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┃♪THANK YOU GIRL♪┃
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1963年03月05日 録音
‡1963年03月13日 録音
1963年04月12日 英国
1963年05月27日 米国
1964年05月05日 日本
https://ja.wikipedia.org/wiki/フロム・ミー・トゥ・ユー
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┃♪この新しい朝に♪┃
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‡2021(令和三)年03月13日(土) DIGITAL SINGLE 先行配信
2021(令和三)年06月23日(水) MAXI SINGLE 発売
https://ja.wikipedia.org/wiki/この新しい朝に
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┃船木誠勝┃
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‡1969(昭和44)年3月13日(thu) 生誕
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E6%9C%A8%E8%AA%A0%E5%8B%9D
船木誠勝が語る88年の “盗難” 事件「ライガーさんのと自分のレガースがどこを探してもないんです」
2022(令和四)年01月16日(日) 7:00配信 東スポWeb
写真◆骨法の練習に励む(左から)船木、故堀辺師範、山田(1987年12月、東京・東中野=東スポWeb)
ハイブリッドレスラー・船木誠勝(53)が、これまでに遭遇したさまざまな事件の裏側や真相を激白する大好評企画。今回は1988年、新日本プロレス時代の船木が被害にあった〝レガース隠匿事件〟にスポットライトをあてる。UWFに傾倒していく若手に対する新日本プロレス幹部の嫌がらせと思われるが、その顛末とは――。
【写真】激レア!シューティングスタープレスを食らう船木
【THE FACT~船木が見た事件の裏側(12)】いくら探しても、どこを探してもないんです。東京・野毛の新日本プロレス合宿所更衣室に置いてあったレガース(脛あて)が。同じくレガースを付けて試合していたライガーさん(当時は山田恵一)のと自分のレガースが、煙のように消えていました。
ライガーさんはこうつぶやきました。「もしかして隠されたか」。そう思ったのも無理はないんです。伏線はしっかりあったんですよ。順を追って話しましょう。レガースがなくなる前年の87年、藤原(喜明)さんとのスパーリングで首を痛めてしまったんです。すると(アントニオ)猪木さんが「いい整体がある」と東京・東中野にあった骨法を紹介してくれました。治療もしていたんですが、武術もやっていたんで誘われてやってみたんですね。骨法もレガースを付けて戦うので、そこで自分も付けたんです。そのうちライガーさんが海外武者修行から帰ってきて一緒に行くようになりました。そうこうするうちに、骨法の堀辺正史師範(故人)に骨法のコスチュームをプレゼントされ、ライガーさんと2人で上下骨法のコスチュームで暮れの両国国技館大会に出たんです。お客さんもすごく盛り上がってくれました。その日は、たけしプロレス軍団の登場で暴動が起きて、それに紛れてコスチュームに関しては誰からも何も言われなかった。だから、そのままレガースを付けて試合をしていたんです。でも、それから年が明けて3か月くらいたったころでしょうか。、新日本の〝上層部〟からこう言われました。「レガースを脱いでくれ」。当時の新日本プロレスの上の方には、UWFに対するアレルギーがあったと思います。レスラーの中にもマスコミに「俺たちはプロレスをやってるんだ。キックボクシングじゃないんだ」とUWFへの嫌悪感を露にする人もいたそうです。だからUWFスタイルの象徴ともいえるレガースは、そういう人たちにとっては嫌悪の対象。だから「レガースを脱いでくれ」となった。でも、ライガーさんは「いや、これは個性なんで脱げません」と〝上層部〟からの要請をその場で一蹴したんです。自分はライガーさんが言ってくれたんでホッとしました。ところが、そのやりとりがあった後、きっかり次のシリーズの前日に自分とライガーさんのレガースがなくなった…。ライガーさんが「隠された」とつぶやいたのも当然なんですよ。ライガーさんは試合用の赤のレガースがなくなったんで、練習用の黒のレガースでシリーズを通しました。シリーズが終わって合宿所に戻って、しばらくするとレガースが戻ってきました。合宿所更衣室のロッカーの一番上の高いところに、袋に入れられて置いてありました。ライガーさんと2人で「あぁ、あきらめてくれたんだな」と解釈しましたね。犯人は特定できませんでした。でも、それだけUWF色を受け入れない考えが〝上層部〟にはあったということです。自分たちとしてはUWFじゃなく骨法だったんですけど、骨法もイヤだったんじゃないですか。前田(日明)さんが結局新日本から出されたのも、UWFを入れたくなかったという考えが根底にあったと思いますよ。
【今回の事件】1986年から本格的に新日本プロレスに出戻り参戦したUWF。その独特のファイトスタイルから新日本の選手とたびたび衝突したが、一方で一部の若手選手から絶大な支持を受けた。この状況に新日本の〝上層部〟はイラ立ち、UWFスタイルの象徴ともいうべきレガースを隠すという何とも稚拙な妨害策に出たと思われる。
☆ふなき・まさかつ 本名は船木優治(まさはる)。
‡1969(昭和44)年3月13日(木)生まれ、青森県弘前市出身。84年、新日本プロレスに入門。翌年に15歳11か月の史上最年少デビュー(当時)を果たした。89年、UWFに移籍。その後、藤原組を経て93年にパンクラスを設立。ヒクソン・グレイシーに敗れ引退したが、2007年に現役復帰。現在はフリーとして活躍。181センチ、90キロ。主なタイトルはキング・オブ・パンクラシスト、3冠ヘビー級王座。得意技はキック、掌底など。東京スポーツ
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https://news.yahoo.co.jp/articles/5f3ea8f1f0d96023d7ef559fdc2e5c735951fbe4
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現代レスラーの身体づくりに影響を与えた食事と肉体改造法「ハイブリッド・レスラー」船木誠勝選手インタビュー【レスラーめし】
2021(令和三)年05月28日(金) メシ通
食えたことも、食えなかったこともレスラーをつくる。新弟子時代から現在までの食にまつわる話を、さまざまなレスラーにうかがう連載企画「レスラーめし」。今回は「ハイブリッド・レスラー」船木誠勝選手の登場です。
■「ハイブリッド肉体改造法」の船木は何を食べていたのか■15歳11カ月で新日本プロレスでデビュー。ヨーロッパ遠征後にUWFへと鈴木みのると共に移籍し、前田日明・高田延彦・藤原喜明らと並ぶ新星エースとして活躍。その後、藤原組を経て自らの団体パンクラスを鈴木らと旗揚げします。それまでの格闘技指向を究極まで突き詰めたスタイルのプロレス「ハイブリッドレスリング」をスローガンに掲げ、その結果として1分もかからずに勝負がつくこともしばしば。そういった試合を称した言葉「秒殺」は流行語にもなりました。また徹底的な肉体改造で絞り上げたパンクラス所属選手のボディは、これまでのプロレスラー像を覆すもの。その頃に沸き上がっていた総合格闘技ブームもあり、パンクラスは大きな話題そんな中で船木選手が書いた単行本『船木誠勝のハイブリッド肉体改造法』(ベースボールマガジン社)は、体の鍛え方から食生活までを詳細に解説したこれまでにないプロレスラー入門書としてベストセラーに。当時のプロレスラー志望者で読まなかったものはまずいないと断言出来ます。選手としての船木選手は、鈴木みのるにケン・シャムロック、バス・ルッテンといったトップ選手に加え、近藤有己ら後輩選手たちと激戦を繰り広げました。そして2000年には当時世界最強と言われたヒクソン・グレイシーと対戦するも、チョークスリーパーで破れ、その場で引退を表明。その後2007年に総合格闘技に復帰、2009年には全日本プロレスでプロレスラーとして再びリングに立ちます。そこから新日本プロレスやNOAHなどへの参戦、三冠ベルトの奪取などを経て、今も緊張感のある闘いを繰り広げています。
■蝶野・武藤とサボって連帯責任スクワット2000回!■15歳で新日本プロレスデビューした船木選手。寮に暮らす同期には三銃士(橋本真也・武藤敬司・蝶野正洋)、そして先輩に獣神サンダー・ライガーに高田延彦と、強烈なキャラクターに囲まれた環境でのスタートでした。ただ、前回の蝶野さんへのインタビューで聞くかぎりでは揃ってハートが強いというか図々しい世代だったようで……その辺りの話からスタートです。
──ちょうど前回が船木選手と同期の蝶野さんのインタビューで、船木選手のお話も出たんですよ。みんな豚ちりしか作らなくなっちゃて、新日本プロレスのちゃんこシステムが崩壊したという話も(笑)。
船木:ああ、そうなんですね。蝶野さんとめしの思い出っていうと、新弟子の頃はちゃんこはまず先輩が食べて、我々は一番最後に食べられるんですよね。12時半くらいに練習が終わって、自分たちが食べられるのが14時くらい。そこまでが長くって! それで蝶野さんが「そこのラーメン屋で自分らで金払って食えばいいだろう」って言い出したんですよ。まだ入門してそんなに経ってない時期に。
──自分たちのちゃんこの順番まで待てない、と。それはマズそうな……。
船木:それで武藤さんも「いいな! じゃあオレも」って言って、僕らでラーメンを食べに行っちゃったんです。練習直後だから美味しいんです。でも帰ってきたら高田さん(高田延彦)が立ってて、「お前ら、どこ行ってたの?」って聞かれて、武藤さんが「ラーメン食ってきました!」って普通に答えて。そしたら「他の新弟子も全員連れてこい」って言われて、橋本や笹崎さん(笹崎伸司)、野上さん(野上彰/現・AKIRA)ら全員呼んできて「はい、今からスクワット2000回」って。
──きつい連帯責任!
船木:もともと新弟子は外出禁止なんですよ。試合出るようになるまでは、先輩と一緒じゃないと外出しちゃいけないってルールがあったんです。橋本真也は「自分は食ってないです!」って言ったけど、全員がやらされましたね。その時は「とうとう始まったな!」って思いましたね。これが「プロレスの非日常か!」って。
──しかし蝶野さんもよく抜け出しましたね。
船木:「こんなことやらされるの、今だけだよ!」って言ってましたね。デビューしたらこんなことないから、って。そのあたり、先を見てるんですよね。
──その後、抜け出してラーメン食べに行ったりは?
船木:さすがになかったですね。ただ、先輩から怒られるのはしょっちゅうです。理由もなく集合かけられて「お前らたるんでる!」って怒られたり。ただダラケないために、ってだけだと思うんですけど、そういうのも何回かありましたね。
■高田延彦直伝のチーズ&バナナ■
──新弟子時代のちゃんこの話は蝶野さんからもうかがったんですけど、船木選手の場合は入団が15歳ですから、本当に体が大きくなるのはそれからですよね。
船木:自分が入ったときは体重が75キロ。それをまず3ケタ、100キロに乗せろってずっと言われてて、最低ちゃんこを5杯、ごはんを5杯ずつ食うのがノルマでしたね。ただ、ちゃんこも自分が食べる最後の方は肉がなくなってて、野菜ごはんって感じでしたけどね。
──ひたすらちゃんこで体を大きくしていった感じですか。
船木:あとは6Pチーズを1箱と、バナナ1房をノルマにして毎日食べてました。巡業に行っても昼夜分けて食べたりして。これは高田さんからのアドバイスだったんです。
──体をより大きくするメニューを。
船木:寮に入って1カ月くらいですかね、「もうこいつは辞めないな」って思われた頃だと思うんですけど、地方で「船木、めし行こうか」ってお昼ごはんに連れていかれたんです。いろいろ話を聞いた後「チーズとバナナを買いに行こう。これ食べて鍛えると、大きくなるよ」って言われて、それからですね。
──高田さん直伝のメニュー。それは初めて聞きました。
船木:そうですよね。それは高田さんのオリジナルで、新日本では自分のところで止まってると思います。他にも話してなかったんじゃないかな? 実際、効果はありましたね。入団時に75キロだったのが、それから1年弱でデビューする頃には95キロになっていましたから。
──その後、肉体改造の本も書かれてますけど、その頃からいろんなものを食べた経験が生きてるんですね。
船木:でもやっぱりちゃんこですね。体を作るのに一番いいです。肉と野菜、あとごはんをつければ完全食ですから。日本の場合は元は相撲で、日本独自の体を作る食事として鍋という食べ方が一般的になったと思います。これがアメリカだと鶏を焼くか蒸すかになって、それにライスやパスタ、ポテト、それと野菜をつけるんですよね。
■橋本真也にアイスピック掴んで「なんだアンタ、次に言ったら殺すよ!」■
──しかし船木選手は中学を卒業して、すぐ新日本プロレスという大人の世界に入ったわけじゃないですか。同期も年上ばっかりですし、大変じゃなかったですか?
船木:でも楽しかったですね! 個性の強い人ばっかりだったし。怖い人ってすぐわかるじゃないですか。だから「この人は大丈夫そうだ」って人に近づきましたね。そうなるとやっぱり、ライガーさんの下につくしかない。ライガーさんの側だと怒られないから。
──ライガーさんは「大丈夫な人」。
船木:でも練習のときは怖かったですけどね。「辞めちまえ!」って何回言われたことか。練習と試合に関しては怖かったです。でも練習が終わったら、ごはんにもよく連れてってもらいましたよ。よくステーキを食べに連れていってくれましたね。スエヒロとか、もうなくなっちゃったけど上野毛のステーキ屋とか。
──ライガーさんとはイギリス遠征も一緒ですよね。
船木:イギリスでめしのいい思い出はないですね。昼はチャイニーズレストラン、夜はインディアン(インド料理)、そればっかりですよ。しかもライガーさんとは3カ月もの間、家にいるのも試合に行くのもめし行くのもずっと一緒で、さすがに息が詰まりましたね。ぜんぜん話さなくなって「お前達、喧嘩してんのか?」って周囲に気を使わせるくらい。
──あと三銃士と同期ということで、さっき蝶野さんと武藤さんの話が出ましたけど、橋本さんと食の思い出ってありますか?
船木:橋本さんは……物騒な話なんですけど、試合終わってブッチャー(橋本さんの愛称)が外でお酒を飲んで楽しんでからホテルに帰ってきたんですよ。それで廊下でなんだかんだ叫んでて、ブラックキャットさんが「うるさいよアンタ!」って注意したら、「うるせえブタネコ!」って反射的に言っちゃって。そしたらブラックキャットさんが手元にあったアイスピックを掴んで「なんだアンタ、次に言ったら殺すよ!」って。
──それは怖い!
船木:自分は蝶野さんと同じ部屋で、ふたりで覗いてて。「ヤバいよ、どうする?」って言ったら「いいよ、やらせとけば」って。そしたらジョージさん(ジョージ高野)が「まあまあ」ってその場を収めてくれたんですけど。その後、その件で橋本さんは坊主になって。
──罰で坊主!
船木:もう橋本さんはデビューしていましたけどね。3回くらい坊主になってます。身近にそんな人がいたから「橋本さんみたいなことはしちゃダメなんだな」って思いましたけどね(笑)。また蝶野さんは蝶野さんで冷めてるな~って。
──反面教師がいっぱいいたんですね。しかしお酒もまわりはみんなかなり飲んでますよね、当然。
船木:お歳暮なんかでビールは何ケースも送られてくるから、道場には常にお酒があったんですよ。だから上の人も練習が終わったら昼間からビールを飲んだりしてましたね、水代わりに。そして夜になったらちゃんことビールで。ホント、ずっと飲んでましたね。
■船木選手が見た熊本旅館破壊事件■
──お酒と言えば、この連載でその場にいらした選手全員にうかがってるんですが、新日本プロレスの選手とUWF選手を交流させようとして皆が酔っ払って旅館をボロボロにしたという伝説の「熊本旅館破壊事件」! 船木選手もその場にいらしたんですよね。
船木:あれは自分がデビューして2年くらいの時期でしたね。新日本とUWFの間があまりにもギクシャクしていたんで、旅館で宴会をやろうとしたんです。
──言い出しっぺは猪木さんですか?
船木:坂口さん(坂口征二)が「明日UWFと一緒に飲むからよ」って言ってましたね。藤原さんが試合を休んでスープかなんか作ってました。試合が終わって宴会場に行くと、新日本の人が揃ってて、UWFの人たちは後から入ってくる。やっぱり雰囲気は硬かったですね。猪木さんなんかもいますから。
──その時点で和やかな雰囲気ではないですよね。
船木:会が始まって1時間するかしないかで、イッキ飲み合戦が始まったんです。それも日本酒で。それで猪木さんは最初に飲んで帰っちゃったんですよ。坂口さんは残ってお酒を飲んでたんですけど、実は水を飲んでて。
──まさかの荒鷲がそんなズルを!
船木:それがバレて、本物のお酒を飲まされるようになったら、坂口さんもけっこう酔っ払ってきて。で、なぜかわからないんですけど武藤さんと前田さん(前田日明)が……。
──険悪な雰囲気になってたと。
船木:前田さんが「オマエ、海外から帰ってきたからっていい気になってんじゃねえぞ!」って言ったんですよね。それに武藤さんが「アンタがやってることはプロレスじゃねえよ!」って返したら、前田さんがガーッと突っ込んでボコボコボコって……マウント状態で。それをみんなで止めて。
──壮絶! 前田対武藤は誰も止められない。
船木:たぶんですけど、荒川さん(ドン荒川)が「言いたいことがあるなら言ってやれ!」って焚き付けたんじゃないかな。そうじゃないと武藤さんも言わないと思うんですよ。
──だいたいそういう現場には荒川さんがいますね(笑)。
船木:それで途中で坂口さんが入ってきて、前田対坂口になっちゃって。自分は坂口さんを止めてましたね。
──坂口さんは武藤さんに目をかけてましたからね。
船木:それで坂口さんが「前田来い!」って寝転がって、寝技をかけようとしたと思うんですけど、そこに前田さんがストンピングしようとして、それをみんなで止めて。
──前田さん、一線越えすぎ!
船木:結局、誰か藤原さんを呼んで、藤原さんが前田さんを殴ってやっと止まったんですよね。
──組長しかもう止められない。
船木:そしたら坂口さんがまた怒って、僕らが止めて。坂口さん、一升瓶を持って前田さんのこと叩こうとするんですよ。話をしてる最中なのに、それを止めて……。凄かったですよ。
──あと、その事件の時は後藤達俊さんが荒れてたと聞きますが。
船木:後藤さんはその新日本とUWFがやりあってるのとは別の方向で、独自に酔っ払ってました。吐いて便器を詰まらせて、日本刀持って「猪木出てこい!」って言ってたんですよね。でも自分はもう坂口さんを止めるので手一杯で……。
■UWFと藤原組で食生活が大きく変化■
──そして船木選手はUWFに移籍しますが、そこでもごはんはちゃんこでした?
船木:昼はちゃんこです。たぶん新日本のちゃんこを見様見真似で作ってたんだと思うんですよね。前田さんや高田さんが「こうやって作れよ」って教えたのをそのまま作ってたんじゃないかな。
──前に鈴木選手にインタビューした時は「新日本プロレスからUWFに移って肉が減りました」っておっしゃってました。
船木:ああ~、それはありましたね! 新日本は毎日いい肉が肉屋から届けられるんですよ。使い放題、食べ放題って感じで、それも2、3枚ガバーッと掴んで焼いて食う。それに比べてUWFの肉はその辺のスーパーの肉って感じで。やっぱり会社の収入の差はありましたね。新日時代ももったいない食べ方してたなと今は思いますけど。
──夜もちゃんこですか?
船木:自分はUWFの事務所の近くに部屋を借りてもらってて、高田さんが居酒屋を開いたんで夜はそこに毎日行ってました。1,000円で定食を日替わりで作ってもらってたんでそれを食べてました。
──UWF時代は体も意識的に鍛えていったんですか?
船木:一回骨折をして、半年くらい休んだときにすごい太ったんですよ。それで締めようと思って、ごはんを抜いてちゃんこだけ食べるようにしたんです。その頃はまだ食生活について研究とかはしてなかったんですけど、ごはんだけ抜けば大丈夫だろうって思って、そしたら本当に減ってきたんです。
──今思えば、パンクラス以降の肉体改造の手がかりだったのかもしれないですね。
船木:ただ、一度締めたんですけど、次の藤原組で太っちゃいましたね。藤原組は選手が少なくてちゃんこ番がいなかったので、出前を取ってたんですよ。お金はあったんで。
──メインスポンサーがメガネスーパーですからね。
船木:朝、プロテインを飲んで、道場に行って練習が終わると中華屋か弁当屋で注文する。太りたくないなと思っても、レバニラ炒めと味噌ラーメンを毎日食べてたら、体作りにはよくなかったですね。お金に余裕があると、ステーキとか脂っこいものを食べちゃうんですよね。だから気づいたら太ってて。その時は「22歳だし、年取ると太ってくるものなのかな」って思って片付けようとしてましたけどね。
──藤原組長やカール・ゴッチさんはあんまり食生活にはこだわらない人だったんですかね?
船木:「本当はちゃんこを作ったほうがいいんだけど、人もいないしお金もあるから出前でいいか」って感じでしたね。ゴッチさんもあまりうるさくはなかったですね。「フナキと同じもの食べるんだ!」ってラーメンを一緒に食べてました。ひとり2、3人前は食べてたから、毎日すごい量の出前をとってたんですよね。お店はずいぶん儲かったと思いますよ。
■ベストセラーになった『ハイブリッド肉体改造法』■
──そして1993年、船木選手らによるパンクラス旗揚げとなるわけですが、パンクラスの選手といえばギリギリまで引き締まった通称・ハイブリッドボディで知られています。船木さんの書いた『ハイブリッド肉体改造法』は当時のレスラー志望者のバイブルとなりました。
船木:パンクラスではそれまでのプロレスとはスタイルを変えよう、他と同じことをやってたら無理だと思ったんですね。ついにやるぞ、と。そうなると技を受ける必要はないと思ったんです。脂肪はいらない。それに一番近い体型だったのがシャムロック(ケン・シャムロック)だったんですね。
──パンクラスと並行してUFCでも活躍した総合格闘技黎明期のレジェンドですね。
船木:シャムロックと契約しに行って2泊したんですけど、体が綺麗で力もある。「何を食べてるの?」って聞いたら、パパパッとメモしてくれて、それと同じ食事を日本に帰ってからも続けたんですね。そしたら脂肪がどんどん取れていって、これはいいことを聞いたなと。
──それがハイブリッド肉体改造法のルーツ。
船木:でも最初はまわりに言うつもりはなかったんですよ。自分だけのものにしようと思ったんですけど、高橋義生が「船木さんの体、なんなんすかそれ」って聞いてきて、「自分もやりたいです」って言ってくるからその食事法を教えたら、彼もどんどん変わってきて。二人いるってことは、パンクラスの選手の体全員こうしたら面白くなるなと思ったんです。それで若手には強制でこれしか食べるな、って味なしのちゃんことか食べさせて。
──鶏ささみに卵の白身、味なしパスタ、ノンオイルのツナ缶といったメニューはハイブリッドボディの代名詞になりました。真似したレスラー志望者も多いはず。
船木:今のライザップなんかがやっていることに通じると思います。全地球人に当てはまる肉体改造法ですよね。アスリートは皆やってますよ。
──全員あのメニューで肉体改造したから、旗揚げ戦で揃った時のインパクトは凄かったです。
船木:練習生には1万キロカロリー近く食べさせてトレーニングさせてましたね。食べるのが遅いやつはちゃんこをミキサーにかけて飲ませたり、いろいろやりました。それで皆旗揚げ戦に向けて引き締まった体になったんですけど、鈴木だけが「俺は嫌だ」って言ってやらなかったんですよ。
──それも鈴木選手らしい(笑)。
船木:「それはそれで仕方ないかな、ひとりくらい太ったやつがいてもいいか」って放っといてたんですけど、最後の1カ月で「やっぱり自分もやります」って言って。ただ、最後にやったもんだからメニューを間違えて教えちゃったんですよ。
──うっかりミスで!
船木:本当は1カ月半で仕上げるメニューを1カ月でやらせちゃったんで、人より多くやって一番絞れちゃったんです。
──実際、鈴木選手の体も衝撃でしたが、そんな理由があったとは。しかも本にしたことでレスラー志望者や格闘家に広く伝わりました。
船木:本当はパンクラス独自の秘密にしておきたかったんですけど、週プロ(週刊プロレス)の記者が毎日来るじゃないですか。それで「これ本にしましょうよ」って言ってきて、「イヤですよ、自分たちのオリジナルだし書く時間ないですよ」ってずっと断ってたんです。ただ「1日2時間くらい喋るだけで、あとは写真撮らせてもらえればあとは原稿こっちで書きますから!」って言われたんで、社長に相談したら「印税きたら会社はすごく嬉しい」と。その頃は団体もお金なかったんで、ちょっとでもお金になればいいなと思って、それでシブシブやったんです。
──シブシブだったんですね(笑)。
船木:でもそれでよかったですね。結局シリーズになったんですけど、最初の1巻が14万部って言ってたかな。そのお金で余裕ができて、会場を早く押さえられたりできるようになったんですよね。いろんなレスラーから「当時読みました」って言われますし、今思えば出しておいてよかったですね。
■コロナのステイホーム期間は500キロカロリー落として生活■
船木:パンクラスで食事に関してはかなり勉強しましたね。一度引退して普通の生活に戻ってからも、その辺はずっと平行してやってます。
──プロレスをやってない時期も、調整したうえでの食事は続けてたんですね。
船木:ただ、同じものを食べていると飽きるんですよ。それで研究していって、カロリーと成分のバランスで体が決まるってのを2005年に発見したんです。タンパク質・炭水化物・脂肪といった成分の割合を考えればいろんなものを食べられるんです。
──今YouTubeで食生活についても発信されてますよね。朝昼は納豆にノンフライラーメンや、玄米・卵焼き・明太子のお弁当だったり。
船木:でもその分、夜は好きなもの食べるんですよ。たとえば「明日、寿司食べたいな」って思った時は食べたい分のカロリーと成分を全部出して何個までだったら食べられるって工夫してます。
──コロナによる自粛期間中は、食べるカロリーも落としてるんですよね。
船木: はい、基本は一日3000キロカロリーなんですけど、今は2500キロカロリーで。家にいたらトイレに行くくらいしか歩かないじゃないですか。あとはもう座ってるくらいで、極端に消費カロリーが減ります。動かなくなると500キロカロリーくらいは落とさないと、余分になっちゃうんで。「コロナ太り」ってのはそういうことですね。
──やはりそういう調整は大事なんですね。おすすめのメニューというと?
船木:人それぞれの好みでいいんですけど、コンビニで買うときは脂肪の少ないサンドイッチや脂肪の少ないおにぎり、それにタンパク質として鶏のスティックとか売ってるんで、そのあたりですね。
あとは自分自身がカレーみたいな刺激的なものが好きなんですけど、カレーにも脂肪の少ないものがあるんですよ。レトルトで脂肪10グラムくらいのカレーがあるんで、それにパスタを和えて食べるのもおすすめです。
■激戦の後は3日間40度の熱が出てスポーツドリンクしか飲めなかった■
──パンクラスを引退されて、全日本プロレスで復帰した時は食生活も調整したんでしょうか。
船木:パンクラスの体だと、長い時間、戦っていられないですね。2010年に復帰した時、タッグマッチやったんですけど試合が20分越えたんです。15分経過くらいから意識が朦朧としてきて……糖分が足りなくなってきたんですね。すっごい疲れてきて、でもまわりの武藤さん・蝶野さん・鈴木の3人は普通に試合してるんです。すげえなって思って、それから少し脂肪つけるようになって、3年後には30分試合出来るようになりました。
──プロレスでは、やはり脂肪もある程度必要。
船木:やはりプロレスみたいに自分から技をかけるだけでなく、技を受けたりして20分、30分とやる競技には脂肪も重要です。途中で水も飲めないですから。マラソンだったら体重は軽ければいいけど、プロレスは技を受けなきゃいけない。そうなると体重もなくてはいけないですから。
──やはりパンクラスの体ではダメージも大きい。
船木:今までの試合で一番ダメージがキツかったのが、東京ベイNKホールでやったバス・ルッテン戦なんです。
──あの名言「明日からまた生きるぞ!」が出た試合ですね。
船木:終わって3日間、40度の熱が出て、スポーツドリンクしか飲めなかったです。あとは頭痛薬を飲んで、トイレと寝床の往復でしたね。
──それだけの壮絶な試合でしたからね……。
船木:今は食生活においては達人になりました。体を絞る時は脂肪や炭水化物をチェックするクセをつけなきゃいけなくて、それが面倒くさいんですけど、だんだんわかってきて、今はお店に入ってみて、例えばラーメンを見るとだいたいのカロリーがわかっちゃうんです。「肉がこれだけ入ってて、麺がこれだけ、だったらつゆ飲まなければ何キロカロリーくらいだな」って。
──ちなみに船木選手にとって試合後はごほうび的なごはんってあるんですか? それこそ昨日はNOAHの日本武道館大会でしたけども。
船木:美味しいものを食べたいなと思うんですけど、それがコロナ渦のせいで試合が終わってからだとどこも開いてないじゃないですか。昨日はコンビニで買ったカニカマボコとコールスローサラダだけ食べて寝ました。だから今日は帰ってゆっくり美味しいものを食べようかと思ってます。
──このご時世とはいえ、試合後コンビニめしだけなのは寂しすぎますからね……。
船木:最近はお店に行けないのもあってUber Eatsにハマって、寿司とか中華、イタリアンにタイ・韓国料理とか、いろんな料理を注文してたんですけどね。それも最近ちょっと飽きてきちゃって……自分でちゃんこを復活するしかないかな! 食生活って、そうやってグルグル回るとこありますよね。
写真提供:@闘宝伝承Y1968
現在のプロレス界のエース級の選手というと、いわゆる「アンコ型」は少数派、引き締まったマッチョボディが多くを占めます。それは船木選手がもたらした「ハイブリッドボディの衝撃」からの影響は計り知れません。そして今も自分の体で実験を重ねながら「ハイブリッド肉体改造」を続けていた船木選手。その研究はどこまで極められるのか? 船木選手にしか出来ないレスラーのあり方は今後も注目です。
■書いた人:大坪ケムタ アイドル・グルメ・芸能etcよろず請け負うフリーライター。メシ通での好評連載『レスラーめし』(ワニブックス・刊)が書籍版のみの追加エピソード、小林邦昭?獣神サンダー・ライガー対談も特別掲載して絶賛発売中!Instagram:@kemta
https://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/kemuta-otsubo/2021-00476
ブルーザー・ブロディと船木誠勝
2022(令和四)年07月17日(日) テーマ:プロレス
キングコング・ブルーザー・ブロディ逝いて34年。きょうは史上最強のプロレスラー・ブルーザー・ブロディの命日だ。
1988(昭和63)年07月17日(日)、ブロディの死を知った時の衝撃は34年経った今でも忘れていない。死因が刺殺と聞いて余計にショックを受けた。プロレスファンをやめようかと思ったほどだ。あれほど独創的なプロレスラーはもう二度と出ないと思っている。全てが独特だった。誰も真似のできないパフォーマンスだった。あの時、プロレスファンをやめるのを思いとどまったのは、長州力がいたからだ。
1982(昭和57)年10月08日(金)、後楽園ホールでの“噛ませ犬事件”以来、長州力の熱烈大ファンになった。ブロディはなぜか長州のことを嫌っていた。不穏試合として紹介されるブロディ対長州のタッグマッチは、最高の好勝負だったと思う。あれほど本気のブロディを観たのは初めてだった。昭和が終わり、平成になり、プロレスブームは去り、人気は低迷。90年代も盛り上がっていたし、2000年代も面白い試合はたくさんあったが、昭和の時代ほど熱くさせてはくれなかった。最近、その理由がわかった。「自分はブロディのファン」「長州のファン」と自信を持って言えるレスラーがいたのが昭和の時代だった。好きなレスラーはほかにもスタン・ハンセン、ハルク・ホーガン、ビル・ロビンソン、ハーリー・レイスと挙げたらキリがないほどいたのだ。だから熱心に観戦するし、会場にも行った。平成になって、実際に地上波放送が新日本プロレスだけになり、しかも深夜だ。いつしかハッキリとファンと呼べるレスラーがいなくなってしまった。2000年代は、エメリヤーエンコ・ヒョードルとヒクソン・グレイシーの熱烈ファンだった。ミルコ・クロコップも好きだ。純プロレスファンから「裏切者」「プロレス左翼」などと言われたこともあるが、好きなものは仕方がない。年齢もあるかもしれない。昭和の時代は少年だったので、ブロディやアントニオ猪木を仰ぎ見ていた。今は、武藤敬司は年上だが、ほとんどのレスラーが年下なので、年下を仰ぎ見るということはない。マイク・タイソンやヒョードルのように圧倒的に強いファイターは年齢なんか関係なくファンになるが、年下に憧れの眼差しは向けない。プロレス女子や平成ファンが熱い気持ちでプロレスを観ているのは、レスラーが年上か同世代というのは大きいと思う。「タナ」「内藤さん」とレスラーを身近に感じ、プロレスを楽しんでいる。私が昭和プロレスに熱くなったのと同じだと思う。プロレスの観始めは全てが新鮮だった。今は真剣に見ようと思っても金的蹴りや無意味な乱入があるとその時点で冷めてしまう。乱入するならスタン・ハンセンのように日本中がひっくり返るような乱入事件を起こす気概が欲しい。しかし、2022年、ようやく誇りを持ってファンと呼べるプロレスラーが見つかったのだ。
‡船木誠勝だ。船木の試合は面白い。藤田和之戦、鈴木秀樹戦は最高だった。私のようなUWFファンを熱くさせてくれた。船木の格闘プロレスは本気で観たいと思う。
53歳の今、第8代GHCナショナルチャンピオンに君臨している。藤田の強さはやはりPRIDEという特殊なリングを経験したことだが、船木もパンクラスを経験しているのが強さの秘密だろう。パンクラスがまだ素手でファイトしていた時代、真剣と真剣で斬り合うような戦いを船木はしてきた。今も掌打やキック攻撃、そして関節技が強力な武器になっている。ハイブリッドブラスターという必殺技もある。ブロディが85年に新日本プロレスに参戦した時、船木はまだ新日本プロレスにいた。プロレス会場の狭い廊下でブロディとバッタリ会った時、あの船木が恐怖を感じたというのだから、ブロディは尋常ではない威圧感があったのだろう。二人の接点は特になく、試合をしたこともない。今までは「誰のファン?」と聞かれたら「ブロディ」と即答していた。今は「船木誠勝」と答えられる。現役レスラーの名前を挙げられるのは嬉しい。プロレスリング・ノアは今後も注目している。船木誠勝の試合は全部観戦したい。
#ブルーザーブロディ#船木誠勝#プロレス#新日本プロレス#長州力
https://ameblo.jp/sawasato-takashi/entry-12753859178.html
全国1位 イルミネーション2021 門司港レトロ浪漫灯彩
浪漫ちっく・レトロイルミネーション 17:30~24:00頃
2021(令和三)年11月20日(土)
†2022(令和四)年03月13日(日) 17:30~24:00頃
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全国2位 2021光の街・博多(福岡)
JR博多シティの冬の風物詩 17:00~24:00
2021(令和三)年11月04日(木)
2022(令和四)年01月05日(水) 17:00~24:00
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全国3位 キャナルシティ博多 キャナルイルミネーション2021
光いっぱいの非日常的な空間が広がるイルミネーション 17:00~24:00
2021(令和三)年11月13日(土)
2022(令和四)年02月13日(日) 17:00~24:00
https://sp.jorudan.co.jp/illumi/rank_fukuoka.html
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ひろしまドリミネーション2021
全国15位 1位 色鮮やかなイルミネーションが冬の広島を華やかに彩る
2021(令和三)年11月17日(水) 点灯開始
2022(令和四)年01月03日(月) 点灯終了
17:30~22:30 平和大通りの広島市内中心部南北緑地帯ほか
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┃サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 ┃
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サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂をめぐる出来事として最も著名なもののひとつは、1478年のパッツィ家の陰謀である。パッツィ家とメディチ家の対立が激化し、その結果、パッツィ家はロレンツォ・イル・マニーフィコの殺害を計画した
1478(文明10)年04月26日(金)、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の復活祭ミサでパッツィ家に組する暗殺者がメディチ兄弟を襲った。兄ロレンツォはかろうじて逃れたが、弟ジュリアーノは刺殺された。暗殺者らは市民に反乱を呼びかけるも失敗。暗殺者だけでなく、パッツィ家当主をはじめ100人近くが捕らえられて、死刑になった。容赦の無い処断に、パッツィ家と結んでいた時の教皇シクストゥス4世を激怒させ、教皇庁とフィレンツェの間で二年におよぶパッツィ戦争が起こった
日本人観光客が聖堂に落書きをし、問題視された例がある。
2008(平成30)年02月18日(月) 岐阜市立女子短期大学の学生が研修旅行で訪れた際、大理石の壁に名前などを落書きをしたことが、この落書きを見つけた日本人観光客からの訴えにより判明した。この事件では学生6人と引率教員2人が学長厳重注意処分にされている[9]。なお、この事件の対応に対してイタリアのマスコミは、落書きだらけの自国の街並みや文化財の惨状を恥じるとともに、自国の学生の行為を恥じ告発する日本人観光客の潔癖さと、迅速な学校側の処分を賞賛とともに伝えた。また、修復費用については不要である旨が大聖堂より大学側に伝えられている。
‡2008(平成30)年03月13日(木) 京都産業大学2年の学生3人が観光旅行で訪れた際、大聖堂最上階の柱等に本人の名前や「京都産業大学」と油性ペンで落書きをした事が上記短大と同様に判明した。この事件で3人は処分を受けている[10]。
2008(平成30)年06月30日(月) 常磐大学高等学校の野球部の監督が2006年に自分と妻の名前を落書きしていた事が発覚し、同校はこの監督を解任。同校は前年度の全国高等学校野球選手権大会の茨城県大会で準優勝するなどの強豪校である[
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AC%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82
映像◆「世界 “三大迷宮”ミステリー①-1モナ・リザの秘密」歴史ミステリーhttps://youtu.be/HL40CuRhBEo
☆型にはまって生きていては、真の自分の可能性には気づかない。
自分の手でつくる家と暮らし:ソローの生き方☆
‡2014(平成26)年03月13日(木) 23:14 by martin310 田舎暮らし もう少しソロー(Henry David Thoreau)のセルフビルドな小屋づくりについて、知り得たことを記しておきたい。このことは人間が生きる為の三大要素、「衣・食・住」うちの「住」について、今まで掲載してきた“スモールハウス”な住環境の提案の流れにあるものでもあり、且つ又、“人が住まう”という環境と家という根源的な要素について、現代から忘れ去られた、自然の中に人間として実感ある居住という手ごたえのある暮らしを実現するための、重要なヒントが隠されていると思うからでもある。ソローが今から160年も前に、2年と2ヶ月、自らの人生の方向をして、まさに生身の自分を実験台にして、ウォールデンの森へ住み、数々の自然探索と人と社会、自然と文明などについての膨大な思索と探求を遺したことは、160年後の、ソローが想像だにしなかった文明の発展の末の、この空虚で手ごたえのない、生気を失った人々の暮らしの本源に、必ずなんらかの叡智を授けてくれるものと思えるからである。ソローがウォールデン池の北の入り江の奥に、小屋を建てようとあたりの森の木立の伐採を始めたのは、1845年の3月の終わり頃だった。彼はそのため、斧を友人から借りて、小屋の柱に使うストローブマツを何本か切り倒すことから始めた。彼が斧を借りた3人の友人のひとりは、『自然論』で著名な「超絶主義」を唱えたラルフ・ウォルドー・エマソン(Ralph Waldo Emerson, 1803-1882 )だった。何を言おう、もともとこのソローのウォールデンでの自給自足生活の試みが実現出来たのは、この土地の持ち主であるエマソンがいなければありえなかったことであり、当然、その試みが出来なければ、ソローの『ウォールデン―森の生活』もこの世に存在しなかった訳である。エマソンはソローの思想的な師であり、また、同郷人の友人でもあったのだ。(エマソンはその後さらに、ウォールデン池の周囲の森も買い足し、1922年に子孫が州に土地を寄付して、州立公園となった)調べてみると、コンコード村の駅近くのソローの家族の家と、エマソンの家とは2㎞と離れていない。斧を借りたもうひとりの友人、エイモス・ブロンソン・オルコットの家はそのエマソンの家から1㎞くらいで、共に家は近く、村内の友人でもあり、また、この時代思潮を先導したコンコード・サークルのメンバーでもあった。ちなみに、エイモス・ブロンソン・オルコットの次女のルイザ・メイ・オルコット(Louisa May Alcott, 1832-1888)は、のちにあの有名な自伝的小説『若草物語』を書いた作家である。『若草物語』の中のローレンス氏のモデルは、エマソンだと言われている。ソローは、若い頃、エマソンやオルコットの子供たちを、森や丘でインディアンの遺物とか植物や動物の標本を集める時に連れて行ったり、舟遊びに誘ったりしたようだ。ソローは20歳のときに、エマソンの『自然論』を愛読し、ハーバード大学でのエマソンの講演も聴いている。その後、エマソンとの親交を深め、エマソンを通じてオルコット一家や、詩人のウィリアム・エレリー・チャニングを知ることになる。このチャニングも斧を借りたひとりである。ソローは、兄と共同で開いたコンコード・アカデミーを、兄の病の為に閉鎖した後、エマソン宅にその後2年間も寄寓している。このような親密な関係から、キャビンを建てる土地を無償で借りられる恩恵を受けることになったのだろう。「私が作業をしたのは、美しく心地よい穏やかな傾斜地のマツの森でした。木々の間からウォールデン池と、マツとヒッコリーの幼樹が勢いよく伸びる森の中の小さな草地が見えました、池はまだ凍結したままで、全体に春らしい池の底が透けた暗い色をしていました。」(ウォールデン―森の生活)ソローは何日間か、ひたすら斧で木を切り倒して削り、刻んで、柱や間柱(まばしら)や垂木(たるき)を作った。柱に使う材は、用材を6インチ角に仕上げ、間柱の大部分は二面を、垂木と板材は一面だけを平らにし、後の面は樹皮をつけたままにしたとある。つまり、ソローのキャビンは、その地に茂っていたストローブマツの四面を削って柱用の角材にしたり、二面だけを削って垂木にしたり加工したようだ。また、どの用材も端には慎重にほぞを切ったり、ほぞ穴を開けたりしておいたとあり、その為に、幾種類もの大工道具も知人から借りていたようだ。そして、4月の中頃には、各用材の下ごしらえを終え、家の骨組みを地面で組み上げて棟上の準備を整えたと記されている。棟上は友人たち(これもエマソン、オルコット、チャニング他の5人)の応援を頼み、立ち上げた。予め組んだ枠組みを立ち上げる方法は、どうもツーバイフォー的な建て方だ。このあたりに、我々がやっている小屋作りの原点がありそうで、いっそうソローとの親近感を勝手に感じるところだ。だが、現在のように、ホームセンターに行けば、規格化されたSPFなどのツーバイ材がどこにでもある時代と違い、すべて自分で加工し、調達したのには頭が下がる。もちろん、電動工具などまったく陰も形もない時だ。すべて人力でやらなければならない。さらに、彼は立ち木を用材にしただけではない。中古の小屋を買い取り、その古材を再利用している。家の壁面に使った平板はこれを用いたものだ。彼はその古材を入手する為、当時、ウォールデン池を掠めて走るフィッチバーグ鉄道の建設後のアイルランド人工夫が使っていた小屋を買い取っている。ボストンからコンコードまでが開通したのは、ソローが小屋を建てた前年だった。それ以西の工事はさらに進められ、その度に工夫は新たな場所に移るのだ。ソローはジェームズ・コリンズの掘っ立小屋をひとりで解体し、手押し車で建設地へと運んだ。線路とソローのキャビンとは、最短で500mほどだった。ソローは「何時の汽車」というように、当時、蒸気機関車がすぐ近くを通過する場所に住んでいたのだ。コンコードの町へ出るには、この線路を歩いて行ったようだ。それが最も便利に行けたコースのようだ。ソローは次いで、キャビンの床下にあたる場所に、野菜貯蔵庫用の穴を掘った。その穴は、ウッドチャック(地中に直径15cmほどのトンネルの巣穴を掘る。長さは最長で15mで、掘り出した土は入口に塚をつくる)の掘った巣穴を掘り下げ、広さは2.5m四方で深さは3mもある。これで厳冬期でも、ジャガイモを凍らせずに済むようだ。さらに、ソローは家を建てる前に、1ヘクタールほどのふかふかな砂地に作物を植えつけた。インゲンを中心に、ジャガイモ、トウモロコシ、エンドウ、それにカブをつくった。収穫期にはこれが売れて、キャビンの建設費の一部を補うほどになったようだ。翌年にはいっそう腕があがったが、自分で食べる以上の作物はつくらないようにしたようだ。「私はこの八か月に続く二年近くの森の暮らしを、イーストを使わないライ麦とトウモロコシの粉、ジャガイモ、米、ごく少量の塩漬けの豚肉、糖蜜、塩で生きました。飲み物は水だけでした。インドの哲学をこよなく愛する私には、主食のひとつとして米を食べて暮らせるとわかったことも、素晴しい経験でした。」(ウォールデン―森の生活)ソローは、ライ麦とトウモロコシの粉で家の外の焚き火でパンを焼いていたようで、かなりの粗食に徹し、「食」に関してもミニマムな暮らしを実践していたようだ。だが、ときには村の友人宅の食卓へ招待されて、ごちそうをいただいたりすることも愉しみのひとつにしていたようだ。水はもちろん、湧水池であるウォールデン池の水を飲んでいた。しかも、早朝の水浴びはそのウォールデン池で行った。それがソローの毎朝の心身の浄化の儀式だったようだ。ソローは3月の終わりから始めて、3ヶ月間、小屋の建築を続けて来て漸く、
07月04日に森に移り住んだ。だが、壁面の漆喰はまだ塗っておらず、暖炉の煙突もまだ組んではいなかった。だが屋根はこけら板葺きで、この作業の出来は完璧だったと、自画自賛している。外壁は、水を漏らさないしっかりしたこけら板張りを施し、室内の家具の一部も自作したようだ。暖炉や漆喰壁が完成したのは、冬が来る直前だった。暖炉やチムニーの製作には、古煉瓦を1000個も使い、足りない分は池畔にある石を拾って来て代用したという。煉瓦をつなぐモルタルは、岸辺の白い砂を焼いて作ったというのだから驚きだ。そして、内壁は漆喰の下地にする木摺(きずり)を組み、それへボートで対岸から運んだ白い混じり気のない白い砂を原料にした漆喰を、捏ねて鏝(こて)で塗り上げたという。ソローは思想家で超絶主義者、文筆家で詩人、博物学者でもあるが、その旺盛な探究心と技術的なノウハウの取得術についても、並大抵の技術者肌ではなかったようだ。ソローには、机上の思索者は似合わず、すべてが実践、現場主義者であり、創成期のスモールハウスビルダーであり、いわゆる今日でいうD.I.Yの元祖でもあるといえる。ソローの書いた『ウォールデン―森の生活』には、このようなハウスビルドに関する記述はわずかで、実際はそれ以外の広範な領域にわたる学術的な、或いは思想的な、また若者たちへの助言としてなど、様々な要素を持った記述に占められている。そこから今尚、各分野の研究者がソローの示した探求の沃野をもとに独自の研鑽を積んでいるものと思えるが、さらにまた様々な興味で読もうとする我々読者にも、160年の時を越えた普遍的で、斬新な、目を見張るヒントの数々が示されているものと思う。今一度、ソローが遺した珠玉の言葉の数々を味わおうでないか。
【ソローについての当ブログの関連記事はこちら】
2013(平成25)年05月08日(水) ソロー『ウォールデン―森の生活』~私は、今を生きたいのです。
http://martin310.exblog.jp/17755337
2013(平成25)年05月12日(日) 今宵はこの音楽・映像と共に、ソローの言葉を噛み締めて眠ろう。
http://martin310.exblog.jp/17777363
2014(平成26)年03月06日(木) 忘れてはならない、デイヴィッド・ソローこそ、スモールハウスライフの創始者だった。
http://martin310.exblog.jp/19539069/
2014(平成26)年03月10日(月) 神と天国に一番近い場所。そこは、ウォールデンという湖のほとりだ。Henry David Thoreau
http://martin310.exblog.jp/19552037/
https://martin310.exblog.jp/19564353/
☆メイ牛山☆
1911(明治44)年01月25日(水) 生誕
2007(平成19)年12月13日(木) 96歳没
https://ja.wikipedia.org/wiki/メイ牛山
③http://www.hollywoodsalon.co.jp/hiroshima/06info/index.html