過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)

 

 

 2009(平成21)年1月10日(土)の成人式の後、広島県呉市の会場付近で酔って立ち小便をしたとして呉署は
‡2009(平成21)年2月4日(水)、呉市内の塗装工の男性(20)を軽犯罪法違反の疑いで書類送検した。
 男性は10日午後4時ごろ、成人式があった呉市文化ホールそばの市道交差点で立ち小便をした疑い。男性が立ち小便をする様子を地元テレビ局が撮影し、当日夜のニュースで全国放送した。男性は同夜、自分の行為が報道されていることを知り、同署に名乗り出たという。
 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1024463425

 「夜8時以降も営業」“時短しない店“ 切実な理由とは
‡2021(令和三)年02月04日(木) 18:19配信 RKB毎日放送
 福岡県の調査では、今回の緊急事態宣言で99%の飲食店などが時短要請に応じているということですが、残りの1%は、夜8時以降も営業を続けています。どんな理由があるのか、飲食店を取材しました。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/6a8c80f22c7ebc101ad90ce02be273adbbfd4461

 ココイチの「客離れ」が止まらない、“値上げ”よりも致命的な原因
 2020(令和二)年02月15日(土) 8:01配信 写真:現代ビジネス 
 変調のきっかけとなった「値上げ」
「ちょっとトッピングしただけで、1000円の出費は痛い……」。そんな声が至る所で聞かれるようになったカレーチェーン最大手の「カレーハウスCoCo壱番屋」(以下、ココイチ)だが、ここへきて深刻な“客離れ”が現実味を帯び始めている。
◇警視庁23歳の美人巡査がヤクザに惚れてすべてを失うまで ⇒ 運営する(株)壱番屋が
‡2020(令和二)年02月04日(火)に発表した『2020年1月度月次情報』によれば、全店の売上高は100.3%(前年同期比)とほぼ横ばいとなった一方、既存店の客数は98.4%(同)と減少していることが明らかになった。ココイチの既存店の客数減は、今に始まったことではない。期初となる2019年3月度から2020年1月度にかけての11ヵ月のうち、対前年同期比でマイナスとなった月は、実に8ヵ月にも及んでいる。ココイチが変調をきたした契機とされているのが、
 2019(平成31)年03月01日(金)に行われた「値上げ」だ。
 そもそも、ココイチはこれまで、食材や人件費の高騰を理由に度重なる値上げを行なってきた。たとえば、定番メニューの「ポークカレー」は2016年12月以降、地域ごとに値上げを実施。そして昨年3月に、国内店舗のうち約8割の店舗で価格を21円(税込)引き上げられた。現在、同商品は東京23区などの都心部では505円、それ以外の地域でも484円となっている。それでは、なぜファンからの不満をよそに、ココイチは強気の値上げ戦略をとり続けるのか。実はそのウラに、同社の明暗を分けるカレーチェーン業界の動きがあるという。その理由について、「カレー総合研究所」代表で、カレー専門のコンサルティングを行う井上岳久氏に解説してもらった。
 写真◆オーソドックスな「ポークカレー」(画像:CoCo壱番屋公式HPより) 
◇ここまで強気の値上げができたワケ ⇒ ココイチの価格戦略は、業界では「トッピング積み上げ方式」と呼ばれるものです。これは、ベースとなるポークやビーフなどの安価なカレーに、利益率の高いトッピングを積み上げることで、カレー単価の増加を狙う方式です。そもそも、ココイチのカレー自体の味は、特筆して美味しかったり、独自性があるわけではありません。まさに、家庭の素朴な味をイメージした日本人が食べ慣れてる普通のカレーです。つまり、変にこだわりが存在しない分、ココイチには「まずい」「食べにくい」といったマイナス要素が付きにくいという強みになったと言えるでしょう。さらに強みとなったのが、まさにトッピング。ココイチといえば、ご飯の量やカレーソースの辛さに加え、カツやチーズ、スクランブルエッグなどの豊富なトッピングを選び、自分好みの組み合わせで食べる仕組みが人気です。「1億通り」と呼ばれるトッピングの組み合わせを作り出したことで、他のカレーチェーンにはない個性を生み、結果として、多くのファンを獲得することにつながったのです。加えて、カレーとトッピングとを別建てにしていることは、消費者に対する心理的なメリットもあります。なぜなら、ベースとなるカレーだけでなく、トッピングもほぼ毎年のペースで値上げが行われていますが、消費者にとって一連の値上げ幅が非常に小さく映るからです。昨今、外食チェーンは軒並み値上げによって客離れに苦しんでいます。しかし、ココイチはこのトッピング積み上げ方式によって、他の外食チェーンよりも客離れを抑えられたと考えられます。
 次ページは:他の飲食業態ではありえない 
 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200215-00070426-gendaibiz-bus_all

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 ┃ ダイヤモンドシティ・ソレイユ ┃
 ┃   DIAMOND CITY SOLEIL   ┃
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‡2004(平成16)年02月04日(水) 開業日を同年3月24日にすることを発表。ナフコ21スタイルやスポーツオーソリティなどの大型店舗の出店[16]。車で40分圏内の約110万人を基本商圏と位置づけ[16]、30代の夫婦をメインターゲットに位置づけ「上質で感性のある店づくり」をコンセプトにした[16]。年間2000万人の集客および500億円の売り上げを目指すとした[16]。また、カード会員向けに19日から23日までプレオープンするとした[16]。 
 2004(平成16)年03月13日(土) 天神川駅が開業
 2004(平成16)年03月18日(木) プレオープン
 2004(平成16)年03月24日(水) 開店日
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 ┃ イオンモール広島府中ソレイユ ┃
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 2007(平成19)年09月22日(土) 運営会社のダイヤモンドシティがイオンモールと合併した事に伴い、イオンモール広島府中ソレイユに変更
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 ┃ イオンモール広島府中 ┃
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 2011(平成23)年10月21日(金) 現名称イオンモール広島府中に再改称
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 https://hiroshimafuchu-aeonmall.com/static/detail/mall
 https://ja.wikipedia.org/wiki/イオンモール広島府中
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 ┃ 数え年と暦 ┃
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 1997(平成九)年08月25日(月)
 ひふみよいむなやこと。古代から、一(ひ)から十(と)までの数霊の全てを兼ね備えたのが人(ひと)とされてきました。「一から十まで」という表現は、今でも、始めから終わりまでという意味のように全事象を指し示す言葉として通用しています。我が国は、万葉集で山上憶良が詠ったように、「言霊の幸はふ國」であるとともに、このように「数霊の幸はふ國」でもあります。人々は季節の織りなす自然の中で生き、その暮らしや営みを支えるものを大切にしてきました。森羅万象は全て巡り巡って循環し、始めと終わりは表裏のものとして、特に、事物の始まりと終わりを神聖なものと認識して祭禮を執り行いました。そして、年、月、日、年号でも、その始め(初め)は一(元)であり、人の生まれの始め(初め)は一歳というように、人の暮らしと営みは農事と儀式の暦に従い、四季の移り変わりとともに月日を重ねてきました。ところが、権力的干渉によってこの伝統文化が破壊され、人の年齢だけは、その生まれの初めを零歳とすることが法律で決められて今日に至っています。それは、年齢計算ニ関スル法律(明治三十五年)と年齢のとなえ方に関する法律(昭和二十四年)の二つの法律によるものです。しかし、「いのち」は、母の胎内から始まり、出生から始まるものではありません。もし、年齢というものを「生命の年齢」、「生命年数」という意味に理解すれば、法律で強要された、いわゆる満年齢という数え方は、単に「出生後の生存年数」に過ぎず、「生命年数」とは全く異なります。現に、現代医学という名の施術を用いると、分娩を遅らせたり早めたりすることもできるし、意識が回復不能の状態でも生命維持装置を用いて限りなく延命することも、安楽死とか尊厳死という名でいのちの終わりを早めることもできるので、年齢を考えるにあたって、その始めも終わりも人為的に左右される満年齢という「出生後の生存年数」も決して正確なものではなく、殊更にこの年数に固執して年齢を表示する意味も薄らいでいます。その点、伝統的な数え年は、もののはじめが一であるという数霊に適うものであると同時に、この「生命年数」の理念に最も近いものでした。受精から出生までの
 十月十日を出生時に一歳と認識して、その後の齢は暦計算に基づいて重ねていくものと捉えれば、生命年数の捉え方の理念としては最も合理性があると認められるからです。確かに、数え年という年齢計算は、科学的に正確な生命年数ではありませんが、太陽暦によっても、一年は三百六十五日ではなく、閏年や閏秒があることから、年齢計算を暦計算で行うことはやはり科学的には不正確と言わざるを得ません。ともあれ、現在の法律では、人は生まれたときは零歳ということになります。何とも奇妙であり、その「零歳」という響きには、いかがわしさすら感じられます。一(ひ)から始まらない生存は「ひと」ではありません。また、胎児はそれ以前ですから、理屈からすればマイナス年齢で表示されることになり、人としては認識されなくなりました。胎児の命は軽んじられ、堕胎に歯止めがないに等しい昨今の風潮が生まれる素地がここにあるのではないでしょうか。ところで、GHQの占領下では数多くの伝統破壊が行われましたが、伝統的な年齢計算が法律によって強引に否定されたのは戦前のことであり、いわば明治維新やその後の明治政府の施策によって、GHQによるものに勝るとも劣らないような伝統破壊や文化干渉がなされていることを忘れてはなりません。数え年の廃止も暦に関連した大事件ですが、これに勝るとも劣らない最大の事件としては、明治五年の太陽暦改暦があります。明治政府は、欧米諸国と暦を共通することによる外交上や貿易などの便益から、従来までの太陰太陽暦(旧暦)から太陽暦(グレゴリオ暦、新暦)への改暦を決定し、旧暦の
 明治五年十二月三日を新暦の
 明治六年一月一日(元旦)とすることを僅か二十三日前に発表して改暦を行いました。改暦を行うことが仮に時代の趨勢としてこれに抗することができなかったとしても、何故この時期に行ったかということが問われなければなりません。その理由は、一言で言えば、当時の政府が著しい財政難であったことが原因しています。つまり、旧暦によると翌年の明治六年には閏六月があり、十三ヶ月、三百八十四日となっていました。このままでは、官吏(公務員)の俸給(給料)を十三ヶ月分支払うことになります。そこで、旧暦の明治五年十二月三日を新暦の明治六年元旦とすれば、明治五年十二月は、一日と二日の二日間しかないので、この十二月分の給料を支払わずに済みますし、しかも、明治六年は十三ヶ月分の給料を支払うところを十二ヶ月分で済ませられるので、向こう一年で二ヶ月分の給料が節約できるとの計算から、そのように計画して実行したのです。そもそも暦を決定する権限は、古今東西において「王権」に属するものであるにもかかわらず、財政的な理由や諸外国に迎合することを善とした文明開化という名の伝統破壊思想によって、大御稜威を簒奪し、改暦による文化的・社会的な悪影響を全く考慮せずに、暦という重要な國體的素因を無造作に変更してしまったという過ちは、決してぬぐい去ることのできない汚点と言わざるをえません。近現代史の捉え方において、日本はいつでも悪いことをやってきた犯罪国家であるとするコミンテルン史観や東京裁判史観などは論外ですが、戦争に勝っているころ(明治時代)の日本は正しいが、昭和に入って負けてきたころ以降の日本は悪かったとする司馬遼太郎の歴史観にもほとほと呆れ果てます。これは、昭和初期から敗戦までの日本は日本でありながら日本ではないとする断絶史観です。戦前は悪で、戦後は善とする戦後保守思想もこれと同列のものです。歴史は連続しており、金太郎飴のように、どこを切ってみても「日本」なのです。こんな単細胞的な司馬史観などが最近ではもてはやされていますが、司馬遼太郎が大好きな、明るく逞しい明治維新や日清・日露戦争は、同じく大嫌いな、暗くて苦しい昭和史を作った最大の原因であったことを自覚すれば、歴史の評価においては、一時代に限って全肯定したり全否定したりすることが如何に愚かしいものであるかが解ります。光と影の双方を見つめなければ、歴史の立体構造を知ることができません。その意味でも明治維新や明治政府の施策を全肯定することも全否定することもできません。この改暦も、数え年の廃止も、明治維新を遂行した明治政府が、我が国の伝統を破壊して歴史に禍根を残している一例なのです。しかし、この改暦や数え年の廃止がもたらした功罪について、今まで誰も本格的に論じていなかったことが不思議でなりません。ともあれ、我が国の歴史は、修理固成の御神勅のとおり歩んで行くと信ずるがゆえに、この改暦による弊害はいつの日か治癒されると確信します。太陰太陽暦には、確かに難点はありましたが、決して致命的な欠陥はなく、実生活の面において多くの利点と効用があります。現代において、これを単純に復活させ、新暦を廃止せよというものではありませんが、せめて韓国のように、新暦と旧暦の併記併用を公式に認めさせるべきです。そして、さらに旧暦の併記併用型の復活に際しては次のことが考慮されなければなりません。それは、新暦を従来どおり主たる暦として使用継続する場合であっても、元旦を立春とする古式伝統を復活させるべきではないか、ということです。そもそも、ユダヤ暦のような純粋な太陰暦ではなく、太陽の運行をも考慮した太陰太陽暦は、元旦を立春に近い日になるように定められており、理想としては、立春を元旦とすることでした。しかし、新月の日(月立ちの日、朔日)と満月の日(十五日)の限定から、どうしても元旦と立春とのズレを生じますが、我が国の古式伝統では、立春を元旦として新年新春を祝います。そして、今でも、地方では、立春を元旦とし、その前日の節分を大晦日とする風習が残っており、それは、正月(睦月)を春の初めとする日本書紀の記述に由来していると思われます。「辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮。是歳為天皇元年。」。これは、神武天皇が橿原の宮で践祚された神武肇國に関する日本書紀の記述部分です。中国暦(陰暦)の影響を強く受けた記述ではありますが、「春正月」(はるむつき)という表記は、立春を元旦(朔)としている意味と解釈できるからです。立春は、太陽の運行に基づき地球の北半球で観測した春の始まりであり、これが我が国の季節の始まり、年の始まり、暮らしと営みの始まりとして、二十四節気の内で最も重要なものです。この立春を暦の元基となる節日(基日、元日、元旦)するものが真の太陽暦なのです。戦前においてもこの神武肇國の記述から紀元節を何時と定めるかについて諸説があり、戦前から二月十一日となっていますが、立春とするのが自然な解釈のはずです。太陽の運行や節気とは無関係で何ら意味のない日に即位されたとする解釈の方が不自然でしょう。ともあれ、「春正月朔」が立春であることから、正月の挨拶には、新年を「初春」、「迎春」、「新春」などの言葉で表現し、これが季語にもなっています。しかし、今の新暦では立春が
‡二月四日(ころ)ですから、元旦は真冬であり、「春」ではないのです。一年は、春夏秋冬ではなく、冬春夏秋冬であり、冬が始めと終わりに跨った変則的なものとなっています。そして、冬なのに「初春」という季節はずれの挨拶や白々しい季語がまかり通るため、「言霊」と「数霊」が阻害され、この季節と暦の「ずれ」により人々は健全な季節感を失ってしまっているのです。一年の始まりが正月(睦月)であり、それが春夏秋冬の季節の始まりの春であることからすれば、立春より約三十四日前の何ら意味のない日を元旦としている新暦よりも、農事暦でもある旧暦の方が季節感と合致しています。八十八夜とか、二百十日、二百二十日などという生活に密着したものも、立春から日数を数えますので、例え現在の太陽暦をそのまま継続採用するとしても、元旦を約三十四日ずらして立春を元旦とする暦へと変更すれば、これらの矛盾やズレはなくなり、季節の始まりは春であり、一年の始まりは春正月として、人々の暮らしと営みに伝統の智恵が蘇ることになるはずです。これは日本暦(真正太陽暦)の創設です。これは、戦前の国際連盟において、伊勢の皇太神宮を基点として、その真上の天空を通る子午線を基準とした真正太陽暦を採用したうえで立春を元旦とすることが検討されていたのですが、残念なことに、日本が昭和八年三月に国際連盟を脱退したことによってその採用が見送りとなったという経緯がありました。そして、この真正太陽暦の採用と同時に、皇紀紀元の復活がなされなければなりません。皇紀紀元は日本暦(真正太陽暦)の創設と一体とならなければ歴史的意義が損なわれるからです。ところで、現在広く用いられている西暦紀元は、ラテン語でアンノ・ド・ミニ(AD)、つまり、イエス・キリストが支配君臨している年数という意味のキリスト教紀元(基紀)であり、キリスト教国でない日本がこの宗教暦を無批判に受け入れ、国民にその使用を実質的に強制していることは、イスラム暦、ユダヤ暦、チベット暦など固有の紀元を採用している世界の国々などから顰蹙をかっています。キリスト教暦を受け入れていることは、キリスト教を国教として受容したものとみなされるからです。いわば、国民の全てがクリスチャンであると思われているのです。また、アジアでも新暦のみで元旦を祝う国は日本だけで、多くの国では旧暦の元旦の方を盛大に祝っていますが、正常な季節感からすれば、旧暦元旦、もっと正確には立春を新春として祝う方が自然です。このように、我が国の現状は、暦に関する文化的価値と宗教的意義について余りにも無頓着、無神経であり、二十一世紀だとか、ミレニアムなどと無邪気にはしゃいでいる姿は、誠に嘆かわしい限りです。しかし、宗教暦の強制は憲法的にも許されませんので、一日も早くキリスト教暦(西暦)による基紀紀元を廃して皇紀紀元に改めるべきことは言うまでもありません。ところで、この日本暦(真正太陽暦)は、さらに改良の余地はありますが、現在通用しているグレゴリオ暦(新暦)とは大きく矛盾しません。いわゆるサマータイムと同じ要領です。暦日が約三十四日ずれるに過ぎません。現在の元旦が我が国にとって全く意味のない日であるがゆえに、これを意味のある立春にしようとするものです。そして、これは、単なる古式伝統の復活ではなく、生活に密着した実利性の復活でもあり、実際にも実現可能なことです。このように、人と社会と国家の「いのち」を守るためも、
 一 数え年の復活
 二 太陰太陽暦の併記併用
 三 立春を元旦とする真正太陽暦(日本暦)の採用
 四 西紀(基紀)の廃止と皇紀の復活 の四つについて、その公式化を実現させることが必要であり、これを暦に関する文化復興運動として提唱したいと考えます。
 1997(平成九)年08月24日(日)記す 南出喜久治
 http://kokutaigoji.com/reports/rp_h90824.html
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 ┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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 2004(平成16)年02月04日(水) ザッカーバーグ氏がフェイスブックを開設 ⇒ 世界最大のインターネット交流サイト(SNS)、フェイスブックがマーク・ザッカーバーグ氏らのハーバード大在学中に学生同士の交流を目的に開設された。傘下に写真共有アプリ「インスタグラム」や対話アプリ「ワッツアップ」を抱え、グループ全体の月間利用者は32億人を超える。写真は本社の看板【AFP時事】※2021(令和三)年記事追加
 2010(平成22)年02月04日(木) 大相撲横綱の朝青龍関が引退大相撲の横綱朝青龍関が、酒に酔って知人に暴行したことをきっかけに引退勧告を受け、現役から退くことを決断した。07年には負傷を理由に巡業を休場中にモンゴルでサッカーに興じるなど不祥事が続き、優勝25回の強豪が寂しく角界を去った。写真は、引退記者会見で涙をこらえながら話す朝青龍関【時事通信社】※2021(令和三)年説明削除
 1976(昭和51)年02月04日(水) 米ロッキード社による日本政界への献金問題が発覚
 1994(平成六)年02月04日(金) 初の純国産大型ロケット「H2」打ち上げ成功 ※2021(令和三)年記事削除
 https://www.jiji.com/jc/daily
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 ┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1974(昭和49)年02月04日(月) カネやんロッテ、日本一へ猛烈始動! 
‡2018(平成30)年02月04日(日) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は2月4日だ。 
 写真◆自らノックバットを持つ金田監督
 1973年、ロッテ監督に就任した400勝左腕・金田正一。惜しくもV逸に終わったこともあり、74年シーズンは燃えに燃えていた、はずだった。 
 しかし、2月1日から始まった鹿児島キャンプでは、初日から拍子抜けするくらい静か。「今年は選手の自主性に任せるのか」と思われた。 
 それが2月4日、一気に爆発する。日曜日とあって3000人を超すファンを前に「これがプロや」とばかり、“目玉商品”のランニングと猛烈なノックを披露。集まったファンも「話には聞いていたが、すごかとです」と目を白黒させた。 
 何しろ、まずはランニングを10キロ、40分。有藤通世が「俺たちは馬車馬みたいだ」と音をあげれば、「そうや、走ればゼニになるんや、走らんかい。死ぬ気でやってみろ」と、すぐさま金田監督がゲキを飛ばす。 
 全員がヘトヘトになって走り終わると、金田監督はスタンドに向かって、「みなさん、練習はこれからですよ。うちの猛練習をよく見てください。プロはこのくらい練習しないとダメなんですよ」と言って、今度は内外野5か所で同時にノックスタートだ。 
 金田監督も自らバットを取り、捕手の村上公康にノックの雨あられ。合間に「倒れて捕っちゃいかん。倒れて捕るならだれでもできる。それを走りながら捕るんだ。お前はプロだろ。プロならプロらしくしっかり頑張れ」と叫んでいた。 
 最後、金田監督の「終わり!」の一声で客席からは大拍手。選手たちはみな頭から足まで泥で真っ黒。金田監督の手のひらもマメがつぶれ、血がにじんでいた。 
「うちは長い遠征が多い(宮城が準本拠地の時代)。スタミナと気合がないと勝てんのや。だが、きょうの気合があれば大丈夫。今年は絶対優勝や!」 
 意気軒高の金田監督。この猛練習は以後も連日続いた。 
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180204-11
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.043 ┃  30円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1959(昭和34)年2月04日(水)号 特集 二年目の長嶋茂雄 ストーブ・リーグその後の主人公
 2017(平成29)年12月9日(土) 11:07 2018年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3400号を超えている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
 長嶋茂雄のオフの多忙な取材日程
 表紙は南海・野村克也
 今回は『1959年2月4日号』。創刊43号で定価30円だ。表紙は南海・野村克也のキャッチャーシーン。なかなか斬新だ。センターグラビアでは里帰りの密着もあった。センターカラーは青空バックで巨人・広岡達朗のゴルフ場での1シーンだ。 
 巻頭グラビアは残り少ない学生生活を楽しむ王貞治(早実─巨人)。そして本文巻頭が『2年目の長嶋茂雄』。オフの多忙な取材日程があったので抜粋する。 
 1958(昭和33)年12月15日(月) 11時半 スポーツニッポン座談会
 1958(昭和33)年12月15日(月) 18時 NHK『私の秘密』
 1958(昭和33)年12月16日(火) 12時 共同通信座談会
 1958(昭和33)年12月16日(火) 19時 郵船ビル座談会
 1958(昭和33)年12月17日(水) 12時 文化放送正月番組
 1958(昭和33)年12月17日(水) 13時 平凡写真撮影
 1958(昭和33)年12月17日(水) 14時半 ラジオ東京正月番組
 1958(昭和33)年12月18日(木) 12時 ベースボール・マガジン社写真撮影
 1958(昭和33)年12月19日(金) 12時 ベースボール・マガジン社写真撮影
 1958(昭和33)年12月19日(金) 16時 毎日放送正月放送
 1958(昭和33)年12月19日(金) 18時 東亜テレビ正月番組 
 1958(昭和33)年12月20日(土) 14時 巨人軍浴衣撮影
 1958(昭和33)年12月20日(土) 16時 中日放送正月番組
 1958(昭和33)年12月20日(土) 18時 日刊スポーツ座談会
 1958(昭和33)年12月21日(日) 14時 たんぽぽ会招待
 1958(昭和33)年12月21日(日) 14時半 報知新聞写真撮影
 1958(昭和33)年12月22日(月) 早朝 千葉県野田サイン会へ
 1958(昭和33)年12月22日(月) 18時 東亜テレビ正月番組
 1958(昭和33)年12月23日(火) 11時 NHKテレビ正月番組
 1958(昭和33)年12月23日(火) 15時 デイリースポーツ 座談会
 1958(昭和33)年12月24日(水) 12時 文化放送正月番組
 1958(昭和33)年12月26日(金) 13時半 新宿コマ巨人軍の集い
 1958(昭和33)年12月27日(土) 13時 東京新聞写真撮影
 1958(昭和33)年12月27日(土) 17時 短波放送正月番組
 1958(昭和33)年12月28日(日) 14時 東亜テレビ正月番組
 1958(昭和33)年12月28日(日) 19時 石原裕次郎の誕生祝
 1958(昭和33)年12月29日(月) 14時 文化放送正月番組
 1958(昭和33)年12月30日(火) 早朝 埼玉サイン会へ
 1958(昭和33)年12月31日(水) 17時 NHKテレビ座談会
 1958(昭和33)年12月31日(水) 20時 朝日放送稲尾と対談
 1959(昭和34)年01月01日(木) 浅草国際劇場に出演 1回目
 1959(昭和34)年01月02日(金) 浅草国際劇場に出演 2回目
 1959(昭和34)年01月03日(土) 12時 NHKテレビ正月番組 20時 NTV正月番組
 1959(昭和34)年01月03日(土) 浅草国際劇場に出演 3回目
 1959(昭和34)年01月04日(日) 浅草国際劇場に出演 4回目
 1959(昭和34)年01月05日(月) 浅草国際劇場に出演 5回目 ※最後の出演
 1959(昭和34)年01月05日(月) 12時 ベースボール・マガジン社座談会
 1959(昭和34)年01月06日(火) 12時 大丸デパートサイン会
 1959(昭和34)年01月07日(水) 10時 朝日ニュース正月番組 
 1959(昭和34)年01月07日(水) 15時 ベースボール・マガジン社森と対談
 1959(昭和34)年01月11日(日) 09時半 NTV野球教室
 1959(昭和34)年01月11日(日) 10時半 新潟県直江津へ。サイン会
 1959(昭和34)年01月13日(火) 18時 東条会館千葉県人会サイン会
 1959(昭和34)年01月15日(木) 早朝 こだまで東京へ。杉浦忠結婚式
 御苦労様です。では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.253 ┃  40円
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‡1963(昭和38)年2月04日(月)号 ドラゴンズに中卒選手が続々入団?
 2018(平成30)年7月08日(日) 10:24 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎小山正明は移籍を否定
 写真◆表紙は巨人・王貞治
 今回は『1963年2月4日号』。定価は40円だ。 
 阪神はアメリカでデトロイト・タイガースのキャンプに招待され、出発間近。キャンプ地はずばりタイガース・タウンだ。 
 ただ、まだ小山正明が契約していない。要求額は3500万、球団からの提示は2000万と言われている。ただ、移籍説にはついてはきっぱり否定した。 
「小山は阪神を出たいのでは、というウワサが立っていることは知っている。それけどまったくデマや。ワシは阪神でテスト生からやってきた人間や。阪神以外で働くとこなんてないと思うとる」 
 現役時代から、ぶっきらぼうで辛口。昔と比較する評論が多いことで誤解されやすいが、阪神愛は今でも強い人だ。 
 15歳でプロ入りし、16歳でデビューした西沢道夫がコーチとして復帰したからではあるまいが、この年、中日は中卒選手3人を獲得している。 
 この号では、その1人、松本忍が紹介されていた。長崎県・諫早北中3年で投手。家庭の都合で高校進学ができず、中日の誘いを受けたという。西沢もそのプレーを見て、 
「上手に育てれば、間違いなくものになる。私の楽しみが一つ増えた」と絶賛。 
 背番号は68。ただ、その後、名古屋中央高に通ってもいたようだから、実質練習生か。 
 選手の副業で国鉄の土屋正孝の経営する「狂四郎」というナイトクラブの話が出てきた(土屋のニックネームが眠狂四郎)。お客さんは、ほぼホステスと同伴で早朝まで営業中とあった。 
 なんだか怪しい。 
 では、またあした。<次回に続く>
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 ┃ プロ野球仰天伝説 No.043 ┃ ONLINE
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 強打者ソレイタが涙目になった究極の左キラー、永射保
‡2018(平成30)年2月4日(日) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 左のアンダースローの先駆者
 左打者キラーとして名を馳せた永射
 左のアンダースローの先駆者とも言えるのが、永射保。入団当時はオーバースローだったが、腕を徐々に下げ、1974年の太平洋(のち西武)移籍後、阪急・山田久志のマネをしてアンダースローにした。 
 その際、ややインステップし、タイミングを遅らせる工夫もしている。このフォームからカーブを投げると、左打者にしたら背中から球がくる感覚でストライクになる。特に踏み込んで打つタイプの外国人選手に嫌がられ、ロッテの左打者、レロン・リーが右打席に入ったこともあるという。 
「リーとの初対決では、さすがに威圧感があったんで、ヒジにぶつけてみた。次の対戦でも同じあたりに投げたら、やっと体が開いてきたんで、よしこれで大丈夫と」 
 なお、リーは永射の500試合登板記念パーティーに招待され、「リーさんのおかげで選手寿命が延びた」と紹介された。 
 永射がリー以上に印象に残っているのが、日本ハムのソレイタだ。“サモアの怪人”とも言われた男が、打席で永射が告げられると涙目になったという。5打席連続ホームランがかかった打席で永射が登板した際は、ど真ん中に投げたのにソレイタは目をつぶって空振り。三振に切って取った。 
 永射保(ながい・たもつ) 
 1953(昭和28)年10月3日(土)生まれ。鹿児島県出身。指宿商高からドラフト3位で
 1972(昭和47)年広島入団。
 1974(昭和49)年太平洋(のちクラウン、西武)に移籍し、左腕リリーフとして活躍。
 1979(昭和54)年から3年連続、
 1984(昭和59)年とリーグ最多登板。
 1987(昭和62)年大洋、
 1989(平成元)年ダイエーに移り、
 1990(平成二)年限りで現役引退。
 2017(平成29)年6月24日(土)死去。通算成績606試合登板、44勝37敗21セーブ、防御率4.11
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