村上春樹が語るビートルズとの出会い「これから新しい世界が始まるんだ」
‡2019(令和元)年06/16(日) 20:11 YAHOO!JAPANニュース配信
作家・村上春樹さんがディスクジョッキーをつとめたラジオ番組「村上RADIO~The Beatle Night~」が、6月16日(日)にTOKYO FMにて放送されました。この番組では村上さん自らディレクターもつとめ、リスナーに“聴いてもらいたい曲”をかけています。
第6回の放送となる今回は、村上さんが選んださまざまなアーティストによる、ビートルズのカバー曲を紹介しました。本記事では、そのなかから前半の2曲についてお話しされた概要を紹介します。
◆「Madison Time」Donald Fagen with Jeff Young & the Youngesters
今夜はビートルズの初期ヒットソングのカバー特集です。The Beatle Night。どうして初期だけかっていうと、あまりにもヒットソングの数が多いからです。だから今回は範囲をぐっと絞って、アルバム『ラバー・ソウル』以前に発表されたものだけに限りました。素敵な曲ばかりですよ。ビートルズは『ラバー・ソウル』以降の曲がだいたい高く評価されているし、それはそのとおりなんです。『ラバー・ソウル』以降のビートルズの曲は、歌詞の内容も深くなっているし、コード進行も洗練されています。でも、初期のビートルズの音楽には、“大きく息を吸い込んで吐いたら、それがそのまま素敵な音楽になっていた”みたいなナチュラルな感覚があります。今夜は、ドラッグ・カルチャーに足を踏み入れる以前のビートルズがつくった、若々しくオリジナルな音楽を、ひと味違うカバーで楽しんでください。
◆「Tu Perds Ton Temps(Please Please me)」Petula Clark
ペトゥラ・クラークがフランス語で歌う「プリーズ・プリーズ・ミー」。フランス語の題は“Tu Perds Ton Temps(チュ・ペル・トントン)”。この「チュ・ペル・トントン」という繰り返しは、気持ちよく耳に残って、僕は個人的にわりと好きです。なんでまたフランス語で、と思われるかもしれませんが、ペトゥラ・クラークはカナダ人だから、フランス語でカバーしても、とくに不思議はないんです。“Tu Perds Ton Temps”は、英語で言えば“You are wasting your time”、「それは時間の無駄よ」ということです。初期のビートルズの曲は、みんな勝手な歌詞をつけて、適当に歌っていたんです。あとになると管理が厳しくなりますけど。僕が同時代的に初めて聴いたビートルズの曲は、実はこの「プリーズ・プリーズ・ミー」。僕はこのとき14歳くらいだったんだけど、たしか米軍放送のFEN(Far East Network)で聴いて、「これはすごい」と一発で思いました。何がどうすごかったか? それはよくわかりません。そのときもよくわからなかったし、今でもまだよくわからない。ただ「この音楽の響きはこれまでにはなかったものだ」ということだけは、きっぱりと確信できました。それが僕のビートルズの音楽に対する第一印象でした。「これから新しい世界が始まるんだ」みたいな、わくわくした気分がありました。それは、ビーチボーイズの「サーフィンUSA」を初めて聴いたときにも感じたことです。実際に時代が大きく動いていたんでしょうね。
◆「I Saw Her Standing There」Little Richard
リトル・リチャードが歌う「I Saw Her Standing There」。へえ、リトル・リチャードがこんな曲を歌うんだ、と意外に思うんだけど、しっかりシャウトして、ソウルしています。ジョン・レノンはリトル・リチャードの音楽が大好きで、初期のビートルズは彼の曲をいくつかカバーしています。「カンザス・シティー」とか「ロング・トール・サリー」とか。だからリトル・リチャードがビートルズの曲を逆にカバーし返してくれたことは、彼らにとってはすごく嬉しかったと思います。「え、あのリトル・リチャードが僕らの曲をカバーしてくれるわけ?」みたいな感じで。ジョン・レノンが少年時代、学校の帰りに友だちの家に寄って、初めて「ロング・トール・サリー」を聴いたとき、あまりの衝撃に声も出なかったということです。そういうのが彼の音楽の原体験になっています。この「I Saw Her Standing There」をつくったのは、ジョンではなくポールですが、ベースのリフ部分はチャック・ベリーのある曲から、そのままパクったんだと、あとになってポールは告白しています。いいんです。みんなパクるんです、多かれ少なかれ、最初は。そういえば、ビーチボーイズだって、チャック・ベリーからけっこうパクってますよね。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190616-00010008-tokyofm-ent
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村上春樹「ノルウェイの森」は、「ビートルズの音楽にインスパイアされて…」
‡2019(令和元)年06-16 (日) 19:50
作家・村上春樹さんがディスクジョッキーをつとめたラジオ番組「村上RADIO~The Beatle Night~」が、6月16日(日)にTOKYO FMにて放送されました。この番組では村上さん自らディレクターもつとめ、リスナーに“聴いてもらいたい曲”をかけています。
第6回の放送となる今回は、村上さんが選んださまざまなアーティストによる、ビートルズのカバー曲を紹介しました。本記事では、そのなかから中盤の3曲についてお話しされた概要を紹介します。
◆「Do You Want To Know A Secret」Mary Wells
黒人シンガー、メアリー・ウェルズが歌ったビートルズ・ナンバー“Do You Want to Know a Secret?”、「秘密を知りたいかい」です。この曲を書いたのはジョン・レノンだけど、歌っているのはジョージ・ハリスン。ジョージがレコーディングでソロ・ボーカルをとった最初の曲として有名です。
◆「She Loves You」Rita Lee
ブラジル人の女性歌手、リタ・リーが歌う「シー・ラブズ・ユー」です。バックミュージシャンも全員ブラジル人。ブラジル風ビートルズです。ビートルズがこの曲を吹き込んだのは1963年7月。この曲は、アメリカとイギリス両国でヒットチャートの1位に輝いています。この「シー・ラブズ・ユー」がアメリカで「ビルボード」の1位になった週には、2位が「抱きしめたい」、3位が「プリーズ・プリーズ・ミー」と、ワン・ツー・スリーでビートルズがチャートの上位を独占しています。すごい人気だったんですね。僕は若いころ、ビートルズのレコードは自分では買ったことがなかったんです。ビートルズの音楽はもちろん好きだったけど、こういう音楽はラジオで聴くものだと思って、お金を出してまで買わなかった。わざわざ買わなくても、ラジオで毎日がんがんかかってましたから。そのせいで、ビートルズのヒット・ソングはよく知っているけど、ラジオではかからないマイナーな曲はあまり知らない、という状況が生まれました。簡単に言えば、ビートルズは好きだったけど、決して熱心なファンではなかったということですよね。僕は、ジャズ喫茶に通ってマイルズとかコルトレーンとかを聴きまくり、当時からオペラなんかも聴きに行ってました。救いがたく小生意気な少年だったんです。“イヤなガキ”っていうほうが近いかな。でも、大人になってから、ふとしたきっかけで彼らの音楽をじっくり、腰を据えて聴くようになります。
◆「All My Loving」Suzy Bogguss & Chet Atkins
「オール・マイ・ラヴィング」、ポールが書いた曲です。ギターの名手チェット・アトキンスをバックに、カントリー歌手のスージー・ボガスが歌っています。ビートルズの歌ったこの曲、なぜかシングルカットはされませんでした。ビートルズの場合、素晴らしい曲が次々に出てくるものだから、シングルカットが間に合わなかったというのが実状みたいですね。
僕は専業作家になるまで、ずっとジャズ関係の仕事をしていて、10年近く朝から晩までジャズばかり聴いていました。もちろん楽しかったんだけど、10年続くとさすがに疲れて、仕事を辞めてから3、4年くらい「ジャズはちょっといいか」と思って、クラシックとロックばかり聴いていました。80年代の半ばには日本を離れて、ヨーロッパで何年か暮らしました。日本にいてもあまりいいことないから、外国でも行くか……みたいな感じで。最初、ギリシャのスペッツェスっていう島に住んで、そこでなんにもせず、ただぼーっとしていました。音楽を聴く手段というと、カセットテープのウォークマンしかなかった。日本から持ってきた何本かのテープのなかに、たまたまビートルズの『ホワイト・アルバム』があって、海岸でのんびり釣りなんかしながら、毎日そのカセットテープを聴いてました。ギリシャの島って、海はきれいだけど、思いのほか魚は釣れないんです。釣れても、調理もできないような小さな雑魚ばかりです。おまけに突堤の先で釣りをしていると、近所の猫たちがまわりにいっぱい集まってきて、僕がたまに釣り上げると、みんなでわっと飛びかかってくるんです。で、まあ、しょうがないから魚がかかるたびに猫たちにあげてました。けっこう怖いですから。そんな毎日を送りながら『ホワイト・アルバム』を浜辺で聴いていると、音楽が不思議なくらい心に沁みてくるんです。これ、いいなあ、と実感しました。そしてビートルズの音楽にインスパイアされてというか、この年の冬に長編小説を書き始めました。それが長編小説「ノルウェイの森」です。
https://tfm-plus.gsj.mobi/news/tZ0MvuF89q.html
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村上春樹 高校時代の女の子に「返せていないレコード」は…?
‡2019(令和元)年06/16(日) 19:50
作家・村上春樹さんがディスクジョッキーをつとめたラジオ番組「村上RADIO~The Beatle Night~」が、6月16日(日)にTOKYO FMにて放送されました。この番組では村上さん自らディレクターもつとめ、リスナーに“聴いてもらいたい曲”をかけています。第6回の放送となる今回は、村上さんが選んださまざまなアーティストによる、ビートルズのカバー曲を紹介しました。本記事では、そのなかから中盤の3曲についてお話しされた概要を紹介します。
◆「And I Love Her」Sarah Vaughan ⇒“And I Love Her”――この素晴らしいバラードは、ポールの手によるものです。でもここでは、女性歌手サラ・ヴォーンが歌っているので、“And I Love Him”になります。サラのバックをつとめているのは、マーティとデヴィッドのペイチ親子、ジョーとジェフとスティーヴのポーカロ・ファミリー、という「TOTO」の中心メンバーです。だからいつものサラ・ヴォーンとはひと味違います。
◆「Can’t Buy Me Love」Johnny Rivers ⇒ ジョニー・リヴァースがカバーした「Can’t Buy Me Love」。このLPジャケットには、LAのクラブ「ウィスキー・ア・ゴーゴー」における超ライブ録音(Very, very live!)と書いてあるんだけど、拍手とか歓声とか、どことなく後付けっぽいですね。しかし、それでもなんか、わいわい楽しそうです。切れの良いバック・バンドは、おそらく「レッキング・クルー」の面々でしょう。ベースライン、かっこいいですよね。アメリカで中古レコード屋に行くと、よく店員とか常連とかが集まって、音楽がらみのトリビア・クイズを出し合っているんです。オタクっぽいというか、そばで聴いていると楽しいです。たまに答えがわかるのがあると、思わず僕も「はぁい」と手を上げたくなるんだけど、もちろんそんなことはしません。たとえば「アメリカで最初にビートルズの曲をカバーした歌手は?」みたいな質問があります。これは簡単ですね。僕でもわかる。デル・シャノンが歌った「フロム・ミー・トゥ・ユー』です。まだ、ビートルズがアメリカで無名のころに取り上げてシングルで出して、ビルボード・チャートの77位まで上がりました。ビートルズのシングルのほうは、100位にも入らなかったんだけど。そんなどうでもいい知識をみんなで競い合うわけです。昔、映画「ハイ・フィデリティ」(2000年製作、監督スティーブン・フリアーズ、原作ニック・ホーンビィ)という中古レコード店のオーナーが主人公になった映画がありましたけど、あのまんまの世界です。でも、そういう中古レコード屋文化みたいな独特の雰囲気も、だんだん消えていくのかもしれませんね。このあいだも久しぶりにニューヨークのヴィレッジあたりを回ったら、なじみのレコード・ショップ、半分くらい店じまいしていました。家賃がすごく上がって、店を維持しきれなくなったんだそうです。淋しいですね。
◆「From Me To You」Del Shannon、「You’ve Got To Hide Your Love Away John Pizzarelli」John Pizzarelli ⇒“You've Got To Hide Your Love Away”、「君は愛を押し隠さなくては」。ボブ・ディランっぽい雰囲気を持つ、なかなか素敵な曲ですが、当時の日本語のタイトルは「悲しみはぶっとばせ」。1960年代風というか、すごい言語感覚ですよね。そういえば「ベートーヴェンをぶっ飛ばせ」もビートルズの演奏でヒットしました。そう、このころのビートルズは、いろんなものを片端からぶっ飛ばしていたんですね。僕は40代になるまで、ビートルズのレコードを自分で買ったこともなかったし、正面からまともに彼らの音楽を聴いたこともありませんでした。ただ『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のアルバムだけは、例外的に高校時代から手元に持っていて、隅々までけっこうしっかり聴いていました。高校のとき、わりに仲良かった女の子から「これを聴きなさい」と言われて貸してもらって、そのまま借りっぱなしになっていたんです。東芝の赤盤LP。悪いなあ、返さなくちゃなあ……と思いつつ、連絡がとれず、半世紀以上そのままになっています。半世紀、長いですよねえ。
https://tfm-plus.gsj.mobi/news/n09o9Lr04R.html
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村上春樹「もう一生聴かなくてもかまわない」と思ったビートルズの曲は?
2019(令和元)年06/17(月) 21:11配信
作家・村上春樹さんがディスクジョッキーをつとめたラジオ番組「村上RADIO~The Beatle Night~」が、6月16日(日)にTOKYO FMにて放送されました。この番組では村上さん自らディレクターもつとめ、リスナーに“聴いてもらいたい曲”をかけています。第6回の放送となる今回は、村上さんが選んださまざまなアーティストによる、ビートルズのカバー曲を紹介しました。本記事では、そのなかから後半の2曲と村上さんの“好きな言葉”についてお話された概要を紹介します。
◆「Yesterday」Marianne Faithful ⇒ この曲は当時、本当にとことん流行ったんです。どれくらい流行ったかというと、僕が「この曲はもう一生聴かなくてもかまわない」と思ってしまうくらい流行りました。なにしろラジオのスイッチを点ければ、「イエスタデイ」が流れているんです。良い曲なんだけど、最後には「もういい、『イエスタデイ』、頼むからやめてくれ!」と叫びたくなりました。そんな僕でも、このマリアンヌ・フェイスフルが可憐な声で歌う「イエスタデイ」は、ときどき聴きたくなります。最近はすっかりドスのきいた声になってしまいましたが、このころのマリアンヌ・フェイスフルは妖精のようなイノセントな歌声でした。『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の話を続けます。先日、知り合いのオランダの人から「ジ・アナログズ(The Analogues)」というバンドのDVDが送られてきたんですが、これがビートルズそっくりに演奏するオランダのバンドでして、アルバム『サージェント・ペパーズ』に収録されている音楽をライブで、順番通り厳密に再現しているんです。それも、わざわざリバプールまで行って、地元の観客の前でやってるんです。ヴィジュアル的には今ひとつ冴えないおっさんバンドなんだけど、楽器やらPAやらも、すべて当時のオリジナルのものを揃えているという徹底ぶりで、そのすさまじい熱意に打たれます。コンセプトとしては、クラシック音楽の古楽器演奏と同じです。ビートルズは『サージェント・ペパーズ』を発表したころには、もうライブ演奏をやめていましたから、彼らがどんな楽器を使って、どんなふうに演奏したか、映像として残っていないので、僕らにはなかなかわからない。ところが、このアナログズのライブ演奏を見ていると、「へえ、このサウンドは、こんなふうに構成されていたんだ」みたいなことが、だいたい一目で見て取れます。もちろん、スタジオ録音をそのままライブで再現することはできないから、あくまで近似値なんだけど。それにしても、目からウロコというか、一見一聴の価値はあります。「ジ・アナログズ」、名前もなかなかいいですね。
次ページは:◆「Norwegian Wood」Gary Buerton
◆「Norwegian Wood」Gary Buerton ⇒ 最後はこの曲、「ノルウェイの森」。『ラバー・ソウル』まではいかないつもりだったんですが、やはりこれが出てこないと番組が終わらない、というか(笑)。オリジナルの録音は1965年10月、もちろんジョンが書いた曲です。たぶん、ジョン以外の人には書けない曲ですよね。演奏しているのは、ジャズ・ヴァイブラフォン奏者ゲイリー・バートン。1人でヴァイブとピアノとベース、マリンバを演奏しています。多重録音です。若いころのゲイリー・バートンは、独特の鋭い透明感があって、僕は好きでした。今日の最後の言葉。ちょっと長いけど、あるインタビューでのポール・マッカートニーの発言です。「みんなは、ジョンにはハードなエッジがあり、僕のエッジはソフトだと決めつけている。長年そう言われ続けてきたもので、そういうものかと僕も思っていた。でも、妻のリンダは言うんだ。『あなたにはハードなエッジがある。ただそれが表面に出てこないだけよ』って。そのとおりだ。僕はそうしようと思えば噛みつくこともできるし、しっかりハードな一面を持っている。また彼女は言う。『そしてジョンにはとてもソフトな一面があったわ』って。そうなんだ、ジョンのそういうソフトな面が、僕はすごく好きだった」そんな持ち味の異なる、優れた才能を持つ2人がたまたま出会い、理解し合い、助け合い、また、ときには反発し合ったからこそ、あれだけ見事な音楽が次々に生まれきたのでしょうね。その巡り会いの惑星直列的な素晴らしさに、ただ感心するしかありません。それでは今日はお別れです。またお会いしましょう。
TOKYO FM「村上RADIO~The Beatle Night~」6月16日(日)放送分より
ern***** 1日前 ビートルズは最終的に中期の頃が最高である、が定説になって久しいがでも結局は初期に戻る。で、このまま初期に留まるのか?は10年後の楽しみにしておく。要するにビートルズは永遠である。
ama***** 1日前 ノルウェーの森は考えてみると不思議な歌詞だよね。彼女の部屋で一夜を過ごしたのに朝になったら彼女が居なくなっている状況は不可解だな。自分の部屋に連れ込んだ彼女が居なくなるのなら理解出来るんだけどね。
sss***** 1日前 ゲイリーはチックとのクリスタルサイエンスだよね。久しぶりに聴きたくなった。
https://tfm-plus.gsj.mobi/news/8DwNClXf9q.html
発売禁止になったビートルズの「ブッチャーカバー」にまつわる裏話
‡2019(令和元)年06月16日(日) 10:15 JORDAN RUNTAGH
写真◆写真家ロバート・ウィテカーによるグロテスクな“ブッチャー(虐殺者)”の写真が、図らずもビートルズの超レアで最も珍重されるコレクターズアイテムとなった。
ひとりの写真家による常識はずれの思いつきが、ファブフォーの究極のコレクターズアイテムを生み出した。生肉、バラバラ人形、白衣を着たメンバーという表現は、激しい物議を醸し出した。それは、本当にベトナム戦争への抗議だったのか?ビートルズの歴史的アルバムとも言える、発売中止になった"ブッチャーカバー"にまつわる当時の裏話を回想する。「アルバムカバーは僕のアイディアの方が良かったよ。ポールの首を切り落とすイメージだ」とかつてジョン・レノンは、アルバム『イエスタデイ・アンド・トゥデイ』のカバーの話題になった時にジョークを飛ばしたことがある。1966年にリリースされた同アルバムは、北米向けに当時のザ・ビートルズの楽曲を寄せ集めて製作されたものだった。冗談はさておきレノンの発想は、同年6月のリリースへ向けて最終的に選ばれたカバー用写真に比べれば可愛いものだ。タイトルにヒット曲『イエスタデイ』の名前を見つけて咄嗟に手を伸ばしたファンは、食肉処理業者(ブッチャー)の白衣を着たメンバーがいたずらっ子(というよりむしろ殺人鬼のように)気味悪い微笑みを浮かべ、生肉の切れ端やタバコの火を押し付けられバラバラになった人形をまとったグロテスクなイメージに衝撃を受けた。レノンがバンド仲間の内蔵を引っ張り出して四つ裂きにでもした方がまだ、激しい論争を抑えられたのではないだろうか。半世紀が経ってもなお、生後間もない赤ん坊を虐殺する楽しげなファブフォーの姿は、とてつもなく異様だ。同アルバムカバーは直ちに回収されたものの、そのような奇異なカバーが制作されたという事実はバンドの歴史に残された。1966年当時、アルバムカバーにトイレの便座を描くことなど考えられなかったし、パンクロッカーたちが世間を挑発するようなアプローチを取り始める10年も前の話だった。それでも修羅場の中で笑っていられるのがビートルズなのだ。いわゆる“ブッチャーカバー”は他にもロックの不名誉な記録を打ち立てた。ジョージ・ハリスンがかつて「ビートルズのコレクターズアイテムの決定版」と呼んだ同アルバムカバーは、何万ドル、時には何十万ドルもの値が付いている。バンドの歴史上、今なお全く正しく理解されないチャプターのひとつだ。ベトナム戦争に対するビートルズからのメッセージか? レコード会社に対する彼らの抵抗か? 売名行為か? それとも退屈したロックスターによる未熟な悪ふざけか? しかし実態は、もっと複雑なのだ。アルバムカバーのイメージは、ロバート・ウィテカーによるアイディアだった。ダークなユーモアとシュールな感性を持つ当時26歳のオーストラリア人写真家は、バンドのお気に入りカメラマンのひとりとなった。ウィテカーはビートルズの印象的な写真を撮影した複数の実績があり、ジョン・レノンがタンポポの花を片目に当ててポーズを取ったユニークな写真(1965年)の作者でもある。ギリシャ神話のナルキッソスやギリシャの悲劇詩人エウリピデスにヒントを得た同作品は、ビートルズの一風変わった感受性を見事に表現している。
1966(昭和41)年03月25日(金)、メンバーはロンドンのおしゃれなチェルシー界隈にあるウィテカーのスタジオを訪れる。アイディア満載のウィテカーの頭には、ある大胆なコンセプトが浮かんでいた。「ビートルズのクリーンなイメージを押し出した写真には飽き飽きしていたから、ポップアイドルのイメージに大革命を起こしてやろうと考えた」とウィテカーは、作家のジョン・サヴェージに語っている。シェイ・スタジアムで行った記録破りのコンサートをはじめ、ビートルズに対する聖書レベルの誇大な称賛を個人的に目撃してきたウィテカーは、彼らの誇張された名声を皮肉り、ロックの神と崇められる彼らが実際は血の通った人間であることをファンに気づかせるような風刺的写真シリーズに仕上げようと目論んでいた。「世界各地で彼ら4人が神のように崇拝されるのを見てきた。しかしファンが彼らに注ぐ情熱を目の当たりにして、キリスト教の信仰はいったいどこへ向かうのだろうか、と思った」レタッチし細工された彼の作品は、ロシア聖教の三連イコン風に仕上げられた。サルヴァドール・ダリとルイス・ブニュエルによる共同映画作品『アンダルシアの犬(Un Chien Andalou)』をはじめ、概念芸術家メレット・オッペンハイムの作品、ハンス・ベルメールの写真集『人形(Die Puppe)』の影響を受けながら、ウィテカーは自分の夢に出てきたイメージも取り込んだ。その後お蔵入りする彼の作品は、『夢遊のアドベンチャー(A Somnambulant Adventure)』と呼ばれた。もちろん、通常のフォトセッションという訳にはいかなかった。そしてビートルズ側も、予期せぬ展開に全く準備ができているはずもなかった。ウィテカーによる写真撮影のために4人が公の場で揃ったのは、1965年12月にイギリスで行ったコンサート以来だった。1966年初頭はバンド名義の3本目の映画撮影が予定されていたものの脚本が完成しなかったため、彼らが世界的なスターの座を得てから初めてまとまった自由時間ができた。結果として4人にはそれぞれの趣味を追求する時間ができ、当時ロンドンで盛り上がっていたカウンターカルチャーに関する本、演劇、絵画、音楽などを楽しみ、知的教養を高めた。
次ページ > 僕らは今やイエス・キリストよりも有名だ。
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/31198
ウィテカー同様、レノンもまた当時の世界における宗教の役割に大いに興味を持っていた。「キリスト教は今後、衰退し、消滅していくだろう」というイヴニング・スタンダード紙のモーリーン・クリーヴとのインタヴューにおける発言は有名だ。「僕らは今やイエス・キリストよりも有名だ。宗教かロックンロールか、どちらが先に消えてなくなるかはわからない」とジョンは言った。彼の発言はその後、1966年夏の終わりに米国で再び報道されるや、致命的とも言えるスキャンダルに発展した。それに先立つ
1966(昭和41)年03月25日(金)、自信に満ち溢れ、実験的なことをしたいという欲望に駆られたビートルズは、ウィテカーのスタジオを訪れた。キリスト教のイコンをモチーフにした不敬な写真は、バンドにとって間違いなくセールスポイントだった。しかし、飽きっぽいことで悪名高い彼らの興味を惹きつけたのは、撮影のために用意された一連の小道具だった。鎖状につながったソーセージ、入れ歯、生の豚肉の切り身、ガラスの義眼、ハンマー、クギ、白衣、鳥かご、切断された豚の頭部、バラバラになった人形が、まるでオカルトのフリーマーケットのように並べられていた。「(ウィテカーとは)何度か撮影の仕事をしたことがあったので、彼は僕らの性格を心得ていた」とポール・マッカートニーは、ドキュメンタリー『ザ・ビートルズ・アンソロジー(The Beatles Anthology)』の中で語っている。「彼は僕らがブラックユーモアや悪い冗談が好きなことを知っていた。彼は“ひとつアイディアがある。この白衣を着てくれよ”って言うんだ。僕らにはそう抵抗のあることでもなかった。ただの人形とたくさんの肉というだけだった。彼が何を目指していたかはわからないが、それまで僕らがやらされてきたことよりは、少しばかりユニークに見えた」一方でジョージ・ハリスンの評価はそう寛大ではなかった。「気持ちが悪いし馬鹿げたアイディアだと思った。僕らは時々くだらないこともしてきた。そんな馬鹿なことでもそれがクールだとか格好いいとか思ったりしたが、あれは正にそういった類のものだった。あの時も、バンドの一員としてやらざるを得ない状況だった。だから僕らは撮影のために肉屋の白衣を着たんだ」ウィテカーのみが三連イコンの本当の意味を把握していたのだが、彼は2011年に亡くなるまでに、何種類かの説明をしている。見開きカバーに使われるはずだった最初の写真では、女性がカメラに背を向けてひざまずき、その向こうにはファブフォーが鎖状につながったソーセージを手に立っている。ウィテカーによるとこの写真は、一般の人々と同じ人間としてのビートルズの“誕生”を象徴しているという。「ソーセージは、へその緒を表していた」と2004年に彼は、モジョ誌に語っている。「さらにその写真は、妊娠した女性の子宮の中にあるようなイメージで、乳首と大きな子宮も描かれ、ビートルズの4人のメンバーが女性のお腹の中で1本のへその緒でつながっているイメージになるはずだった」2枚目の写真はいわゆる“ブッチャー”ショットで、ビートルズが物理的にも精神的にも、名声によってバラバラにされる危機に瀕していることを示す。「12インチレコードの見開きカバーのセンターに来る2.5インチ角の写真になるはずだった」とウィテカーは、モジョ誌に語っている。「彼らの頭の周囲には、宝石をあしらった銀色の光輪が描かれている。さらに全体的に銀色と金色を使ってロシアのイコン風に仕上げ、教会に掲げられる聖人のように描きたかった。肉はファンを表し、入れ歯や義眼は、彼らを聖書に出てくる金の子牛のように崇拝することの誤りを示している」
次ページ > 彼らの手元には、問題を解決すべきほかの写真がなかった。
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/31198/2/1/1
3枚目の写真では、ジョージ・ハリスンが、至福の表情をしたジョン・レノンの頭にクギを打ち込もうとしている。有名人に対して抱かれる幻想とは裏腹に、彼らは木片のように頑丈でリアルな存在だ。「ジョンだったら、木版に見えるように木目の入った透明フィルムを貼り付けたかもしれない」とウィテカーは後に振り返っている。「さらに海のあるべき場所に空を描き、空のところに海を持ってきて水平線を描きたかった」彼の壮大なコンセプトにもかかわらず、或いはそれ故に、モップトップのイコンは未完成のままとなる運命にあったのだろう。今日に至るまで理由は明らかになっていないが、カバー写真の候補として“ブッチャー”ショットのみがレコードレーベルへ提出された。「彼らの手元には、問題を解決すべきほかの写真がなかった。それで大騒ぎになり、多くの人を怒らせる原因となったのだと思う」とウィテカーは、モジョ誌とのインタヴューで嘆いた。春から夏になる頃、レコードレーベル内では、8月に行われる予定のビートルズの北米ツアーに先駆けてアルバムをリリースしたいという気持ちが高まっていた。革新的なアルバム『リボルバー(Revolver)』は完成までに程遠い状況の中、レーベルは急場しのぎの対応を取る。キャピトル・レコードでは、ビートルズの英国盤アルバムから数曲を削り、“ニューアルバム”として米国市場へ投入するのが常だった。ビートルズもキャピトル・レコードも、このやり方で大儲けしてきた。しかしバンド側は、レーベルからの芸術面への干渉を快く思っていなかった。アルバム『イエスタデイ・アンド・トゥデイ(Yesterday and Today)』には、『4人はアイドル(Help!)』や『ラバー・ソウル(Rubber Soul)』の米国盤でカットされた楽曲を収録し、時間的に足りない分を最新ヒットシングルと『リボルバー』のレコーディングセッション用にレノンが書いた新作3曲で補った。カバー写真の提供を求められたビートルズは、即座に“ブッチャー”ショットを提出した。今日では、キャピトル・レコードが米国盤をリリースする際にオリジナルアルバムの曲順を入れ替えるなどして“解体(butchering)”していたことへのバンドの当て擦りだった、と主張するファンも多い。しかしウィテカーは「くだらない。全くのナンセンスだ」として、この見方を完全に否定している。キャピトル・レコードの当時の代表アラン・リヴィングストンは、自分のデスクに置かれたアルバムのカバー案を見て激怒した。「カバーを見た時に私は、“いったいこれは何だ。こんなものをリリースできるか?”と思った」と、モジョ誌に語っている。「販売担当部長らに見せると、彼らはOKを出した」という。リヴィングストンはロンドンへ緊急電話を掛け、バンドに対しカバー案を考え直すよう嘆願した。「私の連絡相手はポール・マッカートニーと一緒にいることが多かった。彼は頑固で、そのまま進めるべきだと主張していた。彼は“カバーは戦争に対するバンドの批判だ”と言っていた」とリヴィングストンは振り返る。発言の意味がビートルズ以外の人間にも伝わったかどうかは疑問の余地があるが、ブッチャーカバーはビートルズが発した初めてのベトナム戦争に対する公然の抗議だった。マッカートニーが実質的なバンドのスポークスマンだったが、レノンは扇動者を自称していた。「僕が(ブッチャーカバーを)推進した張本人と言える。特にあの写真は、僕らのイメージを壊すためにもアルバムカバーにしたかった」とレノンは1974年に振り返っている。同写真は既に英国内でビートルズのニューシングル『ペイパーバック・ライター(Paperback Writer)』のプロモーションのために使用され、特に問題も起きていなかった。しかしアルバムカバーともなると、より注目を集めることは間違いなかった。「僕らは、いわば天使のように思われていた。僕としては、僕らが生命というものをちゃんとわかっていることを示したかった」
次ページ > コレクターのほとんどは、いわゆる“初版盤ブッチャー”を求めている。
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/31198/3/1/1
不本意ながら、リヴィングストンはカバーの生産を指示した。100万枚分のアルバムカバーの4分の3が印刷され、1966年6月15日の発売日に先立ち6万枚が各メディアの担当者や小売店に送られたという。予想通り、多くの人は残虐なカバーに対する拒否反応を示した。「ディーラーたちが扱いたくないという話が、すぐに聞こえてきた。彼らはあのアルバムを店に並べようとしなかった」とリヴィングストンは言う。一方でレノンは、抵抗を続けていた。「ベトナムと同じくらい重要なことだ」と彼は当時、記者会見で語っている。「ベトナム戦争のように残虐なものが容認されるのなら、このカバーも一般に受け入れられるに違いない」キャピトル・レコードは、売れもしないアルバムを抱えて途方に暮れるか、カバーのアートワークを変更して有名スターを怒らせるかという困った立場にいた。ビートルズは強固に押し通すこともできたが、関係者全員が驚くべきことに、バンド側が折れたのだ。バンドのマネジャーだったブライアン・エプスタインは、米国におけるディストリビューション契約の再交渉の真っ最中だった。今では信じ難いことだが、ほかのレーベルからのオファーはなかった。コロンビアの重鎮だったクライヴ・デイヴィスら業界内部の人間は、ビートルズは既にピークを超えていて、彼らはもはやエプスタインのやり方に従いたくはないだろう、と感じていたという。キャピトル・レコードの代理人とリスクを冒して交渉する代わりに(カバー写真を嫌っていたとされる)エプスタインは、新たな写真を撮るようビートルズを説得した。撮影はまたウィテカーで、古臭いスチーマートランクをメンバーが囲むショットを撮った。「無一文だが楽天的な4人組といった酷い姿をした我々の写真を、カバーにされた」とレノンは、10年後に不平をこぼした。
1966(昭和41)年06月14日(火)、キャピトル・レコードは「回収大作戦」と銘打った大規模リコールを始めた。小売店や評論家らへ手紙を送り、アルバムを直ちに送り返すよう依頼した。「英国で制作されたオリジナルのカバーは“ポップアート”に対する風刺のつもりでした」とリヴィングストンは手紙の中で説明している。「しかしながら、米国における一般の意見をヒアリングした結果、カバーデザインが誤解を招く可能性があるという結論に達しました」とのメッセージを送った。回収作戦は概ね成功したものの、一部の小売店は許可なくフライングして1日早く販売してしまっていた。キャピトルの4つの主要プレス工場では、週末も休みなく新しいカバーへレコードを封入する作業が続けられた。内部メモによると、5万枚の“ブッチャーカバー”が穴の中に廃棄され、上から水と泥とゴミを投入して埋められたという。最終的に、既存のカバーの上に新たなデザインのカバーを貼り付けるという合理的なアイディアが出された。時間だけでなくコストも削減でき、予定より5日遅れの1966年6月20日に、当たり障りのないカバーの『イエスタデイ・アンド・トゥデイ』が店頭に並んだ。カバー騒ぎにもファブフォーに対する大衆の情熱は冷めることなく、アルバムはビルボードチャートでナンバー1を獲得した。しかしリコールには20万ドル以上のコストがかかったため、キャピトル・レコードで唯一赤字になったビートルズのアルバムとされている。キャピトル・レコードは、貼り付けの手間をかける必要がなかったかもしれない。上から新たなカバーを貼り付けた話は口コミやアングラメディアの間に出回り始め、やがて新しい“トランクカバー”を蒸気で剥がして禁制のカバー写真、つまりビートルズから忠実なファンに対する秘密のメッセージを露わにするのがお決まりとなった。禁断の果実はその希少性からより一層甘さを増し、神話はバンドが活動を停止した1970年以降も長く続いた。「とんでもないコレクターズアイテムを生み出した」とリンゴ・スターは、ドキュメンタリー『ビートルズ・アンソロジー』の中で振り返っている。「正直に言うと、僕は1枚も持っていない。当時は“保管しておいた方がいい”などと考えもしなかったからね」という。しかし保管していた人は多く、今日まで取引が続けられている。コレクターのほとんどは、いわゆる“初版盤ブッチャー”を求めている。つまりリコールを免れたオリジナル盤だ。しかし 新しいカバーを貼り付けられた“ブッチャー第二版”もまた、高値が付いている。ブッチャーカバーの見分け方やアルバムの価値、そして上手に剥がして“ブッチャー第三版”を作る方法などを説明するウェブサイトもある。馬鹿げた話に聞こえるかもしれないが、お金は正直だ。2016年2月、シュリンクラップされた“初版盤”が驚くことに12万5000ドル(約1360万円)で取引された。価値の低い“第三版”ですら、数千ドルで取引されている。“ブッチャーカバー”の遺した価値は、金銭的なものを遥かに超えている。ウィテカーはシュールな写真で、ビートルズを人間化するという目標を達成した。ただし、彼の望んだやり方ではなかったかもしれない。公然とアヴァンギャルドを受け入れ、マニアの旗を掲げることで、ビートルズはメディアの寵児としての役割を超越した。ウィテカーは、無邪気なおふざけが、愛嬌があるとは言えない方向へと向かう貴重な瞬間を捉えた。4人の反抗的な若者が当時の状況に疑問を投げかけ、アーティストとしてリスクを厭わずに声を上げた瞬間だ。ブッチャーカバーは不気味で醜く、グロテスクですらあるかもしれない。しかしこれがリアルなのだ。
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