過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の浜省さんとetSETOraだヨ(=^◇^=)

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①┃ ♪Good-bye My Loneliness♪ ┃
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 1991(平成三)年02月10日(日) released
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②┃ 『ZARD Forever Best ~25th Anniversary~』 ┃
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 2016(平成28)年02月10日(水) released
‡2016(平成28)年02月27日(土) フタバ図書レンタル開始
 2016(平成28)年02月28日(日)付のデイリーチャート第1位に浮上
 2016(平成28)年03月10日(木)付のデイリーチャート第2位にランクイン
 2017(平成29)年02月08日(水) 本作の初回生産分を除いたディスク4枚に名付けられた「早春」「初夏」「盛夏」「秋冬」を基にした期間限定パッケージが季節毎順繰りに発売
 2020(令和二)年02月10日(月) ハイレゾ解禁 全52曲
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①https://ja.wikipedia.org/wiki/Good-bye_My_Loneliness
②https://ja.wikipedia.org/wiki/ZARD
②https://mora.jp/package/43000020/JBCJ-9055_F/
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 ┃ ON THE ROAD '90  ┃1990/07/21 青森市文化会館
 ┗━━━━━━━━━━┛1991/03/17 秋田県民会館
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 |1990(平成二)年11月17日(土)|駒澤大学記念講堂にて“留学生支援コンサート”
 |1990(平成二)年12月23日(日)|呉市文化ホール
 |1990(平成二)年12月25日(火)|メルパルク広島
 |1990(平成二)年12月26日(水)|メルパルク広島
 |1991(平成三)年 2月27日(水)|大分文化会館で快感(*´▽`)。o○ 
 |1991(平成三)年 2月28日(木)|大分文化会館で快感
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 http://ameblo.jp/bar-flashandshadow/entry-10713648901.html
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%B0%E3%81%8C%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB%E9%90%98%E3%81%AF%E9%B3%B4%E3%82%8B_(%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0)
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①┃ 浜田省吾 #03 1979年09月 ┃
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‡2016(平成28)年02月27日(土)
 浜田省吾 #2の話の続きです。
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 ニッポン放送での浜田省吾さんのトラ(エキストラ)の仕事を終えてから数日後、マネージャーのAさんから電話がかかってきた。「ちょっとお話があるので、事務所までご足労願えませんか?」何だろう?と思いながら目黒にある事務所に行った。事務所に着くとAさんは「今度西本君がバンドを離れることになったので、浜田のバンドに入ってくれないだろうか?」と単刀直入に切り出してきた。ぼくは「えっ!?ぼくは西本君から何も聞いていないですよ。おかしいな?・・?」と困惑を隠しきれずに答えた。「私も詳しくは知らないんだけれど、西本君は甲斐バンドに行くことになったみたいですよ。」とAさんは言った。「え~~!ますますそんな話は聞いてませんよ。」正直ぼくはびっくりした。というのも、その年の6月までぼくは甲斐バンドのツアーに参加していたが、そんな話は全くなかったし、ましてや同居している西本くん本人からもそんな話は聞いていなかった。「まぁ、西本君のことはさておき、今度浜田のバンドはツインキーボードにしたいんだよね。で、板倉くんにはピアノを担当してもらって、もう一人のキーボーディストにはオルガンとシンセを担当してもらおうと考えています。もう一人のキーボーディストは先日の公録でも一緒だった一戸清くんです。」一戸清くんと言えば、ぼくが高校生だったときに組んでいたバンドのデモテープを彼の自宅で録らせてもらったり、同じ千葉のアマチュアサークルでも一緒だったり、ぼくがプロのミュージシャンになるきっかけとなった何かと縁の深い人物だ。兎にも角にもいつの間にかそのような話になっていて、ぼくとしてもとても光栄なお話なので、喜んでやらせてもらうことにした。喜んでいる間もなく、とりあえずは9月にやることが決まっている九段会館でのワンマンコンサートに向けてのリハーサルが始まった。正確にはこのコンサートまでは、もう一人のキーボーディストは一戸くんと西本くんが、スケジュールに合わせて交代で担当するということになっていて、九段会館後からは一戸清くんにスイッチするという段取りとなっていた。
 1979(昭和54)年9月19日(水)、日本武道館のすぐ近くにある古めかしい建物の九段会館でのコンサートの日が来た。この時のコンサートは関係各位にはあまり評判のいいものではなかったらしく、ぼくも正直あまりよく覚えていない。ただ初めて浜田省吾さんと一緒に、ホールでのコンサートを行ったという喜びと、今後への期待が膨らんだ記念日となったことだけは確かだった。 
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②┃ 浜田省吾 #02 1979年、夏 ┃
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‡2016(平成28)年02月27日(土)
 ぼくが浜田省吾さんのバンドに入るきっかけとなった、ラジオの公開録音のピンチヒッターをやることになった時のお話です。
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 1979(昭和54)年07月01日(日)、ぼくは甲斐バンドの春のツアーの最終公演を前日の
 1979(昭和54)年06月30日(土)に千葉県の銚子で終え、甲斐バンドのベーシストだった長岡和広さんと、新宿ロフトへ浜田省吾さんのライブを見に行った。浜田さんのライブは、以前にも教育会館でのマンスリーライブを見に行ったことはあったのだが、このときはライブの途中からしか見ていなかったので、今回のロフトでの浜田省吾さんのライブがほぼ初めての観戦に等しかった。このときのバンドメンバーは、以前ぼくの家に遊びに来たメンバーと同じで、ドラムが俊ちゃん、ベースがブンちゃん、ギターが町支さん、そしてキーボードが西本くんという編成だった。この日のライブはポップでとても楽しいものだった。当時の浜田省吾さんはまだそんなにロック色は濃くなく、ポップな曲とロックな曲が均等ぐらいの割合で構成されたステージだった。ライブが終わってメンバーと終電までロフトで飲み、西本くんと市川のアパートに帰った。それから数日後、西本くんから相談を受けた。「あのさぁ、来週浜田さんのラジオ公録の仕事があるんだけど、オレ別の仕事が入っていて行けないんだよね。イタ(ぼくのこと)さぁ、変わりにトラでいってくれないかな?」公録とは公開録音、トラとはエキストラの略で、いわばピンチヒッターみたいなもんである。要するに別の仕事で行けない西本くんの代わりに、浜田省吾さんのキーボードをやってくれないか?という要望であった。「え~~!突然そんなこと言われても困るよ。それに来週なんて、オレ曲もよく知らないし、大体向こうに話は伝わっているのかよ?」と西本くんに聞くと、ヤツは「大丈夫、大丈夫、もう話してあるから。」とのたまった。完全に確信犯である。さぁ、そこから焦ったのはぼくである。もうやらざるを得ない状況が出来上がってしまっている。とそこに浜田省吾さんのマネージャーであるAさんから電話が入った。「Aです。西本君から聞いていると思いますが、来週の公録よろしくお願いします。場所は有楽町のニッポン放送の1スタ、入り時間は13時でお願いします。楽器はこちらで用意しますのでよろしく。では当日。」どうやら来週やる曲は4曲らしく「朝のシルエット」「いつわりの日々」等々。慌ててどうにか曲を覚えて、恐る恐るニッポン放送へ向かった。ニッポン放送の第一スタジオに入ると、すでに楽器がセッティングされていて、先日家に遊びに来たバンドのメンバー達が各の楽器のチェックを始めているところだった。ぼくもアコースティックピアノと、フェンダーローズ・スーツケースピアノの前に座って楽器のチェックを始めた。ニッポン放送の第一スタジオは、ぼくにとっては思い出深い場所で、高校を卒業してから同級生だったNと組んだフォークデュオで、ラジオの公募に応募して臨んだコンテストの審査会場だったのもここだし、プロのミュージシャンになってから、初めてライブレコーディングというものを経験したのも、ここニッポン放送の第一スタジオだった。ぼくにとっては両方ともホロ苦い思い出だったので、このスタジオに入った途端にそのことがワァ?っと蘇ってきた。そんな感傷に浸っている間もなく、浜田省吾さんがやってきた。「やぁ、板倉クン、今日はよろしく!」「こちらこそよろしくお願いします!」挨拶もそこそこにすぐにリハーサルが始まった。何の番組だったかは忘れたが、とにかく今日は公開録音なので、スタジオにお客さんが入ってのライブになる。慌ててマスターした4曲すべてのリハーサルが終了したら、ちょっと落ち着いてきた。やがてお客さんがゾロゾロと入ってきた。そして本番。とても緊張したが何とか無事に演奏することが出来た。収録が終わってから、みんなでニッポン放送の1階にある喫茶店に行った。浜田さんがぼくに労いの言葉をかけてくれた。「板倉クン、今日はどうもありがとう。とても良かったよ。」アーティスト本人からそのようなことを言われてちょっと驚いた。ぼくも浜田さんの曲がとても好きになったので、「こちらこそありがとうございました。また機会がありましたら是非よろしくお願いします!」とお礼を言って別れた。
 写真◆1979(昭和54)年7月11日(水)、ニッポン放送第一スタジオ。その時のリハーサルの模様。ぼくが弾いているのはもう一人のキーボーディストである一戸清くんのセット。ぼくの本来のポジションはその奥のピアノの場所。 
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③┃ 浜田省吾 #05 ツアーの裏側 ┃②⑦泊28日
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━┛②⑦泊28日
 2016(平成28)年03月21日(月)    ②⑦泊28日
 1980年から怒濤のコンサートツアーが始まりました。ステージでは華やかなスポットライトに照らされるミュージシャンですが、ツアーはそれだけではありません。今回はそんなツアーの裏側のお話です。
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 かくして1980(昭和55)年から浜田省吾のコンサートツアーが本格的に始まった。1980(昭和55)年から1983(昭和58)年頃はもっともツアーの本数が多かった時期で、年間100~140本ぐらいのコンサートを行っていた。移動日も含めるとほぼ一年中家にいない日々が続いた。一週間や二週間の旅は当たり前で、18泊19日とかの旅もあった。中でも一番長い旅は27泊28日というのがあって、ほぼ一ヶ月の間、家を留守にしていた。この時ツアースタッフの連中は44泊という、殆ど家に帰れないような暮らしをしていて、それこそロードという呼び名がぴったりくるようなハードな日々を送っていた。27泊28日の旅の時はたしか日曜日が四回来て、カレンダーを眺めては後何日したら家に帰れるのかなぁ?ということばかり考えていた。27泊といっても同じ場所に宿泊するわけではなくて、毎日コンサートをしながら次の町へと移動しているわけで、同じ町には多くても二泊程度しかしない。ほぼ毎日違う町で寝泊まりするので朝になって目が覚めた時に、一瞬自分がどこの町にいるのか分からなくなることなど日常茶飯事だった。この頃のスケジュールはかなり過酷で、三日間連続で町から町へと移動しながらコンサートをやって中一日休みがあって、こんどは四日連続で移動しながらコンサートをやるといったような日々だった。中一日の休みの日も次の町への移動はするわけで、次の町に着いてその日の夜にコンサートがないというだけで、完全休養日というわけではなかった。その日をぼく達は移動日と呼んでいた。移動は飛行機だったり、電車だったり、バスだったり、時には船だったりと、その時に状況によっていろいろだった。移動は場合によっては数時間?十数時間かかることもあった。ぼくは退屈な移動の時間の大半を、読書と音楽を聴くことで紛らわしていた。当時はスマートフォンもipodも無かったので、もっぱらウォークマンと、自宅でお気に入りの音楽を録音した大量のカセットテープを持ち歩いていた。しかしこれが半端ない重さで、旅の憂鬱のひとつでもあった。そしてようやく次の町に到着するとホテルにチェックインして、荷物を部屋に運び込んでやっと移動から解放される。夜にコンサートが無いというのは気分的にも肉体的にも少しは楽で、ホテルにチェックインした後、それぞれ町に映画を観に行ったり夜は飲みに行ったりして、つかの間の休日を楽しんでいた。ほぼ連日のようにコンサートは行われるので、体調管理にもものすごく気を使った。とにかく疲れを溜めないように、風邪を引かないように、怪我をしないように、浜田さんは勿論のこと、ぼくも含めバンドのメンバー達も、人知れず涙ぐましいほどの努力をしていた。それでも体調を崩すことも当然あるわけで、高熱にうなされながら一人ホテルの部屋で寝ている時が一番辛かった。毎日コンサートをやれば当然汗をかく。そして毎日着替えもしなければならない。ツアーに出ると日々溜まって行く洗濯物が悩みの種だった。しかし溜まって行く大量の洗濯物を、毎回ホテルのクリーニングに出すわけにもいかず、そうなると自分達で洗濯をしなければならない。短い旅だったら日数分の着替えをもっていけば済むが、長い旅ともなるとさすがにすべての着替えを持って行くわけにもいかないので、ぼく達バンドのメンバーは移動日でオフの日はホテルに到着すると、まずはコインランドリーに行くのが習慣となった。ホテルのフロントでコインランドリーの場所を聞くと、そこが徒歩圏内の場合は歩いて、それよりも遠い場合はみんなでタクシーに分乗してコインランドリーまで行った。そして溜まった大量の洗濯物をランドリーにぶち込んで、洗濯が終わるまで近所を散策するのがささやかな楽しみでもあった。大体コインランドリーがある場所というのは繁華街とかではなくて、住宅街の片隅だったり銭湯に併設されていたりと、その町の生活と密着しているようなところにあることが多く、コインランドリーに行くと当然地元の人も来ているわけで、そんな界隈をぶらぶらと散策しながら、町の人々の生活の様子を垣間見る感じがぼくはとても好きだった。洗濯が終わるまでの間、近くの肉屋でコロッケを買って食べたり、喫茶店でお茶を飲んだりして過ごす何でもない時間が、過酷な旅のオアシスでもあった。
 写真◆1980(昭和55)年1月20日(日)。金沢への移動の車内にて。時にはこんなこともして遊んだ。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
 ①http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/02/3-19799.html
 ②http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/02/21979.html
 ③http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/03/5.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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