過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)

 


 ザ・ビートルズのサイン入りロビーカード
‡2018(平成30)年12月11日(火)
 鑑定依頼人 デーブ・スペクターさん
   鑑定士 本多康宏 
  ジャンル ビートルズ 
 本人評価額 ¥ 700,000
 エピソード 年齢非公開。シカゴ出身で幼い頃日本の漫画を読み日本に興味を持つ。18歳の時には上智大学に留学し、帰国後はシナリオライターとして活動。その後、米国ABC放送のプロデューサとして日本の番組を買い付けるために来日したがたまたま「笑っていいとも」に出演したことで一躍人気を博す。以来テレビプロデューサー、コメンテーターとして活躍中。
 https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20181211/01.html
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ Paul McCartney appears on Saturday Night Live ┃
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‡2010(平成22)年12月11日(sat) Television
‡Saturday 11 December 2010
 Sir Paul McCartney made an appearance on the US TV show Saturday Night Live, contributing to several skits and performing songs. 
 McCartney performed a total of five songs with his band: Jet, followed by Band On The Run; a medley of A Day In The Life/Give Peace A Chance; and Get Back at the end of the show as the credits ran.
 He also accompanied host Paul Rudd for the show's opening monologue, appeared with Andy Samberg in SNL Digital Short, and contributed to the Weekend Update segment.
 McCartney first appeared on Saturday Night Live in 1993, when he performed Biker Like An Icon, Get Out Of My Way and Hey Jude. Alec Baldwin was the host on that occasion.
 In April 1976, meanwhile, McCartney and John Lennon considered accepting producer Lorne Michaels' offer of $3,000 for The Beatles to reunite. The pair were watching the show in the Dakota building and considered taking a cab to the television studio, but decided against it.
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 https://www.beatlesbible.com/2010/12/11/paul-mccartney-saturday-night-live/
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 削除動画◆サウンドストリート 渋谷陽一(29歳) 1980/12/11 ジョン・レノン追悼特集  https://youtu.be/AcmQBi-Zys4
 1980(昭和55)年12月11日 ジョン・レノン追悼特集
 楽曲はカットしています(というより、元々トーク部分しか録音していませんでした。選曲は松村雄策氏です)。
 1曲目 パワー・トゥ・ザ・ピープル「えー、渋谷陽一です。今日のサウンドストリートは急遽予定を変更いたしまして、ジョン・レノンの特集をお送りしたいと思います……。」
 2曲目 アウト・オブ・ブルー
 3曲目 ニューヨーク・シティ
 4曲目 インスタント・カーマ
 5曲目 スターティング・オーヴァー
 6曲目 イマジン
 7曲目 真夜中を突っ走れ
 8曲目 リメンバー
 9曲目 スタンド・バイ・ミー
 10曲目 ブレス・ユー
 11曲目 母の死

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 ┃ JOHNの死を新聞はどう伝えたか? ┃(1)~(4)
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 1980(昭和55)年12月10日(水)『北海道新聞』『日本経済新聞』『朝日新聞』『毎日新聞』『読売新聞』
†1980(昭和55)年12月11日(木)『北海道新聞』『日本経済新聞』『朝日新聞』『毎日新聞』『読売新聞』
Vol.6  Johnの死を新聞はどう伝えたか?(1)
Dec-4,2000記
Dec-8,2000追記
Johnが射殺されてから、はや20年の歳月が流れました。事件当時、僕は高校2年生。一報を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になったのを、未だに忘れることが出来ません。事件当時の新聞を読み返してみようと思い立ち、先日札幌へ戻った際、札幌市中央図書館所蔵の縮刷版を調べて来ました。日本でこの事件が報道された
1980(昭和55)年12月10日と11日の紙面から、当時の報道の状況を紹介したいと思います。ただ、内容の大幅な引用は差し障りがあるかと思いますので、見出しを中心に並べて行きます。あしからず…。
■PART1『北海道新聞』
当時、我が家で取っていたのが「道新」こと北海道新聞でした。
10日の朝刊では、1面にはJohnのことは載っておらず、第1・第2社会面で扱われています。
第1社会面の横凸版見出し…「凶弾五発、レノン(元ビートルズ)倒す」
同面の縦の袖見出し…「若いファン銃乱射 レコーディング帰り ヨーコ婦人の目前」「60年代 ロックに君臨」(特派員電)「犯人は失業中の元ガードマン」(UPI)
 リード文中の抜粋「…一九六〇年代の世界のロック・ミュージックをリードし、国際的な反体制文化の象徴的存在だったビートルズのジョン・レノン(40)が…」…ビートルズって、そんなに『反体制的』ですかねぇ? 
 …この面には、事件の概要とJohnのプロフィールを中心に構成しています。ただ、プロフィールの中には『「イエスタディ」「ミッシェル」など、今ではクラシックの演奏家もレパートリーに取り入れ、…』と、Johnの作品とするにはちょっと抵抗がある記述もなされているのですが(まぁ、“Lennon-Mccartney”というクレジットで発表されてしまえば、一般的には区別がつかないか…)。
第2社会面の縦見出し…「私のレノンが…自宅、病院前で涙の通夜」(特派員電)「英国でも深い悲しみと衝撃」(共同)
 …特派員電の文中にも、『誰かが持っているトランジスタラジオから、追悼番組のビートルズの曲「レット・イット・ビー」「イエスタディ」が流れ、それに合わせて、人々の間に歌声が広がる。やがて、レノンの歌のリフレーン「オール・ウィ・アー・セイイング…」の大合唱となった…』とのくだりが。ここでもPaulの曲が幅を利かせていたようで…。
 インタビュー記事も掲載されており、小野啓輔・福田一郎・篠山紀信の3氏の談話が載っています。
10日夕刊社会面の続報。
 大見出しは…『「サイン気にくわん」J・レノン殺害犯人 凶行の影に計画性?』(特派員電)となっており、“捜査当局の見方”として、その後長く日本で報道されていた「サインに対する不満」が殺人の動機になった…とする見方を報じています。
 下段の小見出しは「遺産ざっと五百億円」「レノンのレコードに殺到」。
11日朝刊の1面コラム「卓上四季」でも、Johnの話題が。
 「元ビートルズのメンバーの中でも、際立って反体制的であり“哲学的”であったジョン・レノンが凶弾に倒れた。(中略)ビートルズの成功後、ポール・マッカートニーが中流階級入りを否定せず、ジョンとしばしば対立したから、ビートルズは解散したとの説がある」…へぇーっ(^^;)。
 札幌市内版のページでは8段抜きで「わが青春の支えだった…さよならジョン・レノン」と題し、レコード店・ラジオ・「ビートルズ世代」へのインタビューなどで構成。
そして11日夕刊では共同電から『「成り代わりたかった」レノン射殺犯、動機を語る』「全米各地で悲しみの抗議集会」、AFP時事電から「14日にレノン追悼の黙とう」の3本の記事。 いずれも第2社会面の掲載でした。
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■PART2『日本経済新聞』
数は少ないながらも、日経でもJohnの射殺事件を採り上げていました。但し、大半の記事が通信社の配信記事でしたが…。
10日朝刊の社会面…縦見出し3行で「ジョン・レノン射殺される 夜遅く、自宅前で ニューヨーク 犯人は元ガードマン」(共同電とUPI電で構成)
 共同電のリードは「六〇年代に世界の若者を熱狂させたビートルズの事実上のリーダー、ジョン・レノン(40)が、ニューヨークの自宅マンション前で八日夜、射殺された。」
 下の方にやはり共同電で「追悼の合唱やまず」のベタ記事も。 
10日夕刊社会面…いずれも共同電で「レコード飛ぶ売れ行き レノン追悼 カーター大統領も声明」「計画的犯行を自供」
 この共同電では「サイン不満」による犯行とは謳っていませんね。
11日朝刊の1面コラム「春秋」でも、Johnの死を採り上げています。
 「…ザ・ビートルズのジョン・レノンがニューヨークでわけのわからぬ犯人に射殺されたという。悲報を聞いたファンの衝撃も同じ思いだったろう。(中略)ビートルズに熱中した世代も、いまや三十歳台半ばの中堅、ビートルズを子守唄として育った世代もヒゲのはえる年頃となった。そして「今日」は確実に「イエスタディ」となり、“人は明日を信じ、昨日を恋い慕う”(歌詞の一節から)」…このコラムニスト氏は「軍歌と演歌で育ったオールド族」だそうでして。
ひとまず、PART1はここまで。Johnの命日までには全編書き上がらないかも知れないなぁ、この調子では…。
 文中の用語について・・・この原稿の中で、新聞紙上の専門用語を使って紹介している事項がかなりあります。それらについて、補足説明させて頂きます。
 第1社会面・第2社会面 … 見開きの社会面の左側が第1、右側が第2社会面。
 横凸版見出し … 横書きの大見出しのこと
 特派員電・通信社電 … 自社の特派員の送稿記事が「特派員電」。通信社からの配信記事が「通信社電」(共同・時事・ロイターなど)
 ○段抜き・ベタ記事 … 新聞記事の書かれている段数にまたがる見出しが「○段抜き」。見出しが一段の記事が「ベタ記事」。
 http://moving.la.coocan.jp/yabunirami6.htm

Vol.7  Johnの死を新聞はどう伝えたか?(2)
Dec-5,2000記
■PART3『朝日新聞』
今回確認した各紙の中で唯一、12月10日付朝刊の1面本記でJohnの死を取り上げています。
記事全体のボリュームも、全国紙の中では一番多かったのではないでしょうか?(特記以外は自社記事か特派員電)
10日朝刊の1面中ほど、4段の縦見出しで「ジョン・レノン 射殺さる」として特派員電の記事が。
 「…ヨーコさんは夫の死を知って、一時狂乱状態になったが、ケガはしていない。」
第1社会面の横凸版見出しは…「レノン復活 凶弾が阻んだ」
そして、段抜きの縦見出しだけで以下の4本が打たれています。
 「若い男 待ち伏せ五発 深夜ヨーコ夫人の目前 マンハッタンアパート前」「五年ぶりの新譜残し」「青春のビートルズは帰らない」『日本にも衝撃 ファンら「本当か」 レコード会社、増産号令』
 そして写真の他に、ダコタハウス付近の地図も添えられています(地図が添えられていたのは朝日と読売のみ)。
 この他にベタ記事が2本。「イエスタデー追悼の大合唱 NYのファンたち」『「行ってやりたい」洋子さんの母』
第2社会面にも横凸版見出しで…「無念 40歳の死」。そして縦見出しは、「ロックに命をかけて 時代先取り水先案内人」
 内田裕也・篠山紀信・横尾忠則・湯川れい子の4氏の談話が掲載されています。
もう一つ、同面には「ヒット曲の大半作る 解散後も独自の平和運動」と題したコラム記事もありますが…。
 「…ポールと共に、「イエスタデー」「レット・イット・ビー」などビートルズのヒット曲の八割ほどを作詞、作曲した。」とあるのは、やはり“Lennon-Mccartney”というクレジットに記者が「錯覚した」のでしょうかね。
その下にベタ記事で、『「偉大な男だった」ポールらショック』として、イギリスでの反応も採り上げられています。
10日夕刊ではまず第2社会面に「レノン射殺犯 熱狂的なファン 裁判所、精神鑑定認める」
 この文中で「レノンのサインのやり方が気にくわず頭にきた」と、取り調べの警察官に語ったくだりが紹介されています。
また、芸能面では「ジョン・レノン 突然の死」「精神的リーダー失う 心に響く音の遺産残し」と題した立川直樹氏の寄稿と、同紙出版局の矢野純一氏のコラム「ユーモア好きだった友 共にクリスマス過ごす」が掲載されています。
11日朝刊の1面コラム「天声人語」でも射殺事件を採り上げているのですが、引用されていたのはまたしてもPaulのナンバー。
それをJohnの思想に結びつける所はやはりベテランコラムニストのわざなのでしょうか?(^^;)
 「(レット・イット・ビーに触れて)…あるがままにあれという教えは、虚飾や野望を捨てたはだかの人間であれ、ということだろう。…(中略)…ビートルズであるよりはあるがままの一人の人間でありたいといったレノンにこそ、レット・イット・ビーの歌はふさわしい/「明日は雨かもしれない/だから僕は太陽を追う」…」
11日夕刊で目立つのは中面の「にゅうす・らうんじ」。
8段抜きのボリュームで、レノン射殺事件を採り上げています。見出しだけ紹介しましょう。
「追悼にも強烈な自己主張  アメリカ的な あまりにアメリカ的な」
「底流に社会的な緊張」「自ら守る伝統 難しい銃規制」
そして第1社会面ではAFP時事電で…「レノン追い自殺図る メキシコの熱狂ファン カセイソーダ飲み重体」
またAP電で『「キリストより人気」レノン発言は尊大と反感か」として、1966年のキリスト教に対する発言との関連を指摘する記事も載せられていました。
朝日の記事はボリュームがかなりあり、ベタ記事見出し等の一部を割愛しました。ご了承ください。
 http://moving.la.coocan.jp/yabunirami7.htm

Vol.8  Johnの死を新聞はどう伝えたか?(3)
Dec-8,2000記
■PART4『毎日新聞』
この事件が起こる3年前、毎日新聞は経営危機に陥り、「新社」を設立して再出発していました。
そのためもあってか、記事の分量は少なくなっていますが、他紙では触れていない話題が多く採り上げられていたようです。
12月10日朝刊の第1社会面…横凸版の見出しは「元ビートルズ ジョン・レノン射殺される」
そして縦見出しがまず3本…「自宅前で凶弾5発 ニューヨーク」「ヨーコ夫人絶叫」「犯人 25歳の失業青年」
 この記事は特派員電なのですが…「レノンは七〇年、「ビートルズ」が解散して以来、演奏活動から遠ざかり、七五年以降は公の席にはほとんど姿を見せなかった。」とのくだりが。いくら何でもこれはちょっと言い過ぎのような気が…。
その下に共同電とAFP時事電で「薄笑い浮かべ引き金」。「ジョン・レノンをやったまでよ」という犯人のセリフは、この記事と読売のみで採り上げられていました。またAFP配信の記事では、警察当局の話として「レノンはサインしたくなかったようだ」との見方があることを紹介しています。もう一本の共同電の記事「マンハッタンに追悼合唱」では、「ダコタハウスの前で歌われた曲」が道新と同じく、「ギブ・ピース・ア・チャンス」「イエスタディ」「レット・イット・ビー」になっています。
「型破りの芸術と行動 来年の日本公演を前に」の見出しでJohnのプロフィールが紹介されていますが、日本公演の予定があったこと、シンセサイザー奏者の富田勲氏がレコーディングに参加予定だったことなど、他紙に載っていない話題が採り上げられています。
第2社会面は大きな縦見出しが2本…「若者の意識変えて…」「なぜ?ファンに衝撃」
 インタビューは富田勲(この中で、一家が1981年2月に来日予定だったことに触れている)・篠山紀信・湯川れい子の3氏。またロンドン支局電のベタ記事で、『家に閉じこもり「ショック」マッカートニー』という記事もありますが…「…ビートルズ全盛時代に熱狂したファンは大人になって生活に忙しく、熱狂して悲しむと言うものではない。」そうで(^^;)。
10日夕刊の1面コラム「近事片々」にもJohnが。
 『「オール・ウィ・アー・セイイング・イズ・ギブ・ピース・ア・チャンス(平和にチャンスを与えろといっているだけだ)」…自作の反戦歌がジョン・レノンへの挽歌となった。また一人去った六〇年代の予言者。更に遠ざかった六〇年代の青春…』
第2社会面では3段見出しで「レノン射殺 犯人は熱烈ファン」(特派員電)。記事の中にヨーコが出した声明のことも触れられています。
またベタ記事で「遺産は五百億円」「大統領が特別声明」(以上共同)「ソ連でも追悼番組」(時事)の3本が掲載されていますが、ソ連での反応を載せたのは、全国紙の中では毎日だけでした。
11日朝刊の1面コラム「余録」も、他紙と同様にJohnの死を取り上げています。
ヘンな引用がなく、この著者は相当ロックに造詣が深い人だったのだろうと推測できます。
 『「僕にとって音楽とはコミュニケーションの手段だ。もし他にいい方法があればそれでいい」と彼は語っていたそうだ。反戦運動も数々の奇行も、音楽も沈黙も、常に何かを伝えるためのギリギリの表現だったのだろう。沈黙までも騒々しく、雄弁だった。…』
更に社説面の「記者の目」では10段抜きの大スペースで、学芸部の加古 明光記者が「さらばジョン・レノン」と題したリポートを書いています。
この他の見出しは『永遠の「昨日」ビートルズ』『「抱きしめたい」60年代 英雄たちの挑戦』…文中では“Yesterday”と“Across The Universe”を対照させて、こんな記述が。
 「…前者はご存じ、ポールの名曲。同じバラードながら後者はレノンの地味な作品。ビートルズの双頭リーダーは、すべてに対照的だった。ヒット曲にはポールのものが多い。ポールが純粋に音楽にのめり込んでいたからだ。対して、レノンは音楽を1つの手段としてとらえ、それを通じてメッセージを語り続けてきた。…」
第2社会面には外電が2本。「全米でレノン悼む集会 悲しみのキャンドル掲げ」(UPI電)『「サインの仕方悪い」レノン射殺犯動機もらす』(AP=共同電)
 ここでも「サイン説」が出てるんですね。この他、Ringoの弔問の様子を写した写真が載せられています。
11日夕刊では第2社会面の記事が1本だけ。「レノンに成り代わりたくて?殺害犯人 熱狂的ファン心理で」(ロイター=共同電)
 朝日の記事と同様に、「キリスト発言」と犯行の関連を推測しています。
分量的には少ないですが、「読ませる」内容では朝日よりも毎日の方が勝っている印象を受けました。不十分ながらも書き手に、それなりの基礎知識があったからなのでしょうか…?
 http://moving.la.coocan.jp/yabunirami8.htm

 Vol.9  Johnの死を新聞はどう伝えたか?(4)
■PART5『読売新聞』
全国紙の中で、もっとも「立ち上がり」が早かったのが読売でした。
12月10日付け朝刊の段階で一報だけでなく、コラムや特集面でJohnの死を取り上げています。
その10日付け朝刊。1面では記事は載せられていませんが、コラム「編集手帳」でJohnの死についてのコメントが。
 「…(ビートルズが)一年もたたないうちに世界の若者たちの心をつかんだのは、その強烈なビートと音楽的創造性、評論家ウィリアム・マン(米)の言う「哲学的集団」の放つ激しい磁気力とであった。英国はリバプールの貧しい家庭に育った“魂の叫び”が、やがて一千万人以上といわれるファン層をつかむ。…」
そして第1社会面。見出しを含め全11段をフルに使って事件を報じています。
横凸版見出しは…「ジョン・レノン射殺される 元ビートルズの奇才」。
そして縦見出しは「帰宅待ち伏せ、5発 ニューヨーク」「ヨーコ夫人の目前で」「犯人 元ガードマン25歳」「音楽活動再開の直後」の4本。
 特派員電の記事ではダコタ周辺の地図が添えられ、犯人がアパートの警備員に「何をやったのかわかっているのか」とたずねられて「ジョン・レノンをやったまでだ」と答えたこと、サインに対する不満が動機との見方があること…などを報じています。
しかし、リードの文章では『「イエスタディ」「ミッシェル」などの名曲で六〇年代を風びしたイギリス生まれのロックグループ「ザ・ビートルズ」の元メンバー、ジョン・レノン(40)が…』と書き出されている他、「60年代 世界にブーム」と題されたプロフィール紹介の記事(内容的には各紙の中で一番まとまっていたように思う)でも、代表曲となっていたのは「レット・イット・ビー」「イエスタディ」「ミッシェル」。やはり「錯覚」してたのでしょうか…?
この他ベタ記事で、ヨーコの家族の反応や、イギリスでの反響の様子(他のメンバー3人の反応が簡単に触れられている)が紹介されています。
第2社会面には6段抜きの縦見出し…「また消えた“一つの青春”」。そして、石坂敬一・星加ルミ子・内田裕也・松本恒雄の4氏の談話(内田裕也以外、他紙とダブっていない…^^)、シネクラブでの反響の様子などが紹介されています。
さらに特集面の「今日の話題」でもいち早く、「ジョン・レノンの死 解散10年、悲劇のビートルズ」というタイトルで、事件を取り上げています。
 「…平和運動の意識を持ち、夫人とともに自ら永住の地としてニューヨークに永住したジョン。そのジョンがごくニューヨーク的な犯罪〈射殺〉という形で命をなくしたのはあまりにも皮肉だ。…」
10日夕刊の1面コラム「よみうり寸評」でも、Johnのことが話題に。
 『一日五十人殺される日もあるニューヨークだが、「スクリュー・ボール」(変人・精神障害者)にねらわれたジョン・レノンは不運だった。…』
また芸能面には石坂敬一氏が「さよならジョン・レノン ビートルズ人気を超えて宗教、政治、前衛音楽へ進出」と題する文章を寄せています。
 「…そのレノン、次に何をやるんだ、と私たちに期待を抱かせたところで、不帰の人となってしまった。アルス・ロンガ・ビタ・ブレビス-芸術は長く人生は短し。レノンはこの言葉の具現者となった。…」
そして第1社会面では、縦見出しで大々的に『「サインが気に食わず」 犯人は熱狂的ファン  レノン射殺 英国、悲しみの追悼』…と打ち、「サインに対する不満」が犯行原因とする警察筋の情報を紹介しています。
そしてもう1本、「鎮魂の祈りを ヨーコ夫人が声明」と題する記事で、事件直後のヨーコのコメントが紹介されています。
立ち上がりが早かった分(?!)、11日朝刊の紙面では事件関連の記事は大幅に減り、夕刊にはほとんど記事がありませんでした。
その朝刊の記事。第2社会面で「ジョン・レノン 殺害犯の妻は日系人」(特派員電)「アメリカ各地で追悼の集会」(UPI=共同)の2本が掲載されています。
…ということで、4回に分けて当時の新聞報道の様子を紹介しました。
まとめ方がヘタで読みづらい点も多かったと思いますが、一つの時代の記録として書き留めておきたいと思いましたので…。その想いだけでも伝われば幸いです。
それにしてもここまで書いて改めて不思議なのは、“Imagine”や“Happy Xmas”を取り上げた新聞記事がほとんどないこと。
やはり「元ビートルズ」のメンバー…としての捉えられ方が強かったからなのでしょうか…?
 http://moving.la.coocan.jp/yabunirami10.htm

 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ ビートルズ詳解 The Beatles’Corpus ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
①1961(昭和36)年12月11日(月) ライヴ演奏:キャバーン・クラブ (昼) /リヴァプール
②1962(昭和37)年12月11日(火) ライヴ演奏:ラ・スカラ・ボールルーム/ランコーン
③1962(昭和37)年10月16日(火) ライヴ演奏:ラ・スカラ・ボールルーム/ランコーン
 ビートルズはリヴァプールから14マイル南にあるシェシャー (Cheshire) の町、ランコーン (Runcorn) で2度公演しているが、この日がその1回目であった。会場となったのはハイ・ストリート (High Street) にあるラ・スカラ・ボールルーム (La Scala Ballroom) であった。彼らは
‡1962(昭和37)年12月11日(火)に再びこの会場に戻ってくる。レナード・クレッグ (Leonard Clegg) の設計によるラ・スカラは1913年に建築され、当初は映画館として利用された。1957年からはダンスホールに転じ、一晩おきにライヴ演奏も行われた。その後はクラブとなり、1987年にはビンゴホールに転じる。しかし2006年に閉鎖され、2012年の8月に取り壊しが開始される。
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 ①http://gejirin.com/beatles/history/1961/0history_index-1961.html
 ②http://gejirin.com/beatles/history/1962/0history_index-1962.html
 ③https://gejirin.com/beatles/history/1962/19621016_live_Scala.html
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓┌─―――――┐
 ┃ THE BEATLES HISTORY ┃|December 11|345
 ┃    ザ・ビートルズの今日の出来事   ┃|12月11日|
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛└─―――――┘
 1961(昭和36)年12月11日(月) キャバーン・クラブのランチタイム・セッションのステージに出演。
 1962(昭和37)年12月11日(火) チェシャー州ランコーンのラ・スカラ・ボールルームに出演
********** http://www.thebeatles.co.jp/contents/index2.htm
 http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=17213
 http://beatlesdiary.web.fc2.com/day/012/1211.html
 https://blogs.yahoo.co.jp/fab4city/15583678.html
 http://www.beatlesagain.com/bhistory.html
 楽曲資料https://beatlesdata.info/
 歌詞充実http://tsugu.cside.com/index.html
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 The Rolling Stones Rock and Roll Circus
‡1968(昭和43)年12月11日(水)
 http://en.wikipedia.org/wiki/The_Rolling_Stones_Rock_and_Roll_Circus
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 ┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
  人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。
  ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、
  文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。
  語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
 ┌─――――――――――――┐
 |1968(昭和43)年12月11日(水)|「一夜限りのスーパーセッション」
 |2007(平成19)年12月11日(火)|甲虫日記更新日 No.014
 └─――――――――――――┘ローリング・ストーンズのミック・ジャガーが、初のベスト・アルバムを発表した。ジョン・レノンがプロデュースした未発表曲♪トゥー・メニー・クックス♪を収録。ミックによれば、1973(昭和48)年にロサンゼルスの空いたスタジオでジョンと録音した曲だという。「ぼくが歌って、彼がギターを弾いた」ビートルズとストーンズ。英国を代表するロック・バンドの成功は、彼らの実力とともに有能なマネジャーの才覚にも支えられている。ブライアン・エプスタインは、ハンブルクのいかがわしいクラブのステージに立ち、革ジャン姿で演奏していた労働者階級の青年たちをスーツ姿に着替えさせ、健全なイメージで売り出した。ビートルズの広報代理人の経験があるストーンズのマネジャー、アンドルー・ルーグ・オールダムは、ビートルズと正反対のイメージで売ることがストーンズを成功に導く近道と考えた。優等生が好きな娘もいれば、悪ガキにひかれる女の子もいる。中流階級の若者たちにわざと荒々しく、反抗的なイメージを植え付けた。両者は音楽誌のチャート争いで競っているようにも見られたが、実は、レコード発売日が重ならないようにマネジャー同士で「談合」していた。メンバー同士も仲が良かった。ジョンとポールが提供した♪アイ・ウォナ・ビー・ヨア・マン♪は、ストーンズ初の英国ベスト10ヒットになった。ジョージはブライアンにシタールの手ほどきをしている。彼らは、しばしばロンドンの有名なクラブで一緒にグラスを傾け、世間が競争相手と勘違いしていることを笑っていたのだろうか。ストーンズがビートルズのテレビ映画『MAGICAL MYSTERY TOUR』に触発されてミュージック映画『ロックンロール・サーカス』の撮影を思い立った、としても不思議ではない。ミック自身も参加した史上初の衛星生中継番組「アワ・ワールド」の刺激もあった、といわれても納得できる。『ロックンロール・サーカス』は、BBC・TVのクリスマス特別番組用に収録された映画だった。
1968年12月10日からウエンブリーのインタテル・スタジオでリハーサルが始まり、
11日から
12日早朝にかけて撮影された。監督はビートルズの3本目であり最後である主演映画『LET IT BE』を手がけたマイケル・リンゼイ・ホッグ。大テントの中に集まった観客が音楽と余興のサーカスを楽しむという筋書きで、観客の頭上で空中ブランコに乗る曲芸師や火食い男、調教された虎などが次々と登場する。ジョンはこのショーに招待され、一夜限りのスーパー・セッションを披露する。メンバーは、直前に解散したクリームのエリック・クラプトン、ストーンズのキース・リチャード(本名リチャーズに戻す前)、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのドラマー、ミッチ・ミッチェル。
この夜だけのために編成された、豪華な面々。キースはこのセッションに参加するため、わざわざベースギターの担当を買って出たほどだ。ストーンズのベーシスト、ビル・ワイマンに言わせれば「おれを追い出した」ということになる。バンド名は「ダーティー・マック」。「汚いマッカートニー」とは穏やかではない。グループとしての一体感が崩れていくきっかけになった、とされる『The BEATLES (WHITE ALBUM)』の長い録音セッションを終えたばかり。ジョンは、勝手にいくつかの曲の録音を1人で完了させてしまったポールに腹を立てていたというから、なかなか意味深である。ところが、このバンド名をめぐってビートルズの解散問題に発展したとか、メンバー同士でもめたとか、いう話はきかない。肝心の映画が、ミックの鶴の一声でお蔵入りになり、
96年10月にVHSで発売されるまでの約28年間も公表されずにいたためだろう。長らく封印された理由は、ストーンズが自分たちの演奏の出来に満足していなかった、という説が有力だ。丸1日かかった撮影の末にトリを務めた彼らの演奏には、体調が万全ではなかったからか、「ノリ」とか「切れ」が感じられなかった。名作『ロック・オペラ・トミー』を発表して勢いに乗る「ザ・フー」の演奏に完全に食われてしまっている。そのなかで、ダーティー・マックの演奏は別格だった。♪ヤー・ブルース♪は、離婚問題に悩んでいたジョンがヨーコに助けを求めた陰気な曲だが、初めて映像をみたとき、「こんなに格好良い曲なのか」と感動したくらいだ。クラプトンのギターワークだけが理由ではない。長髪、ジーンズ、スニーカー。ほかの3人を従え、普段着姿で演奏するジョンの姿が新鮮に映った。もう1曲。イスラエル出身のバイオリニスト、アイブリー・ギトリスを迎えて♪ホール・ロッタ・ヨーコ♪を演奏する。盛り上がってきたところでオノ・ヨーコが登場。叫びというかボーカルというか、マイクを握ってのパフォーマンスが続く。ジョンの遺作『ダブル・ファンタジー』は、彼女の歌がジョンの曲と交互に収録されている。その評価をめぐり、ファンの間で「賛否両論」が存在する。少なくとも僕の周りでは、ジョンの歌だけをカセットテープに落として聴く「ビートルズ偏愛者」もいた。しかし、この時のパフォーマンスは、曲の流れを壊すことなく彼女の心情の発露として素直に聴けた。別名♪ハー・ブルース♪とも呼ばれているらしい。
 ◎『この日のビートルズ』の次回は、12月27日です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
 ◎お知らせ ⇒
ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー 
 2007年10月24日発売 WARNER MUSIC JAPAN(WP)(M) 
ロールド・ゴールド・プラス~ヴェリー・ベスト・オブ・ザ・ローリング・ストーンズ
2007年11月14日発売 UNIVERSAL INTERNATIONAL(P)(M) 
With the Beatles [from US] [Import] 1990年10月25日発売 Capitol 
ロックンロール・サーカス 1997年1月1日発売 ポリドール
ダブル・ファンタジー [Limited Edition] 2007年12月5日発売 EMI MUSIC JAPAN
入門ビートルズドリル 2007年11月16日発売 ダイヤモンド社 ビートルズはどんなバンドだったのか? ビートルズが音楽史に果たした役割はどんなものだったのか? ビートルズは社会・文化にどんな影響を与えたのか?ビートルズドリルは、クイズを楽しみながら、ビートルズに関する知識を広め・深めることのできる1冊です。
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 1968年12月11日(日本時間)に撮影されたストーンズのTV向け『ロックン・ロール・サーカス』。その映像が長い間お蔵入りになったわけ
 2017年12月11日 執筆者:池田祐司
1968年は、長いストーンズの音楽活動の中でも実に意欲的で革新的な年だった。今から約50年前の話である。まずは前年にサイケな名作アルバム『サタニック・マジェスティーズ』をリリースし、年が明けて間髪を入れず『ベガーズ・バンケット』を制作するために、メンバーは頻繁にロンドンの「オリンピック・スタジオ」に集結した。そして、2月にはサウンド・プロデューサーにジミー・ミラーを採用する事をミック・ジャガーは発表する。今になって思うのだが、この「ジミー・ミラーの登用」が、なにより画期的だった。同時にミックの視覚的映像的才能が、激しく開花してゆく時期でもあった。 
25歳のミックはこの年、楽曲制作をこなしつつも、同時に映画『パフォーマンス(ニコラス・ローグ監督)』の主役を演じ撮影し、その上「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」のプロモ映像の制作撮影、そして映画『ワン・プラス・ワン(ジャン・リュック・ゴダール監督)』の撮影と立て続けに映像カルチャーに関わりを持ち、その才覚を錬磨し、成長してゆくのだった。この頃、ミックは「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」はプロモ映像の効果もあって大ヒットしたと語っている。テレビの普及によって映像文化が社会に広がっているのを充分に感知していたのだろう。
一方でブライアン・ジョーンズは3月大麻不法所持で再度逮捕され、裁判にかけられ罰金刑になるなど暗澹たる時間を過ごしていた。同じ3月、チャーリーに長女セラフィーナが誕生した。育児に夢中だったのではないか(そうだ、当時のミックの伴侶、マリアンヌ・フェイスフルも妊娠したが、残念ながら流産したという悲しい出来事も起きている)。ビル・ワイマンは、無名のバンド「ジ・エンド」の音楽プロデュースをしたり、課外活動に余念がなかったようだ。そして、キースはこの時期、自室にこもり、まさに「サウンド・マニア」とも言うべき姿勢で、ギターサウンドのみならず、ベースは勿論のこと、作詞作曲から歌唱の練習やコードやハーモニーやエコーを研究したり、壁や食器を叩いたりと新たなサウンド創作(『Let It Bleed』の制作?)に夢中だったようである。
ある時ミックは、The Whoのピート・タウンゼントと雑談をしているうちに、『ロックンロール・サーカス』の原案を着想したようである。しかし、この話は当初「実際に、ストーンズとフーとで組んで、サーカス団のように全米を巡業してまわり、それを映画にする」という構想だったのが、ブライアンが大麻不法所持による保護観察処分中で米国に入国出来ない可能性や資金的な問題で縮小変更を余儀なくされ、英国BBC関係者にこの企画を持ち込んだ所、様々な紆余曲折の末、ロンドン北西のウエンブレーのインターテル・スタジオでテレビ向けロックンロール・ショーを開催し撮影する事になったようである。ただ、この年、ストーンズはアルバム『ベガーズ・バンケット』を完成して、ジャケット問題でレコード会社と揉めて発売を延期していた事を忘れてはならないだろう(つまり、ミックは基本的に『ベガーズ・バンケット』の販売プロモーションを考えていたと思われる)。それと前年のビートルズの映画『マジカル・ミステリー・ツアー(1967年12月放送)』の影響は否定出来ないだろう。
さて、正確には’68年12月10日から13日の早朝までかけて撮影は行われたようだ。抽選で観客を募集し打ち合わせし仮装させたり、リハーサルを重ねたり、実際のサーカス団に演技させたり、米国人のタジ・マハールのロンドン滞在時間が英国の音楽ユニオンに制限されたりと問題が噴出し、予定より大幅に時間がかかり、現場はてんてこ舞いだったようだ。最後のストーンズの演奏場面では、みんな疲れ果てくたくたになっていたとも言われている。疲弊したストーンズの演奏が気に入らないので、フィルム編集段階で、ミックはお蔵入りにしたと言われている(また、ちょっと肥満気味のブライアンの衰弱した姿を見せたくないという意見もあったらしい。僕は素晴らしいと思うのだが、どうなんだろう。蛇足だがストーンズは当時の未発表曲である「You can't always get what you want」を披露している)。
話は飛ぶが、僕は1991年にチャーリー・ワッツ・クインテットのライヴを観にロンドンに行った時の事である。ロニースコッツでのライヴが終わってから、ストーンズの敏腕女性マネージャー、シェリー・デイリーさんとバンド・メンバーたちと食事をした。その時に、シェリーは僕の正面の位置だった。談笑しているうちに不意にシェリーが「ゆうじ、あなただったら、今、ストーンズに何を望むの?」と質問して来た。その質問の真意を測りかねたが、ふと「今まで日本では観られない過去の映像」が頭に浮かんだ。それは最初『コック・サッカー・ブルース』だったが、タイトルに品がないので言い出せず、ついで浮かんだのが『ロックンロール・サーカス』だったのである。そこで「シェリー、僕は『ロックンロール・サーカス』が観たい」と言った。すると意外な答えが返って来た。「あら、そんなの、お安い御用だわ。明日、オフィスに来たら観せてあげるわ」との返事。一瞬、ためらったが「いや、そうではなくて、日本のファンの仲間みんなと観たいんだ」とちょっと偽善的な答えをしたのである。
するとシェリーは真剣な表情になり、つぶやくように言った。「あのムービーは権利関係が難しいのよ。ジョン・レノンが出ているでしょ。フーも出てるでしょ。クラプトンもね。今じゃみんな、なんと言うかしら。調べてみるわね」
するとなんと言う事だろう。その5年後の1996年、日本のレコード会社の折田育造さんが連絡して来て、「今度、うちでストーンズの『ロックンロール・サーカス』をリリースする事になったんだけど、ロンドンからの伝言で君に連絡してくれと言う事なんだけど、どういうこと?」と電話が来たのである。勿論、部屋で一人で跳び上がって喜んだのだった。「シェリーは忘れてはいなかった!」
 ≪著者略歴≫池田祐司(いけだ・ゆうじ):1953年2月10日生まれ。北海道出身。1973年日本公演中止により、9月ロンドンのウエンブリー・アリーナでストーンズ公演を初体感。ファンクラブ活動に参加。爾来273回の公演を体験。一方、漁業経営に従事し数年前退職後、文筆業に転職。  
 http://music-calendar.jp/2017121101

 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『THE BEATLES (アニメ ザ・ビートルズ)』Season 1 ┃26 animated color episodes
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛in 30 minute format
‡Ep.12 1965(昭和40)年12月11日(sat) No.23 「♪Everybody's Trying to Be My Baby (みんないい娘)♪」
 Sing-a-Longs ♪I'm a Loser♪
‡Ep.12 1965(昭和40)年12月11日(sat) No.24 「♪I Should Have Known Better (恋する二人)♪」
 Sing-a-Longs ♪I Wanna Be Your Man (彼氏になりたい)♪
 Directed By・・・・・・Graham C. Sharpe & Ron Campbell / Jack Stokes
 Voice Cast・・・・・・・Paul Frees...John Lennon.......伊武雅刀
 Voice Cast・・・・・・・Paul Frees...George Harrison...田中秀幸
 Voice Cast・・・Lance Percival...Paul McCartney....小幡研二
 Voice Cast・・・Lance Percival...Ringo☆Starr......曽我部和恭
 Created By・・・Al Brodax & Sylban Buck 
 Songs By・・・・・THE BEATLES
**************************** http://beatlescartoon.jp/
 http://en.wikipedia.org/wiki/The_Beatles_(TV_series)
 http://web.archive.org/web/20091028135843/http://geocities.com/garn13/beatles.html
 http://www.geocities.jp/thebeatlescometogether/gallery/photograph/animation.html
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ THE BEATLES TV Appearance Photos Quick-Reference Guide 1962-1970 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 (tue)10 December 1968『Rock And Roll Circus』(rehearsal)
‡(wed)11 December 1968『Rock And Roll Circus』(rehearsal)
‡(wed)11 December 1968『Rock And Roll Circus』♪Yer Blues♪
‡(wed)11 December 1968『Rock And Roll Circus』♪Whole Lotta Yoko♪
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 http://www.beatlesource.com/TV/index.html
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ THE BEATLES Live 1961 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡(mon)11 December 1961 Liverpool, England, The Cavern Club 
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ THE BEATLES Live 1962 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡(tue)11 December 1962 Runcorn, England, La Scala Ballroom 
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ Autumn 1963 UK Tour“THE BEATLES SHOW” ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡No.35 (wed)11 December 1963 Scarborough, England, Futurist Theatre 
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 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_the_Beatles%27_live_performances
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ THE BEATLES' 1965 UK tour  ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡No.15 (sat)11 December 1965,   London City, Finsbury Park Astoria (Afternoon)
‡No.16 (sat)11 December 1965,   London City, Finsbury Park Astoria (Evening)
   01.♪I Feel Fine♪
   02.♪She's a Woman♪
   03.♪If I Needed Someone♪
   04.♪Act Naturally♪
   05.♪Nowhere Man♪
   06.♪Baby's in Black♪
   07.♪Help!" (Lennon)
   08.♪We Can Work It Out♪
   09.♪Yesterday♪
   10.♪Day Tripper♪
   11.♪I'm Down♪
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 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Beatles%27_1965_UK_tour
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 ┏━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 映画『ノルウェイの森』 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛著者:村上春樹
 2010(平成22)年09月12日(日) トロント国際映画祭(カナダ)
‡2010(平成22)年12月11日(土) 日  本 公開
 2012(平成24)年01月03日(火) アメリカ 公開
 2010(平成22)年07月29日(木) ヴェネツィア国際映画祭最高賞である金獅子賞などの対象となる
 コンペティション部門に出品。ウクライナ、ロシア、ノルウェーなど世界50カ国地域での配給も決定
 映像◆DVD『ノルウェイの森』予告編  https://youtu.be/-T7fo0afTzE
 
 音源◆ザ・ビートルズ https://youtu.be/rl2xQAeCvOc
 
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%81%AE%E6%A3%AE_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
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