過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のetSETOraだヨ(=^◇^=)O♂

 

 2016(平成28)年02月16日(火) 23:10 ホリデイズ
 外部のホリデイズです。
‡2016(平成28)年2月26日(金)付『週刊朝日』に元創価学会の職員3名(神奈川在住の小平秀一氏38歳・滝川清志氏37歳・野口祐介氏37歳)が実名で告白して次のような記事がのっていました。聖教新聞に毎日掲載されている「新・人間革命」「池田先生からのメッセージ」「わが友に贈る」や、外国の著名人との対話に至るまで、代行であると、他の人間が書いているのだと。『週刊朝日』の記事の一部を紹介します。毎日の聖教新聞の「新・人間革命」や「わが友に贈る」も、師匠は弟子に一任されている。聖教新聞社の記者から下書きの内容が送られ、第一庶務の中心者がチェックをして完成させる。こうした作業は、部門ごとにチームが置かれ、多くの本部職員がかかわっていた。会員への激励品の書籍などに池田氏の印を押す作業なども含めると、100人をこえるスタッフが従事していたという。小平氏と滝川氏は、「第一庶務」の下にある「会員奉仕局」という職場に配属されていた際、直接見聞きして実情を知った。また、月刊誌「潮」で連載されている池田氏の海外識者との対談の多くも、直接に対面してではなく、池田氏が聖教新聞の幹部に大方針を伝え、それを受けて記者が作成してきたという。11年から13年まで「潮」誌上で対談したドイツの環境学者ヴァイツゼッカー博士は3人の問いかけにメールで、「対談集は、直接名誉会長とあって作っている訳ではなく、ドイツSGI(創価学会インターナショナル)が間に入ってくれて作っている。池田先生とは数年前に創価大学の卒業式で一度会っただけなのです」以上、引用終わり。この3人のブログが週刊朝日に掲載され、多くの人の目にとまることになりました。
‡2016(平成28)年2月26日(金)付『週刊朝日』広告にはこういうタイトルがついています。「創価学会元本部職員が衝撃告白、池田先生が利用されている。お言葉作成の陰にスタッフ100人」もし、この記事が事実でないとするなら、創価学会は、この3人と週刊朝日を相手取って、裁判でもおこし、名誉棄損で訴えるべきです。事実だからそうはしないでしょうが。みなさんは、池田名誉会長が自分自身で書いていると信じて読んでいる、信じて勧めている、信じて配っているのですよね。それが、そうじゃなく、ゴーストライターが書いているというのです。みなさんは、嘘をつかれている、また、みなさんも嘘が書かれている新聞を勧め、配っているのです。どう思いますか?
 https://signifie.wordpress.com/2016/02/16/%e5%ad%a6%e4%bc%9a%e5%93%a1%e3%81%ae%e3%82%b8%e3%83%a5%e3%83%b3%e3%83%9a%e3%82%a4%e3%81%95%e3%82%93%e3%81%b8/#comment-18025

 ワクチン確保計画は破綻寸前!? 河野ワクチン担当大臣周辺や各省庁の不協和音
 2021(令和三)年02月19日(金) 08:02 
‡2021(令和三)年02月26日(金)号『週刊朝日』一部加筆修正
 写真◆河野太郎行革相 (c)朝日新聞社c AERA dot. 提供 河野太郎行革相 (c)朝日新聞社
 コロナ対策の「切り札」とされるワクチン。海外から第1便の約20万人分が届き、ようやく希望が見えたかと思いきや、実は、
 2021(令和三)年06月末 (水)までに全国民に必要な数量のワクチンを確保するという政府の目標の達成が見通せなくなっているという、衝撃的な情報が飛び込んできた。日本が結んだ契約に、政府が目標とする「6月末まで」の記載がないというのだ。省庁間の連携も滞り、確保計画は「破綻寸前」との指摘も。なぜこんな事態になっているのか。背景には各国がしのぎを削るワクチン争奪戦がある。欧州連合(EU)は1月末、域外へのワクチンの輸出規制を導入。出荷のたびに加盟国政府やEU当局の承認が必要とされるようになった。米国でもバイデン大統領が、国外への輸出を禁じるトランプ政権の方針を支持している。こうした状況下で、日本政府の交渉も難航している。政府が昨年7月に米ファイザー社とワクチン供給について基本合意した際は「21年6月末までに1億2千万回分(6千万人分)」という条件だった。ところが、
 2021(令和三)年01月20日(水)にファイザーと最終合意して結んだ契約は、「年内に1億4400万回分(7200万人分)」と、数は増えたが時期が半年も後ろ倒しされてしまった。厚労省の関係者は内情をこう語る。「契約時期が変わったのはファイザーから『厳しい』と言われたから。それでも必死で交渉し、なんとか『年内』という言葉を入れた。イスラエルのように相場より高く買ったり患者のデータを提供したりと交渉の余地はあったはずだが、承認手続きや薬害、副反応のリスクを考えてどうしてもおよび腰になり、最終判断が遅れた。ファイザーはなかなか決断できない日本を横目に、他国にワクチンを回すようになってしまった」ワクチンを思うように確保できない状況にしびれを切らした菅義偉首相は1月、官邸主導で打開しようと、河野太郎行政改革相をワクチン担当大臣に指名。河野氏の「突破力」に期待した形だが、就任早々ひと悶着があった。
 2021(令和三)年01月21日(木)に坂井学官房副長官が会見でワクチンについて「6月までに接種対象となる全ての国民に必要な数量の確保は見込んでいる」と語ったが、河野氏が翌
 2021(令和三)年01月22日(金)、「修正させて頂く」「まだ供給スケジュールは決まっていない」などと噛みついた。両者は結局、「6月に確保することを目指す」という表現で着地したが、この騒動も契約内容の解釈を巡って勃発したという。
 内情に詳しい政府関係者は、ワクチン契約をめぐる情報が行政内部でも十分に共有されていないと指摘する。
「河野氏は「『情報管理』や『機密保持』を徹底するあまり、製薬会社との交渉を担う厚労省や、輸出規制を導入したEUとの窓口になる外務省にさえ情報を伝えていない。中でもワクチンの供給契約の詳しい情報は『最高機密』で、一部の人間しか知らない。交渉にも支障が出ており、省庁間の関係もぎくしゃくしています」自民党新型コロナウイルスに関するワクチン対策プロジェクトチームの役員会でも「契約の詳細がわからないのでEUと交渉ができない」という外務省の不満も取り上げられた。メンバーの佐藤正久参院議員が振り返る。
「厚労省の説明では、外務省の交渉担当者とは情報を共有していると言っていましたが、一部の担当者に限られるようです。相手方(製薬会社)との関係もありますし、(情報を共有する職員は)非常に限定されているのでしょう」情報共有が十分でないことからくる不協和音は、いまや関係する各省庁に広がっている。河野氏が担当大臣となる以前、ワクチン確保を所管していたのは和泉洋人首相補佐官や、和泉氏と「コネクティングルーム不倫疑惑」が報じられたこともある厚労省の大坪寛子審議官らを中心としたチーム。コロナ対策を担当する西村康稔経済再生担当相や田村憲久厚労相も関わり、外務省や総務省の存在も大きい。だが、こうした厚労省を中心とした体制での契約交渉が順調だったとは言い難く、事態を打開するために河野氏が送りこまれた経緯がある。
「河野氏はこれまでワクチン確保の中心となってきた和泉氏、厚労省に代わって主導権を握り、自身に情報を一手に集めている。しかし、専門のブレーンがいないのに、外交ルートを有する外務省や製薬会社とパイプのある厚労省を遠ざけて、うまくいくのか危惧されている。いまやワクチン確保のための体制は破綻寸前の状態です」(前出の政府関係者)各自治体が実施するワクチン接種をとりまとめる総務省の担当者も困惑しているという。
「自治体ではいま、厚労省が示したスケジュールに間に合わせるため、医師や看護師の手配や会場の確保に追われています。各自治体の担当者から『ワクチンがどれだけ確保できるかがわからなければ準備を進められない』と突き上げられています。我々も最新データを知りたいと厚労省に再三伝えているのですが、『国内の承認を得られるまでは教えられない』の一点張り。少しの情報でもいいから提供してほしい」(地域政策課)国際医療福祉大学医学部(公衆衛生学)の和田耕治教授は、こうした状況にこう警鐘を鳴らす。
「ワクチンの接種で重要なのは、ワクチンの『供給速度』です。世界的な争奪戦の中、いつ、どのくらいの数量を確保できるかが大事。ワクチンの必要量と供給量にギャップができれば、混乱が生じます。例えば、同じ医療従事者といっても、国内で感染者が多い地域もあれば、少ない地域もあり、優先順位を考える必要が出てくる。供給速度がわからなければ、こうした優先づけを行うのも難しく、接種のための人員や場所の用意も進められません。政府と国民の信頼関係にも響きます」どこかの段階で、ワクチン供給のスケジュールが大幅に遅れることが判明すれば、国民は大きな衝撃や失望を受けることになる。
「現状では、国民の不安や怒りを噴出させないという意味において情報コントロールが成功してしまっているのかもしれません。ただ、ワクチンにかける期待感が失速した瞬間に、政権が国民に期待感のみを抱かせ、実体が伴っていなかったことに気付かされるでしょう」(前出の政府関係者)河野氏にワクチンの供給契約の詳しい内容や確保の見通し、情報開示が消極的な理由などを尋ねたが、期限内の回答は「時間を取る余裕がない」とのことだった。厚労省も「契約の内容はお答えできない」と言うのみだった。河野氏は
 2021(令和三)年02月16日(火)の会見で、「政府の基本的な対処方針は令和3年前半までに国民に必要な数量のワクチンの確保を目指すということで変わっていない」とした。一方、「確保を目指すと語っているわけで、接種の時期について申し上げたわけではありません」とも語った。また、東京五輪の開催前までに国民への接種が間に合わなかった場合について問われると、「五輪については橋本(聖子)大臣にお尋ねをいただきたいと思います」。希望する全国民が接種を追える時期については「現時点では定かではありません」とした。(本誌・池田正史/今西憲之)
 https://news.yahoo.co.jp/articles/6c523018a178b075c379602629968ecac9b06993

 映像◆女性器に「卵」挿入で大惨事に http://youtu.be/0i1zBuohLuI
‡2014(平成26)年02月26日(水) YouTube公開日
 夜の営みで、女性器に「ゆで卵」を挿入したカップルを、(ある意味予想通りの)悲劇が-襲った。中国、上海の現地紙が2月26日に伝えたところによると、ある男性が、交際相-手との性行為に一層の刺激を求めるあまり、女性器に卵を挿入しようと提案。女性はしぶ-しぶながら同意し、2人はさっそくコトに及んだ。だが、ああ何ということだろう。女性-器の中に卵がすっぽりと飲み込まれ、どうにも取り出せなくなってしまったではないか。-二人は箸やスプーンで取り出そうと試みたが徒労に終わり、翌日、仕方なく恥を忍んで病-院に行ったという。幸いにも、入った卵はかたゆでだったため、きれいに取り出せたとの-こと。半熟じゃなくて、よかったね

 削除動画◆美女の国!ベトナムでやりたい放題!男の天国?しかし... http://youtu.be/sMjbC98bipk
 1966(昭和41)年02月12日(土) タイヴァンの虐殺 開始
 1966(昭和41)年03月17日(木) タイヴァンの虐殺 終了
‡1966(昭和41)年02月26日(土) ゴダイの虐殺 (4:04)
 1968(昭和43)年02月25日(日) ハミの虐殺
 1968(昭和43)年02月12日(月) フォンニィ・フォンニャットの虐殺

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①┃ 浜井信三 ┃
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 1905(明治38)年05月28日(日) 生誕
 1945(昭和20)年08月06日(月) 広島市大河町の自宅で被爆 当時の役職:配給課長
 1947(昭和22)年08月06日(水) 第1回広島平和祭と慰霊祭にて平和宣言を発表
 1958(昭和33)年07月29日(火) 広島市民球場 オールスター第2戦試合開始前 ヘリコプター・グラウンド着陸登場 始球式
‡1968(昭和43)年02月26日(月) 広島平和記念資料館の講堂 第4回広島地方同盟定期大会に出席
†1968(昭和43)年02月26日(月) 逝去
 1968(昭和43)年03月08日(金) 山田節男市長らが発起人 市民葬
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②┃ 広島平和記念都市建設法 ┃
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 1949(昭和24)年07月07日(木) 日本国憲法第95条による初の住民投票において過半数賛成獲得
 1949(昭和24)年08月06日(土) 公布・施行
 1949(昭和24)年08月06日(土) 広島平和記念都市建設記念切手 発行
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E4%BA%95%E4%BF%A1%E4%B8%89
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B9%B3%E5%92%8C%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E6%B3%95
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 「原爆市長」が語るヒロシマ 映像と音声を復元【前編】
 2020(令和二)年08月04日(火) 午後6:30 テレビ新広島
 戦後・広島の復興に尽力し「原爆市長」の名でも知られる元広島市長・浜井信三さん。被爆75年を迎える今年、浜井市長のプライベート映像と大学の講演で被爆の実相を語ったとみられる肉声が新たに見つかりました。映像は1958年、そして音声は1967年代のものとみられています、音声には75年前の8月6日に見た出来事、そして平和への思いが残されていました自宅の庭でゴルフのスイングをする一人の男性。この映像では、顔はよく見えません。しかし別の映像でその人物をはっきりと確認することができます。右から2番目のスーツを着た人物。戦後の復興に尽力し「原爆市長」の愛称で知られる浜井信三(しんそう)さんです。慰霊碑前で撮影したこちらの写真。映像と同じ日に撮影されたものとみられます。浜井さんは1945年8月当時、広島市の職員で、食料を提供する「配給課長」でした。被爆の実相を語る肉声は8月5日の広島の様子から始まります。
【音声:元広島市長・浜井信三】
 1945(昭和20)年08月05日(日)「8月5日、これは非常に我々としては不気味な日だったんですけれども、向こうさんの飛行機がビラを撒いたということでございました。そのビラの中に8月5日に大きな土産を広島へ持って行くから楽しみにして待っておれというビラをまいたという噂が一週間くらい前からたっておったわけです」「8月5日というのは危ないぞと、気をつけなきゃいけないぞという気持ちを我々は持っておったわけです」
 「ところが夜の9時ごろになりまして、空襲警報が発令されました。「そら来た」といって私どもは身支度をしまして防空本部へつめました。しばらくしたら空襲警報が解除になりました」その後、午前0時に再び、空襲警報がなり、浜井さんは市の防空本部へ向かいます。そして午前2時、空襲警報が解除されました。
 「(自宅と防空本部を)行ったり来たりするのは面倒ですから、遠いところ」「ひとつ役所で寝てやろうと思って、役所のソファーへころんどったんですけれども、蚊が多くてとても寝られない」朝まで眠れないと感じた浜井さんは市役所にほど近い、広島市中区榎町の親族の家で寝ようと考えますが、夜中に起こすのは申し訳ないと思いなおし自宅へ戻ります
 「8時頃に兄嫁が干し物を干していたら、それが庭で大きな声でBさんが何かを落としたよと大きな声で言っているんです、飛び起きて、洋服へ手をかけようと思った瞬間でした、ピカッと目がくらむような閃光、伏せると同時にドッと爆風のようなものがやって参りまして、家を木っ端みじんに壊した」原爆投下後、浜井さんはすぐに市役所へ向かいます
 「比治山橋の近所までやってまいりますと、むこうから雪崩をうつように、色んな人が逃げてきている、私と反対方向へどんどん逃げていく、みんな血相を変えているし、頭から血を浴びて真っ赤になっている人がたくさん、そして私を見ると、「あちらのほうには火はないか」「お医者さんはないか」ということを聞いてくる、火もない、お医者さんもどこへ行けと教えてやろう思う答えも待たないでまたどんどん走り去っていく、何かに追われているような格好で走り去っていく」
 「よく見ると、みんな幽霊みたいな格好をしてですね、何かボロを持って逃げている、何を持って逃げているんだろうなと思って見ましたら、ボロじゃないんです、やけどをしてですね、皮が手の先へ垂れ下がって、そのままでどんどんどんこうして逃げてくる、その人たちに聞いてみると、全部「私の家に直撃弾が落ちました」とこう言っている、誰に聞いてもみんなそう言ってる」広島市佐伯区。浜井さんの妻・文子(ふみこ)さんの自宅から音声と映像が見つかりました。
【長男・浜井順三さん】「実は昨年、母が亡くなりましてね、70年前のおやじのこういう資料がですね、出てきたんですよ」
 2019(令和元)年07月 去年7月、浜井さんの妻・文子(ふみこ)さんが105歳で亡くなり、今年、家族が遺品整理をしていたところ見慣れない箱を発見。中から白黒とカラーの映像フィルムと、音声テープが発見されました。
 1958(昭和33)年09月 1958年に完成した原爆の子の像が写っていること。そして、撮影した親族の日記に、この年の9月に「浜井家と一緒に平和公園を訪れて撮影した」と書かれていたことなどから、白黒とカラーの映像は1958年。そして浜井さんの声は市長を引退した1967年5月以降、大学の講演で被爆の実相を語ったものとみられます。順三さんの許可を得てフィルムとテープを預かり、TSSのスタジオなどで復元しました。
 証言の中では落とされた爆弾が新型の原子爆弾であると知った経緯についても触れています。
 「2、3日後に私、新聞記者に聞きました、これが原子爆弾なんだと、どうしてそれを知ったのかと新聞記者に聞いてみましたら、新聞社では、当時は禁止されておったんですけれども、地下室に短波放送をキャッチする受信機を備えていた、それでトルーマン大統領が広島へ原子爆弾を落としたという放送をしたと、それをつかんだんだと、こういうことでございます、原子爆弾というものを初めて私たちは知ったわけです」その2年後の1947年、広島市長に初当選。そしてその年の8月6日、平和記念式典の始まりとなった第一回平和祭を開催します。この平和祭を開催した理由についても語っています。
 「それはもう、全く原爆を体験した、そして生き残った市民の実感だったと思う」
 https://www.fnn.jp/articles/-/70295
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 「原爆市長」が語るヒロシマ 映像と音声を復元【後編】
 2020(令和二)年08月04日(火) 午後6:30 テレビ新広島
 半世紀の時を超え、被爆75年の今年新たに見つかった「原爆市長」の映像や肉声。毎年8月6日に開催される平和記念式典の元となった1947年に開催した平和祭について次のように述べています。
【声:元広島市長・浜井信三】「昭和22年頃になりましてようやく市民が、当時、虚脱状態、ふぬけのようになって何をしらいいのか分からないような状態で、市民は過ごして来たんですけども、ようやくそういった虚脱状態から市民が目覚め始めた時に平和祭をやろうよ、平和式典をやろうと。そうして私たちの体験を全世界の人に伝えて、そして二度とこういったことが起きないように、私たちは努力しなきゃいかんじゃないかというような声がですね、市民の中から湧きあがって来ました」「こういうことはじっくりと準備してかからないと、かえって世界の物笑いになることもあるから、もう少し落ち着いて考えていこうじゃないかと、小賢しくも私どもはそういう主張をしたんですけれども、市民の方はそれを許さない、とにかく、いけなければやりながら直していけばいいんだと、とにかくやろうということで、第一回の平和式典を昭和22年の8月6日にやったわけです、それはもう、全く原爆を体験した、そして生き残った市民の実感だったと思う、どうしても我々の使命だと、そうすることは生き残った我々の使命なんだというふうなことで、市民意志が結集されたのがこの平和祭だったんです」
 2020(令和二)年07月下旬、現像した映像を浜井さんの長男・順三さんに見てもらいました
【長男・浜井順三さん】「一番左が僕だと思います」
 Q:いくつくらいの時?「おそらく大学に入ったか、そこらじゃないかと思いますけどね」~
「妹だと思います、それから母親、父親、ほれからこれも妹だと思います」「昭和30年代くらいじゃないでしょうか、大学に入ったか、そこらじゃないかと思いますけどね」その後、私たちは順三さんと平和記念式典を間近に控えた平和公園を訪れました。「このあたりが動画で見たあたりですね」
【長男・浜井順三さん】「そうですね、こういう方向で写真をとって、そうそうそうそう」順三さんはあの日と同じ場所を探します
【長男・浜井信三さん】「この辺かもわからん、この辺だね」「やっぱり、木が大きくなっているよね、すごく」
 Q:時の流れは感じますか?「感じますね、一つ一つが木も大きくなっていますしね、70年経って、本当に見違えるようですよね」浜井さんは広島平和記念都市建設法の成立に尽力し、平和記念公園を建設するなど広島の復興と平和活動に尽力しますが、1968年に62歳の若さでこの世を去りました。肉声の中で浜井さんは科学の進歩に合わせて核兵器が更に恐ろしいものになるのではないかと危惧しています。、
【声:元広島市長・浜井信三】「私たち当時直観したんですけれども、もうこんな兵器ができた以上、もう戦争は二度とやったらいけんだろうと、おそらく広島で使われた爆弾は、大した大きな爆弾じゃなかったに違いないけれども、もう人知を無限に発達していくわけですから、生産力や科学がどんどん発達していくと、それをどんどん殺戮や破壊に使っていくということになると、どんなものができてくるか分かりゃあしないと、いうことを私ども当時の災害で直感いたしました」[人道的に許しがたい残酷なものであり、非道なものであるということはすぐ我々も感じたわけですけど、それ以上に将来のことを考えた場合に科学兵器というものが、どんどん発達していけば結局人類は兵器のために自殺しなきゃならん時がくるんじゃないかということを痛感したわけです」長男の順三さん。父親に言われた言葉が今も強く残っていると話します。
【長男・浜井順三さん】「75年草木も生えないだろうと言われるようながれきの惨状の絶望の中から、何としても広島を蘇らせるんだということを子供(私たち兄弟)に言い聞かせていたことを未だに強く頭に印象に残っている」「広島は世界に向かって伝えていく使命と責務がある都市であるということ、市民一人ひとり含めて、そういうことが今、ほとんど知られなくなってきていると思うので、これを何とか少しでも伝え継いでいかないといけないと思う」
 https://www.fnn.jp/articles/-/70296
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 被曝75年「原爆市長」が語るヒロシマ【前編】
 2020(令和二)年08月11日(火) 14:30 TSSテレビ新広島
 戦後広島の復興に尽力し「原爆市長」の名でも知られる元広島市長・浜井信三さん。被爆75年を迎える今年、浜井さんが家族と映った映像を大学の講演で被爆の実相を語ったとみられる肉声が新たに見つかりました。映像は1958年、そして音声は1967年とみられています。音声には75年前の8月6日に見た出来事、そして平和への思いが残されていました。自宅の庭でゴルフのスイングをする一人の男性、この映像では、顔はよく見えません。しかし別の映像でその人物をはっきりと確認することができます。右から2番目のスーツを着た人物、戦後の復興に尽力し「原爆市長」の愛称で知られる浜井信三さんです。慰霊碑前で撮影したこちらの写真、映像と同じ日に撮影されたものとみられます。浜井さんは1945年8月当時、広島市の職員で、食料を提供する「配給課長」でした。被爆の実相を語る肉声は8月5日の広島の様子から始まります。
【音声:広島市・浜井信三元市長】
「8月5日(日)、これは非常に我々としては不気味な日だったんですけれども、向こうさんの飛行機がビラを撒いたということでございました。そのビラの中に8月5日に大きな土産を広島へ持って行くから楽しみにして待っておれというビラをまいたという噂が一週間くらい前からたっておったわけです、8月5日というのは危ないぞと、気をつけなきゃいけないぞという気持ちを我々は持っておったわけです。ところが夜の9時ごろになりまして、空襲警報が発令されました、「そら来た」といって私どもは身支度をしまして防空本部へつめました。しばらくしたら空襲警報が解除になりました」その後、午前0時に再び、空襲警報がなり、浜井さんは市の防空本部へ向かいます。そして午前2時、空襲警報が解除されました。
【音声:広島市・浜井信三元市長】
「(自宅と防空本部を)行ったり来たりするのは面倒ですから、ひとつ役所で寝てやろうと思って、役所のソファーへころんどったんですけれども、蚊が多くてとても寝られない」朝まで眠れないと感じた浜井さんは市役所にほど近い、広島市中区榎町の親族の家で寝ようと考えますが、夜中に起こすのは申し訳ないと思いなおし自宅へ戻ります。
【音声:広島市・浜井信三元市長】
「8時頃に兄嫁が干し物を干していたら、それが庭で大きな声でBさんが何かを落としたよと大きな声で言っているんです、飛び起きて、洋服へ手をかけようと思った瞬間でした、ピカッと目がくらむような閃光、伏せると同時にドッと爆風のようなものがやって参りまして、家を木っ端みじんに壊した」原爆投下後、浜井さんはすぐに市役所へ向かいます。
【音声:広島市・浜井信三元市長】「比治山橋の近所までやってまいりますと、むこうから雪崩をうつように、色んな人が逃げてきている、私と反対方向へどんどん逃げていく、みんな血相を変えているし、頭から血を浴びて真っ赤になっている人がたくさん、そして私を見ると「あちらのほうには火はないか」「お医者さんはないか」ということを聞いてくる、火もない、お医者さんもどこへ行けと教えてやろう思う答えも待たないでまたどんどん走り去っていく、何かに追われているような格好で走り去っていく。よく見るとみんな幽霊みたいな格好をしてですね、何かボロを持って逃げている、何を持って逃げているんだろうなと思って見ましたら、ボロじゃないんです、やけどをしてですね、皮が手の先へ垂れ下がって、そのままでどんどんどんこうして逃げてくる、その人たちに聞いてみると、全部「私の家に直撃弾が落ちました」とこう言っている、誰に聞いてもみんなそう言ってる」広島市佐伯区、浜井さんの妻・文子さんの自宅から音声と映像が見つかりました。
【長男・浜井順三さん】「実は昨年、母が亡くなりましてね、70年前のおやじのこういう資料がですね、出てきたんですよ」去年7月、浜井さんの妻・文子さんが105歳で亡くなり、今年、家族が遺品整理をしていたところ見慣れない箱を発見。中から白黒とカラーの映像フィルムと、音声テープが発見されました。1958年に完成した原爆の子の像が写っていること、そして、撮影した親族の日記に、この年の9月に「浜井家と一緒に平和公園を訪れて撮影した」と書かれていたことなどから、白黒とカラーの映像は1958年。そして浜井さんの声は市長を引退した1967年5月以降、大学の講演で被爆の実相を語ったものとみられます。順三さんの許可を得てフィルムとテープを預かり、TSSのスタジオなどで復元しました。証言の中では落とされた爆弾が新型の原子爆弾であると知った経緯についても触れています。
【音声:広島市・浜井信三元市長】「2、3日後に私、新聞記者に聞きました、これが原子爆弾なんだと、どうしてそれを知ったのかと新聞記者に聞いてみましたら、新聞社では、当時は禁止されておったんですけれども、地下室に短波放送をキャッチする受信機を備えていた、それでトルーマン大統領が広島へ原子爆弾を落としたという放送をしたと、それをつかんだんだと、こういうことでございます、原子爆弾というものを初めて私たちは知ったわけです」その2年後の1947年、広島市長に初当選。そしてその年の8月6日、平和記念式典の始まりとなった第一回平和祭を開催します。この平和祭を開催した理由についても語っています。
【音声:広島市・浜井信三元市長】「それはもう、全く原爆を体験した、そして生き残った市民の実感だったと思う」
 https://www.tss-tv.co.jp/tssnews/000006845.html
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 被爆75年「原爆市長」が語るヒロシマ【後編】
 2020(令和二)年08月11日(火) 14:31 TSSテレビ新広島
 半世紀の時を超え、被爆75年の今年新たに見つかった「原爆市長」の映像や肉声。毎年8月6日に開催される平和記念式典の元となった、1947年に開催した平和祭について次のように述べています。
【音声:広島市・浜井信三元市長】「昭和22年頃になりましてようやく市民が、当時、虚脱状態、ふぬけのようになって何をしらいいのか分からないような状態で、市民は過ごして来たんですけども、ようやくそういった虚脱状態から市民が目覚め始めた時に平和祭をやろうよ、平和式典をやろうと、そうして私たちの体験を全世界の人に伝えて、そして二度とこういったことが起きないように、私たちは努力しなきゃいかんじゃないかというような声がですね、市民の中から湧きあがって来ました。こういうことはじっくりと準備してかからならないと、かえって世界の物笑いになることもあるから、もう少し落ち着いて考えていこうじゃないかと、小賢しくも私どもはそういう主張をしたんですけれども、市民の方はそれを許さない、とにかく、いけなければやりながら直していけばいいんだと、とにかくやろうということで、第一回の平和式典を昭和22年の8月6日にやったわけです、それはもう、全く原爆を体験した、そして生き残った市民の実感だったと思う、どうしても我々の使命だと、そうすることは生き残った我々の使命なんだというふうなことで、市民意志が結集されたのがこの平和祭だったんです」先月下旬、現像した映像を浜井さんの長男・順三さんに見てもらいました。
【長男・浜井順三さん】「一番左が僕だと思います」Q:いくつくらいの時?「おそらく大学に入ったか、そこらじゃないかと思いますけどね。妹だと思います、それから母親、父親、ほれからこれも妹だと思います。昭和30年代くらいじゃないでしょうか、大学に入ったか、そこらじゃないかと思いますけどね」その後、私たちは順三さんと平和記念式典を間近に控えた平和公園を訪れました。
【音声:長男・浜井順三さん】(Q:このあたりが動画で見たあたりですね)「そうですね、こういう方向で写真をとって、そうそうそうそう」順三さんはあの日と同じ場所を探します。
【長男・浜井順三さん】「この辺かもわからん、この辺だね。やっぱり、木が大きくなっているよね、すごく」(Q:時の流れは感じますか?)「感じますね、一つ一つが木も大きくなっていますしね、70年経って、本当に見違えるようですよね」浜井さんは広島平和記念都市建設法の成立に尽力し、平和記念公園を建設するなど広島の復興と平和活動に尽力しますが、1968年に62歳の若さでこの世を去りました。肉声の中で浜井さんは科学の進歩に合わせて核兵器が更に恐ろしいものになるのではないかと危惧しています。
【音声:広島市・浜井信三元市長】「私たち当時直観したんですけれども、もうこんな兵器ができた以上、もう戦争は二度とやったらいけんだろうと、おそらく広島で使われた爆弾は、大した大きな爆弾じゃなかったに違いないけれども、もう人知を無限に発達していくわけですから、生産力や科学がどんどん発達していくと、それをどんどん殺戮や破壊に使っていくということになると、どんなものができてくるか分かりゃあしないと、いうことを私ども当時の災害で直感いたしました。人道的に許しがたい残酷なものであり、非道なものであるということはすぐ我々も感じたわけですけど、それ以上に将来のことを考えた場合に科学兵器というものが、どんどん発達していけば結局人類は兵器のために自殺しなきゃならん時がくるんじゃないかということを痛感したわけです」長男の順三さん、父親に言われた言葉が今も強く残っていると話します。
【長男・浜井順三さん】「75年草木も生えないだろうと言われるようながれきの惨状の絶望の中から、何としても広島を蘇らせるんだということを子供(私たち兄弟)に言い聞かせていたことを未だに強く頭に印象に残っている。広島は世界に向かって伝えていく使命と責務がある都市であるということ、市民一人ひとり含めて、そういうことが今、ほとんど知られなくなってきていると思うので、これを何とか少しでも伝え継いでいかないといけないと思う」
 https://www.tss-tv.co.jp/tssnews/000006846.html


 スーパーの惣菜に潜む罠、「原産地隠し」や「恐ろしい原材料」も
‡2020(令和二)年02月26日(水) 7:00
 2020(令和二)年03月05日(木)号 女性セブン
 スーパーの惣菜に隠されたカラクリとは?(イメージ)
 時間がない時、疲れて作る気力もない時…、手軽に買えるスーパーの総菜に助けられることは多いだろう。だが、野菜に魚、肉とバランスよく食べられる“生活の味方”が、実はカラクリだらけで私たちの体を脅かすこともあるのだ。
 インスタント食品やジャンクフードではないうえ、きちんと調理されて売られているにもかかわらず、健康を損なう恐れがあるというのは、いったいどういうことなのか。
 その背景には、食品表示のカラクリがある。食品を選ぶ際、大きな情報源となるのはパッケージに記された加工日や消費期限、原材料や原産地などの食品表示だ。ところが、スーパーの総菜や弁当には、その食品表示にさまざまな抜け穴がある。食品表示アドバイザーの垣田達哉さんが指摘する。
「私は常々、食品を購入するときには、表示を確認することを習慣にすべきと訴えてきました。ところが、スーパーの総菜にはそもそも表示自体がないものが多い。いまの法律では、販売店のバックヤードで調理されたものは、原材料や原産地などの表示をしなくていいことになっているのです」
 たしかに、客がトングで袋に取るパンやコロッケはもちろんのこと、簡易な透明パックに入った春巻きやシューマイなどに原材料や産地の表示は見当たらない。
 危険なのは揚げものだけではない。食卓を彩る一品として人気の刺身盛り合わせにも、こんな裏事情がある。食品ジャーナリストの郡司和夫さんが指摘する。
「刺身の盛り合わせは生鮮食品ではなく加工食品に分類されます。3品以上で構成される加工食品は表示義務がない。全体の重量に占める割合が50%以下であれば産地表示しなくていいことになっているからです。だから、たとえば『中国産のたこ』など、消費者の手が伸びにくい外国産の刺身を盛り合わせて原産地を表示せずに売る、ということもままある」
 https://www.moneypost.jp/634547
 食品表示アドバイザーの垣田達哉さんによれば、弁当でも同様のケースがあるという。
「中国産の『うなぎの蒲焼き』は単品であれば産地表示が必要ですが、ご飯を敷いて『うなぎの蒲焼き弁当』となった途端、ご飯や漬けものがついてきて、うなぎが全体の50%以下になるため産地表示が不要になります。国産にこだわる人が多い時代ですが、弁当になると無頓着になるのは不思議なものです」 
 まさに「法の隙間」を突く巧妙なやり方だ。彩り豊かで味もおいしいサラダも総菜の人気メニューの1つだが、これも産地表示の必要はない。なかには、こんな恐ろしい原材料が含まれているかもしれない。
「サラダに使われる野菜は基本的にハウス栽培された外国産野菜だと思った方がいい。主に中国産が多いのですが、中国産野菜は化学肥料の窒素過多で、亜硝酸塩窒素が多く含まれている可能性が高い。これらの野菜を食べ続け、糖尿病を引き起こしたとの研究報告があります」(郡司さん)
 リスクがあるのはおかずだけではない。河岸さんは、ご飯にこそ危険が潜むという。
「温かいままのご飯をおかずと一緒に保存すると菌が増殖しやすい。特に野菜にはどんなに洗っても微量の細菌が付着しているため危険度が高まる。野菜を敷いた上に肉があって、温かいご飯と同じ容器に常温で陳列しているような弁当は最悪の場合、細菌により死に至ることすらあるのです。コンビニの弁当類は、そういった事態を防ぐため、ご飯を詰める際に急速冷却します。15~60℃は菌が繁殖しやすいので、その危険温度帯に入らないよう厳密に温度管理をするのが鉄則です」
 たしかに、コンビニではお弁当や丼ものは、一定の温度が保たれた冷蔵コーナーに陳列されているが、常温で並んでいるスーパーは多い。産地や添加物に問題がなかったとしても、食べるだけで健康を損なうリスクがある。 
 https://www.moneypost.jp/634547/2/
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 スーパーの総菜「製造日」のカラクリ いくらでも引き延ばせる 
 2020(令和二)年02月24日(月・休) 15:00 
 2020(令和二)年03月05日(木)号 女性セブン
 写真◆(c)マネーポストWEB 提供 スーパーの中食(惣菜)市場は飛躍的に拡大 
「最近、スーパーのお総菜がおいしくて本当に助かっています。子供が巣立って夫婦ふたりになり、火の始末が不安になってきたこともあって、もう5年は揚げものをしていません。ご飯は炊きますが、スーパーでコロッケやお刺身、サラダを買ってきてお皿に並べて食事にすることがほとんど。インスタントではないから栄養も偏らないし、品数も豊富で自分で作るよりも安上がりなくらいです。うちの食卓はスーパーに支えられていますよ」(大阪府・71才主婦)
 コロッケや鶏の唐揚げ、サラダ、弁当など、調理済みの食品を持ち帰り、家で食べる──そんな行為を専門用語では「中食(なかしょく)」と呼ぶ。レストランなどの「外食」と家庭で食べる「内食」の中間であることから生まれた言葉で、この中食産業の売り上げは右肩上がりを続けている。日本惣菜協会の調査によれば、2009年から2018年の約10年で総菜の市場規模は2兆2000億円も拡大。特にスーパーの中食市場は大きく、全体の約6割を占める。
 実際スーパーでは夕方になると「2割引き」や「半額」のシールが貼られることもあり、総菜や弁当コーナーには常に人だかりができる。冒頭の主婦のように「よく利用する」という人は少なくないはずだ。だが、その内情をよく知る専門家たちは厳しい顔つきだ。食品ジャーナリストの郡司和夫さんが指摘する。 
「高齢者世帯が増えたことや、独身者などを中心にスーパーの総菜は人気を博しています。しかし、いまのまま総菜を食べていくと、健康を損なう人が相当出てくるのではないかと危惧しているのです」
 インスタント食品やジャンクフードではないうえ、きちんと調理されて売られているにもかかわらず、健康を損なう恐れがあるというのは、いったいどういうことなのか。
 https://www.moneypost.jp/634540
●「ラベルを貼った日」でも「最終加工日」に
 食品を選ぶ際、大きな情報源となるのはパッケージに記された加工日や消費期限、原材料や原産地などの食品表示だ。ところが、スーパーの総菜や弁当には、その食品表示にさまざまな抜け穴がある。食品表示アドバイザーの垣田達哉さんが指摘する。
「私は常々、食品を購入するときには、表示を確認することを習慣にすべきと訴えてきました。ところが、スーパーの総菜にはそもそも表示自体がないものが多い。いまの法律では、販売店のバックヤードで調理されたものは、原材料や原産地などの表示をしなくていいことになっているのです」
 たしかに、客がトングで袋に取るパンやコロッケはもちろんのこと、簡易な透明パックに入った春巻きやシューマイなどに原材料や産地の表示は見当たらない。食品安全教育研究所代表の河岸宏和さんが解説する。
「基本的には客の注文に応じてその場で容器に詰めてバラ売りで販売しているため、店員が客の質問に答えられるから表示は不要という理屈です。包装はあくまで持ち帰るためのものであり、店員が忙しいことを見越してあらかじめ容器に詰めているだけ、という解釈です」 
 一方、コンビニは基本的に専門の工場で作られたものを販売しているため、一部のホットスナックなどを除いて食品表示が義務づけられている。
「スーパーの方が“やりたい放題”の余地がある分、危険だともいえます。やはり、どんなものを使っているか明記されていない食品は不安が残ります。使われている油や添加物がどんなものなのかも、わからないわけですから」(垣田さん) 
 では、表示のある総菜を選べば安全かといえばそうではない。河岸さんは「製造日」にもカラクリがあるという。 
「『製造日』は調理をした日とは限りません。たとえば鶏の唐揚げなら、揚げた日だけでなく『パックに詰めた日』、『トレーのふたをした日』、『ラベルを貼った日』などの作業がどれも『最終加工日』として認められるため、いくらでも引き延ばせます」 
 極端なことをいえば、前日売れ残った刺身のパックのラップを巻き直し、あらためて製造日を「当日」として店に並べたとしても、法的には問題がないわけだ。 
 https://www.moneypost.jp/634540/2/
●食品の「使いまわし」をする度に…
 それだけでも衝撃だが、河岸さんによれば「消費期限」ですらスーパーの思い通りだという。 
「総菜の消費期限は、それぞれのスーパーの現場が、経験や慣例をもとに“適当に”決めているのが現実。『次の商品ができるまでは持たせよう』など、彼らの思いのままなのです」(河岸さん) 
 指導を行う立場の保健所に確認したところ「たしかにバラ売りの食品には食品表示義務はないものの、ガイドラインに基づき、消費期限の設定や表示を指導しています。しかし義務ではないため、従わなくても法的に罰せられることはありません」(東京都千代田区保健所生活衛生課)と言う。 
 つまり、知らないうちに傷んでいたり、出所がわからない危険な食品を口にしている可能性が高いことになる。 
 食品の「使いまわし」も多くのスーパーで行われている。 
「たとえば魚なら、最初は生のまま丸ごと売る。売れ残ればさばいてサク(柵)に、さらに刺身として陳列。それでも残ったら、揚げてフライとして並べ、最終的にはフライ弁当にする。こういったことはわりとどんなスーパーでもやっていますよ。製造日は『最終加工日』のことだから、加工のたびにあらためて設定できる。どんなに古い食材を使っていても法律上は問題がないから、明るみに出ず、取り締まることもできないのです」(河岸さん)
 https://www.moneypost.jp/634540/3/

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