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┃ MBE受賞インタビュー ┃1965年 6月12日
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Q: "Last month, seventy-five teenagers from Pennsylvania petitioned Her Majesty The
先月のことですが、ペンシルベニアの75人のテイーンが女王陛下に「ビートルズにナイトの称号を」と
Queen to have the Beatles knighted. This hasn't happened. But today, I'm pleased to
陳情しましたが、だめでした。 でもビートルズが大英帝国で最も名誉ある勲位を与えられたことを
say that they have been made members of the most honorable order of the British Empire
本日伝え出来ますことを光栄に思います。
Congratulations, John, George, Ringo and Paul." おめでとうございます、ジョン、ジョージ、リンゴーそしてポールのみなさん。
BEATLES: "Thanks." (全員で) ありがとう。
JOHN: (loudly) "Thank you!" (大声で)ありがとうございます。
Q: "How did you all react to this?" このことを知らされたときどうでした。
JOHN: "Well, I went..." (comical reaction of surprise) (laughter) 「僕はね。。」といって驚いた様子をおおげさなジェスチャーで行う。
Q: "Which means, in sound?" それを声に出していうと?
JOHN: "Whoopee." よっしゃーやったぜ!
Q: "Well done. George?" なるほど。 ジョージさんは?
GEORGE: "Well, I sort of went, 'Wow! That's great.'" ぼくは「わーすげえ!」かな
PAUL: "About the same." 右に同じ。
Q: "Ringo." リンゴーさんは?
RINGO: "Yes. I think we all felt pretty well the same." みんな同じだと思うよ。
Q: "Now last year in America your records sold no less than ten million dollars worth.
ところで、去年アメリカでは1000万ドルもレコードの売り上げがあったのですね。
Do you think your export sales have something to do with this?" この売り上げは受勲と関係があると思いますか?
PAUL: "Well, you know, somebody said it might have been that, but you never know. そうだね。 そんなことをいう人もいるね。 でもどうかな?
It COULD have been that, but it could have been... THAT." その可能性もありかも。 でもどうかな?
JOHN: "It might have been the tour in Australia." アメリカカでコンサートやったからかもね。
GEORGE: (giggles) ふふふ
Q: "Now, do you think you'll go back to the commonwealth again? This was a sensational visit."
イギリスやオーストラリア、ニュージーランドに帰ってきますよね。 大騒ぎになりますよ。
PAUL: "Yeah!" たぶんね。
JOHN: "Well, you know, we probably will. It's up to Mr. Epstein, our manager."
たぶんね。 でもこればかりはマネージャーのエプスタイン氏しだいだからね(とカメラにむかっていたずらっぽい笑いを見せる)
Q: "What does this MBE mean to you all. How are you going to deck out to go tothe palace?
このMBE勲章はあなた方にはどれくらいのものですか? 宮殿へはどんな服装で行かれますか?
There's certain protocol to be observed. Are you going to dress up in morning dress?"
それ相応の礼装があると思うのですが。 モーニングドレスでも着られるのですか?
JOHN: "Yes, well, I think you've got to, haven't you." そうですね、着なきゃいけないでしょうね。
GEORGE: "Yeah. We'll have to." そう、着なきゃいけないでしょう。
Q: "What about the haircut, Ringo?" 髪の毛についてはどうでしょう? リンゴーさん。
RINGO: "We're not gonna get it all cut off, you know. Someone said we can carry the hats that will be easier."
丸坊主になるつもりはないですが。帽子をかぶればという人もいるよ。
PAUL: "I think Her Majesty will understand, you know." 女王様は見逃してくださいますよ。
Q: "She may well do. From obscurity in a cellar in Liverpool four years ago and now
見逃してくださいますよ。 4年前リバプールの洞穴にくすぶっていた無名の若者
to Buckingham Palace. Gentlemen, what do you think everybody on the other side of the Atlantic is going to say to this?"
たちが今度はバッキンガム宮殿に招かれる。 ビートルズの皆様、海の向こうではこの受勲になんと 言うでしょうかね。
PAUL: "Whoopee, I hope." うをー、やったぜ、だといいな。(laughter) 笑い声。
PAUL: "You never know. They might say Boo, or..." うわからないよ。 ウエーかも? あと。。。
JOHN: "They might say, uhh, 'Hello, cobber.'" ひょっとしたら、「やあ、いなかっぺかも」
PAUL: (giggles) "Yeah." ふふふ「そうだね。」
RINGO: "'Hello dair, boys." 「やあ、みんな。」
PAUL: "Or, 'Howdy, Europe. Texas speaking.'" 「元気かい、ヨーロッパの人、こちらはテキサスだよ。」
Q: "Now two of you have gotten married, and you all live in good domestic splendor.元気さて、お二人が結婚していてみなさん素敵な家庭をお持ちですが
Has this affected your writing, Paul and John?" このことは作曲に影響しますか? ジョンさん、ポールさん。
PAUL: "No." いいえ。
JOHN: "No, it's easier to write with cushions than on pieces of hard bench..." そりゃ、硬いベンチよりもふかふかのクッションのほうが曲も書きやすいよ。
JOHN: "Remember, we were on hard benches before we made it, in an unknown cellar あのね、こうなる前は名もないリバプールの洞穴の硬いベンチだったんだぜ。
in Liverpool. And it's much easier... on a nice cushion." もう全然楽ちんだよ。 ふかふかのクッションのほうが。
Q: "What are your plans for tours for this year and next year?" これから来年にかけてのコンサートツアーの予定はどうなっています?
PAUL: "We're going to Europe." ヨーロッパへ行くよ。
GEORGE: "Next week." 来週ね。
RINGO: "Next Sunday." 今度の日曜日ね。
PAUL: "And then we come back, and then we go off to America." 戻ってきてその後アメリカに行くよ。
RINGO: "For two and a half weeks." 2週間半ね。
PAUL: "And we do the telly." テレビに出るよ。
RINGO: "Oh! We do Ed Sullivan. Good old Ed." そうだそうだ、エドサリバンに出る。エドじいの番組にね。
PAUL: "Ed Sullivan. Hi, Ed. (pointing into the camera) Look, he's watching? エドサリバンさ。 やあエド(カメラを指差しながら) ほら見てるぜ。
He's watching in this one. Look! There he is! Alright, Ed." ほらこの番組を見てるぜ。ほらほら、あそこ。見てるのわかったよエドさん。
PAUL: "There's Mrs. Ed!" あ、あれは奥さんだ。
RINGO: (looking into the camera) "And MISTER Ed!!"(カメラを覗き込んで)エドさんもいるよ!
Q: "Have you checked whether you'll be able to wear your MBE's on any of these other
foreign television programs?" 外国のテレビ番組でもMBE勲章をつけてもいいか確認済みですか?
JOHN: "Well, I suppose once they've given them to us, we can wear 'em." そうね、いったんもらえばこちらの勝手じゃない?
PAUL: "Look a bit funny, though, going 'round with medals hanging off, wouldn't you?"でも勲章をぶらぶらさせているのってちょっとカッコ悪くない?
JOHN: "Well, we could wear them on stage." ステージでの話さ。
Q: "Anyway, it hasn't changed your life to any great extent?" 結論としては変化なしですね。
JOHN: "No. We're just honored. That's all." そうですね。 名誉あることだけどね。
Q: "Well Beatles... and we're all delighted. Congratulations again to the four of you."
ビートルズのみなさん、みんなとても喜んでいますよ。 もう一度みなさん4人におめでとうといわせてください。
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http://www.jttk.zaq.ne.jp/aabou1/addition/TV/1mbe.htm
http://www.tracks-japan.com/owner/owner-sec.htm ⇒ MBE叙勲直後の記者会見の模様トゥイッケナム・フィルム・スタジオにて
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┃ 船村徹 ┃‡1932(昭和七)年6月12日(日) 生誕
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大瀧詠一との対談の中で、次のようなエピソードを話している。1959年の東映アニメ映画『少年猿飛佐助』の音楽を担当し、グランプリを受賞した際に招待されヨーロッパ滞在中ロンドンで、あるオーディションに立ち会う。その中にデビュー前のビートルズがおり、オーディションに参加した面々の中で唯一のバンドだった。「どの組がよいか?」と尋ねられた船村は「あの汚い4人組が一番面白いのでは」と答えたという[16]。それを聴いた大瀧は驚愕し、周りのスタッフに「凄いでしょう!船村先生は、ビートルズが誕生したオーディションに立ち合っているんですよ」と述べた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E6%9D%91%E5%BE%B9
ビートルズ研究の第一人者であるマーク・ルイソンに、ビートルズの才能に世界で初めて気が付いたのは、日本の作曲家の船村徹氏かもしれないとのメールを送りました。そして、それに対し大変貴重な情報と考えるとの返信があったことをお伝えしました
http://abbeyroad0310.hatenadiary.jp/entry/2017/04/03/001809
作曲家の船村徹氏はいつどこでビートルズと出会ったのか?
1. 船村氏はいつどこでビートルズと出会ったのか?
船村氏の語った内容、当時の状況等を総合して考慮すると、同氏が世界で初めての才能に気づいたという事実は揺るがないと思います。
ただ、はっきりしないのは「それがいつどこであったか」という具体的な状況です。私は、それがデビュー前にオーディションやコンテストを受けていた1961年頃ではなかったかと推測しました。しかし、彼らが1962年6月6日にEMIでセッションをやった時ではないかとの考え方もあります。そこで、この点について検討してみます。
2. 乏しい資料
まず2017年2月現在までのところ、イギリス国内でこのことに触れた資料は発見されていません。日本の資料では、前回ご紹介した船村氏と大瀧詠一氏との対談および
2002(平成14)年5月22日(水)に『日本経済新聞』に「私の履歴書」として掲載された船村氏のコラムが存在します(後に単行本として出版)。
これ以外の資料が未だ発見されていないため、この歴史的事実が起きた具体的な日時や場所が特定できないのです。
ですから、現存する資料と当時の状況から推理するよりほかありません。
3. 船村氏のヨーロッパ滞在
船村氏は、1961年3月から2年間ヨーロッパに滞在し、コペンハーゲンを拠点として各地を訪れました。その中にはイギリスも含まれています。問題を複雑にしているのは滞在期間の長さです。ビートルズのメジャー・デビューの時期がすっぽりとこの期間に入っているんですね。前回の記事では「遅くとも1960年から1961年」と推定していましたが、これは訂正させていただきます。もっと、短期間であれば特定しやすいのですが、長期間に亘っているためにピンポイントで特定することが困難になっています。
しかも、他の日本人は同行していませんでしたからなおさらですね。
https://www.studiorag.com/blog/fushimiten/the-beatles-funamura
4. . 決め手は「あの汚い4人組」という発言
それでも、何とかアプローチを試みてみましょう。その際、決め手となるのは、船村氏が彼らを見た際の「あの汚い4人組」との発言です。これが彼らの見た目のことを指しているのは明らかです。彼らは、1962年3月からイタリア製のスタイリッシュなベノドーンスーツを着用していました。それまでは黒の革ジャンでしたが、これでは当時も「不良」のイメージが強く、実際、地元やハンブルクでも一般の人からはあまり良い印象は持たれていませんでした。
船村氏がこの頃に彼らと出会っていたなら、まさに「あの汚い4人組」と言われても仕方なかったといえます。
5. ヘアスタイルのことだったのか?
一方、彼らは、ドラマーのピート・ベスト以外は、ヘアスタイルを当時としては奇抜な「モップトップ」、すなわちマッシュルーム・カットにしていました。
当時、男性は、頭髪をさっぱりと整髪するのが常識で、彼らのヘアスタイルは非常識なものだったのです。船村氏がこの点を指して発言したとすれば説明はつきます。
6. それでもなお残る疑問
仮に船村氏がEMIで出会ったとすると、それでも多くの疑問がわいてきます。
1. 船村氏はVIPだった
船村氏は、EMIから国際映画祭のグランプリ受賞者として招待されたのですから、それほど仰々しいものではないフランクな訪問であったとしても、丁重な待遇を受けたはずです。
ですから、公式記録に何らかの記載が残っているでしょうし、記念写真くらいは撮影されたはずです。しかしながら、公式記録はおろか、当時の関係者からも全くそのような証言は得られていないのです。例えば、船村氏にどのミュージシャンが良いと尋ねたのは、当時EMIの社員だったロン・リチャーズだとされていますが、これほどのトピックを彼が一切語らなかったのは不可解としか言いようがありません。
https://www.studiorag.com/blog/fushimiten/the-beatles-funamura/2#a4
6. それでもなお残る疑問
2. オーディションではなくレコーディングだった
ビートルズ研究の第一人者であるマーク・ルイソンが2016年11月に出版した「ザ・ビートルズ史」の日本語版で、この日のセッションについて詳細ははっきりしないとしながらも、あくまで彼らのファースト・シングルを制作するためのセッションであり、オーディションではなかったと断言しているのです。
しかし、それがもし1962年6月6日にEMIでセッションした日であれば、すでにスーツを着用していましたからこういう発言は出なかったのではないかと推察されます。
なぜなら、プロデューサーのジョージ・マーティンは、彼らの演奏をテープで聴いた時点ですでにパーロフォンとの契約を結んでいたからです。
仮にそれが正式な契約ではなく仮契約だったとしても、この日は、本格的なレコーディングのために機材がセッティングされていました。
そして、彼らは、確かにEMIスタジオを使用しましたが、それはあくまでパーロフォンがEMIの子会社であるという関係だったからです。
つまり、船村氏がEMIに招待されたからといって、それが出会いと直結するわけではなかったのです。
となると、船村氏が審査員として参加することはあり得なかったと言わざるを得ません。
3. 他のミュージシャンはいなかった
また、船村氏は、3~4組のミュージシャンがオーディションを受けたと語っていますが、この日、このスタジオでレコーディングしたのはビートルズだけです。
これらの事実を総合して考えると、船村氏が彼らと出会ったのはこの日ではなかった可能性が高いと思います。
https://www.studiorag.com/blog/fushimiten/the-beatles-funamura/3#a6-3
7. では、いつどこでだったのか?
ここからは私の推理ですが、船村氏が彼らと出会ったのはEMIではなく、同氏がヨーロッパに移住した1961年3月からビートルズがスーツを着用するようになった1962年の3月までの間で、イギリス国内で開催されたオーディションまたはコンテストだったのではないかと思います。
この当時の彼らは黒の革ジャンでしたから、この外見は、正に船村氏の「あの汚い4人組」という発言にピタリと当てはまります。
また、イギリス国内で開催されたオーディションやコンテストにはさまざまなものがあったでしょうが、少なくともプロミュージシャンを発掘するための審査員ともなれば、それなりの実績の持ち主でなければなれなかったはずです。
その点、船村氏ならその資格は十分だったと考えられます。当時、日本人の海外渡航は制限されていましたから、なおさら「はるばる日本から来た超一流の音楽プロ」として注目を浴びたでしょう。
以上の理由から私は、船村氏が彼らと出会ったのはEMI本社ではなく、それ以前にイギリス国内で開催されたオーディションまたはコンテストだったのではないかと推察します。
何の裏付けもない単なる推理に過ぎませんので、その点はご承知おきください。
8. 余談
私は、ルイソンに2017(平29)年2月21日(火)にメールを送信し、船村氏が世界で初めて彼らの才能に気づいた可能性があると記しました。
すると、翌日に貴重な情報だと思う、提供してくれたことに感謝する、追加の情報を求めるかもしれないとの趣旨の返信がありました。
彼がこの情報に関心を示したのは、その価値の高さと彼にとっても初耳だったからでしょう。船村氏は、パリのパテ・マルコーニから招待され、その時、あるギリシャ人の新人歌手を教育してほしいと依頼されました。
そして、船村氏は、その新人に音楽面での指導をし、彼は船村氏のことを「東洋の師匠」と呼んで敬愛しました。
彼は、やがてプロのミュージシャンとして反戦歌を歌うようになり、1969年、「Le Meteque」(邦題:異国の人)という曲を大ヒットさせ、一躍スターとなりました。
彼は、シンガーソングライターとして有名なジョルジュ・ムスタキです。そうです。船村氏は、ビートルズの才能に気づいただけでなく、海外の一流歌手まで育てたのです。
https://www.studiorag.com/blog/fushimiten/the-beatles-funamura/4#a7
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┃『THE FAMILY WAY “ふたりだけの窓 ”』┃
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1966(昭和41)年12月18日(sun) UK released
1989(平成元)年02月24日(fri) video released
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┃『THE FAMILY WAY “ふたりだけの窓 ”』┃
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Soundtrack album by Paul McCARTNEY
1966(昭和41)年12月23日(fri) Love in the Open Air
1967(昭和42)年01月06日(fri) UK released
‡1967(昭和42)年06月12日(mon) US released
1996(平成八)年?月?日(???) CD re-release
音源◆http://youtu.be/hD9N5YTnpzU
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①http://en.wikipedia.org/wiki/The_Family_Way
②http://en.wikipedia.org/wiki/The_Family_Way_(soundtrack)
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┃『THE BEATLES GRATEST STORY』 ┃
┃『ザ・ビートルズ グレイテスト・ストーリー』 ┃
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1978(昭和53)年08月05日(土) 劇場公開日
1978(昭和53)年製作/99分/アメリカ
原題:THE BEATLES AS THEY WERE
配給:IP、集英社
解説:1962(昭和37)年10月05日(金)にデビューして以来8年間、世界に旋風を巻き起こしたビートルズ、彼らの軌跡を編集したドキュメント・ムービー。1964年のカーネギー・ホール、1965年のシェア・スタジアムなど、コンサートの模様を伝えるとともに、メンバーの私生活のスケッチも織り交ぜている
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ビートルズの歩みを映像で綴る「ヒストリーもの」劇場公開されたものは99分、ビデオは短縮版で60分収録。劇場公開時のタイトルは「グレイテスト」、ビデオのパッケージとテープのラベルでは「グレーテスト」、ビデオの解説書では「グレイテスト」表記。1978年制作→ビデオソフトというものが出始めた時期(1980年前後)に、画質の良くないビデオが東映ビデオから発売(型番:TE-M504)→廃盤(未DVD化)基本的にはいくつかの映像をただつないだだけで、「ドキュメンタリー」と呼べるほどの内容ではない。日本ではまず劇場公開され、地方局でテレビ放映もされていた(その時は115分枠だったから本編90分ぐらいか)。東映ビデオから発売されたビデオ版は一部をカットして60分の長さにした短縮版で、ビデオ用にテロップを入れるなどして再編集してある。ビデオ版の内容:(曲名の終りに◎の付いているものはいちおうカラーだが、相当退色している)
■MBE受勲インタビュー
‡1965(昭和40)年06月12日(土) 冒頭に映画『ハード・デイズ・ナイト』からの抜粋
■プロモ・フィルム Penny Lane / Strawberry Fields Forever / Revolution ◎ / Hey Jude ◎
もとの全長版には他にシェイ・スタジアムのライブや「Let It Be」のプロモ・フィルムなどが含まれていたようである。最後は「The Long And Winding Road」に合わせてビートルズの写真が次々に流れるエンディングで幕(のはず)。
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https://eiga.com/movie/44869/
http://beatleslist.web.fc2.com/b4video2.html
https://www.facebook.com/groups/720792321370235?sorting_setting=CHRONOLOGICAL
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Jimi Hendrix - Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band
2009(平成21)年04月23日(木)
1967(昭和42)年12月22日(金)にオリンピア・ロンドンで開催されたイベント “クリスマス・オン・アース・コンティニュード (Christmas On Earth Continued)” に出演時の映像。曲は言わずと知れたビートルズのカヴァー「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」。ジミはカヴァー曲を色々手がけていますが、例外なく自分色に染め上げてしまいますね。このビートルズ・ナンバーも原曲と歌メロを共有しながらもビートルズっぽさをほとんど感じさせず、ジミヘンの香りがプンプン!最初に聴いた頃に感じたビートルズ・ナンバーを演ることに対する違和感。しかし、それを払拭するのに時間が掛からなかったのは、この強烈な個性によるものだったのかも知れません。エクスペリエンスによる初演は、
1967(昭和42)年06月04日(日)のサヴィル・シアター公演。驚いたことに、ビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を発売したわずか3日後のこと。聴衆の1人としてこれを聴いたポール・マッカートニーが驚き感激したのは言うまでもありません。お馴染み1970年のワイト・フェスティバル。ワン・コーラスしか演っていなかったので取り上げにくかったのですが、ちょうどいい機会ですので・・・。むしろイギリス国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」の方が貴重かな?
https://drfred.blog.fc2.com/blog-entry-310.html
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『SGT:PEPPER'S』が後世に与えた影響
‡2017(平成29)年06月12日(月) STORIES Written By Martin Chilton
こと実験性という意味においては、1967年以降現在までの半世紀の間に生まれたポピュラー・ミュージックの大部分が、『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』(以下『Sgt Pepper』)に借りがあると断言しても決して言い過ぎではないだろう。ザ・ビートルズのサウンド、ソングライティング、スタジオ・テクノロジー、そしてカヴァー・アートにおける極めてユニークな冒険が、たちまちのうちに大きなインパクトをもたらし、英国の全レコード・リリース史上最大のセールスを記録するに至ったこのアルバムが世に出たのは、
1967(昭和42)年06月01日(木)のことだった。
1967(昭和42)年06月04日(日) リリースから僅か3日後、ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスはロンドンのサヴィル・シアターでのショウのオープニングを、(『Sgt Pepper』の)アルバム・タイトル曲のカヴァーで飾った。折しも客席に居合わせたポール・マッカートニーとジョージ・ハリスンはこの時、自分たちが何かとんでもなくスペシャルなものを作り上げたことを悟ったに違いない。それから5カ月も経たないうちに、ジェファーソン・エアプレインが、実験的な『Sgt Pepper』の影響色濃い『After Bathing at Baxter’s』をリリースする。これは彼らが同じ年にリリースしていた前作の『Surrealistic Pillow』とは全くかけ離れた作風のアルバムだった。ザ・ムーディ・ブルースもいち早く新たな音楽的視界の受け容れを表明したバンドである。67年11月、彼らがリリースした『Days Of Future Passed』はロンドン・フェスティヴァル・オーケストラの力を借り、ザ・ビートルズの影響を強く感じさせるサイケデリック・ロック/クラシック・サウンドを作り上げた。
1967(昭和42)年12月08日(金)には、ザ・ローリング・ストーンズが『Their Satanic Majesties Request』をリリースする。このアルバムは『Sgt Pepper』に対するシニカルなサイケデリック的回答と評価され、キース・リチャーズもこう認めている:「あれは、結局何とも中途半端なもんになっちまったな。ちょうどストーンズが新しいアルバムを出そうとしてた時に、『Sgt Pepper』が出てきて、要するに俺たちはあれのパロディーをやらかそうと考えたわけだ」。この他にも、ザ・ビートルズによって具現化されたアルバムには枚挙のいとまがなく、1968年のブリティッシュ・ロック・グループ、ザ・プリティ・シングスによる『SF Sorrow』から、一年後にはキング・クリムゾンが『In The Court Of The Crimson King(邦題:クリムゾン・キングの宮殿)』で明らかにそれと分かるオマージュを捧げた。ギタリストでありプロデューサーでもあるロバート・フリップは、ラジオ・ルクセンブルグで耳にしたジョン・レノンとザ・ビートルズの他のメンバーたちに触発され、かの歴史的プログレ・ロック・アルバムを作る着想を得たのだそうだ。「『Sgt Pepper』を聴いてから、私の人生は一変したんだ」、ロバート・フリップはそう言って憚らない。ザ・ビートルズはカウンターカルチャーの価値観をメインストリームに持ち込んだ。“ロック・アルバム”かくあるべし、という伝統的な不文律を破ることで、『Sgt Pepper』は他のアーティストたちに、それまでになかった新しいアイディアとアティテュードによる音楽へのアプローチを促したのである。レコードのプロダクションにおいても、このアルバムは専門的技術と革新性において新たな基準となった。ザ・ビートルズのファースト・アルバム『Please Please Me』は、全曲を実に僅か1日、約10時間で録音完了させたものだったが、『Sgt Pepper』は1966年11月から1967年4月まで、トータル約700時間の作業(プロデューサーのジェフ・エメリック談)が注ぎ込まれていた。レコードが完成するまでレコーディング作業を続けるという考え方(ただ単にスタジオを数日借りるということではなく)は革命的なコンセプトであり、プロデューサーのジョージ・マーティンによれば、‘道具としてのスタジオ’の定義を見直すきっかけにもなった。結果としてアビィ・ロード・スタジオの使用料総額が、当時としてはケタ外れの25,000ポンドに達したのも当然の成り行きだろう。更に画期的だったのはマルチ・トラックを使っての録音作業で、ジョージ・マーティンはその利点を駆使して西洋の音楽とインド音楽、ジャズ、そしてサイケデリック・ロックやポップ(ヴィクトリア時代のミュージック・ホール《訳注:ヴォードヴィル的演芸要素を含む軽音楽劇》をたっぷりと加えて)との融合を図り、声とインストゥルメンテーションによるめくるめくサウンド・コラージュを作り上げた。ポール・マッカートニーは『Sgt Pepper』が音楽カルチャーに‘大いなる違い’をもたらした理由のひとつとして、それ以前は「みんなポピュラー・ミュージックの枠の中で、少しばかり無難な方に寄っていたんだけど、僕らはふと気づいたんだよ、別にそうする必要なんかないんだってね」と語っている。『Sgt Pepper』は時に、史上初のコンセプト・アルバムとして称えられることがある。これは必ずしも的を射た表現とは言えないが(ドラマーのリンゴ・スターは、アルバムには首尾一貫したテーマは存在しないことを公式に認めており、レコーディング作業開始直後のセッションから生まれた2つの名曲、「Strawberry Fields Forever」と「Penny Lane」はそれぞれシングルとして出すことを前提に録音されたものだったと証言している)、世の人々はかの作品を‘コンセプト’・アルバムと信じて疑わず、その定義はもはや音楽界の民間伝承と化しているのだ。ザ・ビートルズに影響を受けたバンドには、ジェネシス、イエス、ラッシュ、ジェスロ・タルまで含まれており、彼らの独創的なアルバムは、空前の“ロック・オペラ”熱をも巻き起こすきっかけとなった。驚異的成功を収めたザ・フーの2枚組アルバム『Tommy』(1969)も、ティム・ライスとアンドリュー・ロイド・ウェバーによる『Jesus Christ Superstar』(1970)も、根元をたどれば『Sgt Pepper』という大木に行き着くのだ。ザ・ビートルズが変化の引金を引いたのは、何もロックの輪に限ったことではない。カーラ・ブレイはこのアルバムを聴いて、「これに負けないようなアルバムを作ってやる」と心に決め、それからの4年間を費やし、リンダ・ロンシュタットをフィーチャーして作り上げた前衛ジャズのトリプル・アルバム『Escalator Over The Hill』を1971年に世に送り出した。『Sgt Pepper』はまた、音楽上の第二の自我(ルビ:オルター・エゴ)という考え方を一般的に知らしめた。いつもの日常から一歩踏み出し、ステージの上やレコードの中では別のペルソナをまとっても差し支えないという発想は、「解き放たれたように感じさせてくれた」とポール・マッカートニーは言い、この冒険はやがてデヴィッド・ボウイやグラム・ロック時代のKISSをはじめとする多くのアーティストたちを巻き込んでいくことになる。もっとも、すべての人が『Sgt Pepper』を手放しで、何もかも超越した天才的作品と褒め称えたわけではなく、かのアルバムにインスピレーションを得て生まれた作品の中には、寧ろその逆に近い反応もあった。フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションがヴァーヴ・レコードから1968年にリリースした『We’re Only In It For The Money』(*訳注:直訳すると「俺たちはただ金のためにやってるだけだ」)は、アルバム・カヴァーからして『Sgt Pepper』のパロディで、その政治的スタンスと、60年代後期のカウンターカルチャーの心臓部と思われていた、いかにもインチキ臭い“ヒッピー的”価値観を痛烈に諷刺した。ザ・ラトルズは『Sgt Pepper』ならぬ『Sgt Rutler’s Only Darts Club Band』というパロディ・アルバムを出し、子供向けTV番組の『セサミ・ストリート』までもが、‘With A Little Yelp From My Friends’という曲をレコーディングした。しかし、ザ・ビートルズがこのアルバムで切り拓いた新たな道は、実は音楽だけに留まらなかった。フロントの眩惑的なヴィジュアルは、アルバム・カヴァーがモダン・アート作品になり得ることを確信させたし、アルバムのパッケージの一部に全収録曲の歌詞をすべて完全な形で組み込んだ、最初のロック・アルバムともなったのである。マイケル・クーパーの撮影による写真では、バンド・メンバー全員が揃いのサテンのスーツ姿で、画家のピーター・ブレイクと彼の当時の妻ジャン・ヘイワースが制作したメイ・ウェスト、オスカー・ワイルド、ローレル&ハーディ、それにW.C.フィールズといった歴史上の人物たちの段ボールのコラージュの前に立っている。これは60年代サイケデリック時代全体を通じて、最も不朽のイメージのひとつだろう。『ザ・シンプソンズ』をはじめ、このカヴァーは愛情をこめて何百回と真似されてきた。2016年には、英国の芸術家クリス・バーカーが、レナード・コーエン、プリンス、フットボール選手のヨハン・クライフ等、同年惜しまれつつ亡くなった各界のスターたちをキャスティングした新たなヴァージョンを発表している。アルバム全体と同様、『Sgt Pepper』は曲単位でも数え切れないほど多くのカヴァー・ヴァージョンを触発している。特によく知られているのは♪Lucy In The Sky With Diamonds♪ エルトン・ジョン ♪With A Little Help From My Friends♪ ジョー・コッカー他、ハリー・ニルソン、ファッツ・ドミノ、ブライアン・フェリー、ジェフ・ベック、ソニック・ユース、アル・ジャロウ、ビリー・ブラッグ、そしてビリー・コノリーに至るまで、実に多くの優れたカヴァーが世に出ているのだ。20世紀の音楽の傑作に対するトリビュートは、1995年のスマッシング・パンプキンズの後も、世紀をまたいでなお続いている。カイザー・チーフスは1967年のレコーディング時にエンジニアを務めたジェフ・エメリックの手による2007年のトリビュート・アルバムのために、「Getting Better」のカヴァーを提供した。ブライアン・アダムスも参加したこの『Sgt Pepper』のニュー・ヴァージョンの録音に際し、ジェフ・エメリックはオリジナルのレコーディングで使用されたのと全く同じ機材を使っていた。アメリカのバンド、チープ・トリックは、2009年のライヴ・アルバムでフル・オーケストラをフィーチャーしたヴァージョンを披露し、更に2011年にはアメリカ人ギタリストのアンディ・ティモンズが、1970年に別のザ・ビートルズのアルバム、『Abbey Road』の全曲カヴァーを出した例に倣うように、全曲インストゥルメンタルのカヴァー・アルバムを出している。『Sgt Pepper』が何故こんなにも絶大な影響力を持っているのかを恐らく最も的確に総括してくれるのは、ロジャー・ウォーターズの言葉だろう。ピンク・フロイドの1973年の名作『The Dark Side Of The Moon(狂気)』の構想に、このアルバムがいかに大きな役割を果たしていたかについて、彼はこう説明している:「俺はレノン、マッカートニー、そしてハリスンから、俺たちの人生について書いてもいいんだ、感じたままを表現していいんだと教わったんだ ……あれは他のどんなレコードよりも、俺と俺の同世代たちに、思い切って既定路線を外れて、何でもやりたいことをやっていいんだって許可を与えてくれたんだよ」。
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