『新・みにくいアヒルの子』
‡2015(平成27)年05月25日(木)
『みにくいアヒルの子』このアンデルセン童話を知らない日本人はいないだろうね。こうした一発逆転二階級特進話は、日本人の嗜好に合うのかも知れない。醜かったアヒルの雛が美しいアヒルに成長するのでもなければ、醜い白鳥の雛が美しい成鳥になる話でもない。醜いアヒルから一足飛びで美しい白鳥。同じく日本人なら知らぬ人はいないだろう『岩窟王』(凄いタイトルだな)船乗りだったエドモンド・ダンテスは同僚の奸計に陥り無実の罪でシャトー・ディフに投獄される。自殺まで考えたがファリア神父との出会いがきっかけで、これまた一発逆転、大富豪モンテ・クリスト伯と変身し自分を陥れた人間たちに復讐していく。以上はフィクションだが、実話にもこうした逆転劇はある。ジェイムズ・エルロイの自伝『わが母なる暗黒』がそれだ。ジェイムズ少年は10歳のとき、何者かに母親を殺される。この本には当時の新聞記事が載せられているが、その記事には、学校から帰って来たジェイムズ・エルロイ少年が、母の死を知らされ呆然としているという残酷な写真が添えられてる。性格破綻者の父はエルロイに教育も受けさせず、それどころか養いもしなかったため、エルロイは窃盗で口を糊し、父の死後はホームレスとなり、薬物中毒にまでなってしまう。それでも図書館に通い、ハードボイルド小説を読み漁り、ついには自ら執筆を始め、次々に傑作をものする。本書の後半では、いまや大ベストセラー作家となったエルロイが、事件のあった地ロスアンゼルスに再び降り立ち、その財力と知名度をフルに活かし、母親殺しの真相を探る姿が描かれる。学歴も金もない孤児から世界的な作家という、これまた一発逆転二階級特進。ちょいと脇道に逸れるが、ロシア人もこうした一発逆転二階級特進話が好きなようだ。『戦争と平和』でニコライ・ロストフ(ナターシャの兄)の戦友、デニーソフ大尉は配給される食料の劣悪さに怒り、友軍の食料を強奪し逮捕される。更に戦闘で傷つき野戦病院に運ばれ、それっきりになってしまうのだ。悲惨な運命を想像するのが、大方の読者だろうが、物語の後半で、フランス軍の捕虜となったピエールを救出するパルチザンの中佐が、なんとこのデニーソフだった。大尉から中佐と、文字通り二階級特進。同様の逸話が『ドクトル・ジバゴ』にもある。デビッド・リーンの映画では、理想に燃える若き革命家パーシャ(トム・コートネイ)がアジビラ配布中に騎馬警官に襲われ、かけていた眼鏡が歩道に落ちて砕けるというシーンがあった。映画の常ならこれは殺されたという象徴なのだが、やはり映画の半ばで、白軍のスパイと誤解されたジバゴ(オマー・シャリフ)が連れて行かれた列車砲内の司令部に、いまや将校となったパーシャがいたのだ。映画見ていて「あ、デニーソフだ」と思いましたね。話がどんどんとっ散らかるので「みにくいアヒルの子」に話を戻そう。誰もが知っている「みにくいアヒルの子」には誰もが一度は抱く疑念がある。それは「本当に白鳥の雛ってみにくいの」ということである。原作ではお母さんアヒルは「この子は七面鳥の雛かも知れない」と思い虐めるのだが(心当たりあるのか)、アヒルの雛=可愛い、白鳥の雛、七面鳥の雛=醜いなんて意識も知識もないからね。さて『新・みにくいアヒルの子』のお話だ。紺碧の空を悠々と舞う一羽の白鳥。やがて翼を翻し、湖水の水面に降り立つ。そこには以前の家族たちがいて、羨望と尊敬の眼差して白鳥を見ている。おや――そのアヒルの兄弟の中に、一羽大柄でみっともない容姿のアヒルがいるではないか。そう、それこそが、あのみにくいアヒルの子が長じた姿だった。アヒルの子はアヒル、白鳥にはなれない。スズメはタカになれない。子猫は虎になれない。それと同じこと。これぞ新解釈「新・みにくいアヒルの子」と言ったら――怒りますよね。そもそも、白鳥の子って本当にみにくいのかなと思いつつ読み進めても、なんの説明もなかったのだ。なのになにを今更。意外性を強調したところで「本当に――」と思って空いた小さな穴は、既に心の奥では瑕へと広がっている。再び脇道に逸れるが、ミステリでは(このエントリはミステリの話なんです)この「一度疑ってしまう」というのは致命的に意外性を殺ぐ要素なのだ。『アガサ・クリスティー完全攻略』霜月蒼は本年度の本格ミステリ大賞を受賞した労作だが、この「一度疑ってしまう」作品が高評価されているという一点で推すことは出来なかった(講評はジャーロに掲載されます)。クリスティのベスト作品に『終わりなき夜に生まれつく』とか『春にして君を離れ』を上げているのには諸手を挙げて賛同するが、『そして誰もいなくなった』をベストにしているのには首を捻らざるを得ない。『そして誰もいなくなった』はクリスティのベストというか、オールタイム・ミステリのベストと評価されている作品。その内容を知らない人はいないだろう。知らない人には、このエントリ自体がなんのこっちゃ分からんだろうし。登場人物が「誰もいなくなった」時点で、しかし、犯人はこの中に居るはずだという謎は、誠にツマラン謎である。だって、そうなれば登場人物全員を一度は疑うよね。普通のミステリなら、外してかかる登場人物がいるけど、この作品に限ってはそうもいかない。全員を一応疑ってかかって、それから真相を明かされても、「一度疑ってしまう」と意外性は大部分削がれてしまうのだ。クリスティの代表作『オリエント急行の殺人』(霜月蒼はベストには推していない)は雪に覆われた山荘物で、登場人物も限られ外部からの犯行も不可能という状況だ。だから一人一人を疑うことになるのだが――驚天動地の真相とはまさにこのことで、誰をも「一度疑ってしまう」のに、その意外性は常識を逸脱していた。再び「新・みにくいアヒルの子」に話を戻す。しつこいようだが、一度「本当に白鳥の雛ってみにくいの」という疑念を抱いてしまったら、みにくいアヒルの子と白鳥が別個の存在というどんでん返しには、ほとんど効果がないということなのだ。最後にもう一つ。世の中には知らないほうが幸福な「真実」もある。それを知らされるのは辛く残酷なことだと思うのだが。某ベストセラー・ミステリの映画化に関連して考えたことです。何書いてもネタバレになっちまうんで。
http://www.fujiokashin.com/criticism.html
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┃A面♪レッツゴー!!ライダーキック♪┃
┃B面♪仮面ライダーのうた♪ ┃
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1971(昭和46)年02月16日(火) 国際ラジオセンター KRC録音 #1、#2
1971(昭和46)年02月22日(月) 国際ラジオセンター KRC録音 初回盤#1
‡1971(昭和46)年05月25日(火) 発売
1978(昭和53)年12月XX日(X) 再発
①備考・・・当時日本コロムビアのディレクターであった木村英俊は著書の中で、「藤岡の歌ったテープを聴いたのち、藤(子門)の歌唱で録りなおした」という旨を述べている[151]が、記録では藤のレコーディングが
1971(昭和46)年02月16日(火) 、藤岡のレコーディングが同年
1971(昭和46)年02月22日(月)とされており[152]、作曲の菊池俊輔も藤岡の方が後であったことを証言している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%B4%E3%83%BC!!_%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%83%E3%82%AF
①https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E9%9D%A2%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC#cite_note-246
映像◆Led Zeppelin - Live at Earls Court (May 25th, 1975) - Video [Official Songs Removed] https://youtu.be/DNpuX8Wp7PU
‡(sun)May 25th, 1975
0:00 Audience Anticipation
5:20 Intro by Alan "Fluff" Freeman
7:16 Rock and Roll
10:57 Sick Again
17:12 Over the Hills and Far Away
25:38 In My Time of Dying
38:47 The Song Remains the Same
43:56 The Rain Song
53:05 Kashmir
1:03:20 No Quarter
1:29:01 Tangerine
1:32:42 Going to California (cut due to copyright problems)
1:37:51 That's the Way (cut due to copyright problems)
1:44:24 Moby Dick
2:05:32 Dazed and Confused
2:48:17 Whole Lotta Love
2:54:52 Black Dog
3:03:11 Heartbreaker
3:12:58 Communication Breakdown
As requested by Lucas, here is video of the band's final night at Earls Court in London. This is the band's final show of 1975 and one of their longest shows ever. Unfortunately, portions of the acoustic set and all of Trampled Underfoot and Stairway to Heaven had to be removed due to copyright claims (since they appeared on the official DVD). This video was put together by a friend of mine and uses the Liriodendron remaster for the audio, synced to the most complete version of the show possible, with video from the 24th and the audience recording from the 25th used to help bridge the gap between Tangerine and Going to California. I personally think he did a stellar job. All credit goes to him and Liriodendron! :)
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┃三島由紀夫が語る ボディビルから割腹自殺への道┃
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2012(平成24)年04月03日(火) 制作
写真◆背起きする三島由紀夫(1956年)
1967(昭和42)年04月12日(水) 42歳の三島由紀夫は自衛隊に体験入隊します。仕事の都合もあり、3回に分けてでしたが、合計で46日間という本格的なものでした。
最初に入隊したのは、陸上自衛隊の久留米幹部候補生学校でした。本名・平岡公威として、毎日午前6時起床、6時5分には乾布摩擦をしながら舎外で点呼するという生活を始めます。課業は午前8時から午後5時まで。当時の様子を、『サンデー毎日』に寄せた手記から引用しておきます。
1967(昭和42)年06月11日(日)号『サンデー毎日』「自衛隊を体験する」《夏の高良山マラソンの練習にいそしむ若い学生の、飛鳥のやうなランニングには追ひつけなかったが、22年ぶりに銃を担って、部隊教練にも加はった。肩は忠実に銃の重みをおぼえてゐた。行動の苦難を共にすると、とたんに人間の間の殻が破れて、文句を云はせない親しみが生ずるのは、ほとんど年齢と関はりがない。私は実に久々に、昼食後の座学の時間の耐へられない眠さを、その古い校舎の窓外の青葉のかがやきを、隣席の友人の居眠りから突然さめて照れくささうにこちらへ向ける微笑を味はった》
ここで「22年ぶりに銃を」というのは、敗戦直前、三島はほんの少しだけ学徒動員で陸軍に入隊したからです。
1967(昭和42)年04月19日(水) 写真◆幹部候補生学校の芳名帳に残された三島由紀夫の署名
1967(昭和42)年04月19日(水) 久留米から帰郷した直後の4月19日から、今度は自衛隊富士学校の滝ケ原分屯地普通科に入隊します。このときの宿舎は、偶然にも22年前の1945年、学生のときの野外演習で泊まった場所でした。ここでは戦車の操縦や特科(砲兵)隊員の行軍訓練に参加しています。過酷なレンジャー部隊の訓練も行い、草むらの蛇を捕まえて、生で食べることもしました。
《満開の姫桜の間を縫って、朝日にあたかも汗をかいた白馬のやうな富士を見上げて、半長靴で駈ける朝の駈足はすばらしかった……山中湖の満目の春のうちをすぎる帰路の行程は佳かった。私はこれほどに春を綿密に味はったことはなかった。別荘地はまだ悉(ことごと)く戸を閉ざし、山桜は満開、こぶしの花は青空にぎっしりと咲き、湖畔の野は若草と菜種の黄に溢れてゐた。あくる日から連休に入ったので、私はこれほどにも濃密な、押絵のなかをゆくやうな春と別れて東京へかへった。そして大都会の荒涼としてゐることにおどろいた。すでに私は、営庭の国旗降下の夕影を孕んだ国旗と、夜10時の消燈喇叭(らっぱ)のリリシズムのとりこになってゐた》(『サンデー毎日』)
リリシズムとは「叙情性」という意味ですが、何とも詩的な体験記ですな。
‡1967(昭和42)年05月25日(木) 三島は1カ月ほど富士山の麓にいて、いったん帰郷、5月25日から陸自最強部隊である習志野の第1空挺団に参加。パラシュート降下訓練は頭を打つ可能性があるので、11mの高塔から空中に飛び出す懸吊(けんちょう)着地訓練を体験しました。三島は「船乗りが海に憑かれるように、空挺団はパラシュートに憑かれていた」という名言を残し、46日間の体験入隊を終えました。
写真◆現在の空挺団のパラシュート降下(富士演習場)
それにしても、どうして三島由紀夫は自衛隊に体験入隊したのか?
『サンデー毎日』で三島の入隊をスクープした徳岡孝夫が、取材時に動機を聞いています。
《問 体験入隊の動機は?
三島 これは、まったくご推察にまかせます。どうとられようとかまいません。
問 こういう見方はできませんか。作家という“自由業”を中断して、自衛隊のきびしい日課のなかに身を置いてみたのは、あなたが一種マゾヒステックな快感を得るためのぜいたくな遊戯だったという……。
三島 冗談をいわないでほしい。私ほどふだんからきびしい日課を守っている者はいないでしょう。むしろ自衛隊へ行って??これは「失言」だといわれたんですが??候補生学校の、時間が分断されている窮屈な生活よりも、私の日常の生活のほうがもっと分断され、もっと複雑にオーガナイズされているんだと言ってやりました。ただ、非常にうれしかったことは、文壇では私のストイシズムが“奇癖”ととられているのに反して、自衛隊のなかではそれが“美徳”なのでした》(徳岡孝夫『五衰の人』)有名な話ですが、幼少時の三島由紀夫は「アオジロ」とあだ名がつけられるほど病弱でした。そんな三島ですが、1944年10月に東大に入学した4カ月後、陸軍から入営通知の電報が来ます。ところが、このとき、軍医のミスで誤診され、即日帰郷となります。このときの様子は『仮面の告白』に書かれています。
《薬で抑へられてゐた熱がまた頭をもたげた。入隊検査で獣のやうに丸裸かにされてうろうろしてゐるうちに、私は何度もくしゃみをした。青二才の軍医が私の気管支のゼイゼイいふ音をラッセルとまちがへ、あまつさへこの誤診が私の出たらめの病状報告で確認されたので、血沈がはからされた。風邪の高熱が高い血沈を示した。私は肺浸潤の名で即日帰郷を命ぜられた》三島にとって軍隊に入れなかったのは大きなコンプレックスとなりました。それは人気作家となってからも変わらず、ちょうど30歳のとき、ボディビルを始めます。きっかけはボディビルのコーチだった鈴木智雄と知り合ったことでした。
1956(昭和31)年02、03月号『ボディ・ビル』「ぼくは銀座のさるところで鈴木さんと初対面、ボディ・ビルを知りました。知る前はあんな重いバーベル担ったら、ぼくなんか参ってしまうだろうと想像していたのですがね。その時、鈴木さんが巻尺持って来て、おたがいの胸を計った。ぼくのは両腕を抱いたグルリ、鈴木さんは胸幅だけ、おどろいたことに、これが同じ寸法なのです。そこでいろいろお話しをきいた。ぼくは理論がおもしろくないと、承知しない男でしてね。鈴木ボディ理論にすっかり感銘しちゃった。そこでまず柔軟体操を教わり、やりはじめた」
写真◆帆掛け船を行う三島由紀夫。下で支えるのが鈴木智雄
1955(昭和30)年09月16日(金) ボディビルを始めたのは1955年9月16日。当時31歳。
1955(昭和30)年09月20日(火) 三島自身の記録によると、9月20日に測定したところ、胸幅が最大で79cm、体重12.9貫(48.4kg)だったのが、3カ月後の正月には胸幅が82.5cm、体重13.8貫(51.8kg)まで太りました。
この正月時点での三島のインタビューが『ボディ・ビル』誌に掲載されています。
─―先生は、いま目方どのくらい。
「去年の秋からはじめたのですが、その前は平均12貫800、背は5尺4寸5分。
─―どのくらいにふとりたいのですか。
「15貫は、ほしいですね」
─―バーベル・マンになられた動機は。
「外国映画などで、外人のいい身体を見て、うらやましいと思いましたね。この種の外国雑誌も読んだり、ボディ・ビルというのがあることは知っていたが、ぼくがやり出したらマンガものだろうと(笑)覚悟していた。最初はコッソリやるつもりでね」
─―学生時代に何かスポーツは。
「馬に乗ったくらいかな。スケートもようやく手すりなしで滑れる程度……」
写真◆バーベル運動する三島
さらに、ボディビルを始めて1年後には次のように書いています。
1956(昭和31)年09月20日(木)号『漫画読売』「ボディ・ビル哲学」《ボディ・ビルをはじめてからこの9月で1年になる。風邪を引いて3週間ほど休んだことが一度あるほかは、まづ精励して来た。もともと肉体的劣等感を払拭するためにはじめた運動であるが、薄紙を剥ぐやうにこの劣等感は治って、今では全快に近い。人から見たら、まだ大した体ぢゃないといふだらうが、主観的にいい体格ならそれでよろしい。……私は思ふのだが、知性には、どうしても、それとバランスをとるだけの量の肉が必要であるらしい。知性を精神といひかへてもいい。精神と肉体は男と女のやうに、美しく和合しなければならないものらしい》ここで三島は、日大拳闘部の好意で、小島智雄監督の指導の下、ボクシングも始めます。
1956(昭和31)年10月07日(日)『ボクシングと小説』《トレーニングをまだ4、5回やったばかりで、ボクシングを論じるのも口はばったい次第だが、30秒おきに3分づつ7乃至(ないし)8ラウンドのトレーニングをやってみて、いまさらボディー・ビルのありがたさを味はってゐる。何の訓練も経ずに座業からいきなりここへ飛び込んだら、おそらくついては行けまい。ボディー・ビルは非スポーツマンをスポーツの岸へ渡してくれる渡し舟のやうなものである。なぜボクシングをやりたくなったかといふと、それが激しいスピーディーな運動だからである。ボディー・ビルの静的な世界は、肉体の思索の世界ともいふべきで、そこでは動きとスピードへの欲求が反動的に高まってくる。そして動くもの、スピーディーなものが美しいことは、ソクラテスもいってゐることである》三島はこの2年後(1958年)に川端康成の媒酌で結婚するんですが、それと同時に、今度はボクシングをやめて剣道の稽古に入ります。もはや、三島の肉体鍛錬はとどまることを知りませんでした。
写真◆東京裁判の会場となった市ヶ谷記念館。このバルコニーで三島が演説した
自己鍛錬の流れの中で、三島は1961年、「よいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説」として『憂国』を発表します。これは、2・26事件で反乱軍を討たざるをえなくなった武山信二中尉が、死を選んで切腹する話。この作品は1966年、自身が監督・主演を務めて映画化されました。この映画で、三島は凄惨な切腹シーンを演じています。そして、1967年、自衛隊に体験入隊。その直後、三島は『美しい死』(1967年8月)でこう書いています。
《ひとたび武を志した以上、自分の身の安全は保証されない。もはや、卑怯未練な行動は、自分に対してもゆるされず、一か八かといふときには、戦って死ぬか、自刃するかしか道はないからである。しかし、そのとき、はじめて人間は美しく死ぬことができ、立派に人生を完成することができるのであるから、つくづく人間といふものは皮肉にできてゐる。
私は自衛官にはならなかったけれども、一旦武の道に学んだからには、予備自衛官と等しく、一旦緩急あるときは国を守るために馳せ参じたいといふ気持になってゐる》三島由紀夫は、『憂国』の映画制作から4年後の1970年、自衛隊市ヶ谷駐屯地で演説します。「俺は4年待ったんだ。自衛隊が立ちあがる日を」と絶叫しながら改憲を訴えるんですが、自衛官は誰も耳を貸しませんでした。こうして、失意のうちに切腹を果たすことになります。
写真◆市ヶ谷会館のドアに残った刀の傷
1970(昭和45)年11月25日(水)。享年45。なぜ11月25日を選んだかは不明ですが、『仮面の告白』を書き始めた日が11月25日だとされています。
写真◆市ヶ谷会館:左手前が三島が自決した場所。一番左の窓からバルコニーに出た
<おまけ>
三島由紀夫が切腹したあと、メディアは大々的に事件を報じました。そのなかに、ボディ・ビルのトレーナーだった鈴木智雄がコメントを出しています。
1970(昭和45)年12月『週刊現代』増刊・三島由紀夫緊急特集号「自由ヶ丘の私のジムに週2回、通ってこられるようになりました。1回、1時間程度の練習を2年ぐらいつづけられました。私のところをやめたあとも10年間つづけたそうで、その意志の強さには敬服しますが、三島さんの目的は、肉体の表面を美しく見せるにはどうしたらいいかといったものだけで、体育の本質には迫らず、本物を追求する精神はなかったようです」 三島由紀夫は本物ではなかった……それはあまりに痛烈な一言でした。
<おまけ2>
作家の安部譲二は、三島由紀夫と親交があり、三島にボクシングジムを紹介したと語っています。安部によると、「三島は頭を使う仕事だから、頭は殴らないでくれ」とトレーナーに頼んでいたため、手を抜かれたことに気づいた三島が怒ってボクシングをやめ、ボディビルに転向したことになっています。ですが、実際はボディビルが先です。三島にとって重要なボディビルの話を混乱して語ってるわけで、安部譲二の話はウソとは言わないまでも、話半分で聞いておいた方がいいかもしれませんね。
https://tanken.com/misima.html
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┃三島事件┃
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1970(昭和45)年11月25日(水)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
映像◆アナザーストーリーズ 松嶋菜々子「三島由紀夫 最後の叫び」 [運命の分岐点] https://youtu.be/HOx5_GEx4YM
2019(令和元)年10月08日(火) 第131回「三島由紀夫 最後の叫び」
1966(昭和41)年09月02日(金) 43:23『LIFE』
1966(昭和41)年09月02日(金) 43:29『LIFE』三島腕相撲BODY写真◆
1968(昭和43)年10月17日(木) 44:54 ノーベル文学賞発表
映像◆三島由紀夫 最後の演説https://youtu.be/_oNMABlVRtM
昭和45年11月25日市ヶ谷駐屯地にて、最後の演説をして、割腹自決しました。ヤジと怒号が飛ぶ中、最後の訴えをした三島由紀夫氏です。
https://ameblo.jp/jam512412/entry-12590017349.html
映像◆三島由紀夫 森田必勝 憂国忌https://youtu.be/Qr1N17WBY3w
1990(平成二)年11月25日(日) 憂国忌20年祭 東京・九段
1990(平成二)年11月26日(月) 放送 筑紫哲也
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┃三島由紀夫┃
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1925(大正14)年01月14日(水) 生誕
1970(昭和45)年11月25日(水) 逝去
映像◆三島由紀夫 Yukio Mishima on WWII and Death -Full NHK Interview (1966) https://youtu.be/hLGMm6c_BCA
TransylvaniaBoogie
●終戦のとき、私は終戦の詔勅を親戚の家で聞きました。と申しますのは、東京都内から離れた所の親戚の家に私どもの家族が疎開をしていまして、そこへたまたま私が勤労動員で行っていた海軍の工場から帰っていたのですが、なぜ帰っていたかというと、ちょうどチブスらしい熱を出しまして、そして帰ってしばらく静養していた時期に当たっております。そして詔勅を聞くとすぐまた自分の職場へ帰って後始末をしたのですが、終戦の詔勅自体については私は不思議な、感動を通り越したような空白感しかありませんでした。それは必ずしも予期されたものではありませんでしたが、今までの自分の生きてきた世界がこのままどこへ向かって変わっていくのか、それが不思議でたまらなかった。そして戦争が済んだら、あるいは戦争が負けたらこの世界が崩壊するはずであるのに、まだ周りの木々の緑が濃い夏の光を浴びている。ことにそれは普通の家庭の中で見たのでありますから、周りに家族の顔もあり、周りに普通のちゃぶ台もあり、日常生活がある。それが実に不思議でならなかったのであります。それから間もなく神奈川県高座の海軍工廠、つまり勤労動員先へ帰りまして、友達といろいろ話し合った。当時はもう残っていた学生もわずかでありましたが、そこで目にした2つのことが非常に印象が深かった。一つは厚木航空隊その他からどんどんどんどん物資やなんかを運んで、兵隊たちがトラックを徴発していってしまう。我われの使うべきトラックも何もない、そういう状態の中で、しかしアカデミズムの連中は非常に意気軒昂としておりました。私どもの周りにおりました法律学関係のアカデミズムの若い学者たちは、「これから自分たちの時代が来るんだ」「これから新しい日本を我々が建設するのだ」と、「今こそ軍閥の悪夢が終わって、新しい知的な再建の時代が始まるんだ」と、いわば誇張して言えば欣喜雀躍という様子でありました。私は今も昔も疑り深い人間でありますから、そう様子を見ていて、「へへえ、そんなもんかな」と思っていた。「いったい知的に再建するって何のことだ」「日本の精神的な再建って何のことだ」と。私がそのとき感じました疑問は20年ずっと尾を引いておりまして、やっぱり彼らは何もしなかったんじゃないか、というようなことを感じるようになりました。私の今までの半生の中で、20歳までの20年は軍部が色々なことをして、軍部のおそらく一部の極端な勢力でありましょうが、それがあそこまで破滅的な敗北へ持って行ってしまった。そのあと20年は一見太平無事な時代が続いているようでありますが、結局これは日本の工業化のおかげでありまして、精神的にはやはり何ら知的再建というに値するほどのものがなかったのではないかと。ちょうど40年、41歳の私はちょうど20歳の時に迎えた終戦は自分の人生の目処として、そこから自分の人生がどういう展開をしたかということが、考える一つの目処になっております。これからも何度も何度もあの8月15日の夏の木々を照らしていた激しい日光、その時点を境に一つも変わらなかった日光は、私の心の中でずっと続いて行くだろうと思います。
●リルケが書いておりますが、現代人というものはもうドラマティックな死ができなくなってしまった。病院の一室で一つの細胞の中の蜂が死ぬように死んでいく、というようなことをどこかに書いていたように記憶しますが、今、現代の死は病気にしろあるいは交通事故にしろ、なんらのドラマがない。英雄的な死というものもない時代に我われは生きております。それにつけて思い出しますのは18世紀頃に書かれた『葉隠』という本で、「武士道とは死ぬことと見つけたり」というので有名になった本ですが、この時代もやっぱり今と似ていた。もう戦国の夢は醒めて、武士は普段から武道の鍛錬はいたしますが、なかなか生半なことでは戦場の華々しい死なんてものはなくなってしまった。その中で汚職もあれば社用族(注:斜陽族のもじり。誤記にあらず)もあり、今で言えばアイビー族みたいな者も侍のあいだに出てきた時代でした。その中で『葉隠』の著者はいつでも武士というものは一か八かの選択のときには死ぬ方を先に選ばなきゃいけない、ということを口を酸っぱくして説きましたけれども、著者自身は長生きして畳の上で死ぬのであります。そういうふうに武士でもあっても結局死ぬチャンスが掴めないで、死ということを心の中に描きながら生きていった。しかし今の我々は死を描きながら生きているのかどうか、それさえ疑問であります。私の死と一番親しかった時代は戦争中で、戦争が済んだとき20歳だったので、10代の私どもは「いつ死ぬか」「いつどうやって死ぬか」ということだけしか頭の中にない。そういう中で20代まで行ったのでありますが、それを考えますと今の青年には、それはスリルを求めることもありましょう、あるいは「いつ死ぬか」という恐怖もないではないでしょうが、「死が生の前提になっている」という緊張した状態にはない。そういうことで、仕事をやっていますときに、何か生の倦怠と言いますか、ただ人間が自分のためだけに生きようということには卑しいものを感じてくるのは当然だと思うのであります。それで、人間の生命というものは不思議なもので、自分のためだけに生きて自分のためだけに死ぬっていうほど人間は強くないんです。というのは人間は何か理想なり、「何かのため」ということを考えているので、生きるのも自分のためだけに生きることにはすぐ飽きてしまう。すると、死ぬのも「何かのため」ということが必ず出てくる。それが昔言われた大義というものです。そして大義のために死ぬっていうことが人間の最も華々しい、あるいは英雄的な、あるいは立派な死に方だというふうに考えられていた。しかし今は大義がない。これは民主主義の政治形態っていうものは大義なんてものはいらない政治形態ですから当然なんですが、それでも心の中に自分を超える価値が認められなければ、生きていることすら無意味になるというような心理状態がないわけではない。ことに私、自分に帰って考えてみますと、死を「いつか来るんだ」と、「それも決して遠くない将来に来るんだ」というふうに考えていたときの心理状態は今に比べて幸福だったんです。それは実に不思議なことですが、記憶の中で美しく見えるだけでなく、人間はそういうときに妙に幸福になる。そして今、我われが求めている幸福というものは生きる幸福であり、そして生きるということはあるいは家庭の幸福であり、あるいはレジャーの幸福であり楽しみでありましょうが、しかし、あんな自分が死ぬと決まっている人間の幸福というものは今はちょっとないんじゃないか。そういうことを考えて、死というものを、じゃあお前は恐れないのか。それは私は病気になれば死を恐れます。それから癌になるのも一番いやで、考えるだに恐ろしい。それだけに何か、もっと名誉のある、もっと何かのためになる死に方をしたいと思いながらも、結局『葉隠』の著者のように生まれてきた時代が悪くて、一生そういうことを想い暮らしながら、畳の上で死ぬことになるだろうと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB
https://ameblo.jp/jam512412/entry-12584825987.html
■1971(昭和46)年05月25日(火) 日本プロレス協会
「現段階では時期尚早」アントニオ猪木のジャイアント馬場への挑戦表明を受けての日本プロレス協会と日本プロレス興行の見解。ジャイアント馬場とアントニオ猪木を日本プロレスの「両輪」として認めているからこその見解だと言える。この時期に子供だったプロレスファンは、この一連の出来事で「時期尚早」という四字熟語を覚えた
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■猪木映像◆'89格闘衛星 日米ソ三国対抗戦シリーズ
‡1989(平成元)年05月25日(木) 大阪城ホール
アントニオ猪木 VS ショータ・チョチョシビリ
https://njpwworld.com/p/s_series_00326_01_04
1989(平成元)年06月16日(金) アントニオ猪木
「来月の23日に行われます異種格闘技戦に備えて、このシリーズは十分体調を整えて頑張って参りたいと思います」
‡1989(平成元)年05月25日(木)の大阪城ホール、チョチョシビリとの再戦以来リングに上がっていないアントニオ猪木。再婚、参議院選出馬表明、と新聞・週刊誌を賑わせていたが、この日久しぶりに後楽園ホールに来場した。そしてメインイベントの試合を終えた長州力がリング上から猪木を呼び込んだ。
(長州)「猪木さん、リングに上がってください」そして猪木がリングイン。(長州)「猪木さんは我々門下生にも今まで十分すぎるほどのものを与えてくれました。次は猪木さんに好きなことをやらせてください。猪木さん、今から好きなことをしてください。我々は猪木さんの闘魂をなくしませんから、安心して、今一番やりたいことを本当にやってください」
(マサ齋藤)「猪木さん、若いやつがそう言ってるんです。レスリングは、リングは長州に任せて、あとは猪木さん、好きなことを十分にやってください」
(猪木)「もう、新聞・週刊誌でご存じかと思います。えー、結婚しました」選挙に向けての挨拶かと構えていた観客対して、まずはつかみの一言。そして
(猪木)「それと、来月の
1989(平成元)年06月23日(金)に行われます異種格闘技戦に備えて、このシリーズは十分体調を整えて頑張って参りたいと思います。よろしくお願いします」猪木は新日本プロレスの選手全員から新しいチャレンジを祝福され、リング上にいた選手と握手を交わした。新日本プロレスとしては、会社のステータス、プロレスのステータスのアップのためにも是非、猪木に当選して欲しかった。ただ、猪木にリングから退いてもらうことで、自由なプロレスができるという思いも強く、そのためにも猪木の政界進出を一丸となって支援していたともいえる。あまりにも手放しで喜ばれるのは複雑な心境だと思われるが、そんなことは気にせず、夢に向かって突き進むのが猪木の真骨頂だ。
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「なぜか満額払ってきた」4630万円誤振込事件で新展開 決済代行業者から約9割が町に返還…一方ミスとは直接関係のない新人職員に対するデマ被害も
‡2022(令和四)年05月25日(水) 13:01配信 TBS NEWS DIG Powered by JNN
4630万円の誤振込に揺れる山口県阿武町。花田町長は、9割に当たる約4300万円を法的に確保したと明らかにしました。一方、ミスとは直接関係のない町の新人職員に対するネット上でのデマ被害も。
■「取り立て命令を出したら、彼らがなぜか・・・」
2022(令和四)年05月24日(火)午前11時から始まった阿武町の会見で、冒頭、花田町長は新たな事実を明かしました。
阿武町 花田憲彦町長「本日現在、合計で4299万3434円を法的に確保することが出来ました」田口翔容疑者に町が誤って振り込んだ4630万円のうち、9割にあたる約4300万円を「確保できた」と発表したのです。金は田口容疑者がネットカジノで利用していたという決済代行業者3社からそれぞれ返還されたと言います。しかし、疑問も残ります。田口容疑者は「金はすべてネットカジノに使った」と供述していたのです。代理人弁護士も“残金はなかった”と説明していました。
2022(令和四)年05月20日(金) 田口容疑者の弁護士「本人からは海外のカジノサイトで全て使ったというふうに私は聞いております」
■すべて負けた?
田口容疑者の弁護士「本人の言っていた表現としては『すべて使った』。勝ち負けという表現をするのであれば『負けた』ということになると思う」町の依頼で回収にあたった中山弁護士も 口座に「金は残っていなかった」との認識を示した上で、こう話しました。
■田口容疑者の代わりに(決済代行業者が)肩代わりして払っている?
中山修身弁護士「それは分かりません。彼らに取り立て命令を出したら、彼らがなぜか満額払ってきた」決済代行業者が田口容疑者から振り込まれた金額を全て返還したと明かしたのです。
■「差し押さえ」と「取り立て命令」渡した翌日に全額返還■では今回、阿武町はどうやって約4300万円を確保したのでしょうか。田口容疑者は町から誤って振り込まれた金をBとCの銀行とそれぞれ取引している甲・乙・丙の3つの決済代行業者に入金しました。この3社は、日本国内において賭博罪にあたる可能性があるネットカジノの決済を代行していました。
中山修身弁護士「『マネーロンダリングになりかねないような疑わしい取引にB・C銀行は関与しておられますよね、それは金融庁に届け出をしなきゃいけないんじゃないですか』というような要請書を発送いたしました」そして、中山弁護士は田口容疑者が税金を滞納していたことから、この3社に対して「差し押さえ」と「取り立て」の処分を行ったのです。
中山修身弁護士「職員は東京に出張しまして、3つの会社の事務所にも行って、差し押さえと、即時に払えという取り立て命令の紙を置いて帰りました」
2022(令和四)年05月19日(木)に町の職員が山口・阿武町から上京して、3社に文書を渡したといいます。すると翌20日、田口容疑者が3社に入金した金の満額が返還されたのです。
─―3社のリアクションは?
中山修身弁護士「最初に申し上げた理由から、捜査にも迷惑かけるかもしれないし。非常に微妙な経営情報になりますんで、これはもう喋りません」
■返還された金の出どころは?■焦点は返還された金の出どころです。元大阪地検で検事をつとめた亀井弁護士は2つの可能性が考えられるといいます。
元大阪地検検事 亀井正貴弁護士「田口容疑者が送った資金がプールされている可能性、もう一つは現実にカジノに使われてしまって無くなって、立て替えて業者が支払った可能性、この2つが考えられると思いますね」亀井氏自身は業者が立て替えた可能性は「低い」と受け止めていますが、 仮に立て替えた場合の動機についてこう指摘します。
亀井正貴弁護士「町によって行政手続きとか民事手続きを進められたりですね、あるいは捜査によって(事業の)内容を洗われてしまう。総合的に判断してこの案件から離れたほうがいいという判断はあり得ると思います」今後の捜査で、金の流れが解明されるのか、注目されます。
■「犯罪者じゃない人の特定をして顔写真まで載せるというのは、これも犯罪だと思う」■事件を巡っては、新たに“誹謗中傷”の被害が問題となっています。
2022(令和四)年05月24日(火)、阿武町の会見を静かに見つめる男性。男性の息子は、4月に阿武町役場に入ったばかりの新人職員です。配属先は、給付金の振り込みなどを行う出納室でした。今回の事件が明るみに出ると、「ミスをしたのは新人職員だ」という“誤った情報”が出回るようになりました。
阿武町 新人職員の父親「僕も息子を信じてはいるんですが、ちょっと心配になってネットで検索をしてみたんですよね。そしたらもろに“特定した”という サイトが一番上に出てきて、もろに顔写真まで出ていたので。これはちょっとどうにかしなきゃいけないんじゃないかと」なんと、今回のミスとは直接関係のない息子の名前や顔写真が出回っていたのです。父親によると、出納室は2人体制。3月までは室長とベテラン職員で業務を行っていましたが、4月にベテラン職員が異動し、新人職員の息子と室長の2人で作業することになったといいます。誤送金のミスが起こったのは、そのすぐあとのこと。
阿武町 新人職員の父親「息子に聞いたら、上司の方からこれを銀行の方に持って行ってくれと、クリアファイルみたいなものと、そのときにフロッピーとか書類とか入っていたみたいなんですけども。それを銀行まで持って行ったということでしたね」
─―フロッピーの作成とかに関わっていない?
阿武町 新人職員の父親「そうですね、全く。渡されたものを出しに行ったと」父親によると、新人職員の息子は、書類などを銀行に持っていっただけで、給付金のミスとは直接関係ないということでした。しかし、ネット上では
「〇〇を追い込め!」
「貴方にも責任はある」
「〇〇くんが犯人ってマジなん」といった誹謗中傷が相次ぎます。
阿武町 新人職員の父親「息子が嫌だったということが『(田口容疑者と)グルじゃないか』と疑われたことですね。犯罪者じゃない人の特定をして顔写真まで載せるというのは、これも犯罪だと思う。本当にやるせないですよね」阿武町も対応に追われています。
阿武町 花田憲彦町長「事件の公表以来、1日数百本の電話が鳴り続け、罵詈雑言を浴びせられることが多々ありまして、職員は本当に疲弊を極めています。『元の原因を作ったのは自分たちだろう』と言われれば返す言葉はありませんけれども、どうか節度ある対応を宜しくお願いしたいと思います」
https://news.yahoo.co.jp/articles/eae1f59ab9793d3aa42a54b8b5fd003f97eb4f43
削除URL◆昭和の動画 昭和60,61年 http://youtu.be/RDEHGkhZFPg
削除映像◆1985 昭和60年ニュースダイジェスト http://youtu.be/LpjhqCtZQ4s
日本航空123便墜落事故 発生当時は謎だらけで、事故直後米軍が墜落位置を把握していた事から、ミサイル誤射説-まで飛び交いました。生存者がいたのが奇跡だった。
NTT発足 国鉄分割民営