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┃ 『ドロボー歌謡曲』 ┃
┗━━━━━━━━━━━┛盗作ヒット曲リスト公表!!
‡1987(昭和62)年12月01日(火) 日本歌謡曲倫理委員会(編集)
BOOKデータベース・・・戦後日本・ポピュラー音楽は、アメリカ、その他の国のカバー、コピーから始まり、今では日本独自の音楽体系(和製ポップス、日本のロック、フォーク、ニューミュージックなど)があると一般には思われているようだ。しかし、はたして洋楽の草分け時代と違って、今、日本独自の音楽がオリジナルとして本当に作られているだろうか?結論から言えば、日本のオリジナルとは皆無に等しく、なんらかの形で向こうの欧米の音楽の影響を受けているといったほうが早い。影響といえば聞こえがいいのだが、よくいえば参考・影響・悪くいえば盗作・ひょう窃、つまり、いうところのパクリだ。本書は、そのパクリを一種の文化犯罪として糾すべく、ここに様々な事例をまとめたものである。
http://www.amazon.co.jp/dp/4924442542
http://music.geocities.jp/gimi10jp/pakuri.html
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/2026931.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%9C%E3%83%BC%E6%AD%8C%E8%AC%A1%E6%9B%B2
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┃ Road&Sky vol.038 ┃
┗━━━━━━━━━━━━┛HIS WHITE OR BLUE NOTE
‡1989(平成元)年12月01日(金) はれ 夕方5時から"ROAD&SKY"の撮影で"STUDIO EBISU"へ。少し早めに着いたので恵比寿駅前のレコード屋、本屋をチェックする。泉谷しげるやユーミンなど購入。ついこの前X'mas用の写真を撮ったと思ったらもう一年前の事だ。ということで撮影の合い間の雑談でこの一年を振りかえる。この季節になるとみんなそう思うのかもしれないけれど月日の経つことの早さ。本当に1秒1分が昔と同じ様に、人と同じ様に流れているのだろうかと思ったりする。子供の頃は1年の間に様々な事が起こって、でもそれははっきり覚えていた気がするけれど、最近はここ10何年もツアーとレコーディングの暮らしを繰り返ししているせいか、この出来事は何年にあったのか思い出せないことが多い様だ。 もう一ヶ月ほどで'89年も終わる。自分にとっての1980年代を振りかえると、やはり'80年の夏にロスへ行き"HOME BOUND"をつくった事で始まり、"ON THE ROAD FILMS"を含んだ渚園の"A PLACE IN THE SUN"そして"WASTED TEARS"で終わったという感じがある。ちょうどぴったり区切りがついたと思う。印象に残っているステージと訊かれてもこの10年で800から900のコンサートをしたので、ぱっと言い切れないけれどその中でも'81年4月の新宿厚生年金会館、'84年2月の街角のセットの時のHNKホール、海の中道、渚園での"A PLACE IN THE SUN"などのシーンが思い浮かんでくる。
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https://shogo.r-s.co.jp/fanclub/backnumber/backnumber038.html
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┃ 『LOVE TRAIN』 ┃
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1977(昭和52)年05月21日(土) released
‡1985(昭和60)年12月01日(日) released 再 発
1990(平成二)年06月21日(木) released 再々発
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https://music.amazon.co.jp/albums/B00FS7V7AW
https://ja.wikipedia.org/wiki/LOVE_TRAIN_(浜田省吾のアルバム)
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┃ 『Mind Screen』 ┃
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1979(昭和54)年05月21日(月) released
‡1985(昭和60)年12月01日(日) released 再 発
1990(平成二)年06月21日(木) released 再々発
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https://music.amazon.co.jp/albums/B00FS7URNA
https://ja.wikipedia.org/wiki/MIND_SCREEN
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┃ 『Home Bound』 ┃
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1980(昭和55)年10月21日(tue) released
‡1985(昭和60)年12月01日(sun) CD released ※初CD発売
1990(平成二)年06月21日(thu) CD released ※再CD発売
1999(平成11)年09月08日(wed) REMASTERING 初回限定版 SRCL-4601
1999(平成11)年09月29日(wed) REMASTERING
①原田真二くんとか世良公則くんとか、自分たちより後輩がどんどんブレイクしていって、ひょっとしたら俺の時代は来ないまま終わってしまうのかなあって思ってたんですね。で、このアルバムを作ってコンサートも少し出来るようになって日本中を回りはじめたら、違うものが見えはじめたんです。夢のようなサクセス・ストーリーとか、金持ちになってアメリカに留学してみたいとか、いろんなことが夢なんだなあというなかで、300人や400人のお客さんしかいないんだけど、そこで演奏してすごく楽しかったんですよ。これでいいじゃないかって思いはじめた。ある意味じゃ、俺の本当のデビュー・アルバムっていう感じがしますね。当時、ジャクソン・ブラウンが好きで、彼はセクションというバンドをやってたんです。俺はロンドンに行きたかったんだけど、セクションとやれるかもしれないというんで、このアルバムをロサンゼルスでレコーディングしたんです。ロックの生まれた国で音を録ろう、本当のピュアなミュージシャンというのはどういう感じなのか会ってみたいと思って。結局、セクションのメンバーはジャクソン・ブラウンのあの"HOLD OUT"ツアーでいなかったんで、メンバーは変わったんですけど、すごくいい体験でしたね。
②「戻ってくるために離れることが必要だった」。レコードの帯には、そう記されていた。日本を離れた海外録音、そこに自らのルーツであるRock、そしてR&Bに回帰することを重ねた秀逸なコピーだった。1980年の夏、初めての海外録音でロサンゼルスに。当初は、アメリカ西海岸ではなく、イギリスでレコーディングしたいと思っていました。ニューウェイウ゛の出てきたイギリスの、たとえばエルウ゛ィス・コステロなどのロックなザラつき感が、自分のサウンドイメージに近いと思っていたから。でも、ジャクソン・ブラウンのレコーディングメンバーのザ・セクションと出来るかも……という話があって、それならアメリカもいいな、と。ただ、交渉中にザ・セクションのメンバーがジャクソンとのツアーに出ることになってしまって。それで、改めてデヴィッド・キャンベルという、ジャクソンなどの弦のアレンジをしている(キャロル・キング『つづれおり』ではウ゛ィオラを演奏)プロデューサー/アレンジャーがミュージシャンをコーディネートしてくれることになったんです。彼は、最近では〝ベックのお父さん?ということでも有名だよね。アルバムの1曲目は「終りなき疾走」。俺の感覚としては、ニューウェイウ゛の出てきたイギリスのロックなザラつき感が俺のサウンドイメージに近いと言ったけど、アメリカでいえば当時、イギリスのパンクやニューウェイウ゛に影響を与えたラモーンズのサウンドをイメージしていました。70年代になってロックがビッグビジネスになって産業化されていって、R&Bがディスコになる。その流れに対抗するように、60年代の古き良きロックを過激なサウンドでプレイして70年代後期に流行ったのが、ラモーンズにも代表されるパンクだよね。実は、その頃はほとんど聴いていなかったんだけど、ブルース・スプリングスティーンも、流行の音に振り回されることなくロックやR&Bのルーツの音を再生させていたという点では、パンク的だったとも言える。「終りなき疾走」や2曲目の「東京」でギターを弾いているのがTOTOのスティーヴ・ルカサー。俺達、彼がスタジオに来る前の日に、当時はまだ野外劇場だったユニバーサル・アンフィシアター(のちのギブソン・アンフィシアター、現在は閉館)にボズ・スキャッグスのコンサートを観に行って、そのゲストミュージシャンがTOTOのメンバーだったんだよね。その演奏を聴いた次の日の朝、スタジオに行ってそこに“TOTO”と書いた楽器車があったときには「お、本当に来てるんだ!?」と思った(笑)。TOTOとパンクじゃ正反対だけど、ギター奏者の水谷さんや町支くんは大喜びでした。そして、スタジオのブースの中にマーシャルのアンプが並んでいて、彼はスタジオの調整室のほうで弾くんだけど、地鳴りしていたね。プロデューサーの鈴木さんも「ルカサーのプレイは圧巻だった。若くていちばんいい時期に弾いてもらえたのは、僕らにとって大財産。すごくラッキーでした」と言っています。「丘の上の愛」などのピアノを弾いてくれたニッキー・ホプキンスも、とても印象深い人でした。ローリング・ストーンズのあのロックンロールピアニストのイメージが強かったけど、会ってみたらすらっと背が高くて優しい人で、モーツァルトとかシューベルトがすごい好きというクラシック派でした。間奏では、ウーリッツァーと生ピアノを重ねて、テープをスロー回転にして、それを速くして2回ダイビングしてバロックの感じにしてくれた。イントロは、コード進行に合わせて彼がアドリブで弾いていたのがあまりに美しいフレーズだったので、そのまま録音させてもらいました。「バンドを集めて行くから、日本で一緒にツアーをやろう」と住所も教えてくれたんだけど、彼は50才の若さでなくなってしまって、叶わないままになってしまいました。当時俺はザ・クリトーンズというニューウェイウ゛系のバンドも好きで、そのバンドのギタリストのマーク・ゴールデンバーグも参加してくれました。イメージとしてはタイトな、モッズみたいなスーツで演奏していたイメージなんだけど、スタジオに来たときはビーチサンダルに短パンにTシャツのカルフォルニア青年で(笑)。しかも、彼の12弦ギターが大好きだったのに持ってきてなくて「俺はきみの12弦ギターがすごく好きなんだ」と言ったら、「オッケー、わかった!家は近いから」って車で取りに行ってくれた。「明日なき世代」で弾いてくれています。ミュージシャン達が「傷心」のメロディーラインをすごく気に入ってくれたのも意外でうれしかった。「beautiful tune」と言っていたけど、マイナーでヨーロッパ的なメロディーだからかな、新鮮だったみたいでみんないい演奏をしてくれているよね。ハーモニカをトミー・モーガンという人が吹いてくれたんだけど、俺が待合室でまだ出来ていない歌詞を書いていたら、エンジニアが来て「なんでこの素晴らしい演奏を聴かないんだ!」って(笑)。曲は出来ていたけど、テーマもタイトルも歌詞もまったくないままロサンゼルスに向かった、そんなアルバム制作だった。アルバムのタイトルになった「家路」にしても、ロス滞在中にかなり苦しんで書いた。「反抗期」の歌詞は行きの飛行機、エコノミークラスの通路側の席で、まわりは暗くなっている中で、灯を点けてずっと書いてた。なんでもいいからとにかく書かなきゃって、必死だった(笑)。でも、「家路」にしても、実は苦し紛れのぎりぎりのところで書いているからリアルだったりするのかもしれません。それと、ミュージシャン達の出す音が詞に向かう気持ちを大きく増幅してくれたんだと思います。テーマもタイトルも歌詞もなかったけど、自分がやりたいのはロックだ!というのだけはあったんだよね。デビュー2枚目の『LOVE TRAIN』から『君が人生の時...』まで、70年代のアルバムのメロディーやサウンドや歌詞はポップソングだけど、ファーストアルバムのロックに戻るという気持ちが強くありました。だから、アルバムタイトルを『Home Bound』としました。すごく満足のいく作品が出来たという気持ちがあったし、高く評価してもらえると思ってはいたけど、一方で、ポップな「風を感じて」が少し売れたあとに、ロックなこのアルバムを発表したので、覚悟はしてたけど、前作の半分くらいの売れ行きだったから、少しがっかりした(笑)。ただ、70年代にはテレビにも出たけど、自分のいる場所はあそこじゃない、自分の音楽をやる場所はライブなんだ、サクセスストーリーは夢かもしれないけど、300人、400人という観客の前でライブをやっていることが楽しい、そう感じるようになってきた時期でもありました。ヒットチャートを意識するのではなく、いいアルバムを作っていいライブをやる。歌詞もメロディーもサウンドも、まさに原点に戻るようなアルバムが、この『Home Bound』だと思う。ロックナンバーだけでなく「今夜こそ」のような、俺のもうひとつのルーツであるR&Bのポップな曲もあるし、習作時代を経て、本当の意味でデビューアルバムという見方も出来る感じがします。初の海外レコーディングだった『Home Bound』のあと、ミックスやマスタリングは海外で何回もしているけど、レコーディング工程を全て海外でやったのはこのときだけ。コンサートツアーで年間に何本もライブをやるようになると、一緒にやっているミュージシャン達と自分の音楽を分かち合いたいという気持ちが強くなってくるんです。ステージだけではなく、アレンジやレコーディングもツアーメンバーとやるべきだと。それが後の『DOWN BY THE MAINSTREET』あたりから現在に至る考え方になっていきます。
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https://shogo.r-s.co.jp/disco/album06.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/Home_Bound
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┃ 『ON THE ROAD』 ┃
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1981(昭和56)年12月26日(土) 録音:広島郵便貯金会館
1981(昭和56)年12月27日(日) 録音:広島郵便貯金会館
1981(昭和56)年12月28日(月) 録音:広島郵便貯金会館
1982(昭和57)年01月12日(火) 録音:日本武道館
1982(昭和57)年02月25日(木) 初発売 CSCL-1168
‡1985(昭和60)年12月01日(日) 再発売
1990(平成二)年06月21日(木) 再々発
ライブ・アルバムですね。広島で録ったものと武道館のものと。武道館の方はエネルギーがあったんだけど、テンポがものすごく速かったんです。ライブの他に『ON THE ROAD』という曲を書いてこのアルバムを作ったんですけど、メロディは出来たんだけど、詞が全然書けなくて、CBSソニーの信濃町のスタジオを蹴とばした思い出がありますよ。俺は、もう「出来ないからいらない」って言ったの。ライブなんだからライブの曲だけでいいじゃないかって言ったら、須藤晃くんが「絶対必要だ」って言うわけ。でも書けないものは書けないんで、「書けない」とか言ってパッカーンと壁を蹴とばしたら須藤くんが目を丸くしてた(笑)。「なんて奴だ」みたいな顔をして。
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https://shogo.r-s.co.jp/disco/album08.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/ON_THE_ROAD_(%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0)
音源◆https://www.youtube.com/playlist?list=PLmQIzKRWaBRUOmB5o_Q1G6FGiGtp2o4dW
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┃ 長岡省吾 ┃広島平和記念資料館初代館長
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1962(昭和37)年XX月XX日(X) 広島平和記念資料館初代館長勇退
†1973(昭和48)年12月01日(土) 逝去 七十一才
39:57映像◆TSS報道特別番組『ヒロシマを遺した男~原爆資料館誕生物語~』https://youtu.be/OXvzYYb4b_4
英語字幕版「The man who left us the legacy of Hiroshima」
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https://ja.wikipedia.org/wiki/広島平和記念資料館#沿革
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┃ 浜田省吾チャリティLIVE黎明期 ┃
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1984(昭和59)年08月04日(土) THE ATOMIC CAFE MUSIC FES'84【反核コンサート】 日比谷の野音で行われたコンサートでした、興奮した尾崎豊が、PAから飛び下りて骨折したアレですね(苦笑)
1985(昭和60)年07月18日(木) アフリカセッション【飢餓救援コンサート】 渋谷のNHKホールで行われたコンサートでARB、竜童組らと出演しました
1988(昭和63)年11月18日(金) 単独LIVE ON THE ROAD '88“FATHER'S SON”ツアーのなかの一日、MZA有明で“留学生支援コンサート”を開催
1990(平成二)年11月17日(土) 単独LIVE ON THE ROAD '90ツアーのなかの一日、駒沢大学記念講堂での“留学生支援コンサート”、ハイビジョンのクローズド・サーキットで全国中継しました
1990(平成二)年12月23日(日) 単独LIVE ON THE ROAD '90ツアーのなかの一日、呉市文化ホールでのコンサート“チベット難民の子供達救済コンサート”でした、呼びかけた人は、高校時代にバンド仲間だったダライ・ラマ14世のもとで働く建築家で収益金428万2770円がチベットに送られました
1994(平成六)年03月13日(日) 長崎普賢岳災害救済コンサート【メッセージソングの日、島原・福江町を救え】 長崎市公会堂でのコンサート、泉谷しげる(Vo&G)忌野清志郎(Vo)吉田拓郎(B)小田和正(key)他という"スーパー・バンド"で大友康平とともにドラムを叩いていました(まあシンバルばっかりでしたが;汗)
1995(平成七)年08月06日(日) HIROSHIMA PEACE CONCERT【広島平和記念コンサート】 広島平和祈念コンサート"HIROSHIMA1995"に、古村敏比古とともに参加しました、ハウンド・ドッグをバックバンドに「八月の歌」などを歌いました
1996(平成八)年09月15日(日) 阪神淡路大震災支援コンサート【日本をすくえ'96 in 神戸】ワールド記念ホールでの、コンサートで、吉田拓郎の「イメージの詩」を歌いました
‡2000(平成12)年12月01日(金) Act Against AIDS【AIDSデー・イベント】 日本武道館で行われました、歌有りバラエティありのイベントでした
Message from 浜田省吾 ⇒ J.S.Foundationを設立する以前は、Road&Skyを通じてコンサートの収益やレコードの印税を単独で単発的に寄付していたのですが、いつか基金を設立して継続的な活動にしたいと思っていました。1995年、ある出来事をきっかけに佐藤佐江子さんに出会い、 彼女の経験と情熱と行動力を知り、基金に対する想いを相談しました。そして、彼女を中心に同志が集まり、1999年2月にJ.S.Foundationが発足しました。「社会のために何か出来ないだろうか?でも、個人で一体何が出来るのだろう?」そう思っているのは私だけではないと感じます。個々に存在している小さな善意がひとつになり、少しでも大きな力となって社会に貢献できればと思います。
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http://blogs.yahoo.co.jp/bar_flashandshadow/16898071.html
http://www.js-foundation.com/message.html
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浜田省吾氏からのお願い
http://blogs.yahoo.co.jp/maeda_51311/26549702.html
http://blogs.yahoo.co.jp/maeda_51311/18648544.html SAND CASTLE'85
■「丘の上の愛」 from 「Home Bound」(1980/10/22)
「Lyin' Eyes[偽りの瞳]」/Eagles from 「One of These Nights」()
そっくりだそうです。
■「愛という名のもとに」 from 「愛の世代の前に」(1981/09/21)/作曲:浜田省吾
「愛のメモリー」/松崎しげる from 「NEW BESTONE」()/作曲:馬飼野康二
サビの部分"眠れぬ夜は電話しておくれ"と、「愛の~」の"美しい人生よ限りない喜びよ"の部分がそっくり。(from こやまさん)
http://music.geocities.jp/gimi10jp/pack07.html#hamsyo
『陽のあたる場所』母子2人きりの貧しい家に育ち、シカゴのホテルでボーイをしていたジョージ・イーストマンは野心に燃える青年だった。ジョージは水着製造工場を経営している伯父のチャールズ・イーストマンに会い、幸い彼の工場に職を得た。伯父の邸で社交界の花アンジェラ・ヴィカースに会い、心を惹かれたが、ジョージにとっては、身分違いの遠い存在に思えた。ジョージと同じ職場にいたアリス・トリップは、身よりのない娘で、ある夜映画館でふと隣合わせになったことから、2人の仲は急に深まった。会社では男女社員の交際が御法度になっていたので、2人は人目を忍んで会わなければならなかった。ジョージは伯父の邸のパーティに招かれ昇進の機会を与えられ、アンジェラと再会した。そして、彼女はジョージの純真さに惹かれていったのだった……
http://renta.papy.co.jp/renta/sc/frm/item/15234/
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┃ ON THE ROAD '88 FATHER'S SON ┃後半戦 日程
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‡078 1988(昭和63)年12月01日(木) 大宮ソニックシティ 一日目
079 1988(昭和63)年12月02日(金) 大宮ソニックシティ 二日目
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http://www.flashandshadow.com/shogo/live/on/on1988.html
https://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11600186984.html
http://ameblo.jp/futabayama69/entry-10819384548.html
http://www9.plala.or.jp/bt-pearl/dear_memories.html
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89.1.28♪ON THE ROAD♪映像◆http://www.nicovideo.jp/watch/sm13810282#
SAND CASTLE
SECL-10001 (REMASTERING:2003/09/26)
1983/12/01 released
sound 01 君に会うまでは
sound 02 君の微笑
sound 03 散歩道
sound 04 いつわりの日々
sound 05 愛という名のもとに
sound 06 朝のシルエット
sound 07 丘の上の愛
sound 08 片想い
sound 09 陽のあたる場所
sound 10 愛しい人へ
『LOVE TRAIN』とか、昔のアルバムのなかに、音は悪くて、ボーカルもすごい稚拙だけど、楽曲としてはいきいきとした曲がたくさんあったし、それはその頃の自分にはもう書けなかったんで、そういうものを集めて、ひとつの優れたラブソングのトータル・アルバムを作りたいと思ったんです。"ベスト・オブ~"、じゃなくて。佐藤準さんというのは水谷公生さんが連れてきたわけだけど、その才能たるやすごいと感じてましたから、彼のアレンジ、彼のサウンド・プロデュースでやってみたんですね。情熱、とか、やる気、とか、ある意味でははじめてプロフェッショナルっぽいアルバム、誰でも聞けるというポピュラリティのあるスタンダードな感じのアルバムが出来たと思います。時代の音じゃなくて長く聞けるようなサウンドにしたいと話して、その通りの音になって、代表的なアルバムのひとつになりました。すごく若い恋人たちが出会ってすれ違っていく、そういう感じの内容でもありますね。
https://shogo.r-s.co.jp/disco/album10.html
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┃ 浜田省吾 #12 『Sand Castle』 ┃
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2016(平成28)年04月11日(月)
‡1983(昭和58)年12月01日(木)に浜田省吾さんのバラードアルバム『Sand Castle』がリリースされました。今回はそのデモテープ録音の話です。
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1983(昭和58)年の浜田省吾の春~夏のツアーは、
1983(昭和58)年08月13日(土)に行われた福岡海の中道海浜公園でのイベントを挟んで、
1983(昭和58)年08月31日(水)の青森市民会館まで続いた。春~夏のツアーだけでもイベントも入れて合計72回のコンサート。秋のツアーも同じぐらいの本数だった。とにかくこの年はとにかく滅茶苦茶コンサートをやった記憶しかない。秋のツアーまでの短いオフの間に、ぼくは海外旅行に出かけたりして英気を養った。旅行から戻るとすぐに尾崎豊という新人のレコーディングがあった。尾崎くんの話はまた別の機会に詳しく。そして秋のツアーのリハーサルの合間に、浜田さんのバラードアルバムのためのデモテープ録りが行われた。過去の作品からバラード曲をチョイスし、リメイクして一枚のアルバムにするという企画だった。アレンジは佐藤準さんが担当することになっていた。そこで準さんに渡すためのデモテープを、ぼくと浜田さんの二人だけで録音することになった。準さんに元のアレンジのままの音資料を渡すと、余計な先入観が入ってアレンジしづらくなるのでは?との配慮からだった。ぼくと浜田さんは新宿の小さなスタジオでレコーディングに臨んだ。なるべくシンプルにしようということで、使う楽器は浜田さん自らが弾くマーティンD-28と、ぼくが弾くヤマハCP-70とフェンダー・ローズピアノだけ。マーティンD-28は言わずと知れたアコースティックギターの名器で、この日使用したのは浜田さん所有のもの。ヤマハCP-70はエレクトリック・グランドピアノで、当時オフコースの小田さんや八神純子さん等も使用していた。フェンダー・ローズピアノはエレクトリック・ピアノの代名詞のような楽器で、内外問わず多くのミュージシャンが使用していた。録音はボーカルも含めた一発録り。間違えたら最初からやり直すという超アナログ方式で行われた。あくまでもデモテープなので、音質云々よりも雰囲気重視でレコーディングは行われた。この時録音した曲は以下の通り。
01.君に会うまでは
02.君の微笑み
03.散歩道
04.いつわりの日々
05.愛という名のもとに
06.朝のシルエット
07.丘の上の愛
08.片想い
09.陽のあたる場所
10.愛しい人へ 驚いたことに、後に『Sand Castle』としてリリースされたものと曲目、曲順まで一緒である。ということはこのデモテープ録りの時点で、すでに曲順まで決まっていたということになる。レコーディングは数時間で終了した。発表されるモノではないため、ぼくも浜田さんも結構リラックスしながらレコーディングした。浜田さんがギターを弾かないで、ぼくの弾くピアノ一本だけでレコーディングした曲も何曲かあった。そんな曲の時は浜田さんが歌いながら膝でリズムを叩いて、即席のパーカッション代わりにしたりもした。それがまた恐ろしく良い雰囲気を醸し出していた。逆にピアノが入らないで、浜田さんが弾くギター一本だけで歌われた曲もあった。また或る曲の間奏の部分では、浜田さんがハミングでメロディを奏でたりもした。今回改めて久しぶりにその時のテープを聴いてみた。テープには1983(昭和58)年の、あの時の空気感までもがパッケージされたまま大切に録音されていた。それにしてもなんて生々しくて、なんて瑞々しいんだろう。テープから流れてくる音は、まさにエバーグリーンの輝きを放っていた。聴いていて当時のことをいろいろと思い出した。 また余分な音が入っていない分、むき出しのボーカル、そしてギターとピアノだけのシンプルな演奏が、よりいっそう楽曲の素晴らしさを際立たせていて、聴いている内に不覚にも感涙してしまった。自分で言うのも何だが、こんな素晴らしいデモが公表されていないことが至極残念。『Sand Castle』がリマスターとかされた暁には、是非ともボーナストラックとして収録して欲しいものである。が、おそらく、いや絶対ムリだろうな(笑)たぶん永久に世に出ることは無いであろう、裏Sand Castleとも言えるこの二人だけのセッションテープは、ぼくの大切な宝物である。
写真◆二人だけでレコーディングした『Sand Castle』のデモテープ。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/04/12-sand-castle.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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こんにちは、浜田省吾です。
今回は、これまでのアルバムの中から、
バラードを選曲して、新しく録音しなおしたアルバムです。
僕のバラード・セレクション気に入ってもらえましたか?
一枚のレコードがリリースされるまでには、
息の合ったミュージシャン、アレンジャー、レコード会社など、
数え切れないほどのスタッフが関わっています。
当然、それらの人々の才能や労働には正当な報酬が支払われなければなりません。
ところが、最近では、貸しレコードやエアチェックなどの安易な複製が横行し、
レコード売上が圧迫されています。
このままでは、音楽にたずさわる人みんなが危機を迎えるだけではなく、
新譜の製作や新人のデビューが制限されたり、
レコード価格の引上げを招くことにもなってしまいます。
このような、アーティストにとってもファンにとっても不幸な事態を防ぐためにも、
レコードはプライベートな楽しみだけに使ってください。
音楽を愛するすべての人にお願いします。
浜田省吾
浜田省吾バラード・セレクション 完全新録音盤
1983(昭和58)年12月01日(木)リリース
詳細■https://ja.wikipedia.org/wiki/Sand_Castle
音源■https://www.youtube.com/playlist?list=PLmQIzKRWaBRVAaQQEvwy3ssVTcw_KtRjJ
砂の城■http://www.uta-net.com/song/78345/ 42,241回
802:J.BOΦWY (ワッチョイ 21e9-Gvca [58.183.226.116])
2016/12/01(木) 08:51:08.37 ID:47+ONqMJ0
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/musicjm/1479738539/
620:J.BOΦWY
2016/12/01(木) 08:53:52.50 ID:47+ONqMJ
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/musicjm/1479744702/
音源◆♪君に会うまでは♪https://youtu.be/fQbcENfMJUE
音源◆♪君の微笑♪https://youtu.be/0SXuau5Xc-4
音源◆♪散歩道♪https://youtu.be/I8iiNhrwc6I
音源◆♪いつわりの日々♪https://youtu.be/waHiioBo4MQ
音源◆♪愛という名のもとに♪https://youtu.be/OfBksVyJcuY
音源◆♪朝のシルエット♪https://youtu.be/upOTeiNpOqo
音源◆♪丘の上の愛♪https://youtu.be/pXnge0rtbDc
音源◆♪片想い♪https://youtu.be/azeZoaIEaXI
音源◆♪陽のあたる場所♪https://youtu.be/BgqWPl6uqyk
音源◆♪愛しい人へ♪https://youtu.be/tEwx2UX7kk8
映像◆Sand Castle/Shogo Hamada サンド・キャッスル 28AH1655 https://youtu.be/PuA60ihKbI4
全編■音源◆https://www.youtube.com/playlist?list=PLmQIzKRWaBRVAaQQEvwy3ssVTcw_KtRjJ
♪砂の城 訳もなく崩れ落ちた♪http://www.uta-net.com/song/51766
♪恋などゲームさ 恋などゲームさ 君に会うまでのひとり言
恋などゲームさ 恋などゲームさ 忘れかけていたひとり言♪http://shogo21.jugem.jp/?eid=174
♪片想い♪は、㊦↓の3曲にぶつけてください http://www.uta-net.com/song/1299/
http://www.uta-net.com/song/53009/ http://www.uta-net.com/song/5809/
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13144577418
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓1987(昭和62)年8月24日(月)
┃ NHK-FM『マイ・セレクション』DJ 浜田省吾 ┃ ON AIR 日
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1983(昭和58)年[30歳] M11.♪いつわりの日々♪ http://www8.big.or.jp/~most/bbs/nfm10.html
音源◆浜田省吾 ラジオ番組 マイ・セレクション Vol.② https://youtu.be/qIYsUHaODis
※これは1987年8月にNHK-FM『マイ・セレクション』という番組で放送されたものから、にゃみこさんがテープ起こし&タイプ打ちしたものです。14曲分、いきまっせ~~~!!
■1983(昭和58)年[30歳] ♪マイホームタウン♪が終わって・・・・
彼は、ま、日常に疲れてるわけね。仕事とか、生活とか。それで思い切って休暇を取って2週間程、南の島へバカンスに出かける。ひとりぼっちでバカンスに出かける。そこで空港へ着くとね、そのー花のね、においや風のにおいを感じる。空港からレンタカーを借りて、荷物を積んでね、ホテルへ着く。で、ホテルで荷物を降ろす。そうすると日焼けしたお客が 今からまさにチェックアウトして自分の国に帰って行くところに そのー出会う。彼はまだ真っ白い顔をしてる。日焼けした客は非常に名残惜しそうに、センチメンタルな感じで空港へ向かっていく。それで彼はその島でいろんなことをする。ま、テニスするかもしれないし、ゴルフするかもしれないし、シュノーケルなんかもして、女の子にちょっと恋をしたり。要するに昼は風と波に遊んでもらって、夜は酒に遊んでもらう、という暮らしなんかをする。で、やがて楽しい、そして少し疲れのとれた休暇を終えて、ホテルをチェックアウトする朝、自分が2週間前来た時と同じ様な観光客が白い、ね、顔をして、ホテルのロビーに到着する。彼はもう日焼けしている。で、彼はふと思うわけ。・・・まるで人生みたいだな、と。誰かはチェックインするし、誰かはチェックアウトするし。その間はパラダイスみたいな所で、楽しく恋をしたり酒を飲んだりして過ごす。人生ってそんなもんじゃないかなぁ、と思ったりする彼がいたりする。『SAND CASTLE』から『いつわりの日々』(♪いつわりの日々♪が流れ始める・・・・)
■1984(昭和59)年[31歳] ♪いつわりの日々♪が終って・・・・
音源◆片想い - 丸山圭子 https://youtu.be/9Wte1vDYRes
1984(昭和59)年9月1日 リリース
parole 2015年7月29日(wed) 09:18
「センセイのために!」
「世界平和のために!」
「私自身の宿命転換のために!」休むことも許されず、それ自身を目的として、空しい砂遊びをしています。現世の争いを肯定しながら、自分はそこから一段高いところにいると錯覚し、優越感すら感じています。心からそれが楽しいなら、それでもいいでしょう。でも、我慢して、無理をして、人生をかけてまで、建てては崩す砂のお城にどんな意味があるのでしょうか。学会員の皆さん、手を休めて、自分の頭で考えてみませんか?そして本当の意味で自律した「大人」になりましょうよ。ここに、こんな映画があります。ひまを見つけて、一度見てください。
https://signifie.wordpress.com/2015/07/28/%e4%ba%ba%e9%96%93%e3%81%ae%e6%9c%80%e4%bd%8e%e6%9d%a1%e4%bb%b6%e3%81%af%e8%80%83%e3%81%88%e3%82%8b%e3%81%93%e3%81%a8%e3%81%a7%e3%81%99%e3%80%82/#comment-13587
http://www.uta-net.com/song/78345/
1983 CM詰め合わせ https://youtu.be/u5I5OywmUAI
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┃ 尾崎豊 ┃
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2016(平成28)年05月15日(日)
‡1983(昭和58)年12月01日(木)に尾崎豊のデビューアルバム『17歳の地図』がリリースされました。ぼくも少しだけレコーディングに参加しました。その時の話です。
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1983(昭和58)年09月07日(水)、ぼくは信濃町ソニーの第3スタジオにいた。尾崎豊という17歳の新人アーティストのレコーディングだった。ぼくは何の予備知識も無いままスタジオ入りしたので、尾崎豊という人物のことも、この日レコーディングする曲のことも知らなかった。ぼくが参加した曲のアレンジャーはThe Fuseの町支寛二。ぼくはダビングでの参加だった。ダビングとは、すでにレコーディングされているベーシックなオケに、楽器等を加える作業のことを指す。本当はぼくもリズム録りの段階からピアノで参加する予定だったのだが、どうしてもスケジュールが合わず、ぼくの代わりに西本明くんがピアノを弾いた。この日は「15の夜」という曲に、ハモンド・B3オルガンとグロッケンをダビングした。そしてスタジオで初めて尾崎豊に会った。プロデューサーの須藤晃さんから紹介された尾崎豊は、まだちょっとあどけなさの残るとても礼儀正しい青年だった。彼はこの日スタジオに友達を連れて来ていた。レコーディングの作業の様子を一生懸命友達に説明している姿が微笑ましかった。ぼくはリズム録りが終了した後のダビングでスタジオに行ったので、この日スタジオにいたのは尾崎くんとアレンジャーの町支さん、プロデューサーの須藤さん、そしてエンジニアの助川健さんの数名だけだった。「15の夜」のレコーディングメンバーは以下の通り。
ドラムス:菊池丈夫
ベース:美久月千晴
ギター:町支寛二、佐藤英二
アコースティックピアノ:西本明
ハモンド・オルガン、グロッケン:板倉雅一
テナー・サックス:古村敏比古
パーカッション:川瀬正人 ほぼ浜田省吾バンドと佐野元春バンドの混成メンバーだった。後にドラムの菊池丈夫さんは、浜田省吾の横浜スタジアムで行われたA Placa In The Sunにも参加するが、残念ながら
2004(平成16)年12月20日(月)に永眠した。人としてもドラマーとしても素晴らしい人物だった。ぼくはまだ仮歌の段階のボーカルが入った「15の夜」を聴きながら演奏したのだが、ヘッドホンから聴こえてくるとても魅力的な声と歌の上手さに魅了されていた。他にもぼくは「僕が僕であるために」でもハモンド・B3オルガンを演奏した。間奏のオルガンソロの部分では、ハモンドを鳴らすレスリー・スピーカーにちょっと工夫を施して、独特のサウンドを得る事に成功した。「僕が僕であるために」は素敵な曲だった。一回聴いただけですぐに歌詞も曲も心に響いて来た。そして1985年にリリースされたセカンドアルバム「回帰線」の中の二曲にも参加した。
「Scrap Alley」と「存在」の二曲でアコースティックピアノを弾いた。
「Scrap Alley」と「存在」のレコーディングメンバーは以下の通り。
ドラムス:滝本季延
ベース:江澤宏明
ギター:町支寛二
アコースティックピアノ:板倉雅一
シンセサイザー:福田裕彦、水谷公生
サックス:古村敏比古
パーカッション:石井空太郎
コーラス:ロブバード この時のメンバーは、ほとんど浜田省吾人脈で固められていた。
1984(昭和59)年8月4日(土)、日比谷野外音楽堂で反核のイベント「アトミック・カフェ」が開催された。この日は十数組の出演者が予定されていた。ぼくは浜田省吾&His New Bandでの出演だった。出演者の中には尾崎豊も含まれていた。そして尾崎豊のステージで衝撃的なことが起きた。後に伝説として語り継がれる、高さ7mの照明のイントレからのダイブ事件である。この日、尾崎豊は自分の曲「Scrambling Rock'n'Roll」の間奏の部分で照明のイントレによじ上り、そこからコンクリートで出来たステージに飛び降りた。左足を骨折する重傷だった。ぼく達浜田省吾&His New Bandは野音入りしたのが夜だったため、すでに尾崎豊の出番は終わっていたが、楽屋入りすると関係者も出演者も、みんな口々に尾崎の話で持ち切りだった。騒然とした雰囲気の中で浜田省吾はイベントのトリを努めた。この日の主な主演者は以下の通り。
・THE ROOSTERS
・尾崎豊
・加藤登紀子&センチメンタル・シティ・ロマンス
・タケカワ・ユキヒデ・グループ
・浜田省吾 他
浜田省吾のセットリストは以下の通り。
1. HELLO ROCK&ROLL CITY
2. SILENCE
3. DANCE
4. 愛の世代の前に バンドメンバーが一新して初のステージだった。メンバーは
ドラムス:野口明彦
ベース:江澤宏明
ギター:町支寛二、法田勇虫
キーボード:板倉雅一、岩崎肇
サックス:古村敏比古 ぼくは尾崎くんとはレコーディングミュージシャンとしての関係だけだったが、1990(平成二)年に彼が浜田省吾の所属事務所「Road&Sky」に移籍した際に、ぼくの家に電話をかけて来てくれたことがあった。その頃、ぼくはすでに浜田さんのバンドを離れていたにも関わらず、尾崎くんはわざわざぼくの所にも連絡をくれるような律儀な男だった。電話をくれた尾崎くんは、ぼくに進物を送りたいので住所を教えて欲しいと言った。ぼくはその必要は無いと固辞したのだが、彼はどうしてもと言って聞かなかった。せっかくなので、ぼくは彼の厚意に甘えることにした。尾崎くんはぼくに何が欲しいですか?と聞いた。ぼくは何でも構わないから、どうか気を使わないで欲しいと伝えた。しかし彼は何が欲しいか教えて欲しいと何度も言った。では「ビールが飲みたいのでビールをお願いします」とぼくが言うと、尾崎くんはとても嬉しそうに「分かりました!!」と言った。後日、尾崎くんから進物が送られて来た。早速開封してみると中から出て来たのはビールではなく、何故かコーヒーゼリーの詰め合わせだった。何だか尾崎くんらしいなと思い、ぼくはコーヒーゼリーの詰め合わせを見ながら一人微笑んでいた。
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http://mi-mychronicle.blogspot.com/2016/05/blog-post.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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1987年11月30日~12月01日 日本武道館
http://boowyblog.blog35.fc2.com/blog-entry-375.html
広瀬香美 ♪ロマンスの神様♪http://www.nicovideo.jp/watch/sm9120418
1993(平成五)年12月1日(水)リリース
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%A5%9E%E6%A7%98
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┃ ♪怨み節♪/梶芽衣子『キル・ビル』で30年ぶりに脚光 笑わない名女優 ┃
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|2012(平成24)年 3月25日(日)|スポニチ Sponichi Annex 情報配信
‡|1972(昭和47)年12月 1日(金)|リリース
|1973(昭和48)年 3月?日(?)|★1973(昭和48)年3月ランキング★
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1 学生街の喫茶店/ガロ
2 女のねがい/宮史郎とぴんからトリオ
3 中学三年生/森昌子
4 ひなげしの花/アグネス・チャン
5 女のみち/宮史郎とぴんからトリオ
6 怨み節/梶芽衣子
7 愛への出発(スタート)/郷ひろみ
8 若草の髪かざり/チェリッシュ
9 春のおとずれ/小柳ルミ子
10 円山・花町・母の町/三善英史
注目同棲時代/大信田礼子
※ランキングは当時のレコード売り上げ、有線放送、ラジオ、テレビのベストテン番組などの順位を参考に、話題性を加味してスポニチアネックスが独自に決定。
【怨み節/梶芽衣子】03年10月に公開された、クエンティン・タランティーノ監督の映画「キル・ビル」。この中で日本人女性が歌った2曲が挿入歌として使われている。情念たっぷりに歌い上げているのは、日本の名女優梶芽衣子。72年、梶主演の映画「女囚さそり」シリーズの挿入歌「怨み節」と翌73年公開の「修羅雪姫」の主題歌「修羅の花」がそれ。梶の映画を鑑賞し大ファンになったタランティーノ監督が、大いに影響を受けて撮った作品が「キル・ビル」。梶へのオマージュから生まれたと言っていい作品だった。40代以上の人にとっては「懐かしい」2曲だが、キル・ビルを観るような若者には、誰の歌だかさっぱり分からない。映画会社には問い合わせが殺到し、それを聞いた梶もびっくり。「どこでどう使うかは聞かされていなかった。お役に立つならどうぞ」と軽い気持ちで使用を許諾したが、30年ぶりに脚光を浴びたことでレコード会社も再発売をすることになった。37万枚のレコードをセールスした「怨み節」は、梶の最大のヒット曲。当時、生意気、わがまま、笑わないなどと評されていた梶のイメージをさらに増幅させたのが「さそり」シリーズの4本の映画だった。恋人に裏切られ、おまけにいわれなき罪で刑務所に収監された松島ナミの復讐劇を描いた作品。梶はナミのキャラクターについて一つの考えがあった。映画ではリンチやひどい仕打ちがこれでもか、というくらい繰り返されるが、「騒いだり、わめいたりするよりも、何もしゃべらない方が不気味で怖い。主役がセリフなしっていうのもおもしろい」と、監督に提案した。さすがにセリフなし、というわけにはいかなかったが、極端に口を開くことを抑え、目の動きや表情でナミの怨念を表現した。その分、ナミの心情を余すところなく語る役目を果たしたのが、「怨み節」という挿入歌だった。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B6%E8%8A%BD%E8%A1%A3%E5%AD%90
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/03/kiji/K20120325002888980.html
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〝今〟という現実にむきあいながら〝明日〟の見えない若者の心情をそのままに反映したアルバムだった・・・はっぴいえんどのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』制作秘話
2015(平成27)年08月05日(水) 執筆者:小倉エージ
1970(昭和45)年08月05日(水)、はっぴいえんどのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』が発表された。林静一が手がけたアルバム・カバーに描かれた製麺所の看板にちなんで後に「ゆでめん」と称されることになる。70年の4月以来、岡林信康の『見る前に跳べ』への参加をきっかけに岡林のライブでバックを務める一方、独自の活動を始めていたはっぴいえんどは、アルバム発表直後の
1970(昭和45)年08月09日(日)、岐阜県の糀の湖で開催された第2回全日本フォーク・ジャンボリーに出演し、岡林信康のバックを務めると同時に彼ら自身の演奏を披露した。「朝」を幕開けに♪12月の雨の日♪、「春よ来い」など「ゆでめん」からの主要曲に加え、遠藤賢司の「雨上がりの街」を演奏したが、
‡♪12月の雨の日♪の冒頭で大滝詠一が「暑くてやりにくいんですけど」と触れているように、収録された作品の大半が〝冬〟を背景にした作品が収録された「ゆでめん」の記念すべきお披露目のステージにしてはいささか不似合なものだった。前後して「ゆでめん」からの作品はラジオで放送されはじめたが、やはり暑い夏の真っ盛りだっただけにそれもまたいささか不似合なものだった。おまけに〝(音が)ひきずるように重い音!〟、〝歌詞が聞き取りにくい〟といった声も耳にするなど、当初「ゆでめん」の評判は芳しくはなかった。音楽誌での評価も様々だったが、岡林信康との共演や独自のライヴ活動、加えてURC初期の作品がそうだったように東京の最新情報を伝える各地の放送局の番組などを通じてはっぴいえんどと「ゆでめん」の評価は高まり、翌年のニューミュージック・マガジン(現ミュージック・マガジン)の4月号で日本のロック部門の1位に選出された。〝日本語のロック論争〟の発端のひとつになったものだが、それでもはっぴいえんどの存在は日本のフォーク、ロックを知るファン層に限られていた。日本のロック史、日本のポピューラ・ミュージック史における重要な存在としてその業績、影響などが一般に知られるようになったのは、「ゆでめん」の発表から10年以上を経てのことだった。私が細野晴臣に出会ったのは新宿の花園神社近くにあった「パニック」にエイプリル・フールの一員として出演していた時のことだった。初めての出会いにも関わらず、好んだ音楽が似通っていたことを知り、話が弾んだ。その際、エイプリル・フールの解散と新しいバンドの結成の話を教えられた。それは「バッファロー・スプリングフィールドやモビー・グレイプみたいなバンド!」というものだった。アート音楽出版に勤務しURCの制作を担当し、どうしてもロック・バンドのアルバムを制作したかった私にとってはそれこそ望んでいたものだった。細野晴臣のその言葉、好きなグループやアルバム、作品についての会話から得た細野晴臣への信頼こそが、すべてのはじまりだった。そして無謀にも細野晴臣が結成するバンドの作品や演奏を聞かないまま、レコーディングの話を進めた。そのメンバーは細野晴臣と同じくエイプリル・フールの一員だった松本隆。当初、ヴォーカルでの参加を予定されながらロック・ミュージカル『ヘアー』への出演が決まった小坂忠にとって代わって参加することになった大滝詠一。「ゆでめん」の録音が終了するまで進学かそれともプロのミュージシャンになるか決めかねていた鈴木茂。URCの制作を担当していた私は、当然、4人の経歴、音楽的な背景や結成の経緯を知っておくべきだったはずだが、それを怠っていた。それを知ったのは「ゆでめん」を制作して後、音楽誌に掲載された彼らのインタビューでのことだ。それよりも彼らが目指す音作りや音楽性について確認し、具現化することにしか関心がなかった。細野晴臣だけでなく松本隆、大滝詠一と拠り所にしたグループのアルバム、作品についての入念な会話を交わすことが重要であり、それ以外は必要もなかったからだ。はじめて彼らの作品、演奏を耳にしたのはレコーディングの実現の為に必要なデモ・テープを制作した時のことだ。大滝詠一によれば彼らの演奏を耳にしながら私は終始うつむいたままで、バッファロー・スプリングフィールドの「ブルバード」のコピー演奏を耳にして初めて反応したということだが、「ブルーバード」の演奏を耳にして演奏の技量を確認し、録音が可能なことを確信した。録音にあたって日本語のオリジナルであることを必須の条件とした私にとって、彼らの作品はそれを満たすものだったが、明らかに習作の段階であり、実際、「春よ来い」がほぼ完成していた以外、
‡♪12月の雨の日♪は「雨上がり」の段階であり、「足跡」が「田舎のコーヒー屋にて」を経て録音時に「かくれんぼ」となったように、リハーサルを重ねるうちに作品の歌詞、メロディーは修正が施され、タイトルが改められていった。
1970(昭和45)年03月18日(水)、麻布のアオイ・スタジオで初めてのレコーディングが実施された。URCは制作予算の関係から録音は使用料の安価な夜半を中心とし、ハウス・エンジニアの起用が基本方針だったが、はっぴいえんどの初回の録音ではメンバーの要望から吉田美奈子の兄で、当時は東芝EMIで様々な録音を担当していて吉田保があたった。もっとも、その日の録音は芳しくなく、キャンセルせざるを得なかった。最初の録音がキャンセルとなって後、
1970(昭和45)年04月09日(木)から新たに録音にとりかかった。その様子については「定本はっぴいえんど」を始め、メンバーが様々に語ってきているが、いくらか誤認もあり、それを訂正すべくレコード・コレクターズ誌2015年1月号の「特集はっぴいえんど」での拙稿「「ゆでめん」が出来るまで」で記してきた。彼らが目指した音作り、録音への取り組みについて触れたものだ。音作りもさることながら、作品そのもの、歌唱や演奏を見逃すことが出来ない。〝お正月〟〝こたつ〟〝お雑煮〟〝歌留多〟といった日本の正月の光景を描いた意表をついた歌詞が衝撃的だった「春よ来い」。家を飛び出てひとり暮らす若者の姿は、即座に永島慎二の「漫画家残酷物語」を思い浮かべずにはいられない。それが掲載された劇画誌の「ガロ」こそは60年代末期、何かを求める若者にとって欠かせないもののひとつだった。さらに「12月の雨の日」は、そこに描かれた雨の日の情景が所在のない若者の心情が浮かび上がる。松本隆は「はっぴいえんどにはほとんどラヴ・ソングが無い。でも、ラヴ・ソングの少なさにもかかわらず、はっぴいえんどが普遍的に皆に支持されてるって言うのは、画期的だと思う。あれだけラヴ・ソングが少ないバンドって、かつてなかったと思うし、これからも出てこないと思う」と語る。その例外としてあげられる「かくれんぼ」は男女間の心情の隔たりを描いたもので、当時、ほとんどないシチュエーションだった。そればかりか、その背景に垣間見られる雪景色から、つげ義春的な世界が思い浮かぶ。例外的なもうひとつのラヴ・ソング「朝」では男女間の在り様、恋人の存在を観察する男の心情の描写が興味深い。いずれも大滝詠一が曲を書き、ヴォーカルを担当した。ロック・ヴォーカルにとって不可欠とされたシャウトにとって代わる〝唸り〟の表現、一方で滑らかなクルーナー・スタイルでの取り組みなど、大滝の歌唱はすでに独自性を明らかにしている。自身が作詞、作曲を手がけた「いらいら」でもパワフルな唸りを聞かせている。作曲に対する姿勢、考えはまだ曖昧ななままで、それ以上に〝自分の声〟を見つけ出せなかったという細野晴臣だが、松本隆による都会の冬の雪の情景を描いた「しんしんしん」、〝音〟と意味の重なる語呂合わせに凝った「あやかしのどうぶつえん」や前衛詩的な「敵 タナトスを想起せよ」など、松本隆の歌詞に即したメロディーを手がけ、自身が作詞、作曲を手がけた「飛べない空」では批評性をのぞかせている。さらに〝しあわせなんて どう終わるかじゃない、どう始めるかだぜ、しあわせなんて何を持ってるかじゃない、何を欲しがるかだぜ〟という松本隆が手がけた歌詞が印象深い「はっぴいえんど」の作品としての説得力と重厚さは白眉というにふさわしい。鈴木茂はまだ作詞、作曲を手掛けるにいたらなかったが、
‡♪12月の雨の日♪の鮮烈なリード・ギターを始め、歌を生かし、反映したギター演奏で大きな役割を担っていた。さらに細野晴臣のベースやキーボード、松本隆のキック・ドラム、また16ビートのニュアンスを生かしたトップ・キット・ワークなど、演奏面での充実も見逃せない。2トラックからはじまり、楽器、歌、コーラスのダビング作業の多さから4トラックに移行し、それも4トラックの録音機は一台しかなく2、4トラックの録音機材を駆使しながら録音作業を進めたが、その手法は手探りだった。楽器の分離などの明瞭さにはかける音の塊、ひきずるような重さのものになったが、それが結果として重厚さ、ガッツのある〝音〟を生み出すことになった。「ゆでめん」は、〝今〟という現実にむきあいながら〝明日〟の見えない若者の心情をそのままに反映したアルバムだった。自分探しのアルバムでもあった。さらにその背景には60年代末と言う時代の空気が見え隠れする。他に比較できるものがない画期的なアルバムだった。発表から45年を経た今、懐かしさを覚える人は少なくないはずだ。発表当時もさることながら後年になったその真価が問われ、評価が一層高まることになったのは、作品自体が持つ普遍性によるのは明らかだ。今なお魅力のつきないアルバムである。
http://music-calendar.jp/2015080501