■1981(昭和56)年/BOOWY COMPLETE/LIVE DATA
「暴威」としての活動をシステムに認知させる逆襲。彼らはリハーサルを繰り返し、氷室と布袋は次々に作品を創り出していく。 オフィスとの交渉は氷室がそのほとんどを受け負った。今度は1人ではない自分達の為に。布袋はバンドのスタイルを模索する。テレビやメディアに犯される事なく存在した当時のシーンは巨大なセールスこそ生み出さなかったけれども、 だからこそ様々なスタイルの才能達で溢れ返っていた。プラスティックス、P・モデル、ヒカシュー、アナーキー、ルースターズ、ARB、モッズ、 ノーコメンツ、シネマ、ピンナップス。続々とメジャーデビューし、インディペンデントのシーンも合わせると都市(まち)のどこかで毎晩コンセプシャルなイベントや ギグがくりひろげられていた。バックボーンとしてイギリスのシーンをベースに考える布袋はビートとメロディ、 あたり前の事だけれどもその2つを大きなテーマに鋭角的なスタイル、そこにサックスをのせた、例えばデキシーミッドナイトランナーズの要素をよりスピード感やひねくれたセンスで まとめていく事を考えていた。現実的には氷室と布袋の蓄積していたメロディとアイデアの洪水の中で、様々なスタイルが実験され、時には一貫性を見失う事もあったけれども、 精力的な彼らのリハーサルによりそれぞれの個性をベースに次々にオリジナリティ溢れる作品がまとめあげられていった。 彼らはその活動の中期から後期にかけてあまり、リハーサルの時間をとらなくなっていく。 その事からもいかにこの時期のリハーサルでBOOWYとしてのベースを創り上げてしまったかが計り知れる。
5月11日からは新宿LOFTにワンマンで登場、いよいよライヴシーンにあっても彼らの軌跡はスタートするが、 この時はまだ目で追って数えきれる程の客席でしかなかった。 それでも彼らの演奏はキレまくっていた。口コミでその噂は徐々に広がってゆく-。氷室の挑戦も実を結びいよいよレコーディングのスケジュールが出された時、メンバーの中で木村だけが自分の志向を含め、メンバーになる時に提示した条件をここで切り出す事を決意する。 自分はドラマーとしてではなくプロデュースワークをビジネスにして行きたい事。 氷室、布袋、松井をはじめとして個性の強い個々を外部から支える。 まずはじめのプロデュースワークを彼ら(BOOWY)と共に行なっていきたい事。 つまりドラムスとしてのメンバーから身を引きたいという事であった。 氷室にとってきつい時期の理解者であった木村の協力を感謝こそすれ、約束であったその事を反古にする事を押し切れない彼らには、 ドラムスに関しては新メンバーを探すより他に手は無かった。 年令的にもやや年上の木村は、パンクスをはじめとするアクティヴなスタイルよりもよりテクニックを重視したタイプでもあったし、 音のスタイルからいってもそれは正しい選択だったかも知れない。転がり始めた運命はもはや停止する事はなかった。新宿LOFTでの出会いの中にうってつけの男がいた。高橋まこと-福島出身の彼は東北地方で幾つものバンドを掛け持ち、進学校からのコースをキャンセルし、ドラムと仲間と共に上京。 丁度彼のバンドが活動停止を決めた3日後に偶然LOFTでの暴威初ライヴの場に仲間と共に居合わせていたのだった。 形式上数人のオーディションを行なったものの、1番はじめに「IMAGE DOWN」のカウントを叫んだ高橋に、まるで当然のようにドラムスという ポジションは決定する。松井恒松とのコンビによる、後に言うBOOWY BEATがここで完成へのセットアップを見る。 後にも先にもたった1度の合宿でのリハーサルで、暴威はより暴威へとかたまっていった。
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■1982(昭和57)年 /BOOWY COMPLETE/LIVE DATA
レコーディングは前年の夏に終了していた。作品はそれ以降も増え続け、気の早い彼らが誰にも負けない自信を既に持ち始めていたにもかかわらず、 作品はその年にリリースされる事はなかった。 プロダクションの引いた路線を蹴ったボーカリストがつくったバンドを、実のところシステムは少しも期待していなかったのかも知れない。 鬱憤を晴らす様にライヴを繰り返す彼らは、それらをエネルギーに変えて短期間にものすごい早さで成長をとげていた。 時代のコピーから既にそれは彼らだけのオリジナルへと姿を変え、追いかける形ではなく創造していくというポジションから作品は生れていた。 少しづつ増え続ける彼らのファンは彼らと同じ様なスタイルを真似しはじめ、彼らの使うハードなヘアスプレイを探し始めたりもした。そしてこの年
3月21日に彼らのデビューアルバム「MORAL」がリリースされる。とにかく作品がリリースされる事への喜びは何にもまして大きかったけれども、発売された作品のキャッチコピーを見てメンバーは愕然とする。 「エアロスミスとサザンとアナーキーを足して3で割ったバンド」「ラストパンクヒーロー」-確かにその頃の暴威のファンといえば 彼らの音楽に反体制的なリアクションを求める者達が多かった。けれども本質的なところでいえば上辺だけのポリティカルな要素を彼らは信じていなかったし、 その事をテーマに作品を創った事はまだ1度も無かった。 実際のシーンとは別の次元でメディア的に捉えられたパンクスというムーヴメントの中に、彼らは商業的に組み込まれようとしている作為を感じた。 レコーディングが終わり、作品が発売になるまでの間に、既に彼らはメディアが捉えるパンクスを飛び越え、もう一歩先に行っていたから、再びそのギャップは精神的にかなりこたえた。O(空集合) 何処にも属さない。過激なイメージの暴威を捨て、願いを込めてスペリングしたBOOWY。レコーディングの終了とほぼ時を同じくして変えたそのバンド名表記のニュアンスも彼らがひねろうとした方向とは全く逆か、 もしくは全く意味の無いところへ着地してしまっていた。布袋はチェンジコスチュームを提案する。本来発売になったアルバムを持ってそのイメージの増幅でセールスを拡大していくべきところを彼らは再び別の方法で動いていく事をチョイスする。 それはリリースされるまでの期間で彼らの音楽性が急激に変化した事も原因しているかも知れなかったけれども、更に大きな事は出したばかりの作品が既に古いものに感じられてしまう程、 彼らの変化は現在も続いている事だった。 自分達の作品をコーディネイトする何かに縛られない為に、より自分達は自分達らしく、自分達だけでいる為に。 -けれどもそんなBOOWYのものすごい早さで変わって行こうとする才能に初期のファンは戸惑いを見せ始め、 そしてそれはメンバーの諸星と深沢にも同じ事が言えた。そんな状況の中、これと信じる自分達のスタンスを許そうとしない周囲の状況に、布袋はその息苦しさから脱する為の提案をした。
9月9日の渋谷PARCO PARTIIでのステージからイメージ・方向性をガラリと変えてしまう事、後に2nd アルバムとなる「INSTANT LOVE」へのポップな要素へ、 黒づくめのイメージからもっとカラフルでビビッドなモノへ、選曲も「MORAL」を中心でなく新しい作品をメインにしたものへ-。ファンの反応は予想以上に冷たく、後の
10月9日 LOFT でのライヴを最後に深沢と諸星も正式に脱退を表明。残った彼らは、けれでも後悔はみじんも無かった。 共鳴して信じる事に忠実でいる事、何か別の事の為に音楽をしているのではないという自負がこの時はっきりと4人には理解できていた。誰にも似ていない、何処にも属さない。まだ理解者の少なかった時代。けれでも、その時のメンバーはそのままの顔ぶれで '88年まで突き進む事となる。 自分達の事を自分達でプロデュースする為にゼイ肉のとれたコンセプトは「O-con-nection」へと形を変える。 マネージャーにやはり当時の仲間だった土屋を加え、プライベートオフィスを彼らは持つ事を決意する。
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■1983(昭和58)年 /BOOWY COMPLETE/LIVE DATA
プライベートオフィスという響きには満足できるものがあった。アンダーグラウンドなシーンやロンドンに目を移しても、そういった形態をとっているアーティストも沢山いたし、 何よりもそこを拠点に新しい出来事が生まれてきそうなニュアンスが感じられる気がした。実際はレコード会社に助けられているモノ、大手の会社の出資体系の中で活動を続けるモノ、 といろいろなスタイルで維持している所が多い中、実情としてのO-con-nection は社会的に見れば最低の位置にランクすると言っても過言ではなかった。
ビジネスとして成立する可能性を追求されていないロックンロールシーン。 プロダクションのプランニングから自ら外れていった連中を支えるオフィス。 権利など何ひとつ持てない中、彼らは野心だけで戦っていく他何の術もない。 彼らは土屋の持っていたスタジオのある高円寺にまず、O-con-nection としてのスペースを借りた。
事務引き継ぎも何も無い中、レコード会社側からしてみれば発売されたレコードのプロモーションも思うようにやれず、レコードは宙に浮き、そしてBOOWYの事は誰も口にしなくなって行く。 プロデュースを引き受けた木村は次のレコード会社を探し始め、土屋はとにかく彼らの事が正しく大衆に伝わる為の方法で頭を痛めた。 予算はどこにもない。手作りのチラシ、ポスター、キャラクターグッズ、そして楽器とメンバー、スタッフを詰め込んだボロボロのハイエースで、 とにかくステージを求めて全国を回った。暑い夏の九州への旅、きかないクーラーを手助けする為に車じゅうにアルミをはって熱を反射させて涼をとる。 3万人のイベントにブッキングしギャラが野菜でイベントは村祭りだったりした事もあった。北海道をのぞく数々の街を彼らはそのハイエースで回る。 1泊1,200円の京都の宿、九州のラヴホテルのザコ寝に、四国のキチン宿、車を追いかけてくるファンを重量オーバーのハイエースはいつも必死にまき続ける。 追いかけられる事がつらい訳ではない。宿泊している場所を知られたくない為に-。 それでもメンバー達は満足していたし、その事も含めた全てを楽しんでいた。
ステージはいつも最高。そして生のリアクションがいつでも身の回りには溢れかえっていた。売れるとか売れないとかの次元とは全く別の価値観が彼らを支え、 より深い自信へとつながっていった。彼らをよぶストリートな組織は少しずつネットワークされ、動員はどの街でも増え続けていた。 レコードにさえなっていない彼らのナンバーは録音されたライヴハウスでの、テープでの取り引きでうたわれ、どこの雑誌にも載っていない彼らのスタイルを真似し始める連中が全国の とがったアンテナを持つ若者の間で増え始めていた。
組織にまるで期待されていない彼らの情報は中央のマスコミにはほとんどなく、またオフィスに縛られない彼らのスケジュールはシメキリというモノを持っていなかった。 木村の用意した2つ目のレコード会社、ジャパンレコードにおける「INSTANT LOVE」のレコーディングもそんなタイムテーブルの元で進行していた。 本来ならば期間を決めて進められるその作業はプロダクションの持っているスタジオの空き時間を使って御自由にどうぞというものだった。 考えられない方法論ではあったけれどもその時の彼らにはそれがマッチしていた。 布袋をプロデューサーに、メンバー4人のアイデアが気の向くままテープに吸い込まれて行く。作品自体の一貫したクウォリティはともかく、彼らはレコーディングにおいても自分達というものを 音にして行く為のレッスンをこの時期、自然に身につけてゆく事に結果的にはなる。
リリースという形できられる事のなかったシングル「FUNNY-BOY」が新宿有線で3週連続1位になり、ライヴハウスが超満員になろうとも、 組織はまだBOOWYを発見できず、しかも契約したばかりのジャパンレコードが徳間音工に吸収され、またもや事務的な全ての予算がカット、見え易いポジションから更にベールをかけられようとも、 彼らを必要とするシーンは確実に広がりつつあった。そして土屋はこれ以上の所へ行く為には、それでも大きなシステムとのコンビネーションワークが必要な事を身をもって知り始めていた。
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■1984(昭和59)年/BOOWY COMPLETE/LIVE DATA
写真週刊誌「FRIDAY」が創刊され、よりスキャンダラスな事件に大衆は興味を示し、VTRデッキやVTRカメラはいよいよ一家に1台の時をむかえる。 最も精力的にライヴハウスツアーを行なったこの年。現在でも通信販売等で違法にやりとりされているBOOWYの海賊VTRもこの年に撮影されたと思われるモノが多い。 東京においても3月にはフランチャイズであるLOFTでの2Daysをはじめ、幾つもの学園祭やストリートシーンの企画するイベントにも多々登場する。 メジャーと契約しながらもメディアに載らない彼らの知名度は公式には低く、イベントはほとんどがトップでの登場だったけれど、トリでなければトップを彼らは好んでいたフシもある。
「頭ですごいのをいっぱつ」実際全てがその通りになった。彼ら以外の誰かを目アテにしていた連中もその「頭ですごいの」を1発くらって、数曲目でBOOWYのビートとメロディに踊り、 その日の帰り道から彼らのファンになっていた。ルックスやビジュアルだけで判断してしまうようになった'90年のバンドブームに比べ、当時は必ずそこにポリシーや音楽性を投影させ、 人々がコンサート会場に足を運んでいたけれども、理屈やてらいを確かに1発でふき飛ばすエネルギーをBOOWYはステージで身構えた刹那から発散し続けていた。 後のインタビューでもメンバーは語っている。
「イベントはもう勝つっきゃないっていうかさ……来てる連中を全て俺らのものにしてみせるとか思ってたよね。だってさ、あの頃の俺達にできる事っていうのはそういう事でしか無かったからさ。 したり顔の大人達ってのは振り向くどころか何もしちゃくれないんだからさ、自分の事は自分でしなくちゃね(笑)」
ツアーやシリーズのコンセプトも「アフロカビリー」から「ビートエモーション」へとタイトルを変え、
3月30、31日のLOFT2Days「BEAT EMOTION~すべてはけじめをつけてから」を最後に、 それ以後は当時都内で最大規模を誇るライヴハウス「渋谷ライヴイン」をフランチャイズとするシリーズギグが基本的には月1回のペースで行なわれ、
10月27日「BEAT EMOTIONV」までその地で続く事となる。 相変らずハイエースで回る地方ツアーもこの年4回行なわれ、全てのエリアでその街最大規模でのライヴハウスツアーとなる。 東京ではライヴインに1,200人を超す動員のレコードをつくり、徐々に音楽業界の人間が彼らの回りに見え隠れし始め、 本当の意味でのメジャーとの合体を自分達のスタンスを変えずに進めていける事を感じ始めたけれども、メンバーはいたってクールにふるまっていた。 うまい話の裏側を彼らはよく知っていたし、売れていく事よりも自分達が別の何かに犯されていく事はもう何があっても我慢できる事であるはずはなかった。 けれども、そんな意志とは裏腹に状況は彼らをほっておく事を許さず、土屋は数人の業界人とミーティングを持った。LOFTの詰め込まれすぎた群集の中でひとつだけゆれる事なくジッと彼らの事を最後まで見つめていた目があった事を憶えていた。 そしてその男、後藤由多加のオフィスであるユイ音楽工房のスタッフとも、名古屋の東海ラジオの名物ディレクター、加藤ヨサオ氏から紹介され、地方で東京で最も頻繁にお茶を飲み、 土屋は徐々に傾倒し、メンバーにも紹介した男がプロデューサー糟谷銑司であった。糟谷も後藤と同じく、他の業界人とは明らかに違っていた。 旨い話をするでもなく、ほめちぎる訳でもなく、ただ彼はライヴに足を運ぶ度に彼のブレーンを同席させ意見を交換している様だった。 フォークを創り上げ、ニューミュージックへとシーンを動かした男たち、それがユイ音楽工房のイメージではあったけれども、ロックンロールを手掛けているという話はあまり聞いた事はなかった。 しかし、創り上げる音楽のスタイルではなく、シーンを生き抜いてゆく生き様に何か共通したモノを土屋は感じ始めていた。 10月7日、氷室の24回目の誕生日の席で土屋はユイ音楽工房との契約を提案する。「好きな様にやっていけるならいいな。」 そう話すメンバーの中で氷室だけがこっそりと言った。「騙されてもいい覚悟でやるなら俺はいい。泣きを見てお前が俺達にグチをこぼさないのなら-」レコード会社は2度目の移籍。糟谷と何度もライヴハウスに足を運んでいたディレクターのいる東芝EMI。'84年彼らは2つの大きな組織と契約を交し、
12月7日山形ミュージック・ショーワのスケジュールを最後にライヴ活動を停止。 これは突っ走ってきたこれまでを振り返る充電期間でもあったが、そしてまた半年のブランクの後、どんな始まりをむかえるかの1つ目の大きな賭けでもあった。
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■1985(昭和60)年 /BOOWYCOMPLETE/LIVE DATA
時代はアナログレコードからCDへの移行を確実に準備し始める。 テレビの番組では過熱しすぎるやらせ問題でとうとう逮捕者さえも出しながら、作られたアイドル達がウィークリーのベスト10のランキング入りを目指し笑顔をふりまいていた。 BOOWYは正式な契約を受け、
2月24日朝レコーディングの為ベルリンのハンザトンスタジオへと飛び立っていった。 年末から続いたミーティングの席で彼らはディレクターの子安次郎氏を紹介され、初のシステマチックなレコーディングに向け、プロデューサーを立てて制作していく方向性を決める。 数名の候補の中からメンバー全体の意志は尊重され、元四人囃子、プラスティックスに在籍した佐久間正英氏にその旨はオファーされ、佐久間氏からの答えの条件のひとつがハンザトンスタジオでのレコーディングだった。 メンバーは目を見張った。デビッド・ボウイなどのアーチストが音を創り出したハンザトンスタジオである。 彼らだけのエリアで発案し続けてきた中に初めて、より彼らを巨大にする為の前向きなアイデアが外部からあった。 その事の喜び以上に思いは既にベルリンに飛び、ライヴを繰り返す中で生まれた沢山の楽曲の整理に氷室と布袋は追われた。 約2週間程の短かい滞在ではあったが車で21時間かけて到着した九州への所要時間と同じ長さで到着したそのドイツの街は、 レコーディングを通じそれぞれのメンバーの中に様々な思いやエッセンスを生むのに十分すぎる刺激を持った場所であった。 そのスケジュールの後、メンバーはロンドンへと立ち寄る。地元のコーディネーターの協力を得て、あのマーキークラブでのギグがセッティングされていたのだ。 街中には彼らのポスターが溢れ、彼らがコピーした方法論のオリジナルな文化を持つ街に彼らは楽器をかかえ到着する。 ギグの反応は好意的、且つ熱狂的。彼らはオリエンタルな要素を無理に加えるでも無く全くの日本語で、そしてLOFTでライヴインでプレイしたのと全く同じスタイルでマーキーのステージに立ったのだ。 彼らの強さは憧れの街を東京の夜と同じ夜に変えた。事実足を運んでいた幾つかのエージェントにヨーロッパでのツアーを提案されたりもした。 客席には様々な関係者がまぎれている様子だったが彼らの興味は改めて様々なプランの待つ日本へと、心は飛んでいた。まずはそこを何とかしなければいけない実体の無かった部分のキャリアは、ベルリンとロンドンで確実に彼らの中で彼らのテーマを整理させていた。 ここからが本当の始まりになる。何となく不確かだったポイントはその時初めて彼らを確実なスタートラインに心身共にのせていた。 浮かれていた要素を排除した時、彼らの目指すものはやはりまず日本でしかない。 帰国の数日後、東京での5ヶ月振りのライヴが彼らを待っていた。それも初めて彼らの名前がクレジットされた招待状がマスコミに配られ、 場所もライヴインではなく赤坂のラフォーレミュージアムである。チケットはソールドアウトしたという情報の中で新しい始まりに向けて彼らが再び牙をむき出しにする時を待っている。アルバムのタイトルは何のギミックもない、そのバンド名と同じ「BOOWY」。先がけてシングル「ホンキートンキークレイジー」もリリースされる。 アルバムのタイトルに思いを込めて、彼らは新しい戦いの地へと戻っていく。ラフォーレの成功を受け、アルバムの発売を期に彼らは早速アクティヴに動き始める。 周囲のほとんどの反対を押し切り
6月25日渋谷公会堂でのギグを発表。動員も含め否定的な声の中で発売されたチケットはすぐに売り切れ、僅かに用意された当日券も長蛇の列。 チケットを手に入れる事のできないオーディエンスを生み、ここからコンサートにおける倍々ゲームの幕が切って落とされる事となる。
8月22日「BAD FEELIN’/NO.N.Y.」のカップリングで12インチシングルを発売。更に10月から始められる次回作のレコーディングの為に、氷室と布袋によって30曲という大量の曲が用意され、 この中から11曲に絞り込まれた。再び佐久間氏をむかえ、
10月24日から山中湖ミュージックインスタジオにてレコーディングをスタートさせた。 ベルリンを体験し、ロンドンに足を運んだ彼らの、原点に戻ったからこそ生み出されたアイデアは言葉にも音創りにも新しい形として影響を与え、作業は順調に進む。 そして
12月24日クリスマスイヴの夜、BOOWYは圧倒的なリクエストに答え再び渋谷公会堂のステージに立つ。 ここでもまた彼らはただのアイドルでは絶対にやれない事、ましてや売れて行こうとする者達が必ず伏せてしまう事を堂々と発表する。 -ギタリスト布袋寅泰の山下久美子との結婚-。発表にあたってメンバーからは反対どころか過激な祝福を受け、彼らは自分達のステージのアンコールで新婦をステージに迎え入れた。 そしてそれ以後、12月24日の渋谷公会堂が恒例化する。それは既成のシーンの判断に左右されないという彼らの決意表明でもあった。 そして
12月27日彼らは既にレコーディングが終了している4枚目のアルバムのトラックダウンの為、再びベルリンに向けて旅立っていった。
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■1986(昭和61)年 JUST A HERO/BOOWY COMPLETE/LIVE DATA
彼らの活動のペースは変らない。TDを終えた彼らには渋谷公会堂の追加公演として用意された中野サンプラザでのギグが待っていた。 チケットはここでも発売と同時に即日ソールドアウト。熱狂ぶりに拍車がかかり、ロックンロールマガジンでもカヴァーを彼らが飾り始める。 今までの、状況として恵まれる事のなかった空白を全て埋めつくして余りあるかのごとく、もしくはやがてくる終章へ向けて生き急ぐようにそのアイデアは具体化され、彼らが用意した答え以上の回答がそれら全てに用意され始めていた。シーンは振り向き、彼らのプランニングは全て具体的に現実と一致、ロックンロールマガジンは時代が彼らに追いつき始めたと書き立て、 活字媒体の中で彼らのパブリックイメージはいよいよ増幅しようとしていた。 けれどもそのイメージも含め、彼らにはまだ確実にそのイメージに対してジャッジメントできる範囲の中でのキャパシティであったから、マガジンに対してのスタンスもまだ何処か楽しめる要素の多い事でもあった。
2月1日には常にファンの間のフェイバリットソングとして上位5曲に顔を出す「わがままジュリエット」をリリース。そして
3月1日には4枚目のアルバム「JUST A HERO」をリリースする。その作品は発売と当時についにチャート誌全てにランクインされた。業界の人間にとって何処からどうして出てきたのか分析のできないアーティストの作品が初登場で4位にランクインした事を誰もが驚愕したが、 その作品を聴いて更に腰を抜かしてしまう。ベルリン体験を経た彼らのアプローチが100%その作品の中でメロディとビートを核に再現されていたのだ。 レコーディングの方法、メロディと歌詞の組み合わせ、そしてロックンロールをニューウェイヴとして捉えたオリジナルなスタイルへの帰結-。 彼らがバックボーンにしてきた全ての要素、全てのジャンルのエッセンスが完璧にまとめ上げられ、それでいてそれら全ては聴き易く、わかり易く完成されていたのだ。 いよいよアナログレコードはCDへと形を変え、その特性を全て彼らなりに解釈した答えが、その作品には空間として存在しえていた。 彼らは更に今までの歴史を1本のフィルムにまとめ、自らをゲストに全国のライヴハウス、イベントホールでフィルムイベントを敢行。 オーディエンスとの距離感に絶対の自信を持つ彼ららしいプランが楽器を手にしないスタイルで実現。 そしてそれを受ける形で
3月24日の青山スパイラルホールを皮切りに「JUST A HERO TOUR」を全国の大ホールでスタートさせる.チケットはどこも発売と同時にソールドアウト。ダフ屋がどこへ行ってもうろつき始め、業界全体がいよいよロックンロールバンドでのビジネスを成立させる事を考え始める。 そして
7月2日彼らはツアーの最終日についに日本武道館を制覇する。 熱狂するオーディエンスに向けて氷室が放った「日本一大きなライヴハウス武道館へようこそ!」が話題を呼ぶと同時に彼らの意志とは関係なく、 彼らが追う立場ではなく、追われる立場に、そしてその音楽・方法論さえも業界に狙われていく立場へと変っていく事をそれは意味していた。
7月5日、初のミュージックビデオ「BOOWY VIDEO」をリリース。
7月31日には武道館でのライヴをCD「GIGS」としてリリース。ライヴ物はセールスにつながらないという定説をふき飛ばし、 限定10万枚をあっという間にソールドアウトし、そのCDの中で再現される氷室のMCと共に彼らは名実共にNO.1の座へとかけ上がろうとしていた。
夏のオムニバスイベントでは相変わらずの強さを見せつけ、新宿都有3号地(現在の東京都庁あたり)で嵐の中行なわれたイベントには、山下久美子をはじめ吉川晃司、大沢誉志幸らをゲストに迎え、 自分達のプログラムはもとより、ゲストのパートさえも彼らが演奏を行なうというロングイベントを敢行。 嵐の中、ビルの谷間のロックンロールパーティーはこの年、NHKでオンエアされる事となる。様々なプランをクリアしながらも彼らは全ての始まりともなる作品の制作にも手を緩める事は無く、 この年の
9月29日には彼らにとって4枚目のシングルに当たる「B・BLUE」を発表。 これはテレビのベスト10番組にチャートインするが、番組への出演は拒否。 そして遂に彼らがNO.1の座に登りつめる事になる6枚目のアルバム「BEAT EMOTION」を11月にリリース。 同時に「ROCK’N ROLL CIRCUS/BEAT EMOTION」と名付けられた、この年2度目の全国ツアーを開始。 制作・再現を様々なアイデアと共に、高いクウォリティをキープしたまま短期間にそれらを完成させてしまう彼らのパワーに、 彼らに否定的なスタンスを取り続けていた洋楽系の人間や知識人達でさえ、好みを通り越えたところで、彼らを認知しない訳にはいかなくなる。 彼らの活動の早さを追い越さんばかりにパブリックイメージはいよいよ膨らみ始めていった。
*この年のデータ
1986(昭和61)年01月27日 布袋寅泰と山下久美子、挙式
1986(昭和61)年02月03日 TVK『FUNKY TOMATO』出演
1986(昭和61)年02月21日 TX『NEW AGE MUSIC』出演
1986(昭和61)年02月24日 フィルムコンサート開催
1986(昭和61)年03月03日 CX『オールナイトフジ』出演
1986(昭和61)年03月03日(水) CX『夜のヒットスタジオ』出演
1986(昭和61)年03月28日 毎日放送『TV音楽観』出演
1986(昭和61)年04月04日 毎日放送『TV音楽観』出演
1986(昭和61)年04月26日 中京TV『5時SATマガジン』出演
1986(昭和61)年05月03日 中京TV『5時SATマガジン』出演
1986(昭和61)年05月30日(金) CX『いきなりフライデーナイト』出演
1986(昭和61)年11月05日(水) CX『夜のヒットスタジオ』出演
1986(昭和61)年11月15日 CX『オールナイトフジ』出演
1986(昭和61)年12月03日(水) CX『夜のヒットスタジオ』出演
1986(昭和61)年12月12日(金) CX『いきなりフライデーナイト』出演
1986(昭和61)年12月24日 NTV『Merry X'mas Show』出演
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■1987(昭和62)年/BOOWY COMPLETE/LIVE DATA
2度目の武道館公演を無事終了させ、ロックン・ロール・サーカス・ツアーを終えた後、彼らは2ヵ月半のオフに入った。 4人はそれぞれの個人に戻り、それぞれの活動に入る。氷室はロンドンへ。布袋は山下久美子のアルバム「POP」のプロデュース。 そして松井もプレイヤーとしてその作品・ツアーに参加。高橋は全国でのBOØWYフェアを追いかけて飛び回っていた。 オフの最中にアルバム「BEAT EMOTION」より「ONLY YOU」をシングルとしてリリース。本人達不在の中で作品はチャートインし、沢山のコピーバンドやカラオケで歌われていく事となる。 そしてオフ明けの7月22日発売されたシングル「Marionette」はラヴソング全盛のシングルチャートにあって、 男女の恋愛をテーマに持たない曲としては異例の初登場1位を獲得。プロモーションビデオにおいても彼らのビジュアルに対する並々ならぬこだわりが遺憾なく発揮された1作となった。 夏はツアー活動は行なわなかったものの「Marionette」のセカンドソングに収められたスージー・クワトロとのデュエット曲「ワイルド・ワン」をもひっさげ、数々のイベントに登場。 そしてコンセプトや関連性を重んじる彼らは7月31日と8月7日、横浜と神戸において<CASE OF BOOWY>と名付けた4時間にわたるコンセプトライヴを敢行。 デビューからこの年に至るまでのナンバーの中から選ばれた39曲を4時間にわたって演奏するというこの前代未聞のライヴをも成し遂げた彼らを関係者はア然として見守るしかなかった。
<CASE OF BOOWY>はパッケージケースとして全4巻のビデオテープ・2枚組みのLDにするという意味と、そして”CASE”~の場合というダブルミーニングのスタイルをとっていたが、
9月5日に総売り上げで80万枚を超える7枚目のアルバム「PSYCHOPATH」を発表し、 「BOOWY ROCK’N’ ROLL REVIEW Dr.FEELMAN’S PSYCHOPATHIC HEARTS CLUB BAND」とタイトルに銘打ったツアーの頃から俄にバンド解散の噂が流れ始める。それは、BOOWY HUNTの創刊に始まる全てのタイトルの一貫性の行方が解散という意味へつながるのではないかという、たわいも無い符号からのものだったけれども、 事実上のラストシングルカットとなった作品として「季節が君だけを変える」とタイトリングされた楽曲を「CLOUDY HEART」とのカップリングで発表、そしてツアーの最終日が日本武道館や横浜ではなく、再び12月24日の渋谷公会堂にスケジューリングされている事が合わせて発表されると、その噂は俄に信憑性をおび始めてしまう。 「FRIDAY」も彼らを取り上げ、彼らのつくり上げたBOOWYが様々な媒体の中で彼らの意志だけでコントロールしきれなくなった事を確認したかのように12月24日、 運命の渋谷公会堂で彼らは、BOOWY解散を単なる噂として強く否定したいファンの心をよそに、解散を表明。 ONLY YOUの演奏の後、「これからは一人一人が、今まで4人でしか出来なかったことをやってきたように、一人一人やっていこうと思います。」と述べた。入りきれなかった、中にいるのと同じ位の渋谷公会堂につめかけたオーディエンスは固い警備を突き破り、ステージ上での出来事を確認する為に情報提供を要求、 渋谷公会堂の正面玄関はこのやりとりでガラス扉などが破壊されるが、解散表明された事を伝えられるとその場にくずれ落ちた。 クリスマスイヴのこの夜、何事もなかったようにジングルベルに浮かれる'87年の終演に、 彼らはその姿をステージの奥へと消した。このBOOWYの解散は、ラジオでは臨時ニュースとしても取り上げられた。翌日の新聞に記事としてだけではなく、BOOWYが有料で買いとったそれぞれのスペースに、解散表明のメッセージが踊っていた。
1987・12・25
BOOWY解散の新聞記事
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■1988年 /BOOWY COMPLETE/LIVE DATA
by M.K from BOOWY COMPLETE ⇒ 彼らが交わる事を潔しとしなかった広いマスメディアが、とうとう大手を振って彼らを記事にしたのは、その解散への憶測記事であった。 案の定、事実とはあまりにもかけ離れた記事の中で、傷つくべきBOOWYは既にこの世には存在していなかった。 彼らは解散せずとも、いつかはこうして自分達の愛したBOOWYを傷つけようとする巨大な何かが現われる事を予期し、その事からBOOWYを守ろうとしたのかも知れない。 BOOWYを失なったロックシーンは巨大なビジネスとなってバンドブームを迎える。 テレビのコンテスト番組、ロックのファッション化、そしてブームが終宴をむかえたといわれる'91年を終えると、彼らがデビューしてから10周年にあたる'92年がやってくる。彼らの口から正確な、解散に関するコメントは1度として出てきた事がない。 それは言葉にすべき理由は本当に存在せず、彼ら4人らしか分からないベクトルが、 まるで運命の様にその道へ導いた事だけなのかも知れない。完成直後の東京ドームでの「LAST GIGS」は95,000人分のチケットを10分間でさばき、 都内の電話回線をパンクさせ、再び彼らの名前は社会面で活字になる。 けれどもいくつもの話題や勲章を手に入れたとしてもあの巨大な東京ドームで何万人もの人の相手をしている彼らは、 数えきれてしまう程のオーディエンスしかいなかったLOFTで演奏していた彼らと何ひとつ変わる事のない4人だったし、 その事を感覚で察知した彼ら4人の素敵なオーディエンス達は東京ドームでは誰一人涙を流さず、こぶしを振り上げて大声で彼らと共に歌った。今までの人気者と称されるバンドやグループの解散や引退に立ちあってきたマスコミ達には、最後までその何万人もの光景を理解することはできなかったし、 ”涙の解散”とタイトルできないそのイベントを上手く記事にもできなかったけれど、BOOWY達にとってそんな事は本当にどうでも良い事だったにちがいない。
◇布袋によるコメント/BOOWY HUNTより
LAST WORDS TOMOYASU HOTEI
お元気ですか?長い間逢っていないね。僕は元気です。こうしてペンを持って、みんなのこと考えながら手紙を書こうと決心がつくまでには、時間がかかってしまったよ。ヨシ・・・きょう書こう!と決めてからのシチュエーションの設定が、また大変だった。いつ、どこで、何をしながらってやつですね。結局、夜中に僕の部屋でビールを飲みながら、これを書いてます。手紙をもらったことはあっても、返事を書くことができなかったから、この場を借りて色々書きたいと思います。みんなの部屋にBOOWYがいるのと同じでね、僕の部屋も6年間の思い出でいっぱいです。いってしまえば、BOOWYだらけなわけだな。さすがにポスターこそ貼ってないけどね。『 IMAGE DOWN 』を作ったギター。ライブハウスを廻ってた頃の写真。何十曲分のデモテープ。ファンレター。ピック。ステージ衣装。ツアーのパンフ。ベルリンの旅行案内。メリー・ポピンズ。まこっちゃんから貰った万華鏡。ヒムロックからのロンドンみやげ。松ちゃんの寝顔。(誤解しないように)『 MORAL 』から『 LAST GIGS 』までのレコード。エトセトラ・・・エトセトラ・・・エトセトラ・・・。僕はカッコつけたがり屋だから、雑誌とかじゃあんな感じだけどサ。実は、たまに昔のレコードを出してきて懐かしがったりしちゃってさ、なかなかいえる人がいなくてサ。でも、こうやって漠然と「みんなへ・・・」なんて感じで書いてると、へっちゃらだったりしてね。”生きてる”と色々あるよね。そういえるほど、”生きてない”と思ってる奴もいるだろうけど、もし15歳だとしても毎日色々あるでしょ?腹が立ったり、笑ったり、悲しかったり。みんな悩んでんだろうな・・・。何かで。僕だって、いま悩んでるもん。まぁ、そこまではいえないけどね。へへ。そんなとき、音楽とか友達とかって本当に大切だよね。慰めてくれるとか、そういうんじゃなくて。必要だよね。ーんで、僕はギターを弾いてて、友達っていう形じゃなくてみんなと知り合った。運命。出逢うべきして、出逢った。それで僕らはどうなったっていうんじゃないんだけど、僕ら(BOOWY)の最後をみんなは認めてくれたんだっていうのがねー。すごく・・・。ジジイ的ないい方だけどネ。みんな始まるんだな・・・って思う。みんなも年とるだろうし(あたり前か)。子供できる奴もいるだろうし、そうはいいながらも、サラリーマンにハマル奴もいるだろうし、ヤクザになっちゃう奴もいるかもしれない。もちろん僕自身もね、カンペキに落ちぶれて”懐かしのスター!!”って感じになっちゃうかもしれないしサ。でも、忘れらんないよね。この関係。少なくても空集合見るたびに思い出しちゃうとか、七福神の名前はひとり知ってるゼ・・・とか。忘れらんないよね・・・。ネ? ネ? ネ!!!けっこう読んでて意外でしょ?でも逆に布袋くんぽかったりしない?素直ぶってるところが、ひねくれてるっていう素直さが。スーパー・カリフラジリスティック~の世界だとか自己分析したりして・・・。逆にカッコ悪いかな?いまこんなふうに感じちゃったりして。もちろん、次のステップに燃えてるっていうのはあるんだけど、どうも思い出しちゃう。まぁ、悪いことじゃないよね。勲章貰ったようなもんだもんね。「またでかい勲章見せびらかせやがって」っていう奴がいても、「イーだろうー!」っていってやるもんね。ヘッ!!ヘッ! ヘッ! ヘッ!ちょっとおちゃらけ過ぎたかな・・・。でもわかってくれるでしょ?おちゃらけてるわけじゃないって。おちゃらけでもしなきゃ、最後の手紙書けません。BOOWYの一員としての僕と、みんなの関係はここで終わりです。みんな大好きだよ。本当に感謝してます。アリガトウ。
P.S.この手紙のことは内緒にね。明日から、またカッコつけんだからさ・・・。
1988(昭和63)年に入ってから、BOOWYの作品はアルバム「SINGLES」、VIDEO/LD「SINGLES OF BOOWY」、全ての作品を網羅した(ただし、シングルのマリオネットを除く)10枚組みのBOX「BOOWY COMPLETE」(黒BOX,限定発売)が東芝EMIよりリリースされた。BOOWY COMPLETEはファンの熱い要望により、後再販(白BOX 限定発売)。また、徳間JAPANより、「DAKARA」(12インチシングル)、アルバム「INSTANT LOVE」の限定BOX(CDとLPの2種類)や8cmCDシングル等も発売された。そして、解散から10年たった
1997(平成九)年12月24日にBOOWYのBEST ALBUMのCMが1日限りオンエアされ、
1998(平成十)年02月にBOOWY初のベストアルバム「THIS BOOWY」が発売された。解散してから10年経つバンドのベストアルバムでありながら、150万枚もの売り上げを記録した。しかし、このベストアルバムはBOOWYが東芝EMIに移籍してからの曲からのセレクトだったので、少し、残念であった。また、INSTANT LOVEが2000円という新価格で便乗発売された。
2001(平成13)年10月27日にDVD/VIDEO「LAST GIGS」、
2001(平成13)年11月28日にはDVDで「CASE OF BOOWY」「BOOWY VIDEO」「SINGLES OF BOOWY」、ライブアルバムとして「CASE OF BOOWY」が発売。
2001(平成13)年12月24日には、「1224」が発売。絶対にあり得ないとファン誰もが思い続けてきたことが現実となった。
http://hoteimode.net/1988.html
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┃ BOφWY HUNT“WHAT'S NEW” ┃
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2019(平成31)年03月05日(火) 071【NEWS】
BOφWY35、最後の真実!『LAST GIGS -THE ORIGINAL-』発売!
1988(昭和63)年、BOφWYの最後のGIGSが初めて完全盤として蘇る。絶頂時の突然の解散宣言を受けて翌88年に行われた、東京ドームギグ2DAYSを初の全曲収録!
‡1987(昭和62)年12月24日(木)の解散宣言により、まさに絶頂期に解散するという衝撃をもたらしたBOφWY。翌年に約束された最後のギグ「LAST GIGS」は、オープン直後の東京ドームで二日間にわたって行われたが、チケットは発売から僅か10分で完売。予約の電話が殺到した結果、東京ドームのある文京区の電話回線がパンクするなどBOφWYの人気は社会現象にまで発展した。東京ドーム公演の翌月、5月3日にリリースされたLP・CD『LAST GIGS』がBOOWYとして初めてミリオンヒットを記録するなど、いろいろな意味で、彼らの意図にはかかわらず伝説を作ったギグとなった。これまでリリースされていた『LAST GIGS COMPLETE』は、主に2日目のテイクを中心として、2日間からセレクトされたアルバムであったが、今作品『LAST GIGS ?THE ORIGINAL-』では初めてその2Daysの全曲を収録するCD(全4枚組)と、各日に分けた2タイトル(各2枚組)が同時発売される。デビュー35周年となった2017年から、『CASE OF BOφWY -THE ORIGINAL-』や、『1224』の高画質映像など、メモリアル・リリースを重ねてきたが、これが本当に最後のリリースとなる。また、「LAST GIGS」が行われた初日である4月4日(木)には、発売に先駆けてのスペシャル・イベント『 LAST GIGS ?THE ORIGINAL- SPECIAL NIGHT IN SHIBUYA』の開催も決定。アルバム音源の先行試聴、「LAST GIGS」の映像を大音響で観覧するなど、ファンには溜まらない内容を予定している。
【概要】“LAST GIGS”とは…。
①BOφWYが人気絶頂のまま解散し、行ったライヴである。BOφWYの活動は、集客がわずか数十人のライヴハウスからすべてが始まり、たった6年間という驚くべきスピードで音楽シーンを上りつめ、“LAST GIGS”にて完成直後の東京ドーム2日間
1988年(昭和63)年04月04日(月)、
1988年(昭和63)年04月05日(火)計10万人を動員して終わる。チケット争奪戦によって文京区の電話回線がパンク、2日分のチケット10万枚は10分でソールド・アウトするなど、“LAST GIGS”はまさにその勢いが最盛の時に行われたライヴであった事を意味している。
②ライヴ・アルバムにも関わらず100万枚を超えるセールスを記録〇ライヴ開催から1ヶ月後に発表されたこの『LAST GIGS』が、スタジオ・レコーディング作品ではないにも関わらず100万枚を超えるセールスを記録したことは、今でも稀有な記録である。当時、東京ドームに来られなかったファンに向けて一日でも早く音源を届けたいという想いで、最速で店頭に並ぶサイズの作品として選曲し制作されたのが
1988(昭和63)年05月03日(火)に発売されたオリジナル盤の『LAST GIGS』であり、BOφWYにとって初のミリオンを超える作品となった。この作品で第3回『日本ゴールドディスク大賞』(1989年)邦楽部門のアーティスト・オブ・ザ・イヤーを受賞している。
③BOφWYにおける王道的選曲。“LAST GIGS”はファンに対する深い感謝の意味合いが大きいライヴであり、その選曲もまさに王道的と言える内容であった。つまりベスト・アルバム的な感覚で楽しめる“ライヴ・アルバム”である。
④BOφWYの本当のラストシーン
“LAST GIGS”は“BOφWY”というROCK史上最強のバンドの、最後の瞬間である。今作は “LAST GIGS”の完全版であり、氷室京介による余りにも有名な「まだまだ伝説になんかなんねーぞ!」等、MCも完全収録される。1988年4月5日の東京ドームにいた5万人だけが目撃する事ができたBOOWYの本当のラストシーンが、31年の時を越えて明らかになった。
■商品情報
発売日:2019(令和元)年06月12日(水) リミックス・エンジニア:坂元達也
・『LAST GIGS -THE ORIGINAL-』
品番・価格:UPCY-9907・8,200円(税抜)
仕様:CD4枚組+特製2WAYトートバッグ+ステッカー封入、BOX仕様
・『LAST GIGS -1988.04.04-』
品番・価格:UPCY-7572/3・3,241円(税抜)
仕様:CD2枚組
・『LAST GIGS -1988.04.05-』
品番・価格:UPCY-7574/5・3,241円(税抜)
仕様:CD2枚組
■イベントタイトル:LAST GIGS -THE ORIGINAL- SPECIAL NIGHT IN SHIBUYA
日程:4月4日(木)
場所:渋谷REX(渋谷区道玄坂1-18-3 プレミア道玄坂ビルB1)
募集:3月5日にboowy35th.comで告知~応募予定.
料金:1,000円(税込)+ドリンク代 600円
イベントチケット情報はこちら!
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http://sp.boowyhunt.com/news/?id=29
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┃ 東京ドームコンサートを開催したミュージシャン ┃
┃ 氷室京介 ┃
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BOΦWY ソロ
1989(平成元)年01月03日(火) 03回目 01回目 KING OF ROCK SHOW "FLOWERS for ALGERNON"
1989(平成元)年01月04日(水) 04回目 02回目 KING OF ROCK SHOW "FLOWERS for ALGERNON"
1990(平成二)年04月03日(火) 05回目 03回目 NEO FASCIO
‡1994(平成六)年12月24日(土) 06回目 04回目 SHAKE THE FAKE TOUR 1994
1994(平成六)年12月25日(日) 07回目 05回目 SHAKE THE FAKE TOUR 1994
2004(平成16)年08月22日(日) 08回目 06回目 21st Century BoΦwys vs HIMURO ~An Attempt to Discover New Truths~
2011(平成23)年06月11日(土) 09回目 07回目 GIG at TOKYO DOME "We Are Down But Never Give Up!!"
2011(平成23)年06月12日(日) 10回目 08回目 GIG at TOKYO DOME "We Are Down But Never Give Up!!"
※東日本大震災復興支援チャリティライブ
2016(平成28)年05月21日(土) 11回目 09回目 LAST GIGS
2016(平成28)年05月22日(日) 12回目 10回目 LAST GIGS
2016(平成28)年05月23日(月) 13回目 11回目 LAST GIGS
※ライブ活動無期限休止公演
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┃ 東京ドームコンサートを開催したミュージシャン ┃
┃ Mr.Children ┃
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1997(平成九)年03月27日(木) 01回目 REGRESS or PROGRESS TOUR 96-97 FINAL
1997(平成九)年03月28日(金) 02回目 REGRESS or PROGRESS TOUR 96-97 FINAL
2005(平成17)年11月26日(土) 03回目 DOME TOUR 2005 "I LOVE U"
2005(平成17)年11月27日(日) 04回目 DOME TOUR 2005 "I LOVE U"
2005(平成17)年12月27日(火) 05回目 DOME TOUR 2005 "I LOVE U"
‡2009(平成21)年12月24日(木) 06回目 DOME TOUR 2009 ~SUPERMARKET FANTASY~
2009(平成21)年12月26日(土) 07回目 DOME TOUR 2009 ~SUPERMARKET FANTASY~
2009(平成21)年12月27日(日) 08回目 DOME TOUR 2009 ~SUPERMARKET FANTASY~
2012(平成24)年05月23日(水) 09回目 TOUR POPSAURUS 2012
2012(平成24)年05月25日(金) 10回目 TOUR POPSAURUS 2012
2012(平成24)年05月26日(土) 11回目 TOUR POPSAURUS 2012
2015(平成27)年08月16日(日) 12回目 Stadium Tour 2015 未完
2015(平成27)年08月17日(月) 13回目 Stadium Tour 2015 未完
2017(平成29)年06月29日(木) 14回目 DOME & STADIUM TOUR 2017 Thanksgiving 25
2017(平成29)年06月30日(金) 15回目 DOME & STADIUM TOUR 2017 Thanksgiving 25
2019(令和元)年05月19日(日) 16回目 Dome Tour 2019 "Against All GRAVITY"
2019(令和元)年05月20日(月) 17回目 Dome Tour 2019 "Against All GRAVITY"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/東京ドームコンサートを開催したミュージシャンの一覧
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Birth of Lovers #1 19901007 http://youtu.be/86iWWzwmzQU
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2005.5.10『MR.CHILDREN DOME TOUR 2005 "I(黒ハートマーク)U"~FINAL IN TOKYO DOME~』特典映像
備考・・・各会場での日替わり弾き語りコーナーで桜井和寿が披露した曲を収録
1.♪抱きしめたい♪ 11月27日に行われた東京ドームでの映像。キーを間違えて観客に謝るシーンがある。歌詞の「震えそうな夜に」の部分を元々の歌詞だった「クリスマスの夜に」と歌っている。
今夜映像◆http://youtu.be/JBZ3LbVLAaA
2.♪Simple♪ 12月10日に行われた札幌ドームでの映像。
今夜映像◆http://youtu.be/gYoM9qjUXQY
3.♪Over♪ 12月17日に行われたナゴヤドームでの映像。
今夜映像◆http://youtu.be/X3Ca6azXbio
4.♪君が好き♪ 12月18日に行われたナゴヤドームでの映像。歌詞の「月も濁る東京の夜だ」の部分を会場に合わせて「月も濁る名古屋の夜だ」と歌っている。
今夜映像◆http://youtu.be/WgQJ1veDLbU
‡5.♪2日遅れのクリスマス♪ 12月24日に行われた福岡ドームでの映像。アマチュア時代の曲で、未だにCD化されていない
映像◆http://youtu.be/UgLtGtUe8Fo
http://ja.wikipedia.org/wiki/MR.CHILDREN_DOME_TOUR_2005_%22I_%E2%99%A5_U%22_%E3%80%9CFINAL_IN_TOKYO_DOME%E3%80%9C