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┃ ♪I am a father♪ ┃
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‡2005(平成17)年06月08日(水) リリース
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音源◆https://music.amazon.co.jp/albums/B00FRC6Z8W
https://ja.wikipedia.org/wiki/I_am_a_father
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┃ ON THE ROAD '88 FATHER'S SON ┃前半戦 日程
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‡034.1988(昭和63)年06月08日(水) 八戸市公会堂
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http://www.flashandshadow.com/shogo/live/on/on1988.html
https://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11600186984.html
http://ameblo.jp/futabayama69/entry-10819384548.html
http://www9.plala.or.jp/bt-pearl/dear_memories.html
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89.1.28♪ON THE ROAD♪映像◆http://www.nicovideo.jp/watch/sm13810282#
『ライブ! ライブ! ライブ! ~浜田省吾 ワン&オンリー、未発表ライブ !』
‡1991(平成三)年06月08日(土) 16:00~17:00 TOKYO-FM
O.A内容
1990(平成二)年11月17日(土) 駒沢大学記念講堂で行われた留学生支援コンサートの模様をO.A。
ラジオ欄の曲目
1.Jボーイ(J.BOY)
2.風を感じて ほか
パーソナリティー:井上尭之
01. ~風を感じて~
<浜田省吾と井上尭之とのトーク1>
02. ~青の時間(インストゥルメンタル)
~詩人の鐘~MY OLD 50'S GUITAR
03. HELLO ROCK&ROLL CITY
04. モダンガール
05. MIDNIGHT FLIGHT-ひとりぼっちのクリスマス・イブ-
06. J.BOY
~CM~
07. 風を感じて
<浜田省吾と井上尭之とのトーク2>
浜田省吾と井上尭之の初顔合わせ。サングラスをはずして、伊達眼鏡でスタジオ入り。当時は、考えもしなかったけど、いつのころからだろう。もうサングラスなんて要らないんだよなと、思い始めた。もし、ステージで一曲でも、素顔や伊達眼鏡で歌ったら、ファンは離れていくのだろうか。ま、そんなことを考えながら聴き直した、駒沢大学記念講堂で行われた留学生支援コンサートの模様。「MY OLD 50'S GUITAR」のグルーヴ感が堪らない。このツアーは、「MY OLD 50'S GUITAR」とラストの「夏の終わり」と、改めて思う。一年以上のインターバルはあったけれど、それでもコンスタントに、新作アルバムをリリースして、ツアーに出ていた頃。新作の数曲は、次回のツアーのメニューに残され、やがてライブの定番となっていく。 それが当たり前だと思っていた頃。リメイクで、過去の作品を、現在にあったクオリティーにするのもいいけれど、進行形で、今を、鼓動のある作品を積み上げていく途上の浜田省吾が好きでした。懐かしいです。ちなみに、次週プログラムは、COMPLEXを解散して、再びソロ活動を開始した吉川晃司のライブでした。
http://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11600112600.html
参考URL■https://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11596940023.html
1968 上 若者たちの叛乱とその背景(小熊英二)
2009.11.17 Tue
本屋で最初に見たときに、またえらいゴッツイ本やなと思っていた小熊英二の『1968』の、とりあえず上巻を図書館で借りて読む。こんな厚くて高い本は近所の図書館で買わないことにしたようで、相互貸借でヨソからの借り物。
上巻だけで1000ページ以上あり(うち、註が100ページほど)、
とにかく重い。返す前にはかってみたら、1.4kgもあった。ええ加減にせえよという重さで厚さである。今までの本もかなり厚くて重い本だったが、それでも持ち歩いて読めた。
これはあまりに重くて、読みにくい。手に持っても重いし、好きな場所で好きなかっこで読むことも難しく、仕方がないので机に置いて読むようなことになる。どうせゴッツイ本やねんから、せめて上・中・下にでも分けて、もう少し軽くしてほしい。重すぎる。
布団の中でついついイッキ読みというわけにもいかず、またせっかくヨソから借りてもろたしという気持ちもあり、休みやすみ、やっと返却期限までに読む。
タイトルそのまま、これは「1968」年、心当たりのある人にとっては"あの時代"を研究した本である。
上巻は、「時代的・世代的背景」から始まり(1、2章)、「セクト」各派の思想やスタイルについてのお勉強(3、4章)、そして、著者が"あの時代"の始まりと位置づける1964年の慶大闘争(5章)から、1965年の早大闘争(6章)、1966年の横浜国大闘争・中大闘争(7章)が描かれ、羽田・佐世保・三里塚・王子という「激動の七ヶ月」の闘争(8章)をはさんで、日大闘争(9章)、そして1969年の1月の安田講堂攻防戦で終わる東大闘争(11、10章)を資料によってひたすら語って、1000ページ近い本文が終わる。
つまり上巻は、羽田や佐世保、三里塚といった大学生が参加した闘争の話もあるが、主に大学という"コップの中の嵐"を書いたものである。(下巻は、目次によれば大学闘争が高校に飛び火した話や、ベ平連、連合赤軍やリブの話が出てくるらしい。)
さすがに疲れた。最初のほうの時代の話や初期の闘争の話はともかく、さいごの2章は内ゲバの話が続き、われこそは正義の暴力、正しい暴力といわんばかりのセクト各派の暴力的な主張と、たっぷりの資料で語られる暴力の言動にうんざりした。
全共闘"世代"と言ったりもするが、あの当時、大学進学率が上がりつつあったといっても、進学者はまだ少ないものだったし(団塊の世代ということで、ボリュームは増えていたとはいえ)、その中でも闘争に参加したのはせいぜい2割ほど。全共闘なり大学闘争の渦中にいた人たちは、同世代のうちのごくわずかな数であり、これを世代の経験として語るには無理がある。にもかかわらず、全共闘"世代"という言い方があるのは、大学まで進学した人たちが、そうでなかった人たちに比べて言語による表現力の点で相対的にまさっていたからだろう(回顧録の類は山のようにあるのだ)。
どこかの章で闘争に参加した活動家の話が引かれていたが、同世代の7割以上がすでに世の中に出て働いているというその認識どおりなのだろう。
私は、中2のときの担任の先生がなぜか卒業のときに高野悦子の『二十歳の原点』をくれて、それを高校生の頃に読み、この高野の日記で名前の出てくる奥浩平の『青春の墓標』も読み、大学に入ってからだったと思うが60年安保で亡くなった樺美智子の『人しれず微笑まん』も読んでいた。
読んでいたが、それはほとんど"青春の煩悶モノ"として読んでいたようなもので、高校生の頃にこれを読んだころには、高野や奥の日記に出てくるセクト名や、代々木、反代々木というのが何のことだかわかっていなかった。
さすがに今は、代々木、反代々木くらいは知っているが、今回この上巻で「セクト」の話を読んで、革マルとか中核とかブント、その他いろんなセクトの"違い"がなんとなくわかった。
へーそうなのかと思ったのは、佐世保闘争の際に、報道のなかで、「群衆」を肯定的に評価したときに「市民」という表現が使われるようになった、という話。
それから、あの時代の、すべての既存の価値や権威を疑ってかかったような闘争に参加した活動家たち、とりわけ男性が、なぜ、女性が食べる世話をすることや補助的な役割を担うことについては、何ら疑いもせずに受け入れていたのか、という問いが、女性活動家の手記などから引かれていて、そこはやはり印象深かった。バリケードの中で、ずっとおにぎりを握りながら、明日からはやらへんデ、と思うような話がとくに。
1968年といえば、永山則夫による連続射殺事件があった。永山則夫は1949年生まれ。同世代で大学へ進んだ者は、この「1968」前後の闘争に参加していたりもするわけだが、永山は中卒で集団就職している。この世代は中卒、高卒で就職した者のほうが多かったのであり、数の上からいえば、全共闘"世代"というよりは金の卵"世代"といってもいいのだろうと思う。
少なくとも、生まれた場所や家庭環境や性別、出生順位などによって、"あの時代"は相当違ったものだったんやろうなあと思う。
たしか書評で橋爪大三郎が「テキストのゴミ屋敷」と書いていたが、さすがに、もうちょっとつまんでもええんちゃうんかなとは思った。まあこういうゴッツイ本にするのが、これまでどおり小熊スタイルなのかもしれない。それとこれも小熊スタイルなのかもしれないが、歴史的表現あるいは資料のママというだけではない「父兄」表現が頻出するのは、わざとなのか、無意識なのか、何だろうなあと思ったのであった。べつに保護者と言い換えろという意味ではないが。
http://we23randoku.blog.fc2.com/blog-entry-1168.html
映像◆のと自慢で浜田省吾のI am father を熱唱し、見事合格?? https://youtu.be/ef_Z2VHlx3I
映像◆NHKのど自慢 境港 終わりなき疾走 https://youtu.be/zUbicSdRNkU
平成25年7月7日境港市民会館
映像◆浜田省吾 モノクームの虹 https://youtu.be/gt8-T5-yj9g
NHKのど自慢 2015.9.20(日)(富山市高岡市)浜省を熱唱!
映像◆2005♪I am father♪https://youtu.be/Ud3OtW_gV9c
ghkfbpswqlwzさん 2015/5/31(日) 19:46:49 ⇒ 浜田省吾さんの歌で「I am a father」という曲があり、その中の詩に「妻と今日一日を無事に過ごせたことを祈ってる」というのがあるのですが、過ごせたという過去を祈るという所が文法的に引っかかるのですが、祈るという行為は過去の事も、祈れるのでしょうか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12146197817
http://www.uta-net.com/song/26527/ http://ja.wikipedia.org/wiki/I_am_a_father
ON THE ROAD '91 (ONE AND ONLY) ⇒ 6/8(土)、9(日)、12(水)代々木第一体育館に参加した。「僕と彼女と週末に」が印象的だった。みんなでWAVEしたのも懐かしい。12日は午前中にTちゃんと待ち合わせをして、かねてから一度行ってみたいと思っていた目黒にある寄生虫博物館へ行った。数メートルあるサナダムシの標本に度肝を抜かれた。以降しばらくはお寿司等、なまものが食べられなかった。
http://www9.plala.or.jp/bt-pearl/dear_memories.html
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┃ 1993年の出来事 ┃
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2017(平成29)年10月04日(水) 今回は1993年のことを。
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1993(平成五)年から94(平成六)年にかけては、ツアーとレコーディングの日々が続いた。ぼくがツアーサポートで参加したアーティストはinfix、久宝留理子さん、町支寛二さん。山本英美さん。93年の前半はinfixのレコーディングで多忙だった。ぼくは前作に引き続き、彼等の三枚目のアルバムのプロデュースも担当した。レコーディングは前作同様二子玉川のスタジオ・サウンドダリで行った。エンジニアも前作と同じ森元浩二くん。参加ミュージシャンはinfixの四人+キーボードでぼく+サックスの倉富義隆くん他。サウンド的には前作からの流れで、アメリカンロックっぽい部分をさらに押し進めた作品になった。infixの楽器にも新たな顔ぶれが加わって、ベースの野間口くんはヴィンテージのフェンダージャズベースを、ギターの晃くんもヘッドアンプやエフェクター群を一新してレコーディングに臨んだ。ぼくもこの時期、シンセサイザーやサンプリングキーボード等、機材を大量に導入してサウンド作りに勤しんだ。今回のアルバムでは新たな試みにもトライした。メンバーによるアカペラの曲や歌のないインストゥルメンタルの曲など、今までとは違う新たなことにチャレンジした。彼等はメンバー全員がボーカルをとれたので、コーラスはお手のものだった。そこで今回は今まで彼等がやったことのない、ドゥーワップ調のコーラスにもトライしてもらった。インストゥルメンタルの曲は、ぼくとギターの佐藤晃くんの二人で書いた。ピアノとアコースティックギターだけの曲で、「Innocent Age」と名付けられた。結果この曲はアルバムタイトルにもなった。アルバムタイトルはぼくが考えて、彼等やスタッフと協議した結果「Innocent age」に決まった。アルバムに先駆けて4月にシングル「WINNERS FOREVER?勝利者よ?」がリリースされた。これはテレビアニメ「機動戦士Vガンダム」のエンディング・テーマに採用されて、スマッシュヒットを記録した。この曲はシングル・バージョンとアルバム・バージョンではアレンジが異なる。シングルのほうはホーンセクションが入って、より派手な仕上がりになった。1993年の6月にinfixの三枚目のアルバム「Innocent Age」はリリースされた。infixのレコーディングが終了すると、すぐに久宝留理子さんのツアーが始まった。93年になって久宝留理子さんのバンドは何人かメンバーが代わった。ギターが高村周作くんから富塚和彦くんと長田進くんに、サックスが古村敏比古くんからスマイリー松本くんにスイッチした。長田くんとは佐野元春さんのレコーディング以来の再会だった。あの時はレコーディングスタジオでの一度限りのセッションだったが、今回は一緒にライブをやることが出来るので、音を出すのがとても楽しみだった。久宝留理子さんの93年ツアーは以下の通り。
1993(平成五)年05月22日(土) 銀座 SOMIDO ホール
1993(平成五)年05月23日(日) ヒューマンアカデミー大阪北校
1993(平成五)年05月30日(日) 新宿 日清パワーステーション
‡1993(平成五)年06月08日(火) 大阪 バナナホール
1993(平成五)年06月10日(木) 新宿 日清パワーステーション
1993(平成五)年08月07日(土) 神鍋高原特設ステージ
1993(平成五)年08月08日(日) 名古屋港ガーデン埠頭
1993(平成五)年09月23日(木) 新宿 日清パワーステーション
1993(平成五)年08月07日(土)の神鍋高原特設ステージでのライブは、前日の夕方に東京からバスをチャーターして鈴木雅之さん御一行と一緒に移動した。バスは深夜大阪に到着した。ぼく達は一旦大阪で宿泊して、次の日の朝早く神鍋高原入りした。神鍋高原は兵庫県の豊岡市にある広大なリゾート地で、コンサートは野外の広場のようなところに特設ステージを組んで行われた。真夏だったので高原と言ってもとにかく暑かった。ぼくは自分の楽器や機材が、暑さでどうにかなってしまわないかそればかり気にしていた。ぼくは
1993(平成五)年09月23日(木)の日清パワーステーションでのライブを最後に久宝さんのバンドを離れた。ぼくにとって久宝さんとのラストライブはとても素晴らしいものになった。
1993(平成五)年08月07日(土)神鍋高原特設ステージ。足元のペダルの数が凄い(笑)
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2017/10/1993.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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♪愛は心の仕事です♪
1988年2月24日 ダイドー・JUICE100 イメージソング 9位
♪少年は天使を殺す♪
‡1988年6月8日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%BC_(%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89)
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1980年代を謳歌!『異邦人』からイカ天まで「俺たちの一発屋」名曲・青春プレーバック
2022(令和四)年02月14日(月) 11:01 週刊女性PRIME [シュージョプライム]
清原果耶主演ドラマ『ファイトソング』で、シンガー役の間宮祥太郎が「世界で一番嫌いな言葉」としたのが“一発屋”。今回は、かつて確かに眩い輝きを放った、1980年代に青春を送った人なら誰もが知る「名曲」を歌ったミュージシャンをプレーバック!一番嫌いな言葉?そんなの関係ねぇ!思い出と共に色あせない、俺たちの、私たちの一発屋たちーー。
写真◆左から森川由加里、哀川翔、柳葉敏郎、風見しんご 週刊女性PRIME
■'70年代末~'80年代初め 異邦人、完全無欠、ピカピカ、ついには猫まで一発ヒット■松原みきという歌手をご存じだろうか。1979年に『真夜中のドア』でデビュー。おしゃれなシティーポップスを歌える実力派として人気を得たが、2004年に44歳の若さで病死した。そんな悲運の歌姫が今、再評価されている。一昨年、インドネシアのユーチューバーが『真夜中のドア』をカバー。これを機に、海外のチャートで1位になるなど世界的にヒットしたのだ。松原がデビューしたころの日本は、世界第2位の経済大国に躍進。音楽にもその豊かさが反映され始めていた。演歌のような湿っぽいものより「ニューミュージック」と呼ばれたポップなものが好まれるようになり、歌の舞台もグローバル化。その一例が、庄野真代の『飛んでイスタンブール』(1978年)であり、松原のひと月前にデビューした久保田早紀の『異邦人』(1979年)だ。
■“ユーミンの再来”と称された■シルクロードをイメージさせる『異邦人』は翌1980年にかけて、オリコン1位を7週にわたって独走する大ヒット。今となっては一発屋だが、当時は久保田はユーミンの再来などと呼ばれた。彼女にとってもユーミンは憧れの存在だったが、その後はヒット曲に恵まれず、結婚を機に教会音楽家に転向する。その理由について、彼女は「男女の愛を歌うラブソングの上手な人は、ほかにたくさんいます」としたうえで、「私は違うタイプのラブソングを歌っていきたい」と、語った。なお『異邦人』はカラーテレビのCMソングでもあった。同様に、斉藤哲夫の『いまのキミはピカピカに光って』(1980年)や五十嵐浩晃の『ペガサスの朝』(1980年)ザ・ヴィーナスの『キッスは目にして!』(1981年)もCMつながりでヒット。『いまのキミは~』は宮崎美子が世に出たカメラのCMソングだ。宮崎がいまもピカピカなおかげで、ちょくちょく流れるラッキーな曲である。
■“ツッパリブーム”と「なめ猫」■コミカル路線では、アラジンの『完全無欠のロックンローラー』やシュガーの『ウエディング・ベル』(ともに1981年)といった一発ヒットが。ただ、アラジンのリーダー・高原兄は約30年後、島田紳助と組み、ヘキサゴンファミリーの作曲担当として二発目を当てた。また、又吉&なめんなよの『なめんなよ』(1981年)なんてキワモノ的一発も。猫にツッパリルックを着せて楽しむ「なめ猫」ブームから派生した曲だ。歌っていたのはもちろん、猫ではなく人間。ちゃんとしたバンドのボーカルだった。さらに、ツッパリブームの総本山・横浜銀蝿一家からは、紅麗威甦(グリース)が『ぶりっこROCK'N ROLL』(1982年)をヒットさせた。聖子ちゃん人気にも便乗した、あざとい曲だ。ボーカルを務めていたのは、杉本哲太である。かと思えば、その対極的な魅力で売れたのが、堀江淳の『メモリーグラス』(1981年)。女性っぽい歌い方や容姿と曲のハマり具合がこれ以上ないほど絶妙だった。ほかには、あみんの『待つわ』や一風堂の『すみれ September Love』(ともに1982年)もこの時期を代表する一発ヒット。ただ、あみんの岡村孝子はその後、ソロで成功したし、一風堂の見岳章は『川の流れのように』(美空ひばり)などの作曲者として歌謡史に大きな足跡を残すことになる。この人たちにとって、才能は一発で枯れるものではなかったわけだ。
■'80年代ど真ん中 アイドルの陰で吠えた人、泣かせた人、流行りに乗った人■1980年代中盤は、アイドルの時代だ。1980年デビューの松田聖子や田原俊彦、1982年デビューの中森明菜、1985年デビューのおニャン子クラブといった顔ぶれがオリコン1位を独占した。そのぶん、アイドル以外の人は一発屋になりやすい。例えば、せつない恋を歌い上げたちょっと地味な男性歌手たちである。『想い出がいっぱい』(1983年)のH2Oに『初恋』(1983年)の村下孝蔵、『シャイニン・オン 君が哀しい』(1985年)のLOOK。『想い出が~』はアニメ『みゆき』(フジテレビ系)のエンディング曲で、彼らのデビュー第2弾はドラマ『翔んだカップル』(フジテレビ系)のエンディング曲だった。当時のラブコメブームにぴたりとハマったデュオといえる。
■ドラマ主題歌が大ヒット■これに対し、女性シンガーは吠えまくった。『ボヘミアン』(1983年)の葛城ユキに『ふられ気分でROCK'N' ROLL』(1984年)のTOM CAT『ヒーロー』(1984年)の麻倉未稀、『翼の折れたエンジェル』(1985年)の中村あゆみ。このうち『ヒーロー』はドラマ『スクール☆ウォーズ』(TBS系)の主題歌である。実はこの時期、TBSのドラマから特大の一発ヒットがいくつも生まれた。1985年には『金曜日の妻たちへ3』の主題歌『恋におちて』(小林明子)、1986年には『男女7人夏物語』の主題歌『CHA-CHA-CHA』(石井明美)、1987年には『男女7人秋物語』の主題歌『SHOW ME』(森川由加里)という具合だ。『金妻』は不倫ドラマで『恋におちて』も不倫ソング。「土曜の夜と日曜の貴方」が欲しいとか「ダイヤル回して手を止めた」といったリアルでその時代っぽい歌詞が共感を生んだ。また、小林はのちに、カーペンターズのリチャードに「カレンに似ている」と気に入られたボーカルの持ち主。不倫ソングなのに、どこか清々しいところも支持につながったのだろう。一方、アイドル系でも一発屋的な人がいる。例えば『僕笑っちゃいます』(1983年)の風見しんごだ。歌よりもダンスや笑いが売りだったが、隙間狙いの戦略は長続きしなかった。それでも、第4弾『涙のtake a chance』で見せたブレイクダンスは語り草だ。最近も『中居正広のダンスな会』(テレビ朝日系)で当時の映像が紹介され、ネットをざわつかせた。ちなみに、風見はデビュー前、劇男零心会という集団に属し、原宿で踊っていた。この集団はその後、劇男一世風靡となる。そのメインメンバーたちが結成したのが、一世風靡セピアだ。1984年にデビュー曲『前略、道の上より』がヒット。哀川翔や柳葉敏郎がここから大成していった。また、この時期はチェッカーズがアイドルバンドとして絶大な人気を誇ったが、二匹目のどじょう的な感じで売れたのが『バージンブルー』(1984年)のSALLY。こちらはチェック柄ではなく、市松模様の衣装で歌ったりした。そして、カルロス・トシキも忘れられない存在だ。杉山清貴&オメガトライブから杉山がソロになるにあたって、1986オメガトライブとして再出発した際、ボーカルとして加入。デビュー曲『君は1000%』(1986年)などをヒットさせた。日系ブラジル人で、童顔と片言という甘いテイストで人気者に。現在はブラジルで農業に従事し、ニンニクの品種改良などをやっているという。
■「クロマティに似てるほう」■女性では、BaBeというアイドル的デュオもいた。業界ドラマ『アナウンサーぷっつん物語』(フジテレビ系)の主題歌『I Don't Know!』(1987年)がヒット。ただ、翌年デビューのWinkほどにはメンバーの名前を覚えてもらえず「クロマティに似てるほう」「富田靖子みたいなほう」などと呼ばれていたものだ。ところで、1980年代は広告主導の時代でもあった。CMのキャッチコピーがそのまま歌になり、ヒットしたケースも多い。中原めいこの『君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。』(1984年)はその典型だ。カタカナ系の食べ物が憧れだった時代の空気も反映されている。同様に、カタカナ系の職業も憧れの対象に。スタイリストにコンサルタント、さらには空間プロデューサーを名乗る人もいた。そんな世相から生まれたのが、ややの『夜霧のハウスマヌカン』(1986年)だ。おしゃれな仕事に見えても、食事はシャケ弁当だったり、カリアゲヘアは毛を剃るのが大変だったり、などなど、その実態をおちょくった内容。歌ったのが、ポップス出身なのに北島三郎に拾われた苦労人の女性歌手だったところも含め、なんでもあり的な1980年代を象徴する一発ヒットである。
■'80年代末~'90年代初め 「イカ天」と「やまかつ」が起こした一発屋バブル■1988年ともなると、アイドルブームも下火に。そんななか、ある大物アイドルがボーカルを務めたロックバンドが一発屋になった。ラ・ムーだ。工藤静香あたりがやるならともかく、ラ・ムーを始めたのはロックとは程遠いイメージの菊池桃子。デビュー曲『愛は心の仕事です』には、
■「桃子なのにラ・ムーなのはなぜなの?」■と題された解説文が挿入されていたが、その答えは曲を聴いてもわからなかった。また、秋元康が手がけた男性アイドルグループ・幕末塾もすぐに失速。秋元系ではおニャン子の男性版・息っ子クラブに続く一発屋となった。それでも、彦摩呂がグルメタレントとして生き残ったおかげで、たまに話題になる。先日も『あいつ今何してる?』(テレビ朝日系)で元メンバーが集まり、デビュー曲『Come on Let's Dance』(1989年)を披露していた。しかし、アイドルは下火でも、日本は元気だった。バブル経済が絶頂に向かいつつあり、それを象徴するような一発ヒットがCMから誕生。時任三郎が“牛若丸三郎太”名義で「24時間戦えますか」と歌った『勇気のしるし』(1989年)や、鷲尾いさ子と鉄骨娘が「ソーレソーレ」と踊った『鉄骨娘』(1990年)である。また『私の彼はサラリーマン』(1989年)のような珍品も。大手企業社員の2人組・SHINE'S(シャインズ)によるコミックソングだ。
■「イカ天」と「やまかつ」■そして、1989年には一発屋と縁の深いふたつの番組がスタート。『三宅裕司のいかすバンド天国』(TBS系)と『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(フジテレビ系)である。前者は「イカ天」ブームを巻き起こし、数多くのアマチュアバンドを世に送り出した。なかでも『さよなら人類』(1990年)のたまはオリコン初登場1位や『紅白』出場といった快挙を達成。ただ、アンダーグラウンドな芸風を自覚していた彼らは意外とさめていた。メンバーのひとりは、「もし、百人が百人、たまをいいと思ったら、気持ち悪すぎます」などと語っていたものだ。少数派向きという傾向は『お江戸』(1990年)のカブキロックスなど、多くの「イカ天」系バンドにも当てはまる。今も生き残っているのは『恋しくて』(1990年)のBEGINくらいだろうか。一方、後者は山田邦子の冠番組で、テーマ曲にKANの『愛は勝つ』(1990年)や大事MANブラザーズバンドの『それが大事』(1991年)が使われ、爆発的にヒットした。どちらも年をまたぐかたちで、オリコン1位を独走。つまり、2年連続して年末年始に一発屋ソングが流れまくったわけだ。こちらは「イカ天」系とは逆に、万人受けするポジティブなメッセージが売り。ただ、それだけでやっていけるほど芸能界も人生も甘くない。そこがわかっていたのか『愛は勝つ』のカップリングは『それでもふられてしまう男(やつ)』という曲だった。
■一発でも当てるのはすごい■ほかに、沢田知可子の『会いたい』(1990年)やJAYWALKの『何も言えなくて…夏』(1991年)平松愛理の『部屋とYシャツと私』(1992年)といった一発ヒットが誕生したが、このあたりからJポップの時代が本格化する。「イカ天」に出た際、なぜか酷評されて落とされたGLAYをはじめ、長く安定して売れるアーティストが続々と登場。一発屋が生まれにくくなっていくわけだ。ところで、現在放送中のドラマ『ファイトソング』(TBS系)はヒロインが一発屋シンガーに恋をする話。そのシンガーは「一発屋」について「世界でいちばん嫌いな言葉だ」などと言ったりする。とはいえ、ほとんどの人がデビューしても何も残せずに消えていくなか、一発でも当てるというのはやっぱりすごい。一発屋もまた、勝ち組なのだ。
寄稿:宝泉薫(ほうせん・かおる)アイドル、二次元、流行歌、ダイエットなど、さまざまなジャンルをテーマに執筆。近著に『平成「一発屋」見聞録』(言視舎)『平成の死 追悼は生きる糧』(KKベストセラーズ)
https://news.yahoo.co.jp/articles/0436f0ad485695bf06a0d14cc9de23da86d79e29
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┃ R O A D & S K Y ┃Vol.48
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ON THE ROAD 1991
ONE AND ONLY
TOUR REPORT by RINKO
PHOTO by JUNJI NAITO
1991(平成三)年08月発行。会報第48号全36ページ。
【ON THE ROAD 1991 ONE AND ONLY】レポートで構成。
【ShogoStation NO.42】"ON THE ROAD'91 Fan'sレポート"
‡1991(平成三)年06月08日(土) 05本 代々木オリンピックプール はれ かなり遅れてしまって、午後7時20分Start。オープニングのスモークの量が多くて浜田さんの姿がなかなか見えてこなかった。やっぱり新潟・札幌(収容数4,300~5,300人)に比べて倍以上の広さの会場の中に、13,000人前後の人達がひしめきあいながら踊ったり歌ったりしていると、ものすごい熱気を帯びてきて、半端じゃない暑さになった。ただ単に立っているだけでも、汗がツーッと背中を伝ってくる。インターバルの時に喫煙所兼売店のスペースに行ったら人!人!人!みんな汗でシャツやTシャツが濡れている。観ている側がそうなら、あの照明を浴びているメンバー達は当然もっとすごいらしく、ドラムの高橋さんなどは、汗が目に入ってしまったけれど曲の途中だったので拭うわけにもいかず、目を閉じたままたたいていたそうで、「前の方の席にいた人達に変な奴だと思われたかもしれない」などと心配していたらしいけれど、"さすが、プロ!"とただただ感心するばかりだった。今日は後半に入ってから、PAのそばの席で座ることができた。ただ、背の低い私の前になんと吉田栄作さんが座っておられ、座って聴く曲の時はいいけれど、立ってしまうと壁のようになってしまって浜田さんの姿が全く見えない。列ごとの段差がほとんどないアリーナ席では私のような背の低い人間はちょっと辛いなーと痛感させられた。
1991(平成三)年06月09日(日) 06本 代々木オリンピックプール はれ
1991(平成三)年06月12日(水) 07本 代々木オリンピックプール はれ
1991(平成三)年06月13日(木) 08本 代々木オリンピックプール はれのちくもり
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https://shogo.r-s.co.jp/fanclub/backnumber/backnumber048.html
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ON THE ROAD '91 ONE AND ONLY ⇒ 6/8(土)9(日)12(水)代々木第一体育館に参加した「僕と彼女と週末に」が印象的だった。みんなでWAVEしたのも懐かしい。12日は午前中にTちゃんと待ち合わせをして、かねてから一度行ってみたいと思っていた目黒にある寄生虫博物館へ行った。数メートルあるサナダムシの標本に度肝を抜かれた。以降しばらくはお寿司等、なまものが食べられなかった。
http://www9.plala.or.jp/bt-pearl/dear_memories.html
①LONELY-愛という約束事 もうひとつの土曜日
1991年6月8日 8cmCD SRDL3290 16位
②J.BOY (LIVE VERSION) Walking in the rain
1991年6月8日 8cmCD SRDL3291 38位
③二人の夏 (浜田省吾ヴァージョン) 二人の夏 (愛奴ヴァージョン)
1991年6月8日 8cmCD SRDL3292 圏外
④HELLO ROCK&ROLL CITY (LIVE VERSION)
1991年6月8日 8cmCD SRDL3293 57位
⑤風を感じて (LIVE VERSION) ラスト・ダンス (LIVE VERSION)
1991年6月8日 8cmCD SRDL3294 45位
音源◆きみとあるいたみちhttps://youtu.be/ApzghExGkRM
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┃ ♪LONELY-愛という約束事♪/♪もうひとつの土曜日♪ ┃
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1985(昭和60)年05月22日(水) released
‡1991(平成三)年06月08日(土) released 再発
2005(平成17)年03月24日(木) released リサイズ版
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https://ja.wikipedia.org/wiki/LONELY-愛という約束事
https://music.amazon.co.jp/albums/B00FS7WYR2
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詩人の鐘~THE POET'S BELL 浜田省吾
‡20180608 Fri
一昨年のことだったか。政府の教育再生実行会議において非常に興味深い点があった。どうして日本の教育の水準が下がったのか。それは企業が求める人材像に少なからず問題があったのではないか。という点。企業側がどのような人材をどう受け入れ、どう伸ばしていくか。そこにメスを入れる。非常に素晴らしい改革案だな、と率直に思った。時代の変化とともに人間の多様性、複雑性に目を向け、あらゆる労働の門戸を用意していくこと。企業側がその姿勢を示せば、おのずと教育現場にも波及していくことだろう。引きこもりの子供さんを抱え悩む親も多く存在するが私は引きこもりの子供さんたちが、どんな可能性を内側に秘めているか、実にとても興味がある。ひょっとしたらとんでもない発明品につながるような試行錯誤をしているかもしれないじゃないか。社会性も確かに大切かも知れないが社会性を駆使して人の和に猛毒を撒くような人間だってこの世には五万といる。いわゆるネットワーク商法(創価も含む)はその社会性があってこそビジネスたれるのだ。たとえば漫画や小説を書くような行為は、自分の世界感と向き合う行為がゆえ周囲周辺の雑音を遮断して、引きこもることから始まる。エッジの効いた強烈な作品はそんな「たったひとり」の孤高の姿から生まれてきたのだ。その作品が、映画やドラマなどになりありとあらゆる産業に利潤をもたらしているのだ。どんな大スターだって本を書く人間がいて演じることができる。曲だってそうだ。そこに大企業はスポンサーとなって莫大な資金を投下する。それぞれがそれぞれの特性を活かしてこそ、なのだ。そして店先で売られているありとあらゆる企業が生み出した商品を並べることも、その一環の仕事なのだ。どんな仕事もすべてに、なにかに繋がっている。我々はアリとなんら変わらないな、と思う。アリは今日も働いているのだ。うちの娘たちはクレヨンしんちゃんに挿入される蟻の曲をなぜだか毎日歌う。物事は視点をどんどん変えたほうがよく見えてくるものなのだ。子どもの頃、蟻の巣作りをみたく、水槽に砂を入れて毎日観察を続けた。しかし上手くいったことが一度もない。いったいなにが問題だったんだろう・・・と考え出す頃には、夏休みは終わっている。ああ、話がそれた。先日問題になった日大アメフト部の監督の在り方の問題はその学生たちの就職にまで影響を及ぼすような立場であったことも指摘されていた。企業は体育会系で鍛えられた体力・忍耐力・そして従順な人材を求める場合が多くある。それは決してなにも間違いではないだろう。トップの人間の指揮によってプラスの方向に向かえば何ら問題はないのだ。トップの人間が卑劣な人格の人間だったから今回のようなあり得ない事件が起きたのだ。責任ある立場の大人がいかなるものか。それによって、すべての結果は変わっていく。有能な多くのリーダーの元で企業は常に努力をしている。しかしそうではない企業も間違いなくある。創価学会は建前上企業ではないが。はてさて。さあ。今日はこの曲で何を書こうか、と思い悩んだ挙句こんな話を書いてしまった。1990年。女子部学生局に在籍中に第二次宗門問題が勃発した。もうその頃すでに「人間と言う生き物は自分の都合の悪いことは隠し都合のいいことばかりを吹聴したがるものだ」というのは生きる中で充分理解に及んでいた。何事も伝聞されたことは鵜呑みにはするまい。ましてや人の悪口を吹聴する人間にロクな人間はいない。賢い人間はみなそれを知っている。そんなごくごく本能的な防御策というのは持ち合わせている。創価学会のいうところも。そうであろうなあ、とは当時から思っていた。退転した大幹部の吊るし上げなどこれはほんとうに会員をバカにしてるんだろうなーと思ったものだ。教学の研鑽に赴くなかでも、その「危機感」というものは持ち合わせていたのだがあまりにも膨大な文献と立ち向かうとき、必要なのは時間と集中力だ。誰しもに平等に24時間で1日が終わってゆく。とてもじゃないが容易には追いつかない。とりあえず、立ち止まって研鑽することも決して無駄ではないだろう。たとえ無駄だと思う事であっても、注力することは決して無意味なことにはならないからだ。「これこれこうだから間違ってますよねえ。おかしいですよねえ。1+1は2ですよ?」というように「明確な美しい指摘」にもつながりゆくのだから。ちなみに私は数学が最も好きな学問なのだ。数字の世界ほど明確で美しいものはない。そんな中でも2世である私は感情の部分で強く心で働くのが「強烈な脅し」だったと自覚する。私が創価学会と正宗に対し、もっとも義憤を抱くのはこの「脅し」の教義を振りかざした点のみ、と言い切ろう。幼い心に刻まれた脅し、というものはほんとうに害毒でしかない。その脅しに翻弄された自分にも憤りを覚えるのと同時に心を脅す、という悪質な信仰を元に創価財閥は成り上がったことにただただ茫然自失してしまうのだ。麻薬というものと関係があったのか、なかったのか。裏社会とつながりがあったのか、なかったのか。創価問題はメジャーシーンではタブーになってきている以上なんらかの関わりがあったものと思うのが、ごく自然ではないだろうか。これらの創価をとりまく疑念はすべて創価を牽引してきたリーダーにすべて責任があることでありそれに従順に従った、会員たちに責任はないもの、と考える。よって創価から一切合財、「利を得なかった」会員たちはどこまでいっても「被害者」という立場をとるべきだと訴えるのだ。創価の根底は悪質な脅し教義であるという一点。当ブログでも解説済みであるし、学者たちも指摘している。それらを元にして、真性の創価アンチの発信者たちは「やめたかったらやめても大丈夫なんだよ」「安心しな」「脅しに屈するなよー」と親しみを込めた言葉を綴った声を上げているのだ。そこに導くために、ああだこうだ、こうでもないああでもないと書きたくもない色々な事象を指示しているのだ。そうやって。手を差し伸べているのだ。だた、それだけのことだ。浜田省吾さん。御父上は特高警察官。実に私の祖父と同じ職業だ。勝手に親近感を覚えてしまう。私の祖父は山口県の特高警察官幹部であった。親戚一同、ありし日の祖父を目を輝かせてこう伝えてくれた。「いついつも困った人を助けようとする、心優しい立派な方だったんだよ」と。祖父のたったひとりの子供。それが私の父だ。父は親戚一同から途轍もない愛情を注がれて育った、という。どんなときも常に笑って、優しい父だ。そんな父は私に今なお、際限なく愛情を注ぎ続けてくれている。ただそれだけでどれほどに幸せな気持ちになるかを言葉で表現するのは難しい。にやにや。にこにこ。げらげら。だろうかなあ。若くして亡くなった祖父に私は会えなかった。私がこの世でもっとも会いたかった人だったかもしれない。祖父の墓は山口県にある。そこに行くたびに。私は広島・原爆ドームに必ず行き祈りを捧げている。
http://sarabasokagakkai.blog.fc2.com/blog-entry-82.html
「セイヤング」
2014/6/6(金) 午後 2:59 浜田省吾 ミュージシャン
‡2005年の6月8日の広島のFM番組の「HFM SHOGO ON THE RADIO~MY FIRST LOVE」の第2回目で「セイヤング」について話していましたので少し・・・
H:当時、あんまりしゃべることが得意じゃなかったんですよ。元々ドラム出身ですから得意じゃなかったんですけど。当時のこの世の中の流れっていうのは、フォークシンガーがDJとしてすっごいおもしろいことを言って、ステージの上でのしゃべりもすっごくおもしろくって、その間に曲をやるというような時代だったんですね。
A:そうでしたねぇ。ええ。そういう時代があったんです、ひとつの。ひとつの形としてね、今みたいにバンドが延々曲をやっていたりじゃなくて。で、当然僕も当時はバンドと一緒にやれるステージっていうのは少なくて、一人でアコーステッィクギターで演奏したり、時々町支君が参加してくれたり。だから、みんなの、スタッフの総意として、ディスクジョッキーをやらせたら、そしたらそこから、それがきっかけでみんなに曲を聴いてもらえるんじゃないかと。そうすると、ディスクジョッキーをやれば自分の曲もできたらすぐに聴かせることができるし。ということで、多分、当時としては難関だったんだと思うんですけど、「セイヤング」のディスクジョッキーをやるということはね。今考えてみたら大変なことだったと思うけど、当時はなんか「へぇ~」って感じで。大変だなぁ、でもまぁしょうがないか、みたいな感じでやったんですけど。ま、実際始めてみると大変でしたね、思ってるより。
A:しゃべることはもちろん大変なんですけど、当時の記録を見てみると、これ、ツアーされながらしゃべってませんか?
H:そうなんですよ。大変だったのはそのことなんで。つまり深夜放送は生ですから、1時から3時までやるわけですよね。当然打ち合わせを10時ぐらいから始めて、選曲したり、はがき読んだりとかは9時10時から始めてて、3時ぐらいに終わって、それから家に帰るともう4時ぐらい。寝るのはもう5時前ぐらいなんですよね。で、次の日にじゃあ、どっかツアーに行くとなると、朝の8時とか9時に起きて、電車に乗って行って、コンサートやって、っていうそういう時代ですから。確か何曜日・・・木曜日か金曜日だったと思うんですけど、その前後のステージはほんとにクタクタになってましたね。あるときは、例えば広島だと福山かどっかでコンサート終わって、コンサートの途中に風邪を引いてだんだん熱が出てきて具合が悪くなったんですね。でもその日は、RCCから生放送を出すっていう。
A:RCCから全国に向けて。
H:そうなんです。だから福山まで終わって、広島に移動して、RCCのスタジオに入ってそこでとりあえず選曲をばぁーっとして、熱があるからマイクを上からつるす、そこから氷嚢そこからマジに氷嚢で頭冷やしながら。
A:マイクスタンドから氷嚢ぶら下げてたんですか。ええ、ぶら下げて氷嚢して、そしてね、しゃべれないからね、もう。ひたすら曲を流して、曲を紹介して、それがね記録なんです。「セイヤング」で曲がかかった数の(笑)そういうような、そしてそれでホテルに戻って初めてバタンと寝て、次の日はまた違う町に行くっていうね。そんなことやってました。
A:いわゆる、ほんとにソロデビューして、ですから5年ぐらいですかね。
H:27、8ですね。まあ、元気は元気でしたね、まだ。それでもやれてたわけだから。今そんなことやったら死んじゃいますね(笑)ええ。そんなことやらせる人もいないと思いますけど。
「頑張れよ」でしたからね、当時は。
「頑張ってね!」みたいな、 当然のように。
「浜田やめてちょっと病院行ったほうがいいんじゃない?」なんて いう人は誰もいなくて、「あともうちょっだ。頑張れ」みたいな。
本日のみなさまのご来店を心よりお待ちしております どうぞ、よろしくお願いいたします 浜田省吾&愛奴ファンのお店 東京新宿Bar“Flash&Shadow”http://www.flashandshadow.com/ (営業時間19:00~24:00 日曜日定休)
https://blogs.yahoo.co.jp/bar_flashandshadow/18431146.html
「日本武道館」
2014/6/7(土) 午後 0:32 浜田省吾 ミュージシャン
昨日のお話「セイヤング」を書いたらこれは書かないとダメですよね(^^)
A:1980年にこの「セイヤング」を浜田省吾さんが担当してるわけなんですけど、その1980年当時は、なんかじゃあ頑張ったら次が来そうだっていうのが見えてきた頃なんですかね?
H:コンサートツアーっていうものを、ブッキングっていうんですけど、各地のイベンターが少しずつしてくれた時代ですね。まだコンサートツアーが誰でもやってる時代じゃなかったので、コンサートツアーがいまみたいな形になるほんとにほんとに初期の頃ですね。だからやっと、そうですね、どのくらいなんだろう。年間にして60本、80本、100本と増えてきた、ちょうどそういう時代。ですから、武道館よりも前ですから、まだホールでコンサートやってもお客さんが町によっては2、300人。町によっては満杯でもアベレージにすると、600人とか。ほんとにだから1階席のうしろがまだ空いてるっていうような、そんな時代ですね。
A: 手元に1980年の1月4日(おそらく1/8の間違い)旭川市公会堂から始まって、12月25日に倉敷市民会館でこの年は、あのツアーって言うんですか。毎月ずっと10ヶ所程度やってるんですけど。
H:まさにそれがツアーなんですよね。
A: 今ツアーって言ったら例えば10本とかね、12本とかまぁ多くて20本をひとつきに8とかね、ぐらいやって、3ヶ月ぐらいで終わるってのがまぁ常識的なところだと思うんですけど。ほんっとに年中旅してるんですね。
H:ずぅっとやってるんですよ。延々と。エンドレスな感じで。
A: 考えられないのは、当時のツアーとか見ると、広島、年間3回ぐらいやってるんですよね。
H:やってますね。広島の中だけで10箇所ぐらいとかね。ま10箇所は大げさですけど。
A: 近くで、福山やったりとか、お隣ですけど岩国でやったりとか、ほんとにいろんなところ、これこそ回ってるって感じですね。
H:そうですね。でもそれをほんとはツアーって言うんですよね。だから年間30本以下はツアーとは言わない(笑)
A:ほんとに旅をしてた。よく浜田省吾さんはマスコミにさほど出ないのは、自分が得意なものが、ライブという形で曲を表現するのが一番得意だからという風に言われますけど、まさにライブで伝えてきたんだなぁっていうのが。おそらく今のリスナーの多くは、そんなライブで伝えたって、伝えられる人の数とか限られてるでしょと思うと思うんですよ。この記録を見れば、ライブで伝えたんだなって、あの行商じゃないですけど、旅をして、そこで商売して、じゃないけど。
H:そうです、そうです。だからコンサートやって、そこに来た500人、600人のお客さんの何パーセントかの人がレコードを買ってくれて、それがこうずうっとつながってったという感じですよね。
A:ほんとにPerson to person.のコミュニケーションが広がって行って、浜田省吾の今が積み重なっていくっていうのがこのあたりから始まってるんですね。
H:そうですねぇ。だから、まだお客さんも乗り方っていうのがまばらで、今でこそみんなアップテンポの曲が始まると立って踊ったりしてますけど、みんなまだ座って手拍子をこうするかなっていう時代ですよね。そんな時代。どんなにハードな曲をやってもみんな座って手を叩く程度の、ある日いきなり誰かが立ち上がったら、今度は全員が前にいて、うしろはがらがらで全部が前にいるっていう。それで、オーケストラピットってあるじゃないですか、下からせりが上がってくる。それが落ちちゃったことがある(笑)例えば長崎のですね公会堂は、それで落ちたために初めて修復したっていう、そういう伝説もあるんですよ。おれが落としたから、あそこは修復したんだぞ、みたいなね。
A:そういう意味じゃほんとに浜田さんは今のいわゆるツアースタイルという、日本のミュージシャンがコンサートツアーするというとこをこのあたりで切り拓いてきたわけなんですね。
H:そうですね。僕だけじゃなくて当時だと例えば、矢沢永吉さんであるとか、オフコース、アリス、谷村新司さんのいるアリス、あとはまぁ僕とか、そういった人たちですね、たくさんコンサートをやってたのは。
A:その集大成として武道館、があるわけなんですが。けっこう武道館を決めた時は勢いみたいな形で決めたんですよね。
H:これはねぇ、あの勢いじゃなくて、広島に夢番地っていうコンサートプロモーターがあって、その初代の会社を興した社長がね善木さん、今は会長になってますけど、彼が、彼の頭の中で考えたことなんですよ。彼がずうっと僕のコンサートを見てて、まだお客さんが500人、600人の時に、何でこれがブレイクしないんだ?と。これ絶対に見せたらね、絶対みんないいっとわかってくれるはずだと。特に東京のメディア、の人たちに見せたら伝わるはずだと。彼がある日酔っ払って話したんですよ。最初は酔って話してるのかなぁ・・・と。当時武道館っていうのは、ねぇ(笑)例えばー、そうですねぇ、えー、メルパルクホールでやってる、やっといっぱいになったアーティストがいきなり東京ドームでやる感じなんですよね、武道館でやるっていうのは。だからちょっと考えられないスケールだったんですよ。今はねぇインディーズでデビューした人たちも武道館をやる時代になりましたけど。だから僕たちも例えばラジオ局のディレクターが「浜田君、僕が見た武道館の一番少ない客はねぇ、前から4列しか客が入ってない外タレがいたなぁ」とか、そんな話をするんですよ。
A:基本的には外タレがやる場所ですよね。
H:そうなんですよ。
A:当時の武道館って。
H:はい。でもまぁ僕たちはせいぜいアリーナがいっぱいになって、3000人ぐらいだけでも頑張ろう、っていうぐらいの気持ちだったんですよね。そんな時代ですね。
A:それを、武道館をやろうと決断して、武道館は1982年の1月12日に行われるわけなんですが、もう決断したのが1年前とか2年ぐらい前のことになるんですよね。
H:そうですね。ちょうど1年半ぐらい前ですね。はい。そうです。
A:だからその当時としては、ある意味じゃあ無謀なチャレンジ。
H:そうですね。だからあるひとつの、武道館1月12日に向かって、みんなでそれをやろう。その前の年はすごい数のライブをやってますし、アルバムもそれに向かって優れたアルバムを作らなきゃいけないっていうプレッシャーもすごくあって、それでできたアルバムが「愛の世代の前に」って いうアルバムなんですけどね。だからちょうど80年の「HOME BOUND」から「愛の世代の前に」その次の年の「Promised Land」ぐらいまでは、ツアーをやりながら曲を書いて、ツアーをやりながらレコーディングして、同時に全部のことをやってましたね。ひとつのツアーが終わったら、もうすぐ次のツアーのためのリハーサルが始まってっていう。その間にわずかね、10日か1週間ぐらい休みがあって、その休みだけが唯一の楽しみだったんですよね(笑)
A:考えられないぐらい隙間のないスケジュールで。
H:スタッフなんかねぇ、東京に下宿とかあるじゃないですか。アパート借りてる子たちは、みんな引き払いましたからね。家賃払ってても意味がないから。帰れないから。ミュージシャンはまだ帰れるんですよね。月に1回か2回か3回か。でもスタッフは3ヶ月ぐらい帰れないんですよ、出ちゃうと。だからねぇ、ほんとに遠洋漁業の漁師さんみたいな感じになって。
A:出たっきりなんですね。
H:出たっきりです。3ヶ月帰らない。帰ったら子供が覚えてないとかね。「パパまたきてね」とかね「おじさんまた来てね」とか言われちゃう。よく冗談で言うじゃないですか。その、そういう状態になって、独身のスタッフなんてのはもうアパートをひき払って、荷物をトラックに積んじゃって。そういう笑い話がありますね。
A:そういう人たちの、少し家庭を犠牲にして(笑)、浜田省吾伝説がここから生まれてくるっていう。
H:そうです。ただ、当時はまだね、今も一緒にやってるスタッフがいますけど、まだほとんど独身で、みんな若かったんですよ。20代そこそこで。
A:いろんな意味で、夢とか希望とかすべて、無茶を重ねて、このあたり。
H:そうですね。そうそう。それがさっきのラジオの、氷嚢を頭に乗っけてみたいな感じなんですよね。
A:その無茶が、日本武道館で、ひとつ結実する。
H:そうです。
A:・・・わけなんですね。
H:はい。
本日のみなさまのご来店を心よりお待ちしております どうぞ、よろしくお願いいたします 浜田省吾&愛奴ファンのお店 東京新宿Bar“Flash&Shadow”http://www.flashandshadow.com/ (営業時間19:00~24:00 日曜日定休)
https://blogs.yahoo.co.jp/bar_flashandshadow/18434276.html