過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)

 ユーミン 真実の愛語る「続くならルール違反。悲しむ人がいるのはいけない」
†2020(令和二)年02月03日(月) 
 2020(令和二)年02月02日(日) シンガー・ソングライターの松任谷由実(66)が2日、新潟・苗場プリンスホテルで、40回目の開催となる恒例のリゾートコンサート「SURF&SNOW in Naeba」をスタートさせた。
  ◇  ◇
 ちまたでは俳優・東出昌大(32)と唐田えりか(22)の不倫が話題だが、ラブソングの名曲を数多く生んだユーミンは、不倫について「好きになった結果がそれなら仕方がないけど、続くならルール違反。悲しむ人がいるのはいけない」と喝。真実の愛を「その人の環境も含めて全て愛するということ」とし、「それも含めて愛せないとダメ。その場の快楽だけを求めるということになりますよね」と説いた。自身はキーボード奏者でプロデューサーの松任谷正隆(68)と76年に結婚し、今年で45年目。
 https://www.daily.co.jp/gossip/2020/02/03/0013084709.shtml

 松本人志、ついに140キロ上げた「握手して下さい以外に抱き上げて下さいも受け入れるか!」
‡2020(令和二)年02月03日(月) 15:08 報知新聞社配信 
「ダウンタウン」の松本人志(56)が3日、自身のツイッターを更新。ついにベンチプレス140キロを持ち上げたことを報告した。鍛え上げた肉体美を誇る松本は「ジムでとうとう140キロを挙げた!」と歓喜の声をつづった。
「これからは街で握手して下さい以外に抱き上げて下さいも受け入れるか!」と新しいファンサービス構想をぶち上げ、「抱いて抱いて抱きまくるかー!」と気合を入れていた。フォロワーからは「抱いてください!」「抱き上げてください絶対言うからな!!!!!!」「まずは浜田さんを抱いてあげてください」「僕120kgですが大丈夫そうですね」などの声が寄せられている。
 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200203-02030112-sph-ent

【ダイヤモンド・プリンセス号】下船から約3か月、乗客に振り込まれた「高額返金」 
 2020(令和二)年05月04日(月) 11:00 週刊女性PRIME [シュージョプライム]
 2020(令和二)年03月25日(水)写真◆週刊女性PRIME 消毒を終え、すでに3月25日に横浜港を発っているダイヤモンド・プリンセス号 
「クルーズでかかった費用は全額、すでに返金されています。私たち夫婦は16日間の旅で2人分の旅行代50万円のほかに、食事代、酒代、お土産代などの20万円。合わせて約70万円のすべてが、すでに振り込まれています」そう話すのは、静岡県在住の海野忠雄さん(仮名)。乗船していた日本人およそ1200人のうち、新型コロナウイルスによる感染者723人と、死者13人を出した豪華客船「ダイヤモンド・プリンセス」号の元乗客だ。
■船内で感じていた不安 ⇒ こんな“迷惑料”も払い込まれたという。「クルーズ船までの交通費や途中、宿泊したホテル代のほかに50万円相当のクーポンもついてきました。来年2月までにクルーズ旅行に予約すれば充当でき、別の旅行にも使えるようです」(忠雄さん)夫妻は
 2020(令和二)年01月20日(月)から16日間の予定で乗船したが、
‡2020(令和二)年02月03日(月)に沖縄で船内に感染者が出たために急きょ、横浜港に寄港することになった。
「どの部屋から感染者が出たとか、何人出たとか、現場にいるのにまったくわからないのが不安でした。そういう情報は、テレビやインターネットで知る程度でした」(同)当初は部屋の外に出ることは禁止され「隔離」の状態が続いたが、徐々に緩和され気分転換もできたという。当時、船内に入った医療チームの発表では、「死にたい」「飛び降りたい」と不調を訴える客もいたようだが、妻の育子さん(仮名)は振り返る。
「私たちは、精神的にまいったような人は見かけませんでした。でも、“あの人は今日、見ないね。感染したのかな?”という心配はありましたね。後は、PCR検査を待つ期間も、不安は正直、ありました」下船後は2週間の自宅待機となったが。育子さんは、とりわけ1週間が山だと考えていたそう。
「その間、発病しなければ大丈夫だろうと。それを越えて2週間も過ぎて、ようやく安心しました」しかし、忠雄さんはさらに2週間が必要だと考えていた。
「用心に用心を重ねてね。それも無事に過ぎて、よかったですよ。このゴールデンウイークに、近場にいる娘と孫にようやく会えるんです」そう期待を膨らますが、外出自粛要請が続くなか、さらなる我慢が必要かもしれないさらに、クーポンがあるからというわけではなく、クルーズ旅行もあきらめていない。
「何よりクルーズ船は設備も食事も整っていて楽しいんですよ。大変な目にはあいましたけど、クルーは本当によく働いてくれて私たちを励ましてくれました。だから、もう1度、乗ってみたい気持ちはあります」(忠雄さん)再びダイヤモンド・プリンセス号に乗れる日まで、海野さん夫妻は粘り強く、待ち続けるつもりだ。
◎良かったですね。でも一番の問題は、この感染対応に、日本政府は、幾ら掛かったのでしょうか。税金が投入された筈で、その返金の方が大事な気がします。返信 2件 1450 95
◎乗りたいと思うのは個人の考え方。でもこれだけ感染者出して、日本は大変でした。今、日本は大変な状況になってるのに富裕層のクルーズ船の感想なんて記事にする必要があるのか、自分たちは助かった。返金してもらったなんて、わたし個人的には関係ないし、おめでたい人と思うだけです。返信 8件 1212 144
◎日本の大感染はダイヤモンドプリンセスの受け入れを始め、海外渡航者が始まりだろうからな。例え日本人が居たとしても受け入れなんてするべきじゃなかったと考える。大勢を救うためには少ない犠牲も時として必要だった。返信 3件 840 139
 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200504-00017783-jprime-soci
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 ┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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 1901(明治34)年02月03日(日) 慶応義塾の創設者、福沢諭吉が死去 ⇒ 明治を代表する啓蒙思想家で、慶応義塾の創設者でもある福沢諭吉(写真)が66歳で死去した。欧米に3回渡航し、その経験を書物に著すなどして啓蒙活動を展開。「学問のすゝめ」では冒頭で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と説いた。1984年から1万円札の肖像となっている【時事通信社】
 1966(昭和41)年02月03日(木) ソ連の無人探査機が世界初の月面軟着陸に成功
 1972(昭和47)年02月03日(木) 日本で初、札幌で冬季五輪開幕
 https://www.jiji.com/jc/daily
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 ┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2004(平成16)年02月03日(火) 大魔神・佐々木主浩、日本復帰会見 
‡2018(平成30)年02月03日(土) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は2月3日だ。 
 写真◆5年ぶりにベイスターズの一員となった佐々木(中央)
 2004年1月20日、4年間にわたるマリナーズでのプレーに終止符を打ち、日本球界への復帰を表明していた佐々木主浩。その後、メジャーでのウエーバー公示を経て(名乗りを挙げた球団なし)、2月3日、古巣の横浜ベイスターズと正式契約。同日午後6時から横浜市内のホテルで入団発表会見に挑んだ。 
「ウエーバーの段階ではどうなるのだろうと思ったが、ホッとしています。チームのため、ファンのために投げていきたい」 
 力強く佐々木は決意を語った。 
 今回、日本球界では日本ハムも獲得に動いたが、「横浜に復帰する決め手となったのは、自分をここまでにしてくれた球団だし、愛着があるから。もう一度ベイスターズで日本一になりたい」とも。 
 背番号は「22」に決定。これまで「22」の吉見は「21」、「21」の若田部は「14」にそれぞれ変更となっている。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180203-11
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.095 ┃  30円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1960(昭和35)年2月03日(水)号 特集 実力の世界の学歴争い 12球団戦力検討
 2018(平成30)年1月30日(火) 7:05 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。おかげ様で、まもなく通算3500号を迎える。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎特別読み物『親父の胸中は息子が知っている』
 写真◆表紙は中日・森徹
 今回は『1960年2月3日号』。定価は30円だ。巻頭グラビアは『ゴールデンボーイの誓い』。巨人・長嶋茂雄が地元千葉の成田山に護摩たきに訪れた際のもの。常に少年ファンが取り囲み、すさまじい人気がうかがえる。後ろグラビアは『サイちゃんスピード結婚』。西鉄の稲尾和久は、さすがにプライベートも“速い”。見合いから婚約まで、わずか20日間だったそうだ。 
 巻頭特集は『実力の世界の学歴争い~対立するプロ野球の大学出と高校出』。巨人はこの差がかなり激しいらしく、移動の際、大学出の新人・長嶋茂雄が二等車なのに、すでにレギュラーだった5年目の藤尾茂は高卒もあって三等車。藤尾は烈火のごとく怒り、「俺の息子は何が何でも大学を卒業させる。この悔しさは忘れない」と言ったという。逆に高卒の妬みでつぶれた大卒選手の話もなども載っている。 
 対談は『エースの一騎打ち』。南海・杉浦忠、巨人・藤田元司の登場だ。藤田は肩、杉浦はヒジの痛みについて語り合っている。59年は杉浦が69試合、371回3分の1に投げ、38勝4敗、日本シリーズ前に肩痛で離脱もあった藤田が55試合、330回に投げ、27勝11敗……確かに大変だ。 
『新装12球団の戦力検討』では野球評論家・児玉利一、竹中半平、南村侑広が全チームの戦力分析。それによればパの優勝候補は大毎、対抗は南海でダークホースは東映、セは巨人、中日、阪神の順だった。3人が口をそろえたのが「王をもっと使え」。竹中は 
「王が伸びるまで我慢できるかできないかだ。巨人に入ったらみんなそうだよ。若い連中で、もう少し使えば芽が出るやつを我慢できないで、ほかのやつに代えるんだよ。これの繰り返しだから、だれも平均して伸びないんだ」 
 なお、この時代、二軍のリーグ戦はなく、セでは二軍選手のコンプレックスをなくすため、「二軍」という言い方自体をなくそうという話になっていたらしい。 
 特別読み物では『親父の胸中は息子が知っている』。登場するのは大洋・三原脩監督の次男。帝国ホテルで西洋料理の修行中だった。兄は天ぷら屋で日本料理を学び、これらは三原監督がいずれはホテル経営に乗り出したいという意向があったためという。 
 では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.297 ┃  40円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1964(昭和39)年2月03日(月)号 長嶋茂雄のグラウンドの恋人去る
 2018(平成30)年9月13日(木) 9:20 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎打撃投手第1号・近藤隆正、退団
 写真◆表紙は左から西鉄・田中勉、稲尾和久、安部和春
 今回は『1964年2月3日号』。定価は40円だ
 各地のキャンプ情報満載号だ。 
 先日、現役選手でありながら、ほぼ打撃投手としてしか使ってもらえなかった巨人・近藤隆正投手が怒っているという話を書いた。 
 近藤は主にONの打撃練習に投げ、“ONの恋人”とも言われたが、結局退団したようだ。 
 宮崎キャンプで汗を流していた長嶋は、人に託し、大分県の故郷に帰った近藤に時価50万円の日本刀を贈った。 
 長嶋は、「近藤のことは忘れられんな。キャンプに熱が入ると、彼が恋しくなるよ。いつでもいいから東京に来たら会いに来てくれ」と伝言した。 
 近藤は所用でその人と会えず、日本刀は弟が受け取り、その際、弟は兄からの伝言として、 
「巨人軍で長嶋さんに可愛がられたことをとても大切な思い出だと言っています。どうかグラウンドの恋人は去っても、今度は本当の恋人を決めて1日も早く結婚してください」 
 と言ったとか。 
 映画「勝利の旗」は完成したようだが、そこに入れたくなる逸話。ただ、いい悪いではなく、長嶋茂雄が多少神格化されつつある雰囲気もある。 
 ジプシー後藤の9球団目は?
 ジプシーと言われ、球団を渡り歩いた左腕・後藤修の手記があった。181センチとしては当時としてはかなりの長身。しかも左腕だ。常に各チームのコーチングスタッフに「可能性」を感じさせたのが、流浪の人生につながったともいえる。 
 後藤は磐田南高から52年、松竹ロビンス入り、そこで新田恭一から投手理論を学んだ。 
 この新田という人は、やや理論優先のきらいはあったが、かなり論理立てて投球、打撃を解析した指導者だった。のちゴルフの指導者となった後藤の源流とも言えるだろう。 
 実際、新田の打撃術は「ゴルフ理論」とも言われた。いかにヘッドを利かすか、という考え方だったのだろう。 
 ただ、翌年松竹は大洋と合併し、洋松ロビンスに。この年の途中から外野手になったが、翌54年、松竹勢一掃の流れとなり、後藤もクビに。 
 55年、今度は東映に拾われ、投手復帰。初めて一軍登板も果たしたが、1年で再び整理選手となり、今度は大映にまたも外野手で入団。 
 すぐ投手に戻り、同年キャリアハイの6勝(12敗)。 
 1年で巨人へ。もしかしたらこれで唯一のヘッドハンティングだったかもしれない。 
 57、58年を投手で過ごした巨人は「充実していた」という。しかし59年、監督となった千葉茂を追うように近鉄へ。「なぜ巨人を飛び出したかは言いたくない」とあった。 
 近鉄時代、周囲から変人、変人と言われた後藤が千葉監督に聞いたことがある。 
「千葉さん、僕は変人じゃないですよね」 
 すると千葉は、 
「お前も変人かもしれんが、ワシも変人や。大阪くんだりまで来て、このざまだ」 
 と答えたという。近鉄は最下位にあえいでいた。 
 61年、今度は南海へ移り、63年は西鉄へ。若林忠志コーチに買われてだったと以前に記事にあったが、この手記では、62年途中に西鉄に移り、若林のコーチ就任はその後とある。 
 当時、周りからは「東京から大阪、今度は九州。次は海外か」とからかわれたともあった。 
 いずれにせよ、63年限りで西鉄をまたも解雇。中西太監督と合わなかったらしい。 
 この手記は、阪急のキャンプに参加し、テストを受けていたときのものだったが、阪急に在籍した記録はない。不合格だったようだ。 
 写真2枚目、アップ失敗しました。今回は断念します。 
 またあした。<次回に続く>
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180130-12
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180912-02
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③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.563 ┃  60円
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‡1969(昭和44)年02月03日(月)号 巨人・金田正一20年生の新たな決意
 2019(令和元)年10月07日(月) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎リリーフ専門は嫌だ
 写真◆表紙は左から阪神・江夏豊、村山実
 今回は『1969年2月3日合併号』。定価は60円。
 訃報が飛び込んだ夜、今回の号を開いた。
 もしかしたら、と思ったら、 
 巻頭から、ねじり鉢巻きでジャンプする写真があった。千葉県・館山の自主トレ風景だ。キャプションをつけるなら、 
「やったるで!」か。
 抱負も語っていた。 
「ワシはことし引退をかけた年だと思うんや。15勝できなんだらあっさり野球と縁を切る。もちろん20勝を狙う」 
 昭和8年生まれのとり年。1969年、公式戦でプレーすれば、西沢道夫(元中日ほか)、呉昌征(元毎日ほか)と並ぶ20年選手のタイ記録となる。投手専門としては初だ(この2人は投手歴もあるが)。 
 プロ2年目の1951年から14年連続20勝以上。65年巨人移籍後に途切れたが、それでも目標とする400勝まで、あと5勝に迫っていた。 
 ただし、前年は11勝(10敗)どまり。ヒジの故障にも苦しみ、球威は確実に落ちている。 
 周囲からは球数を限定した「リリーフ専門」を勧められるが(血行障害に苦しんだ南海・杉浦忠がしていたことがある)、いまだに「先発完投」にこだわっていた。 
「20年目? 冗談じゃない。その言葉はワシは口にせんつもりや。プロ野球選手が年齢を意識すると、ついその気になって老け込んでしまう。ワシは毎年新人のつもりでやる。 
 リリーフ転向もいやや。投手のだいご味はなんというても先発完投やで。初めからリリーフ専門なんて考えると、結局はリリーフが精いっぱいのヘナちょこに成り下がってしまう。ワシはいややで」 
 負けず嫌いもここまでいくと、感心するしかない。 
 今回の自主トレでは毎日2時間走り、例年以上に体をいじめているという。 
 掲げたテーマは「革命」だ。 
「ワシには自己暗示が必要や。まだやれるんやと自分に言い聞かせるんや。去年はスタミナが切れたが、今年は今から走り込んでスタミナ蓄積を心掛ける。やればやるだけ、自己暗示もかけやすい」 
 信条は「人に甘えない」だった。 
 20年前にプロ野球の道を選んだのも、その考えからだという。 
「ワシは人に頭を下げるのが嫌いやった。若いころからワシという男はそうやった。プロの道は人に頭を下げんでいい代わりに、誰も頼れん。自分の力だけしか頼れん世界や」 
 この号には「ロッテオリオンズ誕生話」もあったが、それは次回としたい。 
 週べにはインタビュー、連載手記と何度も登場いただいた。当時の記事を読むと、頭の回転の速さ、毒舌ながらユーモアがあり、一線を越えぬセンスのよさがあった。 
 何より、ブレない強さには感服するしかない。 
 空前絶後の大投手・金田正一。ご冥福をお祈りします。 
 では、またあした。<次回に続く>
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④┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.564 ┃  60円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1969(昭和44)年02月03日(月)号 ロッテ・オリオンズの誕生
 2019(令和元)年10月08日(火) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎コント55号で背番号変更
 写真◆表紙は左から阪神・江夏豊、村山実
 今回は『1969年2月3日号』。定価は60円。 
 前回に続き2月3日号からいく。 
 1969年1月15日のスポーツ紙で、東京オリオンズとロッテの業務提携がすっぱ抜かれた。 
 ただ、提携自体はスクープでもなんでもなく、ずっと「どこが」が話題になっていた。 
 東京は赤字の垂れ流し状態が続き、永田雅一オーナーがこれまで球団につぎ込んだお金は15億と言われた。うち大映本社からの借入金が12億、永田オーナー名義が6億という。 
 業務提携先探しは切実だったが、実は、これまでにも手を上げた会社は何社かあった。 
 しかし、いずれも永田オーナーの「スポンサーではあるが、球団の経営・人事にはノータッチ」の条件が引っ掛かり、立ち消えになっていたという。 
 今回は韓国にも顔が利く岸信介元首相に加え、福田大蔵大臣も動き、ロッテ・重光社長との間をつないだ。 
 条件は5年契約、年間7000万円の援助金(球団名使用料)、球団の赤字12億円の半分6億円の援助(5年間利子なし)、球団の人事、経営権にはノータッチの5つだったという。 
 正直、かなり永田寄り。重光社長も「社内ではかなり反対がありました」と明かす。 
 ロッテ側は貿易の自由化が進む中で外資系のガム、チョコレートに対抗するため、岸氏に恩を売りたかったのではとも言われた。 
 ちなみに陰の演出者と言われたのが岸の秘書・中村長芳。永田オーナーはその手腕にほれ込み、球団副会長のポストで誘っているという。 
 広島の白石静生が背番号を13から55に変えた。13時代はケガが多かったこともあったというが、55にしたのは、人気が出だした「コント55号」からという。 
 ただ、その説明が、 
「ちっこい目とたれ目のコンビで昨年大当たりしたでしょう、あのコンビにあやかろうと」 
 欽ちゃん、二郎さん。まだ、そこまでメジャーじゃなかったかな。 
 では、またあした。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20191006-01
 ④https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20191007-02
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
 ┃ プロ野球仰天伝説 No.042 ┃ ONLINE
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
 牛島和彦の必殺フォークは指の関節が外れたから投げられた
‡2018(平成30)年2月3日(土) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 相手の裏をかく投球が真骨頂
 フォークもさまざまな変化で投げ分けた
 中日での若手時代から理論派として一目置かれた牛島和彦。新人時代、投手コーチの稲尾和久に「9回裏二死満塁、フルカウントで何を投げるか」と聞かれ、ほかの選手が、ストレートなど自分の得意な球を答えるなかで、牛島だけが「分かりません。どのような経緯でフルカウントになったかで違うから」と答えたという逸話もある。 
 快速球があるわけでもなく、武器はクレバーな投球術とフォーク。打者心理を読みながら、その裏をかく投球が真骨頂だった。 
 フォークに関しては、177センチと投手としては長身でもなく、指も長いわけではないから、スプリット系で落差があまりないものと考える人が多いだろう。しかし、実は違う。もちろん、スプリット系の球もあったが、落差の大きな、いわゆる本格的なフォークもしっかり投げた。 
 その秘密は、人さし指と中指の間が、関節が外れたようになって大きく開くからだ。これは球をはさみながらストレッチをしている際、突然、できるようになったという。落差を意識するときは、この2本の指だけではさみ、親指は添えないが、逆に親指をつける場所や力加減で回転をコントロールし、変化を加えることもあった。 
 牛島和彦(うしじま・かずひこ) 
 1961(昭和36)年4月13日(木)生まれ。大阪府出身。浪商高からドラフト1位で80年に中日へ入団した。82年に抑えとして17セーブを挙げて優勝に貢献。84年にはリーグ最多の29セーブをマーク。87年にはロッテへ移籍、26セーブポイントで最優秀救援投手に。以降2年連続リーグ最多セーブ。89年は先発に回って12勝を挙げた。93年限りで現役引退。2005年から2年間は横浜の監督も。主なタイトルは最優秀救援投手1回。通算成績395試合登板、53勝64敗126セーブ、防御率3.26
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180203-12
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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