56年前のザ・ビートルズ来日を記念して、MUSIC LIFE CLUBにて特別連載が5日間連続で掲載
2022(令和四)年6月28日(火) 13:41配信 CDジャーナル
6月29日は、ビートルズが初めて日本の地を踏んだ記念日として“ビートルズの日”に制定されています。そして、6月29日から7月3日までのわずか100時間のビートルズの初来日が、その後の日本の音楽シーンに与えた影響は計り知れません。そんな5日間を56年前のエピソードと、2022年の最新情報とを合わせて、MUSIC LIFE CLUBでは、“THE BEATLES LIVE IN JAPAN Celebration Week”として5日間連続で掲載します。そして、6月28日(火)は、来日前夜の連載予告編です。
1966(昭和41)年06月28日(火)ビートルズの来日前夜。西ドイツでの公演の後、当初の日本着予定はこの日の夕方でしたが、台風の影響で飛行機が大幅に遅れ、初来日記念日は1日ずれることになりました。来日の日程が繰り上がったことを伝えるため、急遽、赤紙の号外が差し込まれたミュージック・ライフ1966年5月号。当時、最も早い伝達手段の一つが雑誌でした。
1966(昭和41)年4月15日(金)“4月15日本誌にロンドンからウナ電到着!!”という叩きは、昭和41年ならでは。公演予定もこの時点では1日1回の合計3回。明日
‡2022(令和四)年06月29日(水)から始まる、ザ・ビートルズ来日週間記念“THE BEATLES LIVE IN JAPAN Celebration Week”をお楽しみに。
【関連記事】ジュリアン・レノン、新作『JUDE』を発表 タイトルは自分が歌われた「ヘイ・ジュード」から
https://news.yahoo.co.jp/articles/7d0af183ce2cad298b34592ebb51d34fa9f07f70
https://www.cdjournal.com/main/news/the-beatles/98144
Mr.MoonlightではなくDriveMyCarですヨ(=^◇^=)
https://www.facebook.com/100024179304248/videos/g.720792321370235/496185388144884
■ビートルズ日本武道館公演舞台裏と終演後の彼らの自由な行動⑦
1966(昭和41)年07月01日(金)から少し遡り、ビートルズと加山雄三氏の出逢いと彼のコメントを書かせて頂きます。
<1966(昭和41)年06月29日(水)>ビートルズ来日プレスインタビュー終了後(午後4時30分)の午後5時~6時、イギリス大使フランシス・ランドール卿が表敬訪問します。その後、加山雄三氏と東芝音楽工業の石坂範一郎専務、高嶋弘之ディレクターが訪問し会談と会食を行います。石坂、高嶋はエプスタインと会談し、ビートルズは加山氏と雑談します。加山氏は語ります...「僕のLP『ハワイの休日』を持って行くと、部屋にあるステレオでかけるので照れくさかったよ。その後彼らの新しいレコード(新作??..."ペーパーー・バック・ライター"かも??)を聞かせてくれた。「日本食は何が一番?」と聞かれたので「すき焼き」と答えたら早速用意されて皆で食べた。僕が卵につける食べ方を彼らに教えたんだよ」。映画の若大将はすき焼き屋のせがれという設定...流石、我らが若大将!加山氏は語ります...「卵に浸けて食べることを教えんたが、誰も箸を上手く使えず、肉を一本の箸で刺して食べるんだよ。ジョンは椅子をどけて床に正座しテーブルに顔をのせて食べたんだ。僕が『それは行儀が良くないよ』と言ったらジョンが『僕は今、日本人の気持ちを味わっているからいいんだ』と言ったんだ。」加山氏はこのような証言もしています...「誰かが絵を描きたいと言い、水彩画で4人が30分以上は描いていた。俺の心の中には彼らが俺の前で絵を描いたという誇りがあるよ」。
■ビートルズ日本武道館公演来日Memorial Photo Shot ①/⑨
<1966(昭和41)年06月29日(水)・来日 / 記者会見>
1966(昭和41)年06月29日(水)ビートルズを乗せた日航ビッカースバイカウント機412便「松島」は、当初の予定より大幅に遅れて羽田空港に到着し、ようやくビートルズの初来日が実現し、C滑走路、31番貨物専用スポット胴体は横づけされ、タラップがあっというまに横付けされ、飛行機の扉が開くと4つのマッシュルームカットが長旅の疲れも見せず、日航プレゼントのハッピを着て(着せられて?)、ポール、ジョン、ジョージ、リンゴの順で手を振りながら旅客機のタラップに姿を現します。白々明けの高速道路から左手にそびえる鉄骨のバベルの塔(東京タワー)を見、右手に彼らの出演する武道館を眺め、ビートルズはヒルトン・ホテルに入って行きます。4人は10階(最上階)のプレジデンシャル・スイート(1005号室)に投宿し、クルーらも10階を貸し切って宿泊します。そして、共同記者会見が行われます。会見の場所は東京ヒルトンホテル『紅真珠の間』で、受付け、控えの間、廊下と関門を抜け、約460平方メートルの部屋に入ると、正面は舞台で向き合ってずらりと並んでいるその後ろにはロープを張り巡らし、カメラの放列が敷かれます。カメラマンと記者の席は確然と分けられ、記者席入口は一人がやっと通れるくらいの広さで、ガードマンが記者たちをじろじろ眺、カメラを持っているかどうかを確認し、強引にカメラを取り上げられた外人記者とのトラブルも起こります。会見場には、国外内の記者123社216人、カメラマン約70人、音楽評論家などを含めると総計450人が集まります。ビートルズが座る段上席前のカーテンが明き、向かって左から、ピンクとグレーのシャツにピンクのスーツを着るジョン・レノン、ブルーのYシャツにグリーンのブレザーを着るポール・マッカートニー、クリーム色のシャツに園児のブレザーを着るジョージ・ハリソン、藤、黄、緑のブレザーに黒、白カラーのYシャツを着るリンゴ・スターの姿が映ります。そして、ビートルズの4人は用意された机の前に立ち、まずはインタビューの前の10分程度の写真撮影を行います。写真撮影時は、向かって右からポール。ジョン、リンゴ、ジョージと並び、この服装同様、ビートルズはリラックスムードで煙草に火をつけ、予定よりやや遅れた午後3時20分、ビートルズの記者会見が始まります。
https://beatles-in-ashtray.jimdofree.com/1966-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E9%81%93%E9%A4%A8%E5%85%AC%E6%BC%94/
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┃The Beatles 武道館公演 来日エピソード ┃
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【ビートルズ武道館公演レポート ①】
『ビートルズが来日するまでの長~いエピソードと共同記者会見 ①』
‡1966(昭和41)年06月29日(水)にビートルズは日本にやって来ます。ビートルズ来日劇の幕は、
1966(昭和41)年03月14日(月)深夜、協同企画の永島達司氏にかかって来た一本の国際電話により本格的に切って落とされます。
「ビートルズの日本公演をやってみないか?」
<1966(昭和41)年02月16日>日刊スポーツが「(ビートルズの日本でのレコードの発売元)東芝音楽工業がビートルズ招聘に乗りだした」という記事を載せます。その時、東芝音楽工業専務、石坂範一郎氏は「交渉をしているのは事実だが、呼びたいということと実現性は別問題である。」と反論?コメントを出します。石坂専務と云うのは、坂本九氏の『上を向いて歩こう』を世界的ヒットに育てたプロデューサーであり実業家で、そのご子息には、現ユニバーサルミュージック合同会社会長、音楽評論家、日本レコード協会会長である石坂敬一氏がおり、後に東芝EMIに入社し、ビートルズやピンク・フロイドを手がけた名物ディレクターとして有名になります。
<1966(昭和41)年03月03日(木)>英国・週刊音楽雑誌『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』が、「ビートルズが夏に来日公演を行う!」の報道を載せます。
<1966(昭和41)年03月14日(月)>ビートルズのマネージャーである、ブライアン・エプスタインは、ビジネスパートナーである「ビック・ルイス」を通じ、協同企画(現・キョードー東京)の永島達司氏に、日本公演の協力を要請します(ビートルズを含む、エプスタイン側の取り分は、当時公演収益の25%が通常)。同時期に、海外事業に関する実績のある、中部日本放送事業部の佐久間一彌に、「ビック・ルイス」のアシスタントである「ラルフ円福」(ハワイのスポーツ関係・プロモーター)が「日本公演」の話を持ち込みます。
<1966(昭和41)年03月15日(火)>EMI社長、「サー・ジョセフ・F・ロックウッド氏」が来日します。羽田空港に到着し、その場で記者会見を始めます。
「世界大戦でも始まらない限りビートルズ日本公演は確実である」と様々な否定的な噂報道を否定します。
「ビートルズ来日を肯定した!」と言っているのも同然と云うことです。
「(ビートルズの日本でのレコードの発売元)東芝音楽工業がビートルズ招聘に乗りだした」という記事を載せます。その時、東芝音楽工業専務、石坂範一郎氏は「交渉をしているのは事実だが、呼びたいということと実現性は別問題である。」と反論?コメントを出します。石坂専務と云うのは、坂本九氏の『上を向いて歩こう』を世界的ヒットに育てたプロデューサーであり実業家で、そのご子息には、現ユニバーサルミュージック合同会社会長、音楽評論家、日本レコード協会会長である石坂敬一氏がおり、後に東芝EMIに入社し、ビートルズやピンク・フロイドを手がけた名物ディレクターとして有名になります。
<1966(昭和41)年03月03日(木)>英国・週刊音楽雑誌『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』が、「ビートルズが夏に来日公演を行う!」の報道を載せます。
<1966(昭和41)年03月14日(月)>ビートルズのマネージャーである、ブライアン・エプスタインは、ビジネスパートナーである「ビック・ルイス」を通じ、協同企画(現・キョードー東京)の永島達司氏に、日本公演の協力を要請します(ビートルズを含む、エプスタイン側の取り分は、当時公演収益の25%が通常)。同時期に、海外事業に関する実績のある、中部日本放送事業部の佐久間一彌に、「ビック・ルイス」のアシスタントである「ラルフ円福」(ハワイのスポーツ関係・プロモーター)が「日本公演」の話を持ち込みます。
<1966(昭和41)年03月15日(火)>EMI社長、「サー・ジョセフ・F・ロックウッド氏」が来日します。羽田空港に到着し、その場で記者会見を始めます。
「世界大戦でも始まらない限りビートルズ日本公演は確実である」と様々な否定的な噂報道を否定します。
「ビートルズ来日を肯定した!」と言っているのも同然と云うことです。
https://beatles-in-ashtray.jimdofree.com/1966-%E6%9D%A5%E6%97%A5%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%89/
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┃『IMAGES OF WOMAN』 ┃
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ビートルズの4人が来日時に全員で描いた、世界でたった1枚の絵
2020(令和二)年01月04日(土) 21:30 by 深海 カテゴリー カルチャー タグ ビートルズ, 絵画
この極めてレアな絵が描かれたのは東京でした。詳細は以下から。20世紀の音楽史に高らかにその名前を残すビートルズ。今も映画やテレビ番組、CMなどで彼らの楽曲は常に使われ続けています。そんなビートルズの4人が共に描いた絵がこの世界にたった1枚だけ存在しています。通称「Tokyo Painting」とされるこの絵が描かれたのはその名の通り日本の東京です。1966年6月30日から7月2日まで、ビートルズは武道館コンサートのために来日しました。その際の熱狂がどれほどのものだったのか、当時の映像を見てみれば想像できるでしょうか。こうした熱狂から身を守るという警備上の理由から、ビートルズの4人は滞在期間中のほとんどを宿泊先のヒルトンホテルで雪隠詰め状態で過ごすことになります。そこで退屈してしまった4人の暇つぶしとして、誰かが3人にキャンバスに絵を描くことを提案します。提案したのはビートルズのマネージャーとして知られるブライアン・エプスタインかビートルズ来日公演の仕掛け人の永島達司(以下動画参照)と考えられています。この絵画の作成風景をビートルズの友人だった写真家のロバート・ウィテカーが撮影しており、現代のファンも4人が真剣な面持ちで絵を描いている様子を伺い知ることができます。この絵は中央に明かり取りのランプを置いて描かれており、4人がそれぞれ四隅から描いています。中央のランプが置かれていたところが白く残っており、そこに4人それぞれのサインが記されています。絵のテーマは4人が人生で欲しいもので、題名は「Images of a Woman」とのこと。ロバート・ウィテカーによると、4人は絵を描くのを心からリラックスして楽しんでおり、武道館のコンサートから戻って絵を描くのを楽しみにしていたとのこと。ロバート・ウィテカーは当時を振り返り「あの時ほどあんなに穏やかで満ち足りた4人を見たことはなかったよ。4人は描くのを止めて武道館にコンサートをやりに行き、『さあ、絵を描きに戻ろうぜ』って帰ってきたんだ」と語っています。なお、この絵は映画館「松竹セントラル」の支配人であり、ビートルズファンクラブ初代会長の下山鉄三郎に寄贈されました。彼の死後の1989年に妻がこの絵をオークションに出し、レコード店経営者のTakao Nishinoが28万ドル(今のレートで50万ドル程度)で購入。3年ほどは彼のリビングルームに飾られていたものの、その後ベッドの下にしまわれたまま時は過ぎ、2012年にPhilip Weiss Auctionsに出品され、15万ドルで落札されました。その際の落札者は明らかにされておらず、この年に「Images of a Woman」は初めて日本の地を離れることになりました。4人がホテルから出られないほどの日本のファンの熱狂が結果的にこの絵を生み出し、そして熱狂の渦だった武道館で4人がホテルに戻って絵を描くことを考えながらコンサートをしていたと考えると、ちょっと皮肉ながらもビートルズらしいエピソードということになりそうです。
https://buzzap.jp/news/20200104-images-of-woman-beatles/
https://en.wikipedia.org/wiki/Images_of_a_Woman
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カラー写真「イメージ・オブ・ウーマン - 東京ヒルトンホテル - 1966年」
<写真の解説>
6月29日にホテルの部屋で描かれた絵画「Images Of Woman」。4人の共作で、左上から時計回りに、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴ作。真ん中の白い円は電気スタンドが置かれていたところで、それを囲んで描かれ、最後にスタンドを外し、4人がサインをした。
Robert Whitaker, 1966 撮影:ロバート・ウィテカー(1966年)
<写真データ>
撮影:1966年6月29日
場所:東京ヒルトンホテル、日本
人物:ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター
プリント:タイプCプリント
用紙:フジ・フイルム・クリスタル・アチーヴ・ペーパー(マット・フィニッシュ)
https://fab4.shop/collections/japan-concert/products/whitaker_093
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カラー写真「ジョン・レノン、ポール・マッカートニー - 東京ヒルトンホテル - 1966年」
<写真の解説>
6月29日、ホテルの部屋で絵を描くジョン(左)とポール(右)。2人はレノン=マッカートニーとして数多くの名曲を共作したが、絵画でも仲良く共作している。
Robert Whitaker, 1966 撮影:ロバート・ウィテカー(1966年)
<写真データ>
撮影:1966年6月29日
場所:東京ヒルトンホテル、日本
人物:ジョン・レノン、ポール・マッカートニー
プリント:タイプCプリント
用紙:フジ・フイルム・クリスタル・アチーヴ・ペーパー(マット・フィニッシュ)
https://fab4.shop/collections/japan-concert/products/whitaker_092
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カラー写真「ポール・マッカートニー - 東京ヒルトンホテル - 1966年」
<写真の解説>
6月29日、ホテルの部屋で絵を描くポール・マッカートニー。
Robert Whitaker, 1966 撮影:ロバート・ウィテカー(1966年)
<写真データ>
撮影:1966年6月29日
場所:東京ヒルトンホテル、日本
人物:ポール・マッカートニー
プリント:タイプCプリント
用紙:フジ・フイルム・クリスタル・アチーヴ・ペーパー(マット・フィニッシュ)
https://fab4.shop/collections/japan-concert/products/whitaker_090
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カラー写真「ジョージ・ハリスン - 東京ヒルトンホテル - 1966年」
<写真の解説>
6月29日、ホテルの部屋で絵を描くジョージ・ハリスン。もの静かなビートルと呼ばれていた彼はビートルズの中では最年少の当時23歳。
Robert Whitaker, 1966 撮影:ロバート・ウィテカー(1966年)
<写真データ>
撮影:1966年6月29日
場所:東京ヒルトンホテル、日本
人物:ジョージ・ハリスン
プリント:タイプCプリント
用紙:フジ・フイルム・クリスタル・アチーヴ・ペーパー(マット・フィニッシュ)
https://fab4.shop/collections/japan-concert/products/whitaker_089
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写真「ジョン・レノン、リンゴ・スター - はっぴ - 機内 - 1966年」【オリジナル・プリント/ロバート・ウィテカー・フォトグラフィーのエンボス入り】
ロバート・ウィテカーSKU: whitaker_073_11x14p
<写真データ>
撮影:1966年6月29日
場所:機内
人物:ジョン・レノン、リンゴ・スター
プリント:タイプCプリント
用紙:フジ・フイルム・クリスタル・アチーヴ・ペーパー(マット・フィニッシュ)
※商品画像は写真家から提供された参考写真です。実際の色・濃淡やプリント範囲は若干異なります。※写真作品の解説や撮影日時・場所、プリント方法・用紙などの写真データは、原則、写真家から提供された情報を元に提供しています。
写真にはロバート・ウィテカーの写真作品を管理する「ロバート・ウィテカー・フォトグラフィー」のエンボスと、限定数がある写真はその限定数が書かれています。
<写真の解説>
6月29日、日本に向かう機内でJALのはっぴを着て、熱心に本を読んでいる読書家のジョン。右はリンゴ。彼らがかけているサングラスの形は当時めずらしく、こうした独自のファッションやヘアスタイルは世界中の若者に影響を与えた。
Robert Whitaker, 1966 撮影:ロバート・ウィテカー(1966年)
https://fab4.shop/collections/japan-concert/products/whitaker_073
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写真「ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、リンゴ・スター - 東京ヒルトンホテル - 1966年」【オリジナル・プリント/ロバート・ウィテカー・フォトグラフィーのエンボス入り】
ロバート・ウィテカーSKU: whitaker_091_11x14p
<写真の解説>
日本に到着した6月29日、記者会見を終えたビートルズは、厳重な警備体制のもと、外出は許されず、部屋で過ごすしかなかった。暇な時間を絵を描くことで費やすリンゴ(左)、ジョン(右奥)、ポール(右手前)。
Robert Whitaker, 1966 撮影:ロバート・ウィテカー(1966年)
<写真データ>
撮影:1966年6月29日
場所:東京ヒルトンホテル、日本
人物:ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、リンゴ・スター
プリント:タイプCプリント
用紙:フジ・フイルム・クリスタル・アチーヴ・ペーパー(マット・フィニッシュ)
※商品画像は写真家から提供された参考写真です。実際の色・濃淡やプリント範囲は若干異なります。※写真作品の解説や撮影日時・場所、プリント方法・用紙などの写真データは、原則、写真家から提供された情報を元に提供しています。
写真にはロバート・ウィテカーの写真作品を管理する「ロバート・ウィテカー・フォトグラフィー」のエンボスと、限定数がある写真はその限定数が書かれています。
https://fab4.shop/collections/japan-concert/products/whitaker_091
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ザ・ビートルズ写真作品100点の限定オリジナルプリントが「ビートルズの日」から販売開始
2021(令和三)年06月28日(月) 11:20配信 Billboard JAPAN ザ・ビートルズの写真作品100点の限定オリジナルプリントが、1966年に最初で最後の来日を果たしたことから「ビートルズの日」に制定されている
‡2021(令和三)年06月29日(火)から販売される。ザ・ビートルズ来日55周年を記念し、ミュージシャンのポートレイトやコンサートフォトなどのミュージックアートやメモラビリアを専門で取り扱うオンラインギャラリー「ファブ・フォー・ギャラリー」にて販売。来日時を除く写真がオンラインギャラリー上で公式販売されるのは国内初となる。写真はイギリスの写真家ロバート・ウィテカーが撮影。ウィテカーは来日時にビートルズに帯同し日本での滞在ドキュメントをとらえた公式カメラマンとして日本では知られているが、ミュージックアート界ではサルバドール・ダリから影響を受けたという革新的な表現手法で芸術的な写真を数多く残したことから評価されている。今回、取扱いを開始した写真作品は「日の丸に向かって日本武道館のステージに登る瞬間のビートルズ」ほか日本公演のステージ写真、楽屋やホテルでのシーンなど日本滞在中のドキュメントフォト27点をはじめ、スコットランドで撮影され米LIFE誌の特別編集版の表紙を飾ったビートルズの象徴的な写真「アンブレラ」、1965年ニューヨークのシェアスタジアムで行われた伝説のコンサート、ロンドンにあるチズウィック・ハウスの公園で撮影した「レイン」や「ペイパーバックライター」のMVの撮影シーンやミュージックアート界で有名なジョージ・ハリスンの「Way Out」ポートレイト、「ジャケット写真の教科書」とも言われているアルバム『リボルバー』の裏ジャケットに使用された写真、ビートルズの最後の英国ツアーのリハーサル・シーン、写真家が特に親しくなったメンバーのジョン・レノンの自宅で撮影したファミリー・フォト、英「MOJOマガジン」の表紙を飾ったポートレイトなど。写真はすべて、ウィテカーの写真作品を管理する「ロバート・ウィテカー・フォトグラフィー」監修のもとイギリスのハイクオリティな現像所でミュージアム・クオリティーの印画紙にプリントされ、オリジナル・プリントを証明するウィテカー・フォトグラフィーのエンボスが押され限定番号が書き込まれている。購入者が自身で額装できるようシートでの販売をしているが、提携の額装工房のプロの職人が、マット付きで木製額におさめて届けることも可能。
Photographer: Robert Whitaker
●コメント●日の丸に向かっての写真って、初日のジャケットではないですね??そういえば、6月29日となっていますが、実は来日はもっと早いはずだったらしい。ちょうど台風が先に来日していて、ビートルズの乗る飛行機は足止めをくらってしまい、アンカレッジで休養するブライアンエプスタインとジョンとジョージの仲良い3ショットが残っている。実はこの時台風が日本上陸していたお陰で日本公演が週末にもつれ込んで、ビートルマニアの小学生中学生高校生は助かったのでは??離日が日曜日になったし。台風が来ないで予定通りだと、ビートルズ日本公演は週の真ん中まるまる平日だったことに当時のカレンダーを見て気付いた。1966年6月29日は水曜日だった。これが月曜日や火曜日に来日だとファンはキツかったのでは??まぁとにかくボツ曲の無いリボルバーのレコーディングが上手く行って清々しい晴れやかな気分で西ドイツ&極東ツアーに来れたのだろうな!!!
https://news.yahoo.co.jp/articles/5359bff5a54eb06ab2454f60d44c1794133b07f1
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┃ 大人のMusic Calendar ┃
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51年前の今日、ビートルズが初来日。武道館公演の全曲完全解説
‡2017(平成29)年06月29日(木) 執筆者:川瀬泰雄
‡1966(昭和41)年06月29日(水)午前3時39分、台風騒動の中、日航機412便「松島」がビートルズを乗せて羽田空港に到着。この日は1日中、記者会見や取材などが中心となった。翌30日夜から7月1日昼夜、7月2日昼夜の3日間の5公演が武道館コンサート。初日30日夜、前座が終了した後19時35分頃、待ちに待ったビートルズが登場。ダーク・グリーンの大きな襟のついた、黒い上下のスーツ。上着はダブルのボタンで、赤いシャツ、というのが生で初めて見るビートルズの衣装だった。見慣れたリンゴのラディックのドラムと、ポールのヘフナーのバイオリン・ベース。しかし、ジョンとジョージのギターは初めて見るエピフォン・カジノだ。この日のギターやベースのチューニングは半音下げてあった。台風の中の来日での疲れのせいでの考慮だったのだろう。ただ、そのために全体のチューニングにしまりがなく、それに加え、武道館のステージのマイク・スタンドのセッティングやステージの揺れなどのおかげで、回転してしまうマイクをポール・マッカートニーが歌いながら何度も直すシーンがあるという、あまり良いステージではなかった。この公演でテレビで収録されたのは6月30日の夜と7月1日の昼の部の2回。7月1日の昼の部はさすがに前日のマイクセッティングなどは直してあり、ビートルズの楽器もレコードで聴くのと同じ、正しいチューニングに直されていた。前日の衣装の黒い上着が白地に赤のピン・ストライプの上着に変わっている。黒のズボンと赤いシャツは同じだった。日本テレビでオンエアされたのは、この1日の昼間に収録されたステージが、その日の夜にオンエアされた。今回はこの
1966(昭和41)年07月01日(金)昼の部のコンサートと、レコーディングされた音源とを比較してみることにする。1曲目「ロック・アンド・ロール・ミュージック」ビートルズは登場すると、簡単なチューニングやギターの音が出ているかどうかを確認する。ジョン・レノンがいきなり、ギターでコード「E7」を「♪キャ・キャ・キャ・キャ」と弾き、歌い始める。ジョンの歌に続いて、全員の音が入って来た時に、軽い驚きがあった。この曲のイメージとしてはリンゴ・スターの叩くシンバルは8分音符で叩いているのだと思い込んでいた。ステージで1小節で4回という4分音符でシンバルを叩くのを見て、「あれ!こんなに楽に叩いているの?」と手を抜いているのではないかと思ったほどだった。1957年にイギリスで発売されて以来、ビートルズがずっと聴きまくっていたチャック・ベリーの曲。レコーディングでこの曲はポール・マッカートニーがピアノを弾き、そのために珍しくジョージ・ハリスンがベースを弾いて4人で演奏している。しかもテイク1でOKを出しているほど演奏し慣れた曲なのだ。このポールの弾くピアノのドライブ感が耳に残っていたためにちょっと弾んだ8ビートと錯覚していたのだった。ステージではいつものビートルズと同じ編成でポールがベースを弾き、ジョージがギターを弾いている。その結果、ピアノで弾いていた「♪If You wanna dance with me」の歌のバックのユニゾンのフレーズはギターが弾いている。曲が終わると同時にジョンが2曲目「シーズ・ア・ウーマン」のイントロの「E7」を2拍、4拍のリズムで「♪ンッ・キャ・ンッ・キャ」と弾き始める。「♪E7→D7」を2小節ずつ弾き次の「A7」を弾くと同時にポールのベースと、リンゴのドラムスが参加してくる。そしてポールのリード・ボーカルだ。ワン・コーラス目はジョージはまったくギターを弾かず客席に向かって手を振っている。この曲もレコードのリズムトラックのレコーディングではジョージは間奏しか弾いていないのだ。ツー・コーラス目からはポールのピアノが歌のメロディをなぞる音がオーバーダビングされているのだが、ステージではそれをジョージがギターで弾いている。間奏後のサビはカットされていて、エンディングのポールのシャウトで盛り上がって終わる。初めてポールの喋りが入ってきた。「ドウモ、ドウモ、サンキュー」という日本語混じり。次にジョージが歌う曲を紹介する。3曲目「イフ・アイ・ニーデッド・サムワン」。ジョージはギターを来日直前に入手した2台目のリッケンバッカー360/12、新しい12弦ギターに持ち替える。7フレット目にカポタストが付いている。ちなみに前日30日夜の半音下げたチューニングの時は、6フレット目にカポが付いていた。サビのジョンのスリー・フィンガー風のピッキングは良く聴こえている。曲が終わると、今度はジョンの喋り。4曲目「デイ・トリッパー」を紹介する。ほとんどレコードと変わらない構成。ジョンの魅力的な声が印象的だ。曲終りですぐに喋り無しで5曲目の「ベイビーズ・イン・ブラック」のイントロだ。このボブ・ディランにインスパイアされた曲も、この時期よく演奏していただけあって、ほとんどレコードと変わらない演奏である。間奏ではワルツを踊るようなステップを見せる余裕さえある。ビートルズの実力が発揮されている。4人だけでこのサウンドをキープしているのは、ハンブルク時代から演奏し続けてきた4人のライブ経験が生きている。前座をつとめた日本人のバンドはほとんどが、歌手とバンドという昔からのスタイルだった。ビートルズは演奏と歌やコーラスを4人だけで賄っているのである。今度はジョージが挨拶代わりの曲紹介、6曲目「アイ・フィール・ファイン」。ジョンがイントロのフィードバックの「ギヨーン」という音を出そうとして、ギターをアンプに近づけて、ギターの4弦の開放音の「D」を弾くが、それ程効果は出ていない。そのまま印象的なイントロのリフをアップ・ストローク中心のピッキングで弾く。この曲もレコード通りのグレードの高さを見せつける。曲が終わるとまたジョージの喋りで7曲目「イエスタデイ」を紹介する。曲紹介と同時に、ジョージではなく、ジョンがギターでコードを弾き始める。ポールがベースを静かに、ほとんど触る程度に弾きながら歌っている。たまにジョージがストリングスのフレーズのようなオブリを入れるが基本的にはジョンのギター1本のバックでポールが歌っている。これまでのステージでの「イエスタデイ」はポールがアコースティック・ギターに持ち替えて歌うというケースが多かったので、このパターンは初めてだった。ポールの歌が「ウー・ウー・ウー・ウー・イエスタデイ」で終わると、そのままポールがリンゴの歌う8曲目「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」を紹介。リンゴはこの意外とテクニックが必要な、少し弾んだリズムのドラムスを難なく叩きながら歌っている。前日はリンゴのボーカルマイクのセッティングが低すぎて、歌いにくそうだったが、このステージでは正しい高さに直っている。歌い終わってリンゴが左手でマイク・スタンドをどけている時に、「サンキュー・リンゴ」とジョンの声が入り、9曲目「ノー・ホエアー・マン」を紹介する。「イフ・アイ・ニーデッド・サムワン」についで一番新しいアルバム『ラバー・ソウル』からの選曲だ。この2曲はコーラスが中心の曲なので、セット・リストに入らないと勝手に思いこんでいた。これは嬉しい驚きだった。レコードではジョージが間奏の最後で出す、1弦の5フレットでのハーモニックスの「ピーン」という音は昨日、5フレット目の「E」が出にくかったために7フレット目の「B」を弾き直し「ピーン、ピーン」と2発鳴らしたが、この日は始めから7フレット目の「B」のハーモニックスを鳴らしていた。間奏後のコーラスで、ジョンが歌詞を間違えポールを見ながら適当に誤魔化すシーンがあったが、これも良くあるジョンらしいので、よいシーンが見られたということだろう。ポールの「ドウモ、ドウモ」の喋りの後、またまた驚きの曲紹介だ。わずか2週間前に発売されたばかりの複雑なコーラスの10曲目「ペイパーバック・ライター」を紹介した。さすがにこの曲は絶対にセット・リストに入らないと思っていただけに、本当にビックリ。突然、ジョンとポールのハーモニーで「♪ペイパーバック・ライター」と歌いだし、伸ばしているところに重ねて、ジョージが「♪ペイパーバック・ライター」と追いかける。そこにギターのリフが重なってくるという複雑な構成の曲だ。レコードではコーラスのダブル・トラッキングなどで、もっと複雑な音の積み重ねだったが、ステージでも十分に聴きごたえのあるハーモニーやアレンジになっていた。そして、とうとう最後の曲になってしまった。11曲目「アイム・ダウン」である。ポールがずっと作り上げたかった本物のロックン・ロールであり、「ロング・トール・サリー」に匹敵する曲を作るということを意識して作った曲だ。いまや、この2曲はステージ最後の曲の定番になっている。レコーディングでは2回ある間奏の2回目は、ジョンがVOXのオルガンを弾いていて、前年の1965年8月15日の伝説のシェイ・スタジアムのコンサートでもジョンは肘でオルガンを弾いていた。武道館のステージにもVOXのオルガンはセットしてあったのだが、残念ながら、一度もオルガンを使うことはなかった。曲が終わると、アンコールは無し。4人は手を振りながらステージの後ろに消えていった。3日間で全5回のステージをこなし、最初で最後のビートルズ来日公演は終了した。
≪著者略歴≫川瀬泰雄(かわせ・やすお):東京音楽出版(ホリプロ)で井上陽水、浜田省吾、山口百恵など、キティ・レコードでH2O、岩城滉一、吉永小百合などの音楽プロデュースを担当。独立後は、松田聖子、 岩崎宏美、裕木奈江などを制作。約 1,600曲を手がけた。『真実のビートルズ・サウンド』、『プレイバック 制作ディレク ター回想記』、『ニッポンの編曲家』、4月13日発売の「真実のビートルズ・サウンド完全版 全213曲の音楽的マジックを解明」(リットーミュージック)の著書もある。
http://music-calendar.jp/2017062901