過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)

 

 削除動画◆11PM(13)  ?https://youtu.be/b0l-ZBA9OI4
‡1985(昭和60)年1月15日(火) 放送
 1985(昭和60)年2月13日(水) 施行
 https://wikimatome.org/wiki/%E6%96%B0%E9%A2%A8%E4%BF%97%E5%96%B6%E6%A5%AD%E6%B3%95
 ┏━━━━━━━━━┓
 ┃ 今日は何の日? ┃
 ┗━━━━━━━━━┛※名称、肩書き、年齢などは当時のものですヨ(=^◇^=)
‡2013(平成25)年01月15日(火) 映画監督の大島渚さん死去『青春残酷物語』『愛のコリーダ』など、社会のタブーや人間の深層に迫る作品を発表し、世界的な映画監督として知られた大島渚さんが死去した。監督業の傍ら、ワイドショーやバラエティーなどテレビでも活躍。映画同様、歯に衣(きぬ)着せぬ発言が人気を呼んだ。
 1993(平成五)年06月某日(X) 写真撮影【時事通信社】※2023(令和五)年
‡1985(昭和60)年01月15日(火) ラグビーの新日鉄釜石が日本選手権7連覇 ⇒ 第22回ラグビー日本選手権決勝は、7連覇に挑む新日鉄釜石と史上初の大学選手権3連覇を達成した同志社大の戦いとなった。後半に入ると新日鉄釜石が底力を発揮し、31-17で勝ち、日本選手権7連覇を達成した。写真は、肩車に乗り観客に手を振る松尾雄治監督=東京・国立競技場【時事通信社】※2021(令和三)年説明追加
‡2016(平成28)年01月15日(金) 軽井沢でバスの転落事故が発生し、15人が死亡 ⇒ 長野県軽井沢町で多くのスキー客を乗せたバスが崖下に転落する事故が起き、乗客の大学生13人と運転手2人が死亡し、26人が重軽傷を負った。運行会社は運転手の健康管理などに関して多くの法令違反があり、バス業界をめぐる問題点が改めて浮き彫りになった。写真はクレーン車で斜面から引き上げられるバス【時事通信社】※2021年説明削除 2022年記事削除
‡1939(昭和14)年01月15日(日) 大相撲の横綱双葉山関が安藝ノ海関に敗れ、連勝が69でストップ
‡1974(平成49)年01月15日(火) 長崎県・三菱石炭鉱業高島鉱業所の端島鉱(軍艦島)が閉山 ※2022(令和四)年記事追加
 https://www.jiji.com/jc/daily
 ┏━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=前島進
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛
‡2003(平成15)年01月15日(水) 虎の伊良部が自主トレ始動 
‡2018(平成30)年01月15日(月) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は1月15日だ。 
 写真◆キャッチボールも迫力満点
 先日亡くなった星野仙一氏が阪神監督として優勝に輝いたのが2003年。そのいわば秘密兵器となったのが、レンジャーズから加入した伊良部秀輝(故人)だった。 
 ロッテ時代、快速球投手として鳴らし、96年オフ、日米球界を巻き込む大騒動の末、三角トレードでヤンキース入りを果たした右腕だ。ただ、実力は折り紙つきながら心配されたのは性格面。メジャーでもトラブルメーカー的な存在となり、闘将・星野監督が、暴れ馬をどう“調教”するか注目されていた。 
 2003年1月15日は、伊良部が西宮市の鳴尾浜で自主トレを始動した日だ。ロッテ時代終盤、さらに米球界時代とマスコミを毛嫌いし、ハエ呼ばわりしたこともあった伊良部だが、この日は上機嫌。集まった約50人の報道陣の前で、たっぷり30分しゃべりまくった。 
「チームメートとはディスカッションをしていこうと思っています。首脳陣の方々にもいろいろ相談していきたい。アメリカでは、勝てなかったとき、翌ピッチングコーチに来てもらって1時間も2時間も話し相手になってもらいましたから」 
 口調も丁寧。まるで別人だ。
 さらに「投げ込みより、筋力トレで故障しにくい体を作る。疲労の回復も早くなるし」とも話していたが、メジャーで培ったものを日本球界で披露したい、伝えたい、という思いも持っていたのではないだろうか。 
 同年13勝を挙げ、優勝に貢献。それが剛腕伊良部の野球人生最後の輝きとなった。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180115-13
************************************************************
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.043 ┃  30円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
 1959(昭和34)年2月04日(水)号 特集 二年目の長嶋茂雄 ストーブ・リーグその後の主人公
 2017(平成29)年12月9日(土) 11:07 2018年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3400号を超えている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎長嶋茂雄のオフの多忙な取材日程
 写真◆表紙は南海・野村克也
 今回は『1959年2月4日号』。創刊43号で定価30円だ。表紙は南海・野村克也のキャッチャーシーン。なかなか斬新だ。センターグラビアでは里帰りの密着もあった。センターカラーは青空バックで巨人・広岡達朗のゴルフ場での1シーンだ。 
 巻頭グラビアは残り少ない学生生活を楽しむ王貞治(早実─巨人)。そして本文巻頭が『2年目の長嶋茂雄』。オフの多忙な取材日程があったので抜粋する。 
‡1959(昭和34)年01月15日(木) 早朝 こだまで東京へ。杉浦忠結婚式
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.190 ┃  30円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1962(昭和37)年1月15日(月)号 近鉄バファローがパールスに戻る?
 2018(平成30)年5月13日(日) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎『南海・阪神の外人投手さわぎ』
 写真◆表紙は左から巨人・長嶋茂雄、東映・張本勲
 今回は『1962年1月15日号』。定価は30円だ。 
『南海・阪神の外人投手さわぎ』というページで、阪神にブラウンスタインという投手が入った話が出ている。メジャーも6球団が獲得に動いたというカリフォルニア大のエースで、大学を出てすぐの外国人選手加入は、これが初めてでもあった。父親が日本とも商売をしている貿易商だったことで、日本に興味を示したようだが、新人、移籍、外国人と阪神の補強がかなり積極的だ。 
 ただし、外国人は使ってみなければ分からない。ブラウンスタイン(登録名はブラウン)も背番号18と期待されたが、一軍登板なく1年で退団。一方、この年の8月テストを受けて阪神入団を決めたのが、背番号4のバッキーだった。 
 近鉄は改名騒動が起きていた。61年までのニックネームは、バファローだったが、これは前監督・千葉茂のニックネーム「猛牛」から取ったものでもある。別当薫新監督は、 
「バファローとバファローズどっちがいいと思う? パールスのほうが近鉄らしいと思わないか」 
 と記者たちに言っていた。 
 連載推理小説『10番打者』(佐野洋著)にも少し触れておこう。第1話(シリーズ)のテーマは「不均衡計画」。1948、49年が舞台で、ある組織が日本球界の人気をさらに盛んにするため、反巨人ファンを組織化する計画を立てた。それが南海のエース、別所昭(毅彦)を巨人が引き抜くことだったという。アンチが大いに怒り、結果的に盛り上がるはず、というのだ。要は実際の球史にあった出来事の背後をフィクションで飾る小説のようである。 
 以下、宣伝。週べ60年記念シリーズ『巨人編』『日本ハム編』『阪神編』が好評発売中、『ロッテ編』を鋭意制作中です。 
 では、またあした。<次回に続く>
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.505 ┃  60円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1968(昭和43)年01月15日(月)号 さすがミスター!
 2019(令和元)年07月15日(月) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎自由自在な時代
 写真◆表紙は巨人・川上哲治監督
 今回は『1968年1月15日号』。定価は60円。 
「高田との対談? いいね、俺の家に連れて来いよ。待ってるよ」 
 さすがミスター! たぶん当時の編集部はそう言っただろう。 
 巨人のドラ1ルーキー、明大・高田繁が学生服姿でミスター・ジャイアンツ、長嶋茂雄家を訪れ、対談。巻頭グラビアからたくさんのページを割いている。 
 かつて長嶋入団時は川上哲治の自宅だった(当時コーチ。掲載ば月刊時代)。王貞治入団時は長嶋の下宿だった。 
 なお、高田は、すでにフィアンセがいて、2ショット写真も載っていた。 
 話がいきなり脱線するが、今ではプロ野球選手の自宅取材はまずできない(戦力外選手のテレビ番組くらいか)。 
 時代が時代だから仕方がないし、まあ、正直、どうでもいい。 
 ただ、球場のセレモニーに子どもを連れてきて、グラウンドレベルまで入れカメラマンにふつうに撮らせながら、あとで球団から「子どもの顔が分からない写真を使ってください」と言われたときは思う。 
 だったら、最初から言ってくれ。 
 このころは自由自在だ。 
 実は、この前の号でも、「プロ野球夫人部隊」のタイトルで夫人たちの写真名鑑があった(80人くらい)。 
 当時は、家族で登場する企画が多いが、この連載内では“その愛が永遠かどうか”に気をつけている。永遠でない場合、写真だけではなく、記事でもできるだけ触れていない(N村さんのように)。 
 ただ、永遠ではなかったが、この夫妻なら仕方あるまい。 
 阪神・藤本勝巳と歌手・島倉千代子夫妻である。 
 今とは違い、当時、野球選手と芸能人の結婚は滅多になかった。 
 その藤本が突然引退を球団に申し出た。 
 一塁は遠井吾郎に奪われていたが、まだまだ力はある。球団としては代打の切り札として期待し、慰留もしたが、意思は変わらなかった。 
「バカな男だといわれるかもしれませんが、いずれ何年か先に首になるなら、少しでも惜しまれているうちに去っていくほうがいいと思って決心したんです」 
 引退後は球界の残らず、バー形式のクラブを開店予定という。天才肌で、起用法に対し、少しくさっていたのは確からしい。 
 東映監督を退任した水原茂の連載手記では、大杉勝男を殴った話が載っていた。 
 顛末はこうだ。 
 韓国遠征の試合中だった。大杉は一塁を守っている際、捕球で足が早く離れすぎる癖があり、水原もいつも注意していたらしいが、この試合でも、アンパイアが大杉の足が離れるのが早いとセーフになったプレーがあった。 
 問題はその次。同様のケースでアウトにしたとき、何度もベースを踏み、審判に「これでいいだろう」的な挑発行為をしたという。 
 これに水原が激怒。ベンチでビンタをくらわした。 
 誤解してほしくない。水原は大杉を高く買っていた。ただ、ふてくされると表情やプレーに出ることが多く、日ごろからほかの選手より厳しく接していたという。 
 水原の思いは通じていた。大杉は水原を慕い、退任のときも真っ先に飛んできて泣いたという。 
 水原は大杉が大下弘新監督の三無主義で、また気持ちが緩んでしまうのでは、と心配していた。 
 広島の新名称が「広島東洋カープ」になった。東洋工業が事実上の親会社となったことで、「東洋カープ」になるのでは、とも言われたが、広島を残した形となる。 
 新監督は根本陸夫。補強にも動き、阪神から大打者・山内一弘を獲得し、前監督・長谷川良平に対し、不満が多かった大和田明を放出した。 
 山内は、阪神から突然移籍通告を受けたらしいが、一切ごねなかった。 
 理由は、 
「われわれは野球協約に基づいて生きているのだ。球団に保有権がある以上、じたばたしても仕方がない」 
 だった。 
 山内に関しては金銭的にドライだった、という人が多い。担当者が取材したのは、かなり後年の台北。海鮮系の屋台でご馳走になったが、優しい人だった(生ものが出て、少し怖かった)。 
 その台湾で巨人がキャンプを張ることになった。国民的英雄・王貞治がいたことで台湾側から熱心に誘われたという。 
 では、またあした。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171209-10
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180513-13
 ③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190714-01
************************************************************
 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
 ┃ プロ野球仰天伝説 No.023 ┃ ONLINE
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
 球史に残る異色投法。背面投げの小川健太郎
‡2018(平成30)年1月15日(月) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 王対策として編み出した投法
 変則投法で王に立ち向かった小川
 球史に残る変則投法が中日のアンダースロー、小川健太郎の背面投げだ。左足を上げた際(小川は右投げ)、重心を下げたところで右腰あたりから、ヒョイと投げるもので、3年連続被打率4割を超えていた巨人・王貞治対策として考えたものである。 
 記念すべき第1球は、外角に外れてボール。続いて6回裏にも投げたが、外角へのワンバウンド。それでも3回がライトライナー、6回が見逃し三振だから、ストライクにこそならなかったものの、ひとまず効果はあったようだ。 
 その後、球界でボーク論争も起こったが、“合法”となり、
 19XX年08月31日(X)、
 19XX年10月19日(X)にも1球ずつ王の打席で投げている。しかし、いずれもボール。これで小川はあきらめたのか、変則投法を“封印”した。 
 背面投げの練習は
 1969(昭和44)年の春季キャンプから始め、以後、毎日20球は投げていたという。捕手の木俣達彦によれば、練習ではほぼストライクだったというからすごい。ただ、王は「最初はびっくりした。でも、超スローボールを投げられているのと同じだから投げ方も気にならなくなった」と語っている。 
 小川健太郎(おがわ・けんたろう) 
 1934(昭和九)年1月12日(金)生まれ。福岡県出身。明善高から
 1954(昭和29)年テストを受けて東映入団。2年で退団し、社会人でプレー。
 1964(昭和39)年30歳で中日に入団し、
 1967(昭和42)年には29勝で最多勝に輝いた。
 1970(昭和45)年オートレースの八百長疑惑で逮捕され、永久追放処分。
 1998(平成十)年10月8日(木)死去。主なタイトルは最多勝利1回、沢村賞1回。通算成績253試合登板、95勝66敗、防御率2.62
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180115-10
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
************************************************************

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「日記」カテゴリーもっと見る