過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)

 映像◆1980年12月8日 ジョンレノン暗殺事件https://youtu.be/k8hUuNzbN1E
†1980(昭和55)年12月09日(火) 15時00分放送
 
 映像◆ジョン・レノン射殺事件直後の報道特集 1980年12月https://youtu.be/brYZPUabTWU
 (1) 0:00 NHK 海外ウィークリー
 (2) 6:29 フジテレビ アップルハウス まだ事件の衝撃が残る中で製作された物で、取りあえず感は残る物の、当時の歴史の一端として見て頂ければと思います。
 
 映像◆ジョン・レノン殺害40年、聖地リバプールは今【あさチャン!】
†2020(令和二)年12月09日(水) TBS「あさチャン!NEWS LIVE6」、世界の今が見える「World特派員リポート」です。今日はイギリスからです。現地12月8日はザ・ビートルズのジョン・レノンが殺害されて、ちょうど40年です。節目の年、どんなふうに迎えられているんでしょうか? ザ・ビートルズ生誕の地リバプールからの報告です。
 
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓
①┃Murder of JOHN LENNON┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 1980(昭和55)年12月08日(月) 22時50分 紐育時間 
 1980(昭和55)年12月08日(月) 22時50分 現地時間
†1980(昭和55)年12月09日(火) 12時50分 日本時間
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
②┃♪十二月のセントラルパークブルース♪┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
****************************************
①https://en.wikipedia.org/wiki/Murder_of_John_Lennon
②https://mc-lyrics.com/central-park-blues/
****************************************
 1980年の日本
 https://ja.wikipedia.org/wiki/1980%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC

■1964(昭和39)年04月04日(土)、前人未到の記録が生まれました~ビルボードのチャートを独占!
 1964(昭和39)年04月04日(土) 半世紀前、"Billboard Hot 100"に措いてビートルズは、前人未踏の1位から5位を独占という快挙を成し遂げました。この快挙は、当時のビートルズ人気の凄まじさを語る時に必ず話される有名な出来事です。この5曲以外にも7曲が100位以内にチャートインしています・・・
 1964(昭和39)年04月04日(土)付 Billboard Hot 100
 01.♪Can't Buy Me Love♪
 02.♪Twist & Shout♪
 03.♪She Loves You♪
 04.♪I Want To Hold Your Hand♪
 05.♪Please Please Me♪
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 31.♪I Saw Her Standing There♪
 41.♪From Me To You♪
 46.♪Do You Want To Know A Secret♪
 58.♪All My Loving♪
 65.♪You Can't Do That♪
 68.♪Roll Over Beethoven♪
 79.♪Thank You Girl♪ しかし、いくらビートルズ人気が爆発という状況だったとはいえ、このチャートは異常です!何故、このような奇跡的なことが起き得たのでしょうか? この奇跡が起きた理由は?ビートルズはアメリカ進出を試みるも、大手レコード会社(Capitol)から相手にされず、初めの内は小さなレーベル(Vee Jay など)からやむ得ずリリース。弱小レーベルの為、全く宣伝もされず、英国でヒットした曲たちは話題にもなりませんでした。それは、リリースされたという実績だけを積み重ね、“埋没されるという状況”を生みつつありました。そんな中、「抱きしめたい」の突然のブレイクで、以前にリリースされていた曲が一挙に引きずられようにヒット・チャートを駆け上ったわけです。しかも、『チャンス到来!』とばかりに、可能な限り、シングル盤をリリースした結果が、このような奇跡を生み出しんですね!
 1963(昭和38)年02月25日(mon) Vee Jay♪Please Please Me♪ / ♪Ask Me Why♪
 1963(昭和38)年05月27日(mon) Vee Jay♪From Me To You♪ / ♪Thank You Girl♪
 1963(昭和38)年09月16日(mon)   Swan♪She Loves You♪ / ♪I'll Get You♪
‡1963(昭和38)年12月09日(mon) Capitol♪Roll Over Beethoven♪ / ♪Please Mr. Postman♪
 1963(昭和38)年12月26日(thu) Capitol♪I Want To Hold Your Hand♪ / ♪I Saw Her Standing There♪
 1964(昭和39)年01月30日(thu) Vee Jay♪Please Please Me♪ / ♪From Me To You♪
 1964(昭和39)年01月30日(thu) Vee Jay♪Ask Me Why♪ / ♪Anna♪
 1964(昭和39)年02月04日(tue)   Swan♪Komm, gib mir deine Hand♪(ドイツ語) / ♪Sie liebt dich♪(ドイツ語)
 1964(昭和39)年02月17日(mon) Capitol♪All My Loving♪ / ♪This Boy♪
 1964(昭和39)年03月02日(mon)  Tollie♪Twist & Shout♪ / ♪There's A Place♪
 1964(昭和39)年03月16日(mon) Capitol♪Can't Buy Me Love♪ / ♪You Can't Do That♪
 1964(昭和39)年03月23日(mon) Vee Jay♪Do You Want To Know A Secret♪ / ♪Thank You Girl♪
 こういった快挙はもう生まれない!現在のようなネット社会では、他国で流行ってる音楽などリアルタイムで耳にする事が出来ます。このようにヒット曲が知られることなく“溜め置かれる”ことなど考えにくい為、二度とこのような状況は生まれないでしょう!
 http://magicaldoor2009.blog63.fc2.com/blog-entry-650.html

 音源◆ジョンレノン追悼 1980年 12/9 オールナイトニッポンよりhttps://youtu.be/g3JdsP9QYB0
‡1980(昭和55)年12月09日(火)
 松山千春のオールナイトニッポン枠であったが、、ジョンレノンが射殺されるという大事件が起こり、急遽、くり万太郎、石坂敬一氏による特別番組へ変更となった(涙)内田裕也他、多数の著名人のコメント及び、、レノンの肉声には、、悔しさ、、涙なくして聞けないです。とりあえず、オープニングをのせました。
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 音源◆1980年12月11日 NHK-FM『軽音楽をあなたに』ジョン・レノン追悼番組 第二夜https://youtu.be/xm6_PVXMpBk
 1980(昭和55)年12月11日(木) NHK-FM『軽音楽をあなたに』
 当時、カセットテープに録音した音源です。第二夜はジョンのソロ時代。こちらは番組全体のテープが現存していました。その中からトーク部分を抜粋します。驚くのは
 1980(昭和55)年11月17日(月)にリリースされたばかりの「ダブル・ファンタジー」から1曲を除いて全曲をオンエアしていること。NHKにしては大胆だし、よくレコード会社も許したと思います(あっ、いちいち許可を取らないか)。ちなみにオンエアされなかった1曲とはヨーコの「Kiss Kiss Kiss」...そりゃあ放送コードに引っかかるに決まっていますね。
 

 映像◆John Lennon Medley - PAUL McCARTNEY https://youtu.be/HMo_XUHEjdE
 

 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『THE KILLING OF JOHN LENNON』 ┃
 ┃  『ジョン・レノンを撃った男』  ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 2006(平成18)年07月15日(土) Edinburgh Film Festival
 2008(平成20)年01月02日(水) United States
 映像◆『ジョン・レノンを撃った男』 予告編https://youtu.be/GnwUEpg62F4
 
****************************************
 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Killing_of_John_Lennon
****************************************

 映像◆映画『ジョン・レノン,ニューヨーク』予告編https://youtu.be/uQVbxcagB0E
 
 2011(平成23)年08月13日(土)より東京都写真美術館ホールほか全国順次公開 没後30年以上を経た今もなお、多大な影響力を持つジョン・レノンがニューヨークで過ごした約9年間を追ったドキュメンタリー。1971年9月に移住してから1980年12月に凶弾に倒れるまでの日々を、自身の言葉や妻ヨーコ・オノへのインタビュー、貴重な未発表音源などを交えて映し出す。監督は、オスカーノミネートの経験を持つマイケル・エプスタイン。ニューヨーク時代のジョンの軌跡をたどるだけでなく、1970年代当時の空気を感じることができる。配給:ザジフィルムズ
 オフィシャルサイトhttp://www.johnlennon-ny.jp/
 (C) 2010 Two Lefts Don't Make A Right Productions, Dakota Group, Ltd. and WNET.ORG (C) Ben Ross
 ジョン・レノンが最も愛した街、そして彼の命を奪った街、ニューヨーク、あの時代。“ビートルズのジョン”が“ジョン・レノン”を取り戻した街、彼が生涯もっとも愛した街、そして彼の命を奪う舞台となった街、ニューヨークをキーワードにジョンの後半生を追った映像の決定版。オノ・ヨーコの全面的な協力、監修のもと、71年9月から80年12月まで約9年間過ごしたニューヨークの時代を本人のインタヴュー発言はもちろんのこと、ヨーコやエルトン・ジョンらの最新インタヴュー、そして信頼していたプロデューサー、ジャック・ダグラスを始め、活動を共にしたミュージシャンたち、さらに友人でもあったカメラマン、ボブ・グルーエンなど、真にジョンの身近にいた人たちの証言によって鮮やかにジョンの生活が迫ってくる映画だ。
 https://www.amazon.co.jp/dp/B073HGKM1M
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『CHAPTER 27 チャプター27』 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 何故ジョン・レノンは殺されたのか
 2007(平成19)年01月25日(木) Sundance Film Festival
 2007(平成19)年12月15日(土) US released
 2008(平成20)年03月28日(金) US released
 1976(昭和51)年07月27日(火) 長い法廷闘争後、USAグリーンカード取得
 1980(昭和55)年12月08日(月) 23:00頃、ダコタ・ハウス前で暗殺
 1980(昭和55)年12月06日(土) 元ビートルズのジョン・レノンに心酔する熱狂的なファンの青年マーク・デイヴィッド・チャップマンが、NYの空港に降り立った。彼の目的はただひとつ、ジョンを殺害することだった。世界中を震撼させたジョン・レノン殺害事件。その犯人の生々しい狂気に迫る衝撃サスペンス!
****************************************
 https://www.amazon.co.jp/dp/B087YZCPNY
 https://en.wikipedia.org/wiki/Chapter_27
****************************************
 映像◆チャプター27 予告編 -Chapter 27-  https://youtu.be/TxI_DCOTrW8
 

 映像◆The Comedy of John Lennon https://youtu.be/6NErU1WTEUE
 

 映像◆1980年12月08日 ジョンレノン暗殺事件https://youtu.be/k8hUuNzbN1E
‡1980(昭和55)年12月09日(火) 午前1時頃 日本時間
 

 ジョン・レノン没40年 先進の音楽と男女の関係 先んじて見せた21世紀
 2020(令和二)年12月03日(木) 17:37配信 産経新聞
 写真◆ジョン・レノン(左)が夫人のオノ・ヨーコ(右)と示した生き方は、新たな夫婦関係そのものだった Photo by Iain Macmillan(C)Yoko Ono
 英のロックバンド、元ビートルズのジョン・レノンが米ニューヨークで凶弾に倒れたのは1980年12月8日。間もなく40年、存命なら80歳になっていた。今年はビートルズの解散から50年の節目でもあり、展覧会の開催や映画の上映など、レノンの足跡を再確認する動きが盛んだ。20世紀最大のロックスターは音楽と、21世紀にも共通する課題の中を生きていた。(石井健)1940年、英リバプールに生まれたジョン・レノンは、17歳の頃に友人らとバンドを結成。後にポール・マッカートニー(78)らが加わり「ビートルズ」が形作られていく。東洋文化にも関心の深かったレノンは、69年に日本人アーティストのオノ・ヨーコ(87)と再婚。ビートルズでもソロでも多数のヒット曲を送り出し、若者の文化、生き方に大きな影響を及ぼした。仕事の帰りに、ニューヨークの自宅前でファンを名乗る男に銃で撃たれ、衝撃の死を迎える。40歳だった。
■19歳も「あこがれる」■ソニーミュージック六本木ミュージアム(東京)で今、「ダブル・ファンタジー ジョン・アンド・ヨーコ」展(来年1月11日まで)が開かれている。レノンとヨーコ夫妻の足跡を貴重な写真などでたどるものだ。主催のソニー・ミュージックエンタテインメント(東京)によると、来場者の中心は30~40代の女性。11月からは20代の男女も増えたという。「イマジン」や「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」といった名曲の数々は、日本のミュージシャンにも大きな影響を与えた。カバー曲は多数、歌詞にレノンを登場させた曲も枚挙にいとまがない。レノンの音楽は、ヨーコとの夫婦関係やベトナム反戦運動など、「生き方」とも深くつながっていた。「音楽家を超えて社会に向かって発信する姿に刺激を受ける。とても大きな存在。こんなふうに生きたい」。レノンへのあこがれを口にするのは、甲田まひる。19歳。インスタグラムで注目されたモデルで、ジャズピアノ奏者でもある。ユーチューブでレノンの動画を見るが「古さはない」という。SNS世代ならではの感覚で、レノンが残したものを受け止める。
■音楽と、人としてのあり方と■音楽評論家の湯川れい子(84)は「ビートルズが残した足跡は、いまなおポピュラー音楽の世界で最大」と話す。だが、レノンについては、音楽以上に「近年になって論じられる夫婦や男女のあり方、ジェンダーレス(性差がないこと)を半世紀前から実践していたことに大きな意義がある」と指摘する。例えばレノンは76年から足かけ5年、音楽の仕事をやめて育児に専念。当時は奇異の目で見られた。レノンは親交のあった湯川に「育児に必要なのは、愛と関心と食事だ」と話した。「20世紀の男性でそんなことを理解していたのはジョンだけ」と湯川は言う。ヨーコは湯川に「私たちは洋の東西、男と女、宗教などあらゆる『違い』について徹底的に話し合い、相互理解に努めた。そうやってたどり着いた夫婦の形が『ジョンとヨーコ』なのよ」と話したことがあるという。対立や分断とは正反対の存在がジョンとヨーコ。若い世代が共感するのも、こうした音楽を超えた部分なのかもしれない。
■映画「IMAGINE」4日公開■
 2020(令和二)年12月04日(金) 4日から全国で順次公開される映画「IMAGINE〈イマジン〉」は、レノンの名作アルバムの世界を映像化した。ユーモアのセンスが独特で戸惑う場面も多いが、夫妻の素顔をとらえている。10月には、ビートルズ解散後の代表曲36曲を集めた2枚組みCD「ギミ・サム・トゥルース.」も発売されている。一方、ビートルズ時代の盟友、ポール・マッカートニーは、精力的な音楽活動を続けている。18日にはアルバム「マッカートニーIII」を発売。英国の最初のロックダウンの時期、コロナと闘ううちに創作意欲に火がついた。シンプルだが重々しい響きのロック曲や思索的な弾き語りなどが聴ける。
◎SUPER BAKA HUNTER | ビートルズは別に好きではなかったが、僕と同じ中学で頭がいいのに僕と同じ偏差値の低ーい高校に来た同級生のある男子がビートルズが好きでとりわけジョン・レノンの大ファンだった。あの日
†1980(昭和55)年12月09日(火) 12月8日の翌朝、駅で少し離れた場所から彼を見かけて元気よく「おはよう!」と声をかけるも反応なし。下を向いたままで何か様子がおかしい。近づいて、どうした?と話しかけると下を向いたままの彼は人目も憚らず大泣きしていた。そして涙を流しながら手に持っていた東スポを差し出した。<ジョン・レノン射殺>の大きな見出しがトップ記事にデカデカと。ショックだった。言葉にならない彼は、ただ泣きながら立ちすくんでいた。僕も一緒に泣いた。あの時のあいつの涙は一生忘れない。同時にあいつの大好きだったジョン・レノンの素晴らしい歌を聴く度にあいつの気持ちがわかったような気がする。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/e89b5424932ec147cc536304dd43d5b279f43220


 ♪ビートルズに会えなかった♪
 http://www.uta-net.com/song/175881
 https://www.uta-net.com/song/1326
 ♪十二月に彼は星になった♪


 映像◆ジョンレノン暗殺事件https://youtu.be/k8hUuNzbN1E
†1980(昭和55)年12月09日(火) 
 
 2014(平成26)年02月21日(金) に公開 katsuya yamamoto
 ※1980年当時の家庭用VTR普及率 は 2.4%でした。※録画機材1977年製 βII搭載機 SL-8100
 映像◆1980年John Lennonジョン・レノンが射殺された当時のTV追悼番組①https://youtu.be/MDpnTyv63P8
 1980(昭和55)年12月xx日(x)『?』
 
 映像◆1980年John Lennonジョン・レノンが射殺された当時のTV追悼番組②https://youtu.be/lmdFJRdGxic
 1980(昭和55)年12月09日(火)『3時にあいましょう』
 
 削除動画◆1980年John Lennonジョン・レノンが射殺された当時のTV追悼番組③https://youtu.be/f0OaLu7uUp0
 ┏━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『知ってるつもり?!』 ┃日本テレビ系列
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛ 21:00~21:54
†1990(平成二)年12月09日(日)「ジョン・レノン」 
 映像◆知ってるつもり ジョンレノン (1990年)https://youtu.be/z306XG-zuRc
 
*********************************************************
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%81%A4%E3%82%82%E3%82%8A%3F!_%E6%94%BE%E9%80%81%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88
*********************************************************


 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『A COLLECTION OF BEATLES OLDIES』 ┃BUT GOLDIES!
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡1966(昭和41)年12月09日(fri) UK released ※THE BEATLES RECORD COLLECTION
 1966(昭和41)年12月10日(sat) UK released ※Wikipedia English version
 1967(昭和42)年02月05日(sun) JP released 
************************************************************
 英Mhttp://yokono.co.uk/collection/beatles/uk/lp/uk_lp_mono_p3.html##8-1
 英Shttp://yokono.co.uk/collection/beatles/uk/lp/uk_lp_stereo_p3.html##8-1
 日http://yokono.co.uk/collection/beatles/japanese/lp/lp_op_8016.html
 http://www.geocities.jp/mr_tako_seijin/page_lp/oldies.html#
 https://en.wikipedia.org/wiki/A_Collection_of_Beatles_Oldies
 音源◆https://music.amazon.co.jp/my/playlists/オールディーズ+ビートルズ/8737774b-78ea-4758-9e8a-add85953fd06
************************************************************

 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『THE BEATLES ANTHOLOGY 2』 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 1996(平成八)年03月18日(mon) JP Released
 1996(平成八)年03月18日(mon) UK Released
 1996(平成八)年03月19日(tue) US Released
◇Disc two (CD2)
◎LP D-side (Record Disc 2)
 1966(昭和41)年11月29日(tue) EMI Studios 4:14
‡1966(昭和41)年12月09日(fri) EMI Studios 4:14
  03."Strawberry Fields Forever (Take 7 and edit piece)" (mono)
*******************************************
 https://music.amazon.co.jp/albums/B01DJHE4YS
 https://music.amazon.co.jp/albums/B07FTBJ8VJ
 https://en.wikipedia.org/wiki/Anthology_2
 https://music.amazon.co.jp/albums/B00H77Z0I6
*******************************************
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ ビートルズ詳解 The Beatles’Corpus ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
①1961(昭和36)年12月09日(土) ライヴ演奏:パレス・ボールルーム/アルダーショット
③1962(昭和37)年12月09日(日) ライヴ演奏:キャバーン・クラブ (夜)/リヴァプール ※ジョージ・マーティンがビートルズのパフォーマンスを見る
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
①1961(昭和36)年12月09日(土) これはビートルズが南イングランドで行った最初のショーであった。会場はハンプシャー州アルダーショット (Aldershot, Hampshire) のパレイ・ボールルーム (Palais Ballroom) であった。このパレイ・ボールルームでのイベントは、すでにマージーサイド地区 (Merseyside) では数多くビートルズのショーを成功させているサム・リーチ (Sam Leach) の企画だった。彼の考えは、レコード会社の幹部やA&R* の人間がビートルズを見にリヴァプールに来ようとしないので、彼らを連れてこっちの方から南東部に乗り込んでやろうという、ややシンプルで楽観的なものだった。*レコード会社における職務の一つ。Artist and Repertoire(アーティスト・アンド・レパートリー)の略。アーティストの発掘・契約・育成とそのアーティストに合った楽曲の発掘・契約・制作を担当する。しかしながらリーチの善意も、彼の地勢的な知識の欠如により惨憺たる結果となる。彼はビートルズをグレーター・ロンドン地区でプロモーションするのではなく、パレイ・ボールルームでのショーに彼らをブッキングした。それも5週連続の土曜の夜にであった。アルダーショットはロンドンから37マイルも離れた軍事都市であり、しかもパレイ・ボールルームは地元住民のボブ・ポッター (Bob Potter) による個人運営のホールであった。この夜のショーのポスターやビラには『リヴァプール vs ロンドン バンド対決』と銘打たれ、出演者はビートルズとアイヴァー・ジェイ&ザ・ジェイウォーカーズ (Ivor Jay & The Jaywalkers)、それに名前は記されなかったが「さらに2つのスターグループ」と書かれた。リーチはまたアルダーショット・ニュース (Aldershot News) という新聞に、かなり大きなサイズの広告を載せたつもりでいた。ところが広告料としてリーチが送った100ポンドの小切手は、新規の顧客は現金払いに限るという社内規定により、新聞社はその小切手を現金化することができなかった。さらにリーチは自分への連絡方法について何も知らせていなかったため、新聞社は支払いについての規定を彼に説明することもできなかったのである。こうして遂にその広告はなされずに終わった。その結果としてビートルズは、
ほとんど空の会場で演奏するはめとなる。リヴァプールから9時間の移動に耐えてはるばるやって来て、いざステージに上ろうという時に、彼らは町の喫茶店に行って彼らのショーの入場券を無料で配って歩いた。にもかかわらず会場に現れた観客はたったの18人であった。さらには出演者のアイヴァー・ジェイ&ザ・ジェイウォーカーズも現れないという、泣きっ面に蜂となった。
 ピート・ベスト『Beatle!』1曲を半分くらい演奏したところで、ジョージとポールは上着を着てフロアに降りて行き、フォックストロット (foxtrot) を一緒に踊り始めた。残りの2人は、彼らとわずかな見物人のために必死でバック・ミュージックを取り繕ったよ。ショーの後半は僕らは道化師に徹した。ジョンとポールはわざと音やコードを間違え、オリジナルの歌詞には無い言葉を加えて歌っていた。
 レコード会社のA&Rの人間に出席を呼びかけていたサム・リーチは意気消沈した。彼はアルダーショットの仕事のために派手な車をまる一月借りきり、リヴァプールとアルダーショット間の自分の往復のために、デイヴ・ジョンストン (Dave Johnstone) というおかかえ運転手をも雇っていた。一方ビートルズは、リーチの友人テリー・マッキャン (Terry McCann) が運転するヴァンでそのイベント会場に移動した。
 テリー・マッキャン ⇒ 僕らはとても早く出発した。サムはデイヴの車で、僕はビートルズとヴァンに乗った。ジョンはもちろん前の席に乗ったが、ピートとポールも前に乗ったのでギューギュー詰めで僕は運転できなかった。だから誰かがジョージとうしろの席に行かなければならなかった。結局うしろに行ったのはポールだったと思う。 当時は高速道路は無かったので僕はA1道をロンドンに向かった。途中スタッフォード州のカフェで休憩したんだが、その入口でのすれ違いに僕らに眼を付けてきた連中がいたのを覚えている。ビートルズの古びた黒革の服装を見ればある意味当然で、僕は彼らを責められないね。金を払ってその店を出る時、誰かが「ここにビートルズがいる」と引っ掻いてあった。アルダーショットには夕方5時~6時頃に着いて、会場を見つけたが鍵がかかっていて、解錠されるのを待たなければならなかった。だから僕らは腹ごしらえに行った。サムは外に出て、僕が数日前に貼り付けたポスターが引き裂かれているのを見つけた。それから新聞に広告が載ってないことにも気付いた。誰かがキャンセルしたのかなと僕は思ったよ。それは一つのトリックで、当時よくやってた手法だったんだ。気にせず会場に入り、荷物を降ろして、彼らをアンプをセットアップして、観客が群れてやって来るのを待った ... 辛抱強く待った ... が誰も来ない。サムのとっさの対応は道路の向かいのパブに飛び込んで、そこの客をこっちに引っぱってくるというものだった。彼はビールを会場に運び込んだ。それが写真に写っているだろ。また彼は通りがかった人を、誰かれ構わず呼び止めてはショーのことを宣伝した。彼らは一応入って来たが、ちらっと見てはつまんないと言って、どこかに消えていった。ビートルズはさすがにうんざりの様子だったが、演奏は続けた。彼らのいつものナンバーをやってたはずだ。チャック・ベリー (Chuck Berry)、ジェリー・リー・ルイス (Jerry Lee Lewis)、エディ・コクラン (Eddie Cochran) なんかだ。ジョージはチャック・ベリーの曲のイントロを全部知ってたので、それは十八番芸だった。ポールはたぶん「Till There Was You」を歌ったと思う。他のみんなは嫌ってたが、ポールはそれだけは譲らなかったんだ。僕は観客が興味を感じていないことに驚きはしなかった。特に僕がドラムを叩いた15分位の間はね
ピートはある時点で嫌になって、代わりに僕がステージに上って数曲を演奏したんだ。それは以前にもやったことがあった。僕はリズムをキープすることはできたけど、けっして良い物じゃなかったよ。あの夜はこんな感じだったのさ。ビートルズは何もかもに失望して、ステージに上ったり下りたりしてた。それでジョージがフロアでワルツを踊って、ジョンがビールを飲んでいる写真が残っているというわけだ。ディック・マシューズ (Dick Matthews:マージー・ビート誌のカメラマン) はその間ずっと撮影し続けていたはずだ。それが彼の仕事だったからね。ジョージがポーズを取っている写真には、彼の靴に開いた穴がはっきり写っていた。でも掲載される時にはその部分はトリミングされていたよ。たった4人が踊り、他の6人は部屋の縁に立ってつまらなそうな顔をしているという状況が、ビートルズにとってどんなものだったか想像できるだろ。かれらはベストを尽くしたが、報われなかった。彼らは9:30pm頃に荷物をまとめた。それからサムはビールとビンゴボールをフロアに投げ散らし始めた。まさに「リヴァプール vs アルダーショット」だった。
 地元では満席の会場でプレーすることに慣れていたビートルズだが、この時はまばらな観衆を前にしての演奏だった。サム・リーチは広いフロアを埋めるために「もっと散って下さい! 広がってください!」と、踊っている人々に言って回った。
 サム・リーチ ⇒ 残念ながら彼らのダンスは死人のシャッフルみたいだった。また僕はレコード・プレーヤーを入手できなかった。だからビートルズの休憩はたった15分に切り詰めざるを得なかった。
 リーチの友人のリチャード・マシューズ (Richard Matthews) が撮影したこのイベントの写真では、ビートルズの演奏中の顔は幾分むっつりしているように見える。ショーの終了後、彼らはワットニーのブラウン・エール (Watney's Brown Ale) を飲み、ダンスフロアでビンゴボールのフットボールをして、自らを慰める。そしてその会場で狂わんばかりに騒ぎまくった。付近の住民は警察に通報し、彼らが1:00amにボールルームから外に出てみると、3台のパトカーと4台の警察のヴァンが待機していた。彼らは町から出て、戻ってこないように言われる。
 サム・リーチ ⇒ そのわずかの観客は興奮を味わい、次の週も仲間を連れてやって来ると約束してくれた。当時若者だった彼らが、ビートルズがアルダーショットに現れて、ほとんど誰も彼らを見に集まらなかった事実を、今どんな風に語るのだろうと思うことが時々ある。僕にはこう聞こえてくる「ああ、僕らはそこにいたんだ。たった18人でビートルズのステージを見たんだ。彼らは1曲アンコールにも答えてくれたんだ。」
 どこに行くあてもないので彼らは車でロンドンに向かい、ソーホー区 (Soho) のブルー・ガーディーニャ・クラブ (Blue Gardenia Club) 行き、そこで即興的な演奏を行った。それはすでに
 1961(昭和36)年12月10日(日)の早朝である。そのクラブは、カス&ザ・カサノバス (Cass & The Cassanovas) の前のシンガー、ブライアン・カッサー (Brian Cassar) が経営していた
 1961(昭和36)年12月16日(土) 翌週の土曜日、リーチによる5週連続の企画の第2弾として、ロリー・ストーム&ザ・ハリーケーンズ (Rory Storm & The Hurricanes) がパレイ・ボールルームで演奏する。この時はアルダーショット・ニューズ紙は広告を掲載し、210人の観客を集めた。しかしリーチはあまりにも多くのトラブルに、残り3回のショーをキャンセルすることを決めた。
  写真◆上からディック・マシューズ、ジョン、ジョージ、サム・リーチ
  パレイ・ボールルームはアルダーショットのクイーンズ通り (Queen's Street) とペローン通り (Perowne Street) の角にあった。後に焼失して新たな建物が建てられている。
②オッド・スポット・クラブ (Odd Spot Club) はリヴァプールのボールド通り (Bold Street) 89番に所在し、この日ビートルズは初めてこのクラブに出演した。このクラブは
‡1961(昭和36)年12月09日(土)にオープンしている。
 ビートルズはオッド・スポット・クラブには2回出演しているヨ(=^◇^=)
 1962(昭和37)年03月29日(木) 
 1962(昭和37)年08月11日(土)
③1962(昭和37)年12月09日(日) ライヴ演奏:キャバーン・クラブ (夜)/リヴァプール ※ジョージ・マーティンがビートルズのパフォーマンスを見る
 いつものありふれたキャバーン (Cavern Club) のイブニングショーであった。ただいつもと違っていたのは、観客の中にパーロフォン (Parlophone) のプロデューサー、ジョージ・マーティン (George Martin) がいたことである。マーティンとアシスタントのジュディ・ロックハート・スミス (Judy Lockhart-Smith:後にマーティンの妻となる) はこの湿っぽい地下クラブには似つかわしくない観覧者であった。マーティンがここに現れた理由は、ビートルズが故郷の群衆を前にして行う演奏を録音し、そのライブ録音を彼らのデビューアルバムとしてリリースすることを思いついたからであった。しかし結局彼はその思いつきとは異なる判断をし、アルバム『Please Please Me』をレコーディングして1953(昭和28)年のはじめにリリースする。ジョージ・マーティン (George Martin) の決断の鍵となったのは、このクラブの蒸し暑い環境がEMIの高価な装置に悪影響を与えることを恐れたためであった。ビートルズの他にはザ・フォーモスト (The Fourmost)、ザ・ブルー・ジーンズ (The Blue Jeans)、ゼニス・シックス・ジャズ・バンド (Zenith Six Jazz Band) が出演している。マーティンはザ・フォーモストのコメディ演芸に興味を示したことがブライアン・エプスタイン (Brian Epstein) を促し、彼はザ・フォーモストに対してマネージメントの契約を提示している。
 デイヴ・ラヴレイディ (The Fourmost)「The Cavern」スペンサー・レイ ⇒ ジョージ・マーティンが、ロンドンに来てオーディションで演奏漫談をしてみないかと誘った時、僕らは吹き出しそうになったよ。あれは巧妙なもので僕らは自分たちの芸に満足していたが、ジョージ・マーティンは僕らが間違ったコードを演奏してると言ったね。 
 これは彼らの117回目のイブニングショー出演であり、ランチタイムショーを含めると265回目のキャバーン・クラブへの出演だった。ビートルズのキャバーン・クラブへの正確な出演回数は判っていないが、1961年2月9日から1963年8月3日までの期間に、少なくともランチタイムショーで155回、イブニングショーで125回の演奏を行っている。
④1962(昭和37)年03月31日(土) ライヴ演奏:サブスクリプション・ルームズ/ストラウド
 この日ビートルズはサブスクリプション・ルームズ (Subscription Rooms) に初めて出演した。この会場はグロスター州ストラウド (Stroud, Gloucestershire) のジョージ通り (George Street) にある大きな建物である。これは南イングランドでは通算2回目のショーであった。1回目は
‡1961(昭和36)年12月09日(土)にアルダーショット (Aldershot) のパレイ・ボールルームで開催されたショーで、その時彼らは悲惨な思いを経験している。しかし今回は、初めてブライアン・エプスタイン (Brian Epstein) のマネージメントによりブッキングされている。このイベントはサム・リーチが企画したアルダーショットのショーとは異なり、カーナ・バラエティ・エージェンシー (The Cana Variety Agency) というしっかりしたロンドンの企画会社によって開催されたものであったが、サブスクリプション・ルームズでのショーは好ましいものではなかった。この会社はジョン・[ジャック]・ファロン (John [Jack] Fallon) とビル・フレイザー・ライド (Bill Fraser Reid) が経営し、南イングランドでのイベントを企画/開催していた。
************************************************************
 ①http://gejirin.com/beatles/history/1961/19611209_live_Palais_Ballroom.html
 ②https://gejirin.com/beatles/history/1962/19620329_live_Odd_Spot.html
 ③http://gejirin.com/beatles/history/1962/19621209_live_Cavern.html
 ④https://gejirin.com/beatles/history/1962/19620331_live_Subscription_Rooms.html
************************************************************
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓┌─―――――┐
 ┃ THE BEATLES HISTORY ┃|December 09|343
 ┃    ザ・ビートルズの今日の出来事   ┃|12月09日|
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛└─―――――┘
 1960(昭和35)年12月09日(金)  初のハンブルグ巡業はジョージが18歳未満だったということ、またポールとピートの放火事件で強制送還になって、ジョンとスチュたちとは離ればなれに。
 1963(昭和38)年12月09日(月)  秋の全英ツアーでサウスエンド・オン・シーのオデオン・シネマでコンサート。楽屋でBBCテレビ・ニュースのスタッフがインタビュー
********** http://www.thebeatles.co.jp/contents/index2.htm
 http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=17211
 http://beatlesdiary.web.fc2.com/day/012/1209.html
 https://blogs.yahoo.co.jp/fab4city/15583663.html
 http://www.beatlesagain.com/bhistory.html
 楽曲資料https://beatlesdata.info/
 歌詞充実http://tsugu.cside.com/index.html
*******************************************

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「日記」カテゴリーもっと見る