NHKアルバム
‡1956(昭和31)年06月15日(金)
松山放送局寄与する
河野 快
平成とともに産声を上げた三つのビル、それぞれの運命 福岡流通戦争モノ語り(1)
2019(平成31)年01月08日(火) 03:00 福間 慎一
2019(令和元)年06月26日(水) 20:50 更新
‡1971(昭和46)年06月15日(火)写真◆ショッパーズプラザの開店を伝える本紙。<受けて立つ地元側も必死。(中略)ターミナルの岩田屋デパートでは「まあ、初日のバカ騒ぎですよ」と冷静さを装っていたが、開店時は平日の4,5割の減少ぶりだった>とある
写真◆かつてのダイエーショッパーズプラザは今、イオンになっている
■“第1次”にはせる思い■平成とともに始まった「第2次天神流通戦争」。その先駆けとなった「第1次」の戦いは1970年代に繰り広げられた。博多大丸が呉服町から天神に移転、翌年には天神コア、天神地下街、ビブレ(当時はニチイ)、岩田屋新館が相次ぎ開業した。
(大塚)幼かったころ、日曜日に家族全員で来る天神は遊園地のようなものでした。「世界のは虫類展」、屋上のプレイランド、レストランで食べて、おもちゃ売場で遊び…。実はお金はあまり使いませんでしたが、商品との出会いがあった。まだ、当時は商品をみることがすでに「コト体験」でした。まだ高度成長期から間もない時代、消費者にとっても「モノが豊富にあること」が「楽しいコト体験」だったのではないでしょうか。終戦後に発足した新天町商店街から「黒船」と恐れられたのは、71年にダイエーが開店したショッパーズプラザだった。
(大塚)新天町は86の店舗がショッパーズの開店日に合わせてセールを打ちました。新天町60年史の言葉が印象的です。「86作戦、捨て身の特価奉仕」。かなり覚悟を決めています。これぞ「戦争」だったんだなあと。
(大塚)当時、天神の商業集積地と言えば新天町と岩田屋。ダイエーは天神にとって、今で言う大型ショッピングモール的な扱いでした。天神の中で「都心vs.郊外」が行われていたような構図でした。ダイエーを率いた故・中内?氏は福岡に並々ならぬ情熱をぶつけた。今は福岡にその姿を見ることがなくなったオレンジ色のマーク。次回はその栄枯盛衰と「遺産」をたどりたい。
https://www.nishinippon.co.jp/item/o/502820/
ハルク・ホーガン 対 アンドレ・ザ・ジャイアント (アームレスリング)
2013/06/15 00:41
https://www.nicovideo.jp/watch/sm21116220
基町高層アパート。戦後スラムの解消?日本初の高層アパート群【a】
2018(平成30)年11月04日(日) 建築 広島県 面白い
https://www.mirainoshitenclassic.com/2018/11/a.html
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映像◆ETV特集「“原爆スラム”と呼ばれた街で」
‡2017(平成29)年06月15日(木)は『ETV特集』
1964(昭和39)年05月26日(火) 35:13『中国新聞』原爆スラムという言葉、初登場
「原爆スラム解消へ-広島復興裏歴史-」広島市議会被害者対策 住宅確保など要望
1965(昭和40)年07月23日(金) 35:34『中国新聞』「廃墟からの道」立ちのき組が集中 一夜でバラックの町
任都栗 司 市議会議員(当時)「原爆スラム」という言葉の考案者
とにかく、広島で一番ひどい場所に「原爆スラム」の冠詞をつけ、住宅対策に役立てよう
1965(昭和40)年06月25日(金) 36:51 13:00~16:00「原爆被爆者住宅対策に対する建設省打合せ◎◎について」
1967(昭和42)年07月27日(木) 41:23 相生通大火:白黒映像
https://www.dailymotion.com/video/x7n2bim
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「原爆スラム」番組にヤンキーが映る理由 NHKディレクターの"ふんわり"手法
2017(平成29)年06月25日(日) 11:00『PRESIDENT Online』更科修一郎 #広島 #原爆
日本のテレビドキュメンタリーで「戦争もの」は大きなテーマだ。今年6月に放送された2本の番組のうち、1本は88歳による「伝統の集大成」だったのに対し、もう1本はまるで『ドキュメント72時間』のように「ゆるい」番組だった。だが、コラムニストの更科修一郎氏は、後者に込められた「青臭さ」を評価する。その理由とは――。
2017(平成29)年06月11日(日)『テレメンタリー2017』(テレビ朝日)は、「もうひとつのヒロシマ~88歳ディレクター 執念の取材~」であった。88歳のテレビディレクター、鈴木昭典がニュージーランドで70年間続いている「ヒロシマ・デー」というイベントを訪れる場面から始まる。原子爆弾投下後の広島に駐在した連合国軍はイギリス連邦軍が中心で、広島の惨状に衝撃を受けたニュージーランド軍兵士が帰国後に始めたのだ。鈴木の視点は、なぜ、日本から遠く離れたニュージーランドで「ヒロシマ・デー」が続いているのか、という疑問へ踏み込んでいく。現地の現代史研究家がマーシャル諸島の核実験後に生まれた奇形児(ジェリーフィッシュベイビー)の写真を紹介し、クリスマス島の核実験に参加した退役軍人たちへのインタビューが続く。そして、被爆の後遺症を抱える彼らへの染色体調査から、放射能被曝による染色体異常が彼らの子孫にまで影響していることが示唆される。その真偽はさておき、イギリス本国から離れたニュージーランドはイギリス連邦の核実験場であり、広島への原爆投下は遠い国の出来事ではなかった。イギリスが撒き散らした呪いが結果として、別の遠い国の惨劇を語り継ぐ運動を創り出し、1987年、デビッド・ロンギ政権時代に非核法が成立したが、鈴木がその成立経緯を知るジェフリー・パルマー元首相と面会する日に「偶然」、日本の核禁止条約交渉不参加が伝えられた。元首相は「当然」、失望のコメントをつぶやく。非核法の理念の元になったのは、日本国憲法だったのに、と。次に、鈴木はフランスが南太平洋で行っていた核実験を追っていく。1966年から193回の核実験を行ったフランスは、ニュージーランドなどの反対活動を受け、1996年、ようやく実験を停止した。フランス領だったタヒチ島の住民もまた、核実験の影響と思われる奇怪な健康被害を訴え、核実験被害者支援団体の代表やムルロア環礁の核実験場で働いていた男性へのインタビューが入る。取材を終えた鈴木が、戦争体験者の矜持から核廃絶と平和を訴え、映像は終わる。テレビドキュメンタリーとしては模範的な構成だが、88歳のテレビディレクター、鈴木の作為が随所に見え隠れする。そもそも、88歳のテレビディレクター、鈴木昭典とは何者なのか。
■テレビドキュメンタリーの基礎をつくった男■鈴木昭典の名前は、日本のテレビドキュメンタリーの歴史の中に見つけることができる。NHK『日本の素顔』の吉田直哉、日本テレビ『ノンフィクション劇場』の牛山純一のように、伝説化されてはいないが、朝日放送で『カメラルポルタージュ』(“ネット局腸捻転”時代のため、東京ではTBSで放送された)を手がけていた鈴木は関西の雄であった。1960年代、『日本の素顔』『ノンフィクション劇場』『カメラルポルタージュ』で用いられた手法は三者三様で、互いに影響を与えながら、絡み合う「語り」と「映像」で「時間」を捉えようとしていた。そして、日本のテレビドキュメンタリーの基本フォーマットを作り上げていくのだが、鈴木が名を残している最大の仕事は、政治学者・五百旗頭真と組んで制作した終戦占領史のシリーズであろう。「トップシークレット 救われた日本の分割占領」(朝日放送/1985年)では、アメリカ政府内部に於ける対日占領政策の推移を追い、定年退職後、自身の番組制作会社「ドキュメンタリー工房」で制作した「日本国憲法を生んだ密室の9日間」(朝日放送/1993年)では、ケーディス元GHQ民政局次長が自らの主導していた占領政策の正当性に固執する自己顕示欲もあったとはいえ、彼の部下であったベアテ・シロタ・ゴードンという無名の女性が人権条項の起草に携わっていた歴史的事実を発掘し、同名の単行本も刊行された。その「ドキュメンタリー工房」で制作された新作「もうひとつのヒロシマ~88歳ディレクター 執念の取材~」は、日本のテレビが半世紀以上かけて試行錯誤してきた伝統的テレビドキュメンタリー手法の集大成と言える。だが、伝統の集大成がすべて「正しい」とは限らない。たとえば、「もうひとつのヒロシマ~88歳ディレクター 執念の取材~」というタイトルがそうだ。誰が付けたのかは知らないが、「日本国憲法を生んだ密室の9日間」で老いたケーディスが自己顕示欲を隠さなかったような、微妙な疑念を抱いてしまうのだ。より具体的に言うと、ドキュメンタリーの最後を戦中派の心境吐露でまとめてしまう作為は、同世代には共感されるのだろうが、そうでない世代には、カメラが捉えたそれまでの事実に濁った印象を付け加えてしまう危険性もある。もっとも、洗練された技巧派の映画監督であった岡本喜八ですら、隙あらば戦中派の心境吐露を入れようとする悪癖があり、そのたびに観客を困惑させていたから、呪わしい記憶を抱えた世代の宿痾なのかもしれないが。
‡2017(平成29)年06月15日(木)は『ETV特集』(Eテレ)「“原爆スラム”と呼ばれた街で」の再放送を観ていた。矢部裕一ディレクターの一人称で語られる映像は、前述の「もうひとつのヒロシマ~88歳ディレクター 執念の取材~」と比べると「ゆるい」。しかし、冒頭、河川敷でバーベキューを楽しんでいる地元のヤンキーたちが原爆スラムの存在すら知らないと語る場面から入ったのは、このドキュメンタリーの意図をはっきりと感じさせた。そして、矢部が最初に思い出したのは、映画『仁義なき戦い 広島死闘篇』(1973年)だ。『仁義なき戦い』シリーズの大半は東映京都撮影所周辺で撮影されたが、この作品だけ広島ロケが行われている。1973年の広島にはまだ、辛うじて原爆スラムが残っており、いくつかの風景が「1950年頃の広島」として映っている。
■高度経済成長期のバラック住民たちを訪ね歩く■1978年まで、広島の爆心地近くの川岸に、家を失った人々の集落があった。1945年9月、原爆投下に続く枕崎台風の惨禍の後、広島大本営第五師団司令部の跡地に越冬用バラックを建てたのが発端で、これが「相生通り」と呼ばれるバラック集落へ発展した。現在の相生通りとは異なり、本川沿いの基町一帯に存在していた集落は1950年代に入ると、狭い路地の両側に老朽化したバラックと不法家屋が幾重にも立ち並ぶ迷路のようなスラムと化した。映像はかつて「相生通り」で暮らしていた人々の「現在」を追う形で進行していくが、手がかりとなるのは『日本の素顔』や『現代の映像』で撮ったわずかな映像と、1970年に広島大学が学術調査で作成した700戸の見取り図だけだ。大きさや形は不揃いで、ひとつとして同じ建物はなかったが、中にはカラーテレビ、ステレオ、三面鏡、洋酒棚、ミシン、洗濯機、ピアノ……外観は不格好だが、高度成長期の庶民生活はそれなりに充実していた。原爆スラムという言葉のイメージからかけ離れた生活風景に驚いた矢部は、当時の住人たちを訪ね歩く。当たり前のことだが、原爆スラムには、被爆者だけが住んでいたわけではなかった。秋田からやってきた廃品回収業の裕福な一家。焼酎ばかり飲んでいたアル中のおっちゃん。郊外の山村からやってきた失対労務者(失業者救済対策としての公共事業に従事する労働者)の大家族。在日コリアン2世の入市被爆者……それぞれの人生を辿っていくうちに、戦後の復興と共に消滅していくはずの原爆スラムがいつの間にか増殖していた、という現象に突き当たる。復興に伴い、市内に点在していた他のバラック集落が急速に整理され、立ち退きを余儀なくされた人々が一時避難的に「相生通り」へ移り住んだのが原因だった。かつての移住者の一人であるおばちゃんとの会話は、矢部がバラック増築に用いる鎹(かすがい)を知らなかったので、まるで『ドキュメント72時間』のように「ゆるい」のだが、ぼんやりと疑問が浮かび上がってくる。「相生通り」の住人たちは、自分たちの街を原爆スラムとは呼ばない。
https://president.jp/articles/-/22435?page=2
世界遺産 早くも富岡フィーバー!☆\(=^◇^=)/☆一夜明け最多入場だとヨ(=^◇^=)
2014(平成26)年04月27日(日)
富岡製糸場 世界遺産へ 一夜明け、過去最多4972人入場
世界文化遺産の登録を勧告された富岡製糸場。一夜明けた27日は大型連休最初の日曜日と重なり、過去最多の入場者数に。しばらくはフィーバーが続きそうだ。[記事詳細へ]
「富岡製糸場」世界文化遺産へ
‡2014(平成26)年06月15日(日)~
2014(平成26)年06月25日(水)のユネスコ世界遺産委員会で正式に決まる見通しで、決まれば国内14件目となる。
富岡製糸場が世界文化遺産登録へ 富士山に続き国内14件目
■登録件数の増加により審査が厳しくなる中、推薦書の内容がほぼすべて認められる“満額回答”だった。
富岡製糸場 世界遺産へ 明治の技術革新、高い評価…「パーフェクトな勧告」
■「酔いと眠気がいっぺんにさめた」。
2014(平成26)年04月26日(土)未明に登録勧告の連絡が入った文化庁では寝耳に水だったようで、職員が慌ただしく対応にあたった。
富岡製糸場、世界遺産へ 未明の一報に文化庁「寝耳に水」「30日前後だと…」
富岡製糸場 明治5年、産業の近代化を急ぐ政府が西欧から最新技術を導入し設立。日本初の本格的な器械製糸工場で、その後、養蚕技術を独自に改良して大量生産を実現。技術交流などを通じて世界の絹産業の発展に貢献した。民営化されて昭和62年まで現役で稼働。操業停止後も所有企業が建物を保全し、群馬県富岡市に寄贈された。.
http://www.iza.ne.jp/topics/entertainments/entertainments-1902-m.html