過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のBOΦWYだヨ(=^◇^=)


 BOφWY全曲と歌詞リスト(未発表曲含む)
 2018年01月13日(土) 14時44分02秒 テーマ:トップメニュー
 https://ameblo.jp/boowysetlist/entry-12342434361.html

 BOφWY、1986年に高崎で収録した映像作品『BOφWY VIDEO』へ込めた秘密!?
‡2021(令和三)年09月05日(日) 9:54 ふくりゅう音楽コンシェルジュ
 BOφWY photo by UNIVERSAL MUSIC JAPAN
 1986(昭和61)年07月02日(水)、まだ音楽アーティストがビデオ作品を気軽に販売できなかった映像カルチャー黎明期。BOOWYは初のビデオ作品『BOOWY VIDEO』をリリースした(※2021年9月1日、BOφWY 40周年を記念してBlu-rayにて復刻)。当時、1万円近い価格ながら販売はもちろん、ビデオショップによるレンタルや、ファンによるネットワークを通じての貸し借り、ダビングされた結果、インターネットなき時代にBOφWYは“映像ありきのクチコミ”によって全国でファンを増やし続けた。そのひとつのきっかけが本作だ。監督は、後のBOφWY映像作品でも知られる前嶋 輝(株式会社フィッツロイ代表取締役)。収録は、
 1986(昭和61)年05月01日(木)に氷室京介(Vo)布袋寅泰(G,Cho)松井恒松(B)(※現在は松井常松)のお膝元、高崎市文化会館にて行われた。ツアー中であったが本公演のみ、映像収録が主目的であったため、2台のクレーンと5台のカメラと花道、そしてライヴ・レコーディングのために様々な機材が準備され、コンセプチュアルなイメージ映像を楽曲の合間に挟み込むことでバンドのニュー・ウェーブかつニュー・ロマンティックス世界観を具現化した。ステージ衣裳は、沢田研二などを手掛けたデザイナー早川タケジが担当。BOφWYのライヴを観てファンとなった早川は、限られた制作時間の中で当日に間に合わせたという。メンバーそれぞれのキャラクター性を活かしたデザインが興味深い。氷室が珍しく髪をおろしているのは、衣装に合わせてのアレンジだろう。オープニング「PROLOGUE」は、ライヴ・アルバム『"GIGS" JUST A HERO TOUR 1986』のものとは異なり、歓声の入っていないヴァージョンが収録されている。のちに、2015年にスタートした会員制アーカイブ・サイト『BOφWY HUNT』が新宿で主催したファンミーティングでも公開された布袋寅泰作編曲によるレア音源だ。そして何といっても本作の見所はオープニング「BAD FEELING」での氷室京介のシルエットだろう。バンドの“らしさ”を解き放つ象徴的なシルエットは、BOφWYによる発明だと思う。もっとも注目すべきは、ライヴパフォーマンスの完成度の高さだ。すでに、この時点で“BOOWYらしさ”は完成していた。当時25歳だった氷室京介による空間を支配するステージング、自由自在にサウンドを展開していくダンサブルな布袋寅泰の圧巻のプレイ、ビートを牽引する松井恒松と高橋まこと(Ds)による鉄壁のリズム隊の凄み。この映像に惚れ込み、楽器やバンドをはじめたバンドキッズは後を絶たない。さらに、松井恒松が自身が作詞した「LIKE A CHILD」演奏時にシンセサイザーDX7を駆使してシンセベースを引いている様にも注目だ。口にピックをくわえ、キャッチーなフレーズをプレイしている。『BOφWY VIDEO』でしか観れないシーンだ。監督の前嶋は語る「ツアーでのライブ映像収録だと客席が決まっているので、当時は機材も大きかったので撮影しづらかったんですよ。でも、高崎はライヴを撮影するための公演だったので、アングルにこだわってカメラを設置できました。花道を作ってもらったり、セットも細かくこだわったり、ちょっと通常のツアーとは違うんですよね。やっぱり、カメラをいろんな角度で置けるのがよかったんです。せっかくビデオのためのライヴだから、普段では撮れないアングルで撮影してみようってコンセプトだったと思いますね、たしか。」(※BOOWY HUNT『BOφWY STORY ARCHIVE』より)。ステージセットにも着目したい。退廃的なSF映画『ブレードランナー』を彷彿とさせるディストピアな近未来的イメージ。25都市全37公演となったBOφWYを全国区に押し上げたツアー『JUST A HERO TOUR』でも同セットが全国を巡った。なお、ライブ映像にインサートされるシングル「わがままジュリエット」のミュージックビデオで印象的な洋館は駒沢で撮影されたという。富士の樹海へとトラック走らせ、落ち葉や木々を拾って館内に敷きつめた。「ミス・ミステリー・レディ」、「JUST A HERO」にも、「わがままジュリエット」に登場する“Lady”が出演しているのも興味深い。洋館にて封印された書物を読むことで、稲妻が鳴り響き、少女が包帯巻きになるヴィジュアルなど、後のサブカルチャーに大きな影響を与えたフェチな演出が時代性をあらわしてる。ここで、BOφWYがロックバンド史に名を残し、伝説たる所以となった1986年7月2日に行われた日本武道館ライヴ『JUST A HERO TOUR』について触れなければならない。氷室による「ライヴハウス武道館へようこそ!」のMCによって一般音楽ファンにも語り継がれる歴史的公演は、当時テレビ放送され、ファンに待望されているにも関わらずビデオやDVD、Blu-rayなど映像販売が未だ企画されていない。バンドは、ツアー『JUST A HERO TOUR』を大切なライヴと捉えていたゆえに、ターニングポイントとなる日本武道館での公演日
 1986(昭和61)年07月02日(水)に敢えて『BOφWY VIDEO』を全国発売したのだろう。未来永劫残る”1986年のBOφWY”を映像収録するにあたり、彼らは日本武道館の場ではなくルーツである高崎市文化会館を選んだのだ。ゆえに日本武道館公演を記録したライヴ盤『"GIGS" JUST A HERO TOUR 1986』をリリースしながらも、映像を世に残すことはなかった。観ることができない記念碑的ライヴ映像があることは、生でライヴを体験できなかった後追いBOφWYファンにとって“幻想”を加速する大きなファクターとなった。ロックのビジネス化が進んだ90年代以降から顧みれば、このお宝映像をリリースしないことはレアな事象だ。しかし、そこにBOφWYらしい矜持があるのだろう。長年のファンはあらためて、そんな意図を考えつつ
 2021(令和三)年09月01日(水)にBlu-ray映像で再販された『BOφWY VIDEO』を、バンドが想いを込めた演奏でのワンシーン、ワンフレームへの意気込み、目線、表情、サウンドと共振するシンクロニシティーを感じて欲しい。これまでBOOWYのライヴ映像を観たことがなかった新規ファンは、これを機会にBlu-ray版『BOφWY VIDEO』を手に取ってコンセプチュアルな世界観を体験して欲しい。1980年代、日本最高峰のロックバンドが最高のライヴを最高の作品としてコンセプチュアルに記録していたことを語り継いでいきたい。
 https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuryu/20210905-00256678

 サイコパスは遺伝が8割? 遺伝にまつわる「言ってはいけない」タブー
 2016年5月12日掲載デイリー新潮編集部  国内社会
 あくまでもイギリスでの一研究結果ではあるが、犯罪心理学でサイコパスに分類されるような子どもの場合、その遺伝率は81%――(他の写真を見る)
「犯罪者の子どもは所詮、犯罪者なんだよ」
 2時間モノのサスペンスドラマあたりでは聞きそうなセリフである(言われた側は逆上して相手を殺したりするのだ)。そして、実社会でこんなことを公言したら、糾弾されること必至のセリフでもある。
 しかし、実際のところはどうなのだろうか。
「犯罪は遺伝するのか」といったテーマは社会的にはタブー視されており、語られることはほとんどない。また、言うまでもなく冒頭のような物言いは差別に直結するから、厳に戒めるべきである。
 とはいえ、こうしたテーマについての調査がないわけではない。
 海外では「サイコパスと遺伝」についての驚くべき研究結果も発表されているのだ。
■日本人のIQは世界で第何位?【人間社会のタブー】
 社会的にタブーとされるテーマについて、様々な研究の成果を紹介しながら論じ、ベストセラーとなっている『言ってはいけない 残酷すぎる真実』(橘玲・著)では、「犯罪と遺伝」について、次のように述べている。
 ***
『言ってはいけない』
橘 玲 著
ネット書店で購入する
 現代の精神医学では、犯罪を引き起こすような精神障害は「反社会性パーソナリティ障害」と呼ばれている。とはいえ、ずるがしこいひとや残酷な人間はどんな社会にも一定数いるし、これを安易に治療の必要な「病気」にしてしまうと、刑法における責任能力との関係でやっかいな問題が出てくるから、どこからを「障害」と見なすかはあいまいにならざるを得ない。
 だがそれでも、誰が見ても「異常」な人間はいる。
 イギリスで、1994年から3年間に生まれた5000組の双子の子どもたちを対象に、反社会的な傾向の遺伝率調査が行なわれた。それによると、「冷淡で無感情」といった性格を持つ子どもの遺伝率は30%で、残りの70%は環境の影響だとされた。この「環境」には当然、子育ても含まれるだろうから、これは常識的な結果だ。
 次いで研究者は、教師などから「矯正不可能」と評された、きわめて高い反社会性を持つ子どもだけを抽出してみた。
 その結果は、衝撃的なものだった。
 犯罪心理学でサイコパスに分類されるような子どもの場合、その遺伝率は81%で、環境の影響は2割弱しかなかった。しかもその環境は、子育てではなく友だち関係のような「非共有環境」の影響とされた。(※)
 
【関連本】本書の内容を、決して口外しないでください。ベストセラー『言ってはいけない』がパワーアップ!
ネット書店で購入する
 ***
 もちろん、あくまでもイギリスでの一研究結果に過ぎず、また犯罪全般ではなく「サイコパス」に限っての話である点は忘れてはならない。安易に「犯罪と遺伝」を結びつけるのは許されないことだろう。しかし、昨今、何不自由なく育ったにもかかわらず、異常な殺人や誘拐などをおこなった「少年」「少女」のニュースがよく伝えられる。恵まれた環境で、教育熱心な親に育てられたのに、理解しがたい残酷な事件を起こす若者の「動機」については、多くの場合、納得のいく説明はなされないままだ。
 こうした事件について考える上では重要な視点なのではないだろうか。 
※参考文献:バーバラ・オークレイ『悪の遺伝子』(イースト・プレス)
 https://www.dailyshincho.jp/article/2016/05120520/

 

 BOφWYにまつわる噂のエトセトラ Vol.9
~解散後に氷室氏と布袋氏が一緒に『MORAL』サンプル盤を貰いにいったという噂~
 2021(令和三)年05月22日 08:19 紫苑
‡1985(昭和60)年09月05日、MORALのLPを再発
 1986(昭和61)年02月05日にはCD化
 1989(平成元)年02月21日にはCDも再発。以後、何度も再発を繰り返していく。さらに
 1988(昭和63)年02月03日には、当時の所属事務所ビーイングが所有する未発表音源3曲を加え、復刻版として「MORAL+3」をリリース
 https://note.com/jyugoyaso/n/n6b3db056e0ef

 音源◆デスペナルティ / 男の言い草(1979)https://youtu.be/jCR7iin641w
 

【『松井恒松』デビュー】『スパーキング・ラヴ -胸につのる想い-』織田哲郎&9th Image
 『織田哲郎&9th IMAGE』に参加
 1979(昭和54)年08月25日(土)に開催されたヤマハ主催の『East West '79』本選大会で、松井恒二(松井恒松)さんは寺西修(氷室京介)さんと組んだアマチュアバンド『デスペナルティ』で入賞し、音楽事務所『ビーイング』と契約します。上京した『デスペナルティ』は事務所の方針で解散となり、メンバーのうち氷室さんと松井さんは『寺西修&VOICE』にボーカル、ベースとして参加。その後、氷室さんは織田哲郎さんと入れ替わるようにして『スピニッヂ・パワー』のボーカルに『寺西修一』名義で参加、松井さんは『織田哲郎&9th IMAGE』のベースとして活動する事になります。
『スパーキング・ラヴ -胸につのる想い-』でデビュー
‡1980(昭和55)年09月05日(金)、『織田哲郎&9th IMAGE』はデビューシングル『スパーキング・ラヴ -胸につのる想い-』をリリース。スポーツ用品メーカー『MIZUNO』のCMとして起用されます。※『TUBE』の『セイリング・ラヴ』の原曲でもあります。作詞は織田さんと長戸秀介さん。長戸さんはビーイング創業者である長戸大幸さんの実弟で、1982年に音楽制作会社『レイズイン』を設立します。なお『BOOWY』の曲で氷室さんが作詞作曲した『 OUT!! (原題『REY'S OUT』)』は長戸さんを皮肉った歌です。同年
 1980(昭和55)年09月21日(日)には1stアルバム『DAY & NIGHT』、翌
 1981(昭和56)年03月05日(木)には2ndシングル『色あせた街』をリリースしますが、ほどなくして『織田哲郎&9th IMAGE』は活動期間わずか1年で解散。一方、氷室さんは『スピニッヂ・パワー』解散後、新たなバンド結成に向けて活動していました。
■その頃同じ事務所にいた氷室京介君がバンド(のちのBOOWY)を立ち上げようとしていたんで、もともと氷室君と一緒に上京してきた松井常松には一緒にやったら、と。
 ㊤↑出典:織田哲郎ロングインタビュー第9回|織田哲郎Project2007
 氷室さんは同級生で『デスペナルティ』のメンバーだった「菊ちゃん」こと菊池アツシ(諸星アツシ)さんをバンドに誘い、布袋寅泰さんも高校時代に組んでいたバンド『ジギー・リギー』のメンバーだった深沢和明さんを誘います。『織田哲郎&9th IMAGE』が解散になったばかりの松井さんにも声をかけましたが、松井さんは返事を保留。
■「ちょっと考えさせてくれ」みたいなことを言ったと思う。すぐには気持ちの整理ができなかったから。
 ㊤↑出典:『記憶』 松井常松
 しばらくして、松井さんはバンド参加の旨を伝えます。当初、深沢さんがベースを担当していましたが、松井さんがベースで加入したためサックスへ転向、ここに5人のメンバーによる『暴威』が結成されました。 
 https://21st-century-boowy.com/entry/9th-image
 ┏━━━━━━━━━━━┓
 ┃ ♪HOT SUMMER RAIN♪ ┃
 ┗━━━━━━━━━━━┛寺西修一
‡1980(昭和55)年09月05日(金) released
 ┏━━━━━━━┓
 ┃『IN & OUT』 ┃
 ┗━━━━━━━┛寺西修一
 1980(昭和55)年09月21日(日) released
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%82%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%AF%E3%83%BC
 https://ja.wikipedia.org/wiki/MORAL
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓1980(昭和55)年9月某日
①┃ 過去の今月のスピニッヂパワー ┃『11時に歌いましょう』
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛以前に歌のトップテンVerを紹介しましたが、ヒムロックのスピニッヂパワー所属時の映像です。この映像が残されてた方はほんと神様ですね。若い!10代のヒムロックもいいですね。やっぱりオーラがありますし歌も抜群にうまいです。しかし「11時に歌いましょう」って、なんとも視聴率が取れなさそうなネーミングだ。さすが70年代ですね。
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━┓♪HOT SUMMER RAIN♪
②┃ 過去の今日のスピニッヂ・パワー ┃c/w♪MOVIE THEATER♪
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━┛1980(昭和55)年9月5日(fri) リリース
 氷室京介がメインボーカルをとっている。この曲でTV出演もした。TVに出演した際に氷室が司会者とトークをし、ポパイ・ザ・セーラーマンの「3,2,1,0」の部分のまねをした。
 氷室京介初のシングル作品 
 音源◆♪HOT SUMMER RAIN♪https://youtu.be/5it8VGQ_-9A
 
 削除映像◆♪HOT SUMMER RAIN♪『11時に歌いましょう』https://youtu.be/naRzAmwl--k
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 ①http://boowyblog.blog35.fc2.com/blog-entry-354.html
 ②https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%82%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%AF%E3%83%BC
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 スピニッヂパワーは氷室がBOOWY結成前に加入していたバンド。群馬時代の氷室のバンド「ディスペナルティ」はYAMAHA『EAST WEST'79』での入賞をきっかけにメンバーの松井恒ニ(松井恒松)菊池アツシ(諸星アツシ暴威初期メンバー)の3人で上京する。所属した音楽事務所「ビーイング」の社長長戸大幸により、解散を命じられ「ディスペナルティ」は、バラバラにさせられた。その後、氷室は、「スピニッヂ・パワー」へ加入させられ契約書にサインをしてしまう。その時にこの「ホットサマーレイン」という曲を受け取り、翌々日からスタジオに入ることとなった。氷室京介の本名は寺西修だが、スピニッジパワー時代は、“寺西修一”でクレジットされている。メンバーには暴威の初期ドラマーの木村マモル、ソロ時代のサポートメンバーの春山信吾らが在籍していた。氷室はこのバンドの第3期ヴォーカリストで初代ヴォーカリストは織田哲郎。
 http://boowydouga.seesaa.net/article/55245577.html
 映像◆スピニッヂ・パワー 「ホット・サマー・レイン」 TVスタジオライブ
 1980(昭和55)年10月01日(水)『11時に歌いましょう』TBS平日朝の歌謡番組出演時
 https://www.nicovideo.jp/watch/sm24840389
 映像◆HOT SUMMER RAIN ( SPINACH POWER )
 https://www.dailymotion.com/video/x5lion
 音源◆ホット・サマー・レイン / スピニッヂ・パワーhttps://youtu.be/5it8VGQ_-9A
 
 音源◆スピニッヂ・パワー / ホット・サマーレイン (1980) https://youtu.be/qbtzCTkPbTw
 

 映像◆BOφWYサイコパス記者会見1987年https://youtu.be/RdZy2Y0mKY0
 

 ◆『PSYCHOPATH』BOΦWY◆ラストアルバムに「ヤラれた」と唸る小室哲哉「世間がBOφWYを聴くのは89年から」と津田大介
 2018(平成30)年02月01日(木) 09時45分 ライター情報:寺西ジャジューカ エキサイトレビュー
 ①季刊ペースで発行中の音楽誌「ロックジェット」vol.71にて、BOφWYの特集が組まれている。
「ロックジェット」vol.71/シンコーミュージック
書店でこの表紙が視界に飛び込んでくると、ドキッとする。今さら、このバンドに何かが起こるのか? と。確かに、出来事はあった。昨年はBOφWY35周年イヤーであり、渋谷公会堂での「解散宣言」から数えて30年後だ。同誌が唐突にBOφWYへスポットを当てたわけではなく、昨年12月に発売されたブルーレイ『1224 -THE ORIGINAL-』に合わせての今回の企画であった。
 ◆世間がBOφWYを聴くようになったのは解散後の1989年以降 ⇒ それにしてもこの雑誌、いつもインタビューの人選が変化球である。本人に話を聞かないまでも、メンバーに近しい人物を辿りオファーするのは定石。しかし、今回の特集で真っ先に登場するのは、なぜかあのDAIGOであった。確かに、彼はヒムロックチルドレン。ソロ時代「DAIGO☆STARDUST」としてのデビュー曲「MARIA」を作曲しているのは氷室京介だ。いや、それにしても。DAIGOに続いて登場したのは、これまた意外な人選。ジャーナリストの津田大介であった。彼は中学時代、同級生から『BEAT EMOTION』(1986年9月リリース)を薦められてロックに目覚めたという。そして程なく、津田が中2の頃にBOφWYは解散する。「僕が観ていた感じだと、BOφWYは解散してからどんどん火が点いていった印象が強くて。解散してから、みんな、BOφWYをコピーし出したんですね。(中略)みんなが聴くようになったのは1989年以降というイメージが強いですね」(津田)この辺り、リアルタイムで愛聴していた者ならではの証言だ。そう考えると、合点が行く。DAIGOは、BOφWYの楽曲を”過去の日本の名曲”だと表現する。「美空ひばりさんにはいろいろな時代の映像がありますけど、どの時代の歌を聴いてもすごくパワーを感じるというか、時代を感じさせない超越した何かを発してる方だと思います。そういう感覚でBOφWYを捉えていたと、今になってですけれども思うんです」(DAIGO)
 ◆「作品作りの才能は布袋さんより氷室さんにある」奥田民生 ⇒ BOφWYのメインソングライターと言えば、布袋寅泰。彼の下地、方向性にニューウェイヴからの影響が大きく息づいていることは明らかだ。津田はBOφWYとあるバンドの類似性を指摘する。…
 ②「当時(高校時代)、小学生の時からの幼馴染から教わったのがXTCです。『ブラック・シー』だったんですけど、すごく好きになりました。傑作なのが、『BOφWYみたいなバンドがイギリスにいるぜ』と教えてくれたことで(笑)。冷静に見れば逆だろ、という話なんだけど(笑)」(津田)XTCのフォロワーと言ったらBLUR辺りが真っ先に思い浮かぶが、そういえばBOφWYもXTCを感じさせる。かつて、Twitterでファンから「OASISとBLUR、どちらが好きですか?」と質問された布袋が「BLUR」と即答していたのは印象深い。とは言えこのバンド、実は氷室が作曲した楽曲のファンも意外に多いのだ。筆者もその1人で、「SENSITIVE LOVE」や「DON'T ASK ME」、「RATS」、「GIVE IT TO ME」が全て氷室作曲だと後から気付き、驚いたことがある。津田も、氷室の作曲に惹かれていたと告白する。「曲については、氷室さんの曲が好きだったんです。でも、BOφWYのシングルで氷室さんが作曲したのは『わがままジュリエット』だけなんですね。それ以外は全部、布袋さんの曲です。だから、代表曲はほとんど布袋さんに譲っている。氷室さんは、シンガーとしてもコンポーザーとしても才能を持っていたのに、シングルを自分の曲にしなかった。(中略)僕は、氷室さんは布袋さんの才能を最大限評価して育てたんだと思っています」(津田)そういえば、あの奥田民生もBOφWYについてこんな発言を残している。「『曲作りの上手さ』という点で、氷室さんを尊敬していました。BOφWYでは氷室さんと布袋さんが曲を作っていたけど、作品作りの才能というのは、布袋さんより氷室さんの方があると思いますよ。氷室さんの作る曲って、やっぱりおいしいんですよ」(MSムック「King of Rock Band BOφWY」より)バンドブームについて「皆なクソだと思うもん。ウンコみたいな奴ばっかりでバンドなんかやる資格がない奴が多いよ」(「宝島」1989年2月号)と辛辣な意見を述べていた氷室も、ユニコーンだけは容認していた。両者の言動を並べ、噛みしめると、認め合う2人の関係性は感慨深い。
 ◆『PSYCHOPATH』を聴き「ヤラれた……」と唸る小室哲哉 ⇒ BOφWY解散宣言の舞台である渋谷公会堂公演が行われたのは、1987年12月24日。しかし、某スポーツ紙がそれに先駆けて11月上旬に「BOφWY解散」をスクープ報道してしまう。
 ③BOφWYを取り巻く空気感について、当時、音楽誌「B-PASS」の編集者だった相田智恵はこう述懐している。
「音楽専門誌の世界では1986年からブレイク状態でしたけれども、一般のマスコミも含めて盛り上がって、メジャーシーンに出ていったのは1987年だったと思うんです。これは何者だという印象を一般の人たちが持って、若い女の子たちがどんどんチケットを買い求めるようになり、いわゆるロック少女、ロック少年のバンド・ファンだけでなく、普通の音楽ファンを巻き込んだカリスマ的存在に、一気に駆け上がっていったのが1987年でした。そうした中での解散報道だったんです。えっ、ここで解散しちゃうの! という印象を一般の人が抱いたのは当然だと思うんですね」
BOφWYのラストアルバムは、1987年9月にリリースされた『PSYCHOPATH』。本作について、解散して4年後に氷室は「『BEAT EMOTION』で一種極めた大衆芸能的な部分をブッ壊そうと思いつつ、それがうまくいかないジレンマが出ていますね」と自ら解説している。しかし、この作品は同世代の他のミュージシャンに少なからず影響を与えていた。まず、小室哲哉。彼は「どっかでBOφWYに追いつければいいな」と思いながらTM ネットワークを活動していたと告白する。「BOφWYの背中を見てやっていたところはありましたね」と、過去に小室はきっぱりと打ち明けているのだ。例えば、TMの楽曲「Be Together」はBOφWYの「B・Blue」を意識して制作されたものだという。「タイトルも“Be”から始めようとか。そのへんから疾走感ってものを意識し始めて、風を感じさせるような勢いというか、そこから“Get Wild”につながっていくわけです」ライバルと見定めていたバンドの最終作『PSYCHOPATH』に対する小室の思い入れは、特に深い。「『PSYCHOPATH』ってアルバムが出た時には、ヤラれたなぁというか、かなり上を行かれたなぁって感じだったんで、そこで奮起して僕らは『humansystem』ってアルバムを作ったんです。(中略)だから88年に突然解散してしまった時は、ちょっと困ったなぁというのはどこかにあったかもしれないですね」(ともに「RollingStone」2012年5月号より)
 ◆自分の最後を布袋の曲で閉めた氷室 ⇒ BOφWYファンの間では「“氷室派”か? “布袋派”か?」という議論が挨拶代わりに交わされたものだが、解散後は両者ともにソロアーティストとして成功。
 ④そして、時を経て氷室はライブ活動休止を宣言し、2016年に開催されたドームツアー「KYOSUKE HIMURO LAST GIGS」でライブ活動に終止符を打った。ファイナル公演が行われた5月23日、氷室が最後に歌った曲はバンド時代の名曲「B・Blue」である。「ソロのキャリアの中でたくさんのヒット曲があるのに、氷室さんは最後の曲として『B・Blue』を選んだ。本来はソロになって最初のシングルだった『ANGEL』でもいいわけじゃないですか。でも、そこでBOφWYの曲、しかも布袋さんが作曲した『B・Blue』を選んだ。(中略)僕はいろいろなことを考えちゃいましたね。ああ、自分の最後は布袋さんの曲で閉めるんだと。(中略)氷室さんが『B・Blue』を選んだことについて、布袋さんはどう受け止めたのかなということも考えてしまいます(笑)」(津田)ライブ活動の最後の最後まで、ファンに深読みさせる余地を残した氷室。なるほど、世に打ち出す確固たるイメージ(ヴィジュアル含む)が出来上がっていたバンド・BOφWYのヴォーカリストだなという気がしてしまう。サクッと皆の前から姿を消してしまうのも、らしい。昨年の『1224 -THE ORIGINAL-』だけでなく、これからも次々とBOφWYの関連商品はリリースされていく気がしてならない。しかし、そういった動きと相反してメンバー4人の活動は総じて潔い。この辺りは解散以降、ずっと一貫している。寺西ジャジューカ
 https://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20180201/E1517410211061.html?_p=4

 


 氷室京介、全373曲サブスク解禁 “約束”の還暦アルバムも制作中
 2020(令和二)年07月21日(火) 12:00配信 オリコン
 写真◆ソロデビュー記念日に全曲サブスク解禁した氷室京介
 耳の不調で2016年5月の東京ドーム公演『LAST GIGS』でライブ活動を無期限で休止したロック界のカリスマ・氷室京介(59)が、ソロデビュー記念日のきょう21日、サブスクリプション(定額制)ストリーミング配信をついに解禁した。全373曲が一挙配信された。
 1988(昭和63)年07月21日(木)に発表したソロデビュー曲「ANGEL」から、2016年4月13日リリースのベストアルバム『L’EPILOGUE』まで、シングル30枚62曲、オリジナルアルバム12枚130曲、ベストアルバム8枚181曲の全373曲。ファン待望の“全曲”一斉のサブスク解禁となる。
 また、氷室は『LAST GIGS』のステージで「今後ゆっくりじっくりと楽曲を作っていこうと思う。60(歳)になったらアルバムでも出すか。『還暦』ってアルバムにして。1曲目は『60』(シックスティ)で(笑)」と冗談めかしつつ語っていたが、今年10月に還暦を迎える氷室は、“約束”のアルバムリリースに向けて楽曲制作に入っているといううれしい情報も届いた。
 2020(令和二)年09月05日からは大阪・グランフロント大阪で『氷室京介展 LX~揺るぎなき美学と挑戦~』が開催されることも決定した。ライブ衣装、未公開写真、映像に加え、氷室直筆の作詞原稿や創作経緯がわかる歌詞原稿などが、時代背景の紹介とともに特別公開。記念撮影ができるフォトスポットも設置される。来春には東京巡回の予定。
◇『氷室京介展LX -揺るぎなき美学と挑戦-』
 開催期間:09月05日(土)~10月10日(土) 会期中無休
 開催時間:午前11時~午後7時(金・土曜のみ午後8時まで)
 会場:大阪・グランフロント大阪 北館ナレッジキャピタル イベントラボ
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【名盤】ソロ1stアルバム『FLOWERS for ALGERNON』ジャケット
 https://news.yahoo.co.jp/articles/dd49a482437b9e2187f90ed5af4558dfe2f9eb97

 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 過去の今日の BOΦWY GIGS ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡1985(昭和60)年09月05日「ライブ・ロック・ショウ」公録安田生命ホール
 M1.Dreamin'
 M2.CHU-RU-LU
 M3.CLOUDY HEART
 M4.NO.NEW YORK
 M5.BABY ACTION
 http://sp.boowyhunt.com/history/?id=173
 映像◆Dreamin' https://youtu.be/gETCK7tFNpw
 
 映像◆安田生命ホール / LIVE ROCK SHOW https://youtu.be/hbQpGyvJSKI
 1985(昭和60)年09月05日(木) 安田生命ホール
 1985(昭和60)年09月22日(日)『LIVE ROCK SHOW』放送
 00:00 Dreamin'
 03:50 CHU-RU-LU
 07:53 CLOUDY HEART
 11:59 ゲスト・BOΦWYの責任者・氷室京介さんコンサート予定発表
 15:04 NO.NEW YORK
 19:03 BABY ACTION ※氷室京介さん最後のあいさつ
 20:23 INSTANT LOVE?
 
 ┏━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 過去の今日のBOΦWY ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛
 1985(昭和60)年09月22日(日)『LIVE ROCK SHOW』
‡1985(昭和60)年09月05日(木) 安田生命ホールでの映像です。公録?とのことなので、以下の曲しかやってなかったのかもしれませんね。
 01.Dreamin'
 02.CHU-RU-LU
 03.CLOUDY HEART
 04.NO.NEW YORK
 05.BABY ACTION
 ※やたら横長です。最初から最後までやたらエコーがかかっており、「CHU-RU-LU」の時も「チュルルチュルルル」ではなくって「チュルルー」で終わってます。これはこれでありですね。私は結構いけてると思います。
 放送日翌日以降の予定も紹介されています。なぜか高知でのライブが多い気がしますね。しかし、休み無しじゃないですか、よく働くな~。
 09/23 大阪厚生年金ホール
 09/24 高知オレンジホール
 09/25 東京ツバキハウス
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 ┃ 過去の今月頃のBOΦWY ┃1985(昭和60)年09月頃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛群馬『BEAT POPS』
 01.NO.NEW YORK
 02.CLOUDY HEART この番組ではちょっとしたインタビューも受けています。自己紹介の時には布袋の元住んでいた場所「江木町18番入ったところに住んでいた」と教えてくれます。ググってみたんですが、その住所がどの当たりかまでは特定できませんでした。ただ、TSUTAYA江木店が28番地だったので、その周辺かと思われるのですが。。。インタビューでは好きなミュージシャンを聞かれ、それぞれ以下を回答しています。
 氷室:デビッド・ボウイ
 布袋:T-REXのマーク・ボラン
 高橋:ジョン・レノン、ジョン・ボーナム
 松井:別に無いです。
 布袋はまこっちゃんが話す前に、まこっちゃんの好きなミュージシャンを言ったり、松井が話すときはみなさん爆笑したり、和気藹々な雰囲気です。このころはみなさん陽気でしたね~。そしてヒムロックが、ライブの告知もしています。
 10/27 日比谷野外音楽堂
 12/06 日本武道館
 12/18 宇都宮市文化会館
 12/20 高崎音楽センター(氷室が幼少時代に人形劇を見たと言った場所)
 何故か日比谷は公式記録には載っていないですね。
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 ┃ 過去の今月頃のBOΦWY ┃1985(昭和60)年09月頃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛群馬 スタジオライブ
 01.NO.NEW YORK
 02.INSTANT LOVE
 03.CLOUDY HEART
 04.CHU-RU-LU
 05.BABY ACTION
 06.Dreamin'  『サウンドJUICE』という番組でも一部流れていたようです。「NO.NEW YORK」「CLOUDY HEART」は先の『BEAT POPS』でも使われたものと同じです。「Dreamin'」では珍しくシャツを出して、歌ってます。しかしこの時のヒムロックはいかつくてやたらかっこいいですね。めちゃくちゃ危険な香りがします。しかし「CHU-RU-LU」は最高ですね。その際に松井は、珍しくフィンガーピッキングを見せてくれます。意外と気づきませんでした
 映像◆01.NO.NEW YORK https://youtu.be/jEsX4jCDO_M
 
 映像◆03.CLOUDY HEART https://youtu.be/5iV7ROCts0c
 
 映像◆04.CHU-RU-LU https://youtu.be/na9reAXQ3GQ
 
 映像◆05.BABY ACTION https://youtu.be/U7HHhwxCeZs
 
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 http://boowyblog.blog35.fc2.com/blog-entry-357.html
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■『BOφWY』プロモーション■本作のレコーディング終了後、メンバーはロンドンに滞在していたが、
 1985(昭和60)年03月12日(火) マーキー・クラブでのライブがセッティングされ、ライブを行っている。また、帰国後の
 1985(昭和60)年04月13日(土) 赤坂ラフォーレミュージアムにおいて、マスコミを招待してのライブを実施。約半年ぶりに実施されたライブのチケットはソールドアウトとなった[6]。
 1985(昭和60)年06月25日(火) 周囲の反対を押し切り初の大ホールとなる渋谷公会堂でのライブを実施。前売り券、当日券ともにソールドアウトとなった。当日には日本で初めて低温花火が使用された[2]。また、本作に関するテレビ出演は、9月に群馬テレビの音楽番組『BEAT POPS』に出演し「NO. NEW YORK」、「CLOUDY HEART」を演奏、
 1985(昭和60)年09月22日(日) テレビ東京系音楽番組『LIVE ROCK SHOW』にて
‡1985(昭和60)年09月05日(木) 安田生命ホール公演から「NO. NEW YORK」、「Dreamin'」、「CHU-RU-LU」、「CLOUDY HEART」、「Baby Action」の演奏が放送された。
 1985(昭和60)年10月07日(月) 朝日放送のバラエティ番組『ヤングプラザ』に出演し「NO. NEW YORK」、「CLOUDY HEART」を演奏、
 1985(昭和60)年11月15日(金) フジテレビ系バラエティ番組『オールナイトフジ』(1983年 - 1991年)に出演し「NO. NEW YORK」を演奏、
 1985(昭和60)年11月23日(土) 読売テレビのバラエティ番組『なげやり倶楽部』(1985年 - 1986年)に出演し、神戸ポートアイランド内の「レストランエキゾチックタウン」内から「BAD FEELING」、「OH! MY JULLY」、「NO. NEW YORK」を演奏したヨ(=^◇^=)
 https://ja.wikipedia.org/wiki/BO%C3%98WY_(%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0)#%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3

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 ┃『PSYCHOPATH』┃
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 1987(昭和62)年09月05日(土) リリース
 1987(昭和62)年06月10日(水) ~ SEDIC A STUDIO 録音
 1987(昭和62)年06月26日(木) 迄 SEDIC A STUDIO 録音
 https://ja.wikipedia.org/wiki/PSYCHOPATH

■1987年07月頃 PSYCHOPATHレコーディングインタビュー(ROCK CITY)
歌入れ3曲が完了時点のインタビューで、シングルのPVも撮り終わって編集しているところです。
MARIONETTEに関してのコメント
「自分は絶対自分だけで生きているんだっていう奴と、社会に流されて操られているじゃないかなって不安になっている奴にも、考えてもらえるように詞を作った」
PSYCHOPATHに関してのコメント
「かっこいいし、骨太な感じになってるアルバム。」
「余計なものが一切ないバンドサウンドになっている。微妙なPOPを狙っている。」
「今までやってきたことが無かったら出せない音、みんなが成長して、いい大人になったなと思いますよ」
「レコーディングは真面目に取組んでいるので、面白いエピソードとかは無いですね。」
■1987年07月頃 PSYCHOPATH完成記者会見
布袋の受け答えが、間が独特で、反応が悪く、レコーディング時の様子が全く分かりません(汗) ヒムロックもどこか乗り気が無いような~。 その代わりに子安さんがアピールしまくってます。
その他、松井はベルリンに行っても日本語で「これください!」っていうらしいです。この時だけ、布袋が何故かハイテンションになって、まくし立てます! まこっちゃんのコメントは「ビットアネビア???」のみ。「ビールください」かな?わかりません(笑)。
■1987年07月頃 MOJOインタビュー
MOJOはローソンで販売していた、月刊ミュージックビデオマガジンです。 それぞれ個人個人が別々でインタビューを受けています。ヒムロックは主にオフの時の心境など、布袋はギターやBOOWYのサウンドについて、松井は子供について、まこっちゃんはライブ先について、を語っています。 それぞれ印象的なコメントをピックアップしてみました。 ヒムロックが解散を匂わすコメントをされてますね~。
<氷室>
「2ヶ月半のオフで国外で滞在し、BOOWYの氷室ではなく、1人の東洋人だったから、それはそれでよかった。」
「帰ったらまた武道館で何千人の前で歌うんだろうなってまじまじと考えてしまった。」
「布袋がギター弾いてくれたら、気持ちよく歌える世界。こんなに気持ちよく歌えるのは布袋しかいない」
「自分のやりたい音楽に旅立っていく時期なんじゃないかなと思います。」
<布袋>
「ギタリストだから、勝負するところは、いざギター持って何やりますかってところだから、キラキラしているギタリストでいたい、どうやって一番いいかってのを考えていて、その1つとして他のギタリストとセッションしたりとか」
「自分の中で一番美しいPOPがあって、自分が一番近づきたいところで、大事なところ」
「どういう風にBOOWYを聞いているかを意識している。それぞれのパートがかっこいいのがBOOWYのスタイルだから!」
「いろんな好きな人のエッセンス全部が自分の中に全部入ってるわけじゃん。だから俺の事好きで当たり前だよね」
「一番大切な言葉が言いにくくなっているのはよくないよね。”幸せ”とか”愛”とか”助け合い”とか。ヒムロックがその辺に気づいているんだと思うんだよね。」
「バンドとしては世界で一番スキですね。」
<松井>
「子供が4/24に生まれて、女の子で、一番興味あります。」
「女の人ってすごい、尊敬する」
「両親は一般的で一般的に育てられてたけど、そういう風にはしたくないなと思いますね。」
「最初に口にしてほしい言葉はパパ、そういうとこかな。」
「早いうちに働くようになってほしい。いくら貰ったら、どれだけの生活ができるのかを早いうちに分かって欲しい。」
<高橋>
「お城に上ったりとかしたくなっちゃって、他のメンバーから「また観光癖が始まった」と文句を言われる。」
「気持ちよく太鼓たたけるなら、いつまでも叩いていたいから、それだけだから。」
「前のツアーで、広島のホテルの池に、俺と松井と布袋で飛び込んだってのがあったけど。。。」
※まこっちゃんのインタビュー中に、目の前の木で蝉が羽化します。
 http://boowyblog.blog35.fc2.com/blog-entry-375.html

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 ┃ 過去の今日のBOΦWYの出来事 ┃
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‡1987(昭和62)年09月05日(土) アルバム『PSYCHOPATH』発売
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/BOOWY
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 削除映像◆1987(昭和62)年 ニュースダイジェスト  http://youtu.be/UEAQ4gj-XUA
 中曽根退陣で、竹下首相になる。 バブル時代を反映して ふるさと創生 とか大盤振る舞い そのツケが今日の日本を苦しめてます。
 ┏━━━━━━━━━┓1987(昭和62)年9月 5日(土) リリース
 ┃ 『PSYCHOPATH』 ┃1987(昭和62)年6月10日(水)~26日(木) SEDIC A STUDIO 録音
 ┗━━━━━━━━━┛https://ja.wikipedia.org/wiki/PSYCHOPATH
 動画◆サイコパス発売前の4人揃ってのインタビュー映像ですBOOWY インタビュー 1987  http://youtu.be/TuPK3Jy--uA
 
 動画◆BOOWY インタビュー (MOJO Vol.2号)1/2  http://youtu.be/NkAwAtz3978
 
 動画◆BOOWY インタビュー (MOJO Vol.2号)2/2  http://youtu.be/qjYFaOqRI1Q
 
 動画◆BOOWY PSYCHOPATH(サイコパス)のレコーディングを終えて。。制作秘話を語る 1987 http://youtu.be/xnT72CjEhPg
 
 動画◆BOOWY PSYCHOPATH インタビュー 布袋寅泰25歳! http://youtu.be/aVIFp_B0RA0
 

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