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┃ 浜田省吾 #32 『FATHER'S SON』 ┃
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2017(平成29)年01月14日(土) 今回は
1988(昭和63)年03月16日(水)に発売された浜田省吾さんのアルバム『FATHER'S SON』の話です。
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1987(昭和62)年11月01日(日)
‡1987(昭和62)年11月02日(月)
1987(昭和62)年11月04日(水)の三日間と、間に石渡長門くんのリハーサルを挟んで、
1987(昭和62)年11月11日(水)と
1987(昭和62)年11月14日(土)の計五日間、目黒のヤマハスタジオと初台のレオミュージックスタジオ、新宿のミュージックシティスタジオで、ニューアルバムのプリ・プロダクションを行った後、
1987(昭和62)年11月16日(月)から信濃町のソニースタジオで、ぼくの担当する曲のレコーディングが始まった。ぼくがアレンジを担当した曲は後に「NEW YEARS EVE」「DARKNESS IN THE HEART (少年の夏)」とタイトルが付けられる2曲。今回のアルバムのアレンジは町支さんが3曲、古村くんが1曲、ぼくが2曲、梁くんが4曲を担当することになっていた。キーボードプレイヤーが二人になったことで、どちらがどの楽器を担当するか梁くんと話し合った。基本的には自分がアレンジした曲は自分が弾くということになったが、曲によってはぼくのアレンジした曲で梁くんがピアノを弾いたり、梁くんのアレンジでぼくがピアノを弾いたりした曲もあった。町支さんと古村くんのアレンジした曲でも、レコーディングをしながら楽器の分担を決めて行った。ぼくは今回2曲だけのアレンジだったが、サウンドを考えるのに結構時間がかかった。特に「DARKNESS IN THE HEART (少年の夏)」は、浜田さんからの要望と自分のイメージするサウンドが合致するまで、何度も試行錯誤を繰り返した。まずは打ち込みによるシンセベースのラインを考えることから始めた。8ビートでフレーズをシーケンスするようなクールなベースのラインを作った。そしてそれに呼応するようなタイトなリズムのドラムのパターンを考えた。リズムの上に乗っかる楽器は、イントロとアウトロのテーマを吹くサックスとギターの掛け合いのフレーズや、間奏のブレイク部分やサビのバックで繰り返されるストリングスのライン等、細部に渡ってフレーズを譜面に書き込んだ。レコーディングは断続的に
1988(昭和63)年の1月の終わりまで続いた。ちょうどこの頃ぼくは幼馴染みでもある、石渡長門くんという新人のシンガーのレコーディングとライブも受け持っていたので、それこそ目の廻るような忙しさだった。渋谷のTake Off7とエッグマンで行われた石渡くんのライブは、江澤くんと古村くんにも手伝って貰った。アルバム『FATHER'S SON』に参加した主なレコーディングメンバーは以下の通り。
ドラムス:高橋伸之
ベース:江澤宏明
ギター:町支寛二
キーボード:梁邦彦 板倉雅一
サックス:古村敏比古
トラッペット:小林正弘
トロンボーン:清岡太郎
パーカッション:ペッカー 他にも曲によってはゲストのミュージシャンに参加してもらった。「NEW YEARS EVE」では、宮野弘紀さんにガットギターを弾いてもらった。この曲のアレンジは音数を少なくして、淡々とした中にも情感が溢れるようなイメージで作り込んだ。宮野さんの奏でるガットギターは、浜田さんのボーカルに寄り添うような素晴らしい演奏だった。『FATHER'S SON』のレコーディングは、それまでのアルバムのレコーディングよりも更にアレンジを担当した者が中心になって行われたため、J・BOYの時よりもシステマチックに行われた。ぼくもすべての現場に居合わせた訳では無いので、自分のアレンジした曲以外の曲のリズム録りが終わって、しばらくしてスタジオに行くと、たくさんの楽器がダビングされていて驚いたことも多々あった。
写真◆『FATHER'S SON』のレコーディングが行われた信濃町ソニースタジオの壁に書かれたマイケル・ジャクソン直筆のサインの前で。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2017/01/32-fathers-son.html
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┃ いっぺいちゃんのこと ┃
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2016(平成28)年03月28日(月)
今回は、ぼくが高校生の頃からの知り合いで、後に浜田省吾&The Fuseの一員として苦楽を共にした盟友、いっぺいちゃんこと一戸清さんのお話です。
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ぼくといっぺいちゃんの出会いは1974(昭和49)年、ぼくがまだ高校生だった頃に遡る。千葉県船橋市のとある高校に通っていたぼくは、学校の同級生と三人組のバンドを結成してオリジナル曲を作ったり、学園祭で演奏したりしていた。隣町の高校にカッコいいバンドをやっている奴らがいる、という噂をある日ぼくは友達の女の子から聞いた。「EEF(イーフ)」と名乗るそのバンドは三人組のトリオで、フォークっぽい曲にジャズフュージョンのようなテイストを加えた、ちょっと不思議なサウンドを奏でるバンドだった。そのジャズっぽいクロスオーバーのようなサウンドを担っていたのが一戸清だった。EEFのメンバーとぼくの友達の女の子が付き合っていたことから、ぼくはいつの間にかEEFのメンバーだった一戸くんと知り合いになった。一戸くんはぼくより二つ年上で、黒縁のメガネをかけたちょっとインテリっぽくて、博士のような雰囲気の男だった。高校の同級生と結成したぼく達のバンドはオリジナル曲も増えて来て、どうせならラジオ番組で募集しているコンテストに応募してみようという話になった。そこで知り合いの中で、唯一オープンリールのマルチトラックレコーダーを持っていた一戸くんの家で、デモテープを録らせてもらうことになった。1974年、昭和49年当時にオープンリールのマルチトラックレコーダーを持っている人はそう多くなかった。一戸くんの家にはTEACの4チャンネルのマルチトラックレコーダーがデン!と鎮座していて後光を放っていた(ように見えた)。一戸くんの家で頑張って録音させてもらったデモテープを、カセットテープにダビングしてラジオ番組のコンテストに応募した。結果はあえなく落選、一次審査にも引っかからなかった。まぁ当然と言えば当然なのだが(笑)。それはさておき、その頃千葉県北習志野にぼく達がよくたむろしていた「Beatle」という喫茶店があった。Beatleにはフォルクスワーゲン・ビートルの愛好家や、地元のアマチュア音楽サークルの連中がたくさん出入りしていた。Beatleのご子息のUさんも、たしか「Joy Of Wednesday」というすごくいかしたバンドをやっていて、そのウエストコーストっぽいサウンドに、ぼくは密かに憧れていた。Beatleでも一戸くんとはよく一緒になった。地元のアマチュア音楽サークル主催のコンサートで、ぼく達のバンドと一戸くんのEEFが一緒になることもあった。しかしぼくと一戸くんは、好きな音楽もプレイスタイルも全く違っていたので、この先も彼と一緒に演奏することはきっと無いだろうと、その頃は思っていた。それからしばらく一戸くんとはあまり会う機会がなかったのだが、何年か後にぼくも一戸くんも、ミュージシャンの卵のような活動をするようになっていた。そんなある日、突然彼から電話がかかって来た。熱海の温泉旅館でのハコバンの仕事の電話だった(詳しくは熱海の記事を参照)。そこからさらに数年後、ぼくと一戸くんは思わぬ所で再会を果たす。そう、浜田省吾さんのバンドである。
1979(昭和54)年07月、ぼくと一戸くんはほぼ同時期に浜田省吾バンドに加入することになった。おそらく一緒に演奏することは無いだろうと思っていた人物とのまさかのツインキーボード。しかもぼくがピアノで一戸くんがオルガン。何か不思議な縁を感じた。浜田省吾1979(昭和54)年の秋のツアーから、
1984(昭和59)年02月19日(日)にNHKホールで終了したファースト・フィナーレツアーまでの約4年半の間、本当に苦楽を共にした。79年?80年当時はまだ浜田さんのコンサートも、すべての箇所でソールドアウトというわけではく、場所によってはかなり空席の目立つところも多かった。時には千数百人収容の会場に、二百人に満たない観客しか入っていない前で演奏したこともあった。過酷な移動や悪条件の宿泊施設等、決して楽な環境での旅ではなかったけれど、とても楽しくてしかたがなかった。特にThe Fuseと名乗るようになってからの、第二期のメンバーは本当に仲が良くて、ツアーの間のつかの間の休日を利用して、メンバーだけでプライベートで海外旅行に出かけたりもした。しかし、1983(昭和58)年のツアーあたりから何となくメンバー間に、目に見えない溝のようなものが出来始めているのを、みんな薄々感じ始めていた。何百本ものツアーを共にした馴れ合いのような、そうで無いような、何とも言葉では言い表しがたいムードが漂い始めた。かと言って決して仲が悪くなった訳ではない。もし仲が悪くなったら、何百本ものツアーを一緒に廻ることなど到底不可能だ。ぼくといっぺいちゃんは当時住んでいる家がすぐ近所で、ぼくの家から歩いて数分のところにいっぺいちゃんは住んでいた。当時独身だったぼくは、すでに妻帯者だったいっぺいちゃんの家に、よくご飯をごちそうになりに行った。バンドのメンバーもいっぺいちゃんの家に、ことある毎に良く集まった。ツアーに出かける時にも一緒によくタクシーで羽田空港まで行った。ツアーが終わって羽田に到着してからの帰りも一緒だった。
1984(昭和59)年02月19日(日)にファースト・フィナーレツアーが終わって、The Fuseは解散というか自然消滅した。
1984(昭和59)年04月29日(日)に横浜スタジアムで開催された、浜田省吾「A Place In The Sun」は、The Fuseからはぼくと古村敏比古くん、町支寛二さんの三人だけが残った。ベースの江澤くんはゲストプレイヤー扱いでの参加だった。The Fuse脱退後の一戸くんは、映像制作会社を設立して活躍していた。ぼくも電話やメールで話すことはあったが、実際に会う機会はなかなか無かった。数年前にSNSを介して、また一戸くんとの繋がりが復活した。近い内に再会を約束したばかりだった。
2014(平成26)年10月28日(火)、一戸清くんは永眠した。まだ60歳の若さだった。結局
1984(昭和59)年02月19日(日)が彼との最後の日になるなど、その時は夢にも思わなかった。
†2014(平成26)年11月02日(日)、横浜の瀟洒な教会で彼と再会した。30年ぶりに会ったいっぺいちゃんは、昔と変わらず優しい顔でまるで眠っているようだった。いっぺいちゃんありがとう、安らかに。
写真◆北習志野のBeatle。1974(昭和49)年頃。
写真◆いっぺいちゃんと。1981(昭和56)年頃。
写真◆1981(昭和56)年頃。
映像★浜田省吾さんからの生メッセージと歌 「君の微笑」ピアノ「君が人生の時」
映像★浜田省吾は肩こりだった SHOGO メドレー 家路 Midnight BT etc Piano https://youtu.be/B-s4aAr2904
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/03/blog-post_28.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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┃ 『VOICE PRINT』 ┃REBECCA 1枚目のアルバム作品
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1984(昭和59)年 5月21日(月) LP 15AH-1720 47位
‡1994(平成六)年11月 2日(水) CD(再発)KSC2-95 ※CD選書
2007(平成19)年 9月19日(水) CD(リマスター)MHCL-1160
2013(平成15)年 2月20日(水) Blu-spec CD2 MHCL-30014
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https://music.amazon.co.jp/albums/B00FVH8YSM
https://ja.wikipedia.org/wiki/VOICE_PRINT
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┃ 『Nothing To Lose』 ┃REBECCA 2枚目のアルバム作品
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1984(昭和59)年11月21日(水) LP 15AH-1806 38位
‡1994(平成六)年11月 2日(水) CD(再発)KSC2-96 ※CD選書
2007(平成19)年 9月19日(水) CD(リマスター)MHCL-1161
2013(平成15)年 2月20日(水) Blu-spec CD2 MHCL-30015
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https://music.amazon.co.jp/albums/B00FVH90OY
https://ja.wikipedia.org/wiki/Nothing_To_Lose
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┃ 『WILD & HONEY』 ┃REBECCA 3枚目のアルバム作品
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1985(昭和60)年5月22日(水) LP 15AH-1873 6位
1985(昭和60)年5月22日(水) CD 32DH-234 17位
‡1994(平成六)年11月2日(水) CD(再発)KSC2-97 ※CD選書
2007(平成19)年9月19日(水) CD(リマスター)MHCL-1162
2013(平成25)年2月20日(水) Blu-spec CD2 MHCL-30016
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https://music.amazon.co.jp/albums/B00FVH8U6S
https://ja.wikipedia.org/wiki/WILD_%26_HONEY
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┃ 『REBECCA IV~Maybe Tomorrow~』 ┃REBECCA 4枚目のアルバム作品
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1985(昭和60)年11月 1日(金) LP 28AH-1940 1位
1985(昭和60)年11月 1日(金) CD 32DH-288
‡1994(平成六)年11月 2日(水) CD(再発)KSC2-98 ※CD選書 93位
2007(平成19)年 9月19日(水) CD(リマスター)MHCL-1163
2013(平成15)年 2月20日(水) Blu-spec CD2 MHCL-30017 217位
2017(平成29)年 7月21日(金) LP(再発)MHJL17 239位
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https://music.amazon.co.jp/albums/B00FVH5E4Y
https://ja.wikipedia.org/wiki/REBECCA_IV_%E3%80%9CMaybe_Tomorrow%E3%80%9C
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┃ 『TIME』 ┃REBECCA 5枚目のアルバム作品
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1986(昭和61)年10月25日(土) LP28AH-2103 1位 CD32DH-539
‡1994(平成六)年11月 2日(水) CD(再発)KSC2-99 ※CD選書
2007(平成19)年 9月19日(水) CD(リマスター)MHCL-1164
2013(平成15)年 2月20日(水) Blu-spec CD2 MHCL-30018
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https://music.amazon.co.jp/albums/B00FVH7RU8
https://ja.wikipedia.org/wiki/TIME_(%E3%83%AC%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AB%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0)
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┃ 『REMIX REBECCA』 ┃REBECCA 初のリミックス・アルバム作品
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1987(昭和62)年 5月31日(日) LP 28AH-2126 1位
1987(昭和62)年 5月31日(日) CD 32DH-662
‡1994(平成六)年11月 2日(水) CD(再発)KSC2-100 ※CD選書
2007(平成19)年 9月19日(水) CD(リマスター)
2013(平成15)年11月27日(水) Blu-spec CD2 MHCL-30199
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https://music.amazon.co.jp/albums/B00FS82HZK
https://ja.wikipedia.org/wiki/REMIX_REBECCA
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┃ 『Poison』 ┃REBECCA 6枚目のアルバム作品
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1987(昭和62)年11月28日(土) LP 28AH-2267 1位 CD
1987(昭和62)年11月28日(土) 32DH-847
‡1994(平成六)年11月 2日(水) CD(再発)KSC2-101 ※CD選書
2007(平成19)年 9月19日(水) CD(リマスター)MHCL-1165
2013(平成15)年 2月20日(水) Blu-spec CD2 MHCL-30019
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https://music.amazon.co.jp/albums/B00FVH8SVK
https://ja.wikipedia.org/wiki/Poison_(%E3%83%AC%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AB%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0)
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┃ 『OLIVE』 ┃REBECCA 二枚目のリミックス・アルバム作品
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1988(昭和63)年 8月 1日(月) LP 28AH-5083/4 1位
1988(昭和63)年 8月 1日(月) CD 32DH-5083
‡1994(平成六)年11月 2日(水) CD(再発)KSC2-102 ※CD選書
2007(平成19)年 9月19日(水) CD(リマスター)
2013(平成15)年11月27日(水) Blu-spec CD2 MHCL-30200
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https://music.amazon.co.jp/albums/B075JB229Y
https://ja.wikipedia.org/wiki/OLIVE_(%E3%83%AC%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AB%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0)
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┃ 『BLOND SAURUS』 ┃REBECCA 7枚目のアルバム作品
┗━━━━━━━━━━┛LAST ALBUM
1989(平成元)年 5月21日(日) LP 28AH-5235 1位
1989(平成元)年 5月21日(日) CD 32DH-5235
‡1994(平成六)年11月 2日(水) CD(再発)KSC2-103 ※CD選書
2007(平成19)年 9月19日(水) CD(リマスター)MHCL-1166
2013(平成15)年 2月20日(水) Blu-spec CD2 MHCL-30020
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https://ja.wikipedia.org/wiki/BLOND_SAURUS
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┃ 1992年 下半期の出来事 ┃
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2017(平成29)年08月11日(金)
今回は1992(平成四)年下半期の出来事です。
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久宝さんのコンサートのスケジュールが一段落した頃、町支さんのツアーのリハーサルが始まった。一緒にツアーを回る町支寛二バンドのメンバーは、
ドラムス:高橋伸之、
ベース:関雅夫、
ギター:水谷公生、
キーボード:板倉雅一、
キーボード:福田裕彦、
サックス:古村敏比古 この6人に町支寛二を加えた計7人。新旧入り交じった浜田省吾バンドのメンバーが集まった。ぼくはベースの関さんと一緒にやるのは初めてだったが、昔から面識はあったので不安は無かった。キーボードの福ちゃんは、浜田さんのレコーディングで一緒だったので以前からよく知っていた。他は長年一緒にツアーを回ったメンバー達だった。サックスの古村くんとは久宝さんのツアーでも一緒だったので、町支さんのバンドでも再び一緒にやることとなって嬉しかった。町支さんのツアーの曲目は、初のソロアルバムからの曲を中心に構成されていたが、他にも何曲かの洋楽のカバーもあった。約二週間程のリハーサル期間を経て、いよいよ町支さんのソロツアーが始まった。
「僕を呼ぶ声」というタイトルの付いたツアーは、
1992(平成四)年10月22日(木)名古屋 愛知勤労会館を皮切りに、
1992(平成四)年11月11日の東京渋谷公会堂までの計7カ所での公演だった。日程は以下の通り。
町支寛二「僕を呼ぶ声」ツアー
1992(平成四)年10月22日(木) 名古屋 愛知勤労会館
1992(平成四)年10月24日(土) 宮城県民会館
1992(平成四)年10月29日(水) 札幌サンプラザホール
‡1992(平成四)年11月02日(月) 広島アステールプラザ
1992(平成四)年11月03日(火) 大阪厚生年金会館
1992(平成四)年11月05日(木) 福岡電気ホール
1992(平成四)年11月11日(水) 渋谷公会堂 初日の愛知勤労会館のコンサートに浜田省吾さんが来ていた。ぼくは楽屋で約一年半ぶりに浜田さんと再会をした。昨年
1991(平成三)年の2月12日(火)、ぼくは千葉で行われた浜田さんのコンサートを観た。The Fuseを脱退してから初めて観た浜田さんのコンサートだった。自分がステージにいない浜田省吾のコンサート観るのは、
1979(昭和54)年07月01日(日)の新宿ロフト以来だった。ぼくは客席のほぼ真ん中の席で観戦した。浜田さんのコンサートは素晴らしかった。しかしぼくはコンサートを観戦しながら、何とも言えない感情がこみ上げて来た。当たり前のことだが、自分がいた場所に違う人がいて演奏している。自分がいない浜田さんのステージを客観的に観られるようになるまでには、ぼくにまだ時間が必要だった。町支さんのコンサートは中盤にアコースティックコーナーが設けられていて、たしか二曲程洋楽のカバーをやった。一曲はビートルズの「I've Just Seen A Face(邦題:夢の人)」と、もう一曲はCSN&Y(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)の「Find The Cost Of Freedom(邦題:自由の値)」だった。 この二曲の時(ひょっとしたら一曲だけだったかもしれない)、ぼくは自分のキーボードの位置からステージ中央に出て行き、町支さんを真ん中にぼくと水谷さんの三人が高さのあるスツールに座って、横一列に並ぶ編成で演奏した。演奏というかこの二曲に関してはぼくはボーカルだけだった。町支さんと水谷さんがアコースティックギターを弾き、ぼくは楽器を持たず手ぶらで歌った。長いミュージシャン活動の中で楽器を持たないで歌ったのは、この時と後は数える程しか無かった。町支さん、水谷さん、ぼくの三人でのハーモニーは、自分でいうのも何だがなかなか格好良かった。ぼくは歌いながら「CSN&YというよりもまるでGAROみたいだな。」と思っていた。特に「Find The Cost Of Freedom」は、コーラスのみのほぼアカペラで、コーラスワークはとても難しかった。今回の町支さんのコンサートでは、ぼくは浜田さんのコンサートの時よりもコーラスの比重が大きかった。コンサートの後半はフルバンドでの演奏に戻り、アップテンポの曲が中心になって畳み掛けるような構成になっていた。町支さんのボーカルとギターは、浜田さんの時とはまた違った感じでとても素晴らしかった。今回のソロツアーでぼくは改めて、町支さんのボーカリスト&ギタリストとしての素晴らしさを再認識した。
1992(平成四)年11月05日(木)の福岡公演に再び浜田さんが遊びに来た。この日は元チューリップのメンバーで、ぼくの後任のような形で浜田さんのツアーに参加していた姫野達也さんも来ていた。楽屋はとても賑やかになった。92年のコンサートの締めくくりは、
1992(平成四)年12月18日(金)に日本青年感で行われた久宝留理子さんのクリスマスライブと、
1992(平成四)年12月24日(木)のクリスマスイブに新宿で行われた山本英美くんのコンサートだった。二つともとても楽しくて素敵なコンサートだった。目の回るような忙しさだった1992年もようやく終わろうとしていた。
写真◆町支寛二1992年のツアーパンフより。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2017/08/1992.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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