過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の浜省さんとetSETOraだヨ(=^◇^=)


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 ┃1980年夏“Home Bound”Recording at Los Angels ┃
 ┃  SHOGO HAMADA JOURNAL  ┃
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●9月3日(水) AM9:00起床。10:30頃迎えが来る。
H.M.Storeに行き、ギターを受け取り、ディストーションとコンプレッサーを買う。
M氏の車で空港に向かう。
PM1:45 North West 021便で経由地のホノルルに向かう。

さよならLos Aangels。また次のアルバムレコーディングで。※

※次のアルバムレコーディングは6年後の『J.BOY』ですヨ(=^◇^=)
 浜田省吾【27歳】
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/Home_Bound
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 ┃ ♪HANABI♪ ┃Mr.Children
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 Mr.Children 33枚目のシングル作品
 2008(平成20)年2枚目のシングル作品
‡2008(平成20)年09月03日(水) リリース日
 2018(平成30)年05月10日(木) mora配信開始日 750円
************************ http://www.mrchildren.jp
 http://www.mrchildren.jp/disco/#single/single33
 https://ja.wikipedia.org/wiki/HANABI_(Mr.Childrenの曲)
 音源◆https://music.amazon.co.jp/albums/B07D35JPN5
 mora◆https://mora.jp/package/43000034/TFCC-89257/
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 スピッツ、“ロビンソン”MVが1億再生突破。90年代にリリースされた楽曲としては初
‡2019(令和元)年09月03日(火) 15:00
 スピッツの楽曲“ロビンソン”のミュージックビデオが、
 2019(令和元)年09月02日(月)にYouTube再生回数1億回を突破した。同曲は、
 1995(平成七)年04月05日(水)にリリースされ、YouTubeのスピッツ公式チャンネル「spitzclips」で2010年4月に公開された。1億回再生は、邦楽アーティストとして24組目となり、90年代にリリースされた楽曲としては初めてとなる。
 https://rockinon.com/news/detail/189086


 浜田省吾、新ツアー映像 なぜ根強い聞き手に支えられてきたか
‡2019(令和元)年09月03日(火) 16:30 
   タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
   浜田省吾は、コンサートのなかで、この日の趣旨について、こう話した。
 「もし、ジョン・レノンとジョージ・ハリスンが生きていて、ビートルズが再結成されて『IN MY LIFE』を聞くことが出来たら。カレン・カーペンターが生きてて『CLOSE TO YOU』や『YESTERDAY ONCE MORE』を聞けたら、ツエッペリンのジョン・ボーナムが元気で、生で『GOODTIMES BADTIMES』をみることが出来たらどんなに素晴らしいだろう。でも、彼らはもういない。しかし、俺はまだ生きてる」
 写真◆『Welcome back to The 70's“Journey of a Songwriter" since 1975 君が人生の時~Time of Your Life』のジャケット((C)ROAD&SKY TERUHISA TAJIMA、以下同)
◎穏やかでアットホームな会話
   2019年9月4日、浜田省吾のDVD「Welcome back to The 70's "Journey of a Songwriter"  since 1975 君が人生の時~Time of Your Life」が発売になった。
   去年の9月から今年の1月にかけてのツアー「100%FAN FUN FAN 2018」の一環としてNHKホールで行われたチャリティー・コンサートの模様を収録したものだ。
   浜田省吾は、メディアに登場しないことでも知られている。でも、会員数が6万1535人(2019年7月現在)というファンクラブ「Road&Sky」の年6回の会報誌では毎号インタビューに登場し、日々の出来事やこれまでの活動、レコーディングやツアーについての飾らない話をしている。
   そういう意味では、ファンクラブの会員とそうでない人でこれほど認識が違うアーティストも珍しいのではないだろうか。
   「100%FAN FUN FAN」は、ファンクラブ限定のツアー。去年の「2018」は、自分の70年代の曲だけを歌うという、生涯初めてと思われる貴重な内容だった。
   彼は、そんな話をしながらこう続けた。
   「遥か遠い昔、俺の歌を聴いて育ててくれた皆さんと思い出のアルバムを開くように思い出の歌を楽しめたらいいな、と思って開きました」。
   浜田省吾は1974年、広島の音楽仲間と組んだ5人組バンド、AIDOのドラマーでありソングライターの一人としてデビューした。
   彼らが注目されたのはプロとしての最初の活動が広島の先輩、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いの吉田拓郎のバックバンドだったからでもある。にも拘わらず、思うような結果を残せないまま、浜田省吾はバンドを脱退、1976年4月にシングル「路地裏の少年」、アルバム「生まれたところを遠く離れて」でソロデビューした。
   以来、70年代にはオリジナルアルバムを5枚残している。「70年代の曲だけ歌う」というこの日の一曲目は、デビューアルバムのタイトル曲「生まれたところを遠く離れて」。何と、ギター一本の弾き語りだった。
   この欄で何度か触れているように、70年代がどういう時代だったかを説明するのはかなり厄介だ。音楽状況はもちろん、世の中の空気も今とは天と地ほどの差がある。大学のキャンパスには60年代後半からの学生運動の残り火がくすぶっており、若者たちは将来の展望をつかめずに葛藤していた。浜田省吾のデビュー曲「路地裏の少年」も、そんな中で「家を出る」ことで自分の人生の道を切り拓こうとした少年の旅立ちの歌だ。
   ステージの後方のスクリーンには、当時のキャンパスや喫茶店の壁に見られたようなピースマークや落書きが書かれている。
   彼は、「ソングライターが書く歌は、必ずしもその人自身ではなく、歌の中の主人公。俺じゃないから」と前置きしつつ、思春期の頃、何人の女の子に恋をしたかを明かし、その頃のフォークソングのような「フーテナニー」スタイルで予備校が舞台の「19のままさ」を客席と一緒に歌う。
   ライブハウス時代に歌っていた「遠くへ-1973年・春・20才-」は、彼が大学に入学してすぐに目撃した学生同士の衝突が背景になっている。歌詞の中に出てくる学生運動の「赤いヘルメット」は広島カープのものじゃないよ、と客席を笑わせる。
   ライブに行ったことのない人には、彼がこんなに穏やかでアットホームな会話をするとは想像出来ないかもしれない。
◎一つの歌にいくつもの人生模様がある
   浜田省吾の活動の特徴の一つにミュージシャンやスタッフとの絆の強さがある。弾き語りコーナーの途中で参加したギタリストの町支寛二は、広島フォーク村の高校生バンドの一員。浜田省吾と初めて会ったのは1969年。それぞれ別々に上京し、AIDOで一緒になった。
   全員で合宿している時に出来たという「朝からごきげん」を披露し、その頃のツアーの思い出話に及んで行く。まだバンドでライブが出来ない頃は、二人で全国を回っていた。居酒屋の片隅やデパートの催し場、客席にはその頃から聞いてきた人もいる。
   それぞれが積み重ねてきた時間が会場の空気を作って行く。一部の弾き語りコーナーの最後は「この曲で盛り上がらなかったら、今日はこれで終わり」という冗句つき「路地裏の少年」の大合唱だった。
   浜田省吾は70年代に5枚のアルバムを残している。でも、商業的な意味で成功したというアルバムはなかった、と言っていい。シングル・チャートも79年の「風を感じて」までは、ほぼ無縁だった。
   70年代の後半は、日本のポップミュージックが激変した時代だ。それまでのフォークやロック、メッセージ色の強い音楽が、ニューミュージックになり、シティ・ポップスに変わって行く。浜田省吾が70年代に発売した5枚のアルバムは、そんな変化とどう折り合いをつけながら自分の音楽を確立してゆくかという試行錯誤の産物でもあった。
   とは云うものの、メロディーメーカーとしての資質や言葉の瑞々しさには、今聞いても古さを全く感じさせない曲がたくさんある。メディアが伝えなかったそうした彼の魅力にいち早く反応したのが、その頃から聞いている人たちだ。
   すでに限定発売されたこの「Welcome back to The 70's」ツアーの「メモリアルブック」(リットーミュージック刊)には、浜田省吾と当時から関わっているスタッフとの座談会的インタビューや、ファンからの4500以上という「思い出の曲」へのコメントの一部が紹介されていた。
   名前も知らなかった彼の曲をたまたまラジオで聞いた時の印象、学園祭に来ていて初めて見た時のこと、ホールの半分も埋まっていなかったライブでの感想。中学や高校の時のことや上京して一人暮らしを始めた頃の自分、初恋だったり失恋したり、あるいは離婚した時のことだったり。それぞれの人生にこんな風に入り込んでいる。一つの歌にこんなにいくつもの人生模様がある。そうした出会いは、ファンクラブ会員ならではだと思った。
   そして、彼が「みんなで思い出を」と言った根拠を見るようだった。
◎♪風を感じて♪はまさに「みんなの歌」だった
   二部は、バンドが登場した。
   町支寛二(G)、小田原豊(D)、美久月千晴(B)、長田進(G)福田裕彦(KE)、河内肇(P)、古村敏比古(Sa)、佐々木史郎(Tru)、清岡太郎(Tr)、中嶋ユキノ(Ch)、竹内宏美(Ch)という不動のメンバー。古村敏比古とはまもなく40年になろうとしている。
   まだバンドでツアーも出来ない頃に作った曲たちを今、最も信頼できる超一流のメンバーと演奏する。二部の一曲目の「雨の日のささやき」、二曲目の「恋に気づいて」は77年の二枚目のアルバム「Love Train」の1、2曲目。はずむように口ずさみたくなるポップソングとして支持の高かった曲が高度なアレンジで生まれ変わる。ステージで初めて歌ったという79年の「子午線」、アメリカ西海岸のAORのような「ミスロンリーハート」や「いつわりの日々」。当時は語られることも少なく、それでいてファンの中で聞き継がれてきた曲が今の音で蘇ってゆく。
   そんな流れの中での「風を感じて」はまさに「みんなの歌」であり、本編最後の曲、79年のアルバムのタイトル曲「君が人生の時...」は、会場にいた全ての人の「人生の歌」のようだった。
   浜田省吾は「メモリーブック」の中でこの日のことをこう話している。
   「長く置いたままになっていたワインを出してきて『もうこれ、飲めないかもしれないね』なんて言いながら栓を開けてみたら、『こんなに美味しかったんだ!』と思うくらいのビンテージのワインになっていた」
   彼が、なぜ、これだけ根強い聞き手に支えられているのか、音楽はどう聴かれるべきなのか、そして、歌の生命力とは何なのか。
   いくつもの答えのようなライブ映像だった。
   2019年9月14日からは「100% FAN FUN FAN・Welcome Back to The 80's PartⅠ」がスタートする。
   それに先駆けて、82年のアルバム「PROMISED LAND~約束の地」の中の「凱旋門」、80年のアルバム「HOME BOUND」の中の「明日なき世代」、81年のアルバム「愛の世代の前に」の中の「防波堤の上」が新録音でシングルとしてDVDと同時発売される。
   父や母の思い出と重なる曲と60年代後半に思春期を過ごした世代の歌。そんな背景はファンクラブの会員なら誰もが知っているだろう。今、なぜその三曲なのか、ステージでそんな話も聞けるに違いない。(タケ)
タケ×モリ プロフィール ⇒ タケは田家秀樹(たけ・ひでき)。音楽評論家、ノンフィクション作家。「ステージを観てないアーティストの評論はしない」を原則とし、40年以上、J-POPシーンを取材し続けている。69年、タウン誌のはしり「新宿プレイマップ」(新都心新宿PR委員会)創刊に参画。「セイ!ヤング」(文化放送)などの音楽番組、若者番組の放送作家、若者雑誌編集長を経て現職。著書に「読むJ-POP・1945~2004」(朝日文庫)などアーティスト関連、音楽史など多数。「FM NACK5」「FM COCOLO」「TOKYO FM」などで音楽番組パーソナリテイ。放送作家としては「イムジン河2001」(NACK5)で民間放送連盟賞最優秀賞受賞、受賞作多数。ホームページは、http://takehideki.jimdo.com
 モリは友人で同じくJ-POPに詳しい。
 https://www.j-cast.com/trend/2019/09/03366589.html?p=all


‡1976(昭和51)年9月3日(金) 西荻窪LOFT
 1.あばずれセブンティーン(旧歌詞ヴァージョン)
 2.青春の絆
 3.遠くへ(旧歌詞①ヴァージョン)
 4.ハイスクールロックンロール(合唱あり)
 5.路地裏の少年(16歳17歳18歳ヴァージョン)
 6.生まれたところを遠く離れて(親父とお袋にヴァージョン)
 7.愛のかけひき
 ソロデビューしてまだ10回もライブは無かった頃ですね
 1.「坂本竜馬やビリーザキッド」版
 2.今となってはコンサートでは絶対にやらないですよね(笑)
 3.「わかるだろ」の通常版
 4.「街から街」版
 5.「となりの部屋、あの娘に声を掛けて」版
 6.語り入り
 7.当時の定番でしたね
 ばらばらながら、浜田省吾事典にはない資料作製ですね(苦笑)
 http://ameblo.jp/bar-flashandshadow/entry-10642667001.html

[recommend]名曲「スカイ・ハイ」オリコンNo.1獲得から40年。ジグソーの記念プロジェクトを見逃すな!
2017年09月03日 執筆者:中村俊夫
2017年02月18日の本コラムでも紹介したように、今年は、英国コヴェントリー出身のロック・バンド「ジグソー」が、香港オーストラリア合作映画『The Man From Hong-Kong』の主題歌として1975年にリリースした「スカイ・ハイ」を、「仮面貴族」の異名で日本でも人気を博した覆面レスラー、ミル・マスカラスが自分のリング・テーマ曲として起用したことで、「スカイ・ハイ」のセールスも最終的には120万枚を記録。見事オリコン洋楽チャート11週連続1位(総合チャート2位)に輝き、YAMAHA主催『世界歌謡祭』出場のためジグソーが初来日してから40周年というスペシャル・イヤーである。
そんな記念すべき年に、日本におけるジグソーの楽曲・原盤管理会社であるシンコーミュージック・エンタテイメントが、同社のfacebookページ上で「Do you remember JIGSAW?」キャンペーンを展開中だが、今月と11月には『スカイ・ハイ40周年記念!ジグソー・コンプリート・コレクション』と銘打って、ウルトラ・ヴァイヴから、ジグソーの英国オリジナル・アルバム全種と、「スカイ・ハイ」のリミックス集アルバムがリリースされる。
第一回発売は9月13日。作曲者のクライヴ・スコット(ジグソーのキーボード奏者)、ユーロビートのヒット制作チーム「ストック・エイトキン・ウォーターマン」、さらにはMUROなど日本のDJたちによる 「スカイ・ハイ」のリミックス・ヴァージョン」とオリジナル・アルバム未収録作品を集めた2枚組CD『スカイ・ハイ&レア・トラックス40TH ANNIVERSARY EDITION』。初CD化のファースト・アルバムにアルバム未収録曲を加えた『レザースランド・ファーム+11』、日本でのデビュー・アルバムとなった3rdアルバムと2ndアルバムを2in1にした『青春の詩+オーロラ・ボリアリス+1』の3タイトルがリリースされる。
「スカイ・ハイ」があまりにも有名なだけに、ジグソーを一発ヒット屋と誤解されている方も多いが、今回のオリジナル・アルバムのリイシューを機に、「スカイ・ハイ」以外の作品にも是非一度耳を傾けてほしい。『レザースランド・ファーム+11』はプログレ・ファンも楽しめるアルバムだし、『青春の詩+オーロラ・ボリアリス+1』には後期ビートルズからの影響大で、特にパワー・ポップ、ソフトロック・ファンにお奨めの名曲揃いである。
さらに、9月10日には、BS-TBS『SONG TO SOUL~永遠の一曲~』(毎週日曜夜11時)で、筆者もロンドンで収録に立ち合った「スカイ・ハイ」特集を放送。名曲「スカイ・ハイ」誕生のいきさつが、元ジグソーのメンバー、関係者たちの証言によって明らかになっていくドキュメンタリーである。こちらもお見逃しなく!
BS-TBS『SONG TO SOUL~永遠の一曲~』☆「スカイ・ハイ」ジグソー
9月10日(日)よる11時放送>
≪著者略歴≫中村俊夫(なかむら・としお):1954年東京都生まれ。音楽企画制作者/音楽著述家。駒澤大学経営学部卒。音楽雑誌編集者、レコード・ディレクターを経て、90年代からGS、日本ロック、昭和歌謡等のCD復刻制作監修を多数手がける。共著に『みんなGSが好きだった』(主婦と生活社)、『ミカのチャンス・ミーティング』(宝島社)、『日本ロック大系』(白夜書房)、『歌謡曲だよ、人生は』(シンコー・ミュージック)など。 
http://music-calendar.jp/2017090301


 芸能界から突如引退した小林麻美の覚悟 25年後に初めて明かした思いとは 
 2018(平成30)年09月08日(土) 16:00 
「女が憧れる女」というモデルを作った小林麻美を「親友」と呼ぶ松任谷由実が、麻美の出産に際して贈ったものは。時代の先端を歩き続ける女たちが25年もの間、見えない絆でつながり続けた理由とは。TOKYO FM「村上RADIO」プロデューサーで、『愛国とノーサイド』著者の延江浩が書く。
 ※「スクープとなった復活劇… 「小林麻美」とは何者だったのか?」よりつづく
 *  *  *
 松任谷由実が日本語詞をつけた「雨音はショパンの調べ」のリリースは1984年。日本女性のイメージを覆すアンニュイな女性像を披露、大ヒットで鮮烈な印象を残した。
「たまたまロンドンでガゼボの“I Like Chopin”を耳にしたの。それで麻美ちゃんに歌わせたいと閃(ひらめ)いた」とユーミンは回想する。
 当初、この曲は別タイトルだった。それは「ショパンを弾かないで」。
「麻美ちゃんが歌うんだったらもっと柔らかくしようってユーミンがさらっとタイトルを変えた。深夜、東京タワーの真下にあるスタジオでした。ユーミンは直感で歌詞も変えていく。それでどんどんリアルに情景が浮かぶようになっていくんです。♪Rainy days 気休めは 麻薬 Ah……♪の中の、“Ah……”のウィスパーのところには『ピアノの~、曲』という歌詞が付いていたんだけど」(麻美)
 歌詞を消すことで余韻が生まれ、そこに主人公の情感が漂った。
「気休めは 麻薬」というフレーズが引っかかり、NHKではついぞオンエアされなかったが、「どちらにしても、歌番組には一切出ませんでした。『ザ・ベストテン』や『夜のヒットスタジオ』からオファーをいただきましたが、出演しないことが戦略だったようです。でも生歌だとボロが出るって事務所の社長が心配したのかな(笑)」(麻美)
 じわじわとヒットチャートを上がり、オリコン週間チャート3週連続1位。
「1等賞は、人生で最初で最後(笑)」
 歌番組には出なかった麻美だが、その後、この曲を人前で3度歌っている。
 最初は苗場スキー場で開かれるユーミンのライブ「SURF&SNOW」で、ギタリストの高中正義と。「今夜はスペシャルゲストが来てくれています」とユーミンが紹介し、ステージに立った。次が、これもまた人生最初で最後だと麻美が言う日本武道館でのコンサートで、最後は「息子が学校を卒業した時の謝恩会で(笑)。お世話になった先生とママ友にせがまれて、カラオケで歌いました」。
●待つ女ではなく待てる女 惚れて惚れて一緒になった
 87年、ユーミンは麻美のアルバム「GREY」をプロデュース。全曲を作詞・作曲している。
「親友のアルバムですから、それはもう一生懸命作りました。旅先からもせっせと楽譜を送ったりね」(ユーミン)
「GREY」とは、煙草の煙と空の色を指している、と麻美は言う。
「失恋の歌です。煙草の煙が灰色の空に溶けて雨になる。切なくて綺麗。私はユーミンが作る詩が本当に好きでした。何とかその世界観を私の拙(つたな)い歌で表現したいと、いつも必死でした。この『GREY』という歌は、特に難しかったけど、本当に美しい作品になりました」(麻美)
「麻美ちゃんの恋人が田邊さんだとは何となくわかっていました。麻美ちゃんと私、それと田邊さんの3人で会うこともあったから。でも、3人で会うって、今思えば、私は目眩(めくらま)しだったのかな」とユーミンは笑う。
 
(C) Asahi Shimbun Publications Inc. 提供 「雨音はショパンの調べ」の松任谷由実直筆の楽譜と日本語詞。EP盤のジャケット画は幻想的な画風で知られる画家・合田佐和子による。B面はジェーン・バーキンの「ロリータ・ゴー・ホーム」のカバーで、日本語詞は小林麻美自身が手掛けている(撮影/写真部・片山菜緒子) 
「麻美ちゃんは『待てる女』です。『待つ』のではなくて、『待てる』。当時は家電(いえでん)しかなかったから麻美ちゃんは絶対、家にいた。いつでも電話に出られるようにね。だから『待てる女』。ちなみに私は『待てない女』(笑)。男の子たちと一緒に飲みに行くでしょ。お開きになって、麻美ちゃんは家が同じ方向だからって男の子のクルマには決して乗らなかった。身綺麗っていうのかな。そこまで人を好きになれるんだって思った。惚れて惚れて、田邊さんと一緒になったんじゃないかな」
 そんなユーミンの言葉を受けて、麻美は語る。
「確かにそうだった(笑)。彼が好きだったから選択肢はそれしかありませんでした。彼から褒められたことは、公私共に一度もありません。いつも叱られてばかり。でも叱ってもらってどこか嬉しかったのかもしれません。そういう強さに惹かれたんだと思います」
 霞町の事務所で初めて社長の田邊昭知に会ったのは麻美が20歳の時だった。サンローランのピンクのトレンチコートを着て行った。持っていた全てのサンローランを日本服飾文化振興財団に寄贈した麻美が、たった一着、初めて会った時に着ていたピンクのトレンチコートだけは手元に残した。
「彼に父の影を追っていたのかもしれません。父は私たち家族と一緒に暮らしてはいなかった。姉もどこかで父を追っていた。彼女はずいぶん年上と結婚しました。25歳違いで、父と二つ違い、母より三つ上。父が機嫌悪くなってね。でも、パパ、あなたに怒る資格ないじゃない?って思っていた」
●孤独を是とする生き方 一人で育てる覚悟で産んだ
 麻美の父は(当時の)国鉄の信号機を設計する技術者だった。自宅のある大森には第一京浜国道が走っていたが、この大動脈を大型バイクで飛ばすカミナリ族でもあった。
 10代の麻美は神経性胃潰瘍、急性肝炎、骨髄炎と次々に大きな病気にかかり、1年間学校を休んでいる。
「父が家にいなかったり、他にも色々あった家族だったから、背負いきれずに病気ばかりしていたんだと思います。でもおかげでサガンに目覚めました」
 黒と銀色にペイントされたカワサキの大型バイクに跨(またが)る父の背中にしがみつくと、革ジャン、煙草、エンジンオイルの匂いがいつもした。ザ・スパイダースのリーダーとしてヒッコリーのスティックでドラムを叩いた田邊の指からも、どこからか同じ匂いを感じた。その匂いなるものは、麻美にとって拠り所や励みにもなった。
「元々、心中とか男女の道行きとか近松(門左衛門)的なものに憧れを持っていました。父と彼に私は勝手にそのイメージを持ったんです。孤独であることを是とする生き方。子どもの私が大人の事情を受け入れざるを得なかった自分自身の孤独と重なったのです」
 田邊と付き合い始めて17年経って、麻美は大きな決断をした。
 出産である。
 彼女は未婚のまま子どもを産んだ。
「彼も私も、もちろん独身でしたが、結婚という形はその時はとりませんでした。好きな人の子どもを産みたい。その思いだけで、一人で育てる覚悟でした」(麻美)
「男がいて、モテるという評判が立つとする。そうすると、女はそういう男に挑むものです」とユーミンは言う。
「女はその男に近づいていって、誰かが勝つ。勝利した以上、何があっても女はその男を愛し続ける。そうでないと男は観念しない。で、麻美ちゃんは姿を消した。ただの結婚ではなく、相当の覚悟でけじめをつけた。自分の有り様っていうのかな、それを貫いた。彼女は美意識の高い人。麻美ちゃんは麻美ちゃんで、確固たる雲としてしっかり空に浮かんでいました。女が女に憧れるという図式を作った」
 麻美のアルバム「GREY」の中に「遠くからHAPPY BIRTHDAY」という楽曲がある。麻美の誕生日のためにユーミンが作ってくれた。
「そして、私が子どもを産んだ年に、この曲の歌詞を変えてユーミンが歌ってくれた。『お祝いよ。麻美ちゃんのために書き直したわ』って。嬉しかった!」
 それが「Happy Birthday to you~ヴィーナスの誕生」。久保田利伸が♪Happy Birthday to you♪と間奏で歌うこの曲はアルバム「DAWN PURPLE」に収録されている。“PURPLE”は「人間が初めて見る色」を指す。胎児がこの世に生まれた時に見る「紫」と、夜明け(“DAWN”)前の空の「紫」を重ねている。
 都会のディスコティックを舞台に、かつての恋人を忘れられない孤独な女を描いた曲が一転、晴れやかな祝祭曲になった。イントロは胎児の力強い鼓動を想起させるパーカッション。覚悟を決めて新しい命を生みだした麻美のためにユーミンが心を込めた。
  Dear Friend/あなたの世界が新しくなる/淋しいときでも孤独じゃない
  幾千年もくり返された/本当の愛を得るための苦しみが
  あなたを待つのね おめでとう
(「Happy Birthday to you~ヴィーナスの誕生」)
『DAWN PURPLE』は1991(平成三)年12月02日(月)付のアルバムチャートでオリコン史上初の初動ミリオンを記録。たった一人で息子を産んだ麻美が100万人の祝福を受けたことになる。ユーミンの直感の見事な勝利だった。
「出産・結婚で仕事や周囲に迷惑をかけました。だから二度と戻らないと決めた。結婚を選んだからには何かを捨てなければならない。それが私なりの『禊(みそぎ)』でした」(麻美)
 姿を消し、25年間見向きもせず育児に没頭したのは「自分の決断に対するけじめ」だったのだ。
●鮮やかな女の決別 想いを貫いた45年間
「麻美ちゃんの中で何かが解(と)けたのかなって思いました」とユーミンはいなくなった麻美を想う。
「きっぱり親交がなくなりました。でもそれでよかった。友達でい続けるのは、それはそれで大変だったと思う。神隠しみたいに姿を消してしまったけれど、気持ちは繋がっていると思う25年間でした」
 2人は最後の電話を覚えている。
「私、これからも闘う」(ユーミン)
「私にはもうファイトがないの」(麻美)
 ユーミンは、麻美の答えにこの人はショービズの世界に未練がないのだと受話器を握り締め、麻美は親友を失くすのかもしれないと覚悟した。
「尼寺に入るじゃないけれど、昔はそういうお別れがあったんです」(ユーミン)
 ユーミンが言う通り、鮮やかな女の決別だった。
「20歳で彼と知り合い、紆余曲折、いろいろあった」と麻美は回想する。
「最近思うのは、この45年間、私が自分の想いを貫き通せる男(ひと)に出逢えたことは幸せだということ」
 所属事務所の社長とタレントの関係から恋人になり、出産して結婚、仕事を辞め、お互いに父と母になり……。その間、自分の想いをずっと田邊に貫いた。
「その思いは今も変わりません。諦めたことや失くしたものもあったかもしれないけれど、悔いはありません。
 主人には感謝しかありません。ずっと、大切なひとです。
 こうして、私が、夫である田邊昭知のことを話すのは、45年にして初めてのことです」(麻美)
 松任谷由実という親友にして最高のアーティストとの、ある種共犯関係が作り上げた「女が憧れる」というロールモデル。その象徴だった麻美は突然表舞台から姿を消し、謎の存在となった。
 しかし四半世紀後、岩崎アキ子、淀川美代子というファッションと出版界で伝説とされる女性らとの合作によって、サンローランのタキシードを装い、雑誌「クウネル」の表紙で再登場した麻美は、頬に右手を当て慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。人生の旅を経て程よく熱が冷め、芳醇(ほうじゅん)な香りを密かに振り撒きながら、「第二幕」を迎えるのに相応しく、別次元の存在感を示したのだった。
(文中敬称略)
 延江浩(のぶえ・ひろし)1958(昭和33)年東京都生まれ。ラジオプロデューサー・作家。慶應義塾大学卒業。国文学研究資料館・文化庁委託事業「ないじぇる芸術共創ラボ」委員。ABU(アジア太平洋放送連合)ドキュメンタリー部門グランプリ、日本放送文化大賞、ギャラクシー大賞など受賞。
 *NexTone【許諾番号:ID000005489】
 2018(平成30)年09月03日(月)号 AERA
 https://www.msn.com/ja-jp/entertainment/celebrity/ar-BBN1Xn7

 スクープとなった復活劇… 「小林麻美」とは何者だったのか?
 2018(平成30)年09月08日(土) 16:00 AERA 延江浩
 東京・渋谷の公園通りの渋谷パルコ(1979年) (c)朝日新聞社
「クウネル」(2016年9月号)でサンローランを着る。同誌で「小林麻美の試行錯誤」連載中(撮影/写真部・掛祥葉子)
 1977年、資生堂「マイピュアレディ」ポスター。モデル=小林麻美、撮影=レナード・デ・フランチェスコ
【許諾番号:ID000005489】
 松任谷由実が日本語詞をつけた「雨音はショパンの調べ」で鮮烈な印象を残し、1991年に突如引退した歌手・モデルの小林麻美。復活劇の舞台裏を、TOKYO FM「村上RADIO」プロデューサーで、『愛国とノーサイド』著者の延江浩が書く。
【「クウネル」の表紙にサンローランのタキシードで登場した小林麻美】
 *  *  *
 マガジンハウス「クウネル」編集長の淀川美代子は皇居前・半蔵門へ急いでいた。そこにはモデルエージェンシー社長、岩崎アキ子が待っていた。
 ふと、ジーンズにジャケット姿の女性がコンビニに入るのを見かけ、長身ですらりとした後ろ姿に、もしやと思ったが、明確にはわからなかった。その女性からは予想していたオーラが感じられなかったからだ。
「やっぱり25年間のブランクがあるのかなって。でも、本番に向けて何回か打ち合わせを重ねていくうちに、どんどん綺麗に、どんどん生き生きとしていった。ごく内輪で進めたプロジェクトだったんですけど、私は小林さん、すごいな、さすがだってずっと思っていました」(淀川)
 それから半年後。小林麻美は、1991年の引退以来の撮影本番にサンローランのタキシードで臨んだ──。
●アイドルらしからぬ聖少女 違和感がたまらなかった
 72年、東芝レコードから「初恋のメロディー」でデビューした麻美を、クリエーティブディレクターの杉山恒太郎は「深窓の令嬢が、突然、ブラウン管に登場した、という印象だった」と言う。「そこ(テレビ)に出てはいけない人が出てきたっていうのかな。生活感が皆無で、透明感が際立ち、そこに惹かれながらも違和感がたまらなかった。まるでサガンや倉橋由美子の小説に出てきても不思議じゃない聖少女のよう。単なる金持ち、とかではない、上流階級の女の子。ずっと見ていたい、けれどその場所にはいて欲しくはない(笑)というアンビバレントなイメージでした」
 麻美は神田カルチエラタンの文化学院出身。与謝野晶子、鉄幹らが大正期に創設し、菊池寛、北原白秋、芥川龍之介と錚々たる面々が教壇に立った。「自由」「知性」「芸術」を旗印に、作家では金原ひとみ、作詞家では安井かずみ、俳優では高峰秀子、中嶋朋子、ファッションでは菊池武夫、稲葉賀恵と多くのクリエーターが輩出している。
「文化は自分で選んで入ったんです。暁星やら慶応、青学とか、そんな私学で何かやらかしてしまった子どもが集まっていた。クレージーというか、全員びっくりするような恰好でやってくる、ヒッピーみたいな学校でした」(麻美)
のページ育ちの良い野蛮人…
 https://dot.asahi.com/aera/2018090600084.html?page=1

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 ┃ オリコンシングルTOP10獲得数ランキング ┃
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 |2013(平成25)年 9月 3日(火)|現在 [ ]:コラボレーションを含んだ場合
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  第①位 54作品 [57作品] モーニング娘。 
  第②位 50作品  SMAP 
  第③位 48作品 [51作品] 浜崎あゆみ 
  第④位 47作品  B'z 
  第⑤位 46作品  THE ALFEE 
  第⑥位 44作品  TOKIO 
  第⑦位 43作品 サザンオールスターズ 43作品
  第⑦位 43作品 [45作品] ZARD 
  第⑨位 42作品 [43作品] DREAMS COME TRUE
  第⑨位 42作品  42作品  GACKT
  第⑨位 42作品 [44作品] 倖田來未
  第12位 40作品  V6
  第13位 39作品  嵐 
  第14位 38作品 [39作品] 田原俊彦 38作品
  第14位 38作品 [39作品] 安室奈美恵
  第14位 38作品  38作品  倉木麻衣
  第14位 38作品  38作品 [40作品] GLAY 
  第18位 36作品 [37作品] TUBE
  第18位 36作品  36作品 L'Arc~en~Ciel 
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%88#.E3.82.B7.E3.83.B3.E3.82.B0.E3.83.ABTOP10.E7.8D.B2.E5.BE.97.E6.95.B0.E3.83.A9.E3.83.B3.E3.82.AD.E3.83.B3.E3.82.B0
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 ┃ 光GENJI ┃
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 |1987(昭和62)年 6月25日(木)|「GENJI」と「光」の2つのグループが合体されて結成
 |1995(平成七)年 9月 3日(日)|解散
 └─――――――――――――┘1988年のオリコン年間シングルチャートで♪パラダイス銀河♪/♪ガラスの十代♪/♪Diamondハリケーン♪が第①位 第②位 第③位を独占するという、1978年のピンク・レディー以来の快挙を成し遂げた。また、1stアルバムの『光GENJI』も同年のオリコン年間アルバムチャートの第1位に輝いている。♪STAR LIGHT♪~♪荒野のメガロポリス♪までデビュー曲から8作連続でオリコンシングルチャート第①位を獲得し、当時の新記録となった(後に同事務所の後輩KinKi Kidsがこの記録を抜く)デビューから解散までのCD売上は、シングル総売上29タイトル計755万枚(オリコン調べ)、アルバム総売上29タイトル計467.3万枚(オリコン調べ)、ビデオ総売上は、15タイトル計320万本、コンサート動員数は、539公演計333万6594人動員
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89GENJI
◆削除動画◆SMAPが語る史上最大の人気を誇ったグループ「光GENJI」とは http://youtu.be/oSr4_vjr4IU

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