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2022(令和四)年十月二十三日(日)の初記事ですヨ(=^◇^=)









 「当院では、もう二度とコロナ ワクチンを打たないことを決めた」長尾和宏医師ワクチン摂取をやめた医師
 1「医師である私がmRNAワクチン推奨を後悔している話」
‡2021(令和三)年10月23日 トスターダ MD PhD
 https://ochakai-akasaka.com/counseling/211025-2/




【今日は何の日?】1970/11/25 三島由紀夫、割腹自殺 ~天才作家・三島由紀夫の生涯~
 2019(令和元)年11月25日(月) 23:55:35 テーマ:ブログ 本日(11/25)は、今から49年前、作家・三島由紀夫が、衝撃的な割腹自殺を遂げた日である。
 1970(昭和45)年11月25日(水)、三島由紀夫は、自らが組織した「縦の会」の会員達と、自衛隊の市ヶ谷駐屯地に乗り込み、益田兼利総監を人質に取った。そして、三島は「憲法改正」を訴える演説をした後、それが自衛隊の隊員達に受け入れられない事を見て取ると、その後、割腹自殺をしてしまった。というわけで、今回は、この衝撃的な「三島事件」と、天才作家として活躍した、三島由紀夫の生涯について、ご紹介させて頂く事としたい。
<平岡公威(後の三島由紀夫)の生い立ち…19251月14日、代々の官僚の家系に生まれる>平岡公威(ひらおか・きみたけ)、後の三島由紀夫は、
 1925(大正14)年01月14日(水)、東京都四谷区(現・新宿区)で、父・平岡梓(当時・30歳)、母・倭文重(しずえ・当時19歳)夫妻の長男として生まれた。公威は、幼少期には祖母・夏子に溺愛されて育てられたが、夏子は倭文重から公威少年を取り上げるようにして、専ら、自分の側に置いていたという(※上の写真は、幼少期の公威と、祖母・夏子)公威の祖父にあたる、平岡定太郎(1863~1942)は、東京帝国大学(東大)を経て、福島県知事、樺太町長官などを歴任した、エリート官僚であり、士族・永井岩之丞の娘・夏子(1876~1939)と結婚した。そして、1894(明治27)年には、長男・梓が誕生した。平岡梓(1894~1976)は、父・定太郎と同じく、東京帝国大学(東大)を経て、農商務省に勤務したという、エリート官僚の道を歩み、開成中学校校長・橋健三の娘・倭文重(1905~1987)と結婚した。そして、前述の通り、1925(大正14)年01月14日に、夫妻の間に長男・公威が誕生した。公威は、このようにエリート官僚の家系に生まれたのであった。
<「昭和の元号=三島由紀夫の年齢」~昭和の申し子・三島由紀夫>ところで、平岡公威(三島由紀夫)は、1925年1月14日生まれであるが、翌1926年、「大正」という元号が終わり、「昭和」が始まった事により、偶然にも、「昭和」という元号の年と、年齢が一致するという事となった。例えば、1926(昭和元)年には「1歳」、1930(昭和5)年には「5歳」というのが、彼の年齢である。そう考えると、三島由紀夫は、まさに「昭和の申し子」と言っても良いであろう。(なお、公威が生まれた3年後に妹・美津子、5年後に弟・千之が誕生している)
<天才少年・平岡公威…幼い頃から、天才的な文才を発揮した三島由紀夫(学習院初等科時代)>公威は、学習院初等科に入ったが、流石は東大卒のエリート官僚の家系に生まれただけあって、幼い頃から、抜群に勉強が得意な、大変賢い少年であった。そして、この学習院初等科時代から、作文では大人顔負けの、物凄く上手い文章を書き、先生や級友を驚かせた。後の天才作家・三島由紀夫の片鱗は、早くもこの頃から見えていたという事であろう。例えば、公威が8歳の時に書いた詩『冬の夜』は、下記の通りである。
 火鉢のそばで猫が眠つてゐる。電灯が一室をすみからすみまでてらしてゐる。けいおう病院から犬の吠えるのがよくきこえる。おぢいさまが、「けふはどうも寒くてならんわ」とおつしやつた。冬至の空はすみのやうにくろい。今は七時だといふのにこんなにくらい。弟が、「こんなに暗らくつちやつまんないや」といつた。そして、これは公威が9歳の時に書いた、『大内先生を想ふ』という作文である。
 ヂリヂリとベルがなつた。今度は図画の時間だ。しかし今日の大内先生のお顔が元気がなくて青い。どうなさッたのか?とみんなは心配してゐた。おこゑも低い。僕は、変だ変だと思つてゐた。その次の図画の時間は大内先生はお休みになつた。御病気だといふことだ。ぼくは早くお治りになればいゝと思つた。まつてゐた、たのしい夏休みがきた。けれどそれは之までの中で一番悲しい夏休みであつた。七月二十六日お母さまは僕に黒わくのついたはがきを見せて下さつた。それには大内先生のお亡くなりになつた事が書いてあつた。むねをつかれる思ひで午後三時御焼香にいつた。さうごんな香りがする。そして正面には大内先生のがくがあり、それに黒いリボンがかけてあつた。あゝ大内先生はもう此の世に亡いのだ。僕のむねをそれはそれは大きな考へることのできない大きな悲しみがついてゐるやうに思はれた。いかがであろうか?これが、本当に8歳や9歳の少年が書く文章であろうか。全く、三島由紀夫とは子供の頃から、正真正銘の天才であった。
<1936(昭和11)年02月26日(水)…「二・二六事件」が勃発~後の三島由紀夫に大きな影響を与えた大事件>
 1936(昭和11)年02月26日(水)、陸軍青年将校らが蜂起し、東京を占拠するという、クーデター事件、所謂「二・二六事件」が勃発した。蜂起した部隊は、数日後に全て鎮圧されたが、「二・二六事件」は、当時11歳の公威に強烈なインパクトを与え、後の三島にも、思想的に大きな影響を与えた。
<平岡公威、13歳で初の短編小説『酸模(すかんぽ)-秋彦の幼き思い出』を発表~作家・三島由紀夫の原点>1938(昭和13)年1月頃、学習院中等科1年の公威は、当時13歳にして、初の短編小説『酸模(すかんぽ)-秋彦の幼き思い出』を発表した。以後、公威は、文学を志す仲間達と共に、精力的に文学活動を行ない、同人誌に作品を次々に発表して行った。というわけで、この作品こそ、作家・三島由紀夫の原点であると言って良い。
<1941(昭和16)年…学習院中等科の教師・清水文雄の勧めにより、筆名「三島由紀夫」を名乗り、『花ざかりの森』で作家デビュー!!~1944(昭和19)年、『花ざかりの森』を自費出版>1941(昭和16)年7月頃、公威は小説『花ざかりの森』を書き上げ、学習院中等科の国語教師・清水文雄に献上し、読んでもらったところ、清水文雄は、『花ざかりの森』の、あまりの素晴らしさに衝撃を受けた。そして、自らが参加する文芸雑誌「文藝文化」に、『文藝文化』を掲載したところ、『花ざかりの森』は、読者から大絶賛を受けた。しかし、公威の父・梓は、公威の作家活動には猛反対していた。そこで、清水先生は、公威が本名で作品を発表しては、色々と差し障りが有るという事を慮り、公威に「三島由紀夫」という筆名(ペンネーム)を名付けた。「三島由紀夫」とは、静岡・三島から見える富士山の頂に、雪が積もっている情景をイメージしたものであり、清水先生が、公威に対して、「日本一の作家を目指せ!!」という激励の意味を込めたものであった。以後、公威は終生、「三島由紀夫」という筆名を名乗り続けた。なお、『花ざかりの森』は、戦争が激化していた1944(昭和19)年、自費出版されたが、これは、戦争のために、いつ死ぬかわからないので、「遺書」のつもりで出版されたとも言われている。
<1944(昭和19)年、三島由紀夫、学習院高等科を首席で卒業し、東大進学~1945(昭和20)年、終戦と、妹・平岡美津子の死去>1944年、三島由紀夫は学習院高等科を首席で卒業し、東京帝国大学(東大)法学部に進学した。東大進学後、三島は徴兵検査に合格し、軍隊に入隊したが、幸いにも、三島は最前線に送られる事はなく、
 1945(昭和20)年08月15日(水)、日本は戦争に敗れ、終戦の時を迎えた。三島は、言いようの無い虚脱感に襲われたが、終戦直後、
‡1945(昭和20)年10月23日(火)、三島の3歳年下の妹・平岡美津子は、17歳の若さで、腸チフスのために亡くなった。妹と大変仲が良かった三島は衝撃を受け、そして深い悲しみに沈んだ。妹・美津子の早すぎる死は、三島の生涯にとって、忘れようにも忘れられない、痛恨事であった。
<1946(昭和21)年…三島由紀夫、川端康成の知遇を得て、『煙草』を発表~三島由紀夫と川端康成の「師弟関係」の始まり>戦争が終わり、茫然自失としていた上、妹の死の悲しみも癒えない三島ではあったが、東大での学業の傍ら、再び精力的に文学活動を再開した。しかし、当時、三島は文壇では無名の存在であり、いくら作品を書いても、出版社に持ち込んではボツになるという繰り返しであった。そんな時、戦前、三島の『花ざかりの森』を読み、三島に注目し、三島に手紙を送っていた川端康成を、三島は訪ねた。三島は、藁にもすがる思いだったが、この時、三島が書いた『煙草』という短編を読んだ川端康成は、この作品を絶賛した。そして、文芸誌「人間」に、『煙草』を掲載させるよう、川端が強力に働きかけ、『煙草』が無事掲載されると、各方面から大絶賛され、三島は、漸く文壇での足掛かりを築く事が出来た。このように、三島由紀夫にとって、川端康成はまさに「恩人」であり、三島は生涯、川端の事を師として仰いでいた。もし、川端が居なかったら、果たして三島が世に出ていたかどうかはわからず、そういう意味でも、川端との出会いは、三島にとって、大きな分岐点だったと言って良い。
<1946(昭和21)年12月…太宰治VS三島由紀夫のバトルが勃発!!~太宰と三島、生涯ただ一度の出会いで、三島は太宰に「僕は貴方の文学は嫌いです」と言い放つ>1946年、当時、大人気作家だった太宰治と、文壇デビューして間もない三島由紀夫は、当時の編集者の計らいにより、出会いを果たした。当時、太宰は取り巻き達と毎晩のように大酒を飲んでいたのだが、その酒席を三島が訪ねたのである。ところが、三島は太宰に向かって、面と向かって、「僕は、貴方の文学が嫌いなんです」と、言い放った。あまりの物言いに、その場は凍り付き、太宰も「そんなに嫌いなら、来なけりゃいいじゃねえか」と、憮然として言った。実は、三島は「自らの弱さを売りにするような」太宰の文学が、前々から嫌いであり、一言、言ってやりたいと、ずっと思っていたのであった。なお、太宰と三島の「喧嘩」は、現在公開中の映画『人間失格 太宰治と3人の女たち』でも描かれているが、この2年後(1948年)、太宰は愛人と心中してしまったため、太宰と三島の「出会い」は、この一度きりで終わってしまった。しかし、文学史上の巨人同士が出会っていたという事は、非常に興味深い。※なお、太宰は芥川賞の選考委員だった川端により、芥川賞に選んでもらえず、川端を恨んでいたというのも、三島・川端の関係とは非常に対照的で、これまた面白い
<1947(昭和22)年…三島由紀夫、東大を卒業~高等文官試験に合格し、大蔵省に入省~三島、官僚と作家の「二足の草鞋」を履く>1947年、東大を優秀な成績で卒業した三島由紀夫は、高等文官試験に合格し、同年、大蔵省に入省し、祖父と父に続いて、東大卒業⇒官僚という、エリート官僚の道を歩み始めた。しかし、三島は官僚になったとはいえ、文学の道を諦めたわけではなかった。三島は、大蔵省に務める傍ら、執筆活動を続けた。つまり、官僚と作家という「二足の草鞋」を履いた生活を続けたわけだが、父・梓は、相変わらず三島の作家活動には反対であった。しかし、三島は作家活動を辞めず、睡眠時間を削ってまで、作品を書き続けた。そんな中、1948(昭和23)年夏、三島は駅のホームで睡魔に襲われ、線路に転落するという目に遭った。幸い、電車は来ず、大事には至らなかったが、この事件により、父・梓も漸く三島の作家活動を認め、「わかった、作家になる事を許してやる。そのかわり、日本一の作家になれ」と、言い渡した。そして、三島は大蔵省を辞め、遂に作家専業で生きて行く事を決意した。
<1949(昭和24)年…三島由紀夫、『仮面の告白』を発表、大ベストセラーとなり、文壇の寵児となる!!>1949年、作家一本でやって行く事を決意しら三島由紀夫は、背水の陣のつもりで、長編小説を書き上げた。それが『仮面の告白』であるが『仮面の告白』は、大ベストセラーとなり、文壇でも絶賛され、三島由紀夫は、遂に不動の人気作家としての地位を確立したのであった。
<三島由紀夫『潮騒』1954年『金閣寺』1956年など、ベストセラーを続々発表!!~押しも押されもせぬ大作家に>その後、三島由紀夫は『潮騒』1954年『金閣寺』1956年など、話題作、大ヒット作を次々に発表し、三島は押しも押されもせぬ大作家となって行った。三島の、明晰な文体と、華麗な文章は、まさに余人を以て代え難いものであり、まさに、三島由紀夫は文壇でも唯一無二の作家であり、常に話題の人であり続けた。
<三島由紀夫は同性愛者?~1951年、三島由紀夫と丸山明宏(美輪明宏)の出会い>ところで、三島由紀夫は同性愛者であるとされ、実際、同性愛をテーマにした作品も発表しているが、1951年、三島由紀夫は、美少年・丸山明宏(1935~、後の美輪明宏)と出会った。三島と丸山明宏はすぐに意気投合し、生涯、親しく付き合ったが、二人の間にどのような感情が有ったのかは、よくわからない。なお、三島は、江戸川乱歩が原作の『黒蜥蜴』を、丸山明宏のために、戯曲として仕立て上げ、丸山明宏に提供しているが、『黒蜥蜴』は、美輪明宏のライフワークとなっているのは、ご存知の通りである。
<1956(昭和31)年…三島由紀夫と石原慎太郎の出会い>1956年、『太陽の季節』でデビューしたばかりの石原慎太郎と、三島由紀夫が対談を行なった。最初は和やかだったものの、段々と話が合わなくなり、その内、三島は居合で石原を威嚇(?)しようとしたが、三島が持って来て、エイヤっと振り上げた刀が、鴨居に当たってしまい、刃が欠けてしまったという。石原慎太郎曰く、「あの人は、運動神経が無いからね」との事であった。
<1958(昭和33)年…三島由紀夫、日本画家・平岡寧の娘・平岡遥子と結婚~三島由紀夫は「両性愛者」だった?>1958年、三島由紀夫は、お見合いで知り合った、日本画家・平岡寧の娘・平岡遥子(1937~1995)と結婚した。三島と遥子の間には、長女・紀子、長男・威一郎が誕生し、三島夫妻は仲睦まじく暮らしたが、三島はどうやら「両性愛者」だったと思われる。
<三島由紀夫とボディビル…三島、安部譲二との出会い(1955年頃)により「肉体改造」~後に、安部譲二をモデルに『複雑な彼』1966年を発表>1955年頃、三島は行き着けのゲイバーで、用心棒をしていた安部譲二(1937~2019)と出会った。安部譲二は、用心棒として、タチの悪い酔客を取り鎮めたりしていたが、三島は、安部の腕前を見込んで、安部の紹介によりボクシングジムに通うようになった。そして、ヒョロヒョロだった三島は、この出会いを機に、ボディビルで身体を鍛え、「肉体改造」を行なうようになった。なお、三島は、1966年に、安部譲二をモデルとした小説『複雑な彼』を発表したが、安部譲二は、後に『塀の中の懲りない面々』で作家デビュー、ベストセラー作家となった。そして、三島の「肉体改造」は、見事に成功した。三島は筋肉ムキムキになり、好んで、自らの肉体美をグラビア写真で発表したりしていたが、何事も、とことんやり通す、三島らしいエピソードであると言えよう。しかし、三島の「肉体改造」は、周囲の人を戸惑わせたという。
<1960(昭和35)年…三島由紀夫、映画『からっ風野郎』に主演!!~三島、若尾文子と共演し、ヤクザ役を熱演>1960年、三島由紀夫は大映映画『からっ風野郎』に主演し、若尾文子との共演で、ヤクザ役を熱演した。当時、三島は大人気作家であったが、三島はもはや作家の枠を超え、時代を代表する大スターとなっていた。
<1968(昭和43)年…川端康成、ノーベル文学賞を受賞!!~三島も、師・川端の受賞を喜んだが…>1968年、川端康成が、日本人初のノーベル文学賞を受賞した。師・川端康成の受賞を、勿論、三島も大いに喜んだが、三島も、ノーベル文学賞候補として、度々話題になっており、もしかしたら、三島としては、ちょっと複雑な心境だったかもしれない。
<1968(昭和43)年…三島由紀夫、私設軍隊「楯の会」を結成~しかし、世間の失笑を買う>1968年、憂国の念を深くした三島由紀夫は、私設軍隊である「楯の会」を結成した。三島なりに、日本という国を憂い、日本という国を愛するが故の行動であったが、「楯の会」結成当時、世間の反応は冷ややかであり、「三島さん、一体どうしちゃったんだ」と、世間の失笑を買ってしまった。しかし、この「楯の会」が、後に大事件を引き起こす事となった。
<1969(昭和44)年…三島由紀夫VS東大全共闘>1969年といえば、学生運動の全盛期だったが、同年、三島は母校の東大を訪れ、東大全共闘との討論会に臨んだ。三島と、東大全共闘との考え方の隔たりは大きかったが、三島は彼らに対し「君達の思想は認めないが、その行動力は絶対に認めます」と言っている。何も行動しない知識人よりも、行動する君達はずっと偉いと、三島は述べたのであった。
<1970(昭和45)年11月25日(水)…三島由紀夫と「楯の会」、自衛隊市ヶ谷駐屯地で、総監を人質に取り、三島は割腹自殺> そして、その2年後の
 1970(昭和45)年11月25日(水)、冒頭で書いた通り、三島は「楯の会」のメンバー達と、市ヶ谷駐屯地に乗り込み、総監を人質に取り、三島は「改憲」を訴える演説を行なった後、三島は割腹自殺し、メンバーに介錯され、壮絶な死を遂げた。三島由紀夫、享年45歳。まさに、時代を駆け抜けた大作家の、あまりにも鮮烈な生涯は、数多くの作品と共に、今もなお、強烈な光を放っている。
 #三島由紀夫#東京大学#川端康成#太宰治#石原慎太郎#安部譲二#若尾文子#美輪明宏#江戸川乱歩#自衛隊
 https://ameblo.jp/hoseiyakyuubukenkyuu/entry-12548851268.html


【武田邦彦 10/23】この男は消されました。ひた隠された この男の“秘密”を日本人が知るのは それから実に45年後のことですhttps://youtu.be/XE0BCBaYuks
‡2020(令和二)年10月23日(金) YouTube公開
■08:59■誇るべき日本の記念日■
 1890(明治23)年09月16日(火) トルコ艦隊 エルトゥールル号 遭難
 1905(明治38)年01月05日(木) 旅順要塞陥落 水師営の会見
 1917(大正六)年05月04日(金) 第二特務艦隊
 1942(昭和17)年03月02日(月) スラバヤ沖海戦 英戦士の救助
 1942(昭和17)年03月02日(月) 工藤俊作“雷”艦長、イギリス兵を救助
 


「もうタダでいいや」毎月赤字で料理を振る舞う”はっちゃん”の人生
‡2018年10月23日 17時0分
「今日はもう終わり! 売り切れだよ」。午後1時に入店すると、食堂「はっちゃんショップ」を営む”はっちゃん”こと田村はつゑさんはそう言った。群馬県桐生市の県道沿いにあるこの店は、どれだけ食べても500円の無制限食べ放題。地元の人を中心に北海道、東京、大阪、名古屋、そして海外からも多くの人が訪れる。
提供できる食事の量が少なくなれば「もうタダでいいや」。赤字の毎日だ。常連客が健康の不安について話し合う姿に、はっちゃんはゲキを飛ばす。「何やっても死ぬときゃ死ぬよ!」。
1935年9月群馬県桐生市生まれ。10歳から奉公に出され、畑仕事や山仕事、子守などに従事する。21歳で結婚し、その2年後には長女をもうけ、3人の子宝に恵まれた。57歳で原付バイクに乗り、日本一周を果たす。このときの経験をきっかけに62歳で開店。ランチ限定の500円食堂「はっちゃんショップ」を現在も営む。
―今おいくつですか?
9月に83歳になりました。
―どんな子ども時代を過ごされましたか?
子どもの頃はまだ(太平洋)戦争中で、勉強よりも目と耳を閉じて伏せをする練習ばかりでしたよ。終戦後、10歳のときに奉公に出されました。
―なぜですか?
母親が死んで、父親が好きな女を家に入れたから。昔から父親の浮気相手だったその女に、私はなじめませんでした。それで近所の魚屋さんが子守りが欲しいって言うもので、学校をやめてそちらに行きました。教師が奉公先に来て「義務教育だから学校に通わせなさい」と掛け合ったんですけどねえ。「これ(はつゑさん)は仕事があるから」って通わせてもらえなかったですね。
その後は「もっとお金が取れるから」って、織物店で働かされたりもしました。父親が全部お金を持っていくものだから、自分で使えるお金なんてほとんどなかった。「あれは奉公だからろくに字も読めねえ」なんて、学校に通う子たちからも、うんとバカにされました。
―「はっちゃんショップ」を始めたきっかけは?
中年になってからはパチンコの機械を作る会社にずっと勤めていたんですけど、62歳のときにつぶれて。「これから、どうすっかな。今からでは誰も使ってくれねえな」と困っていたとき、昔、魚屋さんで煮物なんかを作って売っていたことを思い出した。ああいうのやってみようかな、と考えていろんなところに売りに出たんですよ。
そしたら「おばちゃんこれ、ご飯とみそ汁があったら食堂ができるがね」と勧められて。それが始まり。この食堂って、元は自転車置き場だったんですよ。とんでもないボロ家で。トイレやら台所やらを作って、今の形になりました。押せば10年くらいで倒れそうな店だけど、今のところ22年もってますね。
値段は当時に決めた500円から今も変わらず。値上げしようとは思わない。小学6年生のお客さんまではタダで提供しています。「わざわざ来てくださった」と思って、前は県外からのお客さんは全員タダにしていたんですよ。でもお客さんが増えてきたら、見分けが付かなくて。いちいち「免許証見せろ」なんてやるわけにもいかないから、止めました。
―なぜこのような安い価格で食事を提供するのですか?
みんなが喜ぶからさ。死ぬまでいくらかお金を残そうなんて気持ちもないし。自分が楽しい人生が送れればそれでいい。子どもも3人いますけどね。世話になろうなんて気は全くないです。
―そのような考え方はいつ芽生えましたか?
57歳で、原付バイクに乗って日本一周したんです。そのときかな。九州で見ず知らずの人が、困っている私を自宅に泊めてくれたり、いろいろ優しくしてもらったから。人に親切にしてもらうありがたさが身に染みて。自分でもできることをしようと考えて、500円で食べ放題の形式にしたんです。人に良くすると自分も楽しいし。
―ただ、赤字続きとも聞きました。
そうですね。毎月5万円も6万円も自分のお金を切り崩して、皆さんにご奉仕してる。子どもからも言われますよ。「いくら周りに良くしても、お母ちゃんが倒れたときには誰も来てくれないよ」って。別に恩を返してもらわなくても、人生を楽しく過ごせれば最高ですよ。お金なんかなくても最高。とても幸せなんです。
物価はどんどん上がる。下がるのは私の女っぷりだけ。そんな冗談言いながら楽しくやっていますよ(笑)。
―どんな料理を出していますか?
きんぴらごぼうとか、煮魚とか。かぼちゃの煮物や焼き魚…決まったメニューは焼いたシャケと煮卵ですかね。後はその日その日に自分の予算に合った値段の食材で作ります。サンマが安ければサンマを買って。作るのは10種類くらいで、後は既製品ですね。わさび漬けや卵豆腐とかを5種類くらい。本当は出来合いのものは出したくないんですけどね。でも、それだと回っていかないから。
料理は毎朝作ります。余ったら、まだ座っているお客さんに配ります。「これ持って帰って」って。午後1時までには料理が全部なくなっちゃうことも結構ありますね。おかずが少なくなったら、ふたりで500円。1品くらいしか残っていなかったら卵かけごはんや即席のみそ汁とかを無料で出します。
―印象に残っているお客さんはいますか?
毎回、調味料を持ってっちゃうお客さんは覚えてますよ。サッとポケットに入れちゃう。印象的ですね。後で他のお客さんが教えてくれる。「今の人、味の素持ってったよ」って。「300円も出せば買えるじゃねえか、おめえ」と思いますけど。
おかずを全部ビニールの袋に入れて持って帰っちゃう人たちもいます。目の届きにくい奥の席でやるんだね。さすがにその人たちには「もう来ないでね」と断りましたけどね。
―嫌な目にあっても、低価格で料理を出し続けているんですね。
もちろん。そんなのごく一部ですから。お客さんはいろんなところから来ます。昨日はタイから来た人もいました。中国の人は、YouTube?だかなんだか分からないけど、店から生中継してた。いいですよね。どうせなら宣伝していろんな人を連れて来てほしい。
―どこか体の具合が悪いところはありますか?
ちょっと糖尿病のケがありますね。後は少し血圧が高いくらい。足と腰の不自由は何もないです。医者の先生は「あなた幸せですよ。あなたの年齢くらいなら足腰に問題ある人も多いんだから」とおっしゃいます。
風邪では1回寝込んだ切り。他にはないです。後は病気らしいものは盲腸をやったくらい。まあ、死ぬときは何やっても死ぬから。
―1日のスケジュールを教えてください。
朝の7時半ごろに起きて、買い物をして、料理を午前11時までに仕上げます。それから開店の11時半までにテーブルを拭いたり調味料を並べます。だいたい午後3時くらいに終わって、流しをきれいにしているうちにお勤めしている人たちがうちでお茶を飲んでいったりもするので、結局、帰宅するのは午後6時か7時くらいになっちゃいます。
自宅で夕食を食べますけど、たまにはお寿司屋さんに行っちゃったり。その後は布団に横になってテレビを見ます。
―お酒は飲まれますか?
今はほとんど飲んでないですけど、前までは1回で3合ぐらい飲んでいましたね。結構飲む方なのかな。
―普段はどんな本を読まれますか?
字が読めないからダメ。読めてひらがなくらいだから。日本一周のときに北海道の長万部(おしゃまんべ)町に行こうと思ったんだけど、漢字が読めないもんだから通り過ぎちゃいました。
―毎日の習慣を教えてください。
朝、店に来たら、両手でほっぺをたたきながら飛び上がって、着地したら手を前に突き出して「ガンバんぞ!!」って叫びます。自分で考えました。もう10年以上やってます。ぴしゃりと音が鳴るくらいの強さでたたくと元気が出るんです。気合が入る。
―若い世代も「はっちゃんショップ」に来るそうですが、どんな印象を受けますか?
ちゃんとした人も多いですよ。ああ、親御さんがきちんとしてらしたんだなって分かる。ご飯もきれいに食べますしね。反対に偉そうで友達とか部下の悪口ばっかり言っている人もいる。そういうときは差し出がましいけど「人を泣かしたり、自分の頭が良いなんて偉ぶっちゃいけないよ」って伝えます。
―最近うれしかったことはなんですか?
ビートたけしさんが大きなマグロの切り身を送ってくださいました。あの人の番組に何度も出ているんですが、私がマグロの刺身が好きなことを覚えていてくださったみたい。「おばちゃんにごほうびだ!」なんて、ものすごく高い大間のマグロをいただきました。おいしかった。店にいるみんなで食べました。
そのとき、ちょうど店にタイのテレビ局が撮影に来ていまして。向こうの人はナマモノをあまり食べないのか遠慮していましたけど、ひと口食べたら「おいしい、おいしい」って言ってました。
―10歳から働いてきた田村さんの生き方は、今どきの人から見ると異質かもしれません。働き方に迷う人にアドバイスをいただけますか?
人間は仕事をするために体があるんだから、何といってもまずは動かなくちゃ。そのうちに楽しいことも出てくる。「1日くらいサボってもいいや」って考えるとすぐダメになる。動かないとますます仕事が嫌になっちゃうんだから。
私は小さい頃から働き続けて、つらいことばかりで。朝5時から夜11時まで毎日働いていましたからね。12歳のとき、くたびれてトイレで寝てしまったこともありました。今は自由に、自分のお店で働けるわけですから幸せです。でも10月は免許の書き換えや保健所の講習で2日も余計に(店を)休まなきゃならない。しょうがないけれど。
―失礼ですが、最後に”理想の往生”について教えていだだけますか?
この店で働いている最中に、バタッと後ろに倒れてそのまま往生できたら最高。血圧がちょっと高いから、カッと頭に血が上ってここでぶっ倒れることができたらうれしいです。それが希望ですね。最高ですよ。
    企画=森田浩明
インタビュー=森田浩明
     文=森田浩明
    写真=西田周平
  デザイン=桜庭侑紀
 https://news.livedoor.com/article/detail/15439578/


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 ┃東洋の魔女┃
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 2012(平成24)年11月22日(木)「東洋の魔女」東京五輪、決勝映像見つかる サンケイスポーツ
 2012(平成24)年11月23日(金)「東洋の魔女」決勝戦、完全版放送へ 録画テープを発見 朝日新聞
 東京オリンピック決勝戦の日本vsソ連戦の映像(実況:鈴木文彌)については、当時はテープが非常に高価だったため、放送局でも上書きして使い回すのが一般的だった。そのため、中継をしたNHKにも金メダルが決まった瞬間などのハイライト映像しか残っていない。2012年6月に試合(約90分)を全て収録したビデオが一般視聴者家庭から見つかった。発見された映像(当時海外へ配信された生中継映像)には音声が入っていなかったため、当時のラジオ実況の音声(実況:土門正夫、解説:森隼一)と併せて、テレビ放送60周年特集 伝説の名勝負「東洋の魔女 世紀の金メダルロード」が2013年1月2日21:00にNHK BS1で半世紀ぶりに放映された[7][8]
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E3%81%AE%E9%AD%94%E5%A5%B3
 http://www.tv-tokyo.co.jp/okumajo/index.html (=^◇^=)
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「東洋の魔女」東京五輪、決勝映像見つかる
 2012(平成24)年11月22日(木) 13:25
 1964年に開催された東京五輪のバレーボール女子決勝で、「東洋の魔女」と呼ばれた日本チームがソ連を破った試合をすべて記録した映像が見つかり、NHKは22日までに、来年
 2013(平成25)年1月2日(水)午後9時からBS1で放送することを決めた。
 NHKによると、当時はテープが貴重で上書きして使用していたため同局には試合のハイライト映像しか残っていなかった。ことし6月、一般の視聴者が試合全体を収めた1時間25分の映像を保存していることが判明。試合全体を放送するのは東京五輪以来、初めてという。
 NHKが64年10月に放送した決勝の平均視聴率は66・8%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)で、スポーツ中継番組としては歴代1位。
 番組は「テレビ放送60周年特集『伝説の名勝負 東洋の魔女』」というタイトル。今回見つかった映像は無音声だったため、当時のラジオの実況音声で代用する。(共同)
 http://www.sanspo.com/geino/news/20121122/sot12112213270002-n1.html
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「東洋の魔女」決勝戦、完全版放送へ 録画テープを発見関連
 金メダルで日本中を熱狂させた東京五輪の女子バレー決勝「日本・ソ連戦」が、完全版で再放送されることになった。試合全体を記録した映像は現存しないとされてきたが、当時海外へ配信された生中継映像を録画したテープを、スポーツ愛好家が所蔵しているのをNHKが発掘したためだ。NHKにも正確な記録はないが、「丸ごと放送するのは東京五輪以来、初めてではないか」という。 日本がソ連を3―0で下した決勝戦は
‡1964(昭和39)年10月23日(金)夜、NHK総合で生中継された。平均視聴率は66.8%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)。今も日本のスポーツ中継史上、最高の数字だ。 当時はテープが非常に高価だったため、放送局でも上書きして使い回すのが一般的だった。そのため、中継をしたNHKにも金メダルが決まった瞬間などのハイライト映像しか残っていないという。「東洋の魔女」の異名をとった選手たちの勇姿はNHK・BS1で来年
 2013(平成25)年1月2日(水)の午後9時から放送される。(田玉恵美)
 http://www.asahi.com/national/update/1122/TKY201211211071.html
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‡1964(昭和39)年10月23日(金)、東京五輪のソ連との全勝同士の対決では、日本が順調に2セットを連取した。3セット目も試合を優位に進めたが、14対9のマッチポイントを握った場面からソ連の粘りが続いた。テレビ放送にて決勝戦実況中継担当アナウンサーであった鈴木文彌が「金メダルポイント」のセリフを6度も繰り返すこととなった[3]。最後はソ連の選手のオーバーネットによる反則により金メダルを獲得した。出場選手は以下の12名である。
 河西昌枝、宮本恵美子、谷田絹子、半田百合子、松村好子、磯辺サタ、松村勝美、篠崎洋子、佐々木節子、藤本佑子(以上、日紡貝塚)、近藤雅子(倉紡倉敷)、渋木綾乃(ヤシカ)
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E3%81%AE%E9%AD%94%E5%A5%B3








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