフの社員に頼んで運転してもらい自宅へ戻り、翌日に病院でレントゲンを撮ってもらったが「特に大きな原因は見られない」と診断されるも、痛み止めを貰っても一向に痛みが治まらず、新日本で世話になっている整体治療院に通って治療してもらうも痛みは引かず容態も改善しなかった。それでも藤波は長州だけには負担をかけさせまいとしてシリーズに参戦し続けたが、7月3日の青森大会で長州と組んでスーパー・ストロング・マシン、ジョージ高野の烈風隊と対戦した際に、烈風隊の集中攻撃を受けた藤波は動けなくなってしまい、なんとか長州に交代したものの、藤波は戦闘不能となって試合に加わることが出来ず、試合も一人孤軍奮闘した長州がマシンのダイビングヘッドバットを食らって敗れてしまった。さすがの藤波も長州の負担になるどころか新日本全体の足手まといになっていると感じ欠場を決意、治療に専念することになるも、改めて検査を受けた結果、仙腸関節炎と診断されたが、本当は椎間板ヘルニアであり、長年に渡って腰を酷使したツケが一気にまわってきたのだ。藤波は絶対安静となり、内服薬や座薬の使用、ブロック注射と様々な治療を行ったか、腰痛は一向に改善せず、、歩行や座ることや横になって寝ることも出来ないなど、ますます腰痛は悪化していき、その間に長州がサルマン・ハシミコフを破ってIWGPヘビー級王座を奪取、飯塚孝之(飯塚高史)と組んで烈風隊を降してIWGPタッグ王座を奪取、現場監督としても辣腕を振るうなど実権を堅固のものにしていき、猪木のいない新日本を自分が守らなければならないと使命感が強かった藤波は長州の活躍を歯がゆい思いで見ているしかなかった。今でいうセカンドオピニオンで藤波は腰痛を改善するために様々な病院を渡り歩いたが一向に改善せず、精神的にも参ってしまった藤波は看病してくれる伽織夫人にも八つ当たりし、”ピストルを寄越せ””ビルから飛び降りる”まで口走るようになったが、その間にも新日本は海外武者修行に出ていた橋本真也、蝶野正洋、武藤敬司も帰国、1990年2月11日の東京ドーム大会には全日本プロレスとの関係が改善されたことで藤波が対戦を望んでいたジャンボ鶴田が参戦したが、藤波は鶴田の参戦したリングには立つことが出来ず、一気に時が動き出した新日本を歯がゆい思いで見続けるしかなく、誰もが藤波は復帰できない、このまま引退するのではと噂が飛び交うようになった。その最中に新団体設立へ動きているメガネスーパー(SWS)からも勧誘を受けた、メガネスーパーも武藤の獲得に失敗したことを受けて藤波に目を付けたのだが、藤波は復帰の目処が立っていないことを理由に断った。その藤波に回復の兆しが見えたのは、セカンドオピニオンの一環で近大付属病院の医師から、筋肉を鍛えることで治る可能性を示唆され、別のスポーツ医学のドクターを紹介されると筋力トレーニングを開始、同時にローラーでマッサージするローラー治療を開始してからで、90年代に入るとヘルニアの患部を直接治療するのではなく、ツボとなる別の部位をほぐす遠隔治療も始めると、藤波の腰は少しずつ痛みが和らぎ、やっと横になって寝れるようになり、このような治療を続けるうちに、日常生活に支障のない程度にまで回復した。藤波は復帰を目指して動き出し、メガネスーパー側が提唱していた道場制度を意識して「藤波部屋」後のドラゴンボンバーズを設立、あくまで企業内独立で、将来は独立採算制や独自興行も視野を入れることも示唆したが、このプランが後に設立された「無我」に取り入れられていく、そして5月14日には全日本プロレス武道館大会を訪れ、ジャイアント馬場と鶴田を訪問、この頃には全日本も天龍源一郎が離脱してSWS旗揚げへ動いていたこともあり、藤波の訪問はSWSに対するアピールでもあり、藤波自身も存在感を大きくアピールした。そして8月7日の後楽園ホール、この時の新日本は新しい企画として後楽園ホール大会の7連戦を開催していたが、藤波はリングの上で公開スパーリングを行った。縄跳びとリングで体を動かすだけのデモンストレーションだったが、会場のファンからドラゴンコールが巻き起こった。そしてデビューしたての小原道由と松田納(エル・サムライ)相手にスパーリングを行い、藤波は松田を相手にブレーンバスターまで披露して腰の回復をアピールしてみせた。藤波も館内の温かい声援を感じていたが、ロープワークで肌にミミズ腫れになっていたことで、肌が弱くなったことで愕然とし、1年以上リングに離れていたことを改めて痛感した。公開スパーリングの後の26日は後のドラディションの母体となる「シーホース・コーポレーション」を設立、リングネームも本名の藤波辰巳から現在の藤波辰爾に改め、ドラゴンボンバーズには越中詩郎、ライガー、飯塚孝之、ブラック・キャットが加わり、大関だった小錦の紹介で大相撲を廃業していた南海龍、高見州(後に俳優のテイラ・トゥリとなる)も練習生として参加した。藤波は9月30日の横浜アリーナで開始される「アントニオ猪木・プロレスラー30周年記念大会」には復帰したいということで調整し続けたが、周囲からの「もう少し後でいいのではという」アドバイスもあって5分間のエキシビションマッチという形で実戦に復帰、相手は越中が務め、最初こそは越中も気遣っていたが、藤波が「遠慮はいらん!」とビンタを放つと、越中はショルダータックル、ボディースラム、バックブリーカーと敢えて腰にダメージを与える技を繰り出していく、それでも藤波は腰に手をやりながらもドロップキック、ワンハンドバックブリーカーことドラゴンバックブリーカーを繰り出し、ドラゴンスリーパーで捕らえたところで5分タイムアップとなった。藤波の腰の痛みも心配するほどでなく、メンタル的にも上々の仕上がりとなったことで、後は本格復帰が待たれるだけとなった。本格復帰戦は10月25日、新日本で初進出となる群馬のグリーンドーム前橋で行われることになり、藤波は越中と組んで一旦ベイダーに明け渡していたもののIWGPヘビー級王者として返り咲いていた長州、そしてフリーとして参戦していたアニマル浜口の本家維新軍コンビと対戦、先発を買って出た長州は藤波にショルダータックル、ボディースラムと敢えて受身を要する技でどれだけ腰が回復しているか試すと、藤波もトーキックを繰り出す長州の足を抱えてドラゴンスリーパーで捕らえ、浜口にはスライディングヘッドシザースや弓矢固め、コブラツイストまで仕掛けていく、しかしさすがの藤波もブランクが響いてスタミナ切れが目立ち始めると、長州がリキラリアットを炸裂させてバックドロップで3カウントを奪い、復帰戦を勝利で飾れなかったが、藤波はブランクはあったものの満足した動きが出来たことで笑みを浮かべ、長州も藤波の復帰を大歓迎して敬意を表した。藤波は自身の欠場となったきっかけを作ったベイダーとの対戦をアピールして、11月1日の武道館大会でベイダーとのシングルが組まれたが、皮肉にもベイダー自身が腰を負傷して欠場してしまい、藤波は代役として新日本に復帰していたタイガー・ジェット・シンと対戦するが、シンの狂乱ファイトぶりに振り回されて反則勝ちとなり、都内のファンに復帰をアピールすることが出来ず、28日の博多スターレーン大会ではパイオニア戦志として参戦していた剛竜馬と対戦しジャンピングエルボーアタックで3カウントを奪い、ようやく復帰初フォール勝ちを収めるやっとフォール勝ちを収めたことで自信を深めた藤波は長州の保持するIWGPヘビー級王座に12月26日の浜松アリーナ大会で挑戦、この時は「ワールドプロレスリング」もゴールデンタイムから外れていたが、浜松大会はゴールデンタイムの特番が組まれ、メインに登場した藤波は何度も窮地に立たされたが、腰の負傷で満足したブリッジは出来なかったものの、これまで長州を何度も破った技であるジャパニーズレッグロールクラッチで3カウントを奪い、IWGPヘビー級王座を奪取して、再びトップ前線に返り咲き、猪木も新王者となって復活した藤波を祝福した。1991年に入ると1月17日の横浜文化体育館でIWGPヘビー級王座をかけて因縁のベイダーと対戦するが、ラリアットの連発でフォール負けを喫して初防衛に失敗するも、3月4日の広島サンプラザで行われた再戦では藤波がベイダーのビックバンクラッシュを食らった際に体を入れ替えて押さえ込んで3カウントを奪い王座奪還に成功、3月21日の東京ドームではリック・フレアーとNWA世界ヘビー級王座とのダブルタイトル戦を行い、グラウンドコブラで3カウントを奪ってIWGP,NWAの二冠王なり、1992年1月4日の東京ドームで長州に敗れるまで王座に君臨した。藤波は2006年に新日本を退団、「無我ワールドプロレスリング」を設立、その後団体名を「ドラディション」に改めたが、2015年に藤波は脊椎管狭窄症の手術を受け、長年腰痛と戦ってきた腰にやっとメスを入れた。そして復帰し2020年1月4日には長年離れていた新日本のリングに上がった。そして藤波は今日まで現役を続け戦っている。
 参考資料『日本プロレス事件史Vol.28 地獄からの生還』ベースボールマガジン社
 https://igapro24.com/2021/03/12/historia-8/

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