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┃ ゆめタウン江 能 ┃1992(平成四)年04月28日(火) オープン
┃ ゆめタウン江田島 ┃2006(平成18)年11月xx日(?) 改称
┗━━━━━━━━━━┛広島県江田島市大柿町に位置する株式会社イズミのショッピングセンターである。2006年11月に改称後、ゆめタウンの看板も変わった
。ゆめタウン吉田やゆめタウン邑久などの店舗は現在も初代ゆめタウンの看板になっているヨ(=^◇^=)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%82%81%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3%E6%B1%9F%E7%94%B0%E5%B3%B6
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┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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2008(平成20)年04月28日(月) 一般向け緊急地震速報を初発表 ⇒ 沖縄県・先島諸島で地震があり、宮古島市で震度4の揺れを観測した。気象庁は、前年10月に運用を開始した一般向けの緊急地震速報を初めて発表したが、既に宮古島に揺れが到達してから約5秒経過しており、間に合わなかった。写真は、一般向けの緊急地震速報の運用開始のボタンを押す冬柴鉄三国交相=2007年10月【時事通信社】※2022(令和四)年記事追加
1988(昭和63)年04月28日(木) 飛行中の航空機の屋根が吹き飛ぶ ⇒ 米アロハ航空のボーイング737型機がハワイ・マウイ島上空を飛行中、機体の屋根が突然吹き飛んだ。乗務員1人が行方不明。写真は、機体の一部が吹き飛び、マウイ島カフルイ空港に緊急着陸したアロハ航空機と、事故の処理に当たる空港関係者【AFP時事】※2022(令和四)年記事削除
1948(昭和23)年04月28日(水) 日本で夏時刻法が公布、サマータイム導入
1952(昭和27)年04月28日(月) サンフランシスコ平和条約が発効、日本の主権が6年8カ月ぶりに回復
2000(平成12)年04月28日(金) 島根・出雲大社の境内で巨大本殿跡が出土 ※2021(令和三)年記事削除
https://www.jiji.com/jc/daily
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1970(昭和46)年04月28日(火) 外国人選手なんて怖くない!史上最強・大杉勝男伝説
‡2017(平成29)年04月28日(金) 11:10 プロ野球の歴史の中で、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は4月28日だ。
写真◆1970(昭和46)年05月18日(月)号『週刊ベースボール』乱闘を伝える記事で掲載されたイラスト
4月4日、阪神戦(京セラドーム)でのヤクルト・バレンティンの大暴れは記憶に新しい。戦車のような突進に、みなおよび腰になる中、選手を守るべく敢行した、玉砕覚悟(?)の阪神・矢野燿大コーチの飛び蹴りは見事であった。
ただ、オールドファンなら思っただろう。「あの男がいれば、どうなっていただろう」と。
どんな巨漢外国人選手を相手にしても絶対負けなかった男、史上最強の野球選手(週刊ベースボール編集部認定)が大杉勝男だ。大杉が所属した東映には張本勲、山本八郎、白仁天と伝説的ケンカ屋たちが数多く、かつての本拠地球場が駒沢球場だったこともあり(61年まで)、後楽園に本拠地移転後も“駒沢の暴れん坊”と言われていた。
語り継がれる大乱闘が1970年4月28日の東映―西鉄戦(後楽園)の7回だった。二塁ベースカバーに入った大杉との接触プレーで走者の西鉄ボレスが激怒し、もみあいとなった。ボレスは巨漢の黒人選手、大杉もまた、腕っぷしの強さで鳴らすパワースラッガー。まさに“日米ヘビー級選手権”だ。後楽園は一気にボクシング会場のような盛り上がりを見せた。
勝負は一瞬だった。
もみあいの中でボレスのパンチが大杉のおでこをかすった瞬間、大杉の右ストレートが一閃。それが「びっくりするくらい見事にアゴに決まった」(大杉)。
ボレスは口から血を吹き出し、ヒザから崩れ落ちる。大杉のKO勝ちだ。
この日、大杉はバットも好調で、4打数4安打の大当たり。試合後には口の悪い記者に、「5打数5安打だな。7回の一発は見事だったね」とからかわれていた。
ここで今の野球ファンなら頭に中に「?」が出ているはずだ。「大杉って退場にならなかったの?」と。乱闘が珍しくなかった時代(特に東映は多かった)、意識を取り戻したボレスが大杉と笑顔で握手したかららしいが、編集部では勝手に「大杉のパンチが速過ぎて見えなかったに違いない」と推測している。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=前島進
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‡2002(平成14)年04月28日(日) ヤクルト・高津臣吾が200セーブの金字塔
‡2018(平成30)年04月28日(土) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は4月28日だ。
大魔神超えが見えてきた高津
2002年4月28日、ヤクルトの高津臣吾がプロ野球史上2人目の200セーブを達成した。
舞台は甲子園の阪神戦。9回裏に登板した高津は1安打を許すも無失点に抑え、今季6セーブ目、通算200セーブを挙げた。この時点のNPB最多は横浜の大魔神、当時マリナーズの佐々木主浩の229セーブだ。
「(更新が)できない数字じゃない。自分がいい数字を残せばチームのVも見てくるから」と高津。確かにセーブはイコール勝利でもある。前年01年は37セーブで優勝、日本一に貢献した高津。この年、記録更新の36セーブ以上なら優勝も見えるかも……。
最終的には高津は32セーブで、NPB記録を更新は翌年03年に持ち越し。チームも2位だったが、セは原辰徳監督率いる巨人が独走。記録更新だけではVは難しかったかもしれない。
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③┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2002(平成14)年04月28日(日) ひたむきに投げ続けたヤクルトの守護神が史上2人目の200セーブ
‡2019(平成31)年04月28日(日) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は2002年4月28日だ。
写真◆プロ野球史上2人目の通算200セーブを達成した高津
次から次へ、祝福の手が伸びてきた。花束を抱いて、ヤクルトの高津臣吾は穏やかな笑みを浮かべた。甲子園で行われた阪神戦で、高津は3対1と2点リードの9回から登板。阪神打線に1安打されたが、無失点に抑えて6セーブ目をマーク。これが、通算200セーブの大記録となった。
ベンチに戻ると大きな拍手で迎えられたが、主役と同じくらいに喜んでいたのが、ほかの投手陣だった。「本当に良かった」とベテランの快挙に、みな口をそろえた。
ある若手投手は「高津さんの存在は大きいですよ」と言った。不動のクローザーとして、黙々と投げ続けてきた。一言、一言にも重みがあるが、注目すべきは野球に取り組む姿勢。ここ数年は右ヒジ痛との闘いでもあった。
「体調が良くなくて、痛いところをさすりながら投げたこともある」
決め球のシンカーはヒジに負担をかける。痛み止めを服用しながら、マウンドに上がる姿を投手陣は間近で見ているから、その苦労が痛いほど分かる。言葉よりも、そんなひたむきな姿が、ほかの投手陣を引っ張っていく原動力になっている。
セーブを挙げるには、そこに至るまでのしっかりとした投手リレーが必要になる。そして、その積み重ねた数字は200。「僕の数字でもあるけど、みんなの数字でもあるんです」と全員の栄光であることを高津は強調した。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170428-01
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180428-14
③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190428-10
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┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.576 ┃ 60円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1969(昭和44)年04月28日(月)号 新人・田淵幸一、飯島秀雄のド派手なデビュー
2019(令和元)年10月28日(月) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎ダンプ辻の怒り
写真◆表紙は巨人・王貞治
今回は『1969年4月28日号』。定価は60円。
1969年シーズン開幕。注目の新人たちも、それぞれデビューを飾った。
阪神・田淵幸一は開幕第3戦(対大洋。甲子園)、4月13日のダブルヘッダー2試合目で2打席連続ホームラン。
「チャンスを待っていました。ストライクだけは逃さないようにと、それだけを考えていました」
と笑顔の田淵。後藤監督は、
「やはり大物だよ。底知れぬ力の持ち主だ。これからドンドン使うよ」
と声を弾ませた。
田淵人気はすさまじく、前日、開幕戦のスタメンマスクは、辻恭彦だったが、9回裏0対1で辻恭が打席に入ろうとすると、
「田淵を出せ!」と客席から一斉に怒号が飛ぶ。
大人しい辻が、ヘルメットを地面にたたきつけるほどの異様な雰囲気だったが、結局、田淵は次打者・江夏豊の場面に代打で登場し、平松政次に三振に斬って取られた。
日本最速の男、東京・飯島秀雄は13日、東京球場の南海戦でデビュー。3対3の9回裏無死から山崎裕之がヒットを放つと、すかさず代走。2万の観客が“いけ、飯島!”“ゴーゴー、飯島”と大歓声を送った。
南海バッテリーがタイムを取った間に、二塁ベースまで駆け抜ける派手なウォーミングアップで沸かせた後、1球目から走り、捕手・野村克也の送球が逸れる間に、一気に三塁まで。さらに、その後、井石のヒットでサヨナラのホームも踏んだ。
「相手がよかったですね。日本一の捕手でしょ。これからもドンドン走りますよ」
と飯島。走られた野村は、
「俺から初盗塁を取りやがってなあ。でも、速いや」
と話していた。
四国で新球団創設を進める平井太郎参院自民党議員会長(ほか肩書多数)へのインタビューもあった。
すでに高松での新球場建設が具体化し、球団は既存球団との業務提携か、まったく新しい球団かを思案中という。
四国だけでは集客が厳しいのでは、という質問には「本州との橋ができれば大丈夫」とも話していた。
いろいろセットで動いていたのかもしれない。
では、またあした。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20191027-01
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┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
①┃ プロ野球仰天伝説 No.126 ┃ ONLINE
┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
旅費がなく、広島から甲子園に歩こうとした選手たち
‡2018(平成30)年4月28日(土) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
ファンの熱意で……
球場では市民による募金活動も
市民球団を目指し、大企業のバックがなかったことで広島カープは長く資金難に苦しんだ。最大のピンチが1951(昭和26)年のシーズン前だった。選手への給料遅配の問題もあり、連盟から解散か大洋との合併を迫られた。
やむなく合併に向けて動き出したが、その話が報道陣にもれ、
1951(昭和26)年3月14日(水) 地元のラジオのニュースで流れたことで状況が一変する。人々が県庁に、市役所に、商工会議所に、新聞社に詰めかけ、涙ながらに「カープをつぶすな。われわれもできる限りのことをする」と訴えた。広島はこのとき確かにひとつになった。
選手たちも動いた。
1951(昭和26)年3月16日(金)から甲子園で大会があったが、汽車賃がなく不参加となるはずだった。だが、選手たちは「歩いていけばいい」と出発の準備を始めた。結局、後援者やファンのカンパで汽車に乗ることができ、連盟も広島の熱意に打たれ、存続にOKを出した。
┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
②┃ プロ野球仰天伝説 No.027 ┃ ONLINE
┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
相手を殴っても退場にならなかったのは大杉勝男のパンチが速過ぎたから
2018(平成30)年1月19日(金) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
カーッとなった大杉が右ストレート
両リーグで1000安打も達成した
本気でケンカをしたら球界最強といわれたのが、東映時代の大杉勝男だ。さまざまな武勇伝が残る選手だが、その最たるものが、“ボレスKO事件”だろう。ちなみにボレスは近鉄、西鉄に在籍した助っ人。顔は相当、怖い。
戦いのリングは
‡1970(昭和45)年4月28日(火)、東映-西鉄戦(後楽園)だった。タッチアップで一度サードに向かってから二塁に戻った走者のボレスと、ベースカバーに入った一塁手の大杉が衝突。押し合いのなか、ボレスのパンチが額をかすった。その瞬間、カーッとなった大杉が右ストレート。これがまともにアゴに入り、ボレスは口から血を流しながらグラウンドに崩れ落ちた。
ただ、なぜか乱闘にもかかわらず、退場はなし。ホントかどうか定かではないが、大杉のパンチがあまりに速過ぎて審判が見えなかったらしい。ボレスも完敗を認めてか、立ち上がると大杉と握手。なんだかさわやかな結末となった。
この日、大杉は4打数4安打の大当たり。記者から「もう一発決まったから5安打でしょ」と言われ、苦笑い。なお2人は後日、戒告。見逃した審判には厳重注意の処分が下っている。
大杉勝男(おおすぎ・かつお)
1945(昭和20)年3月5日(月)生まれ。岡山県出身。関西高から丸井を経て
1965(昭和40)年に東映(のち日拓、日本ハム)へ入団。
1970(昭和45)年には44本塁打、129打点で打撃2冠、翌
1971(昭和46)年には41本塁打で2年連続本塁打王、その翌
1972(昭和47)年は101打点で2度目の打点王。
1975(昭和50)年にヤクルトへ移籍し、史上初の両リーグ1000安打を達成した。
1983(昭和58)年限りで現役引退。
1992(平成四)年4月30日(木)死去。
1997(平成九)年野球殿堂入り。主なタイトルは本塁打王2回、打点王2回。通算成績2235試合、2228安打、486本塁打、1507打点、32盗塁、打率.287
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①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180428-12
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180119-15
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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