公式映像◆REBECCA LIVE '85-Maybe Tomorrow- https://youtu.be/qIe9RFbCskc
『REBECCA LIVE '85 -Maybe Tomorrow Complete Edition-』から
‡1985(昭和60)年12月25日(水) 渋谷公会堂
Hot Spice
Stefanie
Friends
Love is Cash
NOKKO オフィシャルサイトhttp://nokko.jp/
土橋安騎夫 オフィシャルウェブサイトhttp://starfish-r.com/
小田原豊 Instagram https://www.instagram.com/odawara_yut...
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今夜映像◆REBECCA(レベッカ)渋谷公会堂 1985 1/2 https://youtu.be/LyvbrUTCRIQ
今夜映像◆REBECCA(レベッカ)渋谷公会堂 1985 2/2 https://youtu.be/LyvbrUTCRIQ
‡1985(昭和60)年12月25日(水) 渋谷公会堂
1985(昭和60)年11月28日(木) 神奈川県立青少年センターを皮切りに「REBECCA WORLD CONCERT TOUR ~Maybe Tomorrow」(全18公演)がスタート。翌年
1986(昭和61)年02月03日(月)の秋田文化会館までコンサートは続いたが、このツアーから全国の会場で酸欠になるほどのパニック状態を生む。チケットが1時間で売り切れるという伝統もこのツアーから始まる。
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映像◆REBECCA ConcertTour Maybe Tomorrow https://youtu.be/-N0guJJP-rc
‡1985(昭和60)年12月25日(水) 渋谷公会堂
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A面フリー・アズ・ア・バード
‡B面クリスマス・タイム
1995年12月04日
1995年12月31日
1996年01月01日
https://en.wikipedia.org/wiki/Free_as_a_Bird
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┃フライデー襲撃事件┃
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1986(昭和61)年12月09日(火) 襲撃事件発生
1987(昭和62)年06月10日(水) ビートたけし:懲役6か月、執行猶予2年判決。東京地方裁判所、確定。レギュラー番組出演:執行猶予判決確定まで約8か月間謹慎
1987(昭和62)年12月22日(火) 傷害告訴記者:罰金10万円控訴、棄却判決確定
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1986(昭和61)年12月11日(木)『ビートたけしのオールナイトニッポン』~『金曜日のオールナイトニッポン』へ変更放送
1987(昭和62)年03月26日(木)から大竹まことが務め
1987(昭和62)年06月25日(木) 軍団メンバー担当 ※この週、たけし乱入
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1986(昭和61)年12月21日(日)『たけし軍団!ヒット&ビート』中断、打ち切り
‡1986(昭和61)年12月25日(木) 広島サンプラザ:浜田省吾「たけしはよくやった」
1986(昭和61)年12月26日(金)号『週刊朝日』「ブラックアングル」山藤章二:後藤田官房長官と藤尾正行(元文相)氏の二人を登場させて喧嘩装束の2人が「若いの、助っ人するぜ」と出張ってくるが、たけしに「駄目だよ、年寄りが出てきて利用しちゃ。これもオイラ一流のパフォーマンスでしばらく休むつもりなんだから」と返事をさせる構成
1986(昭和61)年12月xx日(X)号『FOCUS』「狂告の時代」マッド・アマノ:たけしの冠番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』をもじって、たけしがテレビ画面からげんこつをするシーンで飛び出すという設定の『ゲンコが出るテレビ!!』のパロディ広告(オマージュ)を披露
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金https://www.uta-net.com/song/78817
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%BC%E8%A5%B2%E6%92%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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『ノルウェイの森』で描かれた新宿駅西口の地下通路は、副都心計画のカギだった。【速水健朗の文化的東京案内。西新宿篇③】
‡2019(令和元)年12月25日(水) 文:速水健朗 写真:安川結子 イラスト:黒木仁史
ライターの速水健朗さんが、過去のドラマや映画、小説などを通して東京の埋もれた歴史を掘り起こす。新宿副都心計画で最初に進められたのは、意外にも超高層ビルではなく広場だった。いまの西新宿を形成した広場の歴史をひも解くと、そこから激動の時代の痕跡が見えてきた。
速水健朗(はやみず・けんろう)●1973年、石川県生まれ。ライター、編集者。文学から映画、都市論、メディア論、ショッピングモール研究など幅広く論じる。著書に『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』などがある。
西新宿篇の最後に速水さんが訪れたのは、小田急百貨店や京王百貨店と連結した、新宿駅の西口地下に広がる「新宿駅西口広場」だ。駅や百貨店をつなぐ連絡通路にしか見えないが、都市計画の上で重要な場所であり、政治的な意図により名称が書き換えられた歴史があることを知っているだろうか。西新宿に配置された、広場の秘密を明かしていこう。
■原っぱから始まった、西新宿の都市計画。
写真◆1964年の新宿駅西口バスターミナル。京王百貨店は建設中で、小田急本館もまだ立っていない。駅の東口まで見通すことができる。写真:新宿歴史博物館
街に新しいビルができると、そこにはなにがあったのか気になってくる。西新宿の高層ビル街はもともとどんな場所だったのか。駅前にはタバコの専売局の工場があり、超高層ビル群の辺りには浄水場があった。あとは、住宅と原っぱである。
写真◆新宿駅西口が描かれているのは、恋人である直子からの長い手紙を受け取る重要な場面の直前だ。『ノルウェイの森』(村上春樹著 講談社 1987年)
村上春樹の『ノルウェイの森』には、1969年の新宿駅西口についての描写がある。主人公のワタナベトオルは、深夜営業の喫茶店で相席になった女の子ふたり組と朝から酒が飲める店を探す。しかし当時の新宿でそんな場所は思い当たらない。コンビニもない時代、彼らは自販機で日本酒を買って西口の原っぱに行く。69年の新宿駅西口にはまだ超高層ビルが立っていないが、工場や浄水場はなくなっており、彼らが酒を飲むような原っぱは残されていた。まさにこれから開発が本格化しようという時期である。この新宿副都心計画は、戦後の東京における最大規模の開発計画である。裏を返せば、東京の中でも真空地帯のような場所が新宿駅の西口に広がっていたのだ。
写真◆新宿副都心計画の建設風景(1966年)。写真の中央奥には京王百貨店が見える。造成中の道路は、都庁舎の間を通る現ふれあい通り。写真:新宿歴史博物館
新宿駅西口が描かれた場面は『ノルウェイの森』を読んだことのある人にとっても、とりたてて重要と思えないだろう。だがその様子は、奇妙なほど正確性を込めて描かれている。村上はそういう作家である。奇妙なほど書き込んだかと思えば、69年を舞台にしながら学生運動についての具体的な記述があまりなかったりする(意図的だろう)。書かれた細部と、書かれない大情況。このような読み込みを必要とするのだ。原っぱで朝っぱらからふたりの女の子と酒を飲む主人公は、小田急デパートの上をカラスの群れが飛んでいく光景に出合う。そして、女の子のひとりが長野の実家に帰ることになり、電車を見送りに新宿駅西口広場を通りかかる。
写真◆なにげない印象の西口広場。JR線や小田急線、京王線、東京メトロなどを利用する歩行者が行き交っている。
ここで登場する新宿駅西口広場の完成は1966年。広場というほどおおげさな印象は受けない、なにげない場所だ。鉄道の改札を降りた歩行者のための空間。だが、この新宿駅西口広場は、副都心計画における最重要施設だったのだ。
写真◆西口広場は、広場と地下駐車場、百貨店が一体となっている。一見すると地上からはスロープの下が見えず、広場がどこにあるのか気づかないユニークな場所だ。
新宿駅西口広場の基本思想は、広場と駐車場施設の2層化だった。さらにその上に商業施設が重なる。搬入用トラックと駅利用者の出入りを並行して確保するためには、施設の立体化が必須だった。それを実現するために、国鉄、小田急、京王、首都高速の4社による協定(1961年)が結ばれた。施設の設計・施工を担当したのは土地をもっていた小田急。小田急がデベロッパーとなった上で、新宿駅西口広場および地下駐車場、そして小田急本館(当初は「新館」)の建設工事が進められたのだ。
写真◆西口広場に面する新宿スバルビル地下の壁に設けられたこのオブジェは「新宿の目」。1969年に彫刻家の宮下芳子が制作した。
手がけた建築家は、前川國男の紹介でル・コルビュジエのもとで働いた坂倉準三。西口広場は、地下駐車場の二重らせんのスロープ、小田急百貨店、駅舎などを一体とした施設。そのようなデザインとして捉えると、モダニズム建築の勇壮な姿が浮かび上がってくる。『ノルウェイの森』の主人公は、西口の原っぱから小田急百貨店を眺めながら、まだ珍しかった立体交差するこの建築を眺めていたのだろう(直接描写を避けてはいるが)。ここでの関心の寄せ方に、作者の駅舎好きがよく表れている。村上の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋 2013年)の主人公は駅舎の建設デザイン専門家として描かれている。
写真◆1969年、毎週土曜に行われ、新宿駅西口の名物となっていた「反戦フォーク集会」。ベ平連の若者たちに観衆も加わり、盛り上がる当時の熱気が伝わってくる。写真:毎日新聞社
1969年は、学生運動が頂点を迎えた年である。この年から、確実に退潮も始まっていた。運動は市民からの支持を失っていき、主体となった学生たちもそれを自覚し始めていた。新宿駅西口では、そのことを象徴する事件が起きている。当時の西口広場では毎週末、ベ平連(「ベトナムに平和を!市民連合」の略称)による反戦フォークゲリラが開催され、多くの若者が集まっていた。そして1969年6月28日、機動隊がフォークゲリラに突入。これを機にこの場所は“広場”ではなく、“通路”と書き換えられ、集会が禁じられる。“通路”であれば、集会を開くのは通行人の邪魔になる、という屁理屈のような理屈である。
写真◆現在の西口広場には、“イベントコーナー”の文字が。古本市や衣料品のバーゲンセールなど、日によってさまざまなイベントが開催されている。
このエピソードにより、単なる通路のようにも見える西口広場は、逆に“広場”として知られるようになったかもしれない。そして現在、この場所はどうなっているのか。“広場”でも“通路”でもなく“イベントコーナー”と、一角ではあるがでかでかと書かれている。なんとも皮肉なネーミングだ。“広場”としてここを設計した建築家にとって、“イベントコーナー”と書かれてしまうことは屈辱ではないか。また、ここを政治的に“通路”と塗り替えた誰かの意図も軽々と乗り越えてしまっている。
■西口広場の対極に位置する、「水の広場」とは。
写真◆京王プラザホテル横の中央通りを歩く。オフィスの昼休み以外の時間帯は人通りも少なく、静かな場所である。
さて、西新宿はなにもない原っぱから計画的に街がつくられた場所である。いかにも計画都市といった見た目を備えており、その都市計画がどのようなものか俯瞰して見てみよう。西新宿の大動脈にあたるのが中央通りである。西口広場と新宿中央公園の入り口「水の広場」を結んだ通りだ。この通りの両脇に、前回案内した京王プラザホテル、三井ビルディング、住友三角ビルといった初期メン超高層ビル群が並んでいる。都庁もここに連なっているが、85年に移転が決まり、やって来たのだから副都心計画よりもかなり後付けである。91年に都庁舎ができた際にその下の地下通路が開通し、96年に「動く歩道」が設置された。
写真◆中央通り地下通路に設置された「動く歩道」の長さは約300m。時間により進行方向が変わり、土、日、祝日、年末年始は運行を休止している。
広場と広場を結ぶ大動脈、中央通りの一端が西口広場。それではその逆端に置かれた水の広場はどういった場所なのか。新宿中央公園も副都心計画の一環として68年に開園したのだが、この場所を舞台にした小説がある。1995年に刊行された『テロリストのパラソル』だ。著者の藤原伊織は、今作で江戸川乱歩賞および直木賞を受賞している。新宿中央公園の水の広場で爆弾テロ事件が発生し、多数の死傷者が出る。そこに居合わせたのは、主人公のバーテンダー島村である。島村は昼間からウイスキーを飲みにこの場所にやって来るのが習慣。彼はアルコール中毒だった。
写真◆小説内で爆弾テロ事件の現場として設定された「水の広場」では、実際に2002年に同様の事件が起きている。写真は水の広場の目印である「ナイアガラの滝」。
ニュースで事件の被害状況が伝えられ、島村は被害者の中に学生時代の仲間である桑野誠がいたことを知る。さらに、かつての同棲相手、園堂優子がいたことにも気づく。どうやら爆弾テロ事件と無関係ではないようだと感じる島村。この事件は“あの時代”と結びついている可能性がある。
写真◆乱歩賞&直木賞を史上初めて受賞したハードボイルド小説。1996年には萩原健一主演でテレビドラマ化された。『テロリストのパラソル』(藤原伊織著 文藝春秋 1995年)
“あの時代”というのは学生運動の時代のことである。『ノルウェイの森』のワタナベトオルと同様、島村たちも学生運動世代なのだ。島村と桑野、優子の3人は派閥に属していない、いわゆるノンセクトラジカルだが、同時期に東京大学で運動に参加していた。そして、それは決して過去の思い出ではない。島村は、バーテンダーとして生きているが、警察から手配を受けている現役のテロ活動家でもある。20年前にある爆破事件を引き起こし、逃亡中なのだ。ちなみに、20年間地下で潜伏する話は、左翼運動家の世界ではあり得る。もと左翼の有名評論家が同志の逃亡費用を50年ほど払い続けているという話も聞いた。ただ、新宿酒場でのみ伝わる都市伝説ゆえ、事実なのか酔っ払いのつくり話なのか定かではないが。
写真◆超高層ビル群に囲まれながらも自然のあふれる新宿中央公園。写真でバックに見えているのは、パークハイアット東京だ。
“あの時代”から20年が経っているのだから、『テロリストのパラソル』の舞台は1990年代の前半だ。優子の娘である塔子は島村が母親の元彼だと知り店を訪れ、その後相棒として活躍する。島村が塔子に借りたパソコンで過去の新聞記事を検索したり、携帯電話を初めて使ったりする場面もある。島村は40代のおじさんだからデジタル機器の取り扱いに慣れていない。というより、まだパソコンも携帯電話も誰もが使って当たり前ではなかった頃だ。小説内に「インターネット」という言葉は出てこないが、当時ならそうだろう。インターネットの国内利用開始が93年。GPSを使って後をつけられる場面もある。そんなことができるのかと島村は驚くが、GPSの民間使用も同じく93年から。
写真◆1968年の開園以来、親しまれてきた新宿中央公園。公園自体は変わらないが、そこから見える景色は70年代から徐々に別物へと変わっていった。写真:新宿歴史博物館
さて、作中で新宿中央公園の水の広場が爆発事故の現場に設定された理由は、小説内で明かされる。ネタバレになるので触れないが、“あの時代”に生まれ、変わらず残るこの公園が、当時と現代を接続させる舞台としてふさわしかったのは間違いない。『ノルウェイの森』と『テロリストのパラソル』。どちらも政治の時代としての新宿が描かれている。計画的につくられたことから無機質な街と思うかもしれないが、これまでの原稿を通して見えてきた西新宿のキーワードは「広場」と「政治」のふたつだ。政治の季節に生まれた西口広場や水の広場は、50年経っても姿を変えることなく、そのままの形を保ってはいる。だが、その周囲はびっしりと超高層ビルやタワーマンションに埋め尽くされてしまった。景色の変わったいまの西新宿には、朝や昼から酒を飲むような場所がちょっと見当たらない。
●地図●今回足を運んだのは、オフィス街のイメージが強い新宿駅の西側だ。東京のランドマークのひとつである東京都庁(①)が、丸の内から西新宿に移ってきたのは1991年のこと。超高層ビル群の中ではまだ新しめのビルといえる。そんなビル群の中で最初に立ったのは、71年竣工の京王プラザホテル(②)。伝説的ドラマ『太陽にほえろ!』では、当時唯一の超高層ビルだった京王プラザホテルが映し出さている。74年に竣工した通称“住友三角ビル”(正式名称は新宿住友ビル)(③)は、2020年6月のリニューアルに向けて改装工事中だ。70年代で時が止まったかのような展望フロアや地下商店街は閉鎖され、いまや見ることができない。その隣に位置する新宿三井ビル(④)は現在も変わらず、地下から吹き抜けの「新宿三井ビル55ひろば」をもつ。煉瓦敷の床に椅子と丸テーブルが並び、周辺のオフィスに勤める人々の食事やお茶の場として親しまれている。超高層ビル群が計画的に建設された西新宿だが、副都心計画における重要施設としてビルより先に進められたのは、ふたつの広場だ。ひとつは、新宿駅西口広場(⑤)。69年に毎週末開催されていたベ平連ら反戦フォークゲリラに、機動隊が突入する事件が起きた。もうひとつは、西口広場から東京都庁に向かった先にある新宿中央公園(⑥)だ。ハードボイルド小説『テロリストのパラソル』では、学生運動の盛んな時代から変わらないこの公園が舞台として選ばれている。超高層ビル群が目立つ西新宿だが、都心計画の基盤にあったのは広場であり、学生運動世代によって政治がもち込まれた街なのである。
関連タグ:トウキョウ 速水健朗
https://www.pen-online.jp/news/product/code1159byap/1
「彼は、タイタニックを沈めよとの指示を受け、それを忠実に実行した。」
2012-04-15 13:04:11
「彼は、タイタニックを沈めよとの指示を受け、それを忠実に実行した。」
タイタニック号沈没の隠れた目的
Truth Triumphant Ministries が出版し、Tree of Life Resources が再版した、The Secret Terroristsでは、タイタニック号沈没事故の原因として、
ローマ・カトリック教会の組織イエズス会がはっきりと非難されている。http://www.pacinst.com/terrorists/preamble.html
イエズス会は、1540年に設立され、カトリック教会内で急速に成長した組織で、ヨーロッパの支配的家族に忠誠を尽くしてきた。 ローマ法王とカトリック信仰を擁護するためにほとんどあらゆる国で活動している。1773年、クレメント14世は、イエズス会を弾圧したが、1814年に教皇ピウス7世により回復した。今日、数々の大学や伝道団体を支配する非常に影響力の強い組織であり、カトリック信仰とローマ法王の権力を強化するために活動している。しかし、この組織には負の側面があり、数百年にわたって、CIAのように暗殺活動を実行してきた。1910年、7人の男がジョージア州の沿岸にあるジキル島において会合を開いた。目的は、連邦準備制度の創設。ネルソン・アルドリッチとフランク・ヴァルダークリップはロックフェラーの金融帝国の代表者であり、ヘンリー・デイヴィドソン、チャールズ・ノートン、ベンジャミン・ストロングは、J・P・モルガンの、ポール・ウォーバーグは、ヨーロッパのロスチャイルド銀行帝国の代表者であった。ロスチャイルドの銀行は、イエズス会の取引銀行であり、ローマ・カトリック教会の富を管理していた。モルガンとロスチャイルド、ロックフェラーのギャングたちは、互いに競合相手であったが、協力してある企てに乗り出した。G. Edward Griffinの'The Creature From Jekyll Island (American Opinion Publishing P. 209)によれば、彼らは、連邦準備制度と呼ばれる米国銀行カルテルを創設した。本書の書評はこのように述べる。
「銀行家たちがどのようにお手盛りで手軽に刷った金によって政治家をそそのかし、世界の大部分を支配するにいたったかが記されている。」ロスチャイルドとモルガン、ロックフェラーは、イエズス会に支配されている。このもっとも有力な家族は、「アメリカの憲法が保障する自由を破壊し、教皇を世界の王に据えるためならば何でも行う」用意がある。タイタニックの造船は、アイルランド・ベルファストの造船所で1909年に起工された。ベルファストは、プロテスタントの土地であり、イエズス会が嫌う場所であった。モルガンは、ホワイト・スター・ライン社を支配した。イエズス会は、J・P・モルガンに命令し、タイタニックを建造させた。豪華客船として建造される最初から、この船には、特別な運命が与えられていた。連邦準備制度に反対する人々は多かったが、その中に、ベンジャミン・グッゲンハイム、アイサ・シュトラウス、ジョン・ジェイコブ・アスターがいた。彼らは、世界でもっとも裕福な人々であり、連邦準備制度に反対するイエズス会の敵であるだけではなく、第一次世界大戦に反対するために資金と影響力を行使する用意のある人々であった。彼らは、騙されてこの船に乗り込まされた。これは、過去最大の客船の「処女」航海であった。「絶対に沈まない」という触れ込みにより航海に不安を抱く者はいなかった。多くのアイルランド、フランス、イタリアのカトリック教徒たちが乗客となった。ベルファストのプロテスタント教徒たちも、タイタニックで合衆国に移民するようにそそのかされた。彼らのほとんどは「消耗品」扱いであった。事故の本当の目的は、超大金持ちによる超大金持ちに対する攻撃だった。つまり、グッゲンハイム―シュトラウス―アスターを暗殺することこそこの船の建設目的であった。
「彼らは、あまりにも不合理であり、誰も彼らが殺害されたと思わず、イエズス会がその犯人であるということを悟られないような方法によって殺害されなければならなかった。」National Geographic 'The Secrets of the Titanic,' (1986)によると、タイタニックの船長エドワード・スミスは、イエズス会士であり、J・P・モルガンの傀儡であった。南イングランドから出航する際、フランシス・ブラウンが乗り込んだ。彼は、アイルランド全体でもっとも権威のあるイエズス会士であり、
「イエズス会においてエドワード・スミスの主人であった。」ここにイエズス会の策略の真骨頂がある。教区長フランシス・ブラウンは、タイタニックに乗り込み、犠牲者(乗客)の写真を取り、船長がイエズス会の誓いを忠実に守ることを信じつつ、翌朝船長に別れを告げた。(Eric J. Phelps, Vatican Assassins Halcon Unified Services. P. 247)スミス船長は、この高位の「イエズス会の将軍」を神とあがめていた。ブラウンは、北大西洋海域において何をすべきか指示した。
「エドワード・スミスは、タイタニックを沈めよとの指示を受け、それを忠実に実行した」イエズス会の秘密の原理は、
「より大きな善のためならば、無辜の人々を犠牲にしてもかまわない。目的は手段を正当化する」というものである。スミス船長は、北大西洋航行歴26年間のベテランであり、この冷たい海においては「もっとも熟達した船乗り」であった。彼は、この船がイエズス会の敵を暗殺する目的で作られたということを最初から知っていた。それは、「死の船」であり、処女航海において沈められる運命であった。船長には、どこに氷山があるか正確な知識があった。秘密の指令に基づき、月の出ない闇夜に、80平方マイルの巨大氷山の密集する海域を、22ノットという全速力で船を航行させた!「ヴァチカンに鎮座まします彼の神からの指令を受け」ているので、コースを変えるつもりはさらさらなかった。・・・救命ボートの数は不足していた。それは、意図的であった。救命ボートの多くは、緊急時に数名の婦女子を乗せるためのものであり、男性用はなかった。遭難発火灯は海中に投げ捨てられた。近くを航行する船は、タイタニックがパーティをしていると誤解した。発火灯は赤色であるはずがそうではなかったからだ。これらの例は、「タイタニックが沈むはずがない」と信じた乗組員の傲慢によるのではなく、故意によるものである。上記の連邦準備制度に反対した金持ちは、中流及び下流の人々とともに海のもくずと消えた。ジョン・ジャコブ・アスターの妻は救助された。モリー・ブラウンも救出された。タイタニックの沈没は、世界大戦を除けば、20世紀の最大の悲劇であった。The Secret Terroristsによれば、それは、ローマ・カトリック教会イエズス会による仕業であった。・・・
1912年4月14日(アブラハム・リンカーンの暗殺と同じ日)に、タイタニックは沈んだ。
1913年12月、連邦準備制度が合衆国に誕生した。8ヵ月後、イエズス会は、連邦準備制度を通じて十分な融資を受け第一次世界大戦を開始した。連邦準備制度がタイタニックの沈没の直後に造られたことに着目してほしい。金持ちたちは、いつも不要な戦争を生み出し、貧困者たちは戦闘の中で死んでいく。The Secret Terroristsでは、テンプル騎士団やフリー・メイソン、イルミナティなど具体的な名前が挙げられていない。しかし、これらの秘密結社は、この事件に関与しており、銀行、貨幣制度、石油会社、企業、政府、政治家、軍、警察、立法制度、司法制度、教会、学校、メディアなどを支配している。この世界は、常に金持ちで権力のある人々によって支配されてきた。エリートたちは、ニュースを作りだし、大きな国際的事件を引き起こしている。William Randolph Hearst は、ニュースを造り、自分の新聞を使ってプロパガンダ活動を行っている。1929年の株式市場を破壊し、大恐慌を作り出したのはこれらの金持ちたちである。恐慌の中で彼らは大きな利益を得た。すべてを失ったのは、中流のにわか投資家たちであった。
タイタニック号沈没は、史上最大の完全犯罪であった。
ダグ・ユーチェイhttp://www.world-mysteries.com/doug_titanic1.htm の要約
以下の記事より転載http://tak0719.web.infoseek.co.jp/qanda3/25Rqyf6hrYXSk71601.htm
以上転載終わり
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管理人:リンカーン大統領もケネディ大統領も政府紙幣を発行して暗殺されました。つい最近では、900人殺した男がメキシコで逮捕されたようです。しかし、何万人も何百万人も殺した人間が逮捕されたという話は聞いたことがありません。全ては、お金の為、世界を思うように支配する為です。その実働部隊の背後には、ヨ-ロッパ貴族の存在があります。貴族という上品そうな仮面を装った最もタチの悪い極悪非道の連中です。こういうのを上流社会と呼ぶのだそうです。私は長年、様々なボランティアにも関わって参りましたが、本当に人の為に尽くす人ほど頭が低く低姿勢で、とても謙虚であったと記憶しています。本当の意味で、尊い人たちだと、自然に尊敬の念が湧いてきました。こういった人たちこそが、本当の意味で高貴な人間であると確信しています。ところが、こういった人たちに限って、決して偉ぶったり、人に指図は致しません。まして、高貴な貴族だなどと名乗る訳がないのです。そんな必要も無いでしょう。例は悪いですが、本当に綺麗な女性の人が、自分のことを綺麗でしょうと公言しませんし、またその必要も無いことが御理解いただけると思います。ならば、貴族という称号を得ている人たちは一体何者なのでしょう?聞けば、他国からよりたくさんの略奪をした人にSirの称号が与えられて来たようです。何も知らない世界や日本の民衆は、英国王室などに尊敬の念さえ抱き、何か特別な催しがあるたびにキャ-キャ-と騒ぎ立てて羨望の目で眺めています。ブログなどでも、王子様、王女様といった按配で祭り上げているのを良く見かけます。そういった人たちは、世界の真実に早く気づくべきだと愕然たる思いがしてなりません。今回、
311の地震には、地震兵器が使われた可能性が極めて濃厚になって来ています。この国家的犯罪の実働部隊の背後における最も奥深い奥の院には一体誰がいるのか!?もうそろそろ気づかなければいけません。今回御紹介した冒頭の記事には、その証拠ともいうべき一端が示されていると思います。そう、ロスチャイルド・ロックフェラ-の上にイエズス会の存在があります。そして、更にそのイエズス会を支配しているのが、ヨ-ロッパ貴族たちなのです。この人たちは、例外なく、悪魔信仰を捧げているサタニストです。クリスマスの日というのは、キリストの誕生日なんかではありません。
12月25日に生まれたのはイエス・キリストではなく、ニムロドです。私たちは、イエスの誕生を祝っているのではなく、サタン大王の二ムロドの誕生日を祝ってきたのです。
https://ameblo.jp/64152966/entry-11223742254.html
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 三島由紀夫が語る ボディビルから割腹自殺への道 ┃
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2012(平成24)年04月03日(火) 制作
写真◆背起きする三島由紀夫(1956年)
1967(昭和42)年04月12日(水) 42歳の三島由紀夫は自衛隊に体験入隊します。仕事の都合もあり、3回に分けてでしたが、合計で46日間という本格的なものでした。
最初に入隊したのは、陸上自衛隊の久留米幹部候補生学校でした。本名・平岡公威として、毎日午前6時起床、6時5分には乾布摩擦をしながら舎外で点呼するという生活を始めます。課業は午前8時から午後5時まで。当時の様子を、『サンデー毎日』に寄せた手記から引用しておきます。
1967(昭和42)年06月11日(日)号『サンデー毎日』「自衛隊を体験する」《夏の高良山マラソンの練習にいそしむ若い学生の、飛鳥のやうなランニングには追ひつけなかったが、22年ぶりに銃を担って、部隊教練にも加はった。肩は忠実に銃の重みをおぼえてゐた。行動の苦難を共にすると、とたんに人間の間の殻が破れて、文句を云はせない親しみが生ずるのは、ほとんど年齢と関はりがない。私は実に久々に、昼食後の座学の時間の耐へられない眠さを、その古い校舎の窓外の青葉のかがやきを、隣席の友人の居眠りから突然さめて照れくささうにこちらへ向ける微笑を味はった》
ここで「22年ぶりに銃を」というのは、敗戦直前、三島はほんの少しだけ学徒動員で陸軍に入隊したからです。
1967(昭和42)年04月19日(水) 写真◆幹部候補生学校の芳名帳に残された三島由紀夫の署名
1967(昭和42)年04月19日(水) 久留米から帰郷した直後の4月19日から、今度は自衛隊富士学校の滝ケ原分屯地普通科に入隊します。このときの宿舎は、偶然にも22年前の1945年、学生のときの野外演習で泊まった場所でした。ここでは戦車の操縦や特科(砲兵)隊員の行軍訓練に参加しています。過酷なレンジャー部隊の訓練も行い、草むらの蛇を捕まえて、生で食べることもしました。
《満開の姫桜の間を縫って、朝日にあたかも汗をかいた白馬のやうな富士を見上げて、半長靴で駈ける朝の駈足はすばらしかった……山中湖の満目の春のうちをすぎる帰路の行程は佳かった。私はこれほどに春を綿密に味はったことはなかった。別荘地はまだ悉(ことごと)く戸を閉ざし、山桜は満開、こぶしの花は青空にぎっしりと咲き、湖畔の野は若草と菜種の黄に溢れてゐた。あくる日から連休に入ったので、私はこれほどにも濃密な、押絵のなかをゆくやうな春と別れて東京へかへった。そして大都会の荒涼としてゐることにおどろいた。すでに私は、営庭の国旗降下の夕影を孕んだ国旗と、夜10時の消燈喇叭(らっぱ)のリリシズムのとりこになってゐた》(『サンデー毎日』)
リリシズムとは「叙情性」という意味ですが、何とも詩的な体験記ですな。
1967(昭和42)年05月25日(木) 三島は1カ月ほど富士山の麓にいて、いったん帰郷、5月25日から陸自最強部隊である習志野の第1空挺団に参加。パラシュート降下訓練は頭を打つ可能性があるので、11mの高塔から空中に飛び出す懸吊(けんちょう)着地訓練を体験しました。三島は「船乗りが海に憑かれるように、空挺団はパラシュートに憑かれていた」という名言を残し、46日間の体験入隊を終えました。
写真◆現在の空挺団のパラシュート降下(富士演習場)
それにしても、どうして三島由紀夫は自衛隊に体験入隊したのか?
『サンデー毎日』で三島の入隊をスクープした徳岡孝夫が、取材時に動機を聞いています。
《問 体験入隊の動機は?
三島 これは、まったくご推察にまかせます。どうとられようとかまいません。
問 こういう見方はできませんか。作家という“自由業”を中断して、自衛隊のきびしい日課のなかに身を置いてみたのは、あなたが一種マゾヒステックな快感を得るためのぜいたくな遊戯だったという……。
三島 冗談をいわないでほしい。私ほどふだんからきびしい日課を守っている者はいないでしょう。むしろ自衛隊へ行って??これは「失言」だといわれたんですが??候補生学校の、時間が分断されている窮屈な生活よりも、私の日常の生活のほうがもっと分断され、もっと複雑にオーガナイズされているんだと言ってやりました。ただ、非常にうれしかったことは、文壇では私のストイシズムが“奇癖”ととられているのに反して、自衛隊のなかではそれが“美徳”なのでした》(徳岡孝夫『五衰の人』)有名な話ですが、幼少時の三島由紀夫は「アオジロ」とあだ名がつけられるほど病弱でした。そんな三島ですが、1944年10月に東大に入学した4カ月後、陸軍から入営通知の電報が来ます。ところが、このとき、軍医のミスで誤診され、即日帰郷となります。このときの様子は『仮面の告白』に書かれています。
《薬で抑へられてゐた熱がまた頭をもたげた。入隊検査で獣のやうに丸裸かにされてうろうろしてゐるうちに、私は何度もくしゃみをした。青二才の軍医が私の気管支のゼイゼイいふ音をラッセルとまちがへ、あまつさへこの誤診が私の出たらめの病状報告で確認されたので、血沈がはからされた。風邪の高熱が高い血沈を示した。私は肺浸潤の名で即日帰郷を命ぜられた》三島にとって軍隊に入れなかったのは大きなコンプレックスとなりました。それは人気作家となってからも変わらず、ちょうど30歳のとき、ボディビルを始めます。きっかけはボディビルのコーチだった鈴木智雄と知り合ったことでした。
1956(昭和31)年02、03月号『ボディ・ビル』「ぼくは銀座のさるところで鈴木さんと初対面、ボディ・ビルを知りました。知る前はあんな重いバーベル担ったら、ぼくなんか参ってしまうだろうと想像していたのですがね。その時、鈴木さんが巻尺持って来て、おたがいの胸を計った。ぼくのは両腕を抱いたグルリ、鈴木さんは胸幅だけ、おどろいたことに、これが同じ寸法なのです。そこでいろいろお話しをきいた。ぼくは理論がおもしろくないと、承知しない男でしてね。鈴木ボディ理論にすっかり感銘しちゃった。そこでまず柔軟体操を教わり、やりはじめた」
写真◆帆掛け船を行う三島由紀夫。下で支えるのが鈴木智雄
1955(昭和30)年09月16日(金) ボディビルを始めたのは1955年9月16日。当時31歳。
1955(昭和30)年09月20日(火) 三島自身の記録によると、9月20日に測定したところ、胸幅が最大で79cm、体重12.9貫(48.4kg)だったのが、3カ月後の正月には胸幅が82.5cm、体重13.8貫(51.8kg)まで太りました。
この正月時点での三島のインタビューが『ボディ・ビル』誌に掲載されています。
─―先生は、いま目方どのくらい。
「去年の秋からはじめたのですが、その前は平均12貫800、背は5尺4寸5分。
─―どのくらいにふとりたいのですか。
「15貫は、ほしいですね」
─―バーベル・マンになられた動機は。
「外国映画などで、外人のいい身体を見て、うらやましいと思いましたね。この種の外国雑誌も読んだり、ボディ・ビルというのがあることは知っていたが、ぼくがやり出したらマンガものだろうと(笑)覚悟していた。最初はコッソリやるつもりでね」
─―学生時代に何かスポーツは。
「馬に乗ったくらいかな。スケートもようやく手すりなしで滑れる程度……」
写真◆バーベル運動する三島
さらに、ボディビルを始めて1年後には次のように書いています。
1956(昭和31)年09月20日(木)号『漫画読売』「ボディ・ビル哲学」《ボディ・ビルをはじめてからこの9月で1年になる。風邪を引いて3週間ほど休んだことが一度あるほかは、まづ精励して来た。もともと肉体的劣等感を払拭するためにはじめた運動であるが、薄紙を剥ぐやうにこの劣等感は治って、今では全快に近い。人から見たら、まだ大した体ぢゃないといふだらうが、主観的にいい体格ならそれでよろしい。……私は思ふのだが、知性には、どうしても、それとバランスをとるだけの量の肉が必要であるらしい。知性を精神といひかへてもいい。精神と肉体は男と女のやうに、美しく和合しなければならないものらしい》ここで三島は、日大拳闘部の好意で、小島智雄監督の指導の下、ボクシングも始めます。
1956(昭和31)年10月07日(日)『ボクシングと小説』《トレーニングをまだ4、5回やったばかりで、ボクシングを論じるのも口はばったい次第だが、30秒おきに3分づつ7乃至(ないし)8ラウンドのトレーニングをやってみて、いまさらボディー・ビルのありがたさを味はってゐる。何の訓練も経ずに座業からいきなりここへ飛び込んだら、おそらくついては行けまい。ボディー・ビルは非スポーツマンをスポーツの岸へ渡してくれる渡し舟のやうなものである。なぜボクシングをやりたくなったかといふと、それが激しいスピーディーな運動だからである。ボディー・ビルの静的な世界は、肉体の思索の世界ともいふべきで、そこでは動きとスピードへの欲求が反動的に高まってくる。そして動くもの、スピーディーなものが美しいことは、ソクラテスもいってゐることである》三島はこの2年後(1958年)に川端康成の媒酌で結婚するんですが、それと同時に、今度はボクシングをやめて剣道の稽古に入ります。もはや、三島の肉体鍛錬はとどまることを知りませんでした。
写真◆東京裁判の会場となった市ヶ谷記念館。このバルコニーで三島が演説した
自己鍛錬の流れの中で、三島は1961年、「よいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説」として『憂国』を発表します。これは、2・26事件で反乱軍を討たざるをえなくなった武山信二中尉が、死を選んで切腹する話。この作品は1966年、自身が監督・主演を務めて映画化されました。この映画で、三島は凄惨な切腹シーンを演じています。そして、1967年、自衛隊に体験入隊。その直後、三島は『美しい死』(1967年8月)でこう書いています。
《ひとたび武を志した以上、自分の身の安全は保証されない。もはや、卑怯未練な行動は、自分に対してもゆるされず、一か八かといふときには、戦って死ぬか、自刃するかしか道はないからである。しかし、そのとき、はじめて人間は美しく死ぬことができ、立派に人生を完成することができるのであるから、つくづく人間といふものは皮肉にできてゐる。
私は自衛官にはならなかったけれども、一旦武の道に学んだからには、予備自衛官と等しく、一旦緩急あるときは国を守るために馳せ参じたいといふ気持になってゐる》三島由紀夫は、『憂国』の映画制作から4年後の1970年、自衛隊市ヶ谷駐屯地で演説します。「俺は4年待ったんだ。自衛隊が立ちあがる日を」と絶叫しながら改憲を訴えるんですが、自衛官は誰も耳を貸しませんでした。こうして、失意のうちに切腹を果たすことになります。
写真◆市ヶ谷会館のドアに残った刀の傷
1970(昭和45)年11月25日(水)。享年45。なぜ11月25日を選んだかは不明ですが、『仮面の告白』を書き始めた日が11月25日だとされています。
写真◆市ヶ谷会館:左手前が三島が自決した場所。一番左の窓からバルコニーに出た
<おまけ>
三島由紀夫が切腹したあと、メディアは大々的に事件を報じました。そのなかに、ボディ・ビルのトレーナーだった鈴木智雄がコメントを出しています。
‡1970(昭和45)年12月『週刊現代』増刊・三島由紀夫緊急特集号「自由ヶ丘の私のジムに週2回、通ってこられるようになりました。1回、1時間程度の練習を2年ぐらいつづけられました。私のところをやめたあとも10年間つづけたそうで、その意志の強さには敬服しますが、三島さんの目的は、肉体の表面を美しく見せるにはどうしたらいいかといったものだけで、体育の本質には迫らず、本物を追求する精神はなかったようです」 三島由紀夫は本物ではなかった……それはあまりに痛烈な一言でした。
<おまけ2>
作家の安部譲二は、三島由紀夫と親交があり、三島にボクシングジムを紹介したと語っています。安部によると、「三島は頭を使う仕事だから、頭は殴らないでくれ」とトレーナーに頼んでいたため、手を抜かれたことに気づいた三島が怒ってボクシングをやめ、ボディビルに転向したことになっています。ですが、実際はボディビルが先です。三島にとって重要なボディビルの話を混乱して語ってるわけで、安部譲二の話はウソとは言わないまでも、話半分で聞いておいた方がいいかもしれませんね。
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