ポール来日記念 ザ・ビートルズ 日本公演チケット雑学
‡2015-03-29 コレクター #洋楽
ポール・マッカートニーの東京武道館公演、盛り上がっているようですね。拙者は残念ながら行くことが出来ませんので、無事にチケットを購入出来た方は存分に楽しんでいただけたらと思います。さて、今から49年前に伝説の来日公演を行ったビートルズ。この「来日公演」に関する様々なアイテムがコレクターや研究家の蒐集対象になっているのはご存じのとおりです。特に公演チケットは、イギリスやアメリカでのチケットに比べ大判であることから海外のコレクターにも人気があり、国内外問わず高額で取引されているようです。実はこの4枚、全てニセモノです。高額で取引され、また「紙もの」であることから簡単に複製できるので、この来日公演チケットには多くのニセモノが横行しています。以前、原宿にあった(今もあるのでしょうか?)ビートルズ専門店「GET BACK」が7月2日6:30開演の部のレプリカを売っていたこともあり、これに扉番号等をスタンプしたものが出回りました。写真の一番上のものがこれに当たると考えられます。これは1990年代後半から多く出回ったもので、不自然なシミや汚れとイギリス国旗の上の番号が「54684」になっているのが特徴です。その下の3枚はあまり見かけないニセモノで、紙に経年変化が見られない事以外、特にネット上で写真だけで真贋の判断は難しいでしょう。やはり未使用チケットが人気なわけですが、当然にして未使用のものが多く残っているはずがなく、高い値段を出して購入する場合は慎重に判断する必要があります。現物を見るか、信用できるお店で買うか、入手経路や所有者の状況をよく確認した方がよいでしょう。またオレンジ色の注意事項の紙の有無もポイントになります。逆に使用済のチケットにはニセモノは少ないでしょう。フェイスブックやブログなんかで「ビートルズの来日公演チケット持ってるよ~」という方でもよく見るとニセモノだったりします。未使用チケットが市場に出たら、まずニセモノを疑いましょう。(本記事はあくまで個人的な経験、情報、知見に基づいており、事実と異なる可能性がありますこと、ご了承ください)
https://sha-pmc.hatenablog.com/entry/56856555
音源◆The Beatles - Recording Session, https://youtu.be/lfWxGLcfkyE
April 1, 1967
Studio 1, EMI Studios, London - April 1, 1967
‡March 29, 1967 The picture is dated from March 29, 1967.
01. Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band (Reprise) [Rehearsal Take] [0:00]
02. Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band (Reprise) [Take 4] [0:24]
03. Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band (Reprise) [Take 5 - Excerpt] [0:29]
04. Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band (Reprise) [Take 7] [0:41]
05. Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band (Reprise) [Take 8 - Excerpt] [1:09]
06. Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band (Reprise) [Take 9 - Excerpt] [2:04]
After more than four months recording what is now known as “Sgt. Pepper”, along with the “Strawberry Fields Forever” & “Penny Lane” single, the final song recorded for the sessions was the reprise for the title track of the album. During this 11-hour session, The Beatles initially recorded around 10 rehearsal takes with the basic track consisting of lead and rhythm guitar, Hammond organ and drums all recorded on track one of the four track tape, along with Paul’s guide vocal on track four. After this, nine proper attempts at the backing track were recorded with ‘take 9’ being deemed best. Onto ‘take 9’, Paul overdubbed his bass on track two, vocals by all four Beatles (Supposedly Ringo also sang on the song but I can’t detect anything from him) were added on track three and Paul’s guide vocal on track four were erased by a percussion track (maracas and tambourine). The final job of the session was to mix the song into mono with nine attempts made. During the mixing session, the vocals were treated with artificial double tracking and some of the audience effects from the original song were added as well. ‘RM9’ was deemed best and is the version released on mono pressings of the album.
One thing to point out is that ‘take 5’ released on Anthology 2 had Paul’s bass overdub ‘flown in’ from the master performance. 'Take 8' was released on the 50th Anniversary edition of the album.
Q:ビートルズの音源の権利は、現在誰が所有していますか?
2019(平成31)年01月16日(水) 広告プロデューサー:Asakawa Kozo 東京都品川区在住 閲覧数: 1.2万回
A:ビートルズの版権は、複雑な経路をたどってきています。レノン・マッカートニーは、デビュー当時に自らの版権を管理する会社「ノーザンソングス」を立ち上げますが、音楽業界をよく知らなかった彼らは、共同経営者であるディックジェイムズに株式の50%を押さえられてしまいます。この時、ジョンは23才、ポールは21才。その後、ビートルズは世界的な成功を収めるのですが、この契約によって、ビートルズの楽曲を巡るごたごたが後々まで続きます。その後、ジェイムスはノーザンソングスの株をATV(テレビ会社)に全て売却。ATVは、ビートルズ側が持っていた株も買い取り、ノーザンソングスは完全にビートルズの元から離れます。そして、1980年にジョンレノンが殺害されます。その1年後、ATVがオーストラリアの大富豪に買収される事になり、ビートルズの版権をポールマッカートニーに購入しないかという話が持ち上がります。ポールは、一旦オノヨーコに費用の折半を持ちかけますが、ヨーコはこれが高すぎるからと拒否、そしてポールは、ジョンが死んだ後に自分一人が版権を所有することに対する批判を懸念したとされ、断念します。ここで手を上げたのがマイケルジャクソンです。「いくらかかっても良いから手に入れたい」と、ビートルズの版権はマイケルジャクソンに移ります。しかし、そのマイケルも2009年に死亡してしまいます。その後、「1978年以前に製作されたコンテンツの著作権は56年後に作曲者の元に戻る」というアメリカの著作権法の定めによって、ビートルズの楽曲の版権は徐々にポールの手に戻りつつあるということです。(2019年現在で初期の楽曲)ビートルズの最後の曲が1970年に発売されているので、2026年にはレノン・マッカートニー作全ての版権がポールのモノになります。
‡2019(平成31)年03月29日(金) 巴啓祐 レノン・マッカートニーの口約束「どちらかが一人で作った曲でも印税収入は折半」はまだ続いていて、ジョンの権利は遺産としてヨーコが所有しているんじゃなかったですか?90年代にポールのインタビュー記事で「ぼくがステージでイエスタデイを歌うたびにマイケル・ジャクソンとヨーコにお金を支払わなきゃいけないんだ」って嘆いていたのを憶えています。
2019(平成31)年05月06日(月) 和田晋司 正確にいうと、ディック・ジェイムズとジョン、ポール、ブライアン・エプスタインとの間で、ビートルズの楽曲の版権を管理する会社を設立するという契約が交わされました。持株比率は、ジェームズが51%、ビートルズ側が49%です。ジョンとポールの持株比率が何%だったかは、諸説あってはっきりしないんですが、一番有力なのは、それぞれ20%ずつだったという説です。1969年にジェイムズとの関係が悪化して、彼らは全部を売却してしまいました。マイケル・ジャクソンが購入しましたが、彼が亡くなった後、2016年にソニー/ATVが単独所有しました。その間、ポールは、版権を取り戻そうとオノ・ヨーコに提案しましたが、高すぎる … (もっと読む)
2019(平成31)年07月03日(水) 和田晋司 ポール・マッカートニーがソニーATVを被告として権利を返すよう訴訟を起こし、和解したんですが、具体的な和解内容は秘密にされ公開されていません。
https://jp.quora.com/bi-to-ruzu-no-ongen-no-kenri-ha-genzai-dare-ga-shoyuu-shi-tei-masu-ka/answers/117781751
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃『ノーザン・ソングス ┃
┃ 誰がビートルズの林檎をかじったのか』┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
作者: ブライアン・サウソール,ルパート・ペリー,上西園誠
出版社/メーカー: シンコーミュージック
‡2010(平成22)年03月29日(月) 発売日
https://www.amazon.co.jp/dp/4401633792
誰がビートルズの林檎をかじったのか
2010-05-12
ビートルズがいかに曲を巻き上げられたかという実に血管プチプチな話ばかりなのでゆめもきぼーもありません。読んでも楽しい気分にはなりません。
[注意:メンドーな話を大雑把にまとめたので正確性には欠けます。詳しい話は実物で]
EMIとの最初の契約はシングル(6シリング7.5ペニー)1枚につき1ペニー。最初の2曲の出版契約をアードモア&ビーチウッドと結ぶも、「ラブ・ミー・ドゥ」の売り上げは振るわず
60年代初め、音楽出版社には多くのことが期待されていた。出版、登録、楽譜製作に加え、ラジオで曲が流れるようにすること、アーティストがテレビ出演できるようにすることも出版社の業務だった。この点においてアードモア&ビーチウッドはエプスタインを満足させられなかった。
そこにジョージ・マーティンと親交のあったディック・ジェイムズが登場。人気テレビ主題歌「ロビンフッド」がヒットした元歌手、音楽出版に乗り出すも破産寸前だった。「プリーズ?」の成功でノーザン・ソングス設立となり、ディック・ジェイムズ・ミュージック(DJM)が株式50%、残りの50%をエプスタインのNEMSとレノン&マッカートニーで分けることに。
65年税金対策としてノーザン株公開。ジェイムズが社長、その会計士シルヴァーが会長。売りに出されなかった375万株を社長と会長が約93万株ずつ、レノン&マッカートニーが各75万株、NEMSが約37万株、ジョージとリンゴに各4万株。レノン&マッカートニーの株配当はひとり約9.4万ポンド、65年からの新税制でキャピタル・ゲイン税対象外になり非課税所得に。株式公開に合わせ二人は窓口&印税受け取り用会社マックレン(レノン&マッカートニーが80%、NEMSが20%)設立。
1966年4月、56曲を保有するレンマック・エンタープライゼズをノーザン・ソングスに最終的に「売却」したことで、レノン&マッカートニーは自分たちの作家取り分著作権印税と引き換えに、それぞれが14万6千ポンドずつ(7万3千ポンドがNEMSへ)を受け取った。(略)この「稼ぎ」はキャピタル・ゲインとして課税されるため、税率はたったの30%だったのである。[所得税としてなら累進付加税も足され、90%が税金で持って行かれる]
ノーザン・ソングスの株式公開が妥当だったか未だに疑問を抱いているのが、1973年にEMIに入社した弁護士ガイ・マリオットである。「株式公開というアイデアをどこから得たのかは知らないが、とにかくべらぼうな話だった。非現実的なコンセプトだし、所得税が心配なら他に選択肢はあった。海外移住する手もあっただろうし、リヴァプールからあまり離れたくないというなら、マン島に行ってしまえば税金からは逃れられたはずだ」
当時の著作権事情
[トム・ジョーンズが「俺が歌ってやるから著作権の分け前をよこせ」と出版社に要求したり]
ソングライター本人が、アーティスト、出版社、レコード会社に屈してしまうこともあった。著作権は特定の録音物をはるかに上回る利益をもたらす可能性があることを、相手がわかっているからだ。1955年にチャック・ベリーが自作曲「メイベリーン」をレコーディングしたとき、チェス・レコード社長レナード・チェスはそのレコードをDJのアラン・フリードに送ったが、彼の番組でかけてくれればベリーとの共作者扱いにするというおいしいおまけをつけていた。
[プレスリーに曲提供した作家はプレスリーの音楽出版社に強制帰属させられたり]
ハリソングス
65年ジョージはハリソングスを設立、ノーザンの契約条件はマックレンと同じだったが、印税率に関しては、マックレンが50:50だったの対し、ジョージはレコード売り上げ80%海外出版70%演奏放送約67%という好条件を獲得。しかし自分がノーザンの一契約作家にすぎず、大株主のレノン&マッカートニーが自分の曲で自分より利益を得ることに苛立ち“オンリー・ア・ノーザン・ソング”。
NEMS売却
69年、エプスタインの弟クライブはNEMS売却を決意。義理としてまずビートルズに声をかけるも、アップルで混乱中、クラインはビートルズの財政状態から買収すべきでないとした。結局、トライアンフ社に売却。
ノーザン売却
アップル破産の噂でノーザン株下落を恐れたディック・ジェイムズはビートルズに無断でATVに売却。
[ナイジェル・ハンター談]「ノーザン・ソングスが売りに出た場合にまず彼らに買うかどうかの選択権が与えられるという条項を契約に盛り込まなかった、エプスタインとビートルズの致命的なミスだ」
クラインがノーザン100万株を買い戻し過半数を握るという対抗策を提案。それには保持しているノーザン株を担保に200万ポンド調達する必要があり、ポール側のイーストマン親子が危険すぎると拒否。しかもポールがこっそり投資としてノーザン株を購入、ジョンより10万株多く保有していたことが発覚。ノーザンの所有権に関して対等でいようとの口約束を破ったとジョンが激怒。なんだかんだでATVのルー・グレードが株54%を手に入れ決着。
もはやビートルズができるのは、ノーザン・ソングスヘ自分たちの株を売却し、できるだけいい値をつけてもらうことしかなかった。
ノーザン・ソングス買収が失敗したことに関して、レノンは素っ気なく答えた。「会社なんて持ってなかったよ。ノーザン・ソングス、NEMS、ディック・ジェイムズ。僕らには何があった? 銀行にあるわずかな金だけだ。ブライアンがしくじったのさ」。さらに続けて、出版とマネージメント契約について自分たちが無知だった初期の時代に、ジェイムズがエプスタインを丸め込んだとほのめかした。
[ポール]「僕らは帰国してすぐに『ディック、やめてくれよ』と言ったんだ。あいつは『やめないよ』と答えた。会社は売りに出され、商品になった。買ったのはルー・グレードだ。そうして僕とジョンは自分たちの多くの曲の権利を失ってしまった。ジョージもだ。何曲かね」
新しい契約ではディック・ジェイムズ・ミュージックがATV傘下のノーザン・ソングスを引き続き担当し、管理手数料として総収入の10%を受け取るという条件になっていた。つまりジェイムズがビートルズ、エプスタインと結んでいた取り決めがそのまま続くことになった。
見切り発車なので今日はここまで。明日につづく。
https://kingfish.hatenablog.com/entry/20100512
ノーザン・ソングス・その2
2010-05-13
前日のつづき。
解散後の著作権
[ポールとリンダ共作「アナザー・デイ」がNo1ヒット]
マッカートニー夫人はノーザン・ソングスと契約していなかったため、彼女の作家としての印税は夫が契約しているノーザン・ソングスとは別の、外部の会社[マッカートニー・ミュージック・インク]へ支払わなければならなくなる。ATV会長グレードはこれをインチキだと考え、マッカートニーの新しいコラボレーターが純然たる共作者ではないとして訴訟を起こした。
レノンもすぐにあとに続き、ヨーコと曲作りを開始する。(略)「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」である。イギリスでの発売が一年遅れだったのは、オノのクレジットを巡るATVとの対立のためだ。(略)
[さらに『ジョンの魂』収録曲は、ノーザン・ソングスではなくマックレン・ミュージック管理曲としてクレジットするべきと主張。それに対し、ノーザン側は命令状を発行。73年2月までレノン&マッカートニーは]
既存の音楽出版契約に縛られていること、1965年の契約によってノーザン・ソングスが出版したいかなる「音楽作品」についての著作権を主張することを彼らに禁じるものであった。(略)
マッカートニーは[『ラム』収録の]自分の単独作五曲(「ラム・オン」の二ヴァージョンを含む)をノーザン・ソングスのクレジットとすることには同意したものの、妻との共作曲に関してはマッカートニー・ミュージックと表記すべきだと言って譲らなかった。(略)
ノーザン・ソングスはEMIが11曲すべてを自分たちに許諾申請しない限り、単独作品5曲の許諾も出すつもりはないという意思を明らかにした。
しかしEMIに補償を確約したことと自分たちの懐に印税が入ることもあって、五月の初めにはノーザン・ソングスは許諾を出し、それから一ヶ月もしないうちに『ラム』はUKアルバム・チャートで首位に立った。五ヶ月後にはレノンのソロ・アルバム『イマジン』もトップに輝く。このアルバムにはレノン作九曲、レノンとオノ共作一曲が収録されていたが、クレジットはすべてノーザン・ソングスである。
なぜATVと再契約したのか
[弁護士のマイケル・イートン談]「あのふたりがATVと再契約した理由は、ゆくゆくはノーザン・ソングスなりATVミュージックを買い戻すのに有利だから、という憶測があった。ただし妙だったのは、第一優先権なり追従オファーのオプションについての含みを書面に一切入れていなかったことだ」(略)
[ATVの]ヒースは慎重に付け加えた。「私はすべての話し合いに出たわけじゃないが、ふたりはある程度の権利を取り戻したはずだし配慮もしてもらったはずだ」。(略)当のオノの記憶は、「知り合いの悪魔のほうが、素性のしれない悪魔よりもまし」というものだった。
(略)
レノンとマッカートニーはそれぞれの新しい出版社経由で、レコードの売り上げからはこれまでの25%ではなく27.5%を受け取ることになり、共同出版者としてのレノン&マッカートニーはATVに対して55:45の分配率となった。この有利な条件をATV、ノーザン・ソングスから引き出すために、ふたりの元ビートルは代償を支払っている。(略)
1973年、マッカートニーはATVのテレビで『ジェイムズ・ポール・マッカートニー』というスペシャル番組に出演した他、『ズー・ギャング』という新シリーズのために主題歌を作った。それには負けられないとばかりにレノンも、1975年にニューヨークで開かれた『ルー・グレード卿に敬意を』というチャリティで、自身最後となるステージに立っている。
MPL
音楽出版の仕組みと旨味を身をもって実感したポールは、義父の指導を受けMPLを設立、音楽出版ビジネスに乗り出す。バディ・ホリー、『グリース』『コーラスライン』。1979年コロムビア・レコードと契約した際には、フランク・レッサーの曲を含む出版カタログをプレゼントされる。
チャンス到来
一方グレードの関心は映画に向かい、ピンクパンサーがヒット、ソフィーの選択も高評価、調子に乗った『レイズ・ザ・タイタニック』がコケて大損失。ノーザン・ソングスを2000万ポンドでどうかとポールに打診。自分が無から産み出したものに大枚はたくことにポールは躊躇。ヨーコに共同購入を持ちかけるも、ヨーコは500万ポンドまでという回答。その渦中、豪の実業家ロバート・ホームズ・ア・コートがACC(ATVの親会社)の筆頭株主に。ポールはチャンスを逃し、グレードは追放。
[ポールは]初の主演映画『ヤァー・ブロード・ストリート』(略)で「イエスタデイ」を使いたかった。(略)もはや彼は曲の所有者ではなかった。(略)世界でもっとも有名な曲を書いた本人が、自分の映画にその曲を使うための許諾をATVミュージックに申請しなくてはならなかった……しかもシンクロナイゼーション料までかかる。
マイケル・ジャクソン
共作した際にポールが音楽出版ビジネスをレクチャー。
マッカートニーは「枯葉」「ラック・ビー・ア・レディ」「アンチェインド・メロディ」といった曲の著作権を持つことの御利益についても、自分が保有している曲が録音されたりラジオでかかったりライヴで演奏されるたびに使用料が手元に入ることについても、確実に説明したはずだ。(略)この時点でのマッカートニーの自作以外の管理楽曲からの収入は、年間四千万ドルという規模だった。
『スリラー』マネー運用として、まずスライ・ストーンの「スタンド!」「エヴリデイ・ピープル」をゲット、さらにディオン、レン・バリー、ソウル・サヴァイヴァーetc、プレスリー、アレサ・フランクリンの曲も。
和解
1984年、100万ドルと印税率アップと引き換えに、レノン&マッカートニー側はノーザンへのあらゆる訴訟を取り下げることに。ノーザン契約下での解散後ソロ作品権利は返還された。逆にATVはノーザンを障害なく売却できることになった。そしてマイケルが登場。ホームズ・ア・コートは合意に達しそうになるたびに売値を吊り上げ最初の価格から1000万ドルアップの4750万ドルで、85年、ATV全カタログを売却。
[その際、むかつくホームズ・ア・コートのあほうは、娘の好きな“ペニー・レーン”プレゼントしてくれなきゃ売らないとゴネ、マイケル側が激怒し契約が御破算になりかけている。さらに豪パースでのチャリティ・イベントにマイケルを呼びつけるという傲慢ぶり]
のちにマッカートニーは、自分はATVカタログを買えたはずだったが「ヨーコとのいざこざで買えなかった」と釈明している。その一方でジャクソンが楽曲を所有していることについては、「僕よりマイケル・ジャクソンのほうが“イエスタデイ”の権利割合が多いというのは腹立たしい。困ったもんだ」と語っている。(略)
ジャクソンから買収の件を聞いたことは絶対にないと譲らないマッカートニーは、買収契約の締結以降にジャクソンとはほとんど口をきいていないことを認めている。
[マイケルは全曲は入手できなかった]
エプスタインがディック・ジェイムズに渡した「プリーズ・プリーズ・ミー」「アスク・ミー・ホワイ」の二曲は、DJMの他の音楽出版ビジネスと合わせて1986年にポリグラムヘ売却されている。一方ビートルズのデビュー・シングルだった「ラグ・ミー・ドゥ」「P.S.アイ・ラグ・ユー」は、最終的にポール・マッカートニーのものになった。
[80年半ば、キャピトル復帰条件のひとつとして手に入れた]
注意点
所有権はマイケルにあるが、レノン&マッカートニーは全世界で50?55%(米では33%)の作家取り分の著作権印税を得ている。
ソニーATV
買収から十年後、そして「アース・ソング」が大ヒットするほんの一ヶ月前、ジャクソンはATVミュージックとソニー・ミュージックの合併を発表し、音楽業界をあっと言わせた。この提携で彼は一億一千万ドルを受け取り、新たな巨大会社の株式の50%を保有することになった。(略)
[ノーザン・ソングスは1986年に有名無実化、1995年に正式に解体]
ジャクソンヘの蔑視なのか、あるいはソニーATVミュージックという名前をアルバムに入れないための単なる手段なのか、『ザ・ビートルズ1』の中でソニーATVが所有している25曲の出版社クレジットは、ノーザン・ソングスとだけされている。実際には五年前に消滅した会社なのにである。
二年後、マッカートニーはレノンと共作したビートルズ時代の20曲が含まれているライヴ・アルバム『バック・イン・ザ・USライヴ2002』を発売し、クレジットを巡ってのオノとの対立をわざわざ再燃させた。「ジョンが僕の曲だと言ってくれたものについては、僕の名前を最初にするのがフェアだと思う」と理由を説明し、コンポーザーのクレジットを「ポール・マッカートニー&ジョン・レノン」としている。出版社クレジットはまたしてもノーザン・ソングスである。
https://kingfish.hatenablog.com/entry/20100513