┏━━━━━━━━━━━━┓
┃Karl Gotch カール・ゴッチ┃
┗━━━━━━━━━━━━┛
‡1924(昭和九)年08月03日(日) 生 誕
2007(平成19)年07月28日(土) 82歳没
https://ja.wikipedia.org/wiki/カール・ゴッチ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
カール・ゴッチとダニー・ホッジとではどちらが強いですか?
2017(平成29)年04月09日(日) 19:34
2017(平成29)年04月09日(日) 19:36 ベストアンサー rewens2659さん
ダニー・ホッジがレスラー仲間から恐れられたのは、反則ながら時折見せる強烈なパンチ攻撃と、キレたら何をしでかすかわからない無鉄砲な性格からでした。ホッジはプロレス入りする前は、レスリングの選手として鳴らし、1956年にはメルボルン・オリンピックのレスリング競技にアメリカ代表として参加し、ミドル級で銀メダルを獲得しています。しかし、オリンピックを終えてアメリカに帰国してから、なんとプロボクシングの選手としてリングに上がり、1年半にわたって活躍し、ライトヘビー級で17戦し11K.Oの記録を残したのです。ホッジのボクシングには、先ほど紹介したキレたら何をしでかすかわからないという自身の性格が影響していました。それはホッジが大学生の時分まで遡ります。ホッジの所属していたレスリング部の選手とボクシング部の生徒が喧嘩になってしまったため、ホッジが仲裁に乗り出したのですが、あるボクシング部員がホッジを怒らせてしまい、ホッジが怒り狂って、こともあろうに当時のボクシング部のエース選手の腕を折ってしまったのです。あとで冷静になってから、そのことを反省したホッジが罪滅ぼしのためにボクシングの練習に加わり、自分が怪我をさせてしまった選手の代わりに競技に参加するようになりました。ところが、もともと抜群の運動神経をホッジは誇っていたために何なくボクシングのテクニックをマスターしてしまい、ボクシングでも一流の選手に名を連ねるまでになったのです。
このようなホッジの性格でしたから、対戦した選手は大いに気を使いました。特に、打撃や顔面への攻撃には細心の注意をはらっていたそうです。あのルー・テーズですら、試合中にホッジの様子がおかしくなってきたのがわかると自らリング外に出て、ホッジが冷静になるまで決して戻らなかったそうです。また、NWA世界Jr.ヘビー級タイトルを賭けて長年に渡りライバルとしてしのぎを削ったヒロ・マツダさんも、試合中は絶えずホッジの目の動きを気にしていたそうです。マツダさんが言うには、キレそうになると目が据わってくるらしく、そうなってしまった時は、テーズ同様リング外に逃げて時間稼ぎを試みたそうです。
このように述べると、ホッジは喧嘩屋の印象を持たれがちですが、プロレスにおいては派手な投げ技や立ち技は使わず、アームロックやヘッドロックなどの基本技を大切に、小技からじっくりと大技につなぐという形に試合を組み立てる正統派のテクニシャンタイプでした。また、その体格からは考えられないほどの怪力と握力の持ち主だったため、相手を押さえ込む力や締め上げる力が非常に強く、一度技を決められてしまった場合はほとんど脱出不可能でした。それに加えて、パンチ攻撃とキレやすい性格でしたから、強さと言ったら並のものではなかったように思います。それなので、ゴッチとの対戦は非常に興味深いものがあったように思います。ゴッチも、ホッジほどではありませんが、気の短いのには定評があり、また喧嘩早さでも名前が通っていまし、それぞれが持っていたプロレスのテクニックも似ているようなところがありましたから、なかなか面白い試合になったのではないでしょうか。展開としては、寝技中心のあまり動きの活発なものにはならないでしょうが、それだけに技の一つ一つに力が入って、緊迫したものになったと思います。また、仮にホッジがキレたとしてもゴッチならそのまま受け流して自分の攻めを続けていったかもしれません。ですから、最終的にどのような形で決着が着いたかといえば、プロレス流なら一瞬の隙を突いての返し技でピン・フォールというものになったような気がします。このふたりの性格から考えて、技を決められてもう逃れられないような場合でも、決してギブアップはしなかったと思います。ギブアップするくらいなら、腕か足でも折られても構わないと考えそうな感じです。また、展開によってはお互いのキレやすい、喧嘩早い性格が顔を出して、正統派テクニシャン同士の試合とは思えないような、凄惨な内容にも変化したとも想像できます。このふたりに限っては、まったく実力的に互角のように思えて、どちらが強いのか、結果を出すのが非常に難しいです。しかし、あえていうならば、ボクシングのテクニックのあるホッジのほうが、ゴッチよりはもしかしたら強いかな…という気はしないでもないですね。しかし、きっぱりと断言出来ないところがまことに残念です。 3人がナイス!しています
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13172796778
伝説的プロレスラーのハーリー・レイスさん死去…馬場、猪木、ジャンボ鶴田らと激闘
†2019(令和元)年08月03日(土) 6時0分スポーツ報知 # 格闘技
今年6月のイベントで武藤敬司(右)と握手(武藤敬司提供)
米国の伝説的プロレスラー、ハーリー・レイスさんが
2019(令和元)年08月01日(木)に肺がんによる合併症のため亡くなったことが2日、分かった。76歳だった。日本では「美獣」の愛称で全日本プロレスを主戦場に活躍。米国では「ミスタープロレス」「キング」と称され、1973~84年に当時世界最高峰だったNWA世界ヘビー級王座を8度獲得。94年にはWCW殿堂、2004年にはWWE殿堂入りを果たすなど、多くの人に愛された。全日本プロレスなどでジャイアント馬場さん(享年61)らと激闘を繰り広げたレイスさんが亡くなった。公式ツイッターなどが伝えた。地元メディアによると、ミズーリ州の病院で家族や友人に最期をみとられたという。晩年にたびたび登場していたプロレス団体WWEは「心よりご冥福をお祈りいたします」と死去を報告した。レイスさんは米団体NWA、AWAなどで活躍。73年5月にドリー・ファンク・ジュニア(78)を破り、当時世界最高権威だったNWA世界ヘビー級王座を奪取した。「ハンサム」「ミスターNWA」「ミスタープロレス」などの異名を持ち、以後84年まで8度にわたり同王座を獲得した。日本には68年2月に日本プロレスで初来日。馬場さんとアントニオ猪木氏(76)の「BI砲」と対決した。72年10月に馬場さんが全日本プロレスを旗揚げすると、全日を主戦場に看板レスラーとして来日。得意技のダイビングヘッドバット、ブレーンバスターを引っさげ、馬場さん、ジャンボ鶴田さん(享年49)らと名勝負を連発した。たたずまいや端正な顔立ちから、ニックネームは「美獣」。強さと風格を持ち合わせ、日本のファンを熱狂させた。訃報を受け、リック・フレアー氏(70)、ハルク・ホーガン(65)、トリプルH(50)ら海外のレジェンドや、中邑真輔(39)ら日本のレスラーからもSNSでの追悼が相次いだ。武藤敬司(56)は
2019(令和元)年08月02日(金)にスポーツ報知の取材に応じ、死の直前に米国で面会していたことを告白。今年6月に行われたレジェンドレスラーのサイン会でレイスさんと椅子を並べたといい「その時はかなり体調が悪くて、車イス。亡くなったことを聞いて残念ですね。謹んでご冥福をお祈りいたします」としのんだ。武藤は、90年代にムタとしてWCWを席巻していた当時について「レイスさんはよく会場に遊びに来てて、日本人レスラーが好きだった」と回想。「常にスタンガンを持っててね。そのスタンガンで、よくオレらを追いかけ回して遊んでもらいましたよ」と素顔を振り返った。対戦した経験はないが「俺とかの一世代上のカリスマ。威厳があって風格があって古き良きアメリカのトップっていう印象ですよ」と敬意を込めた。
1943(昭和18)年04月11日(日)◆ハーリー・レイス 1943年4月11日、米ミズーリ州生まれ。15歳でサーカスに出演するプロレスラーとしてデビュー。73年5月にNWA世界ヘビー級王座を奪取。68年2月に日本プロレスで初来日。72年に全日本プロレスに主戦場を移し、ジャイアント馬場さんを破ってPWFヘビー級王座を獲得するなど活躍。95年に現役を引退。身長185センチ。
https://hochi.news/articles/20190802-OHT1T50283.html
米国は第3の原爆投下を計画していた
1945年の夏、米国は広島、長崎に続く準備を着々と進めていた
2020(令和二)年08月09日(日) 文=ALEX WELLERSTEIN/訳=ルーバー荒井ハンナ
‡1945(昭和20)年08月03日(金)「1945年8月3日以降」第20航空軍は最初の「特殊爆弾」を広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ投下せよ(これ以前の草稿では、これが優先順位であると明記されていた)。投下は(レーダーではなく)目視で行うこと。同行するのは観測用航空機数機に限ること。さらに「計画担当者による準備が整い次第、上記攻撃目標に追加の爆弾を投下するものとする」とある。初の4都市以外の目標については、改めて指示を出すとされていた。
それは、原爆を1個投下せよという命令ではなかった。準備さえ整えば、何個でも投下することを許可するという内容だった。
■1回目の投下■日本への空襲と原爆投下作戦の基地として使われたのは、北マリアナ諸島にある小さなテニアン島だった。日本が統治していたが、1944年夏に米軍が占領した後、島全土が基地化された。このテニアン島へ
1945(昭和20)年07月29日(日)、「リトルボーイ」と名付けられた原爆の部品が運び込まれ、最終的な組み立て作業が行われた。8月6日午前1時頃、リトルボーイはB-29爆撃機「エノラゲイ」に乗せられ、基地を飛び立った。この日、広島の上空には雲がほとんどなく、午前8時すぎに町が視界に入った。(参考記事:「原爆を運んだ米軍艦、撃沈から70年」)
8時15分、原爆が投下された。それは44秒間落下した後、TNT火薬およそ1万5000トンに匹敵する威力で爆発した。広島はほぼ一瞬にして炎に包まれ、破壊された。数分のうちに数万人が命を落とし、その後も原爆の影響でおよそ10万人が犠牲となった。エノラゲイは1万メートルの高度を1時間弱旋回して町を観測した後、テニアン島へ戻っていった。(参考記事:「あの日から75年 広島の記憶」)
写真◆広島へ投下された原爆「リトルボーイ」を乗せたB-29爆撃機「エノラゲイ」。(WORLD HISTORY ARCHIVE/ACI)
写真◆広島の焼け野原から回収された腕時計。原爆が投下された8時15分で針が止まっている。(SCIENCE SOURCE/BRIAN BRAKE/ALBUM)
■第2の攻撃■ポツダム会談からの帰り、船の中で原爆投下の報告を受けたトルーマンは大喜びし、「歴史上最も偉大なこと」とコメントした。ニュースはすぐに報道機関に公開され、日本向けのラジオ放送でも流された。
1945(昭和20)年08月06日(月)時点では、広島が受けた攻撃についてよく把握できていなかった日本軍は、科学調査団を現地へ派遣した。日本の原子物理学の第一人者だった仁科芳雄教授は
1945(昭和20)年08月08日(水)、広島から「倒れずに残っている建物はほぼ皆無」で、見たところ「いわゆる新型とされる爆弾は、原子爆弾である」と報告した。
⇒ 次ページ:同じ日、テニアン島では次の原子爆弾が
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/080700466/?P=2
米国は第3の原爆投下を計画していた
1945年の夏、米国は広島、長崎に続く準備を着々と進めていた
2020(令和二)年08月09日(日) 文=ALEX WELLERSTEIN/訳=ルーバー荒井ハンナ
‡1945(昭和20)年08月03日(金)「1945年8月3日以降」第20航空軍は最初の「特殊爆弾」を広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ投下せよ(これ以前の草稿では、これが優先順位であると明記されていた)。投下は(レーダーではなく)目視で行うこと。同行するのは観測用航空機数機に限ること。さらに「計画担当者による準備が整い次第、上記攻撃目標に追加の爆弾を投下するものとする」とある。初の4都市以外の目標については、改めて指示を出すとされていた。
それは、原爆を1個投下せよという命令ではなかった。準備さえ整えば、何個でも投下することを許可するという内容だった。
■1回目の投下■日本への空襲と原爆投下作戦の基地として使われたのは、北マリアナ諸島にある小さなテニアン島だった。日本が統治していたが、1944年夏に米軍が占領した後、島全土が基地化された。このテニアン島へ
1945(昭和20)年07月29日(日)、「リトルボーイ」と名付けられた原爆の部品が運び込まれ、最終的な組み立て作業が行われた。8月6日午前1時頃、リトルボーイはB-29爆撃機「エノラゲイ」に乗せられ、基地を飛び立った。この日、広島の上空には雲がほとんどなく、午前8時すぎに町が視界に入った。(参考記事:「原爆を運んだ米軍艦、撃沈から70年」)
8時15分、原爆が投下された。それは44秒間落下した後、TNT火薬およそ1万5000トンに匹敵する威力で爆発した。広島はほぼ一瞬にして炎に包まれ、破壊された。数分のうちに数万人が命を落とし、その後も原爆の影響でおよそ10万人が犠牲となった。エノラゲイは1万メートルの高度を1時間弱旋回して町を観測した後、テニアン島へ戻っていった。(参考記事:「あの日から75年 広島の記憶」)
写真◆広島へ投下された原爆「リトルボーイ」を乗せたB-29爆撃機「エノラゲイ」。(WORLD HISTORY ARCHIVE/ACI)
写真◆広島の焼け野原から回収された腕時計。原爆が投下された8時15分で針が止まっている。(SCIENCE SOURCE/BRIAN BRAKE/ALBUM)
■第2の攻撃■ポツダム会談からの帰り、船の中で原爆投下の報告を受けたトルーマンは大喜びし、「歴史上最も偉大なこと」とコメントした。ニュースはすぐに報道機関に公開され、日本向けのラジオ放送でも流された。
1945(昭和20)年08月06日(月)時点では、広島が受けた攻撃についてよく把握できていなかった日本軍は、科学調査団を現地へ派遣した。日本の原子物理学の第一人者だった仁科芳雄教授は
1945(昭和20)年08月08日(水)、広島から「倒れずに残っている建物はほぼ皆無」で、見たところ「いわゆる新型とされる爆弾は、原子爆弾である」と報告した。
⇒ 次ページ:同じ日、テニアン島では次の原子爆弾が
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/080700466/?P=2
原爆資料館が7日から休館 コロナで4度目、9月12日まで
‡2021(令和三)年08月03日(火) 17:56配信 毎日新聞
平和記念公園と原爆ドーム(奥)=本社ヘリから猪飼健史撮影
新型コロナウイルスの感染拡大を受け、広島市は7日から同市中区の原爆資料館を臨時休館することを決めた
2021(令和三)年09月12日(日)までの予定。コロナ禍による臨時休館は2020年春以降4回目。市によると、広島原爆の日の
2021(令和三)年08月06日(金)は県内外から多くの来館者があるため、周知期間も考慮して休館は7日からとした。平和記念式典が行われる6日までは入館可能。これまでに予約が入っている団体への被爆者体験講話などは7日以降も館内で実施される。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)も
2021(令和三)年08月07日(土)から休館となる【賀有勇】
◎バイキンマン 広島市以外はワクチン接種かなり進んでいるから、広島市以外もう自粛不要だと思いますけどね。廿日市とか東広島まで巻き込む県独自対策とか、明らかにこの2つの町に必要なら、いつまでも自粛になる。
◎jii 今日から休館しろよ!「8/6による県外からの来館者があるため」?それを止めろと言ってんだろ!!
◎ys 広島は8/6に固執しすぎ。カネになる、観光資源だからだよね。
◎il9 イイコトイッタ!・:*+.\(( °ω° ))/.:+
https://news.yahoo.co.jp/articles/342946b8b470b39fa62e532c7886058d808209d8
おまけの名作「カバヤ児童文庫」創刊 ⇒ カバヤ児童文庫は、「カバヤキャラメル」のキャンペーンの景品として登場しました。その第1巻第1号が出たのは
‡1952(昭和27)年08月03日(日)のことでした。カバヤ児童文庫の記念すべき第1号の題名は「シンデレラ姫」。ペローの作品、シンデレラ姫、森の中のねむりひめ、おやゆびこぞうの3つのお話が収められていました。以降、1954年の第12巻第15号まで、159冊が1週間に1冊のペースで発行され続けました。
カバヤ児童文庫が読める ⇒ 岡山県立図書館のご尽力によりカバヤ児童文庫全編がデジタル化されました。同センターのホームページで公開されており、インターネットを通じてどなたでも閲覧できます。下のリンク先から「カバヤ児童文庫」と入力し、検索してください。
デジタル岡山大百科http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/
https://www.kabaya.co.jp/about/history.html
┏━━━━━━━━━┓
┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
┗━━━━━━━━━┛
‡1979(昭和54)年08月03日(金) 千葉県君津市の寺からトラ2頭が脱走 ⇒ 千葉県君津市の神野寺で飼われていたトラ2頭が脱走した。うち1頭は脱走2日後に射殺されたが、あと1頭の捜索は難航。
1979(昭和54)年07月28日(土)、寺から約4キロ離れた民家の犬が食い殺されているのが発見され、山中の茂みの向こうにいたところを猟友会員が射殺した。
1979(昭和54)年08月04日(土) 写真は、トラ狩りで銃を手に集結する猟友会メンバー=4日【時事通信社】※2021(令和三)年記事追加
https://www.jiji.com/jc/daily?d=0803
‡2009(平成21)年08月03日(月) 日本初の裁判員裁判 ⇒ 日本初の裁判員裁判(東京都足立区の隣人殺害事件)の初公判が東京地裁で開かれた。同制度は、くじで裁判員に選ばれた国民が裁判官と一緒に重大事件の一審を審理し、有罪・無罪、量刑を決める。写真は東京地裁法廷。裁判員は身元特定を避けるため、撮影後に着席する【時事通信社】※2021(令和三)年説明削除
‡1927(昭和二)年08月03日(水) 第1回都市対抗野球大会が神宮球場で開幕
‡1960(昭和35)年08月03日(水) ニジェールがフランスから独立 ※2020(令和二)年記事削除
‡1962(昭和37)年08月03日(金) 日本初のテレビ情報誌『週刊TVガイド』創刊
https://www.jiji.com/jc/daily
┏━━━━━━━━┓
┃ 江夏の21球 ┃
┗━━━━━━━━┛
1979(昭和54)年11月04日(日) 広島vs近鉄 日本シリーズ第7戦
1980(昭和55)年04月XX日(?) 文藝春秋『Sports Graphic Number』創刊号掲載
1983(昭和58)年01月24日(月) スポーツドキュメント『江夏の21球』NHK総合放送
1999(平成11)年09月19日(日) 日本テレビ『知ってるつもり?!』「山際淳司・江夏の21球物語」
‡2006(平成18)年08月03日(木)『週刊ヤングサンデー』かわぐちかいじ読切漫画掲載
2010(平成22)年10月22日(金)『NHK特集 スポーツドキュメント 江夏の21球』
2018(平成30)年10月28日(日) NHK総合『あの日あの時あの番組』再放送。ゲスト:江夏 大野豊(NHKプロ野球解説者)
映像◆時の記録 NHK特集 選『江夏の21球』大阪球場 https://youtu.be/ETzd6CGt-ao
******************************************
https://ja.wikipedia.org/wiki/江夏の21球
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010278_00000
******************************************
┏━━━━━━━━━━━━━┓
①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
┗━━━━━━━━━━━━━┛
‡1973(昭和48)年08月03日(金) ノムさんが神様を抜いた日
‡2017(平成29)年08月03日(木) 11:45 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は8月3日だ。
写真◆この年、南海は野村監督の下、前期V(当時は2期制)。後期は優勝の阪急に1勝もできなかったが、プレーオフで勝利しリーグ優勝。死んだふり優勝とも言われた
打撃の神様、巨人・川上哲治の大記録が、この日、ついに抜かれた。1973年8月3日の太平洋戦(大阪)、南海の捕手兼任監督の野村克也が2回に太平洋の先発・三輪悟から二塁打を放ち、通算2352安打とした。これは、それまで川上が持っていた史上最多安打2351本を抜く新記録だ。
試合後、記者団に囲まれた野村は、うまそうに煙草を吸いながら「うれしいね。あとからの選手のためにも頑張って記録を伸ばすよ」と語った。
ただ、実は違う通算記録について、心中、穏やかではない時期でもあった。野村が史上最多記録を持っていた563本の通算本塁打記録である。
追うは、巨人の王貞治。この日も阪神戦(甲子園)でホームランを放ち、野村との差は、わずか2本となっていた。最終的には、この年、初の三冠王となる全盛期の33歳の王と、すでに38歳、明らかに力に陰りが見え、監督職の重責もあった野村。“王座交代”は時間の問題だった。
8月8日の大洋戦(川崎)で王が2本塁打を放ち、ついに野村と並ぶ。誰もが、このまま差が開いていくだろうと予感した。ただ一人、野村自身を除けば、だ。野村は「簡単に抜かれてたまるか。王が打つなら俺も打つ。600号は俺が先だ」と燃えた。
そこから8月中のホームランを追う。
10日、野村、王とも1本塁打。11日に野村が1本を放ち、リードするも12日に王が1本でまた並ぶ。15日、野村が1本も王は2本で1本差。それでも16日に野村が1本でまた並んだ。王は21日に1本で離すが、野村も23日に1本で並び、26日は両者1本ずつ。27日には王が1本で1本差、28日は両者1本ずつ、29日は野村が1本も王が2本で、ついに2本差、30日にも王はさらに1本を加え、3本差。だが、野村は最後まで闘志を燃やし続け、9月以降は王が11本に対し、野村も8本。まさに、老雄の意地を見せた球史に残るデッドヒートだった。
しかしながら翌年以降、野村は、グングンと差を引き離される。結局、600号は王に先を越され、野村の達成は75年の5月22日だった。ここで、あの有名な「俺は月見草」の名言が生まれたが、それはまた別の機会で触れることにしよう。
┏━━━━━━━━━━━━━┓
②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
┗━━━━━━━━━━━━━┛
‡1993(平成五)年08月03日(火) 来季の楽天GM? 石井一久の初勝利
‡2018(平成30)年08月03日(金) 8:55 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は8月3日だ。
写真◆プロ初勝利の石井を祝福する河村保彦投手コーチ
正式決定ではないのだろうが、先日、来季から楽天GMへの就任が一斉に報じられた石井一久氏。現在は吉本興業の社員だが、二足のわらじになるなら、それはそれでこの人らしい。
1993年、前年優勝を飾ったヤクルトだが序盤は5位と低迷。その後、スーパールーキー、伊藤智仁の大活躍もあって5月23日に首位に立つと、そのまま明け渡すことなく、連覇、さらに前年は届かなかった日本一も達成している。
同年8月3日は、阪神戦(甲子園)で石井がプロ初勝利を挙げた日だ。
石井は92年のドラフト1位選手。1年目は、レギュラーシーズンは12試合登板で未勝利ながら西武との日本シリーズで先発し、話題になった。
93年は7月28日の巨人戦(神宮)に先発も4失点でプロ初黒星。8月3日は、シーズン3試合目の先発で、雨による5回コールドながら5奪三振、1失点“完投”。ついに初白星を挙げた。
3回には無死満塁のピンチもあったが「腕が縮んでいるのが自分でも分かっていましたが、気持ちで負けないようにした」と切り抜けた。
入団時からその素質を高く評価していた野村克也監督も「石井らしい勝利や」とニヤリ。
ただ、石井は制球難にも苦しみ、同年3勝どまり。本格ブレークは少し先になる。
ちなみにいまは若手の初勝利は監督との握手写真が定番だが、石井は河村保彦投手コーチとの握手。当時はまだそんな慣例がなかったのか、はたまたノムさんが面倒くさがったのか。
┏━━━━━━━━━━━━━┓
③┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
┗━━━━━━━━━━━━━┛
‡1993(平成五)年08月03日(火) 石井一久が“タナボタ”のプロ初勝利!?
‡2019(令和元)年08月03日(土) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は1993年8月3日だ。
写真◆試合終了後、河村投手コーチ(右)から祝福を受け、うれしそうな表情を浮かべた石井
92年、東京学館浦安高からドラフト1位でヤクルトに入団した石井一久だが、1年目は12試合に登板して防御率4.19に終わり、白星を挙げることはできなかった。
迎えた2年目。7月28日の巨人戦(神宮)で初先発したが4回2/3を投げて4失点でKO負けしてプロ入り初黒星を喫していた。それでも河村保彦投手コーチは「負けがつくということは試合を任されている証拠」と成長を認めていた。
そして、8月3日の阪神戦(甲子園)だ。再び先発した石井は5回降雨コールドながら5三振を奪い、プロ初勝利。「腕が縮んでいるのが自分でも分かっていたけど、気持ちで負けないようにした」と3回無死満塁のピンチを切り抜け、念願の初白星を手にした。
入団時からその素質を高く評価していた野村克也監督もタナボタの勝利に「石井らしい勝利や」とニヤリ。久しく待ちかねた先発左腕投手の誕生に手ごたえを感じてっていた。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170803-10
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180802-05
③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190803-12
************************************************************
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.121 ┃ 30円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1960(昭和35)年8月03日(水)号 プロ野球巌流島の決戦をみて…五味康祐 特集 鶴岡戦法とスタンカのビーン・ボール
2018(平成30)年2月25日(日) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎『三原脩をくいとめろ!~優勝したらかなわんと恐怖する監督たち』
写真◆表紙は中日・森徹
今回は『1960年8月3日号』。定価は30円だ。
本文巻頭は『特別寄稿 プロ野球巌流島決戦を見て』。巨人─大洋戦を観戦した小説家・五味康祐の寄稿だ。大の巨人ファンだけに、いまの低迷が許せぬようで、水原茂監督を「あなたは、恥ずかしくないのか」と厳しく責めている。
続く特集は『三原脩をくいとめろ!~優勝したらかなわんと恐怖する監督たち』。混戦が続くセだが、ついに大洋が首位中日に1.5ゲーム差の2位となった(7月10日現在)。
ただ、弱者の戦法というのか、劣勢でやたらとタイムをかけるなど、相手心理を揺さぶる策略が多い三原監督に他球団の監督は、かなりいらいらしていたようだ。
パは南海、大毎の首位争いが熾烈を極めていた。『鶴岡戦法とスタンカのビーン・ボール』では、7月2日からの直接対決3連戦をレポート。争点となったのは、南海スタンカのビーン・ボールだ。第2戦に先発し、死球を含め、打者の頭部を狙ったかのような球が複数。大毎打者、西本幸雄監督も何度か審判にアピールしたが、認められなかったという。
スタンカの言い分は、「私は日本に来てから1球たりともビーン・ボールは投げていない。これは神に誓っていえる。ただ、投球術の一つとして打者の体の近くに投げ、つぎにアウトコースに投げるという方法は使っている」だった。
それだけではない。スタンカはこの試合で「スピットボール(球にツバをつけての投球。不規則な変化をすると言われる)」の抗議も受けたが、「単なるクセです。次から気をつけます」でおとがめなし。さらに球審のボールのジャッジに怒り、ホームベースを砂で隠しても、やはりおとがめなしだったらしい。読みながら「いくらなんでも審判は甘すぎる!」と、セの監督同様、イライラしてきた。
不振の東映は岩本義行監督が休養、保井浩一が代理監督となった。主将の毒島章一は「非常に残念だと思う。しかし、このことで選手の気持ちがバラバラにならぬようなんとかまとめていきたい」と語っている(『この人と一問一答』より)。
『佐々木信也連載対談』は大毎の強打者・田宮謙次郎が登場。以下は苦手だった左投手をいかに攻略したかの話だ。
「左投手は逃げたら打てないから、もう腰をピッチャーのほうに持っていくんですよ。それで努めて前に出て、ベースの前にひっつく。ボールが逃げていくように感じるから、前に出て、引っ張らず、来たボールにさからわず打つんですね。ステップする足も投手の足元方向にもっていって」
以下は宣伝です。しばらく、まったく同じ文を掲載します。
現在、週刊ベースボール60周年企画として「週べでつづる12球団史」を制作中。第1弾は3月14日発売予定の巨人編です。
では、またあした。<次回に続く>
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.323 ┃ 50円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1964(昭和39)年08月03日(月)号 巨人の内紛
2018(平成30)年10月22日(月) 11:55 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎金田と豊田の冷戦
写真◆表紙は巨人・柴田勲
今回は『1964年8月3日号』。定価は50円だ。
首位大洋に大差をつけられていた巨人。背番号16の川上哲治監督批判も賑やかになっていた。
相手にリードされている展開になると、本拠地後楽園でもコーチャーズボックスに立つ川上に巨人ファンが、
「川上、お前はクビだ!」「だらしないぞ、入場料を返せ!」と騒ぎ立てる。
あまりの激しさに下を向くと、すぐさま、
「川上よ、下を向いても何も落ちていないぞ。ベンチを見てみろ、選手はみんなそっぽを向いているではないか」
と追撃だ。
選手からも不満が続出していた。練習が厳しい、門限など束縛が多すぎるなどに加え、川上監督の態度にも問題があったようだ。
たとえば打撃練習が王貞治、長嶋茂雄の打撃練習が長くなり、ほかの選手の練習時間が短いという申し出があった。この際の川上監督の言葉が、
「何を言うのだ。ON砲で全得点の3分の2をたたき出しているのだ。それほど打ちたいなら、試合前に多摩川に行って打ってこい」
反発は当然か。
若手投手起用にこだわる中尾投手コーチと、干されたベテラン陣の確執も激しさを増していた。チーム内で大学出の選手が高校出の川上監督を軽く見るような傾向があり、それが混乱を大きくしていたようだ。
7月15日の南海戦で、故障で調整が続いていた西鉄の稲尾和久が復帰登板も2回途中KO。稲尾は「まだフルカウントから勝負するほど制球力に自信がないから、どうしても早いカウントでストライクを集めてしまう」と反省。これが5月17日以来の一軍と登板だったが、相手監督、鶴岡一人は、
「いま投げさすのはかわいそうや」。
と一言だった。
国鉄の金田正一は7月16日の大洋戦(神宮)で18勝目。さらに通算4000奪三振を達成した。当時のメジャー記録はウォルター・ジョンソンの3508個だ。
しかしながらチームの不振もあって金田のイライラは募る一方。特に守備を軽視し、練習をしない(と金田が見ていた)豊田泰光との関係は最悪になっており、味方のミスに怒り、金田がベンチ内でコップを投げると、豊田が湯呑をグラウンドに投げると言った冷戦状態になっていたようだ。
では、またあした。<次回に続く>
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.645 ┃ 80円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1970(昭和45)年08月03日(月)号 オールスターで王貞治がライト、長嶋茂雄がショートを守った理由
2020(令和二)年02月10日(月) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎九州ライオンズの可能性
写真◆表紙は阪神・上田二朗
今回は『1970年8月3日号』。定価は80円。
もともとの経営難に黒い霧がダメ押しした西鉄が、九州ライオンズになるという報道があった。要は、当初の広島のように複数の地元企業がバックアップする市民球団だ。
西鉄はこれまで東レ、ダイキン工業、明治製菓、ライオン歯磨きへの球団譲渡のウワサがあったが、すべて失敗に終わっていたらしい。
ただ、九州財界の大御所といえば九州電力と新日本製鉄。九電は通産省を監督官庁に持つ公共企業であり、すでに瓦林会長が「精神的な援助はできるが、経済的には援助できない」と明言していた。
新日鉄は、この年の3月に九州に本拠を置いた八幡製鉄が富士製鉄と合併し誕生したもので、ほかの分野でも八幡時代の地域サービスから手を引き始めており、球団への援助は現実的ではない、と言われていた。
ただ、このままの球団存続は、おそらく不可能。ではどうするか……。
オールスターの話もあった。
第1戦、注目の全パ・太田幸司(近鉄)は6回裏に登板も四球でピンチを広げ、王貞治(巨人)に2点適時打を浴び、降板した。
しかし、大阪に移っての第2戦では8回裏に登板し、2奪三振を含む三者凡退と無難に切り抜けた。太田はそのとき「野村さんのおかげ」と言った。
南海の監督兼任捕手・野村克也だ。まず交代時、前日、制球難で自滅した太田に向かい、
「こら、ええかっこせんで、どんどんストライクをほうってきたらええんや」
と一言。さらに実際のリードではストレートのサインで球が上ずっているのを感じ、カーブのサインで落ち着かせたという。
野村と言えば、球宴は味方投手(パの他チームの投手)の情報収集と割り切っているような言葉もあるが、“太田人気”が今のパに大事なのは感じていたようだ。
全セでは1戦目に大敗した川上哲治監督が、第2戦で思い切った手に出た(もともと川上監督は人気のセ、実力のパという言葉を嫌がっていた)。
王貞治のライト、長嶋茂雄のショートである。
これは全パの先発が地元の右アンダースロー、皆川睦雄(南海)と読み、打撃好調のファースト、左打者の遠井吾郎(阪神)を使いたかったことがある。
これで一番から中(中日)、中塚(大洋)、王と左を並べ、右の長嶋をはさみ、五番に遠井を置いた。長嶋の代わりのサードには、前日ショートで使って大ポカをしたが、長打力はある大洋の松原誠。これを六番に置いた(こちらは別にサード・長嶋、ショート・松原でもよかった気がするが、どうせならと思ったか)。
結果的には4対1で快勝。川上のバクチ(この言葉、不謹慎か)は吉と出た。
つのだじろうの連載漫画「二軍の旗」は読み切りが続いていた。古臭いところもあるが、時々、「これは!」と思うこともある。
連載小説や漫画の筋を追うにはスペースがないと避けてきたが、たまには紹介しよう(断っておくが、長くなるし、球史に興味がある方にはあまり関係ない)。
2号前の「平家蟹」という回は「自分は2つをやったらどちらも中途半端になってしまう」と、いくらコーチに言われてもバッティングの練習は一切せず、守備だけを磨き続けた平家三郎の話だった。
最後の言葉、「蟹は前進することはない。常に横バイである」は暗いカットもあって印象的だった。
話を戻し、この号は「ライパチ」というタイトル。昔の草野球では「人数合わせ」の意味があった言葉だ。
ライトで八番ということだが、昔の草野球は左打者などめったにいなかったので、ライトには強い打球が飛ぶ可能性はほぼなく、九番は投手だからバッティングも一番打てない選手、ということだ。
ただ、物語の最初は、メジャーから(架空の)日映球団にプロレスラーのような超大物バッターが入団したという話。球団も大いに宣伝し、盛り上げていた。「この導入で、誰がライパチになるのか?」と読者が思えば、つのだじろうの勝ちとなる。
背番号3をもらったドン・レイモンドは、来日した空港でカメラのストロボの嵐にいら立ち、カメラの三脚をへし曲げるなどしたが、これで、その怪力にさらに話題が沸騰。日映の試合は連日満員となった。
試合ではレイモンドは、とにかく振る。豪快に振りまくり、お客さんも喜んだ。
だが、バットに球がまったく当たらない。2カ月くらいして、みんな気づいた。
「こいつは、ただ体がでかくて、力があるだけなんだ」
そこで相手チームのスター選手、東京の長鳥(嶋ではない)が、「完全なライパチだよ」と言う。
もともと集客に苦しんでいた日映。レイモンドの化けの皮がはがれ、ふたたび球場は閑古鳥が鳴き始めた……。
ここまではまあ、普通(?)の話なのだが、レイモンドを獲得した担当者の言葉がいい。彼は球団幹部に「なんであんな奴を獲ったんだ」とののしられた後、こう言っている。少し長いが引用しよう。
「レイモンドは予定どおりの活躍をしたやおまへんか。あいつは大リーガーいうても1試合出ただけで、マイナーでボケーッとしていたライパチや。
それを一流のようにして数千万円かけてとったようにみせかけたが、やつとのホンマの契約はわずか500万程度のもんや。
しかし、あのでかい体を利用して、何人お客はん呼んだと思います?
2カ月で平均2万5000の動員や、うちの過去の実績8000を引いて1万7000人や。
うちの主催ゲームが24試合、それをかけたら、あいつ一人の人気で約40万人でっせ。
お客はん一人あたり平均500円として、なんと2億円!
マスコミ関係にあおり記事を書いてもらうようにつこうた金が500万。出費はわずか1000万や。
どうだす、ソロバンは十分すぎるほど合うとるやおまへんか。
うちはな、大阪の球団でっせ。商売にならんことはせえしめへん」
さらに球団幹部に「なんやて、お客さんをだますようなやりかたや」と言われ、彼はこう答えた。
「アホいうな。結構、あのでくの棒見て、興奮して、外人はダメや言うて、日本人の優越感を満足させとんのとちゃいまっか、みなさん」
最後のセリフは、突然、矛先を読者に向けて締める、この手の漫画の常套手段か。
だが、どうですか、みなさん。
まさにプロレス、いや、太平洋クラブ戦略ではありませんか。もしかして、ライオンズ関係者が読んだのかな。
では、また水曜に。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180225-11
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20181022-01
③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200209-01
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
************************************************************