過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のCARPENTERSとエトセトラだヨ(=^◇^=)

 

 エルヴィス・アーロン・プレスリー
‡1955(昭和30)年11月21日 RCAレコードと契約
 1956(昭和31)年01月28日『CBS-TVトミー・ドーシー・ステージ・ショウ』TVに初出演し、黒人のR&Bを歌う。そこでプレスリーは白人らしからぬパフォーマンスを披露したが、これに対してPTAや宗教団体から激しい非難を浴びせられた。しかし、その激しい非難にもかかわらず、それを見た若者たちは、プレスリーのファンになっていった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC
 1956(昭和31)年09月09日 1回目出演 エルヴィス・プレスリー出演の際には寸前まで反対していた。しかし、プレスリーの真摯な態度を見たサリヴァンはプレスリーを「立派な若者です」と称賛し、実際に再度の出演も実現している(1956年9月9日、10月28日、1957年1月6日の通算3度出演)。また、プレスリーの最初の出演時には、全米視聴率が82.6%を記録している。3度目の出演時にはプレスリーの腰を振るアクションにクレームが入ったために、本番では延々と上半身だけのアングルの放送を行うことを要求し、プレスリー自身の顰蹙を買ったという逸話も残っている[1]。
 1956(昭和31)年10月28日 2回目出演 エルヴィス・プレスリー出演の際には寸前まで反対していた。しかし、プレスリーの真摯な態度を見たサリヴァンはプレスリーを「立派な若者です」と称賛し、実際に再度の出演も実現している(1956年9月9日、10月28日、1957年1月6日の通算3度出演)。また、プレスリーの最初の出演時には、全米視聴率が82.6%を記録している。3度目の出演時にはプレスリーの腰を振るアクションにクレームが入ったために、本番では延々と上半身だけのアングルの放送を行うことを要求し、プレスリー自身の顰蹙を買ったという逸話も残っている[1]。
 1957(昭和32)年01月06日 3回目(最後の)出演 エルヴィス・プレスリー出演の際には寸前まで反対していた。しかし、プレスリーの真摯な態度を見たサリヴァンはプレスリーを「立派な若者です」と称賛し、実際に再度の出演も実現している(1956年9月9日、10月28日、1957年1月6日の通算3度出演)。また、プレスリーの最初の出演時には、全米視聴率が82.6%を記録している。3度目の出演時にはプレスリーの腰を振るアクションにクレームが入ったために、本番では延々と上半身だけのアングルの放送を行うことを要求し、プレスリー自身の顰蹙を買ったという逸話も残っている[1]。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC

 初来日したカーペンターズが屈辱を味わった日本武道館における第1回世界歌謡祭
 www.tapthepop.net
 1970(昭和45)年11月20日(金)から日本武道館で開催された第1回東京国際歌謡音楽祭(世界歌謡祭)は、日本で初めて行なわれた国際的なポピュラー音楽コンテストである。世界の38か国から選ばれた44アーティストが参加して、コンテストのために作られたオリジナル曲を競うという試みだった。司会は坂本九と作家の藤本義一、監修役の音楽プロデューサーとして名を連ねたのは石丸寛、いずみたく、中村八大、服部克久の4人。この音楽祭の意義について、服部克久は事前に「日本のポピュラー曲を世界という鏡にうつして、その位置を知る貴重な機会」だと語っていた。大きな円形舞台の中央には原信夫とシャープス・アンド・フラッツ、宮間利之とニューハードが揃っている。日本を代表するビッグバンドとオーケストラを作曲者が指揮し、歌手が歌って2日間の予選を行なう。その合格者によって最終日に本選が行われて、グランプリを競うという仕組みだった。審査員のなかに音楽の専門家をがいないという審査方法は、このイベントを企画したヤマハ音楽振興会の会長だった川上源一の発案である。海外参加国の各大使館から推薦された17人、日本の協賛企業各社推薦による27人、合わせて44人の審査員はいずれもアマチュアの音楽愛好家だった。普段からプロの音楽家の多くがコマーシャリズムに毒されていると感じていた川上は、音楽業界内のヒエラルキーなどに関係なく、アマチュアの審査員が素直に自分の感性で判断することによって、ほんとうにいい楽曲が発見されることを望んでいた。
 1970(昭和45)年11月20日(金)予選 16:00開場18:00開演21:00終演
‡1970(昭和45)年11月21日(土)予選 16:00開場18:00開演21:00終演
 1970(昭和45)年11月22日(日)本選 11:00開場13:00開演17:00終演
初日のコンテストで花をそえたゲストは伊東ゆかり、ピンキーとキラーズ、アメリカから迎えたThe Original Cast(オリジナル・キャスト)、そしてCarpenters(カーペンターズ)の4組だった。初来日のカーペンターズは
 1970(昭和45)年07月22日(水)に「遙かなる影(Close to you)」が全米チャートで1位になったばかりで、続く「愛のプレリュード(We’ve Only Just Begun)」もヒットし、アメリカではもっとも旬で有望な若手アーティストだ。ただし日本ではまだほとんど名も知られていない状態で、来日したのはリチャードとカレンのほかにはバンドのメンバーとマネージャーだけで、いつも一緒に仕事をしているステージ・クルーが同行していなかった。
 1970(昭和45)年11月20日(金)は大型イベントの第1回目で初日ということもあって、開演時間から進行に大幅な遅れが出て始まった。そして終演予定が21:00だったのに、カーペンターズに舞台が用意されたのは10時をまわっていたという。ステージ上ではメンバー自らが大急ぎでセッティングする有様で、キングレコードの担当ディレクターだった寒梅賢氏がこう回想している。ステージングをみていた私のところに、「カレンが呼んでいる」との声がかかり、飛んで行ったところ、ドラムスのセッティングを手伝って欲しいとの頼みでした。二人で金づちを持ち、創り上げました。楽しかった。だが、楽しいのはそこまでで、それからは悪夢のような体験になったという。8000人ほどいた観客は世界歌謡祭を見に来た一般客と協賛企業に関わりのある人たちで、カーペンターズの名前を知っている人がほとんどいなかったのだ。寒梅氏の言葉を続ける。確かではありませんが、カーペンターズの音が出たのは夜10時半過ぎ。恐ろしい光景が始まりました。今では考えられませんが、カーペンターズの演奏が始まった途端、お客が帰り始めたのです。帰りの電車のこともあったのでしょう。私はその時、ステージ横にいたのですが、ステージからは武道館の階段を出口に向かって歩くお客の後ろ姿しか見えません。長く音楽業界に生きてきて、一生一に回の経験でした。しかし、そうした屈辱を味ったにもかかわらず、カーペンターズのライブは見事なものだったという。彼らは自分たちが日本に来た真の目的を忘れずに、最悪ともいえる状況の中で全力を尽くしたのだ。ほとんど帰ってしまったお客の他に音楽業界のオピニオン・リーダーたちがいました。音楽評論家、ラジオ・ディレクター、TVディレクター、日本のミュージシャン、作曲家、アレンジャーの先生方です。皆の想いは一つ。レコードであの完璧ナサウンドがライブで実現できるかどうか、でした。リチャードは素晴らしかった。あの音がしっかり出ました。寒梅氏はその日の体験で、「日本でナンバー1にして見せる。一人も帰らない武道館コンサートをやって見せる」と固く決心したと述べている。
 http://www.tapthepop.net/extra/73167

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