┏━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ George Edward Foreman ┃
┃ ジョージ・エドワード・フォアマン ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
1949(昭和24)年01月10日(月) Born
‡1974(昭和49)年10月30日(水) キンシャサの奇跡:ザイールのキンシャサで、元王者モハメド・アリと3度目の防衛戦を行う。序盤から圧倒的に攻め続けながら、ロープ際で防御を固めるアリの戦法(ロープ・ア・ドープ)にはまり体力を消耗。8Rに逆転KOされ王座から陥落、41戦目キャリア初黒星。1年以上休養した後、
1976(昭和51)年01月24日(土) Ron LyleとNABFヘビー級決定戦を行い、ダウンの応酬の末5RKO勝利する。その後、フレージャーとの再戦(5RTKO)を含めて4連勝
1977(昭和52)年03月17日(木) 勝てばアリへの再挑戦権を得る試合にこぎつける。場所はプエルトリコ・サンファン、相手は格下のJimmy Youngだった。一方的にヤングを攻めたが、その日は異常に暑く、試合中盤に失速し、最終ラウンドにダウンを喫して判定負け。ヤング戦の試合後ロッカールームで昏倒し、イエス・キリストの存在を感じる神秘的な体験をしたことを契機に、キリスト教に目覚める。28歳でボクサーを引退し、キリスト教の牧師に転身する
THE CHURCH OF THE LORD JESUS CHRIST
1987(昭和62)年03月09日(月) スチーブ・ゾースキーを4RKOし復帰戦を飾る。現役復帰を発表した時は、10年のブランクに加え、体型も明らかに肥満していたため、多くの人々は「正気か?w」と嘲笑したが、復帰後24連勝してヘビー級タイトル戦線に再浮上する(マイク・タイソンとの対決もされたが実現せず)
1991(平成三)年04月19日(金) 'The Battle of Ages'(世代の対決)と題された一戦でイベンダー・ホリフィールドの持つWBA・WBC・IBF世界ヘビー級王座に挑戦。14歳年下の王者を相手に激しい打ち合いを展開し、判定負けするも称賛を受ける
1993(平成五)年06月07日(月) トミー・モリソンと空位だったWBO世界ヘビー級王座を争うが、大差の判定負け。その後1年以上ブランクが続き、引退も囁かれる
1994(平成六)年11月05日(土) WBA・IBF世界ヘビー級王者マイケル・モーラーに逆指名され、復帰後3度目のタイトルマッチに臨む。劣勢の中で10Rに逆転の右ストレートでモーラーをKOし、20年ぶりにヘビー級タイトルへの返り咲きを果たした。45歳9カ月での戴冠はボブ・フィッシモンズ(ライトヘビー級)の40歳3カ月を上回る最年長王座獲得記録となった(2011年にバーナード・ホプキンス(ライトヘビー級)が46歳4カ月で更新)。勝利の瞬間、フォアマンはコーナーポストの前で跪き、神に感謝したヨ(=^◇^=)
1996(平成八)年11月03日(日) 東京ベイNKホールでクロウフォード・グリムスリーと対戦し(JBC非公認試合・日本IBF協力)WBU王座防衛とともにIBA世界ヘビー級タイトルを獲得(その後、IBAタイトルを返上)
1997(平成九)年04月26日(土) ルー・サバレーセを破りWBU王座を防衛するがこれも返上
1997(平成九)年11月22日(土) WBC世界ヘビー級王者レノックス・ルイスへの挑戦権をかけてシャノン・ブリッグスと対戦し、12R判定負け。以後、リングから遠ざかるが、正式な引退表明はしていない。また、自らの名を冠したバーベキューグリル「George Foreman Grill」をヒットさせ、TVドラマやCMに出演するなど、ビジネスでも成功を収めているヨ(=^◇^=)
****************************************
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョージ・フォアマン
****************************************
《令和ヤンキー伝 side“A”》綾小路翔も「グッときた」荒川河川敷タイマン事件の全真相
2019(令和元)年11月08日(金) 18:00「週刊文春デジタル」編集部
警視庁千住署は
‡2019(令和元)年10月30日(水)、事前に申し合わせて喧嘩をしたとして、決闘と傷害の疑いで足立区と荒川区に住む16歳の少年AとBの2人を書類送検した。
今年1月、荒川区の少年Bは交際していた彼女C子のことを足立区の少年AにSNS上で批判され立腹。「タイマンしよう」とAに決闘を申し込んだ。事前に「武器は使用しない」「ギブアップするまでやる」「被害届を出さない」などのルールが決められ、翌日荒川の河川敷で30分程の決闘がおこなわれた。
写真◆文春オンライン 警視庁千住署 文藝春秋
氣志團の綾小路翔はこの決闘事件のニュースを受け、「何だろう。グッと来てしまった」とツイート。「河川敷でタイマン。ガールフレンドの尊厳を取り戻す為の決闘。武器無し、チクリ無し、ギブアップ有り。警官からの逃走。もう曲書けるもんな」とも呟いた。
「週刊文春デジタル」では決闘し書類送検された少年2人に話を聞いた。
◆
足立区在住のAは、都内の高校に通う高校1年生(事件当時は中学3年)。中学時代はバスケ部で体格は大柄の少年。深夜徘徊、喫煙、飲酒などで補導歴は多数あるという。趣味は「モンスターストライク」「コール オブ デューティ」などの携帯ゲームとアニメ鑑賞。最近はライトノベル「Re:ゼロから始める異世界生活」にハマっている。好きなヤンキー漫画は「今日から俺は!!」「HIGH & LOW」。好きな芸能人は新垣結衣。将来の夢はゲーム関係の職につくこと。
決闘のきっかけは、日課となっていた何気ないネットサーフィンだった。
「SNSを見ていたら中学の同じクラスのC子とドラマ『今日から俺は!!』のシーンを真似たカップル動画(カップルが一緒に映ってイチャイチャしている動画)をアップしている奴がいたんですよ。それがB。C子とはあまり仲が良くなかったから、悪ふざけで『お前なんでC子なんかと付き合ってるの? やめた方がいいよ』とおちょくったコメントをしたんです。
それにBがめっちゃキレちゃって、Bから『タイマンしよう』とLINEで言ってきた。売られた喧嘩は買うしかないっしょと思って、やるならやってやるよという気持ちで『いいよ』と返事しました。
流れで『明日タイマン張ろう』となって、時間と場所はBが決めました。『持ち検(凶器を持っていないか持ち物検査)』とか『武器(凶器)は使わない』『顔面を殴るのはあり』『ギブアップするまでやる』『被害届は出さない』とかLINEで送り合って決めたんです。その間はお互い結構冷静でした」
実はAはタイマン勝負が初めてで、内心は怯え気後れしていたという。だが断れないのには理由があった。
「他区との喧嘩で地元を背負ってる感じがして、絶対負けたくなかった。僕らの年代って学校にヤンチャな子が少ないから区で群れる。他の区には舐められたくないんです。朝は何も食べなかった。腹パン(腹にパンチ)されて吐いても嫌だったし、身体が重くなるかなと思ったんで。動きやすい服だったと思います。その日は学校休みで友達5、6人くらいに声をかけていてゴチャマン(複数での喧嘩)になることに備えました。制服だと学校がバレるので、みんな私服で向かいました。友達には強がって『タイマン負けたらみんなに焼肉おごってやる』と言ってしまいました」
決闘の地となったのは足立区と荒川区の区境そばにある荒川、西新井橋下の河川敷。正午、土手に友人を待たせ、AはBと対峙した。
「ずっと心臓の音がドキドキしていました。Bも仲間数人を土手に待たせていました。SNSにアップして住所とかが晒されるのは嫌だったので、写真や動画を撮るのは禁止ということを全員に話しました。その後、互いに武器がないかを確認しました」
足立区でもAの周辺で行われているタイマンのルールでは、帽子などの物を投げ、落ちた瞬間に喧嘩を開始するというのが通例だった。だが、Bとのタイマンはいっこうに始まらない。シビレを切らしたギャラリーの一人が開始の声を上げた。
「まず、僕が左ストレートを相手の顔に決めましたよ。そこから、相手からも殴られて、めちゃくちゃ痛かった。それから長い間、距離をとってお互い牽制し合っていました。周囲の声はまったく聞こえなかった。無言で見守っていたと思います。無我夢中だったので喧嘩中のことは正直覚えていないですが、鼻にパンチをもらって鼻血がダラダラと出て、Tシャツはビリビリ。長い時間やっていたと思います。30分くらいだったと周りは言っていますが、1時間くらいやったように感じました」
途中、近隣住民の110番通報により警察官が駆けつけ、決闘は中断となった。Aは警察官に取り押さえられた。Bをはじめ、友人は皆その場から逃げ去ったという。
「気がつくとチャリマツ(自転車の警察官)の一人が土手を駆け降りてきました。自分は服を掴まれて逃げられなかったのですが、僕以外は全員逃げていきました。そこから、サイレンを鳴らしたパトカーも集まってきて、署に連行されました。署では事情聴取をされましたが、チクリは無しと決めていたんで、仲間の名前もBの名前も言わなかったです。
結局、携帯を没収されてバレてしまいましたけどね。警察から『被害届出したら?』と何回か言われましたけど、被害届を出さない約束をしていたので、被害届は出さなかったです。警察に病院に連れて行かれたときに親に迎えに来てもらったのですが、特に怒られはしなかったです。父親にも『喧嘩したのか? 勝ったのか? 負けたのか?』と聞かれ『警察が来たから引き分けで終わってしまった』と伝えました。父親も昔ヤンチャだったと聞いています(笑)」
Aは父親から「女、年下、老人には手をださないこと」「喧嘩は集団で一人をやらないこと」を常日頃から言われてきたという。
警察から解放されたAは、隠し持っていた別のスマホでBと改めて連絡を取り、近所のショッピングセンターで合流した。Bは荒川区の仲間と一緒にいたのだが、Bの周囲には足立区のAの仲間たちもいた。
「僕らのタイマンが長かったこともあって、途中で皆ダルくなって仲良くなってしまったそうです。『このあと遊びに行こう』って(笑)。自分としてもやれることしてスッキリした気持ちだったから、Bと話しました。『俺実は“喧嘩童貞(喧嘩したことがない)”だった』『俺もそう』という会話になって、『どうだった?』『パンチ重かったよ』『警察来て終わっちゃったけど、リベンジマッチする?』『まあ、引き分けでいいか』てな感じです。
Bを改めて見ると、ガタイがいいなと思いました。ちょっとウザかったのは、まわりが焼肉のことを言ってきたことですが、あれは引き分けですから払いたくないですね(笑)。その後も警察の取り調べが3、4回ありました。中3の終わりくらいまで2、3カ月は放課後に調書を取りに呼び出されました。あのとき僕は彼女がいなくて、Bの気持ちがわからなかった。今、自分の彼女のことで同じようなことをされたら、僕もBみたいになると思います」
2人はすっかり意気投合。今では互いの地元を行き来し、ショッピングセンター前でたむろし、携帯ゲームをやり合う“マブダチ”だという。
【荒川決闘ドキュメント side“B”】元野球少年が告白「彼女をめぐってゴチャマンは避けたかった」 へ続く
https://bunshun.jp/articles/-/15341
┏━━━━━━━━━━━━┓
┃ 珈琲専門店 そらの庭 ┃
┗━━━━━━━━━━━━┛
‡2008(平成20)年10月30日(木) OPEN☆\(=^◇^=)/☆
2020(令和二)年02月21日(金) 初訪問『北斗の拳』JUMP COMICS 全27巻情報収集完了OK♂♀
https://tabelog.com/kagawa/A3701/A370101/37005296
┏━━━━━━━━━┓
┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
┗━━━━━━━━━┛
1982(昭和57)年10月30日(土) プロ野球の西武が初の日本一 ⇒ プロ野球で、西武が初めて日本一となった。クラウンライターから球団を買収して福岡から埼玉・所沢に移転。4年目でパ・リーグを制し、日本シリーズでは中日を破った。写真は、日本シリーズを制し、胴上げされる西武の広岡達朗監督【時事通信社】
1961(昭和36)年10月30日(月) ソ連が史上最大の水爆(ツァーリ・ボンバ)の実験
2000(平成12)年10月30日(月) 女子マラソンの高橋尚子選手に国民栄誉賞
https://www.jiji.com/jc/daily
┏━━━━━━━━━━━━━━┓
①┃ 日本シリーズ初の退場事件 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━┛
‡1969(昭和44)年10月30日(木) 日本シリーズ初の退場事件
②伝説の男⑥~正確無比の名ジャッジ~
2011(平成23)年12月17日(土) 記事作成
2012(平成24)年01月18日(水) 公開 岡田功という人物を記憶しておいでだろうか。彼はNPBの審判を37年間勤め上げたプロ中のプロと形容されるほど正確無比の判断で、その名を残している大人物である。もちろん、彼を一躍世に知らしめた名ジャッジは、50代以上の人でないとわからないだろう。それは「神の目」とまで言わしめた
‡1969(昭和44)年10月30日(木)に後楽園球場で行われた日本シリーズ第4戦(巨人対阪急)での出来事だった。4回表、無死一・三塁で巨人は、一塁走者の王貞治が二塁に向け、続いて三塁走者・土井正三が本塁に向けてスタートをきる、いわゆるディレードダブルスチールを仕掛けた。ボールは、捕手・岡村 - 二塁手・山口富士雄 - 岡村と転送され、土井は捕手・岡村に跳ね飛ばされた形となったことから、このプレイはアウトと思われた。しかし、この試合で球審を務めていた岡田は「セーフ」の宣告をし、この判定に、完璧に土井をブロックしていたと確信していた岡村は激高し岡田を殴打。岡田は岡村に日本シリーズ初の退場事件となる処分を下した(なお、約60年にわたる日本シリーズの歴史で、退場処分を受けているのはこの岡村一人である)。岡村に代わりマスクをかぶった岡田幸喜は、左投手からの投球をわざと捕球せず、球審を投球の的にするという報復に出た(これはかなり危険な行為である)。この報復に反発して、その直後に岡田球審はボールを直接投手に送球して渡さずに三塁に転がすという行為に走った。試合後、記者に囲まれた岡田は「どうみてもアウトではないのか?」「モニターでは土井の足はホームに達していないぞ!」と詰め寄られた(岡田は後に「確かにモニターを見る限り、土井の足はホームに達していなかった」と述懐している)。帰宅後、ミスジャッジをしてしまったかもしれないと考えた岡田は辞表を提出しようと考えていたところ、報知新聞記者近藤唯之から電話が入り、「あなたのジャッジのとおりの写真が出た」と知らされた。そして、翌朝の各新聞に問題となった本塁でのクロスプレイの写真が大きく引き伸ばされて掲載された。宮崎仁一郎カメラマンの撮影した写真である。そこには、土井が跳ね飛ばされる直前に彼の左足が岡村の両足の間をかいくぐり、しっかりと本塁を踏んでいる瞬間が見事に写し出されていたのである。これにより、問題のジャッジは正しかったことが証明され、周囲からの非難は一気に沈静化。逆に「鋭い部分を見ていた」との称賛の声も出た。その問題のシーンの連続写真はコチラ↓また、岡田自身が「フジテレビ739」で語ったところによれば、第6戦で岡田がライト外審として出場したときは、(ジャッジの正当性が証明されたにもかかわらず)真上にいる阪急ファンから大ブーイングを受けたという。また、その時審判を小突いて退場処分を喰らった岡村捕手もまた、「絶対にアウトだ」とその後も自説を譲らなかったし、阪急監督の故・西本幸雄も同様に、これほど鮮明な証拠写真を突きつけられてもなお、「写真がどうした?アウトはアウトだ」と自らの正当性を変えることはなかった。では決定的な証拠となる検証VTRを見て貰いたい。さて、このシーンをきっかけとして日本シリーズの流れが大きく変わり、巨人が優勝を成し遂げた。そして連覇が途切れず、最終的には9連覇の偉業が達成されることとなったのは衆知の通りだ。一方の西本監督は、この件といい、「江夏の21球」のように日本シリーズに8度コマを進めるも、一度も日本一になれなかった監督となり、「悲運の闘将」と呼ばれた。この名シーンで思うことは、岡田主審の的確で冷静なジャッジに尽きる。もちろん、キャッチャーのブロックを掻い潜って足を潜り込ませた土井の名走塁も絶賛されて然るべきだ。まさしく「神の足」と言えるだろう。こうしたことは筋書きのない真剣勝負だからこそ実現されたのである。岡田主審の勇気あるジャッジは、「プロ中のプロ」の仕事と言って過言ではない。彼の見る目の確かさを神様は見捨てなかったのだろう。新聞社の記者(カメラマン)の偶然撮り収めた、たった一枚の決定的瞬間の激写に救われたのだ。あわや退職に追い込まれかねない「世紀の大誤審」に仕立てられる寸でのところで彼は甦ったのだ。それだけ日頃から「確かな目」を養っていたことの賜物だと思えてならない。毎年、ルールが目まぐるしく変わる日本のプロ野球界にあって、変わらずにあって欲しい名ジャッジであったし、既に当事者の二人(土井・西本)がこの世を去った現在に至っても、この記憶がいつまでも色褪せないで欲しいと思う。
映像◆世紀の大誤審から世紀の名ジャッジへhttps://youtu.be/nMxGX2_701g
********************************************************
①https://ja.wikipedia.org/wiki/日本シリーズ初の退場事件
②http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-e155.html
********************************************************
┏━━━━━━━━━━━━━┓
┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
┗━━━━━━━━━━━━━┛
‡1973(昭和48)年10月30日(火) 巨人・堀内恒夫が完投&2本塁打
‡2017(平成29)年10月30日(月) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月30日だ。
写真◆ペナントレースの不振の悔しさもあり、天才堀内が“本気”になったシリーズだった。それにしても見事なスイングだ
巨人V9時代のエース、堀内恒夫。監督時代の低迷、さらには名球会ぎりぎりとも言える通算203勝もあって、現在のファンには、やや過小評価されているきらいがある。ただ、同時代を戦った仲間の選手、相手チーム選手の評価を聞いても、この男の力が別格だったことは間違いない。
さらにいえば、野球センスが抜群。投げて守って打つ、すべてを兼ね備えたスーパースターだった。
‡1973(昭和48)年10月30日(火)、そんな堀内のすごみが分かる一戦があった。
8年連続日本一の巨人が挑んだ日本シリーズ、相手は野村克也兼任監督が率いる南海だった。12勝17敗とシーズン絶不調だった堀内は、「開幕投手」を高橋一三に譲り、最初の登板は、
1973(昭和48)年10月28日(日)の二番手(大阪球場)だったが、7回途中からの登板で延長11回まで打者15人に1安打無四球、さらに決勝打まで放っている。
1日を空け、舞台を後楽園に移して迎えた第3戦。堀内は投げては2失点の完投と、さほど際立った出来ではなかったが、バットがすごかった。まず3回に先制本塁打、6回には2ラン。投手の1試合2本塁打は史上初の快挙でもあった。試合はそのまま8対2で巨人の大勝となっている。
捕手・野村は「堀内が打撃がいいのは知っていたが、スコアラーからはカーブとスライダーを打つのがうまいと言われ、シュート中心で攻めた。しかし堀内はカーブ、スライダーを打つのがうまいのではなく、ヤマを張って打つのがうまいタイプだった。スコアラーの報告をうのみにした私が悪かった」と振り返っている。
巨人は、そのまま4勝1敗で9年連続日本一、いわゆるV9を達成。MVPは第5戦ではリリーフで好投し、胴上げ投手となった堀内だ。3試合で2勝、打っては打率.429、2本塁打、4打点だから当然だろう。なお、このシリーズ全5戦で、巨人はなんと堀内、高橋一、倉田誠以外の投手を使っていない。これもまた、隠れた大記録だ。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?id=097-20171030-10&pid=column_detail
************************************************************
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.187 ┃ 30円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1961(昭和36)年10月30日(月)号 くちびるをかむ水原、泣いたる鶴岡
2018(平成30)年05月2日(水) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎『南海巨人かく戦う』
写真◆表紙は左から巨人・川上哲治監督、別所毅彦コーチ
今回は『1961年10月30日号』。定価は30円だ。混戦(初出から修正)となったパ・リーグの優勝が南海と決まる。南海、そして東映の終盤の戦いは、まさに死闘となった。
これも神様のいたずらか、両者のラスト5試合はすべて直接対決だった。まず、南海の本拠地・大阪球場での1戦目に南海がサヨナラ勝ち。これで残り4試合に南海は2勝で優勝、東映は3勝か2勝1分で優勝となった。
10月14日、舞台は東映の本拠地・駒沢に移るが、南海の勢いは止まらず、5対4、翌日も4対2で制し、2試合を残し、劇的な逆転優勝を決めた。東映の土橋正幸、張本勲らは随分、荒れたようだ。
南海・鶴岡一人監督は優勝決定後の取材で「わしより選手たちが西銀座シリーズ(当時の巨人、東映の球団事務所が西銀座にあった)と書きたてるのに反発を感じ、素直に優勝させんぞ、とことん東映をいじめてやる、とファイトを燃やしました。大阪の試合でもいじめてやろうに尽きておりましたが、あと1勝になると、もういじめてやるではない。勝とうとなりましたのや」と語った。
すぐさまセの優勝巨人から長嶋茂雄、坂崎一彦、南海から野村克也、広瀬叔功を呼んで『南海巨人かく戦う』と座談会もやっている。長嶋、野村のMVPはすでに決まっていた。
この年の日本シリーズは、スタンカによる危険球の挑発もあって「ケンカシリーズ」「暴力シリーズ」とも言われるが、後半にそれを感じさせるやり取りがある。
記者 長嶋さんは、南海の投手の誰をマークする?
長嶋 一応やっぱりスタンカですよ。一種のゆさぶり戦法でくると思うね。だから、それに乗らんようにしていくのがまず第一よ。向こうのペースにはまらんようにじっくり行くことが大事だと思うな。
記者 スタンカならビーン・ボールも覚悟して。
長嶋 1つ2つはね(笑)。僕の場合は随分揺さぶって攻めてきたからね、セのピッチャーも。
野村 長嶋君、ビーン・ボールは投げさせないよ、投げてもしょうがないよ、選手権だものね。
以下、宣伝。
週べ60年記念シリーズ『巨人編』『日本ハム編』『阪神編』が好評発売中です。
では、またあした。<次回に続く>
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.492 ┃ 60円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1967(昭和42)年10月30日(月)号 堀内恒夫ノーヒットノーラン&3打席連続弾
2019(令和元)年06月28日(金) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎西本幸雄の情
写真◆表紙は左から巨人・王貞治、阪急・長池徳二
今回は『1967年10月30日号』。定価は60円。
すでにセは巨人、パは阪急の優勝が決まった後だったが、10月10日、広島戦(後楽園)、巨人・堀内恒夫がノーヒットノーランを達成した。
「気がついたのは8回裏、四球のランナーは出したが、まだヒットは打たれてないな、と思って」
実際、味方打線が打ちまくっての大勝だっただけになおかもしれない。
11対0、そして驚くべきことに堀内は3打席連続ホームランもマークしている。
プロ2年目、1年目に鮮烈デビューを飾った右腕も、この年は腰痛もあって苦しんだが、後半立ち直って12勝。阪急との日本シリーズでもキーマンと言われていた。
堀内は阪急の印象を聞かれ、次のように答えている。
「サンケイの打線にちょっと長打力がついたぐらいじゃないの」
これを聞いたかどうか知らないが、阪急・西本幸雄監督が堀内について、
「打てない投手ではない。パにはあの程度ならゴロゴロいるわい」
と語ったと聞くと、今度は、
「打てるかどうか分からないじゃないですか。実際に僕が投げているときにバッターボックスに立ったわけじゃないのに」
それを言ったら「サンケイの打線に…」の説得力がなくなるようにも思うが、それは言うまい。
生意気盛りの19歳だ。
さらに、
「スペンサーは殺人スライディングをやってくるでしょうね。もし、そんなことをしたら僕がたたじゃおきませんよ。ビーンボールを投げてやる。再起不能にしてしまうかもしれませんよ」
と物騒な言葉も残している。
西本監督の半生記もあった。
星野組時代、不景気で選手の給料が出なかった際、自らが金策に入って給料を渡し、なおかつ選手には「会社側が出してくれた」と言っていた話。
また、毎日の現役時代、武井桂三トレーナーが選手から酷使されたのをかばってくれたのが主将だった西本だった。
「あのころトレーナーどころかタバコ買い、風呂焚き、洗濯と雑用ばかり。そのとき西本さんが言ったんです。武井、つらいだろうが、我慢するんだ。この悪習は必ず俺が直すからな、と」
実際、いじめのごとき行為が横行する軍隊的雰囲気を変えてくれたらしい。
武井は、のち西本が退団した際、自身も辞めた。
では、また月曜に。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180502-13
②https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190627-02
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
************************************************************