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過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)


 第2回余るライオン「猫より安い」 動物交換、その実態は
 2020(令和二)年09月18日(金) 16時36分 太田匡彦
【動画】「動物たちはどこへ 変わりゆく動物園」 転換期を迎えた動物園の実態に迫ります
 2020(令和二)年03月31日(火)、1頭のライオンが広島市安佐動物公園を後にした。行き先は、500キロあまり離れた豊橋総合動植物公園(愛知県豊橋市)。輸送業者のトラックに乗せられたライオンは1歳のオスで、まだたてがみは生えそろっていない。名前は、アースといった。
 アースは2018年秋の同じ時期に生まれた3頭のうちの、最後に残った子だった。ほかの2頭は先に無償で他園へと引き取られ、アースも無償で譲られた。
‡2020(令和二)年03月30日(月)写真◆広島市安佐動物公園で公開されていたライオンのアース=瀬戸口翼撮影
 市民から人気もあったライオンの子どもたちをなぜ他園にあげてしまうのか。動物取引に詳しい動物商、レップジャパン(静岡市)の白輪剛史(しらわつよし)代表はこう解説する。「ライオンは余っている。ほしいと言ったらタダでくれるところはいくらでもある。買うとしても20万円程度。猫より安い」
■生まれる前から余る運命 カバの出目丸は異国へ旅立った ⇒ 朝日新聞の調べによると、14年度からの5年間で全国の公立動物園から搬出されたライオンは14頭いたが、そのうち11頭が無料でもらわれていった。このほか、たとえば熊本市動植物園は15年、私立動物園から10万円で雄ライオンを購入。東京都の資料では、ライオンの資産価値は10万円と見積もっている。一方、ペットショップで20万~40万円で売られる猫もいる。
■プレミアムA 動物たちはどこへ 変わりゆく動物園■日本に動物園ができてまもなく140年。これからも存在していくために、果たすべき役割は何か。情報公開請求して入手した84の公立動物園の資料と取材をもとに、動物園が抱える理想と現実、ひずみに迫ります。
 白輪さんによると、ライオンは… ⇒ この記事は有料会員記事有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。
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 https://www.asahi.com/articles/ASN9G72CSN8QUTIL011.html

 西条店(広島県)オープンのお知らせ
 この度、広島県東広島市に、西条店を開店する運びとなりました。
 2019(平成31)年03月29日(金) 11:00 開店日
‡2019(平成31)年03月30日(土) 
 2019(平成31)年03月31日(日) 
【住 所】広島県東広島市西条西本町27-34 ハローズ敷地内
 オープン初日から3日間(3/29・30・31)は、半額セールを開催致します!
◆こってりラーメン(並)…通常700円が、350円!!
◆鶏餃子…通常300円が、150円!!
◆ごはん…通常170円が、85円!!とてもお得なセールです!!
※各日、700杯限定となっております。皆様お誘いあわせの上、是非お越しください。ご来店、従業員一同心よりお待ちしております。
 http://www.w101.jp/y/n286.htm

 ┏━━━━━━┓
 ┃ 織田幹雄 ┃
 ┗━━━━━━┛☆\(=^◇^=)/☆
 日本人初のオリンピック(金)メダリストだヨ(=^◇^=)O♂
‡1905(明治38)年03月30日(木) 広島県安芸郡海田市町 ※現:海田町稲荷町
 1928(昭和三)年07月28日(土) 走高跳 1m88で8位
 1928(昭和三)年08月02日(木) 三段跳 予選15m21トップ記録で決勝 日本人初金メダル獲得
 1998(平成十)年12月02日(水) 神奈川県鎌倉市 93歳没
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/織田幹雄
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 日本人初の金メダリスト 広島出身 織田幹雄の「超人力」に迫る
 2020(令和二)年06月16日(火)  20:00 掲載 TSSテレビ新広島 地域 生活 スポーツ 
 7月から開催される予定だった東京オリンピックと共に大きな注目を浴びるはずだった施設が、海田町にオープンしました。日本初の金メダリスト織田幹雄さんの知られざる物語に迫ります。皆さんはご存じですか。日本初の金メダルリストを。想像を超えた「人間の力」を。そして、その金メダルが今、広島にあることを。100年近く前に行われたアムステルダム・オリンピック。この大舞台、三段跳びで優勝を果たし、日本初の金メダルを手にした人物がいます。織田幹雄。当時23歳。この男の情熱が日本のオリンピックの歴史を切り開いたのです。織田さんの故郷、海田町に先月、その功績を称える記念館が誕生しました。ここには織田さんのことがよく分かるちょっとした仕掛けがあります。
【織田幹雄記念館・小谷幸子館長】「織田幹雄さんが三段跳びで金メダルを取られたときの記録を体感していただこうということで足型があります」通路の端に左右並んだ足型が。これは一体?「これが最後15メートル21センチ、着地したときの足型でじつはもっと向こうのほうにホップステップジャンプと足型が続いているんですスタートがこちらになります」織田さんが三段跳びで記録した15メートル21センチ。その着地点を実際の距離で再現してあるんです。
【やりとり】「(すごい距離ですね)結構挑まれます(挑まれます?挑みましょうか?挑んでみましょうか)」
【前田記者が三段跳びに挑戦】「全然ダメ。織田さんの1歩にもなりません織田さんは3歩であそこまで跳んだということですもんね)」
【織田幹雄記念館・小谷幸子館長】「その距離を目で見ていただくことですごい記録だというのが体感していただける」窓ガラスにはこの記録をつくったときのシルエットを再現、織田さんがどのようにして跳んだのかがわかります。このほかにも…
【織田幹雄記念館・小谷幸子館長】「走高跳びの記録です。こちらが織田さんが高跳びを始めて初めて記録を残されたのが157センチ15歳で跳ばれたときは織田さんの身長は157センチなかったということですから初めて跳ばれて自分の身長よりも高いところを跳んだわけです」17歳の時には高跳びで日本新記録を達成。驚くのは、その跳び方です。
【織田幹雄記念館・小谷幸子館長】「今高跳びというと背面跳びとかそういうイメージがあると思うんですが織田さんの時代は挟み跳びで(挟み跳び)挟み跳びで跳ばれてますね」なんとバーを足で挟んで跳び越える「挟み跳び」で残した記録なんです。生涯では192センチの最高記録を残しています。織田さんは15歳で陸上競技と出会いオリンピックのことを知りました。
【織田幹雄記念館・小谷幸子館長】「オリンピックという言葉を初めて聞いて日本の代表になりたいオリンピックに出たいという気持ちが15歳のノートなんですけどとてもよく表れていると思います。今と違って陸上に対する情報もすごく少ないですから自分で情報を集めてみんなの記録を調べたりどういうふうにしたら跳べるかという創意工夫をずっと重ねていかれた方なので」1928年、織田さんはシベリア鉄道でオランダ・アムステルダムのオリンピック会場へと向かいました。今では考えられない1ヵ月の長旅。移動中もトレーニングは欠かしませんでした。
【織田さんの日記から】
 1928(昭和三)年08月02日(木)「8月2日。最後の日だ」出場したほかの競技は予選落ち。最後の競技が三段跳びでした。ホップ、ステップ、ジャンプ。織田さんが見出した6・4・5の黄金比で15メートル21センチを記録。競技場に掲げられた大きな日の丸は急遽、用意されたもの。日本人の優勝が予想外であったことを物語っています。
【織田幹雄記念館・小谷幸子館長】「開館にあたって秩父宮記念スポーツ博物館からお借りしているもので実物の金メダルが今9月までご覧いただける銀の地に金でメッキをしてあったんですね当時は全部純金ではなくて部分的にですが少しまだ金の輝きがあったりします」この金メダルと当日、胸に着けていたマーク、陸上競技のプログラムは今回、期間限定で特別に展示されているものです。
 ※織田さんは世界40ヵ国以上でコーチを務め生涯をスポーツの発展に尽くしました。そこには織田さんが伝えようとしたものがあります。晩年、小田さんは、「僕は一つの楽しみだったどんなに苦しいことがあっても成績が上がるあるいは人に勝てる楽しいんですだからどんなことでもやれたわけですだから今も私はスポーツは楽しくなきゃいけないそうでなくて苦しいんだったらスポーツの意味はないと思っている」という言葉を残していました。
 https://www.tss-tv.co.jp/tssnews/000006347.html
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 ┃ 織田幹雄さん ┃
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 2017(平成29)年07月14日(金) 更新 掲載日
■織田幹雄さんの生涯
☆幼少期☆織田幹雄さんは、
‡1905(明治38)年03月30日(木)に広島県海田市町(現・安芸郡海田町)で生まれました。身体は小さくても丈夫で、成績は優秀でした。学校から帰れば、近所の子どもたちと野山をかけまわっていました。この遊びを通じて、運動神経や強いバネが養われたそうです。人前でおしゃべりをしたり、何かやることは苦手な恥ずかしがりやさんでした。織田さんは6人兄弟の3番目。家の手伝いは何でもやりました。井戸から水をくみ、風呂を焚く。他の手伝いも、工夫をこらしながら進めると、面白いようにはかどったそうです。
☆陸上競技との出会い☆鼓浦尋常高等小学校(現・海田小学校)に通っていた織田さんは、両親に経済的な負担をかけまいと、中学進学をあきらめかけていました。小学5年のとき、担任だった檜垣先生が父親を説得し、念願だった広島中(後の広島第一中学、現在の広島国泰寺高校)に進学します。中学1年のとき、あがり症の織田さんは、人前で跳躍がうまくできませんでした。体操の教官・宇佐美先生から1週間の補講を受けて練習を重ねたところ、クラスで一番高く跳べたそうです。織田さんは大いに褒められました。それからすっかり体が楽になり、人前でも平気で跳躍ができるようになったそうです。織田さんの才能に気づいていた宇佐美先生は、アントワープオリンピックから帰った野口源三郎選手の講習会への参加を勧めました。その講習会で、織田さんは、陸上にいろいろな種目があることを学んだそうです。それまでは「陸上競技という言葉も知らなかった」と振り返っています。講習会の中で行われた記録会(走高跳)で、身長155cmの織田さんは、157cmのバーを越えました。(記録については諸説あり)「小さいのによく跳ぶな。君は練習すればきっと日本の代表になれるぞ。」織田さんは、野口選手にこう声をかけられました。この一言が後の跳躍人生のきっかけとなりました。そのころ、サッカー部に所属していた織田さんは、新設された「徒歩部」へ入部します。織田さんは、サッカー部以外は許されていなかった全国大会への参加を校長先生に直訴します。「きっと優勝します」そう言った織田さんに校長先生は身銭を切って遠征を許可します。夏休みの40日間、校長と交わした「優勝」という約束を胸に、練習を1日も休まず続けました。結果は見事総合優勝。織田さんは、運命的な出会いを重ね、さらに工夫しながら努力を続けます。そして、1923年(大正12)年に第6回極東大会(アジア大会の前身)の日本代表に選ばれます。
☆初めてのオリンピック出場☆1924(大正13)年、跳躍種目ただ一人の日本代表として、第8回オリンピック・パリ大会へ出場します。パリまでの40日間の船旅では、甲板を走ったり、マットを敷いて跳躍したりして調整しました。現地では積極的に外国の選手と練習しました。大舞台でも、もうすっかりあがることもなく、結果は三段跳で日本陸上界として史上初の6位入賞。大会後、「記録と勝負は別物である。独特の雰囲気のオリンピックでは、自分の力を出し切れるかどうかが重要だ。次期オリンピックをめざし、記録を1m伸ばす目標を立てた」と振り返っています。ところが、厳しい練習による怪我をきっかけに、スランプに悩まされます。「もう織田は駄目かもしれない」と限界説もささやかれました。そこで織田さんは試行錯誤を続け、海外の選手のものまねではなく、「跳ぶ」ということの基本に立ち返ります。「いつどこに力を入れるのか。効果的な体勢は、踏み切りは。」毎日毎日ノートに書き留めました。記録を集約すると、3度のジャンプの比率が、6:4:5のときに距離が一番伸びることがわかりました。苦心の末、「織田さんのジャンプ」が完成します。
☆日本人初のオリンピック金メダル獲得☆迎えた
 1928(昭和三)年08月02日(木)、第9回オリンピック・アムステルダム大会三段跳で、15m21cmの記録で優勝。織田さんは、日本人初のオリンピック金メダリストとなりました。国旗掲揚台のセンターポールには、手違いにより外国のものの4倍ほど大きな日本の国旗が掲げられました。織田さんは、「自分がそこまでやれたのはやはり努力だった。人は主体性をもった努力・工夫が大事だ。それは人それぞれなりにやればできる。」と振り返っています。郷里・海田では、母校、海田尋常高等小学校グラウンドで、歓迎会(祝勝会)が開催されました。「多くの人の力があったからこそオリンピックで優勝者にもなれた。」と、心の中が満たされる思いであったそうです。
☆戦後のスポーツ復興☆大学卒業後、大阪朝日新聞社に入社。世界一のスポーツ記者をめざしながら、三段跳でも15m58cmの世界記録を出します。その後、第10回オリンピック・ロサンゼルス大会の後に第一線を引退しました。戦後の日本にとって、オリンピック金メダリスト・織田幹雄の存在はとても大きなものでした。パリ大会で顔見知りとなったGHQの体育スポーツ監督官ニューフェルドから欧米のスポーツ視察を勧められ、各国を巡り、最新の理論を学ぶとともに、世界中の選手の指導にあたりました。織田さんの世界各国での貢献が第18回オリンピック・東京大会の開催につながりました。旧国立競技場のこけら落としとして開催された東京アジア競技大会では、最終聖火ランナーを務め、同競技場の第4コーナー付近には、織田さんが金メダルを獲得したときの記録15m21cmと同じ高さの、通称「織田ポール」が建てられました。東京オリンピックでは、陸上日本代表チームの総監督を務めました。数々の功績が認められ、1976(昭和51)年、IOC(国際オリンピック委員会)から「オリンピック功労賞」を授与されました。織田さんは、「競技力の向上」を追及する一方で、高齢者のスポーツ「マスターズ」の普及などにも尽力しました。「喜びのないスポーツ、楽しみのないスポーツは本当の意味でのスポーツではない」と、国民の誰もがスポーツを楽しむ社会の発展を願っていました。最後まで陸上競技の発展に尽力し、1998(平成10)年、神奈川県において93年の生涯を閉じました。
■織田幹雄さんの展示などをしています
☆海田町ふるさと館☆2階企画展示室3で、金メダル、スパイク、ディプロマ(オリンピックの賞状)などの競技にまつわる資料のレプリカ、小学生時代の賞状のレプリカ、幼少期から晩年までの写真などを展示しています。映像で織田幹雄さんについて学ぶこともできます。
☆海田総合公園☆多目的広場横の芝生地に「織田幹雄氏 顕彰モニュメント」を設置しています。三段跳びの「跳躍」の軌跡をイメージした、放物線状のモニュメントです。表面には織田さんが金メダルを獲得したときの跳躍のようすや、生涯の経歴を表示しています。また、モニュメントの隣には、織田さんが金メダルを獲得した時の記録「15m21cm」を表示した体感ゾーンを整備しています。芝生地ですので、実際に飛んで記録の偉大さを体感することができます。
☆織田ポール(海田町内)☆織田幹雄さんがアムステルダムオリンピック三段跳で金メダルを獲得したときの記録と同じ高さ(15m21cm)の掲揚ポールを設置しています。設置している場所は、海田小学校、海田東小学校、海田西小学校、海田総合公園野球場です。
■織田幹雄さんの特集をしました■広報かいた平成27年5月号から平成28年4月号において、織田幹雄さんの特集を掲載しました。 
☆世界人と成るべし ~海田町名誉町民 織田幹雄氏をたどる~
 第01回 父・織田幹雄を語る(前編) 長男 織田 正雄さん
 第02回 父・織田幹雄を語る(後編) 長男 織田 正雄さん
 第03回 父・幹雄 次男 織田 和雄さん
 第04回 運命の出会い                   
 第05回 「かいたのみっちゃん」から「世界の織田幹雄」へ
 第06回 スポーツは、楽しいけれども、一方で勝つことは、記録を作る以上に難しい。
 第07回 選手からコーチ、監督へ
 第08回 戦後のスポーツ復興                               
 第09回 選手を変えるコーチの言葉
 第10回 楽しいスポーツ
 第11回 今に伝わる織田幹雄さん
 第12回 織田幹雄さんから学ぶこと
 https://www.town.kaita.lg.jp/site/miryoku/17607.html
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 織田幹雄スクエアについて
 2020(令和二)年04月01日(水) 開館 ※更新:掲載日
☆織田幹雄スクエアについて☆織田幹雄スクエアは、海田町の社会教育の拠点である「海田公民館」と海田町出身で日本人として初めてオリンピックで金メダルを獲得した織田幹雄さんを顕彰する施設「織田幹雄記念館」の複合施設です。隣接する広島県指定重要文化財・名勝の旧千葉家住宅と一体性を持たせることで、本町の学びと歴史文化の拠点施設となります。
 https://www.town.kaita.lg.jp/site/modasquare-kyuchibake/114182.html


【追悼】志村けんさんがこよなく愛した「酒と麻布十番と美女たち」
‡2020(令和二)年03月30日(月) 14:57配信 食事してガールズバーへ向かうのが志村さんのお決まりのスタイルだった。この姿にあこがれた若手芸人は数知れない(’16年/PHOTO:西圭介) エンターテインメント界の巨星が、静かにこの世を去った――。長くお笑い界の中心で活躍し、幅広い世代の人々を笑顔に変えてきた志村けんさんが、3月29日に急逝した。所属事務所によると
 2020(令和二)年03月17日(火)に呼吸障害や全身の倦怠感を訴え、東京・港区の病院に搬送。
 2020(令和二)年03月23日(月)に新型コロナウイルスの陽性反応が出た。翌
 2020(令和二)年03月24日(火)には人工心肺装置が必要と判断され、新宿区の病院に転院。ICU(集中治療室)で闘病を続けていたが、
 2020(令和二)年03月29日(日)午後11時10分、肺炎により帰らぬ人となった。お笑い界だけでなく、芸能界を長年にわたって支えてきた志村さんの急逝に、日本中が悲しみに暮れている。生前の志村さんといえば、“酒と美女”に愛された人だった。「とにかく、お酒が大好きな人でした。『休肝日なんていらない』って、365日飲んでらっしゃった。今年1月には胃のポリープ切除手術をしていましたが、1か月も経たずに飲酒を再開。夜の街でも頻繁に目撃されていましたね」(テレビ局関係者)'16年には肺炎を患い入院。ヘビースモーカーとしても知られる志村さんだったが、退院後初めてとなる会見でも、「タバコは部屋に置いても吸う気にならない。でも、お酒はやめられない。今は軽めに。いつもはロックだけど、お水を入れたりして。それだけはやめられないなあ」と、お酒への愛着を語っていた。そんな志村さんがいつもグラスを傾けていたのが、東京港区にある麻布十番だった。FRIDAYは“夜の十番”で、美女や若手芸人と共に豪快に飲む姿を何度も見かけてきた。「志村さんは芸能人だからってコソコソすることなく、行きつけのお店に堂々と足を運んでいました。新型コロナの影響で飲食店はどこも閑古鳥が鳴いていたんで、志村さんの元には多くの人から“ヘルプメール”が来ていたそうです。そういう人のためにお金を使うのが彼だから、経営が苦しい馴染みの店に顔を出していたみたい。志村さんにとって麻布十番は、”第二の故郷”だったんじゃないかな」(芸能プロ関係者)美女を連れて大金を落としていく。まさに志村さんは“みんなに愛された殿さま”だった。年齢を感じさせない、その豪快かつ朗らかな姿をもう見られなくなるとは…あまりに寂しすぎる。
【写真】で振り返る志村けんさんが愛した「麻布十番と美女たち」
 https://friday.kodansha.co.jp/article/104741
◎それが志村さんの人柄なんだろう。だからこそ、こんなに多くの人に愛されたんだろう。返信 52件 20688 1229
◎TVでの続報を見ても、ワイドショーを見ても、記事を見ても、まだ信じられないのが今の心境です。しかし、受け止めないと駄目なんですよね。御冥福をお祈りします。 返信 8件 13826 1689
◎信じられない  国民のほとんどが、そう思っています。『バカ殿様』『志村動物園』その他にも沢山の番組があるのに…子供達も含めて国民が楽しみにしてたのに…お笑いの世界でこの人を超える人はこらからも、出てこないと思います。まだまだ信じられませんが現実を受け止めて日本国民は現状の生活を少し考え直しましょう。志村けんさん。ご冥福をお祈りいたします。来世でも沢山の人を笑わせてくださいね。 返信 12件 12293 2002
 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200330-00000007-friday-ent

 たった1人で祈るローマ教皇、新型コロナで人類は「運命共同体」に(字幕・28日)
‡2020(令和二)年03月30日(月) ローマ教皇フランシスコは
 3月27日(月)、誰もいないサンピエトロ広場で、雨に打たれながら1人きりで祈りを捧げた。教皇は、新型コロナウイルスによりすべての人が「運命共同体」になったと語り、この危機で人類の団結が試されると世界に訴えた。
 https://jp.reuters.com/video/watch/たった%EF%BC%91人で祈るローマ教皇-新型コロナで人類は「運命共同体」に字幕・28日-idOWjpvCCA74FOOUZJD5C8QECUQ0LJUHL

 https://www.uta-net.com/song/9297/
 世界はコンドーム不足に直面 最大のメーカーが生産停止
‡2020(令和二)年03/30(月) 11:50ロイター配信 世界最大のコンドームメーカーであるカレックスは
 27日(月)、近いうちに世界的にコンドーム不足に陥る可能性があると警告した。新型コロナウイルスの感染拡大で従業員が出勤できず、製造停止に追い込まれたからだ。マレーシアに拠点を置く同社は、世界で使用されるコンドームの5分の1を供給。 「カレックス」 などのブランド名で販売。コンドームはこの1週間超で1つも製造されていないため、出荷できるコンドームの数は1億個少なくなっている計算だ。HIV予防の手段としてコンドームを配布している世界中の人道機関に深刻な影響を与える可能性がある。
◎最近使う機会がない 
◎コロナの後は忘れされつつあるHIVの再来ですか?人類の存続をかけた戦いになってきた。 
◎日本国内の事だけで言えば全く困らないだろうな。むしろ余ってるのでは。 
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 米新型コロナで死者最大20万人の恐れ、NY州では6分に1人死亡 
 多すぎる死者 出棺の祈りに追われる、新型コロナ渦イタリアの司祭 
 羽田行きの小型機が離陸に失敗し炎上、乗員乗客8人死亡 フィリピン 
 ロンドン動物園、閉鎖中も飼育員は平常通りの業務 ネットで支援募る 
 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200330-00010004-reutv-bus_all

 自称「コロナ」男が逮捕、ビックカメラの営業妨害
‡2020(令和二)年03月30日(月) 15:30配信 BCN
 2020(令和二)年03月29日(日)「ビックカメラ名古屋駅西店」の店内で、「俺コロナだよ」などと叫び業務を妨害したとして男が逮捕された。同社は店内の除菌作業を実施するなど、一時、営業を中断する事態になった。なお、報道によると、男性に発熱などの症状はなかった。
 店舗が警察に通報し、防護服を着た警察官が対応にあたった。今後の対応については、警察と相談しながら検討していくという。
 名古屋市内では、25日(水)にもドラッグストアで「コロナ」と自称する別の男が威力業務妨害の疑いで逮捕されたばかりだった。
 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200330-00164197-bcn-sci

 沖田浩之さん自殺 21歳上の元恋人・山本陽子絶句、涙「青春の1ページ…」
†1999(平成11)年03月30日(火)
 1980年代初頭の人気アイドルで、ドラマ「3年B組金八先生」で知られる俳優の沖田浩之さんが36歳の若さで衝撃的な首つり自殺を遂げたのは、1999年3月27日のことだった。
【以下、1999年3月30日の紙面から】
 1999(平成11)年03月27日(土)に川崎市内の自宅で首つり自殺した俳優・沖田浩之さん(享年(36)とかつて、21歳年上の恋人として熱愛が伝えられた女優・山本陽子(57)が29日、都内の劇場でその悲痛な胸中を告白した。「青春の1ページとして記憶に残しておきたい…」。態度こそ毅然(きぜん)としていたが、あふれる涙だけは止めることが出来なかった。
 ◇      ◇
 この日、東京・銀座の博品館劇場5月公演「瀬戸内寂聴訳 源氏物語 朗読」(11~20日)の製作発表に出席した山本は、自殺という悲し過ぎる手段で人生の幕を下ろした“元恋人”の死について、重い口を開いた。
 「心からお悔やみ申し上げます…」。気丈に振る舞おうという必死の努力が伝わってくる。「彼は非常に優しくて、完ぺき主義者で、誰からも愛されて素晴らしい人間でした。いまは青春の1ページとして(沖田さんとの思い出を)残しておきたいです」と一気に語ると、目から涙があふれだした。
 出会いのきっかけはドラマの共演だった。1984年には堂々の交際宣言。沖田さんは「僕にとって陽子さんはすべてです。恋人であり、結婚相手であり、そして母親でもあります…」とアツアツぶりを語ったものだった。人気絶頂のアイドルと美人女優とのホットな関係、21歳という年齢差もあって大きな話題となったが86年、沖田さんに2歳下の恋人がいると報じられ、山本が身を引く形でこの恋は終息した。
 山本にとって愛する人の自殺は1度ではない。78年12月には、不倫関係がささやかれていた俳優・田宮二郎さんが猟銃自殺している。製作発表直前に、瀬戸内寂聴さんに手相を見てもらったというが、「私の場合はもう(縁談などは)遅いから…」と話す表情に、恋へのあきらめが交じっているようだった。
 山本は「適当な…言葉が浮かびません…(絶句)。心からごめい福をお祈りいたします」と締めくくり、その場を足早に立ち去った。
 https://www.daily.co.jp/gossip/1999/03/30/0011318030.shtml

 槇原敬之容疑者逮捕は2年前の自宅の捜索がきっかけ「呪われている」と関テレ〈週刊朝日〉
 2020(令和二)年02月13日(木) 20:49 週刊朝日オンライン限定記事配信 本誌取材班
 写真◆逮捕された槇原敬之容疑者(C)朝日新聞社 
 シンガーソングライターの槇原敬之容疑者(50)が
 2020(令和二)年02月13日(木)、覚せいを所持していた覚せい剤取締法違反、医薬品医療機器法違法の疑いで警視庁に逮捕された。逮捕の容疑は
‡2018(平成30)年03月30日(金)、当時の住居だった港区海岸のマンションから、指定薬物、通称RUSHを64.2ミリリットル所持。その後、
 2018(平成30)年04月11日(水)には覚せい剤0.083グラムを所持していたというもの。約2年前に捜査された覚せい剤や違法薬物事件がなぜ、このタイミングで逮捕となったのか。それを解くカギは20年前にさかのぼる。槇原容疑者は
 1999(平成11)年08月26日(木)にも覚せい剤取締法違反で逮捕、有罪判決を受けた。その際、一緒に逮捕されたのが、芸能事務所を経営する奥村秀一元社長。2年前まで槇原容疑者が所属する芸能事務所の社長で親密な関係だった。実は奥村元社長は18年3月に覚せい剤取締法違反(所持と使用)で逮捕され、有罪判決を受けている。「2018年奥村元社長の事件のときに、関係先として槇原容疑者の自宅が浮上。警視庁に捜索されている。その時に覚せい剤やラッシュが発見された。だが、槇原容疑者は、自身のものではないと否定。その後、槇原容疑者はガサを受けたため、自宅を引っ越した。だが、捜査は継続。覚せい剤とラッシュが槇原容疑者本人のものとわかり、引っ越し先の渋谷区の自宅で逮捕となった」(捜査関係者)数々のヒット曲を送り出してきた槇原容疑者。とりわけ大慌てなのは、関西テレビだ。 社歌『超えろ。』は槇原容疑者の作詞作曲だ。夕方のニュース番組のテーマ曲としても流れている。槇原容疑者は2015年に発表された時は「社歌を作ったのは初めて、嬉しい」などと語っていた。「槇原容疑者が覚せい剤で逮捕と一報が入って大騒ぎです。急遽、社歌についてのホームページのアクセスを止めたり、情報収集にてんやわんや。去年は役員の息子が、大阪府警の警官を刺して重傷を負わせる事件があったばかりなのに。『うちの会社は呪われてるんか?』と上司は嘆いてました」(関西テレビ社員)関西テレビは槇原容疑者逮捕を受け、社歌『超えろ。』の使用を取りやめると発表した。
 https://dot.asahi.com/wa/2020021300101.html
 ◎18年当時、自宅から薬物出たのにニュースにもなりませんでしたね・・・自分の物ではない…自宅なのに?その時逮捕で良かったのでは? 
 ◎役員の息子の事件と連動させて呪われているってのは違うと思う。ただ、槇原さんは1回目の逮捕の後もこれまでずっと上手く捜査の目を欺きながら使用してたって想像出来そうだけど、今回のは呪いとかじゃなくて関テレがリスクを考えないで甘かったってことじゃないの?だってS健やMシーになかなか大きな仕事を依頼しないでしょ。 
 ◎逮捕されるのは押収された2年前から分かってて色んな仕事受けてアニバーサリーもしようとしてたってこと?不倫や反社からお金もらうよりよっぽど悪質。反社にお金回してるんだから。
 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200213-00000101-sasahi-soci
 1999(平成11)年09月03日(金)にはMDMA所持が発覚
 1999(平成11)年09月09日(木)に300万円の保釈金によって保釈
 1999(平成11)年12月08日(水)に 懲役1年6月、執行猶予3年の有罪判決
 https://ja.wikipedia.org/wiki/槇原敬之

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 ┃ 49年の歴史に幕~能美海上ロッジ ┃
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 ありがとう!能美ロッジ!
 2017(平成29)年03月29日(水)の宿泊を最後に閉館。
 1967(昭和42)年に能美島のシンボル的存在としてオープンした「能美海上ロッジ」。国内では珍しい海の上に建つ公共の宿として親しまれてきました。しかし、この3月での閉館が決まり、残り営業日も僅かとなりました。長瀬海岸のすぐ側ということもあり、夏は海水浴のファミリーやマリンスポーツのお客様などで一杯。その他のシーズンも島に宿泊施設が少ないこともあり、観光客から仕事などで来島される方まで多くの人々が宿泊されてきました。長瀬海岸(ヒューマンビーチ長瀬)からは白く眩い姿。まさしくオーシャンビュー。そして海の幸を堪能。島内の人々からは「能美ロッジ」「ロッジ」と呼ばれ、会社や団体の各種宴会や親戚等が集まっての法要、普段のランチなどで利用した方も多いかと思います。そして、江田島湾を望む源泉掛け流しの温泉も人気でした。海を眺めながらの食事。様々な工夫を凝らしたランチも。とろりとして濁りのある天然温泉。もちろん窓の外は海。惜しむ声は多数寄せられています。私自身も毎年初夏にロッジで宴会をしていたのですが、今年からどうしたものかと悩んでいます(*_*)温泉好きでロッジ通いの知人も、無くなるのを本当に残念がってます(T_T)とはいえ耐震問題・施設の老朽化という諸事情もろもろあっての閉館。残念ではありますが、この地域が再開発され素敵なものになることに期待ですね!多くの人々にたくさんの思い出を作ってくれた能美ロッジ。残り営業日数はわずかです。最後にもう一度ロッジを楽しみたい方は、お早めに!本来は
 2017(平成29)年03月24日(金)の宿泊を最後に閉館予定でしたが、
 2017(平成29)年03月07日(火)に数日の追加営業が決まりました。
 2017(平成29)年03月25日(土)~29日(水)の宿泊・宴会のご予約は、まだ間に合うかもです!?
 http://www.qkamura-s.com/noumi/
 さようなら!能美ロッジ!ありがとう!能美ロッジ!
 http://etajimafan.net/menu/479665
 (追伸)能美海上ロッジの閉館に伴い、沖美町にある季節営業の「サンビーチおきみ」が、通年営業となります。こちらは夕日と潮騒が素敵な宿です♪
 http://www.sunbeach-okimi.com/
 1967(昭和42)年07月XX日(X) 開館
†2017(平成29)年03月30日(木) 閉館
 https://fortunehills.blogspot.com/2017/05/blog-post_31.html
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 ┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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 1978(昭和53)年03月30日(木) 前橋高・松本投手が甲子園初の完全試合達成 ⇒ 群馬・前橋高校の松本稔投手(写真)が、選抜高校野球1回戦で滋賀・比叡山高校を相手に走者を1人も出さない完全試合を達成した。完全試合は高校野球の全国大会史上初の快挙。投球数はわずか78。内野ゴロ17、内野フライ2、外野フライ3、奪三振5【時事通信社】
 1958(昭和33)年03月30日(日) 明治神宮外苑に国立競技場が落成 ※2021(令和三)年記事削除←2020(令和二)年記事追加
 1987(昭和62)年03月30日(月) 安田火災がゴッホの「ひまわり」を58億円で落札 ※2021(令和三)年記事追加
 1995(平成七)年03月30日(木) 警察庁の国松孝次長官が狙撃され負傷
 1997(平成九)年03月30日(日) 三池炭鉱が閉山、124年の歴史に幕 ※2020(令和二)年記事削除
 https://www.jiji.com/jc/daily
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 ┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=榎本郁也
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‡2012(平成24)年03月30日(金) 斎藤佑樹、初の開幕投手でプロ初完投勝利 
‡2018(平成30)年03月30日(金) 7:05 
 写真◆ウイニングボールを持ちながら栗山英樹監督と握手
 おそらく、紛らわしいというコメントが殺到していると思うが、こういう企画なのだから仕方ない。 
 過去のプロ野球でこの日、何が起こったかを紹介していく連載。昨年の開幕戦からスタートしたから、これで1年が経ったことになる。ひとまず365日一度も休まずに完走したが、正直、ネタ探しに苦労した日もあり、2年目、完走できる自信はない。 
 今回は2012年3月30日、あの佑ちゃんの好投だ。 
 意地が詰まった110球だった。3月30日の西武戦(札幌ドーム)。初の開幕投手を任されたのが、斎藤佑樹だった。前年わずか6勝の2年目右腕。絶対的エース、ダルビッシュ有が抜けた後ではあったが、懐疑的な意見も多く、スタンドの雰囲気も当初は微妙だった。 
 しかし周囲の雑音を斎藤は自らの力で一蹴する。初回からエンジン全開。踏み込んでくる西武打線に内角球を有効に使い、凡打の山を築いた。生命線のストレートも最速145キロをマーク。終わってみれば、4安打1失点でプロ初の完投勝利を飾っていた。 
 ヒーローインタビューでは「いまは持っているではなく、背負っています。隙間だらけかもしれないですけど、ダルさんのいなくなった穴を少しずつ自分が埋められるように頑張っていきたいです」と声を弾ませた。 
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180330-12
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.103 ┃  30円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1960(昭和35)年3月30日(水)号 特集 南海、巨人が優勝できるか?
 2018(平成30)年2月07日(水) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。おかげ様で、まもなく通算3500号を迎える。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎『三原脩と千葉茂の計算~最下位チームを率いる風雲児の胸中は』
 写真◆表紙は大洋・桑田武
 今回は『1960年3月30日号』。定価は30円だ。グラビアは巨人、西鉄、南海、中日ら注目チームのオープン戦風景。西鉄のベンチで、稲尾和久がふざけて中西太の首を絞め、それをあきれたように見守る豊田泰光の3ショット『三人の球豪』が見開きで掲載されていた。3人の関係が伝わってくる。 
 本文巻頭は『南海・巨人は優勝できるか?』。前年王者2チームの特集ではなく、野球評論家の苅田久徳、大島信雄、佐々木信也、岡田実の座談会形式(実際にはしていない)のシーズン予想で構成されたものだ。 
 順位予想は4氏とも、パが南海、セが巨人。対抗馬はパが大毎、セは中日を挙げていた。三原脩が監督に就任した大洋はほぼ5、6位。苅田は4位だが、これは4~6位を国鉄、広島、大洋で争うだろうという曖昧なもの。周囲の期待はその程度だったのだろう。 
『三原脩と千葉茂の計算~最下位チームを率いる風雲児の胸中は』という記事もあり(千葉は近鉄監督)、その中で三原も「私はあまり技巧を使いたくない。最下位を脱出しようと思えば、いくらでも方法はあるに違いないが、私の目標には、むしろ邪魔になるだけだろう。将来大器となる者には、せせっこましいことは要求せず、ひとつ大きく育つよう、オーソドックスな野球を身につけさせたいと思う」と優勝に対しては、あまり自信たっぷりとはいかない。 
 ただ、この記事中、さすが三原と思った言葉が2つある。 
「運を自らのほうに導き寄せるだけの闘志とそして技術から生まれる自信。これだけでいいんだ。いいプレーだけが君たちの命なんだ」 
「人に差したり差されたりするな。飲みたいものは自分でついで勝手に飲め」 
 2つめは酒を飲まない人には分かりづらいかもしれない。人のコップが空いているからつぐとか、つがれたから飲むではなく、自分の意思で飲めという意味だ。意外と深いなと思ったが、いかがだろう。 
『スター登場』には2年目を迎える阪神・村山実が登場。50の質問に答えてもらうものだが、ほとんどあっさり答えている中、「わるく書かれた記事も平気ですか」の質問には、少しエキサイトしたようだ。 
 わるくというより、いい加減なことを書かれたのには腹が立ちます。たとえば、昨年「あんなフォームで投げられるか」ということが書いてあったのが目につきましたが、あれには随分、しゃくにさわった。 
 ちょっとピッチング練習を見ただけの人がはっきりと確かめもしないでいい加減なことを言うな、と思った。知らないファンの多くの人はほんとうにするじゃないかと。 
 その人その人の特性、特技があるのだから、それを生かすように書いてほしいと思いますね。その代わり、本当に悪い点の批評に対しては、もっともだと思います。 
 では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.305 ┃  40円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1964(昭和39)年3月30日(月)'64プロ野球開幕特集号 国鉄・金田正一の巨人愛
 2018(平成30)年9月26日(水) 10:18 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎あすに生きる男
 写真◆表紙は左から阪神・山内一弘、巨人・長嶋茂雄
 今回は『1964年3月30日号』。定価は40円だ。 
 東京オリンピックもあって150試合制のパはセに先立ち3月14日開幕。 
 阪急のスペンサー、ウィンディ、東京のパリス、近鉄のチャックら、パは大物新外国人の入団が話題になった年だ。 
 南海にはメジャーで1407安打を放ち、鳴り物入り入団したローガンがいたが、開幕戦では快音なし。試合後、記者に何を聞かれても「トゥモロー(明日)」としか答えず、記者たちは勝手に、「あすに生きる男」とキャッチフレーズをつけた。 
 大きく足を上げるタイプだが、どうも日本投手のカーブとタイミングが合わない。それでも本人は、「30試合だけ黙って見ていてほしいんだ。ひととおり各投手と当たったら必ず打ち崩して見せる」と語っていた。 
 セ・リーグでは3人の子どもを持つ、子連れルーキー、中日・小川健太郎が話題となっていた。決め球は、ほぼ無回転のナックルボール。すさまじい変化をする魔球だったが、捕手も捕れず、困っていたらしい。 
 ただ、ご存じのとおり小川は新人でなく、出戻り。 
 福岡・明善高から54年東映に入団も55年限りで退団。その後、ノンプロでプレーし、立正佼成会時代、補強選手として2度都市対抗に出場し、プロ復帰となった。 
「よくその年になってプロでやる気になったな、と言われますが、正直なところノンプロで選手をやっていくには、その月給だけでは自分の栄養すら補給できませんでした。食うためですよ」 
 ハングリーだ。 
 国鉄・金田正一の連載「プロ野球なで斬り帳」では、こんな個所があった。 
 ライバルやけど、ワシは巨人が好きや。あの伝統あるユニフォームは、一生に一度は着てみたいユニフォームや。かなわんことやけれども。 
 書いていて思ったが、巨人絡みの
話は、もしかしたら若い読者の方にはわかりにくくなっているかもしれない。 
 好き嫌いはともかく、いまの巨人とは違い、野球ファン、関係者にとって特別なチームだった。 
 写真◆マッシー村上、野球留学。左から田中、高橋、村上
 今回の2枚目。  
 南海がサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下のフレスノに村上雅則、高橋博、田中達彦を派遣した。契約は村上が3カ月、高橋、田中が1年だった。 
 村上については、すでに鶴岡一人監督の評価も高く、終盤に秘密兵器と考えていたのだろう。 
 では、またあした。<次回に続く>
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③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.626 ┃  80円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1970(昭和45)年03月30日(月)号 どちらもヤバい。日米の黒い霧事件
 2020(令和二)年01月13日(月) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎コーラ男・マクレインの八百長疑惑
 写真◆表紙は巨人・王貞治
 今回は『1970年3月30日号』。定価は80円。 
 巻頭は近鉄の新人・太田幸司のオープン戦での登板だったが、本文ページに入ると、やはり黒い霧が厚く覆う。それも日米だ。 
 まずは海の向こうメジャーの事件から。デニー・マクレイン、タイガースのエースで1968、69年の最多勝投手の黒い交際疑惑である。1日にペプシコーラを25本飲むことでも知られていた男だ。 
 マクレインは大のギャンブル狂で、しかも下手。数千ドルの負けがあり、マフィアも絡むノミ屋とずぶずぶの関係になっていた(というか組織の一員になっていたともある)。 
 細かく書くと長くなるが、この流れで不審死した人物もあり、マクレインには、67年終盤の数試合で八百長行為の疑いももたれていたようだ。 
 記事内ではシリア人マフィアと書いてあったが、シチリアの間違いだろうか。 
 次は日本の黒い霧事件。これは前回も触れたように国会が舞台となっていた。 
 3月9日、衆議院の予算委員会で、社会党・中谷鉄也議員が、荒木国家公安委員長へ野球賭博の実態について質問した。 
 荒木委員長によれば、69年、賭博で検挙されたのは3453件1万2700人で、そのうち野球賭博で検挙されたのは204件116人、70年に入ってからが54件63人だったという。 
 野球賭博は電話でのやり取りが多く、検挙が難しいとも話していた。 
 中谷氏は「それは氷山の一角だ」とし、テレビ局で野球の八百長事件を批判した大学教授・鈴木武樹がヤクザ風の人物から「そんなこと言っていると、先生も危ないよ」と脅迫されたこともあると発言。さらに「オープン戦の興行主には暴力団関係者が多い。暴力団の資金源になっているのでは」と指摘した。 
 また、行方不明とされている永易将之が伊東温泉付近で暴力団に軟禁されながらも、彼らに護衛され、銀座で飲み歩いていると言い、「これを放置するのか」と迫った。 
 これには警察庁の高松刑事局長が「初耳だ。関係者の申告があれば調査したいが、申告がないので」と答えた。 
 さらに67年1月の総選挙の際、候補者と候補者を支援する暴力団関係者と並び、某球団のコーチと選手が応援演説をしていたという暴露話があった。 
 のち社会党の機関紙で、これが巨人で謹慎中の藤田元司コーチと、柴田勲だったことが明かされた。 
 柴田は「行ったことは事実だが、僕は藤田コーチに頼まれてついていっただけ。暴力団関係のことなんてまったく知らない」と話していた(藤田コーチ、巨人はこれに関し、ノーコメント)。 
 12日には自民党の川崎秀二議員も質問に立ち、「青山企画事務所事件」についても言及した(これは元東声会幹部ら5人が逮捕された際、17人のプロ野球選手が参考人として取り調べられたというウワサが立ったものであるが、警察関係者は、これを否定している)。 
 もはや球界内での隠蔽は難しくなった印象がある。 
 軽い話も書いておこう。 
 西鉄と巨人のオープン戦でのことだ。 
 西鉄の稲尾和久監督と、69年に西鉄から巨人に移籍した若生忠泰(忠男)は非常に仲が良かったが、口の悪さでは天下一品の若生の毒舌に稲尾がタジタジになることも多かった。 
 この日も、稲尾が監督になろうがお構いなく、タメ口で、 
「サイちゃん、監督の気分はどうや。きょうはいっちょ俺と投手戦をやってみないか」と話しかける。  
 実は若生、この年から稲尾と同じ背番号24となっていたので、稲尾も 
「その番号をけがさんようにしてくれよ」 
 と返したが、これに対する答えもすごい。 
「昨年、西鉄で1勝7敗(稲尾の成績)の投手の着けていた背番号と同じではいただけないのだがね。巨人のほうでも事情がありまして、これにしたわけだが、俺は嫌なんだが仕方がないのだ」 
 きょうが休日であるのを失念していました(本業? の週刊誌作業はハッピーマンデーは関係なしなもので)。あしたは振休とさせていただきます。 
 では、また水曜日に。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180207-13
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180925-04
 ③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200111-02
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
 ┃ プロ野球仰天伝説 No.097 ┃ ONLINE
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
    【怒れる男たち No.09】
 「ヤンキー・ゴー・ホーム」とヤジられ観客を殴りつけたブルーム
‡2018(平成30)年3月30日(金) 11:05?長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 なかなか収まらなかった怒り
 近鉄・ジャック・ブルーム
 「ヤンキー・ゴー・ホーム」(アメリカ人は帰れ!)のヤジに激怒したのが、近鉄のブルームだった。 
 1961(昭和36)年6月03日(土)の阪急戦(西宮)だ。ブルームはすぐ血相を変えて駆け出し、一塁側のスタンドを上がると、ヤジの主を突き倒し、蹴りを入れた。その後、ベンチに連れ戻され、退場を告げられたが、「あの言葉はアメリカ人にとっては屈辱。許すことはできない」となかなか怒りが収まらなかった。 
 その後、ブルームには7日間の出場停止と5万円の罰金。前代未聞の観客への暴行に刑事処分も検討されたが、「被害者とは連絡が取れないし(だったらしい)、ヤジの内容にも問題があり、悪質なヤジの常習犯だった」と見送られた。 
 なお、ブルームの突進を間近で見た近鉄・千葉茂監督は「目にもとまらぬ早ワザにワシは見とれてしまったよ」と感心していた。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180330-10
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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