過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の浜省さんとetSETOraだヨ(=^◇^=)


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 ┃  ROAD and SKY ┃vol.016
 ┗━━━━━━━━━━━━┛W.K.MONOLOGUE
 ■1986(昭和61)年3月28日(金)雨
  朝、事務所に残されていたパーティーの案内状の原稿。
"1976年の4月21日に「路地裏の少年」でソロデビューして10年になるのです。別に感慨深いという訳ではないけど、この10年、俺を支えてくれた人達と酒でも飲みたいなあと思うわけです。という訳で
5月10日にパーティーをやります。ただ食べてしゃべって飲んで時をすごすという会です。気楽に参加して下さい。どんな服を着て来ようと構いません。そして酔っ払って来ようと不機嫌で来ようと恋人と来ようと構いません。とにかく顔を見せて下さい。詳しい時間や場所は高橋が知らせます。
5月10日の夕刻、時間と心を開けといて下さい。
 浜田省吾" 
 https://shogo.r-s.co.jp/login/login.php
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 ┃ いっぺいちゃんのこと ┃
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‡2016(平成28)年03月28日(月)
 今回は、ぼくが高校生の頃からの知り合いで、後に浜田省吾&The Fuseの一員として苦楽を共にした盟友、いっぺいちゃんこと一戸清さんのお話です。
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 ぼくといっぺいちゃんの出会いは1974(昭和49)年、ぼくがまだ高校生だった頃に遡る。千葉県船橋市のとある高校に通っていたぼくは、学校の同級生と三人組のバンドを結成してオリジナル曲を作ったり、学園祭で演奏したりしていた。隣町の高校にカッコいいバンドをやっている奴らがいる、という噂をある日ぼくは友達の女の子から聞いた。「EEF(イーフ)」と名乗るそのバンドは三人組のトリオで、フォークっぽい曲にジャズフュージョンのようなテイストを加えた、ちょっと不思議なサウンドを奏でるバンドだった。そのジャズっぽいクロスオーバーのようなサウンドを担っていたのが一戸清だった。EEFのメンバーとぼくの友達の女の子が付き合っていたことから、ぼくはいつの間にかEEFのメンバーだった一戸くんと知り合いになった。一戸くんはぼくより二つ年上で、黒縁のメガネをかけたちょっとインテリっぽくて、博士のような雰囲気の男だった。高校の同級生と結成したぼく達のバンドはオリジナル曲も増えて来て、どうせならラジオ番組で募集しているコンテストに応募してみようという話になった。そこで知り合いの中で、唯一オープンリールのマルチトラックレコーダーを持っていた一戸くんの家で、デモテープを録らせてもらうことになった。1974年、昭和49年当時にオープンリールのマルチトラックレコーダーを持っている人はそう多くなかった。一戸くんの家にはTEACの4チャンネルのマルチトラックレコーダーがデン!と鎮座していて後光を放っていた(ように見えた)。一戸くんの家で頑張って録音させてもらったデモテープを、カセットテープにダビングしてラジオ番組のコンテストに応募した。結果はあえなく落選、一次審査にも引っかからなかった。まぁ当然と言えば当然なのだが(笑)。それはさておき、その頃千葉県北習志野にぼく達がよくたむろしていた「Beatle」という喫茶店があった。Beatleにはフォルクスワーゲン・ビートルの愛好家や、地元のアマチュア音楽サークルの連中がたくさん出入りしていた。Beatleのご子息のUさんも、たしか「Joy Of Wednesday」というすごくいかしたバンドをやっていて、そのウエストコーストっぽいサウンドに、ぼくは密かに憧れていた。Beatleでも一戸くんとはよく一緒になった。地元のアマチュア音楽サークル主催のコンサートで、ぼく達のバンドと一戸くんのEEFが一緒になることもあった。しかしぼくと一戸くんは、好きな音楽もプレイスタイルも全く違っていたので、この先も彼と一緒に演奏することはきっと無いだろうと、その頃は思っていた。それからしばらく一戸くんとはあまり会う機会がなかったのだが、何年か後にぼくも一戸くんも、ミュージシャンの卵のような活動をするようになっていた。そんなある日、突然彼から電話がかかって来た。熱海の温泉旅館でのハコバンの仕事の電話だった(詳しくは熱海の記事を参照)。そこからさらに数年後、ぼくと一戸くんは思わぬ所で再会を果たす。そう、浜田省吾さんのバンドである。
 1979(昭和54)年07月、ぼくと一戸くんはほぼ同時期に浜田省吾バンドに加入することになった。おそらく一緒に演奏することは無いだろうと思っていた人物とのまさかのツインキーボード。しかもぼくがピアノで一戸くんがオルガン。何か不思議な縁を感じた。浜田省吾1979(昭和54)年の秋のツアーから、
 1984(昭和59)年02月19日(日)にNHKホールで終了したファースト・フィナーレツアーまでの約4年半の間、本当に苦楽を共にした。79年?80年当時はまだ浜田さんのコンサートも、すべての箇所でソールドアウトというわけではく、場所によってはかなり空席の目立つところも多かった。時には千数百人収容の会場に、二百人に満たない観客しか入っていない前で演奏したこともあった。過酷な移動や悪条件の宿泊施設等、決して楽な環境での旅ではなかったけれど、とても楽しくてしかたがなかった。特にThe Fuseと名乗るようになってからの、第二期のメンバーは本当に仲が良くて、ツアーの間のつかの間の休日を利用して、メンバーだけでプライベートで海外旅行に出かけたりもした。しかし、1983(昭和58)年のツアーあたりから何となくメンバー間に、目に見えない溝のようなものが出来始めているのを、みんな薄々感じ始めていた。何百本ものツアーを共にした馴れ合いのような、そうで無いような、何とも言葉では言い表しがたいムードが漂い始めた。かと言って決して仲が悪くなった訳ではない。もし仲が悪くなったら、何百本ものツアーを一緒に廻ることなど到底不可能だ。ぼくといっぺいちゃんは当時住んでいる家がすぐ近所で、ぼくの家から歩いて数分のところにいっぺいちゃんは住んでいた。当時独身だったぼくは、すでに妻帯者だったいっぺいちゃんの家に、よくご飯をごちそうになりに行った。バンドのメンバーもいっぺいちゃんの家に、ことある毎に良く集まった。ツアーに出かける時にも一緒によくタクシーで羽田空港まで行った。ツアーが終わって羽田に到着してからの帰りも一緒だった。
 1984(昭和59)年02月19日(日)にファースト・フィナーレツアーが終わって、The Fuseは解散というか自然消滅した。
 1984(昭和59)年04月29日(日)に横浜スタジアムで開催された、浜田省吾「A Place In The Sun」は、The Fuseからはぼくと古村敏比古くん、町支寛二さんの三人だけが残った。ベースの江澤くんはゲストプレイヤー扱いでの参加だった。The Fuse脱退後の一戸くんは、映像制作会社を設立して活躍していた。ぼくも電話やメールで話すことはあったが、実際に会う機会はなかなか無かった。数年前にSNSを介して、また一戸くんとの繋がりが復活した。近い内に再会を約束したばかりだった。
 2014(平成26)年10月28日(火)、一戸清くんは永眠した。まだ60歳の若さだった。結局
 1984(昭和59)年02月19日(日)が彼との最後の日になるなど、その時は夢にも思わなかった。
 2014(平成26)年11月02日(日)、横浜の瀟洒な教会で彼と再会した。30年ぶりに会ったいっぺいちゃんは、昔と変わらず優しい顔でまるで眠っているようだった。いっぺいちゃんありがとう、安らかに。
 写真◆北習志野のBeatle。1974(昭和49)年頃。 
 写真◆いっぺいちゃんと。1981(昭和56)年頃。 
 写真◆1981(昭和56)年頃。
 映像★浜田省吾さんからの生メッセージと歌 「君の微笑」ピアノ「君が人生の時」
 
 映像★浜田省吾は肩こりだった SHOGO メドレー 家路 Midnight BT etc Piano https://youtu.be/B-s4aAr2904
 
**************** http://air.edisc.jp/ima/
 http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/03/blog-post_28.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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 ┃ The History of Shogo Hamada "オリコン週間アルバムヒットチャートはNo.①"一蘭 ┃
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  通算01回 1986(昭和61)年 9月15日(月)『J.BOY』連続第1位第一週
  通算02回 1986(昭和61)年 9月22日(月)『J.BOY』連続第1位第二週
  通算03回 1986(昭和61)年 9月29日(月)『J.BOY』連続第1位第三週
  通算04回 1986(昭和61)年10月 6日(月)『J.BOY』連続第1位第四週
  通算05回 1986(昭和61)年10月27日(月)『J.BOY』※LP&TAPESチャート
  通算06回 1987(昭和62)年 7月 6日(月)『CLUB SURFBOUND』通算第1位第一週
  通算07回 1987(昭和62)年 7月20日(月)『CLUB SURFBOUND』通算第1位第二週
 ‡通算08回 1988(昭和63)年 3月28日(月)『FATHER'S SON』
  通算09回 1989(平成元)年 9月11日(月)『Wasted Tears』通算第1位第一週
  通算10回 1989(平成元)年 9月25日(月)『Wasted Tears』通算第1位第二週
  通算11回 1993(平成五)年 9月 9日(月)『EDGE OF THE KNIFE』
  通算12回 1993(平成五)年 9月20日(月)『その永遠の一秒に』
  通算13回 1996(平成八)年11月25日(月)『青空の扉~THE DOOR FOR THE BLUE SKY~』
  通算14回 2000(平成12)年11月20日(月)『The History of Shogo Hamada "Since1975"』
  通算15回 2015(平成27)年 5月11日(月)『Journey of a Songwriter~旅するソングライター』連続第1位第一週
  通算16回 2015(平成27)年 5月18日(月)『Journey of a Songwriter~旅するソングライター』連続第1位第二週
 ヒットチャートはNo.① 1988映像◆https://youtu.be/9mAc-F2oGnE
 
 ヒットチャートはNo.① 2011映像◆https://youtu.be/YS5v_DAXTzw
 
 
**************** http://ja.wikipedia.org/wiki/FATHER%27S_SON
 http://www.uta-net.com/song/9047/ http://www.ichiran.co.jp/index_hp.html
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大滝詠一「三ツ矢サイダー73」が日本にもたらせた「CITY」という概念
2017年03月28日 執筆者:サエキけんぞう
何でも3月28日は「三ツ矢サイダーの日」であるらしい。「三ツ矢サイダー」の音楽といえば、そこは大滝詠一、ということになる。 
1973年9月21日、はっぴいえんど解散コンサートの日、ひときわ沸いたのは大瀧詠一の「三ツ矢サイダー」(映像&実演)であった。それはその日自分が持参録音したカセットを確認するとわかる。 
この日がはっぴいえんどいうより、4人のメンバーの新プロジェクトのお披露目ライブであることはキャラメル・ママをはじめとする出演者の構成からファンは了承済みだった。注目だったのは「風街ろまん」の「街」というキーワードが「CITY」に変わっていたこと。キャロル・キングが組んでいたバンド名。「風街ろまん」で、はっぴいえんどが足場をおいた爛熟した米西海岸シンガーソングライターブームという流れから、「シティ」という言葉の登場への期待は大きかった。73年は、AORはもとより「シティ・サウンド」いう概念もなかったのだ。 
最初に登場した南佳孝も新しい都会観を与えてくれた。しかし「CITY」らしきものをはっきりと提示したのは、西岡恭蔵の次に登場したココナツ・バンクをしたがえた大滝詠一。そこには完全に無名だった山下達郎・大貫妙子もコーラスに加わった。「空飛ぶウララカ・サイダー」と「ココナツ・ホリデイ」という2曲だった。 
">このコンサートの後70年代末には、ティンパン・アレイやシュガー・ベイブ、そのメンバーの活躍により日本のAOR、日本のシティ・ミュージックは確立される。しかし前述のように72年までは「シティ」という言葉の流通はなかった。なぜ「三ツ矢サイダー73」が、その時に最も都会的に響いたのだろう? 
http://music-calendar.jp/2017032801
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 ┃ ♪ふられ気分でRockn'n Roll♪/トム・キャット 一度見たら忘れない ┃
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 |2012(平成24)年 3月28日(水)|スポニチ Sponichi Annex 情報配信
 |1984(昭和59)年11月14日(水)|リリース
 |1985(昭和60)年 3月?日(?)|★1985(昭和60)年3月ランキング★
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1 ミ・アモーレ/中森明菜
2 卒業/菊池桃子
3 Romanticが止まらない/C―C―B
4 シンデレラは眠れない/アルフィー
5 ふられ気分でROCK’NROLL/トム・キャット
6 俺ら東京さ行くだ/吉幾三
7 天使のウインク/松田聖子
8 卒業/斉藤由貴
9 ジェラス・トレイン/河合奈保子
10 熱視線/安全地帯
注目見えない翼/伊藤麻衣子
※ランキングは当時のレコード売り上げ、有線放送、ラジオ、テレビのベストテン番組などの順位を参考に、話題性を加味してスポニチアネックスが独自に決定。
【♪ふられ気分でRockn'n Roll♪/トム・キャット】身長は1メートル50あるかないかの小柄の女性の顔には大きなサングラス、袖のやたら短い黒のビニール地の衣装を着て、ザンギリ頭のようなショートカットのヘアスタイル…何もかも特徴的な23歳のキーボード兼ボーカルが歌う、早口なロックがヒットチャート賑わしていた。ヤマハの「ポピュラー音楽コンテスト」=「ポプコン」とそれに続く「世界歌謡音楽祭」で連続グランプリを獲得した、5人組「トム・キャット」の「ふられ気分でRockn’n Roll」は、85年にレコード売り上げ36万枚を記録。バンドの顔であるボーカルTOMの風貌のインパクトは一目見たら忘れられないものがあった。必要以上に大きなサングラスは溶接工が使う顔の側面まで覆うものだった。「ピンスポットが当たると、鍵盤が白く光ってしまって、見えにくくなる。そうすると、頭の中が真っ白になってコードも忘れてしまう」という理由でかけはじめた。そのうち街を歩く時もかけるようになってしまったとか…。ロックバンドでボーカルをやるような女性にしては意外にも「外で自分の曲が流れていると恥ずかしくて、恥ずかしくて」と超が付くテレ屋だった。嫌で仕方なかったピアノが役立った。3歳からピアノ教室に通い、とりあえず12歳まで続けた。中学に入りロックに目覚めて、高校に入ると聴くだけでは物足りずバンドを結成した。校内でコンサートを開きたいと教師に申し出たが却下されると、校長に直談判。これが成功した。デビュー曲から順調な滑り出しをみせたバンドには、2曲目で早くも日本航空の沖縄キャンペーンソングのタイアップの話が舞い込むなど順風満帆だったが、これが思ったほどヒットせず、結果的には昭和の“一発屋”の代表格のような扱いに。しかし、TOMのロックへの情熱は高校生の頃にコンサート開催の道を切り開いた時と同じように衰えることはなく、現在でも活動を続けている。
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 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B5%E3%82%89%E3%82%8C%E6%B0%97%E5%88%86%E3%81%A7Rock%27n%27_Roll
 http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/03/kiji/K20120328002924820.html
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