/*先輩からの手紙(2/2) */
‡2013(平成25)年06月12日(水) 先輩からの手紙(1/2)に書いてあった『別紙コピー』です。知人にあてた手紙のコピーです。個人名は記載されていません。一部省略しているところがあります。
1997(平成九)年08月23日(土) 別紙コピー『前略。 早いもので、先日お邪魔してから、もう半月が経ってしまいました。直ちに送ろうと思って、ワープロで打ってもらったものを点検しておりましたら、間違いや抜け落ちた部分など、とても一読意味が通じるという状態ではありませんでしたので、「第三文明」掲載分のコピーと照らし合わせて訂正作業をしておりました。意外に時間をとってしまい二部共にやろうと思いましたが、手抜きをさせていただきます。(御夫婦でジャンケンでもして、お一人は自分で修正して下さい)それにしても、先日は、本当にお世話になり、有難うございました。そしてまた、やっと本音で様々な問題点を話し合うことができたことを喜んでおります。それだけ状況が急速に変化したということでしょう。訂正作業をしていて、この約十年のことを種々想い返しておりました。八十九年一月号で終わりましたが、一月号の発刊はその前月の一二月。原稿締め切りは十一月初め。従って想い返すのは、八十九年からのことになります。八十九年一月は、昭和天皇の死がありました。そして、二月に大葬の儀。この時、聖教新聞の一面に全面を使って載った名誉会長名での「追悼の辞」。そして葬儀の時の公明党議員の神道儀式への参加。(社会党等はその間会場の外にいました。)私は、この新聞の内容と、神道儀式への参加を見て、(ああ、学会は本当に変質したのだ)と痛感しました。「牧口会長を獄死させ、戸田二代会長を入獄させ、日本を敗戦に導いたものは、天皇を現人神と敬った神道であった」と言って出発した戦後の創価学会の歩みは、一体何であったのか。「立正安国」を掲げ邪義邪宗こそが不幸の原因であるとして、大折伏戦をしたことは、一体どんな意味があったのか。そのことへの説明、言及は一言もなく、七〇年の「言論出版問題」の総括や反省もないままに、世論に押されて路線変更を強いられたその泥縄的体質が、遂にここまで来たのかとの強い印象を受けました。「歴史」を無視するものは、「歴史」によって、シッペ返しを受けるというのが鉄則だと思います。第二次大戦敗戦後の日本が、その歴史的行為の反省もないままに、経済復興だけを図り、敗戦後半世紀を経た今日でもなお、その過去の行為の清算をしない上に、更にその醜悪な過去を隠蔽しょうと様々な馬鹿な画策をする。そしてそれが世界の人々の顰蹙を買い、多くの国民が恥ずかしい思いをし、結果として国民道義が頽廃したまま、更にそれが進行してしまう。「ごめんなさい。本当に迷惑をかけてしまった。ここの所を間違ってしまったから、以後絶対そうならないようにきちっと対策をこのようにとりました。」ということでないと、また同じ誤りを繰り返してしまいます。今日の日本の様々の問題の噴出と多くの国民の閉塞感は、この戦争への無反省と、戦後の出発に当たって、短絡的な過去の否定によって、過去の日本人の美徳(礼儀正しさとか、恥ずかしいという感覚、隣近所、他人様に迷惑をかけないようにするという心掛けや、繊細な美意識に基づく潔さ、強い独立心等々)をあっさり捨て去り、公共心をほとんど失ったところに、可成大きな原因を求めることができると思います。その意味では、日本全体が、未だに戦争の後遺症を抱え込んでいる状態だと思いますし、新たな国民道義、市民の社会意識の確立までには、まだまだ、二、三世代以上の歳月がかかると思います。戦争によって失われるものは。単に国民の生命や財産だけでなく、精神的なプライドや道義心といったものまでが破壊され、失われてしまい、その国民的トラウマ(精神的外傷)から立ち直るまでには、二世代、三世代とかかってしまうものであるということを、決して忘れてはならないと思うのです。学会も、この日本的健忘症、日本的ご都合主義の埒外にはないということなのでしょう。そしてまた、その学会のリーダー達は、大正から昭和の戦前世代です。激動の時代の中で、価値観がコロコロ変わるという経験を強いられた世代の人達なのです。信念とか、哲学、深い思想性を本当の意味で身に着ける経験を持ち得なかった人々なのです。これは、今の日本の各界の指導者たちにも共通するもので、無理もないと言えば無理もないのです。しかし、やはりその様な覚悟の定まらない、深い思想性もないリーダーによって、運動なり、政治なりが指導されていくというのは、実に不幸なことですし、悲しい、そして迷惑なことでしかありません。平成になってからは、バブルの崩壊、政界の再編成、野党連合政権誕生、55年体制の崩壊、自、社、さ政権へと目まぐるしく動き、その間にさんざん反対してきた小選挙区制導入への加担、新進党への参加。そして次から次へと続く贈収賄汚職。政も官も財も、そして薬害エイズに見られるように学も、従来権威と見なされ、それなりの尊敬を受けてきた立場の人々が、情報公開の波に洗われて、その醜悪な実像を徐々に現わしてきた十年であったと言えましょう。学会もまた、多分、先程もふれた昭和41年の言論出版問題で始まった、迷走、混迷、目標喪失が、89年の現実妥協路線表明で更に加速し、とうとう、組織の生き残り、既得権益の温存を計る事態にまで凋落してきた十年であったと言えるかもしれません。その間、ゴミの山から見つかった謎の三億円金庫事件、ルノアールの絵をめぐっての不透明な三十数億円にのぼる三菱商事や画廊との取り引き、証券会社との利益保証事件での登場、オウム真理教事件で法改正がなされた、宗教法人法をめぐっての佼成会などとの共同歩調。等々。ほとんど既成宗教のゴタゴタとなんら変わることのない内部矛盾のボロが、次々に露呈してきた歳月でもありました。その他、実態のよくわからない本山との対立、名誉会長をめぐる様々な裁判事件・・・。ヤレヤレ・・・というところです。大聖人が現在、御生存であったら、この事態をどう評価されるでしょうか。このような大人たちの混迷ぶりに軌を合わせるようにして、オウム事件、幼女連続殺人の宮崎勤、小中高生のいじめ自殺事件の多発、少年達のおやじ襲撃事件や通り魔事件の続発。そして、神戸の小学生連続殺人事件と、次々に若者や子供たちが社会の精神の荒廃を証明するような事件・事故を引き起こし、または、その被害者になる事態が続いています。一体、私達は、何の為に、身を粉にして活動をしてきたのかと、思わずにはいられません。「道理・証文よりも現証を先とすべし」と御書で御教示の如く、まず否応なく目前に提示された現証に基づいて、私達は道を間違ったと率直に認める必要があると思います。今回、久し振りに約十年前の自身の原稿を読んでいて「何故まともな反応がないのか」と当時嫌気がさしてきた気分を思い出していました。若い読者の一部から、熱烈な感想が寄せられたり、当時男子部の教学室員のメンバーで、今は教学部の中心メンバーの数人から「やっと戒というものが解った」という感想があったことを聞かされたりはしていましたが「信仰論」ともいうべき部分には全くナシのつぶてであったことを思い出しました。そして現在になって、それが無理からぬことと思い至る心持ちです。先日も少々お話しましたように、大部分の人達は、別に大聖人様でも、御本尊でも、御書でも、もっと言えば、弘教なんてどうでも良いのでしょう。要するに「宗教は儲かる」、「大教団は大変なメリットがある」ということであって、また一般の会員も、もう互助会みたいなもので、「何もないよりは気休めになる」「ヒョッとして何か御利益があるかもしれない」「さぼっていて何かあったら困るから」等々の程度のもので、もう本当に日本的信仰になりきってしまっていると思います。日本人の宗教的態度は、そもそも神代の時代から、聖徳太子によって仏教を導入した後も「現世利益」が最大のテーマであって、原理原則などどうでも良いところがあるのです。大聖人の時代には、その原理に対する不誠実さが厳しく弾劾されますが、室町、安土、江戸と社会の経済的な豊かさが実現されてくるにつれ、そのような厳しさが薄れ、信長の既成仏教大弾圧(比叡山焼き討ち、石山本願寺攻撃)に続く、秀吉、家康の日蓮宗弾圧やキリスト教禁圧などによって、徹底的に宗教的生命(信仰の純粋さ、真剣さ)が失われ、気休めと軽い現世利益と、葬式仏教へという長い惰性に陥ってきたのです。数世紀に亘って民族の習慣・習俗として根深く定着してしまった信仰態度は、第二次大戦の敗戦後のような貧・病・争の盛んな時期には一時的に燃えあがることはあっても、社会が安定し、経済的にも恵まれてくると、たちまち、元の木阿弥に戻ってしまうというのが現状のように思われます。創価学会も、戦後の大衆運動としての盛り上がりから、同一のものとは思えない形骸化状態となってしまった本当の理由も、案外こんな日本的宗教態度の為せるわざかもしれません。このように考えてきますとこれからは宗教的熱狂の再現はしばらく(ほとんど?)あり得ないのではないでしょうか。むしろ浅薄なムード的熱狂が去った今日、本当にその思想的・哲学的な意味と内容が問われてくるのだと思います。そして、その厳しい問いかけの中で、真に人類の福利に貢献出来る存在へと脱皮していけるか、それとも既成の諸宗派のように、社会に寄生する存在として、既得権益を守り続け乍らなんとか生きのびるのか、それとも、内紛と分裂を繰り返しながら、夫々にオカルト的小集団へと雲散霧消していってしまうのか、これから十年位の内にその方向はかなりはっきりしてくると思っています。そしてその動向選択の底流をなすものは、結局日本の国民全体が、ボーダレス化する国際社会の中で、どのようなアイデンティティを選択していくのかということだろうと思います。現在の日本の社会は、一部の指導的立場の人間が旗振りをして、国民の行くべき方向を指し示せる状況にはありません。まだまだ自覚と自信が確立した状況とは言えないまでも、既に名もない一般の人々が、自分自身と指導層との距離のなさを実感し始め、中には、指導層などというものは幻想でしかないと思い始めている人々が生まれてきているように思います。その動きは、全国各地で自立的に、町作り、地域おこしをしている人々の中に見出せるものと思います。彼らの動きは、戦前から戦後にかけての労働運動のような異議申し立ての運動ではなく(不平等とパイの配分をめぐる争い)また60年から70年にかけての学生運動にみられる権威打ち壊し運動でも、またその生き残りのメンバーの環境運動を看板にした別天地創造運動でもなく、もっと等身大で、生活に根を下ろした快適空間創造運動とでも名づけたい、非常にセンス溢れる柔らかい発想の運動を起こす人々があちらこちらに生まれてきているのです。しかも彼等の良いところは、
①自分自身が面白がってやっていく、変な使命感や悲愴感など全くないということ。
②大変に現実的で、合理的思考をもっていて、臨機応変、自在な知恵で、大資本や行政権力など当てにしないという点。
③高い教養や知識をもっていて、外国や異文化との交流経験も豊富で、幅広い人脈を持っている点等々が挙げられると思います。豊かな社会がもたらした新しいタイプの人間群であろうと思います。その様な人々が、今は個々バラバラのように見えますが、現在のような情報化の時代ですから、あっという間にネットワークを結んで、かなり近い将来、大きなウネリを起こすのではないかと私は予測もし、それ以上に期待しています。そしてまた、宗教、思想、哲学の分野でもこの二、三十年の間に、明らかにボーダレス化しあらゆる領域が「生命」及び「生命現象(死も含めて)」をターゲットとして「人間」とは何かに迫りつつあります。恐らく、これも割合に近い将来、先日も話しました「センサー付きの対応の智慧ないしエネルギー」というような生命自身の持つ(能)力をキーワードにして、人間の頭の持つバーチャル性というやっかいな能力にどう歯止めをかけ、どうコントロールしていくべきかというようなことが、各学問各領域を統合するような形で方法論として確立されてくるのではないかと予測し、これもまた多いに期待しているとこです。その時に仏教=人間学という評価が定まりセルフコントロール法として「一念三千論」が、人間の知的、人格的成熟論の角度を含み乍ら社会に定着していくのではないかと思います。それが本当に人類の知的共有財産として、各国の教育の基礎として定着した時、それを広宣流布というのだと私は考えています。権力奪取とか、勢力拡大などというのは、考えてみれば幼稚な発想で、境涯論でいえば、「生死の世界を現実世界であると執着している凡夫」の世界、即ち六道輪廻の世界であって、なかんずく対立や勢力争いをしていたのでは修羅畜生の境涯でしかあり得ません。総合学としての「人間学」が打ち立てられれば、宗教宗派の必要性は消滅します。そうならければ、ますます狭くなり、ボーダレス化していく地球で、人類は生き残れないと思います。いずれにせよ、私達自身、もう一度発想を新たにして、スローガンを叫んでいれば事足れりとするような惰性を排して、中身の伴った、豊かで心楽しい人生と社会を実現していくように、真剣に、かつ具体的に努力を始めようではありませんか。随分と長くなりましたが、久し振りに自分の書いたものを読んで、それに触発され乍ら、現在の心境を書き連ねてみました』
http://gsg48566.hatenablog.com/entry/2013/06/12/130223
http://onobushi.blogspot.jp/2013/10/blog-post_6.html
┏━━━━━━━━━┓
┃ アントニオ猪木 ┃
┗━━━━━━━━━┛
1943(昭和18)年02月20日(土) 生誕
*************************************************
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AA%E7%8C%AA%E6%9C%A8
*************************************************
アントニオ猪木が力道山から受けた想像を絶する体罰の数々
力道山の付き人時代にアントニオ猪木が受けた体罰・虐待の数々についてまとめました。
‡2014(平成26)年06月12日(木) 新日
http://matome.naver.jp/odai/2135947343432380601
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
プロレスの証言者 アントニオ猪木
日刊スポーツ連載の備忘録
http://inoki-nikkan.seesaa.net/article/26732682.html
プロレスの証言者 アントニオ猪木
日刊スポーツ連載の備忘録
http://inoki-nikkan.seesaa.net/article/26732682.html
┏━━━━━━━━━┓
┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
┗━━━━━━━━━┛
1959(昭和34)年06月12日(金) 後楽園球場に「野球殿堂」開設 ⇒ 後楽園球場に野球の普及、発展に貢献した人をたたえる「野球殿堂」が開設された。88年3月、東京ドーム内に移転した。写真は、2019(令和元)年に殿堂入りした元中日内野手の立浪和義氏(左)と元横浜監督の権藤博氏【時事通信社】
1959(昭和34)年06月12日(金) 後楽園球場に「野球殿堂」開設 ⇒ 後楽園球場に野球の普及、発展に貢献した人をたたえる「野球殿堂」が開設された。88年3月、東京ドーム内に移転した。写真は、2020(令和二)年に殿堂入りし、あいさつする田淵幸一氏【時事通信社】
1910(明治43)年06月12日(日) 旧国鉄が宇高連絡船の運航を開始 ※2020(令和二)年記事追加
1967(昭和42)年06月12日(月) 新潟水俣病で患者3世帯13人が提訴、初の本格的公害裁判に ※2020(令和二)年記事削除
1977(昭和52)年06月12日(日) 樋口久子選手が全米女子プロゴルフ選手権で日本人初の優勝
https://www.jiji.com/jc/daily
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 王貞治 ホームラン(本塁打)記録 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡1980(昭和55)年06月12日(木) 850本 広島東洋カープ09回戦 後楽園球場 1回裏 金田留広 右越ソロ NPB初
映像◆王貞治(850号)&柴田勲連続ホームラン (1980.6.12) https://youtu.be/FB8PKBXgiIk
┏━━━━━━━━━━━┓
┃ 王貞治 節目の記録 ┃
┗━━━━━━━━━━━┛
‡1979(昭和54)年06月12日(火) 5500塁打 対ヤクルトスワローズ07回戦 後楽園球場 1回裏に神部年男から右翼線安打 ※史上初
************************************
https://ja.wikipedia.org/wiki/王貞治
https://www.uta-net.com/song/2025
https://www.uta-net.com/song/78844
************************************
┏━━━━━━━━━━━━━┓
①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
┗━━━━━━━━━━━━━┛
‡1999(平成11)年06月12日(土)“千両役者”阪神・新庄剛志が敬遠球サヨナラ打!
‡2017(平成29)年06月12日(月) 11:10 プロ野球の歴史の中で、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は6月12日だ。
写真◆敬遠球ではあるが、外し方が中途半端だったことは確か
今季からメジャー・リーグで導入された敬遠の申告制。その際、盛んに言われたのが、「あのときの新庄みたいなドラマがなくなっちゃう」だった。
1999年6月12日、阪神・新庄剛志が甲子園の巨人戦で決めた敬遠球サヨナラ打だ。
この年、阪神にはヤクルト監督をやめたばかりの野村克也が衝撃の監督就任。特に、“自由人”新庄との相性が心配されたが、野村監督は新庄にキャンプ、オープン戦で“二刀流”を指示し、大きな話題となり、本当のところは分からないが、表面的には良好な関係に見えた。
阪神は最終的には最下位に終わるのだが、5月に入って急上昇し、6月9日には首位に立っている。この試合も首位として4位・巨人を迎えた一戦だ。新庄は11日から座った四番にこの日も入り、まずは3対4の8回裏に同点本塁打。試合は延長戦となり12回裏一死一、三塁だった。巨人ベンチは新庄の打席で敬遠の指示をバッテリーに送り、満塁策を選んだが、実は新庄、9日の試合で敬遠された後、自身も現役時代、敬遠球を打った経験がある柏原純一コーチに「敬遠球を打っていいですか」と確認。実際、高めのボール球を打つ練習もしていたという。
そんなことはまったく知らぬマウンドの巨人・槙原寛己が投じた、1ボールからの2球目だった。新庄がバットを振ると打球は三遊間を抜け、サヨナラヒットに。技術面というより、ふつうであれば、失敗したらのリスクで二の足を踏むものだ。宇宙人・新庄だからこその快挙でもあった。
┏━━━━━━━━━━━━━┓
②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
┗━━━━━━━━━━━━━┛
‡2008(平成20)年06月12日(木) ヤクルト・館山昌平、自身初の6連勝!
‡2018(平成30)年06月12日(火) 7:00 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は6月12日だ。
写真◆ファンの声援に応える館山
今季一軍では3戦3敗と振るわず、二軍生活が続く「松坂世代」の一人、館山昌平。今回は、彼の2008年6月12日の登板をプレーバックしよう。
この日、楽天相手(Kスタ宮城)に先発した館山は7回を投げ6安打1失点。毎回のように走者を背負いながら、丁寧に打たせて取るピッチングで、チーム勝ち頭の石川雅規に並ぶ6勝目を手にした。「守備でいいプレーがいっぱいあった。バックを信頼して打たせていきました」。
決して順調な幕開けではなかった。3月16日の楽天とのオープン戦(神宮)では4回を投げ7安打5失点と乱れた直後に右肩違和感を発症。検査では異常は認められなかったが、開幕には間に合わなかった。
ファームでの2度の調整登板を経て、一軍に復帰したのは4月16日の横浜戦(神宮)。5月1日の阪神戦(甲子園)で今季初勝利を挙げて波に乗ると、そこから自身初の6連勝と十分に出遅れを取り戻す活躍を見せている。
「野手が点を取ってリズムをつくってくれている。たまたま僕に勝ちがついているだけですよ」
本人は謙遜するが、いい流れは自ら作り出している。前年までより投球間隔を短くし、テンポのいい投球を実践。荒木大輔コーチは「テンポのこともあるけど、直球がしっかりしている。コントロールも球威も」と分析した。
これは9年前のニュースではあるが、館山、石川ともいまだ現役。1学年上の石川は、今季3勝2敗をマークしている。世代のリーダー、松坂大輔(中日)も復活。不屈の男・館山にも、もう一花を期待しよう。
┏━━━━━━━━━━━━━┓
③┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
┗━━━━━━━━━━━━━┛
‡1999(平成11)年06月12日(土) 新庄剛志が敬遠球をサヨナラ打!
‡2019(令和元)年06月12日(水) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は1999年6月12日だ。
写真◆敬遠球をサヨナラ打した新庄
この日、甲子園で行われた阪神対巨人は8回表、村田真一のホームランで巨人が4対3とリードした。その裏、一死走者なしで四番・新庄剛志の登場。追い込まれたがファウルで粘り、甘い球を仕留めて起死回生の同点アーチを放ち、4対4のまま延長にもつれ込んだ。
延長12回一死一、三塁。新庄に6度目の打席が回ってきた。この日は同点弾を含め、すでに3安打猛打賞。巨人ベンチは満塁策を選択、新庄敬遠を決めた。捕手・光山英和が立ち上がり、1球目。槙原寛己のボールは敬遠にしては中途半端に低かった。新庄が一塁ベンチの柏原純一打撃コーチをチラリと見る。
2球目。また中途半端に外角へ外した球だった。次の瞬間、新庄は左足を大きく踏み込んで、フルスイングする。打球は劇的なサヨナラ打となって三遊間を抜けていった。
「前に敬遠された(9日、広島戦)後、柏原さんに打てる球が来たら打っていいか聞いたんです。で、柏原さんを見たら、合図していたから」
敬遠の指示が出て、ショートが二塁ベース寄りに守っていたのも見逃さなかった。
「明日も勝つ!!」
首位陥落を逃れ、お立ち台で気持ちよく叫んだ新庄。しかし残念ながら、翌日からチームは失速した。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170612-01
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180611-01
③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190612-10
************************************************************
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.167 ┃ 30円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1961(昭和36)年6月12日(月)号 大阪球場マウンドの疑惑
2018(平成30)年4月12日(木) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎権藤博の快進撃
写真◆表紙は国鉄勢。左から徳武定之、金田正一、杉本公孝
今回は『1961年6月12日号』。定価は30円だ。中日の新人右腕・権藤博は、この年、「権藤、権藤、雨、権藤」と言われる連投で話題になった男だが、どうやら快進撃が始まったらしい。センターグラビア3ページに加え、佐々木信也連載対談にも登場だ。
阪神戦で打たれた後だったらしいが、佐々木と投球スタイルについてのやりとりがある。紹介しよう。
佐々木 とにかくストレート速いよ。
権藤 あんまり腕だけでほうって、体が出ないの自分で分かるんですね。
佐々木 力み過ぎは分かったけど、あのポトンと落ちるやつ、シンカーですか。
権藤 シュートなんですけどね。
佐々木 ひねるわけか。
権藤 ひねると言ってもヒジと肩に無理しないように、手首だけでひょっと持ってくるんです。だから無理しないですね、肩には。手首をきかすだけでスッと落ちちゃうんです。
佐々木 すごく落ちるね。やはり2ストライクを取ってからが多いの。
権藤 ええ。
佐々木 きょう見ていて、カーブの出るところとストレートの出るところ、シュートの出るところ、みんな同じところから出るし、同じフォームからほうるから、この人の球、打ちにくいだろうと思って見ていた。
特別レポートでは「“大阪球場”マウンドの疑惑」。大阪球場での南海-大毎戦の記事だ。この中で大毎・小野正一が大阪球場のマウンドについて愚痴っている。
「ここのマウンドは杉浦が投げいいようにできているんですよ。僕みたいなオーバーハンドのピッチャーではダメなんです」
杉浦忠。南海のアンダーハンドのエースだ。ややおだやかならぬ話ではある。
「このマウンドはステップする位置が高いんです。ふつうですと、ステップした足が着く位置は、もう投手板を頂点にした山が下り坂になっているんです。ところがここは盛ってあって、まだ下り坂になってないんですよ。
だから僕みたいな上からほうるピッチャーがよほど抑えんと低めに球がいかないんです。大阪球場はどうしても杉浦に有利なようにマウンドができているとしか思えない」
以下、宣伝。
週べ60年記念シリーズ『巨人編』『日本ハム編』が好評発売中です。
では、またあした。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.472 ┃ 60円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1967(昭和42)年06月12日(月)号 小山正明、月給5000円時代
2019(令和元)年05月31日(金) 18:36 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎北陸の新聞戦争
写真◆表紙は巨人・宮田征典
今回は『1967年6月12日号』。定価は60円。
5月19日の南海戦で東京・小山正明が通算250勝を挙げた。
阪神には1953年、テスト生として入団だった。
そこにもドラマがある。新聞広告で阪神の入団テストを知り公募。しかし、いつまでたっても合格通知は届かず、小山は一度あきらめ、53年春、今度は洋松のキャンプに行って自ら売り込み。今後は合格を勝ち得た。
しかし、入団契約に行こうかという、まさにその日だったという。阪神から合格通知が届き、もともとファンだったという阪神行きを選んだ。
月給は5000円で、そこから700円は源泉徴収、寮費(若竹荘)は4000円だったので、とても入ることができず、高砂市の実家から通った。
「疲れてしまって帰りは電車を寝すごしてしまうこともよくあった」
と笑う。
当初は、球は速いが、制球難。それが先輩・渡辺省三のピッチングを見て「これが人間のすることか」と驚いた。捕手の構えたところに寸分たがわず収まる。
以後、制球の大切さを感じ、下半身を徹底して鍛え、フォームを固めた。
4月22日から中日─阪神の北陸遠征があったが、5月23、24日には今度は巨人─広島も北陸へ。22日には巨人が富山に到着したが、このときは空と陸の二班。
これは別にどちらかが事故になっても大丈夫なように、というわけではなく、単に川上哲治監督が大の飛行機嫌いだったからだ。
巨人の宿舎は翌日の試合がある富山ではなく、隣の高岡市にある読売新聞北陸支社内の北陸文化ホテルだった。
もともと北陸は中日新聞の天下だったが、6年前に読売新聞が本格的に進出を企て、この支社をつくった。
高岡は正力松太郎読売新聞社主の故郷で、北陸への読売本格進出はかねてからの正力の夢だった。
身もふたもない言い方をすれば、巨人戦開催もまた、新聞拡販のためだった。
では、また月曜に。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180412-12
②https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190531-01
************************************************************
┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
②┃ プロ野球仰天伝説 No.172 ┃ ONLINE
┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
張本勲がとった野村克也の“ささやき戦術”撃退法とは?
2018(平成30)年6月12日(火) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
◎最強打者の苦手なコースは……
写真◆野村克也(左)、張本勲
日本プロ野球で最多の3085安打をマークした張本勲(東映-巨人-ロッテ)は打撃投手に内、外角にボールを投げさせて練習したという。
「オレほどの打者にまともなストライクなんて投げてこない」と、てんからボール球を安打にする打撃の職人だった。だから、張本の穴はなんと“真ん中のストライク”。意外と絶好球が苦手だったという。
エース級のウィニングショットを打ち砕くことに闘志を燃やした。東映時代、南海の皆川睦雄のスライダーはえげつなく懐に食い込み、左打者は手を焼いていた。張本ほどの打者でもお手上げだったが、ひそかに35インチのバットを33インチにして打ち込んだ。皆川は何が起こったか分からず考え込んでしまったが、現役を引退した後で張本は皆川に種明かしをした。
その南海でマスクをかぶっていたのが野村克也。打者に聞こえるようにブツブツつぶやく“ささやき戦術”を駆使していた。
「どうもその顔は今朝、女房とケンカしてきたからだな」
「○○投手は手のつけられんヤツだ。球がどこに来るか分からへんので気をつけてや」
打者はそのたびに精神状態がおかしくなってしまう。
そこで、一計を案じた張本はニンニクをうんと食べて、野村のほうへ向けてハーッと息をかけて近寄らせなかったという
┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
③┃ プロ野球仰天伝説 No.072 ┃ ONLINE
┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
【助っ人トンデモ話 No.23】
代役が巨人で巻き起こした大旋風
2018(平成30)年3月05日(月) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
呂明賜[1988-91巨人/外野手]
巨人・呂明賜
1988(昭和63)年、キャンプ中に来日した呂明賜。台湾関係者は「呂は台湾の最高傑作。日本で名を残してもらわないと、われわれ台湾棒球人の恥となる」と語っていた。世の中的にもNICS(香港、シンガポール、韓国、台湾のアジア新興工業国)商品のブームが騒がれていた時代である。ただ、巨人にはクロマティ外野手、ガリクソン投手と大物選手がおり、二軍スタートを余儀なくされた。
‡しかし◆1988(昭和63)年6月12日(日)、クロマティが死球を受け、左手親指を骨折。「全治2カ月」の診断が下され、シーズン絶望に。イースタンで絶好調だった呂の一軍初昇格が決まった。
1988(昭和63)年6月14日(火)、神宮球場でのヤクルト戦、王貞治監督は初出場の呂を六番スタメンで起用。この日は朝からテレビ3社、新聞3社が密着マーク。打撃練習から強烈なライナーを放ち、三塁を守っていた原辰徳のグラブをはじき飛ばし、「重い、すごいです」と原をうならせた。初打席は初回一死一、三塁だった。ギブソンが投げた2球目、うなりを上げて呂のバットが振り抜かれると、打球はピンポン球のように左翼上段へ飛び込んだ。
「甘い球が来たから打っただけです」と呂は試合後、落ち着き払っていた。
五番に抜擢された
1988(昭和63)年6月18日(土)の中日戦(ナゴヤ)では1試合2本、
1988(昭和63)年6月19日(日)に1本。「毎打席、ホームランを狙う」という言葉どおりの量産体制に入った。
1988(昭和63)年6月25日(土)にはヤクルト戦(東京ドーム)でサヨナラ本塁打。この時点では9試合で6本塁打のハイペースだ。その後、
1988(昭和63)年7月06日(水)時点では17試合に出場し、打率.379、10本塁打、18打点でノーヒットは2試合しかなかった。
名前の正しい発音は「ルー・ミンスー」。台湾高雄出身で3人兄姉の末っ子。リトルリーグの世界選手権で優勝経験があり、文化大から入団した。台湾ナショナルチームでは四番として通算112本塁打。当時のポジションは捕手で、強肩と粘り強いリードに定評があった。兵役もあったが、体重100キロ以上は免除の項目があり、そこまで体重を増やし、免除され、巨人入りした。
その後、勢いは落ちたが、フォローの大きな豪快なフォームもあって、一時は1987(昭和62)年のホーナーに負けない大旋風を巻き起こした。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180612-13
③http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180305-10
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
************************************************************
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 『初代タイガーマスク大全集』 ┃
┃ ~奇跡の四次元プロレス1981-1983~ 完全保存盤DVD BOX ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
■1983年放送16回目
‡81 1983(昭和58)年06月12日(日) メキシコ・エル・トレオ・デ・クアトロ・カミノス
16 WWF認定ジュニア・ヘビー級王座決定戦 時間無制限3本勝負
タイガーマスクVSフィッシュマン
2008(平成20)年9月3日(水) DVD on SALE PONY CANYON INC.
ファン号泣!伝説の初代タイガーマスクの失われた31試合を発見!
1981(昭和56)年~1983(昭和58)年までにTVでオンエアされた89試合の内、
87試合を収録したコンプリートBOX発売!
本編DISC4枚+特典DISC1枚の5枚組!
PCBE.62256 / ¥19,200(本体)+税:631分
発売元:ビデオパックニッポン
2008テレビ朝日/新日本プロレス
◎活動期間・・・2年4か月
◎シングル戦・・・155勝1敗9分
インフォメーション・・・伝説の初代タイガーマスクが蘇る!!1981年~1983年までの約2年間、華麗なる空中技と変幻自在な四次元殺法、威力抜群の打撃技で、プロレス界のみならず、社会的に空前の“タイガーマスクブーム"を巻き起こした初代タイガーマスク=佐山サトル。タイガーマスクの試合を中継した『ワールドプロレスリング』の視聴率は、ほぼ毎週20%を超え地方興行も空前の大入り満員が続いた。タイガーマスクは今までに何度もビデオ、LD、DVD化され、大ヒットを飛ばしている。初代タイガーマスクは1981年~1983年までにテレビでオンエアされた89試合のうち56試合はソフト化されていたが残り33試合はテレビ朝日にも映像はなく、ファンにとっては失われた試合となっていた。今作はソフト化されていなかった試合31試合を含んだ87試合を収録!文字どうり完全保存盤になります。
****************************************
http://visual.ponycanyon.co.jp/short/sakuhin/PCBE000062256/?REF=VISUAL
https://www.youtube.com/playlist?list=PLmQIzKRWaBRU7aYvpoAb_mn1WlB0F6pwF
https://www.amazon.co.jp/dp/B0019M5GB6
****************************************
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ベースボールマガジン社 分冊百科 全60巻
┃ データファイル 『日本プロレス激闘60年史』 ┃記憶に残る960の激闘をファイルせよ!
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛PRO-WRESTLING DATA FILE 定価:680円(税込)
┌─――――――――――――┐ 全60巻ラインナップ!
‡|2013(平成25)年 6月12日(水)|発売 第30号
└─――――――――――――┘ 前田と藤波が繰り広げた凄絶格闘プロレス!
日本プロレス激闘史 ⇒
‡1986(昭和61)年 6月12日(木) 藤波辰巳 VS 前田日明 大阪城ホール
1970(昭和45)年 7月30日(木) ジャイアント馬場 VS ドリー・ファンク・ジュニア 大阪府立体育会館
1977(昭和52)年 4月 1日(金) 猪木&坂口 VS シン&上田 東京・蔵前国技館
1984(昭和59)年 8月26日(日) タイガーマスク VS ラ・フィエラ 東京・田園コロシアム
1991(平成三)年 4月30日(火) 保永昇男 VS 獣神サンダー・ライガー 東京・両国国技館
1992(平成四)年 4月17日(金) スタン・ハンセン VS 三沢光晴 名古屋・愛知県体育館
1997(平成九)年 8月10日(日) グレート・ムタ VS 小川直也 愛知・ナゴヤドーム
2007(平成19)年 2月11日(日) 佐々木健介 VS 中嶋勝彦 東京・ディファ有明
日本プロレス激闘史 EXTRA ⇒ 1994(平成六)年
団体興亡史 ⇒ 新日本プロレス(2)
プロレスラー1200人名鑑(ビッグレスラー) ⇒ 小橋建太&ジン・キニスキー
プロレスラー1200人名鑑 ⇒ タランチェラ~鶴見五郎
必殺技大事典 ⇒ スリングブレイド~ソラリーナ
日本プロレス年表 ⇒ 1983(昭和58)年
*********** http://www.sportsclick.jp/pro60/index.html
http://www.sportsclick.jp/pro60/lineup/30/index.html
******************************************************
ファイル53 新日本プロレス 広島暴動事件!
2008.11.22 昭和プロレスマガジン16号掲載の緊急対談で、HARU一番さんが言及された新日本プロレスの「広島暴動事件」の様子を撮影した写真が、HARU一番さんのフォトライブラリーよりついに発見された。今回はこの写真をもとに「広島暴動事件」を紹介したい。この暴動事件は、新日本プロレスが引き起こした暴動の中でも、ほとんど語られたことがないといっていい。当時の雑誌を検証しても、暴動に関する記述はない。もしかしたら、新日本プロレスがマスコミに対し隠蔽を依頼したということもあったかもしれない。しかし、ネットで「広島暴動」と検索してみたら、なんと、新日本プロレスのリングアナウンサーであるケロちゃんこと、田中秀和氏のブログ「ケロぐ」がヒットした。この「広島暴動事件」について田中氏は以下のように書いている。短時間で、アンドレがリングアウト勝ちしたんですよ。するとね、満員のお客さんが怒りだしちゃって。テレビ生中継時間内に試合を終わらせた、八百長だああって。お客さん、帰らず、いわゆる広島暴動事件です。選手は全て体育館をでてホテルに帰ってしまい、残ったのは、リングスタッフ、営業スタッフと自分だけでして。2000人ぐらいお客さん残ったのかな、いろいろ言ってくるんですよ。その理屈や八百長って言葉に頭きてね、一人、リングに立ち、その2000人とやりあいましたよ。1対 2000のけんかでしたね。 関係者に、自分、無理矢理連れていかれましたけど。
07年6月12日付ブログより
さて、広島暴動事件とはどのようなものだったのか? 写真を元に検証していこう・・・。
■生放送時間がなくなり・・・
暴動が起こったのは、1982(昭和57)年3月26日(金)。場所は広島県立体育館。「第5回MSGシリーズ」の第21戦、7500人の超満員であった。この日の試合はテレビ朝日が生中継。メインで猪木VSアンドレ、セミで藤波VSキラー・カーンのMSGシリーズ公式戦、タイガーマスクVSコロソ・コロセッティのシングル戦が組まれていた。街頭に張り出された捨て看板では、「アントニオ猪木対アンドレ・ザ・ジャイアント」が大きな文字で書かれ、この試合が興行の目玉として宣伝され、ファンのお目当てにもなっていた。さて、試合のほうは、タイガーマスクがコロセッティに勝利を収めた。続いては、セミの藤波とカーンの公式戦。藤波とカーンは、第1回カール・ゴッチ杯争奪戦以来の対決である。ゴッチ杯の決勝では藤波がカーン(当時は小沢)に勝利を収め、ゴッチ杯の初代優勝者となった。その後両者は海外に遠征し、メインエベンターに成長したのである。そんな背景のあった藤波とかーンの試合は、この年のベストバウト候補になる名勝負となり、30分戦い抜いて時間切れの引き分け。広島のファンは大いに熱狂。メインへの期待は固まった。しかし、セミの試合が長引いた為に、放送時間がほとんどなくなってしまった。
広島市内に設置された捨て看板
にらみ合う両者
奇襲をかけるアンドレ
強烈なバックドロップ!
ここで生中継は終了
■ファンがリングを占拠!
そしてメインの猪木VSアンドレ戦。放送時間は残りわずかだ。猪木は真っ赤なガウンで入場。セレモニーの前にアンドレが猪木に襲い掛かる。試合開始早々アンドレが猪木に強烈なバックドロップ。猪木は場外にエスケープしたが、アンドレが場外まで猪木を追いかけ、猪木を場外フェンスに逆さづり。猪木は身動きをとれずリングアウト負け! さらに膝を負傷して、谷津に背負われて退場。試合時間はかわずか1分41秒! 生放送は場外カウントが終わると同時に終了した。あまりにもあっけない試合に、「生放送に間に合わせる為に八百長したな!」「金返せ!」とファンが騒ぎはじめた。そして、紙くずがリングに投げ入れられる。さらに、一人、二人とリングに上り始めると、他のファンもリングに殺到、そのうちリングはファンに占拠されてしまったのであった。写真を見る限り、後の暴動のように火をつけたり、イスを破壊したりという混乱はなかったように見える。おそらく、破壊行動や怪我人が出なかったので、マスコミには取り上げることがなかったのではないだろうか。しかし、その後の新日本プロレスの度重なる暴動誘発を予感させるような、広島暴動事件であった。
谷津に背負われ退場する猪木
リングは完全にファンに占拠された
ファンが去った後のリングは荒れ放題 (撮影、写真提供=HARU一番氏)
http://www.showapuroresu.com/file/file53.htm