人類初の宇宙犯罪か=NASA調査-米紙
2019(令和元)年08月25日(日) 16時29分
写真◆アン・マクレーン米宇宙飛行士=2014年1月撮影。米航空宇宙局(NASA)提供(AFP時事)
【ニューヨーク時事】国際宇宙ステーション(ISS)滞在中の米女性宇宙飛行士が、同性婚相手の銀行口座にオンラインで不正にアクセスした疑いで米航空宇宙局(NASA)が調査に乗り出している。
‡24日(土)付の米紙ニューヨーク・タイムズが伝えた。NASAが「人類初の宇宙での犯罪告発を受けて真相解明に取り組んでいる」と報じている。疑惑を持たれているのはアン・マクレーン飛行士。パートナーのサマー・ワーデンさんの息子の親権を求めて不仲になり、ワーデンさんが昨年、離婚を申し立てた。マクレーン飛行士は昨年12月から半年間、宇宙に滞在していた。ISSからワーデンさんの銀行口座をのぞき見していたと訴えられている。マクレーン飛行士は、家計管理のため以前からやっていた残高確認をしただけだと説明。口座へのアクセス禁止は聞いておらず、パスワードも変更されていなかったと反論している。 6月に宇宙から帰還したマクレーン飛行士を、ワーデンさん側は「不正なアクセスだ」と主張し連邦取引委員会(FTC)とNASAに告発した。NASAは2人から事情を聴くなどして調べを進めているという。
「おむすびころりん」と命名=りゅうぐうの人工クレーター-JAXA
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019082500321&g=int
史上初の宇宙犯罪? 原因は痴情のもつれ
Aug. 26(mon), 2019, 01:30 PM News Ellen Cranley
写真◆Aubrey Gemignani/NASA via Getty Images
NASAは宇宙飛行士が国際宇宙ステーションからパートナーの銀行口座へ不正アクセスしたとして訴えられた件について調査している。サマー・ワーデン氏は、自分の口座がNASAのコンピューターからアクセスされていることに気づき、アン・マクレーン飛行士が宇宙からアクセスしていたと判断した。訴状では、マクレーン飛行士が「高度に計算され、操作された策略」で口座にアクセスしたとしている。マクレーン飛行士は、調停中の共有財産を確認する権利があり、正当なアクセスだとしている。NASAが、国際宇宙ステーションでの任務中に、別居中の同性パートナーの銀行口座にアクセスしたとして宇宙飛行士が訴えられている件について調査中だと報じられた。ニューヨーク・タイムズによると、ベテラン宇宙飛行士でアメリカ陸軍中佐のアン・マクレーン(Anne McClain)氏は、宇宙にいる間にNASAのコンピューターを使い、サマー・ワーデン(Summer Worden)氏の銀行口座に不正にアクセスしたとして告発された。元アメリカ空軍情報将校のワーデン氏は、離婚調停中にマクレーン氏が具体的な支出について言及したことから疑念を抱くようになった、と同紙は伝えている。要請を受けた銀行が調査し、NASAのコンピュータ・ネットワークに登録された資格情報から口座にアクセスがあったことを確認したという。ワーデン氏は、資金の改ざんはなかったものの、マクレーン氏が口座の情報を盗み見ていたとしてアメリカ連邦取引委員会(FTC)に提訴した。マクレーン氏側は係争中の財産を監視するための正当な行為だとしている。別の訴状でワーデン氏の両親は、これは、二人が交際する1年前に生まれたワーデン氏の息子の親権を取得するために「高度に計算され、操作された策略」だと訴えた。しかし、同紙によると、マクレーン氏は交際中と同じパスワードを使っており、アカウントへのアクセスを止めるように言われたことがないと主張したという。マクレーン氏は、この件が大きく報道された後、Twitterで「(ワーデン氏の)主張には明白な真実はない」と述べ、事件は二人を巡る「痛みを伴う個人的な別離」の一部だとした。
https://www.businessinsider.jp/post-197346
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┃ 数え年と暦 ┃
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1997(平成九)年08月25日(月)
ひふみよいむなやこと。古代から、一(ひ)から十(と)までの数霊の全てを兼ね備えたのが人(ひと)とされてきました。「一から十まで」という表現は、今でも、始めから終わりまでという意味のように全事象を指し示す言葉として通用しています。我が国は、万葉集で山上憶良が詠ったように、「言霊の幸はふ國」であるとともに、このように「数霊の幸はふ國」でもあります。人々は季節の織りなす自然の中で生き、その暮らしや営みを支えるものを大切にしてきました。森羅万象は全て巡り巡って循環し、始めと終わりは表裏のものとして、特に、事物の始まりと終わりを神聖なものと認識して祭禮を執り行いました。そして、年、月、日、年号でも、その始め(初め)は一(元)であり、人の生まれの始め(初め)は一歳というように、人の暮らしと営みは農事と儀式の暦に従い、四季の移り変わりとともに月日を重ねてきました。ところが、権力的干渉によってこの伝統文化が破壊され、人の年齢だけは、その生まれの初めを零歳とすることが法律で決められて今日に至っています。それは、年齢計算ニ関スル法律(明治三十五年)と年齢のとなえ方に関する法律(昭和二十四年)の二つの法律によるものです。しかし、「いのち」は、母の胎内から始まり、出生から始まるものではありません。もし、年齢というものを「生命の年齢」、「生命年数」という意味に理解すれば、法律で強要された、いわゆる満年齢という数え方は、単に「出生後の生存年数」に過ぎず、「生命年数」とは全く異なります。現に、現代医学という名の施術を用いると、分娩を遅らせたり早めたりすることもできるし、意識が回復不能の状態でも生命維持装置を用いて限りなく延命することも、安楽死とか尊厳死という名でいのちの終わりを早めることもできるので、年齢を考えるにあたって、その始めも終わりも人為的に左右される満年齢という「出生後の生存年数」も決して正確なものではなく、殊更にこの年数に固執して年齢を表示する意味も薄らいでいます。その点、伝統的な数え年は、もののはじめが一であるという数霊に適うものであると同時に、この「生命年数」の理念に最も近いものでした。受精から出生までの
十月十日を出生時に一歳と認識して、その後の齢は暦計算に基づいて重ねていくものと捉えれば、生命年数の捉え方の理念としては最も合理性があると認められるからです。確かに、数え年という年齢計算は、科学的に正確な生命年数ではありませんが、太陽暦によっても、一年は三百六十五日ではなく、閏年や閏秒があることから、年齢計算を暦計算で行うことはやはり科学的には不正確と言わざるを得ません。ともあれ、現在の法律では、人は生まれたときは零歳ということになります。何とも奇妙であり、その「零歳」という響きには、いかがわしさすら感じられます。一(ひ)から始まらない生存は「ひと」ではありません。また、胎児はそれ以前ですから、理屈からすればマイナス年齢で表示されることになり、人としては認識されなくなりました。胎児の命は軽んじられ、堕胎に歯止めがないに等しい昨今の風潮が生まれる素地がここにあるのではないでしょうか。ところで、GHQの占領下では数多くの伝統破壊が行われましたが、伝統的な年齢計算が法律によって強引に否定されたのは戦前のことであり、いわば明治維新やその後の明治政府の施策によって、GHQによるものに勝るとも劣らないような伝統破壊や文化干渉がなされていることを忘れてはなりません。数え年の廃止も暦に関連した大事件ですが、これに勝るとも劣らない最大の事件としては、明治五年の太陽暦改暦があります。明治政府は、欧米諸国と暦を共通することによる外交上や貿易などの便益から、従来までの太陰太陽暦(旧暦)から太陽暦(グレゴリオ暦、新暦)への改暦を決定し、旧暦の
明治五年十二月三日を新暦の
明治六年一月一日(元旦)とすることを僅か二十三日前に発表して改暦を行いました。改暦を行うことが仮に時代の趨勢としてこれに抗することができなかったとしても、何故この時期に行ったかということが問われなければなりません。その理由は、一言で言えば、当時の政府が著しい財政難であったことが原因しています。つまり、旧暦によると翌年の明治六年には閏六月があり、十三ヶ月、三百八十四日となっていました。このままでは、官吏(公務員)の俸給(給料)を十三ヶ月分支払うことになります。そこで、旧暦の明治五年十二月三日を新暦の明治六年元旦とすれば、明治五年十二月は、一日と二日の二日間しかないので、この十二月分の給料を支払わずに済みますし、しかも、明治六年は十三ヶ月分の給料を支払うところを十二ヶ月分で済ませられるので、向こう一年で二ヶ月分の給料が節約できるとの計算から、そのように計画して実行したのです。そもそも暦を決定する権限は、古今東西において「王権」に属するものであるにもかかわらず、財政的な理由や諸外国に迎合することを善とした文明開化という名の伝統破壊思想によって、大御稜威を簒奪し、改暦による文化的・社会的な悪影響を全く考慮せずに、暦という重要な國體的素因を無造作に変更してしまったという過ちは、決してぬぐい去ることのできない汚点と言わざるをえません。近現代史の捉え方において、日本はいつでも悪いことをやってきた犯罪国家であるとするコミンテルン史観や東京裁判史観などは論外ですが、戦争に勝っているころ(明治時代)の日本は正しいが、昭和に入って負けてきたころ以降の日本は悪かったとする司馬遼太郎の歴史観にもほとほと呆れ果てます。これは、昭和初期から敗戦までの日本は日本でありながら日本ではないとする断絶史観です。戦前は悪で、戦後は善とする戦後保守思想もこれと同列のものです。歴史は連続しており、金太郎飴のように、どこを切ってみても「日本」なのです。こんな単細胞的な司馬史観などが最近ではもてはやされていますが、司馬遼太郎が大好きな、明るく逞しい明治維新や日清・日露戦争は、同じく大嫌いな、暗くて苦しい昭和史を作った最大の原因であったことを自覚すれば、歴史の評価においては、一時代に限って全肯定したり全否定したりすることが如何に愚かしいものであるかが解ります。光と影の双方を見つめなければ、歴史の立体構造を知ることができません。その意味でも明治維新や明治政府の施策を全肯定することも全否定することもできません。この改暦も、数え年の廃止も、明治維新を遂行した明治政府が、我が国の伝統を破壊して歴史に禍根を残している一例なのです。しかし、この改暦や数え年の廃止がもたらした功罪について、今まで誰も本格的に論じていなかったことが不思議でなりません。ともあれ、我が国の歴史は、修理固成の御神勅のとおり歩んで行くと信ずるがゆえに、この改暦による弊害はいつの日か治癒されると確信します。太陰太陽暦には、確かに難点はありましたが、決して致命的な欠陥はなく、実生活の面において多くの利点と効用があります。現代において、これを単純に復活させ、新暦を廃止せよというものではありませんが、せめて韓国のように、新暦と旧暦の併記併用を公式に認めさせるべきです。そして、さらに旧暦の併記併用型の復活に際しては次のことが考慮されなければなりません。それは、新暦を従来どおり主たる暦として使用継続する場合であっても、元旦を立春とする古式伝統を復活させるべきではないか、ということです。そもそも、ユダヤ暦のような純粋な太陰暦ではなく、太陽の運行をも考慮した太陰太陽暦は、元旦を立春に近い日になるように定められており、理想としては、立春を元旦とすることでした。しかし、新月の日(月立ちの日、朔日)と満月の日(十五日)の限定から、どうしても元旦と立春とのズレを生じますが、我が国の古式伝統では、立春を元旦として新年新春を祝います。そして、今でも、地方では、立春を元旦とし、その前日の節分を大晦日とする風習が残っており、それは、正月(睦月)を春の初めとする日本書紀の記述に由来していると思われます。「辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮。是歳為天皇元年。」。これは、神武天皇が橿原の宮で践祚された神武肇國に関する日本書紀の記述部分です。中国暦(陰暦)の影響を強く受けた記述ではありますが、「春正月」(はるむつき)という表記は、立春を元旦(朔)としている意味と解釈できるからです。立春は、太陽の運行に基づき地球の北半球で観測した春の始まりであり、これが我が国の季節の始まり、年の始まり、暮らしと営みの始まりとして、二十四節気の内で最も重要なものです。この立春を暦の元基となる節日(基日、元日、元旦)するものが真の太陽暦なのです。戦前においてもこの神武肇國の記述から紀元節を何時と定めるかについて諸説があり、戦前から二月十一日となっていますが、立春とするのが自然な解釈のはずです。太陽の運行や節気とは無関係で何ら意味のない日に即位されたとする解釈の方が不自然でしょう。ともあれ、「春正月朔」が立春であることから、正月の挨拶には、新年を「初春」、「迎春」、「新春」などの言葉で表現し、これが季語にもなっています。しかし、今の新暦では立春が
二月四日(ころ)ですから、元旦は真冬であり、「春」ではないのです。一年は、春夏秋冬ではなく、冬春夏秋冬であり、冬が始めと終わりに跨った変則的なものとなっています。そして、冬なのに「初春」という季節はずれの挨拶や白々しい季語がまかり通るため、「言霊」と「数霊」が阻害され、この季節と暦の「ずれ」により人々は健全な季節感を失ってしまっているのです。一年の始まりが正月(睦月)であり、それが春夏秋冬の季節の始まりの春であることからすれば、立春より約三十四日前の何ら意味のない日を元旦としている新暦よりも、農事暦でもある旧暦の方が季節感と合致しています。八十八夜とか、二百十日、二百二十日などという生活に密着したものも、立春から日数を数えますので、例え現在の太陽暦をそのまま継続採用するとしても、元旦を約三十四日ずらして立春を元旦とする暦へと変更すれば、これらの矛盾やズレはなくなり、季節の始まりは春であり、一年の始まりは春正月として、人々の暮らしと営みに伝統の智恵が蘇ることになるはずです。これは日本暦(真正太陽暦)の創設です。これは、戦前の国際連盟において、伊勢の皇太神宮を基点として、その真上の天空を通る子午線を基準とした真正太陽暦を採用したうえで立春を元旦とすることが検討されていたのですが、残念なことに、日本が昭和八年三月に国際連盟を脱退したことによってその採用が見送りとなったという経緯がありました。そして、この真正太陽暦の採用と同時に、皇紀紀元の復活がなされなければなりません。皇紀紀元は日本暦(真正太陽暦)の創設と一体とならなければ歴史的意義が損なわれるからです。ところで、現在広く用いられている西暦紀元は、ラテン語でアンノ・ド・ミニ(AD)、つまり、イエス・キリストが支配君臨している年数という意味のキリスト教紀元(基紀)であり、キリスト教国でない日本がこの宗教暦を無批判に受け入れ、国民にその使用を実質的に強制していることは、イスラム暦、ユダヤ暦、チベット暦など固有の紀元を採用している世界の国々などから顰蹙をかっています。キリスト教暦を受け入れていることは、キリスト教を国教として受容したものとみなされるからです。いわば、国民の全てがクリスチャンであると思われているのです。また、アジアでも新暦のみで元旦を祝う国は日本だけで、多くの国では旧暦の元旦の方を盛大に祝っていますが、正常な季節感からすれば、旧暦元旦、もっと正確には立春を新春として祝う方が自然です。このように、我が国の現状は、暦に関する文化的価値と宗教的意義について余りにも無頓着、無神経であり、二十一世紀だとか、ミレニアムなどと無邪気にはしゃいでいる姿は、誠に嘆かわしい限りです。しかし、宗教暦の強制は憲法的にも許されませんので、一日も早くキリスト教暦(西暦)による基紀紀元を廃して皇紀紀元に改めるべきことは言うまでもありません。ところで、この日本暦(真正太陽暦)は、さらに改良の余地はありますが、現在通用しているグレゴリオ暦(新暦)とは大きく矛盾しません。いわゆるサマータイムと同じ要領です。暦日が約三十四日ずれるに過ぎません。現在の元旦が我が国にとって全く意味のない日であるがゆえに、これを意味のある立春にしようとするものです。そして、これは、単なる古式伝統の復活ではなく、生活に密着した実利性の復活でもあり、実際にも実現可能なことです。このように、人と社会と国家の「いのち」を守るためも、
一 数え年の復活
二 太陰太陽暦の併記併用
三 立春を元旦とする真正太陽暦(日本暦)の採用
四 西紀(基紀)の廃止と皇紀の復活 の四つについて、その公式化を実現させることが必要であり、これを暦に関する文化復興運動として提唱したいと考えます。
‡1997(平成九)年08月24日(日)記す 南出喜久治
http://kokutaigoji.com/reports/rp_h90824.html
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┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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2006(平成18)年08月24日(木) 冥王星が惑星から降格 ⇒ 国際天文学連合(IAU)総会で、冥王星が惑星から「矮(わい)惑星」に降格された(後に「準惑星」に)。軌道が一部重なる海王星より格段に小さく、周辺に同様の天体が存在するため、惑星の座から滑り落ちた。写真は、太陽系惑星数を8個に減らす案に賛成の挙手をする総会参加者ら=プラハ【EPA時事】
1955(昭和30)年08月24日(水) 森永ヒ素ミルク中毒事件が表面化。被害者は約1万3400人、死者130人
1991(平成三)年08月24日(土) ソ連のゴルバチョフ大統領が共産党書記長辞任と同党解散を宣言
https://www.jiji.com/jc/daily
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┃ 王貞治 節目の記録 ┃
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‡1966(昭和41)年08月24日(水) 1000試合出場 対広島カープ21回戦 後楽園球場 3番・一塁手で先発出場 ※史上116人目
‡1968(昭和43)年08月24日(土) 1000試合出場 対広島カープ21回戦 後楽園球場 3番・一塁手で先発出場 ※史上116人目
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https://ja.wikipedia.org/wiki/王貞治
https://www.uta-net.com/song/2025
https://www.uta-net.com/song/78844
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┃ 王貞治756号本塁打40周年記念企画 ┃写真=BBM
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【王貞治756号本塁打(07)】バットへの信頼
‡1977(昭和52)年08月24日(水) 751号 vs広島
‡2017(平成29)年08月24日(木) 17:05 1977年、今から40年前、大げさではなく、日本中がプロ野球に熱狂した時期がある。王貞治のハンク・アーロンが持つ当時のメジャー最多記録通算755号本塁打への挑戦だ。アーロンはブレーブス、ブリュワーズで76年まで現役を続けたホームランバッターだが、その引退翌年に王が世界記録を狙うのも、面白いめぐり合わせではある。週刊ベースボールでは、9月3日、756号の世界新記録達成までのカウントダウンを当時、王がホームランを打った日に合わせながら、写真とともに振り返る。
◎新しいバットでも感触を確かめない
写真◆ホームランかファウルかを見極める王
8月23日、広島市民球場で広島・池谷公二郎から750号を放った後、翌24日も同球場で広島との戦いだったが5回表一死一塁で高橋里志のフォークをとらえ、751号を右翼スタンドに放り込んだ。ポールを巻くような当たりだったこともあり、「打った瞬間、距離は十分と思ったが、あとは切れるかどうか」と思った王は、二、三歩進んだ後で止まり、中腰のまま打球を見守った。
王はそれまで高橋里を苦手にし、通算(74~80年)でも57打数12安打、打率.211だったが、高橋里は「今の王さんは抑えられないよ」と脱帽。大記録に向け、日に日に集中力が増していった。
このホームランの記事が載った『週刊ベースボール』には、さまざまな周辺記事があったが、今回はそのうちバットについての記事を掲載してみよう。
早実の大先輩でもある石井順一氏の「圧縮バット」だ(現在は使用禁止)。かつて、バットはトネリコの木が多く使われていたが、良材質の確保が難しくなったことでヤチダモ、アオダモに変わっていった。石井が使っていたのは、北海道十勝産のヤチダモだ。ヤチダモは、それまで軟式用バットには使われていたが、弾力性がありながらも木質が柔らかで折れやすいため、硬式用は難しいとされていた。
そのために石井氏が編み出した製法は、熱処理で木材の水分を飛ばした後、真空状態とした中で水分の代わりに樹脂を注入し、高熱でバットの型にはめ込んだ後、圧力をかけて木目を締めていくというものだった。
「サムライの刀が武士の魂といわれるように、打者にとってはバットが魂」と語る石井氏は、王のために厳選した木材をバッティングのクセ、力などに合わせ、手づくりした。石井氏は早実、早大の名選手で、習志野高時代の谷沢健一(のち中日)を指導し、谷沢はいまも「僕の打撃の師匠」と言っている。
王も石井氏に絶対の信頼を寄せ、新しいバットが来ても感触を確かめることもなく、すぐ使った。
「試合中、たまたまヒビが入ったんで、新しいバットをビニール袋から初めて出して使い、ホームランを打ったこともある。僕にはバランスを確かめたりする必要がないんだ」(王)<次回に続く>
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https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170824-13
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1999(平成11)年08月24日(火) イチローが自己最多本塁打を前に死球で長期離脱
‡2018(平成30)年08月24日(木) 8:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は8月24日だ。
写真◆西武の新人・松坂大輔との対戦など話題の多いシーズンでもあった
8月22日にメジャー時代では最長距離となる132メートルのホームランを代打で放ち、注目された日米球界のレジェンド、イチロー(マーリンズ)。打撃練習の終盤には、いつもスピンをかけたような打球をスタンドに次々とぶち込み、“その気”になれば、ホームランを狙う技術を持っていることは周知の事実だ。
そのイチローのシーズン最多本塁打は、首位打者に加え、80打点で打点王にも輝いた1995年の25本。盗塁王も手にしているが、実は同年のホームラン王はダイエー・小久保裕紀の28本。“四冠王”の可能性も十分にあったということだ。
前年の94年、初の規定打席到達で、日本史上初の200安打超え(210安打)、首位打者獲得と大ブレークしたイチローだが、チームが優勝を逃した悔しさから、この年は打点にこだわった結果でもあった。
1999年は、イチローが自己最高の長打率.572をマークしたシーズンだ。102試合を終えた時点で21本塁打、自己最多本塁打更新は確実かと思われた。
事件が起こったのが、103試合目の8月24日、富山での日本ハム戦だった。三番打者のイチローは7回裏に日本ハム四番手の下柳剛から右手首に死球を受け、交代。翌25日の試合を欠場し、94年開幕日以来の連続出場は763試合でストップした。つまり「イチロー」となって初めて1試合まるまるスコアボードから名前が消えたことになる。
故障は長引き、そのまま閉幕まで復帰はなかった。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1997(平成九)年08月24日(日) いてまえ打線の真骨頂! 近鉄がパ初の大逆転勝利
‡2019(令和元)年08月24日(土) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は1997年8月24日だ。
写真◆クラークのサヨナラ弾で近鉄が大逆転勝利を収めた
この日、大阪ドームで行われたロッテ戦で近鉄がミラクルを起こした。1、2回に投手陣がロッテ打線に11安打を浴び、2回を終わって0対10と完全なロッテペース。ところが、ここから驚異の粘りを見せた。
3、4回に1点ずつを返した後、5回に4点、7回に3点を奪い9対10。この時点で早くもベンチはお祭り騒ぎとなった。「いけるぞ」「歴史に残る大逆転や」。そんな声が自然に沸き上がった。
そして9回、二走・武藤孝司が三盗。これにあわてたロッテの捕手・吉鶴憲治の悪送球で、ついに10対10の同点。さらに延長12回、フィル・クラークがセンターオーバーのサヨナラ弾を放って近鉄が大逆転勝利を収めた。
「もちろん大リーグでもこんな経験はないよ。今はとてもエキサイトしている」とクラーク。10点差の逆転は史上3度目の出来事でパ・リーグでは初。佐々木恭介監督は「10点差を追い上げた打線は称賛に値する。このナインと野球ができることがうれしい」とほおを緩めた。
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①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170824-11
②https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190824-12
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.326 ┃ 50円
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‡1964(昭和39)年08月24日(月)号 長嶋茂雄、ホームスチールの波乱
2018(平成30)年10月25日(木) 12:15 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎阪急日本一の応援団
写真◆表紙は巨人・長嶋茂雄
今回は『1964年8月24日号』。定価は50円だ。
巨人・王貞治のホームランラッシュが止まらない。
8月9日の大洋戦、ダブルヘッダー2試合で3本塁打。これで44号となった。残り31試合。52本の日本記録更新も一気に見えてきた。
一方、この連敗で大洋は首位陥落。阪神がトップに立った。阪神の追い込みのキーマンは山内一弘に代わって四番に入った遠井吾郎。「座り心地はいいな」と本人も乗っている。
遠井は、暑い夏場にもかかわらず体重増。理由を聞くと、
「たぶんビールだね」
と答えた。ビールを飲んでたらふく肉を食って寝る。これが遠井の夏バテ防止法らしい。
そういえば、先日、広岡達朗氏の取材をした際、「長嶋のホームスチールに怒って、試合の途中で帰った」と言っていた。はっきりとした日付はおっしゃっていなかったが、この号では長嶋がホームスチールで批判を浴びている、という記事があった。
場面は8月4日、6日の国鉄戦。打席はいずれも広岡だった。
4日は二死三塁から。川上哲治監督から1球目で「いけるところでいけ」とサインが出たが、2ストライクから走り、長嶋が滑り込む前に広岡が見逃し三振となった。
6日はサインはなかった。長嶋の言葉を紹介する。
「あのときは2対0で負けていたんですよ。何とか1点をほしかった。そうしたら不思議とホームが近く見えて、邪魔者が何もないような気がしたんですよ」
だが、結果はまたも失敗。2つとも広岡には知らされておらず、あとで随分、怒られたようだ。
パでも首位交代。阪急を抜いてトップに立った南海では、アンダースローの杉浦忠が8月9日、13連勝を飾り、その原動力になっていた。
本人は「不思議なんや。当然黒星がつくゲームも誰かが助けてくれる」と話していた。
捕手の野村克也は、
「スピード、キレは昔と比べりゃ雲泥の差さ。だがな、往年のスギより野球への執着心がある。蚊の止まるようなスローボールを投げても、その1球に全力を入れて投げよる。血のかよったボールは、そこいらのヘナチョコバッターには打てん」
ただ、抜かれた阪急も盛り上がっている。西宮の試合には阪急グループから1万人近くを動員。なかには百貨店、電鉄だけでなく、宝塚ガール100人、3年連続日本一の阪急吹奏楽団も集まり、かなり賑やかだった。
では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.124 ┃ 30円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1960(昭和35)年8月24日(水)号 特集 巨人にかくし投手がいた? 優勝を夫に賭ける 鶴岡一子、西本和子
2018(平成30)年2月28日(水) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎速報『中西ついに主将を返上』
写真◆表紙は南海・杉浦忠
今回は『1960年8月24日号』。定価は30円だ。巻頭グラビアは『板東“完全試合”を逸す』。8月2日、熱帯夜の中日球場で中日の2年目、板東英二が巨人を相手に完全試合あと一歩まで迫った試合を特集(最終的には3対1で中日勝利)。板東は「巨人戦に投げるのは三度の飯より好き」と語っていた。
巻頭特集は『巨人にかくし投手がいた?』。巨人不振時の恒例企画のようでもあるが、投手陣が堀本律雄とせいぜい大ベテラン・別所毅彦しか当てにならない状況で、在野に新戦力を求めていたらしい。候補として外国人投手、アマチュア選手の名が挙がっていたが、記事を読む限り、あまり現実的な話ではなかったようだ。なお、前年の企画では、これに堀本の名前が挙がっていた。
中日については『杉下茂は男になれるか』という記事があった。監督2年目の杉下の下、セの首位を走っていた中日だが、「ファンだけでなく杉下はだれにでもソッポを向かれている」と手厳しい。本当かどうかは分からないが、好き嫌いで選手を起用しているという批判が多かったらしい。この人の性格を考えると、ありえないようにも思うが。
連載『佐々木信也対談』は、その中日の四番打者・森徹が登場。「昼間は暑くて大変だから、試合が終わってからにしませんか」という森の提案でスタートは夜11時、いわば「真夜中の対談」だった。
パで熾烈な優勝争いを演じていた大毎、南海関連では、『優勝を夫に賭ける』という記事で南海・鶴岡一人監督夫人の一子さん、大毎・西本幸雄監督夫人の和子さんが登場。
後妻でもあった一子夫人の話は、次の逸話から始まる。59年南海が初の日本一に輝き、御堂筋パレードが行われたが、前夜、夫人がひそかに宿舎の鶴岡に届けさせたのは、その1年前に亡くなった前夫人・文子さんの位牌だった。宝塚出身だったというが、気配りに長け、鶴岡と文子さんとの子どもたちとも仲良くやっていた。
西本夫人の和子さんは、非常に物静かで、野球のことはあまり知らない。西本監督は家でも無口だったらしく、静かな家庭だったようだ。文中では「敗戦を境に消えてしまった古い日本の女の美しさをもった和子夫人」とあった。
速報『中西ついに主将を返上』では左手首の故障に苦しむ西鉄・中西太がシーズン中にもかかわらず、主将を返上したという内容。「働きもしないのに主将を受けていましたが、いまの状態ではファンに対しても申し訳ない」と会見で語っていた。
以下は宣伝です。しばらく、まったく同じ文を掲載します。
現在、週刊ベースボール60周年企画として「週べでつづる12球団史」を制作中。第1弾は3月14日発売予定の巨人編です。
では、またあした。<次回に続く>
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓盛夏読物特集号
③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.648 ┃ 90円
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‡1970(昭和45)年08月24日(月)特大号 永田雅一オーナーの悲願、巨人─ロッテの日本シリーズなるか
2020(令和二)年02月14日(金) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎荒川の異様な帰国風景
写真◆表紙は近鉄・太田幸司
今回は『1970年8月24日特大号』。定価は90円。
パはロッテが独走、セはおそらく巨人。早くも巻頭記事ではロッテ─巨人の日本シリーズを占っている。
ロッテサイドからのポイントは7月末時点で29本塁打の王貞治をどう攻略するか、だ。
王、長嶋茂雄のコース別打率が出ていた。この時代では珍しいので掲載しておく(7月末日)。
王
内角
高め.550、真ん中.424、低め.124。
真ん中
高め.438、真ん中.545、低め.261。
外角
高め.250、真ん中.250、低め.143。
王自身は「僕がいくら打っても、ちょうどホームプレートを立てたような形しか打てない(下側の両端が欠ける)。両サイドの低めは本当に打てないものだねえ」と話していた。
長嶋
内角
高め.389、真ん中.370、低め.133。
真ん中
高め.423、真ん中.625、低め.333。
外角
高め.188、真ん中.185、低め.159。
この成績を見ると外角はまったく打てていないが、前年の成績は、
高め.324、真ん中.333、低め.141
と低め以外は悪くない。
誰がデータを取ったかは書いてないが、よく調べたものだ。
ロッテ独走で「舌口調」になりそうな永田雅一オーナーだが、顔色があまりよくない。実は「食欲があるのに体重が減る」ということで検査を受けると、胃に小さな影があったらしい。
それでも対巨人の日本シリーズは楽しみでたまらない。
「大洋よりお客さんは入るだろう」
とニコニコだ。前回60年の優勝の相手は大洋だったが、4連敗であっけなく散った。翌年のキャンプで永田は選手たちに「私を男にしてくれ!」と叫んだという。
あれから10年優勝から遠ざかった。私財をなげうったとも言われる東京スタジアムはできたが、社業が傾き、球団名もロッテと変わった。
ただ、だからこそ永田の球団への愛は深くなる。
東京球場の試合にはできる限り足を運んだ。「わしが来ると勝つ」という信念があるからだ。
タイムスケジュールはほぼ同じだ。試合開始1時間前に球場に到着。会長室で一息を入れ、ロッカールームで選手を激励し、球団幹部室へ。ここにまつってある日蓮さまの神棚の2本のローソクを立て、灯をつけると、かしわ手を打って必勝祈願。
試合中はネット裏の幹部室で見守り、打席に聞こえるほどの大声で悔しがったり、喜んだりする。そしてチームが勝つとロッカーに姿を現し、「よー、ご苦労」から始まり、選手を祝福。さらに報道陣に向かって永田節をまくしたてる。
これほど熱心なオーナーもいないだろう。
7月22日には大洋から1位指名されながら拒否し、アメリカ留学をしていた荒川堯が帰国。メジャーの練習参加がうまくいかず、昼間はなぜかボクシングジムでトレーニングをし、ホームステイ先で素振り、壁に球をぶつけるだけだった。
ただ、50試合以上ドジャースの試合を観戦し、選手たちとも交流。なかなか楽しかったようだ。
荒川の日本での帰国風景が物議を醸した。羽田空港には義父の荒川博・巨人コーチ夫妻だけでなく、王、黒江、末次、新人の小坂、阿野(2人は早大同期)が出迎えた。
在京チームのスカウトは怒りの表情で言う。
「あれは完全な演出ですよ。もう巨人に決まったといわんばかり。あれが許せない。新聞を読んだ人もそんなもんかと思い込んでしまうじゃないか。まあ、逆にファイトがわいたけどね」
では、また月曜に。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20181025-02
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180228-12
③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200214-01
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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①┃ Jackie Robinson ジャッキー・ロビンソン ┃
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1919(大正八)年01月31日(fri) Born
‡1948(昭和23)年08月24日(tue) ストライクの判定をめぐってロビンソンとチームメイトは抗議し続けたため.審判は警告。ロビンソンだけはその後も抗議し続けたため退場させられた。ロビンソンは「黒人という理由で退場させられなかったためうれしかった」というヨ(=^◇^=)
1972(昭和47)年10月24日(tue) Died (aged 53)
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②┃ 『42~世界を変えた男~』 ┃
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2013(平成25)年04月12日(fri) US released
2013(平成25)年04月15日(mon) US&カナダ公開3日で2730万ドル(約27億円)初登場1位、野球映画史上最高のオープニング記録達成
2013(平成25)年11月01日(fri) JP released
1945(昭和20)年08月28日(tue) 0:09:16 Brooklyn Dodgers契約試験
1947(昭和22)年04月15日(tue) 1:03:00“EBBETS FIELD”Opening Day“エベッツ・フィールド”開幕戦
amazon・・・4月15日。その日、大リーグではグラウンドにいる全員が背番号「42」をつける。どのチームの、どの選手も。敵も、味方も、関係なく。「42」――それは、大リーグで唯一の、全球団共通の永久欠番。その裏側に、鳥肌の立つようなドラマがあった。Rating G (C) 2013 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.
************ https://www.uta-net.com/song/78844
①https://en.wikipedia.org/wiki/Jackie_Robinson
②https://en.wikipedia.org/wiki/42_(film)
②https://www.amazon.co.jp/dp/B00JCUV2AG
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