"小中学校の友人"なんてクソみたいなもの きれいごとで子どもを追い込むな
‡2017(平成29)年10月11日(水)
学校生活や交友関係に思い悩み、心に深い傷を負ったり、自ら死を選んでしまったりする子どもたちがあとを絶たない。そうした現象を受けて、ネットニュース編集者の中川淳一郎氏は「小中学校の友人関係なんて、まったく重要ではない」「人間関係のどうしようもない現実を、大人が子どもにきちんと教えなければならない」と指摘する。その意図とは――。
◆友人関係に絶望する子どもたち
小中学生の悩みの大半は、「友人関係」にあるのではなかろうか。自分自身の子ども時代を振り返ってみても、学校での人間関係が当時の人生にかなりの影響を与えていたと思うし、行動様式にも影響を与えていた。現在いじめられていたり、不登校になっていたりする小中学生も、友人関係に悩んだ末に、そうした望まぬ結果に至ってしまったケースが多いと思われる。
小中学生のころ、とりわけ小学生のころは、通知表の成績がヒドくても、実際のところ大した問題ではない。また、親に反抗したり、きょうだいとケンカしたりしても、最終的には自分を守ってくれる存在だから、ときには家族と衝突するのも成長の過程としてアリだろう。
一方、友人関係は、ひとたびいじめや「シカト」の標的となってしまうと、学校にいる間は針のムシロ状態に陥る。なんとか好いてもらおうと、いじめグループに媚びはじめでもしたら、ますますいじめられたり、使いっ走りにされたりしてしまう。そして、家に帰ってからも心には常に暗雲が立ちこめ、人生があまりにも苦悩に満ちたものとなる。
絶望感にさいなまれて、なかには自殺してしまう子どももいる。学校でのクソみたいな人間関係に戻る日である毎年9月1日──夏休みが終わり新学期を迎えるその日に、子どもの自殺が増えるのだと聞く。本当に痛ましいかぎりだ。
◆小中学校の人間関係なんて、クソ
ただ、私が学校の人間関係に悩む子やその親に強く言いたいのは「小中学校の友人なんて、どうでもいい」ということだ。当然、仲良く付き合える友人が少しでもいるほうが学校は楽しいだろう。だが、長い人生を考えると、小中学校時代の人間関係ほどどうでもいいものはない。慶應の幼稚舎から大学までずっと一緒、といった場合は別かもしれないが、公立の小中学校であれば同じエリアで通学するにしても9年間である。
確かに9年は長い。しかし、その後の人生を考えるとそれほど長くない。「長いけど、長くない」というヘンな言い回しになったが、ここで強調したいのは「長い人生のなかで、大して重要ではない小中学校の人間関係など、クソみたいなもの。そう思って、軽く扱っても何ら問題ない」という事実だ。それを、子どもたちにちゃんと教えてあげてもよいのではなかろうか。もちろん、学校で良好な人間関係を築いているのであれば、それはそれで素晴らしい。でも、学校内での人間関係が人生のすべてではないし、未来に絶望する必要もない、という点だけは子どもにきちんと伝えるべきである。
次ページ「子どもは純粋」のウソ
http://president.jp/articles/-/23291
◆「子どもは純粋」のウソ
世間はとかく、子どもの世界を理想化したがる。「子どもは天使だ」「子どもの純粋な気持ちを大切にしたい」「子どもなりのバランス感覚を信じ、大人は余計な口出しをしないほうがよい」といった文脈で、きれいごとを語ろうとする。だが、何を美化しておるのだ。したり顔でそんなことを言う大人は、自分自身、そこまで立派な子どもだったのだろうか?
参考までに、私の幼少時代、自分や周囲の子どもたちがやっていたことを思い出してみよう。
・スーパーで集団万引き
・街中の自販機の下をのぞき込み、小銭を集める
・飲食店の裏に置いてあるファンタやコカ・コーラ、スプライトの瓶を盗み、酒屋に持って行って換金する
・プールや市民体育館のコイン返却式ロッカーをめぐり、残されたコインを盗む
・小6の時、裏ビデオを共働き家庭の家に持っていき皆で鑑賞
・父親のウイスキーを皆で回し飲みする
・エロ本が大量に落ちているという場所へ、皆で遠征隊を組んで取りに行く
・その現場に別の小学校の連中がいたらケンカになる
・差別的な内容のテレビ番組を観て大笑いし、該当するような生徒を翌日皆で笑う
・人種差別、障害者差別、貧乏差別を平然とする者もいる
所詮はこんなものだ。いずれも未熟さゆえの行動ではあるが、これらの行為はどう考えても「天使」ではない。まあ、「カネが欲しい」「誰かをバカにしたい」「エロいことを知りたい」という気持ちと行動が一致しているところだけは「純粋」かもしれないが。
◆大事なのは、いま一緒に仕事をしている人々
ここで私の身の上を振り返ってみるが、小学校は4年生まで川崎市立鷺沼小学校へ行き、5年生からは立川市立第八小学校に通った。中学校は同じエリアの立川第六中学校である。鷺沼小学校時代の知り合いには、今年、タイのバンコクでひとり会った。いわゆる幼なじみで、親同士の仲がよかった女の子だ。彼女は現在バンコク在住で、私もたまたま年末年始をバンコクで過ごすことになっていた。だから、直前にFacebookで連絡を取り合い、22年ぶりに再会したのである。その前に彼女に会ったのは35年も前だ。いまもつながりがある鷺沼小学校の知り合いは、他に誰もいない。というか、もはや名前さえひとりも思い出せないほどだ。
立川の小中学校出身者でいまでも接点があるのは、同じ大学・会社にいった男性ひとり、そして毎年結婚記念日にお祝いメールを送る女性ひとり。定期的にやり取りがあるのは、この2人だけである。それともうひとり、先日私がLINEアカウントを乗っ取られた(なりすまし詐欺に利用された)とき、「おい、お前、オレに変なメッセージよこすなよ! いやぁ、久しぶりだなぁ」と電話をかけてきてくれた男性がいる。
幸いなことに、私は子どものころ、立川の学友たちとよい関係を築けていたと思う。とはいえ、いま、彼らのことが大事か? と問われると、正直なところまったく大事ではない。むしろ大事なのは、現在仕事をしている取引先の皆さまがたである。一緒に仕事をしている期間が3カ月の人のほうが、小中学校時代の友人より大事なのだ。なにより「共通言語」が多い。率直なところ、業界関係者が集まる飲み会で初めて会った人のほうがはるかに話していて楽しいし、有益な情報を得ることもできる。
次ページ?交友関係は変化していくもの
http://president.jp/articles/-/23291?page=2
◆交友関係は折々で変化していくもの
35歳を過ぎた人であれば分かるかと思うが、非常に貴重なもの、特別なものだと感じていた高校・大学時代の友人であっても、30歳を超えてしまえばそれほど大事な存在ではなくなっていることが多い。どう考えても自分の配偶者、子ども、会社の上司、同僚、取引先のクソオヤジとの人間関係のほうが、いまの自分の生活と密接に関係しているし、重視せざるを得ないのである。なかには親が要介護になり、面倒をみることに多大な時間と労力を割かなければならない人もいるだろう。
正直、社会人にとって「友人」に割く時間はかなり限られてしまうのだ。それはあなただけでなく、あなたの友人にとってもそうなのである。学生時代の友人となかなか会わなくなり、さらにはメールの返事も返ってこなくなった……。一瞬、寂寥感を覚えるかもしれないが、それは友人もあなたも成長した、ということを意味している。それもまたよし。人間関係というものはその時々で変わっていくものであり、一回「貴重なもの」認定したからといって、それを一生引きずる必要はない。
これは、いま小中学校で過ごしている子どもたちにも当てはまる。親は「長い人生で、交友関係は変わっていくもの」と理解しているのだろうが、ならばなぜ、そのことをきちんと子どもにも教えないのか。わが子に対し「小中学校の人間関係──とくにあなたを卑しめたり、危害を加えたりする人間なんて、大事でも何でもない。むしろ、あなたのほうから無視してやれ。もしつねられたら、つねられなくなるまでつねり返してやれ」と教育すればいい。なんだったら空手や柔道でも習わせ、いじめに遭ったときには逆に正拳突きや大外刈りでも食らわせてやればいいのだ。相手はビビッて、あなたの子どもをもういじめなくなるかもしれない。
◆反撃してもいいし、逃げてもいい
「小さい時期に、そんな殺伐とした人間関係の一面を教えてしまったら、将来どんな子になるか……」などと心配になるかもしれないが、気にすることはない。むしろ、いじめられた経験のほうが、将来によほど悪影響をもたらす。親は自分の子どもに「あなたを不幸せにする連中は、人生に不要な連中なので、まったく大事にする必要はない。なにがあろうと、私はあなたのことを徹底的に守るし、全面的な愛情をもって接する。だから、大丈夫」と自信を持って宣言すればいい。
いじめられた体験は、一生のトラウマになるもの。だが、いじめた体験は、案外忘れてしまう。それならば、「孤立したとしても、いじめてきた相手には容赦なく反撃する。一対多でも意に介さず、いじめをしてきたクソガキたちをいじめ返す」くらいの行動に出て、周囲から敬遠されるくらいの人間になったほうがいい。それができなければ、学校から逃げたって構わない。
次ページ?ドライな人間関係を習得させよ
http://president.jp/articles/-/23291?page=3
◆ドライな人間関係を子どもにも習得させよ
小中学生は「学校はとにかく大事」「クラスメイトとは仲良くしなくてはならない」といった価値観を植え付けられ、集団生活に耐えることを強いられる。そのため、理不尽ないじめに遭ったとしても、まずは我慢することを選択しがちだ。そして、「一生、このクソみたいな人間関係が続くのだろうか……」といった不安や絶望感を抱え込んでいく。小中学生にとっては、狭い学校が世界のすべて。その腐った世界が、未来永劫続くとすら感じているかもしれない。
だが、高校や大学に行くと、世界は大きく広がっていく。社会人になれば、さらに世界は広がる。小中学校時代の愚にも付かないような連中とは完全に縁を切ることができる。そして、もう二度と会うこともなければ、思い出すこともなくなる。
居場所は学校以外にいくらでも見つかるし、気持ちよく付き合える人もたくさん存在している。その事実を小中学校のうちから子どもたちに教え、性に合わない相手とはお茶を濁す程度の人間関係でやり過ごす術を身につけさせればいい。われわれ大人たちが、日々していることだ。名刺交換をしただけで、すぐには顔も思い出せないような無数の人々と、ドライな人間関係を構築して、やり過ごす。それでいいではないか。
そもそも、自分の人生において本当に重要な人なんて、数える程度しかいないもの。それさえ大切にしていれば、十分幸せになれる。
◆【まとめ】今回の「俺がもっとも言いたいこと」
・子どもには、きれいごとではなく、人間関係の現実を教えるべきだ。
・小中学校の交友関係など、長い人生においては大して重要ではない。いじめてきた相手は容赦なく反撃してもいいし、学校から逃げてもいい。
・居場所はいまいる場所以外にいくらでも見つかるし、本当に大切な人だけ大切にすれば、きっと幸せになれる
中川淳一郎(なかがわ・じゅんいちろう)1973年東京都生まれ。ネットニュース編集者/PRプランナー。1997年一橋大学商学部卒業後、博報堂入社。博報堂ではCC局(現PR戦略局)に配属され、企業のPR業務に携わる。2001年に退社後、雑誌ライター、「TVブロス」編集者などを経て現在に至る。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』『ネットのバカ』『ウェブでメシを食うということ』『バカざんまい』など多数。
http://president.jp/articles/-/23291?page=4
「昭和の通勤電車」今では信じられない地獄絵図
「失神者」や「ガラスの破損」は日常茶飯事
2019(平成31)年02月19日(火) 5:00 服部淳:コラムニスト
写真◆昭和の通勤ラッシュは「地獄」とまで言われていた(写真は1962(昭和37)年のものです=写真:Everett Collection/アフロ)
「タクシーは乱暴運転が当たり前」「自分の血液が売り物になった」など、昭和の時代は今では信じられない常識が多くありました。昭和の「通勤ラッシュ」もその1つ。今よりもはるかに混雑していた通勤ラッシュの実情について、コラムニストの服部淳氏が解説します。この原稿を執筆中に、2017(平成29)年度の都市部の鉄道混雑率が国土交通省より発表された。それによると、東京圏の混雑率は163%まで下がったそうだ。この混雑率とは、ピーク時(ラッシュアワー)1時間平均の混雑度の割合で、現在のところ、ほぼ目視で測定しているらしい。目安としては、混雑率100%が、座ることができない人もいるが、他人に触れることなく乗っていられる状態のようで、150%になると「広げて楽に新聞を読める」状態(最近は新聞を読んでいる人の姿もぐっと少なくなっているので、新たな基準が必要かもしれない)、200%が「体がふれあい相当圧迫感があるが、週刊誌程度なら何とか読める」状態、250%になると「電車がゆれるたびに体が斜めになって身動きができず、手も動かせない」状態とのことだ(混雑率100%以外は国土交通省の資料より)。
■「通勤地獄はマンガだ」東京で通勤、通学していて混雑路線を利用しているなら、毎朝200%から250%の状態だよ、とケチもつけたくなるが、あくまでも東京圏主要31区間の平均であり、混雑する車両から比較的空いている車両までの平均であり、混雑する急行や快速列車と、若干空いている各駅停車との平均でもある。この調査が始まった1975(昭和50)年度の混雑率を見ると、東京圏で223%となっているので、それでも東京近郊の通勤ラッシュはだいぶ緩和されているのである。さらに調査開始以前の昭和30年代から40年代後半の高度経済成長期には、通勤ラッシュの混雑率は300%を超えていたともいう。混雑率300%超えとは、いったいどれだけの混雑なのだろうか。当時の新聞を調べてみると、
1965(昭和40)年06月07日(月)の読売新聞夕刊に“通勤地獄はマンガだ”というセンセーショナルな見出しが紙面を飾っていた。東京の新宿駅のあまりにもひどい朝のラッシュを、運輸省(現・国土交通省)の大臣が視察したというニュースなのだが、この大臣が視察後の会見で述べた「あえて“マンガ”だといおう。すさまじいマンガだ」が、この見出しのもととなっている。
→次ページ「地獄」とまで言われた当時のラッシュ
https://toyokeizai.net/articles/-/265054
添えられた写真には、4、5人の駅係員(いわゆる「押し屋」)が乗客を中央線の上り列車に押し込んでいる様子を運輸大臣が視察する姿を捉えている。
■毎日1人は失神する通勤地獄 ⇒ その視察が混雑をさらにひどくしているのではないだろうかとも思えるが、押し込まれている人は、まるで拷問でも受けているような悲痛の表情だ。この日は2人の女性が失神したそうだが、駅員の話によると毎日1人は失神するのだとか。
1965(昭和40)年06月07日(月)の読売新聞夕刊より写真◆朝の通勤ラッシュのひどさを伝える新聞記事
日本国有鉄道(国鉄、現・JRグループ)の通勤電車に冷房車が登場したのは1970(昭和45)年なので、当然クーラーはない。この混雑に梅雨入り前の蒸し暑さが加われば、そりゃ失神する人も頻発するだろう。だが、単純に混雑だけでいえば、この視察があった6月より、乗客が厚着して“着ぶくれ”になる冬場のほうがひどくなる。視察以前の冬の新聞を探ってみると、
1963(昭和38)年12月12日(木)には、国鉄常磐線の松戸駅で〈ギュウ詰めの乗客のゆり返しでガラスが破れた〉(同日付の朝日新聞夕刊より)という事故が、翌
1964(昭和39)年01月11日(土)には、国鉄中央線において1本故障が出たためにダイヤが大幅に乱れ大混雑、〈新宿駅では、電車のガラス五枚が割れ、電車のドアが七カ所もはずれる〉(同日付の朝日新聞夕刊より)という事故が起きていた。当時のガラスは現在のものより強度がなかったので、ラッシュで割れることもたびたびあり、ドアもよく壊れた。ケガの恐れもあるし、混みすぎてキツイというだけではすまなかったのだ。電車に押し込まれた際に靴が脱げてしまう人も多かったようで、国鉄ではサンダルの貸し出しも行っていたり、新橋駅ではラッシュでちぎれたボタンをつける商売をする店も出現したりした。いずれもこの時代の通勤地獄を物語るエピソードである。
→次ページ「混雑率ワーストの区間」はどこ?
https://toyokeizai.net/articles/-/265054?page=2
再び国土交通省の鉄道混雑率の調査に戻ろう。全体の混雑率のほかにも混雑率が高い11の区間が紹介されていた。見事(?)ワーストに輝いたのは、すっかり常連となっている東京地下鉄(東京メトロ)東西線の木場駅から門前仲町駅に向かう区間で、1時間平均の混雑率は199%だった。東京のベッドタウンである千葉県船橋市から、集合住宅も多い東京都江戸川区を経て、オフィスビルが林立する大手町方面を結ぶ混雑必至の路線なので(東京圏在住者なら特に)納得の順位である。
■地道に改善されていった混雑事情 ⇒ 全体の混雑率が下がってきた現代に、199%もの混雑率である東西線だが、ラッシュがさらにひどかった時代には、どんな恐ろしい状態だったのだろうか。新聞をさかのぼっていくと、
1966(昭和41)年10月12日(水)の朝日新聞(東京版)に、東西線に関するこんな意外な見出しが載っていた。「相変らずガラ空き?都心乗入れの地下鉄東西線」。見出しの上にはガラガラの車内の写真が掲載されていて、新聞には〈中野駅で
‡1966(昭和41)年10月11日(火)午前10時うつす〉と撮影時間が併記されている。当該新聞の発行日は水曜なので、撮影日は平日の午前中ということになる。通勤ピークは過ぎているとはいえ、1人も座っていないロングシート(横向きの長椅子)があるというのは、都心の平日の日中にはまず見ない光景だ(始発駅なので、発車までまだ時間があったのかもしれないが)。実は地下鉄東西線は、この記事の2年前になる1964年に高田馬場駅と九段下駅の間で開業した新路線で、
1966(昭和41)年03月に中野駅と高田馬場駅間、九段下駅と竹橋駅間が開業。この記事の11日前に竹橋駅と大手町駅間が開業したばかりのときだった。中野から大手町(東京駅とほぼ同位置)を結ぶ路線でしかないため、国鉄中央線とルートはさほど変わらず、利用メリットがまだ少なかったころだったのだ。その後、1967(昭和42)年に東陽町駅まで延伸、
1969(昭和44)年03月に東陽町駅と西船橋駅(千葉県)間が開業し、現在のような利用価値の高い(混雑しやすい)路線へと成長していったのだった。このような地下鉄を中心とした新路線が次々と開業し、地下鉄と私鉄の相互乗り入れや、路線の複線化などさまざまな策が施され、東京圏をはじめとする混雑は地道に緩和されていったのである。
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https://toyokeizai.net/articles/-/265054?page=3
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┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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1971(昭和46)年10月11日(月) 現役の横綱玉の海関が虫垂炎の手術後、27歳で急死 ⇒ 大相撲の第51代横綱で6度の優勝を果たしていた玉の海関が、虫垂炎の手術を受けた後、病院で急死した。退院前日に体調が急変。死因は肺血栓だった。ライバル北の富士関とともに「北玉時代」を築き、大横綱への道を歩みだしたかに見えた27歳が、悲劇的な死を迎えた。写真は、葬儀の様子【時事通信社】
1874(明治七)年10月11日(日) 新橋駅(後の汐留駅)構内で国内初の鉄道事故となる列車脱線転覆が発生 ※2020(令和二)年記事追加
1968(昭和43)年10月11日(金)「連続射殺事件」の永山則夫元死刑囚、最初の被害者を東京で射殺
1985(昭和60)年10月11日(金) 国鉄の分割・民営化を閣議決定 ※2020(令和二)年記事削除
https://www.jiji.com/jc/daily
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┃ 王貞治 ホームラン(本塁打)記録 ┃
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‡1976(昭和51)年10月11日(月) 715号 阪神タイガース23回戦 後楽園球場 8回裏 山本和行 右越2ラン 世界2位単独
映像◆王貞治 ベーブ・ルースの記録を抜く715号ホームランhttps://youtu.be/2c_OJ3NpL6U
‡1976(昭和51)年10月11日(月) 715号 阪神タイガース23回戦 後楽園球場 8回裏 山本和行 右越2ラン 世界2位単独
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┃ 王貞治 節目の記録 ┃
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‡1968(昭和43)年10月11日(金) 1000四球 対中日ドラゴンズ27回戦 後楽園球場 9回裏に小川健太郎から ※史上初
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https://ja.wikipedia.org/wiki/王貞治
https://www.uta-net.com/song/2025
https://www.uta-net.com/song/78844
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1973(昭和48)年10月11日(木) 0対7から10対10のドロー。巨人対阪神、伝説の死闘
‡2017(平成29)年10月11日(水) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月11日だ。
写真◆6回に代打で登場し、逆転3ランを放った萩原。塁を回りながらバンザイした
最終戦直接対決で巨人が阪神に大勝し、リーグ9連覇を飾った1973年。試合後、観客が一斉に甲子園のグラウンドになだれ込んだ大暴動の印象が強い方もいるだろう。
この年は、そこに至るまでにも、GTは激しい戦いを幾度となく繰り広げた。
そのハイライトとも言えるのが、10月11日の後楽園決戦だ。わずかの差だが、首位に立っていた巨人だが、前日の
1973(昭和48)年10月10日(水)の同カードで、2対5から阪神・田淵幸一に逆転の満塁弾を浴び、敗戦。ゲーム差はないが、勝率で抜かれ、2位となった。
迎えた11日の試合。巨人は堀内恒夫、阪神は江夏豊と互いにエースを先発させ、必勝を期す。ただ、すでに22勝を挙げている江夏と、不振に苦しみ、ここまで12勝16敗と負け越していた堀内。立ち上がりは、その差がはっきり出た。
堀内は初回4失点で早々に降板。後続もつかまり、2回を終え、巨人は0対7と大量リードを許してしまう。しかし、前日からの連投だった江夏もピリッとせず、4回には富田勝の3ランなどで巨人が4点を奪った。
これで江夏を引きずり下ろすと、6回には黒江透修のソロの後、代打の萩原康弘が逆転3ランで9対7と試合をひっくり返す。
阪神も負けてはいない。7回に藤田平のソロ、代打・和田徹のタイムリーで同点。さらに8回にも1点を取り、10対9とリードしたが、巨人もその裏、好調の柳田俊郎がソロ本塁打で10対10の同点とする。試合はそのまま延長10回、時間切れ引き分けとなった。3時間35分の死闘だった。
9連覇に向け、首の皮1枚つないだ巨人だったが、2回には長嶋茂雄が三ゴロのイレギュラーで右手薬指を骨折するアクシデントもあった。37歳という年齢、さらには成績不振もあって、マスコミは、このまま引退して監督就任ではと騒いだが、長嶋は「バットマン長嶋はバットを離しません。ケガをした今こそ死んでも死にきれません」と否定した。そのほかにも王貞治が腰痛、土井正三は前日に右足を3針縫うケガ。みんなボロボロだった。
試合後、川上哲治監督は
1973(昭和48)年10月12日(金)「あすは完全休養日にする。ゆっくり休んでくれ」と珍しく優しい笑顔で言ったという。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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1989(平成元)年10月12日(木) 奇跡の逆転優勝に導いたブライアント4連発
2017(平成29)年10月12日(木) 7:05
1989(平成元)年10月10日(火)までの5連勝で近鉄は自力優勝が復活。この時点で1位・西武、2位・近鉄、3位・オリックスとなったが、近鉄、オリックスとも西武とのゲーム差はわずか1だった。翌
‡1989(平成元)年10月11日(水)、西武─近鉄戦は雨で試合中止。日程が詰まっていたこともあって、
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③┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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1992(平成四)年 9月11日(金) 阪神が優勝を逃したのは“幻の本塁打”が理由だったのか
2017(平成29)年 9月11日(月) 7:05
写真◆歓喜の表情でサヨナラのホームを踏んだ八木(背番号3)だったが……
1992(平成四)年10月10日(土)、甲子園に戻っての首位・ヤクルトとの2連戦に連勝すれば、まだプレーオフの可能性もあったのだが、初戦に敗れ、目の前でヤクルト・野村克也監督の胴上げを見る屈辱を味わうことになる。では、
‡1992(平成四)年10月11日(日)、“幻の本塁打”として語り継がれる一戦を簡単に振り返る。
3対3で迎えた9回裏二死一塁だった。阪神の八木裕がフルカウントから左翼方向へ大飛球を放ち、スタンドイン。阪神のサヨナラ勝ちだ。八木はバンザイしてホームイン。阪神ナインが八木を囲み、お祭り騒ぎとなった。
しかし、ここでヤクルトの野村監督が猛抗議、37分の中断。「フェンスのラバー上部に当たってのスタンドインであり、エンタイトル二塁打」と判定が覆る。今度は中村勝広監督が怒って猛抗議した。
提訴試合を条件に試合を再開したが、そのまま互いに得点はできず、日付が変わった
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④┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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1958(昭和33)年10月21日(火) 球史に残る奇跡のドラマ完結! 西鉄が3連敗から4連勝
2017(平成29)年10月21日(土) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月21日だ。
◎宿敵・稲尾対策的中
‡1958(昭和33)年10月11日(土)、後楽園での第1戦は、西鉄・稲尾和久、巨人・藤田元司のエース対決となる。稲尾はシリーズ前に発熱し、体調を崩していたというが、三原監督はそれを味方にさえ、隠した。巨人にとって稲尾は、日本シリーズのたびに煮え湯を飲まされてきた“天敵”だ。その不調をわざわざもらしてどうする、ということだろう。
初回、巨人は二死一塁で四番の長嶋に回った。ここで右打者の長嶋は、右腕・稲尾が自信を持って投げた外角へのスライダーをなんとアウトステップしながら右翼フェンスにぶち当て、三塁打。「ショックだった。打たれるはずのない球」と稲尾。これでリズムが狂ったか、3回裏には広岡達朗にソロを浴び、4回裏にもヒットを集められると、早々に降板した。
2年続けての屈辱で、巨人ナインには多かれ少なかれ西鉄への苦手意識が植え付けられていた。ただ、新人・長嶋にそれはない。初戦の戦いはそれを証明するような試合となった。
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①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171011-11
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171012-10
③http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170911-14
④http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171021-12
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┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.385 ┃ 50円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1965(昭和40)年10月11日(月)号 大リーグが日本の投手を狙ってる?
2019(平成31)年001月25日(金) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、平日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎屋根付き球場プランが……
写真◆表紙は南海・鶴岡一人監督
今回は『1965年10月11日号』。定価は50円だ。
9月26日、対東映のダブルヘッダー第1試合の勝利で19試合を残し、南海が早々に優勝決定。大阪球場での優勝は1952年以来、13年ぶりとなる。
ただ、大独走もあって大阪球場は、この日がシーズン初の満員だった。
海の向こうでは、その南海から留学した村上雅則の活躍もあってサンフランシスコ・ジャイアンツがドジャースと優勝争いを演じていた。
これによってメジャーが日本人、特に投手に目をつけ、ジャイアンツ極東担当スカウト、原田恒男が銚子商高の木樽正明投手と接触したことは前回触れた。
原田はほかに元巨人、64年限りで解雇となっていた古賀英彦に目をつけ、アリゾナ州での教育リーグに参加させている。
古賀は近大出身の投手で巨人移籍後。外野手に転向。スイッチヒッターにも挑戦したが、芽が出なかった。ただ、古賀自身によれば、プロ入り後、下手投げ転向で背筋を痛めたことが投手失敗の原因であり、もともとの投げ方に戻せば、投手でできるはず、という。
原田はスカウトを投手に限定している理由を次のように語る。
「パワーの差ですよ。日本の打者は定規で測ったようにうまくバッティングをするが、それだけでは通用しない。あと大リーグでは攻守走三拍子のうち一つかけたらもう落第ですしね。
投手は日本人は小手先が器用ですからコントロールがよく、変化球が多彩。もちろん、先発で大エースになるというのは考えづらいが、アメリカは分業制がはっきりしているので、村上のようにリリーフ専門だったり、その個性を生かす使い方ができる」
さらにまた違った形でのアメリカからの進出のニュースもあった。
7月にアメリカから帰ってきたドリームランド社長・松尾国三が、大阪新歌舞伎座で会見を開き、ショッキングな発表をした。
日米の合弁の形で横浜ドリームランドの隣接地に屋根付き球場を作り、野球だけでなく。あらゆるスポーツを開催する、というものだ。
松尾社長はサンケイに対し、本拠地でどうかと交渉したが、断られた。
閑散とする東京の本拠地東京スタジアムの“名物”とも言われたのが、パリスの奥さん、スージー夫人。ほとんど毎日4人の子どもたちを連れて球場に現れ、旦那に声援を送った。
この夫人が最近、8ミリを球場に持ち込み、パリスの打撃フォームを熱心に撮影するようになった。
「主人が最近フォームがおかしいと言って、一度カメラに映して研究したいというものですから」
と夫人。オリオンズの担当記者は、
「アメリカ人を出稼ぎ根性丸出しというが、パリス夫婦ほど、野球のために生活を送っている家庭が日本にあるだろうか」
と感心しきり。なお、一軍はパッとしなかった東京だが、イースタンでは11勝を挙げた若手投手が注目を集めていた。球場近く北千住で生まれた“下町っ子投手”、18歳の成田文男だ。
「イースタンではまるで打たれるような気がしなかった」
と心臓の強さも感じられるコメントをしていた。
では、また月曜に。<次回に続く>
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.746 ┃ 100円
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‡1971(昭和46)年10月11日(月)号 巨人・長嶋茂雄、ふんどし一本で復活
2020(令和二)年07月07日(火) 11:31 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎巨人7連覇、裏方座談会
写真◆表紙は巨人・川上哲治監督
今回は『1971年10月11日号』。定価は100円。
9月23日、マジック2としていた巨人は後楽園で阪神を倒し、対象の中日が広島に敗れたことでリーグ7連覇が決まった。
巻頭では長嶋茂雄の手記がある。その中で、
「ことしこそ、私の十四年のプロ生活の最大の山場であった。私の野球人生の中で、もっとも印象に残るシーズンになった」
とある。それもこれも前年の.269の打率があったからだ。いや、数字というより、不振や体調不良に苦しむ中で、
「俺も歳か」
と思ったことが、長嶋としてショックだったようだ。
そこで切り替えた。
「よし、いいじゃないか。これで踏ん切りがついた。名声とか地位とかキャリアとか実績。そんな過去のものは全部脱ぎ捨てよう。そして、もう一度、生まれ変わったつもりでやろう。
素っ裸の長嶋茂雄に戻るんだ。いや、ふんどし一本の姿になって出直すんだ」
決意してみて、その考え方が気に入ったという。
「ふんどし一本の長嶋茂雄か、なかなかいいじゃないか」
こう割り切れば、強い。最終的には打率.320で首位打者、34本塁打、86打点につながった。
ただ、打点に関していえば、長嶋はそれまですべて100打点超で3年連続打点王だったが、数字が低くなった。
長嶋の下のリーグ2位の打率が.285という打低と、三番・王貞治の打率.276が影響している数字だろうか。
巨人のスコアラーら裏方さんたちの座談会もあった。彼らが挙げた印象的な試合は、やはり9月15日、阪神─巨人戦(甲子園)。王貞治が江夏豊から放った逆転3ランだった。
少し抜粋しよう。
大森光夫用具担当・・・ぼくはやはりこの間の王ちゃんのホームランが一番印象に残りましたね。江夏があそこまで投げていましたからね。打ったほうも打たれたほうも、江夏にしても、もうあそこまで自分がやったんだから、という気持ちがあったんじゃないですか。
峰国安バッティング投手・・・あの日はフリーバッティングではあまり当たっていなかったですね。
高橋正勝スコアラー・・・よくない、よくない。
淡河弘ブルペン捕手・・・あのときはボックスで打ちながら、きょうは根っこか先っぽばっかりだなと言っておったんです。芯に一つも当たらんって。
大森・・・ホームランを打ってかえってくるとき、青くなっていたからね。
淡河・・・あの瞬間はほんとうに感激のシーンだったもの。みんな、涙が出るようなシーンだった。
大森・・・ベンチに帰ってきた王ちゃんは何が何だか分からんと言ったもんね、自分で。ピッチャーが江夏で、しかもよかっただけにね。では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.747 ┃ 100円
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‡1971(昭和46)年10月11日(月)号 足踏みした巨人V7は面白かったのか面白くなかったのか
2020(令和二)年07月08日(水) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎阪急のスパイ戦略
写真◆この年22勝を挙げた阪急・山田久志の熱投
今回は『1971年10月11日号』。定価は100円。
まだ優勝は決まっていないが、阪急がセの覇者巨人の調査を始めた。
西本幸雄監督は「優勝が決まってから」と腰が重かったが、海軍情報部にいたという渓間代表が積極的に動いていたらしい。
大石清スカウトと根来広光コーチがその先兵。広島市民での広島─巨人戦を視察したが、
「ONの前にランナーを出し、どかんと一発を食らい、大量点になるという展開だったが、いまさらこんな試合を見てもね。こちらの知りたいのは、ONが打たないとき、どんな作戦で勝ちにくるかだったんですけどね」
と根来コーチ。
試合には大石スカウトがビデオを持ち込み、三塁コーチの牧野茂を中心に撮影していた。おそらくこれをクセ盗みの達人スペンサーを中心に検証していくのだろう。また、広島出身の大石のつてで、広島で王キラーと言われた大羽進に話を聞いたというウワサもあった。
一方、ナインは東映戦で金田留広が投げるのを熱望していたという。
理由は金田のカーブが巨人・堀内恒夫に似ていると言われていたからだ。
「金田のカーブの曲がるタイミングと堀内のカーブが似ているので、金田を打てれば掘内を打ち崩せる」
ということらしい。
巨人サイドでは、かつての盟友・千葉茂が川上哲治にインタビューした記事(コラムの中だが)があったので抜粋していく。
千葉 面白い野球が見られなかったのは残念だったな。哲ちゃんよ、お前さん、今年は面白い野球を見せるって、かっこいいセリフを吐いたもんな。それが…。
川上 面白かったろうが、これくらいよろめいてみせての優勝なんてないじゃないか。強さ弱さの、このつかみどころがないところなんて、面白い巨人やないか、ハハハ。
千葉 冗談じゃないぜ、哲ちゃん、面白い野球というものは、もっと奥深いもんから出てくるもんやぞ。
川上 おい、茂やん、俺のせいばかりにするなよ。よそが弱すぎたことも言わんかな。そうだろ、そのせいだぜ。
千葉 よそが強けりゃ、もっと面白くしてやったというわけか。
実は73年のV9の後の対談でも同じようなやり取りがあった。あの年は、巨人の足踏みで大混戦となったが、千葉は「そういうシーズンを面白いとは言わない」と否定した。
ミスや勝ち切れない戦いで自身が足踏みをした混戦で優勝しても、巨人では誇れない。そんなシーズンを面白いとは言えない、ということだった。
巨人が後半戦はボロボロの戦いだったことは事実。阪急との日本シリーズに水を向けられ、
千葉 しかし正直言って、今年はやられるかもしれんな。
川上 うん、やられるとしたら今年かもしれん。
というやり取りがあった。川上監督が心配していたのは、福本豊をはじめとする阪急の足だ。捕手・森昌彦の肩が衰えてきていただけに、かなりかき回される可能性があった。
もう一つは左打者。阪急には山田久志、足立光宏と右打者に強いアンダーハンドが二枚いるだけに、左、特に王の復調は絶対的なポイントとも言われた。では、またあした。<次回に続く>
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③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.748 ┃ 100円
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‡1971(昭和46)年10月11日(月)号 進まぬ西鉄ライオンズの身売り
2020(令和二)年07月09日(木) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎1971年二軍動向
写真◆ジュニアオールスターでホームランを打った中日・大島康徳
今回は『1971年10月11日号』。定価は100円。
定期的に書いている話になっているが、西鉄ライオンズが、またも身売り話で揺れていた。
1971年、稲尾和久監督の下、最終的には38勝84敗8分で最下位。
規定打席到達者は、わずか2人(31人中)で最高が16位の東田正義で.284、もう1人が22位の基満男で.276。
投手は3人(23人中)で、最高が16位の高橋明で3.73(14勝13敗)。ほか東尾修が17位の3.75(8勝16敗)、河原明が23位で5.45(4勝16敗)。
ほか規定には達していないが、4勝10敗の三輪悟(4.20)。この4人で38勝中30勝。
高橋明は巨人から移籍1年目だった。
これでは最下位も仕方ない。
ただ、急に弱くなったわけではなく。
68年から5位、5位、6位と来ての最下位。問題は観客動員だ。
1969年は少ないとはいえ、1試合平均8500人ほどだったが、黒い霧事件があった70年は6000人ちょっと。そして、この年は4000人を割るのではないかと言われていた。
年間指定席もあり、実際に球場に来ていた平均値は2000人程度とも言われていた。
「正直なところ、いかに熱心にライオンズを応援してくれるファンがいても2000や3000人のお客さん相手では商売になりませんからね」
とは西鉄重役の言葉だ。
身売りはすでに動かしがたい方針ながら、西鉄側のネックは「地域貢献」だ。九州密着の運輸サービス業である西鉄にとって、ライオンズ経営は地域のお客さんへの恩返しの位置づけもあった。したがって、身売りするにしても福岡での球団経営に興味がないのでは困る。かつて62年に東芝との業務提携話があったときも、このポリシーから立ち消えになったという。
ほかにもいくつか興味を示したところもあったようだが、折からのドルショックもあって二の足を踏んでいたらしい。
1ドル360円の固定相場が崩れ、日本の輸出産業は壊滅的な打撃を受けるだろうと言われていた。
イースタン・リーグではヤクルトが初優勝を飾ったが、監督が異色だ。
田口周。プロ経験はなく、元スポーツ新聞記者で、日大三高監督として甲子園出場にも導いた男だ。
「選手とわれわれの心が通ったときが一番うれしかった。でも優勝はファームの最終の目標じゃない。ファームにはこれで終わりじゃないんだから」
と田口監督。プロ経験がない監督に、選手も最初は抵抗があったのかもしれない。
一方もウエスタンは中日が独走でV。この年は大分出身同学年の2人のバッターが注目された。
1人は打率.345で首位打者の大田卓司(西鉄)、14本塁打、39打点で本塁打王、打点王の大島康徳(中日)だ。
ともに一軍では本領発揮といかなかったが、次年度以降の活躍が期待されていた。
では、またあした。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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‡2017(平成29)年10月11日(水)
学校生活や交友関係に思い悩み、心に深い傷を負ったり、自ら死を選んでしまったりする子どもたちがあとを絶たない。そうした現象を受けて、ネットニュース編集者の中川淳一郎氏は「小中学校の友人関係なんて、まったく重要ではない」「人間関係のどうしようもない現実を、大人が子どもにきちんと教えなければならない」と指摘する。その意図とは――。
◆友人関係に絶望する子どもたち
小中学生の悩みの大半は、「友人関係」にあるのではなかろうか。自分自身の子ども時代を振り返ってみても、学校での人間関係が当時の人生にかなりの影響を与えていたと思うし、行動様式にも影響を与えていた。現在いじめられていたり、不登校になっていたりする小中学生も、友人関係に悩んだ末に、そうした望まぬ結果に至ってしまったケースが多いと思われる。
小中学生のころ、とりわけ小学生のころは、通知表の成績がヒドくても、実際のところ大した問題ではない。また、親に反抗したり、きょうだいとケンカしたりしても、最終的には自分を守ってくれる存在だから、ときには家族と衝突するのも成長の過程としてアリだろう。
一方、友人関係は、ひとたびいじめや「シカト」の標的となってしまうと、学校にいる間は針のムシロ状態に陥る。なんとか好いてもらおうと、いじめグループに媚びはじめでもしたら、ますますいじめられたり、使いっ走りにされたりしてしまう。そして、家に帰ってからも心には常に暗雲が立ちこめ、人生があまりにも苦悩に満ちたものとなる。
絶望感にさいなまれて、なかには自殺してしまう子どももいる。学校でのクソみたいな人間関係に戻る日である毎年9月1日──夏休みが終わり新学期を迎えるその日に、子どもの自殺が増えるのだと聞く。本当に痛ましいかぎりだ。
◆小中学校の人間関係なんて、クソ
ただ、私が学校の人間関係に悩む子やその親に強く言いたいのは「小中学校の友人なんて、どうでもいい」ということだ。当然、仲良く付き合える友人が少しでもいるほうが学校は楽しいだろう。だが、長い人生を考えると、小中学校時代の人間関係ほどどうでもいいものはない。慶應の幼稚舎から大学までずっと一緒、といった場合は別かもしれないが、公立の小中学校であれば同じエリアで通学するにしても9年間である。
確かに9年は長い。しかし、その後の人生を考えるとそれほど長くない。「長いけど、長くない」というヘンな言い回しになったが、ここで強調したいのは「長い人生のなかで、大して重要ではない小中学校の人間関係など、クソみたいなもの。そう思って、軽く扱っても何ら問題ない」という事実だ。それを、子どもたちにちゃんと教えてあげてもよいのではなかろうか。もちろん、学校で良好な人間関係を築いているのであれば、それはそれで素晴らしい。でも、学校内での人間関係が人生のすべてではないし、未来に絶望する必要もない、という点だけは子どもにきちんと伝えるべきである。
次ページ「子どもは純粋」のウソ
http://president.jp/articles/-/23291
◆「子どもは純粋」のウソ
世間はとかく、子どもの世界を理想化したがる。「子どもは天使だ」「子どもの純粋な気持ちを大切にしたい」「子どもなりのバランス感覚を信じ、大人は余計な口出しをしないほうがよい」といった文脈で、きれいごとを語ろうとする。だが、何を美化しておるのだ。したり顔でそんなことを言う大人は、自分自身、そこまで立派な子どもだったのだろうか?
参考までに、私の幼少時代、自分や周囲の子どもたちがやっていたことを思い出してみよう。
・スーパーで集団万引き
・街中の自販機の下をのぞき込み、小銭を集める
・飲食店の裏に置いてあるファンタやコカ・コーラ、スプライトの瓶を盗み、酒屋に持って行って換金する
・プールや市民体育館のコイン返却式ロッカーをめぐり、残されたコインを盗む
・小6の時、裏ビデオを共働き家庭の家に持っていき皆で鑑賞
・父親のウイスキーを皆で回し飲みする
・エロ本が大量に落ちているという場所へ、皆で遠征隊を組んで取りに行く
・その現場に別の小学校の連中がいたらケンカになる
・差別的な内容のテレビ番組を観て大笑いし、該当するような生徒を翌日皆で笑う
・人種差別、障害者差別、貧乏差別を平然とする者もいる
所詮はこんなものだ。いずれも未熟さゆえの行動ではあるが、これらの行為はどう考えても「天使」ではない。まあ、「カネが欲しい」「誰かをバカにしたい」「エロいことを知りたい」という気持ちと行動が一致しているところだけは「純粋」かもしれないが。
◆大事なのは、いま一緒に仕事をしている人々
ここで私の身の上を振り返ってみるが、小学校は4年生まで川崎市立鷺沼小学校へ行き、5年生からは立川市立第八小学校に通った。中学校は同じエリアの立川第六中学校である。鷺沼小学校時代の知り合いには、今年、タイのバンコクでひとり会った。いわゆる幼なじみで、親同士の仲がよかった女の子だ。彼女は現在バンコク在住で、私もたまたま年末年始をバンコクで過ごすことになっていた。だから、直前にFacebookで連絡を取り合い、22年ぶりに再会したのである。その前に彼女に会ったのは35年も前だ。いまもつながりがある鷺沼小学校の知り合いは、他に誰もいない。というか、もはや名前さえひとりも思い出せないほどだ。
立川の小中学校出身者でいまでも接点があるのは、同じ大学・会社にいった男性ひとり、そして毎年結婚記念日にお祝いメールを送る女性ひとり。定期的にやり取りがあるのは、この2人だけである。それともうひとり、先日私がLINEアカウントを乗っ取られた(なりすまし詐欺に利用された)とき、「おい、お前、オレに変なメッセージよこすなよ! いやぁ、久しぶりだなぁ」と電話をかけてきてくれた男性がいる。
幸いなことに、私は子どものころ、立川の学友たちとよい関係を築けていたと思う。とはいえ、いま、彼らのことが大事か? と問われると、正直なところまったく大事ではない。むしろ大事なのは、現在仕事をしている取引先の皆さまがたである。一緒に仕事をしている期間が3カ月の人のほうが、小中学校時代の友人より大事なのだ。なにより「共通言語」が多い。率直なところ、業界関係者が集まる飲み会で初めて会った人のほうがはるかに話していて楽しいし、有益な情報を得ることもできる。
次ページ?交友関係は変化していくもの
http://president.jp/articles/-/23291?page=2
◆交友関係は折々で変化していくもの
35歳を過ぎた人であれば分かるかと思うが、非常に貴重なもの、特別なものだと感じていた高校・大学時代の友人であっても、30歳を超えてしまえばそれほど大事な存在ではなくなっていることが多い。どう考えても自分の配偶者、子ども、会社の上司、同僚、取引先のクソオヤジとの人間関係のほうが、いまの自分の生活と密接に関係しているし、重視せざるを得ないのである。なかには親が要介護になり、面倒をみることに多大な時間と労力を割かなければならない人もいるだろう。
正直、社会人にとって「友人」に割く時間はかなり限られてしまうのだ。それはあなただけでなく、あなたの友人にとってもそうなのである。学生時代の友人となかなか会わなくなり、さらにはメールの返事も返ってこなくなった……。一瞬、寂寥感を覚えるかもしれないが、それは友人もあなたも成長した、ということを意味している。それもまたよし。人間関係というものはその時々で変わっていくものであり、一回「貴重なもの」認定したからといって、それを一生引きずる必要はない。
これは、いま小中学校で過ごしている子どもたちにも当てはまる。親は「長い人生で、交友関係は変わっていくもの」と理解しているのだろうが、ならばなぜ、そのことをきちんと子どもにも教えないのか。わが子に対し「小中学校の人間関係──とくにあなたを卑しめたり、危害を加えたりする人間なんて、大事でも何でもない。むしろ、あなたのほうから無視してやれ。もしつねられたら、つねられなくなるまでつねり返してやれ」と教育すればいい。なんだったら空手や柔道でも習わせ、いじめに遭ったときには逆に正拳突きや大外刈りでも食らわせてやればいいのだ。相手はビビッて、あなたの子どもをもういじめなくなるかもしれない。
◆反撃してもいいし、逃げてもいい
「小さい時期に、そんな殺伐とした人間関係の一面を教えてしまったら、将来どんな子になるか……」などと心配になるかもしれないが、気にすることはない。むしろ、いじめられた経験のほうが、将来によほど悪影響をもたらす。親は自分の子どもに「あなたを不幸せにする連中は、人生に不要な連中なので、まったく大事にする必要はない。なにがあろうと、私はあなたのことを徹底的に守るし、全面的な愛情をもって接する。だから、大丈夫」と自信を持って宣言すればいい。
いじめられた体験は、一生のトラウマになるもの。だが、いじめた体験は、案外忘れてしまう。それならば、「孤立したとしても、いじめてきた相手には容赦なく反撃する。一対多でも意に介さず、いじめをしてきたクソガキたちをいじめ返す」くらいの行動に出て、周囲から敬遠されるくらいの人間になったほうがいい。それができなければ、学校から逃げたって構わない。
次ページ?ドライな人間関係を習得させよ
http://president.jp/articles/-/23291?page=3
◆ドライな人間関係を子どもにも習得させよ
小中学生は「学校はとにかく大事」「クラスメイトとは仲良くしなくてはならない」といった価値観を植え付けられ、集団生活に耐えることを強いられる。そのため、理不尽ないじめに遭ったとしても、まずは我慢することを選択しがちだ。そして、「一生、このクソみたいな人間関係が続くのだろうか……」といった不安や絶望感を抱え込んでいく。小中学生にとっては、狭い学校が世界のすべて。その腐った世界が、未来永劫続くとすら感じているかもしれない。
だが、高校や大学に行くと、世界は大きく広がっていく。社会人になれば、さらに世界は広がる。小中学校時代の愚にも付かないような連中とは完全に縁を切ることができる。そして、もう二度と会うこともなければ、思い出すこともなくなる。
居場所は学校以外にいくらでも見つかるし、気持ちよく付き合える人もたくさん存在している。その事実を小中学校のうちから子どもたちに教え、性に合わない相手とはお茶を濁す程度の人間関係でやり過ごす術を身につけさせればいい。われわれ大人たちが、日々していることだ。名刺交換をしただけで、すぐには顔も思い出せないような無数の人々と、ドライな人間関係を構築して、やり過ごす。それでいいではないか。
そもそも、自分の人生において本当に重要な人なんて、数える程度しかいないもの。それさえ大切にしていれば、十分幸せになれる。
◆【まとめ】今回の「俺がもっとも言いたいこと」
・子どもには、きれいごとではなく、人間関係の現実を教えるべきだ。
・小中学校の交友関係など、長い人生においては大して重要ではない。いじめてきた相手は容赦なく反撃してもいいし、学校から逃げてもいい。
・居場所はいまいる場所以外にいくらでも見つかるし、本当に大切な人だけ大切にすれば、きっと幸せになれる
中川淳一郎(なかがわ・じゅんいちろう)1973年東京都生まれ。ネットニュース編集者/PRプランナー。1997年一橋大学商学部卒業後、博報堂入社。博報堂ではCC局(現PR戦略局)に配属され、企業のPR業務に携わる。2001年に退社後、雑誌ライター、「TVブロス」編集者などを経て現在に至る。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』『ネットのバカ』『ウェブでメシを食うということ』『バカざんまい』など多数。
http://president.jp/articles/-/23291?page=4
「昭和の通勤電車」今では信じられない地獄絵図
「失神者」や「ガラスの破損」は日常茶飯事
2019(平成31)年02月19日(火) 5:00 服部淳:コラムニスト
写真◆昭和の通勤ラッシュは「地獄」とまで言われていた(写真は1962(昭和37)年のものです=写真:Everett Collection/アフロ)
「タクシーは乱暴運転が当たり前」「自分の血液が売り物になった」など、昭和の時代は今では信じられない常識が多くありました。昭和の「通勤ラッシュ」もその1つ。今よりもはるかに混雑していた通勤ラッシュの実情について、コラムニストの服部淳氏が解説します。この原稿を執筆中に、2017(平成29)年度の都市部の鉄道混雑率が国土交通省より発表された。それによると、東京圏の混雑率は163%まで下がったそうだ。この混雑率とは、ピーク時(ラッシュアワー)1時間平均の混雑度の割合で、現在のところ、ほぼ目視で測定しているらしい。目安としては、混雑率100%が、座ることができない人もいるが、他人に触れることなく乗っていられる状態のようで、150%になると「広げて楽に新聞を読める」状態(最近は新聞を読んでいる人の姿もぐっと少なくなっているので、新たな基準が必要かもしれない)、200%が「体がふれあい相当圧迫感があるが、週刊誌程度なら何とか読める」状態、250%になると「電車がゆれるたびに体が斜めになって身動きができず、手も動かせない」状態とのことだ(混雑率100%以外は国土交通省の資料より)。
■「通勤地獄はマンガだ」東京で通勤、通学していて混雑路線を利用しているなら、毎朝200%から250%の状態だよ、とケチもつけたくなるが、あくまでも東京圏主要31区間の平均であり、混雑する車両から比較的空いている車両までの平均であり、混雑する急行や快速列車と、若干空いている各駅停車との平均でもある。この調査が始まった1975(昭和50)年度の混雑率を見ると、東京圏で223%となっているので、それでも東京近郊の通勤ラッシュはだいぶ緩和されているのである。さらに調査開始以前の昭和30年代から40年代後半の高度経済成長期には、通勤ラッシュの混雑率は300%を超えていたともいう。混雑率300%超えとは、いったいどれだけの混雑なのだろうか。当時の新聞を調べてみると、
1965(昭和40)年06月07日(月)の読売新聞夕刊に“通勤地獄はマンガだ”というセンセーショナルな見出しが紙面を飾っていた。東京の新宿駅のあまりにもひどい朝のラッシュを、運輸省(現・国土交通省)の大臣が視察したというニュースなのだが、この大臣が視察後の会見で述べた「あえて“マンガ”だといおう。すさまじいマンガだ」が、この見出しのもととなっている。
→次ページ「地獄」とまで言われた当時のラッシュ
https://toyokeizai.net/articles/-/265054
添えられた写真には、4、5人の駅係員(いわゆる「押し屋」)が乗客を中央線の上り列車に押し込んでいる様子を運輸大臣が視察する姿を捉えている。
■毎日1人は失神する通勤地獄 ⇒ その視察が混雑をさらにひどくしているのではないだろうかとも思えるが、押し込まれている人は、まるで拷問でも受けているような悲痛の表情だ。この日は2人の女性が失神したそうだが、駅員の話によると毎日1人は失神するのだとか。
1965(昭和40)年06月07日(月)の読売新聞夕刊より写真◆朝の通勤ラッシュのひどさを伝える新聞記事
日本国有鉄道(国鉄、現・JRグループ)の通勤電車に冷房車が登場したのは1970(昭和45)年なので、当然クーラーはない。この混雑に梅雨入り前の蒸し暑さが加われば、そりゃ失神する人も頻発するだろう。だが、単純に混雑だけでいえば、この視察があった6月より、乗客が厚着して“着ぶくれ”になる冬場のほうがひどくなる。視察以前の冬の新聞を探ってみると、
1963(昭和38)年12月12日(木)には、国鉄常磐線の松戸駅で〈ギュウ詰めの乗客のゆり返しでガラスが破れた〉(同日付の朝日新聞夕刊より)という事故が、翌
1964(昭和39)年01月11日(土)には、国鉄中央線において1本故障が出たためにダイヤが大幅に乱れ大混雑、〈新宿駅では、電車のガラス五枚が割れ、電車のドアが七カ所もはずれる〉(同日付の朝日新聞夕刊より)という事故が起きていた。当時のガラスは現在のものより強度がなかったので、ラッシュで割れることもたびたびあり、ドアもよく壊れた。ケガの恐れもあるし、混みすぎてキツイというだけではすまなかったのだ。電車に押し込まれた際に靴が脱げてしまう人も多かったようで、国鉄ではサンダルの貸し出しも行っていたり、新橋駅ではラッシュでちぎれたボタンをつける商売をする店も出現したりした。いずれもこの時代の通勤地獄を物語るエピソードである。
→次ページ「混雑率ワーストの区間」はどこ?
https://toyokeizai.net/articles/-/265054?page=2
再び国土交通省の鉄道混雑率の調査に戻ろう。全体の混雑率のほかにも混雑率が高い11の区間が紹介されていた。見事(?)ワーストに輝いたのは、すっかり常連となっている東京地下鉄(東京メトロ)東西線の木場駅から門前仲町駅に向かう区間で、1時間平均の混雑率は199%だった。東京のベッドタウンである千葉県船橋市から、集合住宅も多い東京都江戸川区を経て、オフィスビルが林立する大手町方面を結ぶ混雑必至の路線なので(東京圏在住者なら特に)納得の順位である。
■地道に改善されていった混雑事情 ⇒ 全体の混雑率が下がってきた現代に、199%もの混雑率である東西線だが、ラッシュがさらにひどかった時代には、どんな恐ろしい状態だったのだろうか。新聞をさかのぼっていくと、
1966(昭和41)年10月12日(水)の朝日新聞(東京版)に、東西線に関するこんな意外な見出しが載っていた。「相変らずガラ空き?都心乗入れの地下鉄東西線」。見出しの上にはガラガラの車内の写真が掲載されていて、新聞には〈中野駅で
‡1966(昭和41)年10月11日(火)午前10時うつす〉と撮影時間が併記されている。当該新聞の発行日は水曜なので、撮影日は平日の午前中ということになる。通勤ピークは過ぎているとはいえ、1人も座っていないロングシート(横向きの長椅子)があるというのは、都心の平日の日中にはまず見ない光景だ(始発駅なので、発車までまだ時間があったのかもしれないが)。実は地下鉄東西線は、この記事の2年前になる1964年に高田馬場駅と九段下駅の間で開業した新路線で、
1966(昭和41)年03月に中野駅と高田馬場駅間、九段下駅と竹橋駅間が開業。この記事の11日前に竹橋駅と大手町駅間が開業したばかりのときだった。中野から大手町(東京駅とほぼ同位置)を結ぶ路線でしかないため、国鉄中央線とルートはさほど変わらず、利用メリットがまだ少なかったころだったのだ。その後、1967(昭和42)年に東陽町駅まで延伸、
1969(昭和44)年03月に東陽町駅と西船橋駅(千葉県)間が開業し、現在のような利用価値の高い(混雑しやすい)路線へと成長していったのだった。このような地下鉄を中心とした新路線が次々と開業し、地下鉄と私鉄の相互乗り入れや、路線の複線化などさまざまな策が施され、東京圏をはじめとする混雑は地道に緩和されていったのである。
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https://toyokeizai.net/articles/-/265054?page=3
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┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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1971(昭和46)年10月11日(月) 現役の横綱玉の海関が虫垂炎の手術後、27歳で急死 ⇒ 大相撲の第51代横綱で6度の優勝を果たしていた玉の海関が、虫垂炎の手術を受けた後、病院で急死した。退院前日に体調が急変。死因は肺血栓だった。ライバル北の富士関とともに「北玉時代」を築き、大横綱への道を歩みだしたかに見えた27歳が、悲劇的な死を迎えた。写真は、葬儀の様子【時事通信社】
1874(明治七)年10月11日(日) 新橋駅(後の汐留駅)構内で国内初の鉄道事故となる列車脱線転覆が発生 ※2020(令和二)年記事追加
1968(昭和43)年10月11日(金)「連続射殺事件」の永山則夫元死刑囚、最初の被害者を東京で射殺
1985(昭和60)年10月11日(金) 国鉄の分割・民営化を閣議決定 ※2020(令和二)年記事削除
https://www.jiji.com/jc/daily
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┃ 王貞治 ホームラン(本塁打)記録 ┃
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‡1976(昭和51)年10月11日(月) 715号 阪神タイガース23回戦 後楽園球場 8回裏 山本和行 右越2ラン 世界2位単独
映像◆王貞治 ベーブ・ルースの記録を抜く715号ホームランhttps://youtu.be/2c_OJ3NpL6U
‡1976(昭和51)年10月11日(月) 715号 阪神タイガース23回戦 後楽園球場 8回裏 山本和行 右越2ラン 世界2位単独
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┃ 王貞治 節目の記録 ┃
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‡1968(昭和43)年10月11日(金) 1000四球 対中日ドラゴンズ27回戦 後楽園球場 9回裏に小川健太郎から ※史上初
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https://ja.wikipedia.org/wiki/王貞治
https://www.uta-net.com/song/2025
https://www.uta-net.com/song/78844
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1973(昭和48)年10月11日(木) 0対7から10対10のドロー。巨人対阪神、伝説の死闘
‡2017(平成29)年10月11日(水) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月11日だ。
写真◆6回に代打で登場し、逆転3ランを放った萩原。塁を回りながらバンザイした
最終戦直接対決で巨人が阪神に大勝し、リーグ9連覇を飾った1973年。試合後、観客が一斉に甲子園のグラウンドになだれ込んだ大暴動の印象が強い方もいるだろう。
この年は、そこに至るまでにも、GTは激しい戦いを幾度となく繰り広げた。
そのハイライトとも言えるのが、10月11日の後楽園決戦だ。わずかの差だが、首位に立っていた巨人だが、前日の
1973(昭和48)年10月10日(水)の同カードで、2対5から阪神・田淵幸一に逆転の満塁弾を浴び、敗戦。ゲーム差はないが、勝率で抜かれ、2位となった。
迎えた11日の試合。巨人は堀内恒夫、阪神は江夏豊と互いにエースを先発させ、必勝を期す。ただ、すでに22勝を挙げている江夏と、不振に苦しみ、ここまで12勝16敗と負け越していた堀内。立ち上がりは、その差がはっきり出た。
堀内は初回4失点で早々に降板。後続もつかまり、2回を終え、巨人は0対7と大量リードを許してしまう。しかし、前日からの連投だった江夏もピリッとせず、4回には富田勝の3ランなどで巨人が4点を奪った。
これで江夏を引きずり下ろすと、6回には黒江透修のソロの後、代打の萩原康弘が逆転3ランで9対7と試合をひっくり返す。
阪神も負けてはいない。7回に藤田平のソロ、代打・和田徹のタイムリーで同点。さらに8回にも1点を取り、10対9とリードしたが、巨人もその裏、好調の柳田俊郎がソロ本塁打で10対10の同点とする。試合はそのまま延長10回、時間切れ引き分けとなった。3時間35分の死闘だった。
9連覇に向け、首の皮1枚つないだ巨人だったが、2回には長嶋茂雄が三ゴロのイレギュラーで右手薬指を骨折するアクシデントもあった。37歳という年齢、さらには成績不振もあって、マスコミは、このまま引退して監督就任ではと騒いだが、長嶋は「バットマン長嶋はバットを離しません。ケガをした今こそ死んでも死にきれません」と否定した。そのほかにも王貞治が腰痛、土井正三は前日に右足を3針縫うケガ。みんなボロボロだった。
試合後、川上哲治監督は
1973(昭和48)年10月12日(金)「あすは完全休養日にする。ゆっくり休んでくれ」と珍しく優しい笑顔で言ったという。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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1989(平成元)年10月12日(木) 奇跡の逆転優勝に導いたブライアント4連発
2017(平成29)年10月12日(木) 7:05
1989(平成元)年10月10日(火)までの5連勝で近鉄は自力優勝が復活。この時点で1位・西武、2位・近鉄、3位・オリックスとなったが、近鉄、オリックスとも西武とのゲーム差はわずか1だった。翌
‡1989(平成元)年10月11日(水)、西武─近鉄戦は雨で試合中止。日程が詰まっていたこともあって、
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③┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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1992(平成四)年 9月11日(金) 阪神が優勝を逃したのは“幻の本塁打”が理由だったのか
2017(平成29)年 9月11日(月) 7:05
写真◆歓喜の表情でサヨナラのホームを踏んだ八木(背番号3)だったが……
1992(平成四)年10月10日(土)、甲子園に戻っての首位・ヤクルトとの2連戦に連勝すれば、まだプレーオフの可能性もあったのだが、初戦に敗れ、目の前でヤクルト・野村克也監督の胴上げを見る屈辱を味わうことになる。では、
‡1992(平成四)年10月11日(日)、“幻の本塁打”として語り継がれる一戦を簡単に振り返る。
3対3で迎えた9回裏二死一塁だった。阪神の八木裕がフルカウントから左翼方向へ大飛球を放ち、スタンドイン。阪神のサヨナラ勝ちだ。八木はバンザイしてホームイン。阪神ナインが八木を囲み、お祭り騒ぎとなった。
しかし、ここでヤクルトの野村監督が猛抗議、37分の中断。「フェンスのラバー上部に当たってのスタンドインであり、エンタイトル二塁打」と判定が覆る。今度は中村勝広監督が怒って猛抗議した。
提訴試合を条件に試合を再開したが、そのまま互いに得点はできず、日付が変わった
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④┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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1958(昭和33)年10月21日(火) 球史に残る奇跡のドラマ完結! 西鉄が3連敗から4連勝
2017(平成29)年10月21日(土) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月21日だ。
◎宿敵・稲尾対策的中
‡1958(昭和33)年10月11日(土)、後楽園での第1戦は、西鉄・稲尾和久、巨人・藤田元司のエース対決となる。稲尾はシリーズ前に発熱し、体調を崩していたというが、三原監督はそれを味方にさえ、隠した。巨人にとって稲尾は、日本シリーズのたびに煮え湯を飲まされてきた“天敵”だ。その不調をわざわざもらしてどうする、ということだろう。
初回、巨人は二死一塁で四番の長嶋に回った。ここで右打者の長嶋は、右腕・稲尾が自信を持って投げた外角へのスライダーをなんとアウトステップしながら右翼フェンスにぶち当て、三塁打。「ショックだった。打たれるはずのない球」と稲尾。これでリズムが狂ったか、3回裏には広岡達朗にソロを浴び、4回裏にもヒットを集められると、早々に降板した。
2年続けての屈辱で、巨人ナインには多かれ少なかれ西鉄への苦手意識が植え付けられていた。ただ、新人・長嶋にそれはない。初戦の戦いはそれを証明するような試合となった。
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┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.385 ┃ 50円
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‡1965(昭和40)年10月11日(月)号 大リーグが日本の投手を狙ってる?
2019(平成31)年001月25日(金) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、平日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎屋根付き球場プランが……
写真◆表紙は南海・鶴岡一人監督
今回は『1965年10月11日号』。定価は50円だ。
9月26日、対東映のダブルヘッダー第1試合の勝利で19試合を残し、南海が早々に優勝決定。大阪球場での優勝は1952年以来、13年ぶりとなる。
ただ、大独走もあって大阪球場は、この日がシーズン初の満員だった。
海の向こうでは、その南海から留学した村上雅則の活躍もあってサンフランシスコ・ジャイアンツがドジャースと優勝争いを演じていた。
これによってメジャーが日本人、特に投手に目をつけ、ジャイアンツ極東担当スカウト、原田恒男が銚子商高の木樽正明投手と接触したことは前回触れた。
原田はほかに元巨人、64年限りで解雇となっていた古賀英彦に目をつけ、アリゾナ州での教育リーグに参加させている。
古賀は近大出身の投手で巨人移籍後。外野手に転向。スイッチヒッターにも挑戦したが、芽が出なかった。ただ、古賀自身によれば、プロ入り後、下手投げ転向で背筋を痛めたことが投手失敗の原因であり、もともとの投げ方に戻せば、投手でできるはず、という。
原田はスカウトを投手に限定している理由を次のように語る。
「パワーの差ですよ。日本の打者は定規で測ったようにうまくバッティングをするが、それだけでは通用しない。あと大リーグでは攻守走三拍子のうち一つかけたらもう落第ですしね。
投手は日本人は小手先が器用ですからコントロールがよく、変化球が多彩。もちろん、先発で大エースになるというのは考えづらいが、アメリカは分業制がはっきりしているので、村上のようにリリーフ専門だったり、その個性を生かす使い方ができる」
さらにまた違った形でのアメリカからの進出のニュースもあった。
7月にアメリカから帰ってきたドリームランド社長・松尾国三が、大阪新歌舞伎座で会見を開き、ショッキングな発表をした。
日米の合弁の形で横浜ドリームランドの隣接地に屋根付き球場を作り、野球だけでなく。あらゆるスポーツを開催する、というものだ。
松尾社長はサンケイに対し、本拠地でどうかと交渉したが、断られた。
閑散とする東京の本拠地東京スタジアムの“名物”とも言われたのが、パリスの奥さん、スージー夫人。ほとんど毎日4人の子どもたちを連れて球場に現れ、旦那に声援を送った。
この夫人が最近、8ミリを球場に持ち込み、パリスの打撃フォームを熱心に撮影するようになった。
「主人が最近フォームがおかしいと言って、一度カメラに映して研究したいというものですから」
と夫人。オリオンズの担当記者は、
「アメリカ人を出稼ぎ根性丸出しというが、パリス夫婦ほど、野球のために生活を送っている家庭が日本にあるだろうか」
と感心しきり。なお、一軍はパッとしなかった東京だが、イースタンでは11勝を挙げた若手投手が注目を集めていた。球場近く北千住で生まれた“下町っ子投手”、18歳の成田文男だ。
「イースタンではまるで打たれるような気がしなかった」
と心臓の強さも感じられるコメントをしていた。
では、また月曜に。<次回に続く>
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.746 ┃ 100円
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‡1971(昭和46)年10月11日(月)号 巨人・長嶋茂雄、ふんどし一本で復活
2020(令和二)年07月07日(火) 11:31 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎巨人7連覇、裏方座談会
写真◆表紙は巨人・川上哲治監督
今回は『1971年10月11日号』。定価は100円。
9月23日、マジック2としていた巨人は後楽園で阪神を倒し、対象の中日が広島に敗れたことでリーグ7連覇が決まった。
巻頭では長嶋茂雄の手記がある。その中で、
「ことしこそ、私の十四年のプロ生活の最大の山場であった。私の野球人生の中で、もっとも印象に残るシーズンになった」
とある。それもこれも前年の.269の打率があったからだ。いや、数字というより、不振や体調不良に苦しむ中で、
「俺も歳か」
と思ったことが、長嶋としてショックだったようだ。
そこで切り替えた。
「よし、いいじゃないか。これで踏ん切りがついた。名声とか地位とかキャリアとか実績。そんな過去のものは全部脱ぎ捨てよう。そして、もう一度、生まれ変わったつもりでやろう。
素っ裸の長嶋茂雄に戻るんだ。いや、ふんどし一本の姿になって出直すんだ」
決意してみて、その考え方が気に入ったという。
「ふんどし一本の長嶋茂雄か、なかなかいいじゃないか」
こう割り切れば、強い。最終的には打率.320で首位打者、34本塁打、86打点につながった。
ただ、打点に関していえば、長嶋はそれまですべて100打点超で3年連続打点王だったが、数字が低くなった。
長嶋の下のリーグ2位の打率が.285という打低と、三番・王貞治の打率.276が影響している数字だろうか。
巨人のスコアラーら裏方さんたちの座談会もあった。彼らが挙げた印象的な試合は、やはり9月15日、阪神─巨人戦(甲子園)。王貞治が江夏豊から放った逆転3ランだった。
少し抜粋しよう。
大森光夫用具担当・・・ぼくはやはりこの間の王ちゃんのホームランが一番印象に残りましたね。江夏があそこまで投げていましたからね。打ったほうも打たれたほうも、江夏にしても、もうあそこまで自分がやったんだから、という気持ちがあったんじゃないですか。
峰国安バッティング投手・・・あの日はフリーバッティングではあまり当たっていなかったですね。
高橋正勝スコアラー・・・よくない、よくない。
淡河弘ブルペン捕手・・・あのときはボックスで打ちながら、きょうは根っこか先っぽばっかりだなと言っておったんです。芯に一つも当たらんって。
大森・・・ホームランを打ってかえってくるとき、青くなっていたからね。
淡河・・・あの瞬間はほんとうに感激のシーンだったもの。みんな、涙が出るようなシーンだった。
大森・・・ベンチに帰ってきた王ちゃんは何が何だか分からんと言ったもんね、自分で。ピッチャーが江夏で、しかもよかっただけにね。では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.747 ┃ 100円
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‡1971(昭和46)年10月11日(月)号 足踏みした巨人V7は面白かったのか面白くなかったのか
2020(令和二)年07月08日(水) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎阪急のスパイ戦略
写真◆この年22勝を挙げた阪急・山田久志の熱投
今回は『1971年10月11日号』。定価は100円。
まだ優勝は決まっていないが、阪急がセの覇者巨人の調査を始めた。
西本幸雄監督は「優勝が決まってから」と腰が重かったが、海軍情報部にいたという渓間代表が積極的に動いていたらしい。
大石清スカウトと根来広光コーチがその先兵。広島市民での広島─巨人戦を視察したが、
「ONの前にランナーを出し、どかんと一発を食らい、大量点になるという展開だったが、いまさらこんな試合を見てもね。こちらの知りたいのは、ONが打たないとき、どんな作戦で勝ちにくるかだったんですけどね」
と根来コーチ。
試合には大石スカウトがビデオを持ち込み、三塁コーチの牧野茂を中心に撮影していた。おそらくこれをクセ盗みの達人スペンサーを中心に検証していくのだろう。また、広島出身の大石のつてで、広島で王キラーと言われた大羽進に話を聞いたというウワサもあった。
一方、ナインは東映戦で金田留広が投げるのを熱望していたという。
理由は金田のカーブが巨人・堀内恒夫に似ていると言われていたからだ。
「金田のカーブの曲がるタイミングと堀内のカーブが似ているので、金田を打てれば掘内を打ち崩せる」
ということらしい。
巨人サイドでは、かつての盟友・千葉茂が川上哲治にインタビューした記事(コラムの中だが)があったので抜粋していく。
千葉 面白い野球が見られなかったのは残念だったな。哲ちゃんよ、お前さん、今年は面白い野球を見せるって、かっこいいセリフを吐いたもんな。それが…。
川上 面白かったろうが、これくらいよろめいてみせての優勝なんてないじゃないか。強さ弱さの、このつかみどころがないところなんて、面白い巨人やないか、ハハハ。
千葉 冗談じゃないぜ、哲ちゃん、面白い野球というものは、もっと奥深いもんから出てくるもんやぞ。
川上 おい、茂やん、俺のせいばかりにするなよ。よそが弱すぎたことも言わんかな。そうだろ、そのせいだぜ。
千葉 よそが強けりゃ、もっと面白くしてやったというわけか。
実は73年のV9の後の対談でも同じようなやり取りがあった。あの年は、巨人の足踏みで大混戦となったが、千葉は「そういうシーズンを面白いとは言わない」と否定した。
ミスや勝ち切れない戦いで自身が足踏みをした混戦で優勝しても、巨人では誇れない。そんなシーズンを面白いとは言えない、ということだった。
巨人が後半戦はボロボロの戦いだったことは事実。阪急との日本シリーズに水を向けられ、
千葉 しかし正直言って、今年はやられるかもしれんな。
川上 うん、やられるとしたら今年かもしれん。
というやり取りがあった。川上監督が心配していたのは、福本豊をはじめとする阪急の足だ。捕手・森昌彦の肩が衰えてきていただけに、かなりかき回される可能性があった。
もう一つは左打者。阪急には山田久志、足立光宏と右打者に強いアンダーハンドが二枚いるだけに、左、特に王の復調は絶対的なポイントとも言われた。では、またあした。<次回に続く>
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③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.748 ┃ 100円
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‡1971(昭和46)年10月11日(月)号 進まぬ西鉄ライオンズの身売り
2020(令和二)年07月09日(木) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎1971年二軍動向
写真◆ジュニアオールスターでホームランを打った中日・大島康徳
今回は『1971年10月11日号』。定価は100円。
定期的に書いている話になっているが、西鉄ライオンズが、またも身売り話で揺れていた。
1971年、稲尾和久監督の下、最終的には38勝84敗8分で最下位。
規定打席到達者は、わずか2人(31人中)で最高が16位の東田正義で.284、もう1人が22位の基満男で.276。
投手は3人(23人中)で、最高が16位の高橋明で3.73(14勝13敗)。ほか東尾修が17位の3.75(8勝16敗)、河原明が23位で5.45(4勝16敗)。
ほか規定には達していないが、4勝10敗の三輪悟(4.20)。この4人で38勝中30勝。
高橋明は巨人から移籍1年目だった。
これでは最下位も仕方ない。
ただ、急に弱くなったわけではなく。
68年から5位、5位、6位と来ての最下位。問題は観客動員だ。
1969年は少ないとはいえ、1試合平均8500人ほどだったが、黒い霧事件があった70年は6000人ちょっと。そして、この年は4000人を割るのではないかと言われていた。
年間指定席もあり、実際に球場に来ていた平均値は2000人程度とも言われていた。
「正直なところ、いかに熱心にライオンズを応援してくれるファンがいても2000や3000人のお客さん相手では商売になりませんからね」
とは西鉄重役の言葉だ。
身売りはすでに動かしがたい方針ながら、西鉄側のネックは「地域貢献」だ。九州密着の運輸サービス業である西鉄にとって、ライオンズ経営は地域のお客さんへの恩返しの位置づけもあった。したがって、身売りするにしても福岡での球団経営に興味がないのでは困る。かつて62年に東芝との業務提携話があったときも、このポリシーから立ち消えになったという。
ほかにもいくつか興味を示したところもあったようだが、折からのドルショックもあって二の足を踏んでいたらしい。
1ドル360円の固定相場が崩れ、日本の輸出産業は壊滅的な打撃を受けるだろうと言われていた。
イースタン・リーグではヤクルトが初優勝を飾ったが、監督が異色だ。
田口周。プロ経験はなく、元スポーツ新聞記者で、日大三高監督として甲子園出場にも導いた男だ。
「選手とわれわれの心が通ったときが一番うれしかった。でも優勝はファームの最終の目標じゃない。ファームにはこれで終わりじゃないんだから」
と田口監督。プロ経験がない監督に、選手も最初は抵抗があったのかもしれない。
一方もウエスタンは中日が独走でV。この年は大分出身同学年の2人のバッターが注目された。
1人は打率.345で首位打者の大田卓司(西鉄)、14本塁打、39打点で本塁打王、打点王の大島康徳(中日)だ。
ともに一軍では本領発揮といかなかったが、次年度以降の活躍が期待されていた。
では、またあした。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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