過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

1/4(土) 過去の今日の浜省さんとetSETOraだヨ(=^◇^=)


 ブロック映像◆フジ番組主題歌売上35年史 レコード売り上げBEST35 https://youtu.be/yTwcorYNqyg
‡1968(昭和43)年01月04日(木) オリコン調べ集計期間
 1993(平成五)年03月22日(月) オリコン調べ集計期間
 第⑦位 170.3万枚『愛という名のもとに』♪悲しみは雪のように♪浜田省吾

「日本武道館」 
 2014/6/7(土) 午後 0:32 浜田省吾 ミュージシャン 
 昨日のお話「セイヤング」を書いたらこれは書かないとダメですよね(^^)
 A:1980年にこの「セイヤング」を浜田省吾さんが担当してるわけなんですけど、その1980年当時は、なんかじゃあ頑張ったら次が来そうだっていうのが見えてきた頃なんですかね?
 H:コンサートツアーっていうものを、ブッキングっていうんですけど、各地のイベンターが少しずつしてくれた時代ですね。まだコンサートツアーが誰でもやってる時代じゃなかったので、コンサートツアーがいまみたいな形になるほんとにほんとに初期の頃ですね。だからやっと、そうですね、どのくらいなんだろう。年間にして60本、80本、100本と増えてきた、ちょうどそういう時代。ですから、武道館よりも前ですから、まだホールでコンサートやってもお客さんが町によっては2、300人。町によっては満杯でもアベレージにすると、600人とか。ほんとにだから1階席のうしろがまだ空いてるっていうような、そんな時代ですね。
‡A: 手元に1980年の1月4日(おそらく1/8の間違い)旭川市公会堂から始まって、12月25日に倉敷市民会館でこの年は、あのツアーって言うんですか。毎月ずっと10ヶ所程度やってるんですけど。
 H:まさにそれがツアーなんですよね。
 A: 今ツアーって言ったら例えば10本とかね、12本とかまぁ多くて20本をひとつきに8とかね、ぐらいやって、3ヶ月ぐらいで終わるってのがまぁ常識的なところだと思うんですけど。ほんっとに年中旅してるんですね。
 H:ずぅっとやってるんですよ。延々と。エンドレスな感じで。
 A: 考えられないのは、当時のツアーとか見ると、広島、年間3回ぐらいやってるんですよね。
 H:やってますね。広島の中だけで10箇所ぐらいとかね。ま10箇所は大げさですけど。
 A: 近くで、福山やったりとか、お隣ですけど岩国でやったりとか、ほんとにいろんなところ、これこそ回ってるって感じですね。
 H:そうですね。でもそれをほんとはツアーって言うんですよね。だから年間30本以下はツアーとは言わない(笑)
 A:ほんとに旅をしてた。よく浜田省吾さんはマスコミにさほど出ないのは、自分が得意なものが、ライブという形で曲を表現するのが一番得意だからという風に言われますけど、まさにライブで伝えてきたんだなぁっていうのが。おそらく今のリスナーの多くは、そんなライブで伝えたって、伝えられる人の数とか限られてるでしょと思うと思うんですよ。この記録を見れば、ライブで伝えたんだなって、あの行商じゃないですけど、旅をして、そこで商売して、じゃないけど。
 H:そうです、そうです。だからコンサートやって、そこに来た500人、600人のお客さんの何パーセントかの人がレコードを買ってくれて、それがこうずうっとつながってったという感じですよね。
 A:ほんとにPerson to person.のコミュニケーションが広がって行って、浜田省吾の今が積み重なっていくっていうのがこのあたりから始まってるんですね。
 H:そうですねぇ。だから、まだお客さんも乗り方っていうのがまばらで、今でこそみんなアップテンポの曲が始まると立って踊ったりしてますけど、みんなまだ座って手拍子をこうするかなっていう時代ですよね。そんな時代。どんなにハードな曲をやってもみんな座って手を叩く程度の、ある日いきなり誰かが立ち上がったら、今度は全員が前にいて、うしろはがらがらで全部が前にいるっていう。それで、オーケストラピットってあるじゃないですか、下からせりが上がってくる。それが落ちちゃったことがある(笑)例えば長崎のですね公会堂は、それで落ちたために初めて修復したっていう、そういう伝説もあるんですよ。おれが落としたから、あそこは修復したんだぞ、みたいなね。
 A:そういう意味じゃほんとに浜田さんは今のいわゆるツアースタイルという、日本のミュージシャンがコンサートツアーするというとこをこのあたりで切り拓いてきたわけなんですね。
 H:そうですね。僕だけじゃなくて当時だと例えば、矢沢永吉さんであるとか、オフコース、アリス、谷村新司さんのいるアリス、あとはまぁ僕とか、そういった人たちですね、たくさんコンサートをやってたのは。
 A:その集大成として武道館、があるわけなんですが。けっこう武道館を決めた時は勢いみたいな形で決めたんですよね。
 H:これはねぇ、あの勢いじゃなくて、広島に夢番地っていうコンサートプロモーターがあって、その初代の会社を興した社長がね善木さん、今は会長になってますけど、彼が、彼の頭の中で考えたことなんですよ。彼がずうっと僕のコンサートを見てて、まだお客さんが500人、600人の時に、何でこれがブレイクしないんだ?と。これ絶対に見せたらね、絶対みんないいっとわかってくれるはずだと。特に東京のメディア、の人たちに見せたら伝わるはずだと。彼がある日酔っ払って話したんですよ。最初は酔って話してるのかなぁ・・・と。当時武道館っていうのは、ねぇ(笑)例えばー、そうですねぇ、えー、メルパルクホールでやってる、やっといっぱいになったアーティストがいきなり東京ドームでやる感じなんですよね、武道館でやるっていうのは。だからちょっと考えられないスケールだったんですよ。今はねぇインディーズでデビューした人たちも武道館をやる時代になりましたけど。だから僕たちも例えばラジオ局のディレクターが「浜田君、僕が見た武道館の一番少ない客はねぇ、前から4列しか客が入ってない外タレがいたなぁ」とか、そんな話をするんですよ。
 A:基本的には外タレがやる場所ですよね。
 H:そうなんですよ。
 A:当時の武道館って。
 H:はい。でもまぁ僕たちはせいぜいアリーナがいっぱいになって、3000人ぐらいだけでも頑張ろう、っていうぐらいの気持ちだったんですよね。そんな時代ですね。
 A:それを、武道館をやろうと決断して、武道館は1982年の1月12日に行われるわけなんですが、もう決断したのが1年前とか2年ぐらい前のことになるんですよね。
 H:そうですね。ちょうど1年半ぐらい前ですね。はい。そうです。
 A:だからその当時としては、ある意味じゃあ無謀なチャレンジ。
 H:そうですね。だからあるひとつの、武道館1月12日に向かって、みんなでそれをやろう。その前の年はすごい数のライブをやってますし、アルバムもそれに向かって優れたアルバムを作らなきゃいけないっていうプレッシャーもすごくあって、それでできたアルバムが「愛の世代の前に」って いうアルバムなんですけどね。だからちょうど80年の「HOME BOUND」から「愛の世代の前に」その次の年の「Promised Land」ぐらいまでは、ツアーをやりながら曲を書いて、ツアーをやりながらレコーディングして、同時に全部のことをやってましたね。ひとつのツアーが終わったら、もうすぐ次のツアーのためのリハーサルが始まってっていう。その間にわずかね、10日か1週間ぐらい休みがあって、その休みだけが唯一の楽しみだったんですよね(笑)
 A:考えられないぐらい隙間のないスケジュールで。
 H:スタッフなんかねぇ、東京に下宿とかあるじゃないですか。アパート借りてる子たちは、みんな引き払いましたからね。家賃払ってても意味がないから。帰れないから。ミュージシャンはまだ帰れるんですよね。月に1回か2回か3回か。でもスタッフは3ヶ月ぐらい帰れないんですよ、出ちゃうと。だからねぇ、ほんとに遠洋漁業の漁師さんみたいな感じになって。
 A:出たっきりなんですね。
 H:出たっきりです。3ヶ月帰らない。帰ったら子供が覚えてないとかね。「パパまたきてね」とかね「おじさんまた来てね」とか言われちゃう。よく冗談で言うじゃないですか。その、そういう状態になって、独身のスタッフなんてのはもうアパートをひき払って、荷物をトラックに積んじゃって。そういう笑い話がありますね。
 A:そういう人たちの、少し家庭を犠牲にして(笑)、浜田省吾伝説がここから生まれてくるっていう。
 H:そうです。ただ、当時はまだね、今も一緒にやってるスタッフがいますけど、まだほとんど独身で、みんな若かったんですよ。20代そこそこで。
 A:いろんな意味で、夢とか希望とかすべて、無茶を重ねて、このあたり。
 H:そうですね。そうそう。それがさっきのラジオの、氷嚢を頭に乗っけてみたいな感じなんですよね。
 A:その無茶が、日本武道館で、ひとつ結実する。
 H:そうです。
 A:・・・わけなんですね。
 H:はい。
 本日のみなさまのご来店を心よりお待ちしております どうぞ、よろしくお願いいたします 浜田省吾&愛奴ファンのお店 東京新宿Bar“Flash&Shadow”http://www.flashandshadow.com/ (営業時間19:00~24:00 日曜日定休)
 https://blogs.yahoo.co.jp/bar_flashandshadow/18434276.html


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 ┃ ♪イメージの詩♪ ┃
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 1997(平成八)年10月22日(水) リリース
 2005(平成17)年03月24日(木) リリース
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 音源◆https://music.amazon.co.jp/albums/B00FS840O6
 https://ja.wikipedia.org/wiki/イメージの詩#イメージの詩_(浜田省吾のシングル)
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 浜田省吾 #36 ♪イメージの詩♪ 
‡2018(平成30)年01月04日(木)
 今回は1997(平成九)年にリリースされた浜田省吾さんのCDシングル♪イメージの詩♪のことを。
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 浜田省吾♪イメージの詩♪ 1996(平成八)年10月30日(水)Recorded at Sony Shinanomachi Studio。
 浜田さんが吉田拓郎さんの50歳の誕生日を祝して、拓郎さんのデビュー曲である♪イメージの詩♪をカバーして、ロサンゼルスのトップミュージシャン達を起用してレコーディングするという企画が密かに進行していた。ぼくはもうすぐ40歳になろうかという頃だった。吉田拓郎さんが1996(平成八)年に行なった“Tour'96感度良好ナイト”というコンサートツアーのバックアップバンドにLAの凄腕ミュージシャン達が招集された。メンバーは、ドラムス:ラス・カンケル、ベース:リー・スクラー、ギター:ワディ・ワクテル、キーボード:クレイグ・ダーギー。この四人は拓郎さんが1995(平成七)年にバハマでレコーディングした「ロングタイム・ノー・シー」というアルバムに参加したことがきっかけで、拓郎さんの1996(平成八)年の全国ツアーにも参加することになった。そして拓郎さんのツアーのためLAからのミュージシャンが来日しているタイミングで、浜田さんサイドからLA組に♪イメージの詩♪へのレコーディング参加のオファーを打診したところOKの返事が貰えたため、浜田省吾さんがカバーする吉田拓郎さんの♪イメージの詩♪のレコーディングが実現することとなった。そんなある日、ぼくのところへ一本の電話がかかって来た。浜田省吾さんからだった。「やぁ、板さん元気?浜田です。今日は板さんがすごく喜んでくれる話があって電話したんだ。」「お久しぶりです。突然の電話でびっくりしました。ぼくが喜ぶ話って一体何ですか?」ちょっとドキドキしながらぼくは答えた。「今度、吉田拓郎さんの50歳のバースデーを祝って、拓郎さんの「イメージの詩」をレコーディングしようと思ってるんだ。バンドはザ・セクションのメンバー達とやりたいと思って、オファーをしたらOKの返事が来たんで一緒にやれることになったんだ。ザ・セクションのメンバーはみんな板さんの憧れのミュージシャン達だよね?そんな訳で板さんを誘ったら喜ぶと思って連絡したんだ。どう?一緒にやってくれる?」ぼくは一瞬浜田さんが何を言っているのかよく分からなくなっていた。ぼくの大好きなザ・セクションを中心としたLAのミュージシャン達と、これまた大好きな拓郎さんの曲を、しかも当の拓郎さんまでもが参加してのレコーディングが実現するなんて、俄には信じられない話だった。それから何日かして正式に浜田さんのマネジメントオフィスから、ぼくの所属するオフィスにオファーが届いた。日程は
 1996(平成八)年10月30日(水)、場所は信濃町のソニースタジオ。レコーディングする曲は吉田拓郎さんのデビュー曲にして名曲の「イメージの詩」。ぼくは最初に浜田さんから「板さん、アコースティックピアノを弾く?」と聞かれたのだが、ぼくが一番尊敬しているキーボーディストであるクレイグ・ダーギーの前で、ピアノを弾く度胸はとてもじゃないが無かったので「ハモンド・オルガンを弾かせて貰います」と答えた。レコーディングが決まってからというもの、ぼくは何日も落ち着かない日々を過ごした。ぼくにとって憧れのメンバーとのレコーディングの話は、いつかそんな機会があったら素晴らしいとは思っていたが、まさか本当に実現することになるとは夢にも思っていなかった。そしていよいよレコーディングの日がやってきた。ぼくは緊張しつつも平静を装い、少し早めにスタジオ入りした。まだメンバーは誰も来ていなかった。少しして浜田さんがスタジオに現れた。ぼくは浜田さんとの久しぶりの再会を喜んだ。スタジオのロビーで浜田さんと談笑していると、続々とLA組のメンバー達がスタジオ入りして来た。ぼくがあんなにも憧れたLAのミュージシャン達が確かにそこにいた。間近で見るとみんな凄く大きい。ぼくは夢を見ているのではないかと思い、ほっぺたをつねってみた(本当)。当然ながら夢ではなかった。全員がスタジオ入りしたところで、コーディネーターの方がメンバーを紹介してくれた。ぼくは一人一人と握手を交わしながら、拙い英語で挨拶をした。ドラムのラス・カンケルが「は?い、イタサン!」と日本語でウインクを返してくれた。LA組の連中はみんなフレンドリーだったが、一人だけ違う雰囲気の方がいた。吉田拓郎さんだった。中学生の頃、初めて拓郎さんの曲に魅せられて、それから高校を卒業するぐらいまでの間、それこそ熱に浮かされたように拓郎さんの曲を聴きまくっていた時期があった。
ぼくはそんな雲の上の人を目の前にして緊張しないわけが無かった。拓郎さんのマネージャーの方が拓郎さんにぼくを紹介してくれた。ぼくは失礼の無いように丁寧に挨拶をした。しかし具合でも悪いのか、拓郎さんはあまり喋らなかった。
後から聞いたところによると、元々拓郎さんは人見知りの上にこの日は体調が今ひとつだったとのことであった。レコーディングが始まる前まで、各々が自分の楽器の音をチェックしながら適当な音を出していた。ぼくはみんなの使っている楽器やアンプが気になって、それとなく見て回った。ラス・カンケルはヤマハのドラムセットを使っていた。ジャクソン・ブラウンのツアーの際はSonor製のドラムだったと思ったが、今回はヤマハ製のドラムだった。リー・スクラーのベースはカスタムメイドのもので、ネックのヘッドの部分にはフェンダーやギブソンのブランドロゴではなく、「Leland Sklar」と刻印されていた。ワディ・ワクテルのギターはギブソンのレスポールモデルだった。アンプはフェンダーのデラックス・リバーブを使用していた。そしてアンプの裏には「レオ・ミュージック」の刻印が。レオ・ミュージックとは東京の楽器レンタルの会社で、今回のレコーディングの楽器関連はレオ・ミュージックからレンタルしたものと思われた。
クレイグ・ダーギーの弾くグランドピアノはスタジオに常設のもの、ぼくの弾くハモンドB3オルガンとオルガンを鳴らすためのレスリー・スピーカーもレオ・ミュージックのものだった。ぼくと浜田さんはピアノのクレイグ・ダーギーのところに行って、ぼくがどれだけクレイグ・ダーギーに憧れていたかということを、浜田さんが流暢な英語でクレイグに説明してくれた。クレイグは謙遜しながら「これからはぼくのような年取ったものの時代じゃなくて、君のような若者の時代だよ。」と言った。ぼくも決して若くは無かったのだが、クレイグにはぼくがよっぽど若く見えたらしい(笑)。ぼくは思い切ってクレイグにリクエストをしてみた。「あの良かったら何かジャクソン・ブラウンの曲を弾いてもらえませんか?」するとクレイグはすぐに次々と自分がレコーディングに参加したジャクソンの曲を弾いてくれた。「プリテンダー」「ホールド・オン・ホールドアウト」「孤独なランナー」等々。ぼくは「ホールド・オン・ホールドアウト」でのクレイグのピアノがとても好きだったので、目の前で繰り広げられるクレイグのピアノ演奏を目をこらして見ていた。それにしても身体もでかいが手もでかい。ぼくがやっとのことで押さえるピアノのオクターブ間の鍵盤を、クレイグはいとも簡単に押さえていた。やがてクレイグがジャクソン・ブラウンの「「孤独なランナー」を弾き始めると、すぐに他のメンバーも反応した。クレイグのピアノに合わせてドラムのラス・カンケルとベースのリー・スクラーも「孤独なランナー」を演奏しだした。ジャクソン・ブラウンが1977(昭和52)年に発表したライブアルバム「孤独なランナー」は、ピアノがクレイグ・ダーギー、ドラムがラス・カンケル、ベースがリー・スクラーで、ギターはダニー・クーチとデビッド・リンドレーだった。今、スタジオで演奏されている音は正にその当の本人達による演奏だった。ぼくもハモンド・オルガンのところに行ってその演奏に参加した。みんな軽いタッチで演奏しているのだが、レコードが擦り切れるぐらい聴いた「あの音」が目の前で、そして装着しているヘッドホンから聴こえて来ている。ぼくは感動で鳥肌が立った。短い間ではあったが、そんな本物達と「孤独なランナー」を一緒に演奏出来たことは、ぼくにとって至上の喜びだった。クレイグ・ダーギー以外のメンバーの印象は、ドラムのラス・カンケルは陽気なアメリカン、ギターのワディ・ワクテルはその風貌に似つかわしくない物静かな紳士、ベースのリーランド・スクラーはちょっと神経質そうな感じではあるが、大学の教授のような雰囲気で、LA組の音楽的なリーダーシップをとっていたのはリー・スクラーだった。各楽器のサウンドチェンクが終わると、アレンジャーの星勝さんの号令でいよいよリズム録りが始まった。今回のアレンジは星勝さんだった。ぼくも星さんの書いた譜面をハモンドオルガンの前の譜面台に置いた。しかし譜面が長すぎて一台の譜面台では置ききれないため、もう一台譜面台を用意してもらった。
改めて今回のレコーディングメンバーを。
 ボーカル&ハーモニカ:浜田省吾
 ドラムス:ラス・カンケル
 ベース:リー・スクラー
 ギター:ワディ・ワクテル
 ピアノ:クレイグ・ダーギー
 ハモンド・オルガン:板倉雅一
 アコースティック・ギター:吉田拓郎
 ラス・カンケルがレコーディングに参加したアーティストは、ジェイムス・テイラー、ジャクソン・ブラウン、キャロル・キング、ジョニ・ミッチェル、ボブ・ディラン、カーリー・サイモン、、リンダ・ロンシュタット等々。
 リー・スクラーがレコーディングに参加したアーティストは、ジェイムス・テイラー、ジャクソン・ブラウン、キャロル・キング、デヴィッド・フォスター、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング、ドン・ヘンリー 等々。
 ワディ・ワクテルがレコーディングに参加したアーティストは、ウォーレン・ジヴォン、リンダ・ロンシュタット、スティーヴィー・ニックス、ロッド・スチュワート、ローリング・ストーンズ、リンゴ・スター等々。
 クレイグ・ダーギーがレコーディングに参加したアーティストは、ジェイムス・テイラー、ジャクソン・ブラウン、CS&N、、リンダ・ロンシュタット、ネッド・ドヒニー、ドノバン、ベット・ミドラー等々。それぞれがそれこそ星の数程のレコーディングやライブを経験している、正にアメリカを代表するトップミュージシャン達だった。とりあえず一回演奏してみようということで、1テイク目の録音が始まった。ラス・カンケルのカウントでワディ・ワクテルのギターから始まるイントロ部分が演奏されると、ぼくはそのサウンドの迫力に度肝を抜かれた。ヘッドホンを通して聴こえてくる演奏の音圧感が凄いのだ。特にラス・カンケルのドラムはヘッドホンを装着していても生音が聴こえてくるほど音が大きかった。そしてラス・カンケルの叩くスネアのタイミングとクリック音(レコーディングの時にヘッドホンから聴こえてくるガイド音。曲のテンポが一定になるようにミュージシャンはクリックに合わせて演奏する)のタイミングが合いすぎていて、全くクリック音が聴こえないのには驚いた。♪イメージの詩♪は同じヴァースが延々と続く長い曲で、譜面には繰り返し記号がたくさん書かれていた。なので集中して譜面を見ていないと、すぐにどこを演奏しているのか分からなくなってしまう。ぼくは神経を尖らせて演奏に集中した。試しに最初に演奏したテイクを、コントロールルームでみんなで聴いてみた。1テイク目の演奏なのに驚いたことにもの凄く良い。浜田さんはもうこのテイクでバッチリだと言っている。もしや1テイクでレコーディング終了?するとラス・カンケルがもう一回だけ演奏させて欲しいと言って来た。勿論誰も異論を挟むものはいなかった。2テイク目の演奏も素晴らしかった。ぼくも何とかみんなについて行くことが出来た。結局2テイク目の演奏が採用されることになり、レコーディングはすぐに終了してしまった。その後、プロモーションヴィデオ用に何回か当て振りのシーンを撮影して「イメージの詩」のレコーディングは終了した。この後、みんなでの食事会が予定されていたのだが、残念ながらぼくは後があって参加することが出来なかった。ぼくにとって本当に夢のような一日が終わった。長年焦れていた夢が叶った瞬間だった。そしてこのレコーディングにぼくを誘ってくれた浜田さんには、いくら感謝してもしきれない気持ちでいっぱいだった。余談:ぼくは密かにレコーディングスタジオに、ジャクソン・ブラウンやクレイグ・ダーギー、ザ・セクションのCD&アルバムを持参していった。あわよくばメンバーのサインを貰おうという魂胆だった。しかし実際スタジオに入ると、レコーディングスタッフ、ビデオの撮影クルー、スチールカメラマン、コーディネーター、マネージャー等、たくさんの人がスタジオの中にいて、とてもピリピリと張りつめた空気が漂っていた。とてもじゃないがその場でサインを貰えるような雰囲気ではなかった。そんな訳でぼくのサイン頂戴作戦は見事に玉砕した(笑)。
 写真◆スタジオで談笑するピアノのクレイグ・ダーギーとぼく。 
**************** http://air.edisc.jp/ima/
 http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2018/01/36.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 集計会社 オリコン
 ┃ 1968(昭和四十三)年シングル年間TOP50 ┃‡1968(昭和43)年01月04日(木)付
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 1968(昭和43)年11月25日(月)付
 ①位 千昌夫「星影のワルツ」
 ②位 ザ・フォーク・クルセダーズ「帰って来たヨッパライ」
 ③位 ピンキーとキラーズ「恋の季節」
 ④位 鶴岡雅義と東京ロマンチカ「小樽のひとよ」
 ⑤位 伊東ゆかり「恋のしずく」
 ⑥位 ザ・タイガース「花の首飾り/銀河のロマンス」
 ⑦位 サイモン&ガーファンクル「サウンド・オブ・サイレンス」
 ⑧位 小川知子「ゆうべの秘密」
 ⑨位 ビージーズ「マサチューセッツ」
 ⑩位 ザ・タイガース「シー・シー・シー」
 11位 青江三奈:「伊勢佐木町ブルース」
 12位 津山洋子・大木英夫:「新宿そだち」
 13位 森進一:「盛り場ブルース」
 14位 パープルシャドウズ「小さなスナック」
 15位 中井昭・高橋勝とコロラティーノ「思案橋ブルース」
 16位 ザ・テンプターズ「エメラルドの伝説」
 17位 黒木憲「霧にむせぶ夜」
 18位 黛ジュン「天使の誘惑」
 19位 ザ・テンプターズ「神様お願い」
 20位 黛ジュン「夕月」
 21位 ザ・タイガース「君だけに愛を」
 22位 森進一「花と蝶」
 23位 中村晃子「虹色の湖」
 24位 美川憲一「釧路の夜」
 25位 黒沢明とロス・プリモス:「雨の銀座」
 26位 伊東ゆかり「星を見ないで」
 27位 西田佐知子「涙のかわくまで」
 28位 黒沢明とロス・プリモス「ラブユー東京」
 29位 ザ・ダーツ「ケメ子の歌」
 30位 黛ジュン「乙女の祈り」
 31位 森進一「命かれても」
 32位 黒沢明とロス・プリモス「たそがれの銀座」
 33位 布施明「愛の園」
 34位 モンキーズ「デイドリーム」
 35位 オックス「ガール・フレンド」
 36位 ジャッキー吉川とブルーコメッツ「こころの虹」
 37位 ザ・フォーク・クルセダーズ「悲しくてやりきれない」
 38位 1910フルーツガム・カンパニー「サイモンセッズ」
 39位 ザ・ワイルドワンズ「バラの恋人」
 40位 北島三郎「薩摩の女」
 41位 佐良直美「世界は二人のために」
 42位 モンキーズ「すてきなバレリ」
 43位 ザ・タイガース「廃虚の鳩」
 44位 ロス・インディオス「知りすぎたのね」
 45位 オーティス・レディング「ドック・オブ・ベイ」
 46位 鶴岡雅義と東京ロマンチカ「旅路のひとよ」
 47位 ザ・テンプターズ「おかあさん」
 48位 ビートルズ「ヘイ・ジュード」
 49位 ザ・ゴールデン・カップス「長い髪の少女」
 50位 モンキーズ「モンキーズのテーマ」
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/1968%E5%B9%B4%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD
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 1980(昭和55)年 1月 4日(金) ラジオ関東 電撃わいどウルトラ放送局 http://youtu.be/44g3ZE7seHg
 いつもと違うオープニングコールも良かったらお聞きください。それから、
 1979(昭和54)年12月17日(月) 日本青年館でのライブの模様を紹介
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『SINGLE CHART-BOOK COMPLETE EDITION 1968-2010』 ┃
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 ┌─――――――――――――┐出版社: オリコン・エンタテインメント
 |2012(平成24)年 2月13日(月)|アマゾン発売日
 |2012(平成24)年 2月16日(木)|発売日 A4判、P.950(予定)、P.917 本体価格\35,000円(税込 送料無料)
 └─――――――――――――┘43年間のオリコン・シングルチャートの歴史が一堂に! 
                35300作に及ぶシングルヒット全作品を掲載! 
 シングル編のおもな特徴
 (1)アーティスト別作品データ
  1968年1月~2010年12月20日付までに登場した全作品をアーティストごとに五十音順にリストアップ。タイトル、発売元、最高位、チャート内登場週数、売上数、作詞家、作曲家、編曲家、発売日、商品番号の各データを掲載。
 (2)オールタイムランキング
  1968年1月~2010年12月20日付までの作品別、アーティスト別、チャートイン作品数、チャートイン登場週数などの歴代ランキングの数々を掲載。
 (3)首位獲得作品推移
  1968年1月~2010年12月20日付までの毎週のNo.1作品の変遷を掲載。
 備考・・・オリコンのシングルチャートの歴史は、1968年1月からスタートしました。この時のNo.1は黒沢明とロス・プリモスの「ラブユー東京」でした。それから33年を経た2010年12月20日付現在のNo.1数は1191作に達しています。
今回発行する『SINGLE CHART-BOOK COMPLETE EDITION 1968~2010』は、2006年に発行し好評を得た『SINGLE CHART-BOOK COMPLETE EDITION 1968~2005』に続く最新刊で、No.1ヒット1193作に加え、過去43年間に登場した35300作以上に及ぶシングルヒット全作品を収録、各タイトルの売上数、最高位、発売元、作家、発売日といった様々なデータを網羅した、日本音楽史上唯一無比のチャートブックです。
 https://ranking.oricon.co.jp/cbook/ http://www.amazon.co.jp/dp/4871310884
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 ┃         オリコン歴代シングルヒットチャート         ┃
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 ※集計期間 ●1968(昭和43)年 1月 4日(木)~2009(平成21)年11月?日(?)現在まで 9:56 2012/09/24(月)
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‡|第①位 ♪およげ!たいやきくん♪ 子門真人 |1975(昭和50)年12月25日 リリース
 └─――――――─――――――─―――――┘総売上:454万7620枚 
 ┌─―――─―――――――――─――――――┐
‡|第②位 ♪女のみち♪ 宮史郎とぴんからトリオ|1972(昭和47)年 5月10日 リリース
 └─――――――─――――――─――――――┘総売上:325万6460枚
 ┌─―――─―――――――――─―――――┐
‡|第③位 ♪TSUNAMI♪ サザンオールスターズ |2000(平成12)年 1月26日 リリース
 └─――――――─――――――─―――――┘総売上: 293万4965枚
 ┌─―――─―――――――――─――――――――――┐
‡|第④位 ♪だんご3兄弟♪ 速水けんたろう、茂森あゆみ|1999(平成11)年 3月 3日 リリース
 └─――――――─――――――─――――――――――┘総売上:291万8220枚 
 ┌─―――─―――――――――─―――――――┐
‡|第⑤位 ♪君がいるだけで/愛してる♪ 米米CLUB|1992(平成四)年 5月 4日 リリース
 └─――――――─――――――─―――――――┘総売上:289万5060枚 
 ┌─―――─―――――――――─――┐
‡|第⑥位 ♪SAY YES♪ CHAGE and ASKA |1991(平成三)年 7月24日 リリース
 └─――――――─――――――─――┘総売上: 282万2450枚 
 ┌─―――─―――――――――─――――――――┐
‡|第⑦位 ♪Tomorrow never knows♪ Mr.Children|1994(平成六)年11月10日 リリース
 └─――――――─――――――─――――――――┘総売上:276万6290枚
 ┌─―――─――――――――――――――┐
‡|第⑧位 ♪世界に一つだけの花♪ SMAP|2003(平成15)年 3月 5日 リリース
 └─――――――─――――――─――――┘総売上:259万2450枚
 ┌─―――─―――――――――─―――─――――――――┐
‡|第⑨位 ♪Oh! Yeah!/ラブ・ストーリーは突然に♪ 小田和正|1991(平成三)年 2月 6日 リリース
 └─――――――─――――――─――――――─―――――┘総売上:258万7840枚
 ┌─―――─―――――――――──――――――――――┐
‡|第⑩位 ♪LOVE LOVE LOVE/嵐が来る♪ DREAMS COME TRUE|1995(平成七)年 7月24日 リリース
 └─――――――─――――――─―――─―――――――┘総売上:248万8630枚
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 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%88
 ①http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%82%88%E3%81%92!%E3%81%9F%E3%81%84%E3%82%84%E3%81%8D%E3%81%8F%E3%82%93
 ②http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%81%A1
 ③http://ja.wikipedia.org/wiki/TSUNAMI
 ④http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A0%E3%82%93%E3%81%943%E5%85%84%E5%BC%9F
 ⑤http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%81%8C%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%A7/%E6%84%9B%E3%81%97%E3%81%A6%E3%82%8B
 ⑥http://ja.wikipedia.org/wiki/SAY_YES
 ⑦http://ja.wikipedia.org/wiki/Tomorrow_never_knows_(Mr.Children%E3%81%AE%E6%9B%B2)
 ⑧http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AB%E4%B8%80%E3%81%A4%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%AE%E8%8A%B1
 ⑨http://ja.wikipedia.org/wiki/Oh!_Yeah!
 ⑩http://ja.wikipedia.org/wiki/LOVE_LOVE_LOVE/%E5%B5%90%E3%81%8C%E6%9D%A5%E3%82%8B
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 ┃ オリコンシングル第①位獲得作品集計期間 ┃
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 シングルチャート 1968年1月4日付 - 現在 
 シングル第①位獲得作品集計期間:1968(昭和43)年1月4日付~2012(平成24)年2月20日付までで、1250作が1位を獲得)
 シングル第①位獲得作品集計期間:1968(昭和43)年1月4日付~2013(平成25)年2月 4日付までで、1300作が1位を獲得)
 シングル第①位獲得作品集計期間:1968(昭和43)年1月4日付~2014(平成26)年2月 3日付までで、1350作が1位を獲得
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%88#.E3.82.B7.E3.83.B3.E3.82.B0.E3.83.AB1.E4.BD.8D.E7.8D.B2.E5.BE.97.E4.BD.9C.E5.93.81
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 ┃ オリコンの歴史 ┃1967年5月ごろという説もある
 ┗━━━━━━━━━┛1967年11月2日付[1]から実験的にチャート制作された。正式スタートは1968年1月4日付から。シングルチャート第1回の1位は、黒沢明とロス・プリモスの『ラブユー東京』ただし、それ以前にジャッキー吉川とブルーコメッツの♪北国の二人♪が実験的なチャートで2週連続第①位を記録しており「幻の第①位」と呼ばれる、LPチャート第1回の第①位は、森進一の『花と涙/森進一のすべて』、CTチャートの第1回の第①位は、井上陽水の『二色の独楽』、CDチャートの第1回の第①位は中森明菜の『BEST AKINA メモワール』、合算アルバムチャートの第1回の第①位はマイケル・ジャクソンの『BAD』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%88#.E6.AD.B4.E5.8F.B2
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 ┃ オリコンランキング、2011年度は年末年始の“合算週”なし 1週ずつの発表に ┃2010/12/8 23:47
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛オリコンは8日、2011年度の年末年始のオリコンランキングの集計に関する発表を行った。2011年度は、年末年始に恒例となった2週間の売上をまとめて計上する「合算週」がなくなり、1週ずつランキングが発表される。8日、オリコンが発表したランキングに関するスケジュールは次のとおりである。1/10付週間の発表が通常の2日遅れになり、12/29~1/4まではデイリーランキングの更新が止まる。(以下オリコン発表の文面をそのまま掲載)
【デイリーランキング】 年末年始のデイリーランキングを、年明け1月5日に発表する予定です。
◇2010年12月28日(火)付~2011年01月04日(火)付
更新:2011年01月05日(水)中予定(順次更新する可能性があります)
(当サイト注釈:12/29から公式の更新が止まり、1/5に再開して1週間分をまとめて更新)
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 http://blog.livedoor.jp/ustan777/archives/51775803.html
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1月4日はシングル史上一番売れた「およげ!たいやきくん」歌唱者、子門真人の誕生日
2017年01月04日 執筆者:丸芽志悟
1944年(昭和19年)の本日1月4日は、もう絶対破られないであろうと思われる日本のシングルレコード(CD含む)史上最も売れた一枚、「およげ! たいやきくん」の歌唱者、子門真人の誕生日である。
メガヒットの影を背負いつつ1993年に人知れず現役を退き、以後「伝説の歌手」と化している子門の一般的イメージは、ささきいさお、水木一郎、串田アキラと並ぶ「アニソン・特撮歌手四天王」の一人が最も大きいと思われる。生憎、筆者はその側面から彼の魅力を語りつくすスキルを持ち合わせていないのだが、ここは「たいやきくん」時代をリアルタイムで通り過ぎた者の一人として、当時の話を軸に語り始めたいと思う。
昭和51年前後というと、高校生~大学生のお兄さんお姉さんがいた友達の家を当時小学生の筆者が訪れれば、必ずあったのが『かぐや姫さあど』と井上陽水『氷の世界』のLP、そしてちょっと背伸びしたモジュラーステレオだった。そして、申し分程度に「およげ! たいやきくん」のシングルも必ずと言っていいほどあった。無論、そこまで恵まれてなかったと思われる友達の家にさえ、「たいやきくん」とポータブルのプレイヤーは必ずあった。現在では考えられない事態だけど、まさに「一家に一枚アイテム」だったのである。当時、すでに陽水やカーペンターズやウイングスのシングルに手を伸ばしていた筆者は、今更たいやきくんのレコードなんてと冷めて構えていた癖して、一字一句歌詞を全部覚えていた。そこまで、時代を象徴した一曲だったのだ。
75年12月25日、「ひらけ! ポンキッキ」の挿入歌として大反響を呼んだ末、急遽シングルリリースされたこの曲は、年が明けて発表された最初のオリコンチャートで1位にランクインし、その後10週間に渡ってその座をキープした。最終的にシングル盤の売り上げはオリコン調べ453.6万枚に達し、その後数度の再発売でさらに上乗せしている。記憶に新しいところでは、99年「だんご3兄弟」がメガヒットした際、同曲との位置付けの類似性に加え、同時期に宇多田ヒカルのファーストアルバムが800万枚売れ、この曲の功績に再度スポットが当たったのも手伝い、5万枚を売るリバイバルヒットになっている。
そんな「およげ! たいやきくん」で一躍時の人となった子門の出世作は、1971年4月放映開始された、日本を代表する特撮ドラマ「仮面ライダー」のテーマ曲「レッツゴー!! ライダーキック」。同曲の大ヒットにより、以後「ガッチャマン」「ファイアーマン」「勇者ライディーン」など、次々とヒーローもののテーマ曲を手がけ、四天王の一角へと食い込んでいくのだが、それ以前には「藤浩一」名義で歌謡曲の歌手として活動しており、各社競作となった筒美京平の初作曲作品(諸事情により、すぎやまこういちに名義を借りている)「黄色いレモン」のポリドール盤に起用されたりしたが、シングル盤5枚を残している割にまとめて聴く機会に恵まれないのが残念である。また、すぎやま門下だった関係から作曲家としての活動も始め、ザ・ライオンズ「絵の中の恋人」、ザ・タックスマン「チュー・チュー・ラブ」などカルトGS末期の作品を「椿もとみ」名義で手がけている。GSの楽曲としては可もなく不可もない印象の地味な出来だが、決して埋葬してはならない貴重な曲である。ちなみに「絵の中の恋人」のB面「恋の十字路」は、作詞があの福田一郎先生という貴重な一品。そして、アルバイトとして臨んだという「ライダーキック」で大進撃が始まるのだ。
その時期の特撮・アニソンを改めて聴くと、胸熱にはなるものの、ささき・水木両氏に比べてどちらかというとクールな印象が伝わってくる。ポップ・カントリー風な「ひとり旅」(「アイアンキング」)や「夕陽のレッドマン」に於ける歌唱が最も本来の持ち味に近いと言えるのではないか。当時のアメリカンロック的手触りの「ロック・ロック・ゴジラ」や「ゴジラのお嫁さん」も捨て難い。これらは72年の「東宝チャンピオンまつり」にて66年作品「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」がリバイバル上映された際、イメージソングとして東宝レコードからリリースされたものだ。
「たいやきくん」後の仕事としては、87年に久々に手掛けたポンキッキソング「はたらくくるま2」(オリコン79位)が代表作であろう。昭和50年代以降に生まれた世代にとっては、むしろこちらの方がおなじみかもしれない。特徴的なルックスと歌唱で若いインディーズバンドにネタにされることも度々あった彼だが、敬虔なクリスチャンとしてそんな世界の喧騒に背を向け、沈黙を保ち続けるその姿勢は、この時代においてはかえってリスペクトすべきものなのではないか。
≪著者略歴≫丸芽志悟 (まるめ・しご) : 不毛な青春時代~レコード会社勤務を経て、ネットを拠点とする「好き者」として音楽啓蒙活動を開始。『アングラ・カーニバル』『60sビート・ガールズ・コレクション』(共にテイチク)等再発CDの共同監修、ライヴ及びDJイベントの主催をFine Vacation Company名義で手がける。近年は即興演奏を軸とした自由形態バンドRacco-1000を率い活動、フルートなどを担当。
http://music-calendar.jp/2017010401

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