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┃ 『MEET THE BAD BOYS!』 ┃
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1973(昭和48)年09月20日(木) 東芝EMIレコード
2012(平成24)年01月25日(水) UNIVERSAL MUSIC
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┃ 『MEET THE BAD BOYS!』+4 ┃
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‡1993(平成五)年03月03日(水) UNIVERSAL MUSIC
https://www.amazon.co.jp/dp/B0047HPFB6
https://tower.jp/item/3017071/MEET-THE-BAD-BOYS!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%82%BA
☆THE BAD BOYS のデビューアルバム『MEET THE BAD BOYS』制作、及びデビュー前後のこと
2017(平成29)年09月20日(水) 執筆者:廣田龍人/リッキー廣田
1972(昭和47)年05月14日(日)だったかな? 第4回「日本語のふぉーくとろっくのコンサート」というタイトル! これも定かではありませんが、とにかくデビュー1年前に東京に武者修行に来たのです。場所はハッキリ覚えています。日比谷野外音楽堂で僕等の出演のひとつ前が人気上昇中の「猫」というフォークグループでした。当時、関西では人気のあったTHE BAD BOYSのメンバーを大阪からスカウトして4人を東京に連れて来た上野氏は、関東のステージでどこまで通用するかを試したかったと言ってました。すでにザ・フォーク・クルセーダーズや、はしだのりひことシューベルツのマネージャーをやっていた彼の本心はブライアン・エプスタインになりたかった様です。ところが、その日、彼の心配とは裏腹にステージは大ウケのライブとなり、翌年のデビューへの足掛かりになったのです。
1973(昭和48)年05月01日(火)、遂に上京。実は、私以外の3人は東京進出を強く拒んでいました。ビートルズがリバプールからロンドンに行って成功した様に、首都東京に行かなければ何も出来ないよ! と何度も説得してやっと連れて来たメンバーは不安がいっぱいだったのかも知れません。私は自信に溢れていました。先ずはレコード会社のオーディションを受ける事になってワーナーパイオニアのスタジオでオリジナルナンバーやビートルズナンバーを何曲か演奏しました。結果は不合格でした。ビートルズがデッカのオーディションに落ちた状況と似てます。そして2社目、運命の東芝EMIレコードのオーディションに 受かったのです。ディレクターはザ・リガニーズにいた新田さんです。ひと通りオリジナル曲を演奏し、最後に、「君達の得意な曲を聴かせて欲しい」と言われ、迷わずビートルズナンバーを歌いました。ところが皮肉なことにそれが大いに喜ばれ、結果的にはこれが『MEET THE BAD BOYS』を作ろうというキッカケになったのです。僕等は1年先輩のキャロルやチューリップの様に、オリジナル曲でデビュー出来ると思っていました。キャロルはビートルズのデビュー前のイメージ、チューリップはビートルズの後期のイメージでやっていたので、僕等は一番カッコいい初期のビートルズの様なオリジナル曲を目指そうと考えていたのです。ところが、デビューシングルは吉田拓郎の「ビートルズが教えてくれた」で、デビューアルバムは『MEET THE BEATLES』のパロディにしようとスタッフ内で決められてしまいました。今更大阪に帰れない僕等は従うしかなかったのです。当時は大胆で斬新なアイディアだったかも知れないけれど、僕等には迷惑な話でした。赤坂溜池にあった東芝レコードの第7スタジオでレコーディングは行われました。アルバムは徹底的にビートルズと同じにしようという事でジャケットまでこだわりました。スタジオには最新の8チャンネルのレコーダーがすでにありましたが、基本的には2ャンネルしか使わないという事になりました。でも、どうしてもあの雰囲気が出せません。機械も状況も違う訳ですから。ポールの清水君はヘフナーとリッケンバッカー、フェンダープレシジョンを使い、ベースアンプはVOX。ジョージの川端君はフェンダーテレキャスターで、私は当時日本に一本しかなかったリッケンバッカー、アンプはフェンダーツインリバーブ。リンゴの城間君はラディックで彼が一番ビートルズサウンドに近かったですね。面白かったのは「Please Please Me」でジョンが2番の歌詞を間違って歌ってるので同じ様に歌おうと、その後の“Come On!”でジョンが笑って歌う箇所までコピーしましたが…この部分は笑えましたね。シングル曲の「ビートルズが教えてくれた」に関しては、スタジオに行ったらすでにオケ(カラオケ)が用意されていて、僕等はボーカルだけ入れれば良いという事で、この一件はかなりショックでした。オケは六文銭のメンバーで録音されていた。何故? っていう感じでメンバーも凄く憤慨しました。モンキーズじゃないんだから!結局、ブツブツ言いながら歌いましたけどね。スタジオ内の不満は全てミキサー室に筒抜けで、ディレクターの新田さんから「君達!嫌なら帰っていいよ!」と言われてスタジオを飛び出す一幕もありました。慌ててマネージャーの上野氏が止めましたけどね。デビュー後は、ビートルズが大好きなファンからは大いに支持されました。ビートルズのステージを再現する訳ですから。僕等も、ステージを見に来てる人達から「ジョン!」「ポール!」とか叫ばれて、気持ち悪かったです。全く自分達が描いていたデビューとは違う方向に進んで行ってしまい、毎回、何でビートルズばかりを歌ってるのだろう? と自問しました。それでもデビュー2年目の頃にはオリジナルもちょこちょこ入れましたが、やっぱり来てる人達はビートルズナンバーを期待している人達が圧倒的でした。スタジオワークで驚いたのは、録音スタッフにほとんどビートルズの知識がなかったことです。録音技術は認めますが、ビートルズの曲に関しての知識は僕らの方が詳しかったのです。でも、当時はまだ曲の細かいニュアンスをうまく伝えることができませんでした。だからもう言う通りにするしかなかった。違うと思ってもう1テークやりたいと言っても理解されず、拒否されてしまい、くやしい思いをしました。それも今となっては良い思い出です。(c)2016Yellow Doragon
◆リッキー&ミッシェル、リボルバー他スケジュール>
≪著者略歴≫廣田龍人/リッキー廣田(ひろた・りゅうじん):THE BAD BOYS として、
1973(昭和48)年09月20日(木)、東芝EMIレコードよりアルバム『MEET THE BAD BOYS』でデビュー。ビートルズの完全コピーバンドとして全国のビートルズファンに認知される。現在はリボルバーのリーダーの他、ソロ活動を中心に「リッキー&ミッシェル」「ホットレッグス」「ビーブラッズ」など幅広く活躍。
http://music-calendar.jp/2017092001
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┃ Get Back Tour In Japan ┃No.1
┗━━━━━━━━━━━━━┛24年ぶりにポールは武道館に立った日だヨ(=^◇^=)
00 1990(平成二)年3月02日(金) 東京ドーム ■中止■
‡01 1990(平成二)年3月03日(土) 東京ドーム (01)
02 1990(平成二)年3月05日(月) 東京ドーム (02)
00 1990(平成二)年3月06日(火) 東京ドーム ■中止■
03 1990(平成二)年3月07日(水) 東京ドーム (03)
00 1990(平成二)年3月08日(木) 東京ドーム ■中止■振替なし
04 1990(平成二)年3月09日(金) 東京ドーム (04) ※クローズド・サーキット
05 1990(平成二)年3月11日(日) 東京ドーム (05)
06 1990(平成二)年3月13日(火) 東京ドーム (06) ※この公演は当初、3月2日、3日、5日、6日、8日、9日、11日の計7公演が予定されていたが、2月初旬に行ったアメリカツアーで体調不良となり、公演直前に「公演日の日程を1日置きにしてほしい」と要求し、7公演より6公演に急遽変更した。なお、3月8日に予定されながら中止となった公演の別日への振り替えは設定されず、他の6公演も完売だったため、チケットの払い戻しが行われた。また、3月9日の公演は「東京へ来られないファンへ、映像でコンサートを楽しんでほしい」との趣旨で、「クローズド・サーキット」(実際のコンサートを各地方都市の会場に衛星生中継を行い、映像で楽しんでもらう企画)を行った。
*********************** http://www.asahi-net.or.jp/~wa5y-knn/
https://ja.wikipedia.org/wiki/ポール・マッカートニー#日本公演日程
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■ライブレポートNo.1 1990年 ポール=マッカートニー Get Back Tour 東京ドーム公演
1990年3月3日の土曜日。僕は東京ドームの前に立っていた。 夢にまでみたポール=マッカートニー東京公演。でも,「コンサート」へ行くというよりは,ほとんど初めてメッカへ巡礼にゆくイスラーム教徒とか祖国へまだ見ぬ肉親を探しに来る中国残留孤児のような気持だったと言ったほうがいいみたいだった。何度も何度もバカみたいにバッグの中のチケットを確認しながら,岡山駅を朝10時に出発して東京に着いたのは昼の2時。東京ドームに着いたのはまだ午後2時半だった。コンサートが始まるまでもう4時間ある。本当はそのあと様子だけ見てどこかで買い物でもしてこようと思っていたのだけれど,ドームに着いたとたんそんな気持はどこかに吹き飛んでしまった。僕は,もうそこから動くことができなかった。今,ここにポールがいる。そう思うともうダメだった。今ここを離れたらもう2度と戻って来ることができないような気がして・・・。おかしな話だけれど,あのときは本当にそう思った。16年待ったんだもの。中学校1年生のときFM放送で初めてポールとウイングスの『ジェット』という曲を聞いてノック・アウトされてから,本当にもう16年間。一度も休むことなく,ポールとビートルズの曲を聞き続けて,歌い続けて,愛し続けて来た。「青春の1ページ」なんてなまやさしいものではなくて,控え目に言っても僕の青春の半分以上だった。苦しいときも,悲しいときも,寂しいときも,辛いときも,楽しいときも,ポールとビートルズの曲だけはいつもそばにいてくれた。友情も,恋も,勉強も,喜びも,悲しみもすべてポールとともにあった。だからドームの中に入ったらもう完全にダメだった。ハラハラしながら,それでもまだ自分がこんなところにいることが信じられなくて,時計ばかりを見ていた。バックスクリーンの前,センター中央部付近に,ポールが立つはずの巨大なステージがある。そして,僕の席は丁度セカンド・ベースの脇のあたり。D12-49。正面からステージが見える。意外にいい席だ。でも,時間はなかなか過ぎて行かない。イライラする。午後6時30分,ついにステージ上のスクリーンに,若き日のポール,ジョン,ジョージそしてリンゴの4人の顔が映し出された。今回のワールド・ツアーのために『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』のリチャード=レスター監督が製作したというポールの「歴史映画」だ。『ア・ハード・デイズ・ナイト』の,何度聞いたか分からない印象的なイントロが聞こえてきた。胸が鳴った。そして,スクリーンには年代を追って次々と,ポールとビートルズの姿が,ベトナム戦争やいろいろな当時のフィルムとともに映し出されてゆく。『愛こそはすべて』が聞こえる。そして,『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』が聞こえてきたとき僕は泣いていた。まだステージには誰もいないというのに・・・。この曲を聞いて今まで何度泣いてきただろう。そんな16年間の思いが頭のなかを駆け巡っていた。スクリーンには1964~1969~1973~1989と数字が光っては消えて行った。いよいよだ。最後にスクリーンに"NOW"と映し出されると,突然ステージが美しい照明に包まれた。ポールだ!ポールがそこにいる!肩から5弦ベースをぶら下げて,遠くて小さくしか見えないけれど,間違いなくポールだ!僕は立ち上がった。東京ドームの4万3千人の気持がひとつだった。ポールのベース・ギターからはまだ最初のワン・フレーズも出ていないというのに,まだたった一言もしゃべっても歌ってもいないというのに,その瞬間観客は全員総立ちだった。ものすごいどよめき。僕も叫んでいた。「ポール!ポール!」まるで,女子高生みたいだ。でも,そのときは少しも恥ずかしくなかった。ポールが来てくれた。そのとき,僕は確かに「神」を見ていた。そして,ついに始まった。『フィギア・オヴ・エイト』-去年出たアルバム『フラワーズ・イン・ザ・ダート』からの最新シングルだ。小気味よいロック・ナンバー。会場はいやがおうにも盛り上がる。ステージ両脇の大きなスクリーンに,ポールやリンダ,そして,ほかのメンバーたちの姿が大きく映し出される。でもでも,その一曲目が終って2曲目のイントロが聞こえてきたとき,僕は本当にもう死んでしまいそうだった。『ジェット』!16年待ったんだ。この曲を聞きたくて16年間待ったんだ。体が弾んだ。ポールのシャウトにあわせてこぶしを突き上げていた。"I can almost remember their fanny faces that time you told them you were going to marry soon."大声で歌っていた。16年間,何度も何度も繰り返し歌い続けてきたフレーズが口をついて出てくる。まだろくに英語も分からなかった中学1年の頃,カタカナに直して一生懸命覚えたっけ。「ポール!ポール!」のどが張り裂けるほど大声で叫んでいた。1曲目が終る。ポールが叫ぶ。"Are you feelin' all right?"-イエー!大声で応える。"Thank you, Tokyo!" ポールが叫ぶ。お礼を言いたいのはこっちの方だ。そして,聞こえてきたのは…キーボード奏者ウィックスがシンセサイザーで作り出したブラスの音。『ガット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ』!夢にまで聞いたビートルズ・ナンバーだ。のっけからだもの,頭がおかしくなってしまいそうだった。知らず知らずのうちにドームの天井に向けて叫んでいた。"Got to get you into my life !"体が震えてきた。汗が出てくる。目の前にポールがいるんだ。そして,ビートルズの名曲を歌っているんだ。夢を見ているみたい。2曲目は『フラワーズ・イン・ザ・ダート』から『ラフ・ライド』。馴染みの薄い曲だけに熱狂は一休み。みんなポールの歌声に静かに耳を傾ける。次は何だ!おい,このイントロはウイングス時代の名曲『バンド・オン・ザ・ラン』じゃないか!この曲大好きなんだ。中学2年生のとき初めて買ったロックのLPのタイトル・ナンバーだ。あのときは本当にショックだった。この世の中にこんな素敵な音楽があるなんて・・・。そして今,そのときの衝撃がよみがえってきた。スクリーンにはその印象的なアルバム・ジャケットの撮影風景が映し出されている。もうやめてくれ!これ以上僕たちを喜ばせないでくれ。でもおかまいなしにポールは続ける。"Band on the run. Band on the run!"もう,狂ってしまいそう。ポールは上機嫌。「コンニチハ」「オッス!」日本語も飛び出す。でも,オッスなんて,きっと1970年に,成田空港で大麻不法所持で捕まったときに日本の留置場の中で覚えたんだろうなと思うと何だか妙におかしい。『ウィー・ガット・マリード』。ニュー・アルバムからの曲が続く。いい曲だ。だけど馴染みが薄いからか,客席がちょっと静かになる。でもそれもつかの間,ポールがサイケデリックな色に塗ったエレキ・ピアノの前に座った『幸せのノック』。76年にオーヴァー・アメリカ・ツアーでもやった曲だ。リンダが小太鼓を叩いている。肩をゆすりながら聞いた。そして,「ちょっと60年代に戻ろうじゃないか。」そう言って,ポールが弾き始めたピアノ。このフレーズは?回りのお客たちはまだ気が付いていない。でも,僕には分かった。このイントロのピアノ,『オーバー・アメリカ・ツアー』の時とおんなじだもの!『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』。相変わらずだ。あのもの悲しそうな声。何て素敵なんだろう。「ありがとうポール!」幸せだった。嵐のような拍手の中『ワインディング・ロード』が終る。ポールが先を続ける。「この曲を僕の3人の友だち,ジョンとジョージとリンゴに捧げます。」"Day after day, alone on the hill..."またしてもビートルズの名曲『フール・オン・ザ・ヒル』だ!何と楽しげなポール。そしてエンディング。噂に聞いていたとおりにピアノとポールが台ごとせりあがり,"round round"の歌声にあわせて本当に回り出す。終った。次の曲は?ステージが暗くなる。あれっと思っていると,観衆のざわめきのような効果音が聞こえてくる。『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』だ。有名な(かどうか知らないが)日本語で「ポールのアホ!」と聞こえる部分が何回も繰り返されている。アルバムの効果音をそのまま使っているのが分かった。そして,イントロ。この曲をライヴで聞くことができるなんて,大感激。中間部はものすごくハードに仕立て上げられていた。スクリーンにはサイケデリックな紋様が映る。曲はそのまま『リプライズ』へとなだれこんでいった。手に汗握る。あぁ,60年代にもう少し大人だったらなぁ!と,少し悔しくなってしまった。そして,まだビートルズ・ナンバーが続く。『グッド・デイ・サンシャイン』だ。アルバム『リヴォルヴァー』からの曲が多い。すごい。でもポールは僕たちを休ませてはくれない。「みんなダンスは好きかい?次の曲はダンスにぴったりさ。踊ろうよ。OK? グッド・アイデアだろう。」おいおい,一体何をやるんだ。そう思うのもつかの間,いきなり始まった。"Can't buy me love, love. Can't buy me love!"『キャント・バイ・ミー・ラヴ』。すごい!すごい!すごい!涙が出そうだった。この曲をやってくれるなんて。ちょっと首を傾けて,口を突き出すように歌うしぐさ。昔といっしょだ。そして,続いてニュー・アルバムから印象的なアコースティック・ナンバー『プット・イット・ゼア』。この曲を聞くと『マーサ・マイ・ディア』を思い出してしまう。でもでも,最後にやっぱりポールならではのアイデアが隠されていた。"Hello, he-hello-lo, Hello, he-hello-lo"エンディングがこれまたビートルズ・ナンバー『ハロー・グッドバイ』に変わって行くんだもの。最高。幸せ。続いて64年のアルバム『ア・ハード・デイズ・ナイト』から『今日の誓い』。渋い隠れた名曲だ。意外な選曲に驚く。だけど気分が悪いはずがない。続いて,ポールが中央マイク,リンダとヘイミシュ=ステュアートが右のマイクにつく。すると,いきなりポールが歌い出す。"Ah! Look at all those lonely people..."『エリーナ・リグビー』だ!この曲がライヴでやれるなんて。ウィックスのシンセが完璧にレコードのストリングスをコピーする。そして,ポールの頭上のスクリーンには次々と老女の顔が映し出される。たくさんのエリーナたち。心憎いまでの演出。歌った。ポールと一緒に大声で。そして,今度はポールの手にベース・ギターが握られた。それもただのベースじゃない。ヘフナーのヴァイオリン型ベース。そう,あの「ビートルズ・ベース」だ。ドーム中に効果音が広がる。『ジス・ワン』。好きなんだこの曲。ヘイミッシュとの完璧なコーラス。舞台左手から巨大なパネルがせりあがってくる。『フラワーズ・イン・ザ・ダート』のジャケットだ。『ジス・ワン』が終ってポールが言う。 「ありがとう。いちばん新しいアルバムから『ジス・ワン』という曲をやりました。次も『フラワーズ・イン・ザ・ダート』からの曲です。」曲の紹介の仕方もビートルズ時代と少しも変わっていない。"It gose like this." と言って,いきなり歌い始めたのは『マイ・ブレイヴ・フェイス』。最近の大ヒット曲だけあって,会場の盛り上がり方はすごい。でもポールは僕たちを休ませてはくれない。やがて,ドーム中を巨大なジェット機の轟音が左右に行き過ぎる。間違いない。『バック・イン・ザ・USSR』だ!今以上にペレストロイカが進んでポールがソ連公演をやることがあったら,きっとオープニングはこの曲だろうな・・・何てことを考えていると,ステージが燃えるような真っ赤な光に包まれた。攻撃的なイントロ。激しいロックン・ロール。ロビン=マッキントッシュのギターがうなる。と,今度はさっき『フラワーズ・イン・ザ・ダート』のパネルがあったところに別のパネルが出てきた。ソ連の国旗にある鎌のマークだ。だけど,その上にはちょこんと花が乗かっている。いかにもポールらしいアイデアだ。会場は興奮のるつぼ。しかし,息もつかせずハードなロック・ナンバーが続く。『アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア』最近ではプリンス・トラストのコンサートでも歌っていたっけ。そんなことも思い出す。言わずと知れた,ビートルズのデビュー・アルバムのオープニング・ナンバーだった名曲だ。今度はポールがドラムスのクリス=ウィッテンを紹介する。リズムにあわせて踊ろうって言ってくれる。始まった。激しいリズム。『カミング・アップ』。ポールに言われなくても,ひとりでに体が動き出してしまう。(後にこの日のこの演奏がライヴアルバム『ステッピング・ライヴ・ファンタスティック』におさめられた。)覚めやらぬ興奮の中で,今度はグランド・ピアノが登場した。ピアノの前でポールがしゃべっている。地球の環境破壊についての訴えだ。酸性雨などの環境汚染の廃絶を目指して,今回の協賛者でもある環境保護団体フレンズ・オヴ・ジ・アースへの支援を訴える。真面目だ。会場は一瞬シーンとなる。「この曲を捧げます。」そう言って静かに歌い始めた。"When I find myself in times of trouble, Mother Mary comes to me. Speaking words of wisdom, Let it be."『レット・イット・ビー』。悲しくては聞き,楽しくては歌い,まさに我が青春そのもの。「ありがとうポール。僕はこの曲に何度勇気づけられたかわからない。」今までの29年の短い人生が走馬燈のように頭のなかを駆け巡った。何よりもそこにポールがいる。そして「あの歌」を歌っている。来てよかった。ドーム中が歌っている。今,みんな心をひとつにして,"Let it be. Let it be. There will be an answer. Let it be."と歌っている。最高の瞬間。「生きてきてよかった。」29歳の青二才が吐くにはふさわしくない言葉だけれど,そのとき本当にそう思った。ポールがしゃべり始めた。残念ながら英語がよくわからない。ただ,50年代のロック・スター,ファッツ=ドミノとニュー・オリンズで出会ったときのことを話しているようだ。そして彼のスタンダード・ナンバー『エイント・ザット・ア・シェイム』。ポールの音楽的ルーツだ。そういえば,ジョンもアルバム『ロックン・ロール』でこの曲やっていたっけ。続いて静かに歌い始めたのは『リヴ・アンド・レット・ダイ』。映画『007 死ぬのは奴等だ』のテーマ・ソング。会場も大合唱。そして,曲は急転直下激しい盛り上がりを迎える。ステージ上で爆発が起こり,レーザー光線が宙を舞う。このコンサートのひとつのクライマックスだ。しかし,どうやら終りが近づいてきた。「終わるな!まだまだだ!」僕は心の中で手を合わせた。でも,そのときはついにやって来た。「みんなこの曲だけは一緒に歌ってください。」そう言って始めたのは,聞いたことの無い曲。会場はあれっというような表情。でも僕は知ってるんだ。ここでギャグをやるってちゃんとBCC(「ビートルズ・シネ・クラブ」現在の「ザ・ビートルズ・クラブ)会報に書いてあったからね。そう思っていると,案の定ポールが演奏をやめてバンドに叫んだ。「違う,違う。その曲じゃない。」芸が細かいよ,全く。「本当はこの曲なんだ。」そして,突然歌い始めた。『ヘイ・ジュード』!誰もが知っていた。誰もが歌っていた。名曲中の名曲。至高の美。美しい。美し過ぎる。"Better better better better better better Oh!"4万3千人の大合唱だ。"DA DA DA ...Hey Jude!"「はい,右側の人!」演奏が中断し,ポールの指示で客席右側に陣取った観客が歌う。そして続いて左側。僕たち真ん中のグループはしばらくお休み。でも,歌いたくてウズウズしていた。そして,いよいよポールのお許しが出た。「はい,真ん中の人!」大声で歌った。のどがつぶれてもいいと思った。歌った。いつまでも歌った。このまま時間が止まってしまえばいいと思った。友だちの顔が,恋人の顔が,僕の前を通りすぎて行ったすべての人たちの顔が,頭の中を駆けめぐった。そして終った。頭のなかは真っ白。僕は"OK Paul! All right Paul!"と叫び続けていた。ありがとう,ポール!ポールとメンバーたちの姿がステージから消える。しかし,拍手は鳴りやまない。鳴りやむはずがない。僕も力一杯手を叩いた。不思議と痛みは感じなかった。そしてみんな叫んだ。「アンコール!アンコール!」・・・「もう一度出てきてくれ!」---願いが通じた。しばらくしてポールはにこやかな顔で現われた。一人だけだ。そして,アコースティック・ギターをつかむ。「いよいよだ!」だれもが「次」に起こることを知っていた。そして期待している。観衆は息を飲んで見つめる。そして,「あの」誰もが知っているイントロが聞こえてきた。「やっぱり!」もう誰も止まらなかった。みんな半狂乱だ。そして,ポールと一緒にみんな歌い始めた。みんな知っている「あの」曲を!"Yesterday all my troubles seemed so far away, now it looks as though they're here to stay. Oh I believe in yesterday."『イエスタデイ』。今まで何人の人がこの曲を聞いたのだろう。何人の人がこの曲を歌ったのだろう。そして,何人の人がこの曲を愛してきたのだろう。ウィックスのシンセサイザーが素晴らしい伴奏を始める。「素晴らしい音楽は世界を救うことができる」ポールはそう言ってくれているようだった。『イエスタデイ』が終ると,再びステージ上にメンバーが勢揃いした。激しいドラムスのロールが始まる。お馴染みのフレーズ,『ゲット・バック』だ!"Get back! Get back! Get back where you once belonged,"ポールのシャウトにあわせて,僕たちも叫びながらこぶしを天井に突き出す。このままいつまでも歌っていたい。映画『レット・イット・ビー』のルーフ・トップ・セッションを思い出す。あぁ,ジョンがいたらなあ。無理を言ってみたりもしたくなる。と,今度はポールはギターを肩からはずすとステージ右上方のリンダのもとへ駆け寄った。たどたどしい日本語で言う。「リンダデス。ウチノ,カミサン!」場内からは暖かい拍手。そしてふたり並んでひとつのキーボードを弾き始めた。 "Once there was a way to get back homeward..." 『ゴールデン・スランバーズ』。『アビー・ロード』のエンディング・メドレーが始まった。ポールはまるで神様のようだった。 『キャリー・ザット・ウエイト』からいよいよ『ジ・エンド』へ。ドラム・ソロがものすごい。音圧で服が震えているのが分かる。アルバム通りだ。 そして,かつてジョンとジョージとポールの3人でやったギターソロを,ポールとヘイミッシュとロビンの3人が並んで始める。ステージの上は大騒ぎ。まるで,押しくらまんじゅうのようなスタイルで背中合わせにギターを弾いている。僕はもう自分の叫びをコントロールはできなかった。そして,ついに最後のときが来た。"And in the end, the love you take is equal to the love you make." -素晴らしい笑顔。みんな手をつないで頭を下げる。嫌だ。やめないでくれ!でも,それは無理。だけどポールは約束してくれた。「マタ,キマス!」ありがとう,ポール!ありがとう,ポール!嵐が過ぎ去った。今確実に青春の1ページが終ったのを感じた。そして,駅へと向かう道でやっぱり僕はまだ歌っていた。"DA DA DA DA DA DA DA, DA DA DA DA Hey Jude!" と。
http://beatles.hideki-osaka.com/data/report1.html
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そういえば、はるか昔1990年のこと。ポール・マッカートニーを見に東京ドームに行った。バックバンドには当時の彼の配偶者であるリンダ・マッカートニーがいて、天下のポールはメンバー紹介の際、「ウチ、ノ、カミサーン!」と叫んでいた。 あれが「ヨメサーン」じゃなくて良かったなあ。
https://www.gqjapan.jp/culture/column/20171026/what-to-call-your-wife
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┃ THE BEATLES of 1963 ┃(sun)03 March
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Concert: Gaumont Cinema, Piccadilly, Hanley, Staffordshire
The last date of the Helen Shapiro tour.
"Derek Adams, a former journalist on The Sentinel, Stoke, and the Derby Evening Telegraph, has a special reason to remember Beatlemania from the Swinging Sixties. Here he recalls the night in 1964 when he shared a fish and chip supper with the Fab Four ....and the prediction he made about their futures. Were you part of Beatlemania in the Swinging Sixties, the Bygones section of the Derby Evening Telegraph recently asked. Part of them! I actually shared a fish and chips supper with the four lads in 1964 [sic] and recall John Lennon making chip sandwiches, Paul McCartney pouring tomato sauce over everything he ate, George Harrison drinking his hot tea direct from a saucer and Ringo Starr mistakenly shaking sugar on his chips instead of salt. The Fab Four had earlier appeared for a one night two-house gig at the Gaumont Cinema, Hanley, Stoke-on-Trent, and as a junior reporter with the Stoke-on-Trent Evening Sentinel (a sister paper of the Derby Evening Telegraph for whom I later worked) I was sent along to review the whole programme for the paper's Out and About section. Helen Shapiro was billed as the star of the show. The Beatles were the third act down on the official programme. I had certainly heard of Helen Shapiro. The name The Beatles was somewhat vague to me. I watched both 'houses' from the wings adjoining the stage at the Gaumont and recall The Beatles larking around and pushing each other before they actually appeared before the screaming hordes that had solidly packed the venue. When they finished their act they were all bathed in perspiration and both John and Paul dunked their heads beneath the dressing room's cold water tap. We chatted in the dressing room for about three-quarters-of-an-hour, which included the official interval, while girls screamed at the dressing room window from the outside pavement below us. Ringo actually chucked a glass of water through the open dressing room window to the delight of the screamers. Following the second 'house' I was just about to leave the Gaumont at 11.30pm when John Lennon said to me: "Hey Wack, where can we get some fish and chips at this time of night and without the fans leering and screaming at us?" I knew of a fish and chip shop in an area known as Etruria, near Hanley, where you could sit at tables in the back of the shop. It also served bread and butter and tea. It was arranged that The Beatles follow my car in their Transit van and that we all dine together. I too had not eaten throughout that eventful evening. The meal lasted about an hour amid much laughter and joking and the occasional chip being rescued from someone's cup of tea. The overnight digs for The Beatles was with a theatrical landlady who lived at 6 Adventure Place, Hanley. The property is still there today. When the bill arrived for the meal there was much arguing among The Beatles on who would foot the bill. John said he had paid for a meal for all of them the night before and Paul and George said something similar about other evenings. Ringo eventually coughed up. We eventually said our good nights and off trundled The Beatles in their van. I returned to my lonely bed-sitter in an area known as Basford.
Oh yes, that review ...
My piece that appeared in the Out and About section of the Evening Sentinel read along these lines: "A pleasant boy band typical of many others of this time but who could just make the very competitive pop scene if only they could make another hit record".
'Tis true, I tell you!"
Source: (sat)19 February 2000, Derby Evening Telegraph,
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John's letter to a fan who attended the Hanley show.
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http://www.multiplusbooks.com/630303.html
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┃ ビートルズ詳解 The Beatles’Corpus ┃
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①1961(昭和36)年03月03日(金) ライヴ演奏:セント・ジョンズ・ホール/ブートル
②1962(昭和37)年03月03日(土) ライヴ演奏:キャバーン・クラブ (夜) /リヴァプール
③1963(昭和38)年03月03日(日) ライヴ演奏:ゴーモン・シネマ/ストーク・オン・トレント
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①ビートルズはこのセント・ジョンズ・ホール (St. John's Hall) に5回出演している。
1961(昭和36)年01月06日
1961(昭和36)年02月03日
‡1961(昭和36)年03月03日
1962(昭和37)年03月02日
1962(昭和37)年07月30日
③1963(昭和38)年03月03日(日) ライヴ演奏:ゴーモン・シネマ/ストーク・オン・トレント
10代の歌手ヘレン・シャピロ (Helen Shapiro) をメインスターとするUKツアーの最終公演が、この日ストーク・オン・トレント (Stoke-on-Trent) のハンリー (Hanley) にあるゴーモン・シネマ (Gaumont Cinema) で開催された。このツアーが始まった時には広告チラシの最下位に名前が載っていたビートルズは、シングル『Please Please Me』の成功によって第一幕のトリを務めるにまで躍進していた。ビートルマニア (Beatlemania) はまだ始まっていなかったが、そう遠いことではなかった。ビートルズは
1963(昭和38)年05月19日(日)に、ロイ・オービソン (Roy Orbison) とのツアーでもう一度このゴーモン・シネマに出演する。またストーク・オン・トレントの町には、彼らは1963年の1月26日にも来ており、4月にもう1度やって来る。ゴーモン・シネマは1階正面に1,372とサークルに812席を持ち、1929(昭和四)年02月にリージェント・シアター (Regent Theatre) として開業した。1956(昭和31)年にゴーモンと改名されるが、1979年にはオデオン (Odeon) に変わっている。1989(平成元)年に映画館としては閉館となるが、1998(平成十)年にリージェント・シアター&ヴィクトリア・ホール (Regent Theatre and Victoria Hall) として再オープンしている。
写真◆ジョン・レノンがこの日のショーを見に来たファンに宛てた手紙
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①http://gejirin.com/beatles/history/1961/19610106_live_saint_johns_hall.html
②https://gejirin.com/beatles/history/1962/0history_index-1962.html
③https://gejirin.com/beatles/history/1963/19630303_live_Gaumont_StokeonTrent.html
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┃ THE BEATLES HISTORY ┃| March 03|062
┃ ザ・ビートルズの今日の出来事 ┃|3月03日|
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1961(昭和36)年03月03日(金) ランカシャーのセント・ジョンズ・ホールに出演。
1963(昭和38)年03月03日(日) ヘレン・シャピロとのパッケージ・ツアー最終日のステージがスタッフォードシャーのゴーモント・シネマで行なわれる。ツアーのメインは1961、1962年連続でイギリス最優秀女性シンガーに選ばれた16歳のヘレン・シャピロ。ビートルズは出演6組中最もランクが低かった。そのためにツアーの最初の頃は前座の最初の出演だったが、最後の方は前半の「トリ」まで昇格していた。演奏曲は「Chains」「Keep Your Hands My Baby」「A Taste Of Honey」「Please Please Me」「Love Me Do」「Beautiful Dreamer」から4曲をセレクトしていた。
********** http://www.thebeatles.co.jp/contents/index2.htm
http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=16930
http://beatlesdiary.web.fc2.com/day/003/0303.html
https://blogs.yahoo.co.jp/fab4city/15658707.html
http://www.beatlesagain.com/bhistory.html
楽曲資料https://beatlesdata.info
歌詞充実http://tsugu.cside.com/index.html
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①┃ The Savage Young Beatles 1950s 1962 ┃
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†late March 1962 unknown photo studio, Liverpool
Photographer: Harry Whatmough
New promo shots for the new look. The beginning of the end of the savage young Beatles
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②┃ The Savage Young Beatles 1950s 1963 ┃
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†late March 1963 location unknown
Photographer: unknown
This photo was used in a Vox amplifiers advertisement which began to appear in late May 1963. Paul received his new T-60 bass amp around late March 1963. The photo must date shortly thereafter because by, at least, ●(thu)4 April 1963, Ringo finally had a real Beatle haircut. In this photo, he still has his old style.
It's difficult to tell if the gear was set up for the Vox ad or if the photo was taken at a venue where The Beatles were performing.
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①http://www.beatlesource.com/savage/1962/62.03.xx%20suits/62.03.xxsuits.html
②http://www.beatlesource.com/savage/1963/63.03.XX%20vox/63.03.XXvox.html
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┃ Winter 1963 Helen Shapiro Tour, Part 2 ┃THE BEATLES SHOW
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No.07 1 (sat)23 February 1963 Mansfield City, England, England Granada
No.08 2 (sun)24 February 1963 Coventry City, England, Coventry Theatre
No.09 3 (tue)26 February 1963 Taunton City, England, Gaumont
No.10 4 (wed)27 February 1963 York City, England, Rialto
No.11 5 (thu)28 February 1963 Shrewsbury City, England, Granada
No.12 6 (fri)01 March 1963 Southport City, England, Odeon
No.13 7 (sat)02 March 1963 Sheffield City, England, Sheffield City Hall
†No.14 8 (sun)03 March 1963 Hanley City, England, Gaumont ※THE END. Winter 1963 Helen Shapiro Tour
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https://en.wikipedia.org/wiki/The_Beatles_Winter_1963_Helen_Shapiro_Tour
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_the_Beatles%27_live_performances
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参考パンフ■Beatles Helen Shapiro Original Tour Programme 1963 £300.00 22:22 2017/03/18 An original concert programme from the 1963 UK British tour that took place between 2nd February and the 3rd March. The tour was headlined by Helen Shapiro and the Beatles appeared as one of the support acts. Programme features a black and white group shot and a brief history of the group. Measures 21cm x 27cm (8.25 inches x 10.75 inches). There is some dirt staining to the cover and a small tear measuring 1cm (0.25 inches). Condition is very good minus.
https://www.tracks.co.uk/product/b24475-beatles-helen-shapiro-original-tour-programme-1963/
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 1964/2/23(sun) recorded
┃ THE BEATLES on film and television 1964 ┃ 1964/2/29(sat) broadcast
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛‡1964/3/03(tue) broadcast Transmision in London of the television show『The Big Out』(recorded February 29, 1964).
ABC-TV's show『Mike and Bernie Winter's Big Night Out』Back in London,
The Beatles appear once again on ATV's『Mike and Bernie Winter's Big Night Out』
They mimed
♪All My Loving♪
♪I Wanna Be Your Man♪
♪Till There Was You♪
♪Please Mister Postman♪
♪I Want to Hold Your Hand♪
♪Money (That's What I Want♪ was also sung, but not shown. They also joined in with a few of Mike and Bernie's sketches.
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http://www.tvtalkin.esy.es/fab4tv/1964.htm
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┛THE BEATLES 1964 Mono mixing ┛
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①♪I Should Have Known Better♪ from take 22 (恋する二人)
②♪If I Fell♪ from take 15 (恋におちたら)
③♪Tell Me Why♪ from take 8
④♪And I Love Her♪ remix 1, from take 21
⑤♪I'm Happy Just to Dance with You♪ from take 4 (すてきなダンス)
⑥♪I Call Your Name♪ from take 7
Producer: George Martin
Engineer: Norman Smith
2nd Engineer: A. B. Lincoln
‡1964(昭和39)年03月03日(tue) モノラルミックス
10:00am-1:45pm Studio 1 (control room only)
************* http://www.uta-net.com/song/41192/
①https://beatlesdata.info/3/02_ishouldhaveknownbetter.html
①https://en.wikipedia.org/wiki/I_Should_Have_Known_Better
②https://beatlesdata.info/3/03_ififell.html
②https://en.wikipedia.org/wiki/If_I_Fell
③https://beatlesdata.info/3/06_tellmewhy.html
③https://en.wikipedia.org/wiki/Tell_Me_Why_(Beatles_song)
④https://beatlesdata.info/3/05_andiloveher.html
④https://en.wikipedia.org/wiki/And_I_Love_Her
⑤https://beatlesdata.info/3/04_imhappyjusttodancewithyou.html
⑤https://en.wikipedia.org/wiki/I%27m_Happy_Just_to_Dance_with_You
⑥https://beatlesdata.info/15/11_icallyourname.html
⑥https://en.wikipedia.org/wiki/I_Call_Your_Name
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┛THE BEATLES 1967 Recording Sessions ┛Studio 2
┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛7:00pm-2:15am
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①┃♪Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band♪┃overdub onto take 10
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛No.3「架空のバンドがショーを行う」という設定にした以上、ブラスセクションが必要と考えたメンバーは4人の外部ミュージシャンを呼んでオーバーダブを行う。4人の外部ミュージシャンが帰った後に、メンバーはリード・ギターをオーバーダブした。 (「ビートルズ・レコーディング・セッション」には「ジョージが中心となって」と書いてあるが、このリードギターはポールによって演奏されたものである。)
Recording of brasses and guitar solo for『SGT PEPPERS LONELY HEARTS CLUB BAND』
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┛THE BEATLES 1967 Mono mixing ┛Studio 2
┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛7:00pm-2:15am
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②┃♪LUCY IN THE SKY WITH DIAMONDS♪ ┃remixes 1-4, from take 8
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John takes home a tape of conversation of musicians, Paul and Martin, for his private collection
Producer: George Martin
Engineer: Geoff Emerick
2nd Engineer: Richard Lush
‡1967(昭和42)年3月3日(fri)
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①https://beatlesdata.info/8/01_sgtpepperslonelyheartsclubband.html
①https://en.wikipedia.org/wiki/Sgt._Pepper%27s_Lonely_Hearts_Club_Band_(song)
②https://beatlesdata.info/8/03_lucyintheskywithdiamonds.html
②https://en.wikipedia.org/wiki/Lucy_in_the_Sky_with_Diamonds
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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 『George Martin INSTRUMENTALLY SALUTES "The Beatle Girls"』 ┃
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1966(昭和41)年11月28日(mon) United Artists (S)ULP 1157 instrumental LP by George Martin
‡1967(昭和42)年03月03日(fri) UK album release: The Beatles Girls, instrumental, by George Martin
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https://en.wikipedia.org/wiki/George_Martin_Instrumentally_Salutes_the_Beatle_Girls
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┃ ♪Dizzy Miss Lizzy♪/♪Slow Down♪ ┃
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‡1958(昭和33)年3月XX日 リリース
Single by Larry Williams
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https://beatlesdata.info/5/14_dizzymisslizzy.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Dizzy,_Miss_Lizzy
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┃The Beatles 武道館公演 来日エピソード ┃
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【ビートルズ武道館公演レポート ①】
『ビートルズが来日するまでの長~いエピソードと共同記者会見 ①』
1966(昭和41)年06月29日(水)にビートルズは日本にやって来ます。ビートルズ来日劇の幕は、
1966(昭和41)年03月14日(月)深夜、協同企画の永島達司氏にかかって来た一本の国際電話により本格的に切って落とされます。
「ビートルズの日本公演をやってみないか?」
<1966(昭和41)年02月16日>日刊スポーツが「(ビートルズの日本でのレコードの発売元)東芝音楽工業がビートルズ招聘に乗りだした」という記事を載せます。その時、東芝音楽工業専務、石坂範一郎氏は「交渉をしているのは事実だが、呼びたいということと実現性は別問題である。」と反論?コメントを出します。石坂専務と云うのは、坂本九氏の『上を向いて歩こう』を世界的ヒットに育てたプロデューサーであり実業家で、そのご子息には、現ユニバーサルミュージック合同会社会長、音楽評論家、日本レコード協会会長である石坂敬一氏がおり、後に東芝EMIに入社し、ビートルズやピンク・フロイドを手がけた名物ディレクターとして有名になります。
<1966(昭和41)年03月03日(木)>英国・週刊音楽雑誌『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』が、「ビートルズが夏に来日公演を行う!」の報道を載せます。
<1966(昭和41)年03月14日(月)>ビートルズのマネージャーである、ブライアン・エプスタインは、ビジネスパートナーである「ビック・ルイス」を通じ、協同企画(現・キョードー東京)の永島達司氏に、日本公演の協力を要請します(ビートルズを含む、エプスタイン側の取り分は、当時公演収益の25%が通常)。同時期に、海外事業に関する実績のある、中部日本放送事業部の佐久間一彌に、「ビック・ルイス」のアシスタントである「ラルフ円福」(ハワイのスポーツ関係・プロモーター)が「日本公演」の話を持ち込みます。
<1966(昭和41)年03月15日(火)>EMI社長、「サー・ジョセフ・F・ロックウッド氏」が来日します。羽田空港に到着し、その場で記者会見を始めます。
「世界大戦でも始まらない限りビートルズ日本公演は確実である」と様々な否定的な噂報道を否定します。
「ビートルズ来日を肯定した!」と言っているのも同然と云うことです。
「(ビートルズの日本でのレコードの発売元)東芝音楽工業がビートルズ招聘に乗りだした」という記事を載せます。その時、東芝音楽工業専務、石坂範一郎氏は「交渉をしているのは事実だが、呼びたいということと実現性は別問題である。」と反論?コメントを出します。石坂専務と云うのは、坂本九氏の『上を向いて歩こう』を世界的ヒットに育てたプロデューサーであり実業家で、そのご子息には、現ユニバーサルミュージック合同会社会長、音楽評論家、日本レコード協会会長である石坂敬一氏がおり、後に東芝EMIに入社し、ビートルズやピンク・フロイドを手がけた名物ディレクターとして有名になります。
<1966(昭和41)年03月03日(木)>英国・週刊音楽雑誌『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』が、「ビートルズが夏に来日公演を行う!」の報道を載せます。
<1966(昭和41)年03月14日(月)>ビートルズのマネージャーである、ブライアン・エプスタインは、ビジネスパートナーである「ビック・ルイス」を通じ、協同企画(現・キョードー東京)の永島達司氏に、日本公演の協力を要請します(ビートルズを含む、エプスタイン側の取り分は、当時公演収益の25%が通常)。同時期に、海外事業に関する実績のある、中部日本放送事業部の佐久間一彌に、「ビック・ルイス」のアシスタントである「ラルフ円福」(ハワイのスポーツ関係・プロモーター)が「日本公演」の話を持ち込みます。
<1966(昭和41)年03月15日(火)>EMI社長、「サー・ジョセフ・F・ロックウッド氏」が来日します。羽田空港に到着し、その場で記者会見を始めます。
「世界大戦でも始まらない限りビートルズ日本公演は確実である」と様々な否定的な噂報道を否定します。
「ビートルズ来日を肯定した!」と言っているのも同然と云うことです。
https://beatles-in-ashtray.jimdofree.com/1966-%E6%9D%A5%E6%97%A5%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%89/
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┃ ザ・ビートルズ来日 今日の出来事 ┃
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|1966(昭和41)年 3月 3日(木)|英音楽雑誌『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』
└─――――――――――――┘「ビートルズが夏に来日公演」の噂を報道
備考・・・ニュー・ミュージカル・エキスプレス紙、ビートルズが夏に来日すると報じる
http://www.yunioshi.com/beatlesinjapan.html
http://www.fsinet.or.jp/~magumi/BEATLES/japan/japandocument.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%BA%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%AC%E6%BC%94