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┃ O R I G I N A L M A S T E R R E C O R D I N G ┃MUSIC&MOVIES
┃ -モービル・フィディリティ・サウンド・インプレッション- ┃
┃ mobile fidelity sound impression ┃
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Sep.1982 Box Set
Mar.1987 UK Export
Dec.1979 MFSL-1-023『ABBEY ROAD』
Feb.1981 MFSL-1-047『MAGICAL MYSTERY TOUR』
Jan.1982 MFSL-2-072『The BEATLES』※White Album
June1985 MFSL-1-100『SGT. PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND』
Jan.1987 MFSL-1-101『PLEASE PLEASE ME』
Nov.1986 MFSL-1-102『with the beatles』
Feb.1987 MFSL-1-103『A HARD DAY'S NIGHT』
Mar.1987 MFSL-1-104『BEATLES FOR SALE』
Nov.1985 MFSL-1-105『HELP!』
June1984 MFSL-1-106『RUBBER SOUL』
Oct.1986 MFSL-1-107『REVOLVER』
Sep.1987 MFSL-1-108『YELLOW SUBMARINE』
Nov.1986 MFSL-1-109『LET IT BE』
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Dec.1979 MFSL-1-023『ABBEY ROAD』
Feb.1981 MFSL-1-047『MAGICAL MYSTERY TOUR』
Jan.1982 MFSL-2-072『The BEATLES』※White Album
June1984 MFSL-1-106『RUBBER SOUL』
June1985 MFSL-1-100『SGT. PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND』
Nov.1985 MFSL-1-105『HELP!』
Oct.1986 MFSL-1-107『REVOLVER』
Nov.1986 MFSL-1-102『with the beatles』
Nov.1986 MFSL-1-109『LET IT BE』
Jan.1987 MFSL-1-101『PLEASE PLEASE ME』
Feb.1987 MFSL-1-103『A HARD DAY'S NIGHT』
Mar.1987 MFSL-1-104『BEATLES FOR SALE』
Sep.1987 MFSL-1-108『YELLOW SUBMARINE』
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エンタメ!
エンタな話題
ザ・ビートルズBEST10曲 小倉智昭がとことん厳選
小倉智昭のザ・ビートルズとっておき(1)
2016/9/26
20世紀最大のスター、ザ・ビートルズが来日公演のため羽田空港に降り立ったのが1966年。50周年の今年は新アルバム発売や記録映画公開と記念イベントや関連ビジネスが目白押しで、新旧ファンの熱気も高まっている。芸能界きってのビートルズ通、キャスターの小倉智昭さん(69)もその一人だ。公演を生で見て、バンド活動で音を探り、膨大なグッズも収集。全曲を半世紀以上聞き込み、メンバーとも交流した小倉さんならではのとっておきの秘話を、インタビュー動画とともに4回にわたって紹介する。1回目は小倉智昭セレクション、ビートルズナンバー「ベスト10」だ。(聞き手は企業報道部次長 松本和佳)
――ファン歴50年以上。ハートに火がついたのはいつですか。
「初めてFEN(米軍の放送網)から流れてきたビートルズの曲を聴いたときのショックは忘れられないよ。東京五輪のちょっと前、高校生のときです。僕はバンドをやっていて学園祭なんかで発表していたんだけど、新しい音楽を吸収するのはFENの洋楽チャートでした。皆で分担してカセットテープに録音、ランキングや歌詞をノートに書き写しては洋楽を演奏していたんです」
「あるときからビートルズがチャートに登場しはじめて、やがてベスト10に3つも4つも入るようになって。『知ってる?』『すげーよ。かっこいいよ』とバンド仲間で熱狂しましたね。出す曲出す曲ものすごく、いいんだもん。そのうち日本でもレコードが発売されて人気が爆発しました」
――ビートルズ出現の「前」と「後」では、音楽シーンもビジネスも大きく変わったといわれます。ビートルズのメロディー、歌詞、何が違ったのでしょうか。
「『これ、やりたいね』って耳にたこができるくらい聞いていたわけです。新曲が新宿のジュークボックスに入ったと知れば、飛んでいってお金入れて、音を探って。でもね、聞いたことがない不協和音のようなコードが出てくるんですよ。感性が1つの定規で収まらないっていうのかな。イントロもエンディングも、とにかくすべてが新鮮。でも、難しいのよ。演奏してみると、できないことがよくわかる」
「ビートルズはロックンロールに始まりバラードになり、使う楽器が増えて、アルバムを出すたびに曲が変わっていきました。当時じゃ考えられなかった管楽器やオーケストラのストリングス、インド音楽のシタールなどの楽器を入れたり、テープの逆回転の音を使ったりして、メンバーみんなが好きにやっていた。それでまた面白いものができるのが魅力だった」
――相当悩んでベスト10を選んでいただきました。
「大変でした。週末2日間かけて改めて213曲すべてを聞いてみましたよ。すごいね。やっぱり駄作がないのよ。最初に選んだベスト10第1弾では、やっぱり名曲だからと『レット・イット・ビー』『イエスタデイ』『恋におちたら』『ミッシェル』『ヘイ・ジュード』を1~5位に入れていました。でも、これらの曲は、自分の気持ちの中では本当の上位ではないなあ、と思い直して、改めて第2弾を選んだんです」
小倉智昭さん厳選 ザ・ビートルズベスト10
曲名、英国での発売年
解説
1位 ジス・ボーイ(This Boy) 1963年
イントロのストロークはジョンのギブソンJ-160E、ブリッジ寄りに弾く硬い音が最高。当時このような素晴らしいハーモニーで歌えるロックグループは皆無だっただけに熱狂したよ
2位 マザー・ネイチャーズ・サン(Mother Nature's Son) 68年
歌詞とメロディーの美しさが絶品。ポールのツーフィンガー奏法も泣けた。マーティンD-28は高根の花だった。僕らのギターであの音は出ず、憧れの曲でした
3位 アイ・ウィル(I will) 68年
完璧なメロディーを作り後から歌詞をつけるという手順はポールのお得意。ポールがスキャットでベース音を口まねし、おしゃれ。マーティンD-28の弾き語りでコード演奏だけで十分聴かせる
4位 シーズ・リーヴィング・ホーム(She's Leaving Home) 67年
新聞に載った家出少女の話がテーマ。親と若者の価値観のギャップが美しいメロディーで歌われる。家を出るときの少女の様子、両親の狼狽と描写力がピカ一
5位 サムシング(Something) 69年
ジョージの最高傑作。妻パティのことを歌ったもので、レイ・チャールズが歌っているのを想像して書いたという。この曲と「ヒア・カムズ・ザ・サン」でジョージはジョンやポールと肩を並べる評価を得るようになった
6位 ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット(Do You Want To Know A Secret) 63年
ディズニー「白雪姫」の挿入歌「私の願い」をイメージしてジョンが作ったが、完成すると歌はジョージにふさわしいと譲った。ポールが自由に弾きまくるベースは最高だよ
7位 ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア(Here,There And Everywhere)66年
恋人との永遠の愛を歌ったポールのラブソング。録音時、テープスピードを落とし、再生するときには回転を早めて、女性的な声の響きを作り上げた
8位 イン・マイ・ライフ(In My Life)65年
ジョンとポールが故郷リバプールを思いながら書いた。昔からよく知っていた場所や友人を回想する詞。落ち着いたギターサウンドに。しかし、ジョンとポールがどの部分を作ったか、それぞれの意見が食い違う
9位 アイル・フォロー・ザ・サン(I'll Follow The Sun) 64年
ポールが10代のころ、風邪で寝込んだある日、ギターを持って居間に立ち、レースのカーテン越しに窓の外を眺めて作ったらしい。その感性たるや……。演奏すると難しい曲だ
10位 ビコーズ(Because) 69年
ベートーベンの「月光」ソナタをヒントにジョンが作った。コーラスを効果的にするためジョン、ポール、ジョージが3声を重ねて9声にするアイデアが生まれた
参考
ザ・ビートルズ全曲バイブル(日経BP社)
Profiling! THE BEATLES SOUNDS(幻冬舎ルネッサンス)
MUSIC LIFE ザ・ビートルズ日本公演1966(シンコーミュージック・エンタテイメント)
ザ・ビートルズ・サウンド最後の真実(白夜書房)
THE BEST OF THE BEATLES BOOK(リットーミュージック)
「あまりにも自分好みなので、ファンからすれば、『なんで、そこにいくのよ』って反逆児みたいにいわれてしまうかなとも思ったのですが、結局僕が好きなのはバラード。僕がロマンチストだからなのかもしれないね(笑)」
――耳慣れた曲とは違い、発見がありました。
「1位に選んだ『ジス・ボーイ』は日本でのデビューシングル『抱きしめたい』のB面。とにかく大好きで、このシングルはB面を聞く方が断然、多かったの。ギターとハモりがいいんですよ。こんなにかっこいい曲の入りかたはない。2位の『マザー・ネイチャーズ・サン』は音楽が高尚で普通のミュージシャンはこんなの書けないよ、おしゃれでさ。3位の『アイ・ウィル』は何よりもメロディーが最高で終わり方もすてきです(ベスト3の解説は動画参照)」
――ビートルズの曲は歌詞やタイトルが印象的です。
「4位の『シーズ・リーヴィング・ホーム』は、水曜日の朝は5時に始まるっていう、どうってことない歌詞だったりするけど、好きですね。1位にしてもいいくらい。これは新聞に載っていた家出少女の話がテーマで、親の世代と若者の価値観のギャップが美しいメロディーにのせて歌われる。家を出るときの少女の様子、両親の狼狽(ろうばい)ぶり。描写力はピカ一でしょうね」
――オリジナル曲はメンバー自身が作詞作曲しています。
「そう、最も多いのはジョンとポールの共作でレノン=マッカートニーのクレジットだけど、5位に入れた『サムシング』はジョージの最高傑作。『ホワイトアルバム』の終盤に誰もいない第1スタジオでピアノを使って書いたといいます。リンゴのタムを多用したダイナミックなドラムス、ポールの自由でメロディアスなベース、ジョージのギブソンレスポールと思われるサイドギター。楽器のまとまりも出色でしょう」
「僕が選んだ曲はメロディーがよくて、構成がとても考えられていて、イントロも間奏もエンディングもそれぞれがとってもよくできていて、この時代にどうしてこういう曲ができたの?って感動した曲ばかりです。当時の他のバラードってメロディーがきれいなだけ。ビートルズは途中で1音上げてみるとか、音の作り方がものすごくいいんです。一人ひとりの楽器を調べたらうまい人はほかにもいるだろうけど、4人まとまっての音作りが実に巧妙で、斬新。マネジャーのブライアン・エプスタインがすごかったんだろうね」
――歌うのも難しいですか。
「ビートルズファンにベスト10を選んでください、なんて無謀な質問」と言いながら、全曲を聞き直してランキングを作ってくれた小倉智昭さん(東京・六本木のライブハウス「アビーロード」)
「9位の『アイル・フォロー・ザ・サン』は大学1年生で500人くらい集めてバンドでライブをやったときにベースを弾きながら歌ったんです。音をとるのが難しい曲で、今でも歌えないんじゃないか(と、ちょっと口ずさんでみる)。ビートルズの歌は低く歌うとビートルズではなくなってしまうんだよね」
「今もビートルズは本当によく聞きます。ここ(取材場所であるライブハウス『アビーロード』)にもよく来ますし。僕はレコードもCDもすべて、それぞれ2~3枚ずつ持っているくらい。レコードは聞き倒してすり減ってしまい、音がガチャガチャになっているものもありますから。ビートルズは今聞いても驚愕(きょうがく)のサウンド。いつまでも色あせないし、いまだに聞いていると涙が出てくるもの。アーティストのレベルが上がり演奏や歌がどんなにうまくなっても、ビートルズを超えられないのではと思っています」
おぐら・ともあき 1947年秋田生まれ。独協大仏語学科卒、71年日本科学技術振興財団テレビ事業本部(現テレビ東京)入社。77年にフリーとなり「世界まるごとHOWマッチ」のナレーションが話題に。現「とくダネ!」(フジテレビ)キャスター。
ザ・ビートルズ(ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター)来日公演 1966年6月30日~7月2日、日本武道館(東京・千代田)で昼夜5回にわたって開かれ、約5万人の観客が詰めかけた。武道館初のロック・コンサートとなる。世界ツアーはドイツから始まり日本は2番目。日本公演の後はフィリピンへ向かった。
※9月22日、ライブドキュメンタリー「ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK」(配給 KADOKAWA 提供 KADOKAWA、テレビ東京、BSジャパン)が全国公開。貴重な1960年代のライブ映像がリマスターされている。
「小倉智昭のザ・ビートルズとっておき」は9月26日(月)から29日(木)まで4回シリーズで公開します。
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO07425080Q6A920C1000000/
《 Single"Love me Do"から"Please Please Me"へ 》
1962(昭和37)年10月02日(火)に発表された「Love me Do」は、ブライアン・エプスタインにとって、そしてビートルズにとっては絶対にヒットさせなければならない曲で、彼はその為にあらゆることを考え、熱心に曲を紹介ます。彼の謙虚なところは「ビートルズはあくまでも自然な勢いで世間に知られて欲しい。この曲も同様で売り込むつもりは無い!」と明言し、「激しい売り込み」を否定する発言です。「Love Me Do」は大企業のロンドンのEMI社から発売されたと云うだけあり、全国に注目を浴びることとなります。「Love Me Do」と云う曲は、世間のイメージでは「かなり風変わりな曲」と言われることが多い中、発売当初のイギリスのヒットチャートでの記録は最高17位まで達しますが、大ヒットと云う訳には行きません。
1962(昭和37)年10月24日(水)の全国チャートでは48位となり少しずつ人々に浸透して行きます。ビルボード(Billboard)誌では、
1964(昭和39)年05月30日(土)に週間ランキング第1位を獲得、ビルボード誌1964年年間ランキングでは第14位、「キャッシュボックス」誌でも最高位第1位を獲得し、1964年度年間ランキングでは13位、アメリカでは100万枚以上のセールスを記録します。イギリスでは、デビュー20周年を記念して1982年に再発された時は最高位第4位となり最終的にはトータルで30万枚以上のセールスを記録することになります。このシングルはオリジナル盤・リイシュー盤ともに、パーロフォンの赤ラベルと黒ラベルが存在しており、オリジナル盤の方はいずれも希少価値の高いレコードで、特に黒ラベルは入手困難であり、ビートルズコレクターの間では人気アイテムとなります。しかし、ブライアンの回りは彼への心配が募り、忠告される日々を迎えます。「あんな若者たちと関わり続けると大変なことになる!」「音楽業界の連中など信じるな!」彼の両親に至っては「ビートルズがエルヴィス・プレスリーよりもビッグになるなんて信じられない!」と告げ、彼の将来を案じます。これらは、至極当たり前の接し方には違いありません。ジョージ・マーティンにもまた別の「やらなければならないこと」が存在し、それは、「マーティン自らが評価し、契約したリバプールの若者達が、間違いなく素晴らしかったと云うことの証明」です。それは言いかえれば、デビュー曲「Love Me Do」で注目を浴びたからには、次は彼らに大ヒット曲を与えなければならないと云う使命です。ビートルズにとって、「ジョージ・マーティンとの出会い」は必然ではあるものの「幸運」と云う言葉が適切でしょう。何も考えずに行動している者同士では、「普通」こうは行かないはずです。そして、ジョージ・マーティンは、ファースト・スングル「Love me Do」に続き、セカンド・シングルの候補を挙げます。マーティンは、一度封印した「How Do You Do It」を提案しますが、ビートルズはマーティンが用意したこの曲にまたも難色を示し、対抗曲として「Please Please Me」と云うオリジナル曲を提案します。今ならば多くの人が「なるほどあの曲ならば、ヒット間違いなしだ!」と納得されるでしょうが、ジョンが作ったこの曲はこの時まったくと云って使い物にならない作品で、マーティンはこの曲に違和感を覚えます。ジョージ・マーティンは語ります、「ビング・クロスビーの「Please」と云う古い曲からタイトルを引用した云う『Please Please me』を初めて聴いた時、ジョンはロイ・オービソン風のファルセット唱法で歌った。スローで、もても悲しげで、全く売れそうもなかったと感じた」。しかし、ジョージ・マーティン・マジックここから始ります。マーティンは「このままの曲調では使えないが、リズムをアレンジし、テンポを上げればヒットする可能性はある」と提案し、彼らも受け入れます。「Please Please me」はこうした経緯により、今私たちの前に現れることになります。
1962(昭和37)年11月26日(月)、ビートルズはEMIスタジオ(通称:アビーロード第2スタジオ)で「Please Please Me / Ask Me Why」を録音をすることになるのですが、その前にこの曲の注目すべき点を少し書かせて頂きます。この曲をモニターヘッドホンなどで聴いて頂くとよく分かるとは思いますが、ベースとヴォーカルそしてコーラスが結構複雑な構成で仕上げられています。演奏全体の印象としてジョンの素晴らしいハーモニカが目立ち、ギターの音が聴き取りにくい感じに仕上がっています。ここで注目べきはポールのベースとジョージのギターで、「Come on」のコードA ⇒ F#m ⇒ C#m ⇒ A のところでは、ジョージが意図的に「Come on」に合わせ BとC#を弾き、ポールのベースが3回目のC#mのところでは、主音と5度の音をひっくり返し G# ⇒ C# と弾いていることです。これはビートルズの音創りが当たり前でない証拠で、簡単ではありますが、工夫を凝らしています。エンディングの E ⇒ G ⇒ C ⇒ B ⇒ E と云うコードも曲の終わりを意識させる音創りの奥深さが感じられます。そしてボーカルでは、曲の冒頭の「Last night I said these words to my girl」と云う個所のメロをポールはEの音だけで歌い、ジョンはそのEの音から D# ⇒ C# ⇒ B と移って行き、ポールの少し揺れながらの声とジョンの安定した声がマッチし、素晴らしいハーモニーを作り出しています。また、3部にコーラスになる部分でもジョンとポールの高低音パートが入れ替わり、その下をジョージがコーラスをつけています。このように3人同時に歌う個所では互いが意識してトーンを近づけている感が強く、完全に一つの固まりでスピーカー(ヘッドホン)から飛び出てきます。デュエットになるエンディング「Please please me, who, yeah, like I please you…」の部分も「please」と「you」の高低音がジョンとポールで入れ替わります。この複雑な入れ替わりハーモニーと3部コーラスは、ビートルズの大きな特徴で、後に発表される「From me To You」や「I Wont Horld Your Hand」などでも多用されることとなります。サビのところのジョンのボーカルの合間に「In my heart」とバックが入りますが、これもこの曲で重要な雰囲気作りの個所で、マーティンのアイデアかもしれません。(ビートルズ大研究から引用)
1962(昭和37)年11月26日(月)、ビートルズはロンドンのセント・ジョンズ・ウッド・アビー・ロード3番にあるEMIスタジオ(通称:アビーロード第2スタジオ)での3時間のレコーディング・セッションを行い、セカンド・シングル「Please Please Me / Ask Me Why」の録音を開始します。1時間のリハーサルが用意されていたため、ビートルズは午後6時にスタジオに姿を現します。そして、午後7時、「Please Please Me」のレコーディングが開始されます。まずは、あの印象的なハーモニカ抜きで録音されます。それは、この曲は歌いながらハーモニカを吹くことができる構成ではないからで、そのパートはその日オ-バーダブされます。ハーモニカの編集用を含め『Pleas Pleas me』は18テイク録音されます。レコーディングが終了すると、ジョージ・マーティンはトーク・バックを使いこう叫びます、「初のナンバー1ヒット曲、間違いなしだ!」。「Please Please Me」収録後、ビートルズはB面「Ask Me Why」のレコーディングに開始します。この曲は、6テイクを録り、これにてこの2曲は完成に至ります。マーティンは放った「初のナンバー1ヒット曲、間違いなしだ!」と云う言葉の奥には、マーティンの想いと予感が多分にあったのでしょう。
1962(昭和37)年10月30日(火)、「Please Please me / Ask Me Why」のリミックス作業は行われます。この日はまず「Please Please Me」がミックス・ダウンされ、そのモノラルミックスはシングル盤とアルバム「Please Please Me」の両方に収録、その後「Ask Me Why」の第6テイクがモノラルにミックス・ダウンされます。この作業の開始・終了時間は記録に無く、またビートルズは、昼はキャバーン・クラブのランチタイムショーに出演し、夜はニュートン=ル=ウィローズのタウン・ホールに出演していたため、この場にはおらず、リミックス作業に参加するようになるのは、ずっと後の話になります。このシングルは
1963(昭和38)年01月11日(金)に英国で発売されますが、メロディ・メーカー紙、NME紙、ディスク紙では確かに発売6週間でNo.1を獲得します。しかし、、ニュー・レコード・ミラー紙 (New Record Mirror) が指標としていたレコード小売店チャートでは2位どまりとなり、正真正銘のNo.1をビートルズが獲得するのは「From Me To You」以降となります。ジョージ・マーティンは語ります、
「自分が高く評価したビートルズは、E.M.I.では評価されなかった。ビートルズとEMIの契約に関しては、トップも批判的で、保守的な考え方の持ち主である宣伝部長も『マーティンは「今まで見たことのない可能性を秘めているグループ」だと言うが、ビートルズには何の将来性も見い出せない!』と言う始末だった。」。ビートルズのデビュー曲「Love Me Do」は、E.M.I.としてヒットさせようという努力がなされず、放置とも云える状態になります。いつの世も、グループやレコードをヒットさせるためには、当然、大変な企業努力が必要であり、全国的に宣伝するには、かなりの出費を覚悟せねばなりません。当時の宣伝部長はあまりにも保守的過ぎて、その決断ができなかったと云うことです。「Love Me Do」がごく限定されたラジオでのオン・エアしかされなかったのは、このような背景があったせいだと推測されます。ブライアン・エプスタインは、ほとんど宣伝しようともしないE.M.I.に失望し、マーティンに相談します、
「ビートルズの次の曲は出版社に話を持ちかけて、そこで宣伝してもらうようにしたい」。E.M.I.の宣伝部門が殆ど動いていなことの知ってたマーティンは、冷静かつ積極的にアドバイスします、「ブライアン、僕はアメリカの会社よりもイギリスの会社の方がいいと思うよ。出来れば、とてもハングリーな人間がベストだ。ビートルズや君のために一生懸命やってくれる会社を探すんだよ。」。エプスタインはマーティンに告げます、
「僕はエルヴス・プレスリーの曲を出版している“ヒル&レンジ社”との契約を考えいる。あなたはどう思いますか?」、それを聞いたマーティンは、「ヒル&レンジは、君達がいなくても全然困らない。彼らにはエルヴィス・プレスリーがいるから、君達はきっと重要視されないと思うよ」とブライアンに再びアドバイスします。エプスタインは、ヒル&レンジ社の他にこれと云う会社に心当たりが無く、ここでもジョージ・マーティン相談するとことになります。エプスタインは語ります、
「これまで事あるごとに僕たちに幸運をもたらしてくれたジョージ・マーティンに話しを聞いてもらうしかなかった。彼はアメリカの出版社の人間とイギリスの出版社二人、計三人を紹介してくれた。」。そして、マーティンの紹介で、イギリス資本の出版社を経営する“ディック・ジェイム”に話を持ちかけることとなります。ディック・ジェイムズは、マーティンととても親しい間柄で、ビートルズのデビューにふさわしい曲をマーティンが探している時、「How Do You Do It」を提供してくれた人物であり、マーティンのプロデュースの下、歌手活動の経験も積んだ人物で、テレビドラマの主題歌をヒットさせことも多々あり、二人は強い信頼関係で結ばれていたのです。ディック・ジェイムズは語ります、
「ジョージ・マーティン氏がその依頼で僕に電話してきた。尊敬する彼が選んだグループなので、素晴らしいことは間違いないはず、使用できたよ。」。この時、エプスタインも独自で動いており、EMI傘下の子会社の出版社の幹部と会う約束を取り付けますが、約束の時間にその会社を訪れた彼を、担当者は30分近く待たせます。エプスタインは語ります、
「約束を守れない人間ではダメだと判断し、その会社の秘書にその旨を伝え、その足でディック・ジェイムズの会社に向かった」。
★マーティンとブライアンの間に居るのが「ディック・ジェイムズ」です。ディック・ジェイムズの会社に向かったブライアンは、彼のオフィスに、約束の時間より随分早く着いてしまいます。ブライアンは受付の女性に、
「ここで待たせて頂けますか」と告げると、彼女はジェイムズに連絡し、ジェイムズは待っていましたとばかりにオフィスから現われ、ブライアンを笑顔で迎えます。ディック・ジェイムズは、マーティンの云うところの「まさにハングリーな心情で、ブライアン、そしてビートルズのために全力を注いでくれる存在」だったようで、歌手としてそれなりのヒット曲も出した過去もあり、曲を作り上げる仕事にも係わりそこでもヒット曲を生み出し、約1年前に現役を引退し、出版社として独立したばかりの44歳の彼へのオファーはチャンスとも云える出来事だったのです。ディック・ジェームズは語ります、
「あの時、すぐに、出来たばかりのシングルレコード『Please Pleas me』を聴かせてくれとブラインに告げたんだよ、聴き終えた僕は感動したね。これは行けると思ったよ。」。彼もまた、ヒット曲を見い出す才能に長けた男だったと云うことです。この時、ジェイムズは思いがけない行動をとります。エプスタインが長期契約の話を持ちかけた時、「please please Me」が間違いなくナンバーワンになると信じたジェイムズはその場で歌手だった頃の友人関係や各方面に電話をかけ始めます。エプスタインはじっと見守ります。ジェイムズはフィリップ・ジョーンズと云うテレビ番組のプロデューサーに電話し、頼みごとをします、「リバプール出身の素晴らしいグループがいる。彼らを土曜のショーに出演させてくれないか」。しかし、一流のプロデューサーであるジョーンズはこう返答します、
「如何に友人と云えど、自分で彼らの実力を確認するまでは、予定を変更してまで特別に出演させるわけにはいかない」。しかし、それで引き下がるジェイムズではありません。彼は、「Please Please Me」を電話を通して聴かせると云う行動に出ます。これは、如何に彼が「Please Please Me」に感激したかを物語ります。曲を聴き終えた友人ジョーンズは即答します、
「とても素晴らしいサウンドだ。合格だよ!今週の土曜のショーに出演させよう!」電話を終えたジェイムズはブライアンに伝えます、
「彼らの土曜の予定はどうなっている?空いているか確認して欲しい。テレビに出られるんだ!」そしてビートルズにジョーンズが担当する全国ネット人気番組「サンク・ユア・ラッキー・スターズ」の
1963(昭和38)年01月13日(日)の出演予約が入ることとなります。そして、周りの人を巻き込む奇跡がとうとう起こり始めます。
1963(昭和38)年01月13日(日)の人気TV音楽番組『サンク・ユア・ラッキー・スターズ』への出演は、ビートルズにとってこれまででもっとも重要なことだと云えるしょう。『サンク・ユア・ラッキー・スターズ』とは、ABCテレビがTVネットワークのために制作し、ミッドランドと北イングランドのエリアで放送され、撮影収録にはABCとATVの共同所有のバーミンガム・アストンにある「アルファ・スタジオを使い、ミッドランドでは平日に、ロンドンでは週末に放映される番組です。この日ビートルズはその「アルファ・テレビジョン・スタジオ」で演奏、収録します。当時の『サンク・ユア・ラッキー・スターズでは、通常出演者はスタジオの観衆を前にレコードに合わせてリップシンク (くちパク)するのが恒例で、1961年4月から出演している多くのミュージシャン同様、7組の出演者リストの最後の出演リストに書かれたビートルズも「Please Please Me」をリップシンクし、この時の収録は6日後の
1963(昭和38)年01月19日(土)にオンエアされます。番組での彼らの登場部分は前半最後で、CMの直前と云う記録が残っています。当時『サンク・ユア・ラッキー・スターズ』は非常に人気の高い番組で、前述通りビートルズが出演できたことは、大事件とも云え、また、彼らの出演を演出したディック・ジェームスは、ビートルズの曲を管理するようになってから巨万の富を蓄積することとなり、彼にとっても一大事件だと云うでしょう。そして、このTV出演が起爆剤となりビートルズの快進撃は始まります。下記写真は、
1962(昭和37)年09月下旬の水曜日、
1962(昭和37)年09月19日(水)、
‡1962(昭和37)年09月26日(水)、リヴァプール埠頭周辺の倉庫にて、写真家レス・チャドウィックによって撮影されたものです。そしてついに、
1963(昭和38)年02月07日(木)、ビートルズは待望のセカンド・シングル「Please Please Me / Ask me Why」をリリースします。この曲の販売権のオファーを受けていたE.M.I.のアメリカ・レーベルである「Capitpl Record」は突然その権利を辞退することをE.M.I.に申し出ます。その後販売権は、国外のマスターをアメリカのレコード・レーベルに移すことを業務にしているE.M.I.系列子会社「Transglobal」に委託され、「Transglobal」は、「Atlantic」にオファーをするも受けてもらえず、最終的に「Vee-Jay」がアメリカでの販売を引き受けることになります。これが、アメリカでのデビュー・シングルとなり、イギリスでは
1963(昭和38)年02月25日(月)、日本では
1963(昭和38)年03月04日(月)のリリースとなります。面白いことに、最初のプレスでは「The Beattles」と記載されます。このシングルはイギリスのレコード・リテイラー、ミュージック・ウィークでは最高2位、メロディー・メイカーで2週連続1位、ニュー・ミュージカル・エクスプレスで3週第2位、イギリスでは35万枚のセールス記録、アメリカのビルボード(Billborad)誌では、
1964(昭和39)年03月14日(木)に、週間ランキング最高位の第3位を獲得し、ビルボード誌1964年年間ランキングでは第36位、『キャッシュボックス』誌でも最高3位を記録し、年間ランキング37位を獲得します。尚、B面には、イギリスでは3枚目のシングルとなった「フロム・ミー・トゥ・ユー」が収録され、アメリカでは100万枚以上のセールスを記録ます。イギリス本国でのシングル盤はオリジナル盤・リイシュー盤ともに、パーロフォンの赤ラベルと黒ラベルが存在しており、オリジナル盤はいずれも希少価値の高く、特に赤ラベルのほうが入手困難であり、ビートルズ・コレクターの間では人気アイテムとなります。作曲クレジットは前作のLennon-McCartneyからMcCartney-Lennonに変更された。この表記はアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』を挟み次作シングル「フロム・ミー・トゥ・ユー」まで使用されることとなります。
<ポールが語る" Lennon=McCartney"の曲作りについて>ビートルズのオリジナル曲の8割は作曲者が「レノン=マッカートニー(Lennon=McCartney)」とクレジット(Credit)されています。ジョンとポールが作曲を始めたのはまだ学生だった10代の頃で、二人は良く学校をさぼりポールに家に行き、曲のアイデアを次々とノートに書き留めて行きます。
「レノン=マッカートニー(Lennon=McCartney)」と題されたそのノートは、現在ポールが所有しています。アメリカのソングライターチーム、「ゴフィン=キング(Goffin=King)(ジェリー・ゴフィン=キャロル・キング)」に憧れた二人は、純粋に二人で共作した曲も、片方がメインでもう片方が手伝った曲も、どちらか一方が書いた曲も、全て「レノン=マッカートニー(Lennon=McCartney)」で発表しようと約束します。この取り決めは1970年のビートルズ解散まで貫かれ、1969年のジョンのソロ「平和を我等に(Give Peace a Chance)」にまで適用されます。興味深いことに、デビュー直前の一時期に限って「マッカートニー=レノン(McCartney=Lennon)」と云うクレジットが使われており、確かな理由や経緯は明らかにされていませんが、1963年7月のシングル「シー・ラヴズ・ユー(She Loves You)」以降は順序が決められ、ジョンの名前が先に来るようになります。ポールは語ります、
「僕とジョンは学校をさぼって、良く僕の家でギターを掻き鳴らしていた。父は働きに出ていたからここが一番いい場所なんだ。パイプに紅茶を詰め込んで吸ったこともある。味は良くなかったけど、大人の気分を味わっていたんだ。二人でアコースティック・ギターを持って、向かい合って吸った。曲を作ろうと自分の心を見つめる代わりに、目の前でプレイするジョンを見ている。まるで自分自身を映す鏡を見てるかのような、最高の時間だった。僕らは一緒に曲を作った。僕がノートに書きつけたタイトルはいつも『アナザー・レノン=マッカートニー・オリジナル(ANOTHER LENNON = MCCARTNEY ORIGINAL)』だった。次のページも『アナザー・レノン=マッカートニー・オリジナル』なんだ。ノートには歌詞とコード・ネームをメモしてるだけだ。カセットテープなんかまだなかったし、グランディグ社のテープレコーダーなんか買う金もなかった。だからメロディは頭に入れておかなければならない。バック・コーラスのところには"oh-"と云う印を付けた。他に書き方を知らなかったんだ。テープレコーダーを持っている友達がいたけど、僕らは録音することはほとんどなかった。まだ僕らが自分たちの曲に入れ込んでなかったせいもあるけど、ジョンと僕の間に、自分たちが覚えられないような曲を他の人が聴いて覚えられるわけがないと云う暗黙の了解があったからなんだ。」。(書籍『Beatles Gear』抜粋参照)
https://beatles-in-ashtray.jimdofree.com/1962-%E5%BE%8C%E5%8D%8A-08-16-11-26/