┏━━━━━━━━━━━━┓
┃ きれいなきんたま事件 ┃
┗━━━━━━━━━━━━┛
‡2005(平成17)年04月28日(木)放送
『ビーバップ!ハイヒール』朝日放送
関西ローカルも検証コーナーとして特集を組み、うつみにこの件について確認したところ、うつみが実際に起きた出来事であると証言する模様が流れた。この時にうつみは「自分が番組を担当していた時に実際に起こった」「収録はVTRだったが、当時はVTR編集には時間もお金も掛かり、ドラマなどを別にすると編集をしないで放送するいわゆる「撮って出し」が普通であり、この時も多少問題にはなったのだが、結局、そのまま放送することになった」「当時は、VTRは非常に高価だったため、VTRの使い回しが普通だったので、その回のVTRはおそらく現存しないはず」と証言した。非常に時間を取った詳細な証言であったため、この証言を事実と見る向きも多いヨ(=^◇^=)
********************* http://www.biwa.ne.jp/~full/kinta.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%A0#.E3.81.8D.E3.82.8C.E3.81.84.E3.81.AA.E3.81.8D.E3.82.93.E3.81.9F.E3.81.BE.E4.BA.8B.E4.BB.B6
************************************************************
♪金太の大冒険♪
ある日金太が歩いていると
美しいお姫様が逃げててきた
悪い人にネェ 今おわれているの
金太 守って 金太守って
キンタマ モッテ
しかし金太は けんかが弱く
友達とやっても 負けてしまう
腕力に自信のない金太君
けんかはいつも 負けが多い
金太 負けが多い 金太負けが多い
キンタマ ケガオオイ
やがて悪人がやってきた
身の丈2メートルもある大男
金太と悪人の大決戦
金太 負けるなとお姫様
金太 負けるな 金太負けるな
キンタマ ケルナ
悪人は金太におそいかかる
金太は思わず とびのいた
アー そこにあったは大きな木
そのまわりを金太はグルグルまわりだす
金太 回った 金太 回った
キンタマ ワッタ
悪人はいつか目をまわし
そのすきにお姫様と逃げだした
お姫様の美しさに金太君
目をパチパチまたたいた
金太 またたいた 金太 またたいた
キンタマ タタイタ
しばらくゆくと二人は
おなかのすいたのに気がついた
フト見るとマスカットの木がはえている
金太はナイフで切ったとさ
金太 マスカット ナイフで切る
キンタマ スカット ナイフデ キル
おなかのふくれた二人は
さらに安全なマカオに行くことにした
行けども行けどもマカオは見えず
お姫様はイライラして金太に聞いた
ネェー金太 まだ ネェー金太まだ
キンタマ ダ
そうしているうちにも二人は
やっとのことでマカオに着いた
金太とお姫様はマカオに着いた
やっとのことでマカオに着いた
金太 マカオに着く 金太マカオに着く
キンタマ カオニ ツク
マカオに着いた金太君
知り合いのビルをたずねたとさ
お姫様はそのビルを見て言ったとさ
まぁ金太わりとましなビルね
まぁ 金太 ましなビル 金太ましなビル
キンタマ シナビル
中にはいると誰もいない
伝言板にただひとこと書いてある
神田さんから金太君へのことづけで
「 金太 待つ 神田 」と書いてある
金太 待つ 神田 金太待つ神田
キンタマ ツカンダ
御存じ 金太の大冒険
これから先はどうなるか
またの機会をごひいきに
それでは皆さんさようなら
┏━━━━━━━━━━┓
┃ ♪金太の大冒険♪ ┃つボイノリオ の シングル
┗━━━━━━━━━━┛
┌─――――――――――――┐
|1980(昭和55)年 8月25日(月)| 初リリース
|1987(昭和62)年12月24日(木)|『Merry X'mas Show』の中でコメントアリ㊦↓
|1996(平成八)年 1月17日(水)| 再リリース カラオケ'96VERSION付
└─――――――――――――┘ 備考・・・1987年12月24日に日本テレビ系で放映された『Merry X'mas Show』の中で、名曲「TAKE FIVE」のシモネタ版が流れた後、司会の明石家さんまが桑田佳祐や出演者一同に向かって「昔なんという歌手か忘れましたけど『金太負けるな』という歌がありましたけど」と言って笑いをとった場面があった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%A4%AA%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%86%92%E9%99%BA
┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 『特命リサーチ200X-Ⅱ』 ┃日本テレビ系列
┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 19:58~20:54
FAR EAST RESEARCH Co. Internet Selection/Established 1997
┌─―――――─―――――――――――――――――――――┐
|F.E.R.C Research Database 2002(平成14)年11月24日(日)報告|
└─――――――――――─――――――――――――――――┘
奇跡の生還 解明ファイル No.001「天井が吹き飛んだ旅客機を救出せよ!」
報告者:柏木 康一郎
●1988年4月28日。ハワイ諸島上空で飛行中のアロハ航空243便の天井が吹き飛ぶという大事故が発生した。通常ならば間違いなく墜落してしまう前代未聞の大事故。それにもかかわらず、乗員乗客ほぼ全員が、奇跡的に無事地上に降り立ったのだ。一体なぜ彼らは助かることができたのか?実は、そこには冷静に機体を操縦し続けた機長の数々の英断があったのだ。我々は、様々な証言や記録、独自の調査を元にこの「奇跡の生還」の徹底検証を行なった。
午後0時55分、アロハ航空243便は乗客の搭乗を開始した。ハワイ島ヒロ空港からオアフ島ホノルル空港まで、およそ50分間の短い空の旅。この日の乗客は89名、乗員は6名だった。午後1時25分、243便は、ホノルルへ向けて定刻どおり飛び立った。離陸して20分後の午後1時45分。243便は高度7300メートルに到達し、水平飛行に移った。 そして、運命の時。午後1時45分45秒。突然、機内天井に穴が開き始めた。そしてそこから、操縦席の後方、ファーストクラスの天井が、一気にめくれて吹き飛んでしまったのだ。機内からは一気に空気が抜け、機外に様々なものが吸い出されていき、飲み物のサービスをしていた客室乗務員の1人も、空中へと吹き飛ばされてしまったのだ。天井が大破した客室はパニック状態に陥った。243便は急きょ、一番近いマウイ島カフルイ空港に着陸することにしたのである。
航空自衛隊航空医学実験隊の大橋幸一郎氏によると、事故が発生した高度7300メートルは、人体にとって非常に過酷な環境だという。
具体的には
? 低酸素・・・酸素濃度は、地上に比べて約40%。脳へ送られる酸素が不足して、成人の場合3?4分で意識が混濁してしまう。その状態が長時間に及ぶと脳細胞がダメージを受け、深刻な障害を残してしまう可能性もあるという。
? 低気圧・・・この高度での気圧は、約0.388気圧。事故発生までの機内の気圧は約0.9気圧。事故で機内の気圧が一瞬の内に3分の1に下がったため、体内の空気が一気に鼓膜を圧迫し、耳が聞こえなくなった乗客も現れた。
? 低気温・・・この高度での気温は約?20℃。それに加え、事故当時243便は、時速750キロで飛行していた。そのような強風をまともに受けると体感温度は一瞬にして?40℃以下に下がってしまう。多くの乗客たちが顔や腕など露出した部分にひどい凍傷を引き起こしていた。この状態が続けば、低体温症を引き起こして心停止に至る可能性もあるという。
では、この時機長は一体どういう行動をとればいいのだろうか?
元全日空機長で航空評論家の前根明氏によると、機長は、機内の気圧が下がった場合、人体に安全とされる高度である3000メートルまで短時間で急降下するように指示されているという。しかし243便はこの時、天井大破によって機体の強度は極端に低下していたのだ。そのため元全日空機長・石橋明氏によれば、マニュアル通りの急激な降下率とスピードで急降下した場合、操縦不能に陥った可能性が高いという。そこで、機長は、『乗客にとって安全な高度まで急降下する』、『機体の分解を防ぐため急降下しない』という選択を迫られたのである。
元航空自衛隊パイロット・岩崎貴弘氏によれば、空軍パイロットは機体が耐えられる限界速度を実際の飛行訓練によって体験しているという。そこで、元空軍パイロットだった機長は、自分の空軍時代の経験をもとに機体の破壊を防ぎ、かつできる限りの短時間で降下するためのギリギリの降下率を経験を元に割り出したのである。そして無事、酸素濃度の濃い、高度3000メートルまで降下することに成功したのだ。
機内では客室乗務員はじめ、乗客の協力で新たな被害者を出すことなく飛行が続いていた。しかし、さらなるトラブルが243便を襲った。2つあるエンジンのうち、左側のエンジンが停止してしまったのだ。天井の破損によりただでさえ操縦困難であったが、左エンジンの停止によって機体のバランスを取ることがより困難になってしまったのである。 機体が破損してから10分近くが経過した頃、ついに緊急着陸を目指すマウイ島の島影が見えてきた。しかし、機長に新たな問題が襲い掛かった。 航空機の操縦で最も難しく、また事故が多いのが着陸時である。そのため、航空パイロットは着陸の際、滑走路への進入角度や、接地位置が悪くて一回で着陸できなかった場合に備え、再上昇して着陸をやり直すことまで考えなければならない。特に243便は安全な着陸態勢をとれず、一回で着陸できる可能性が低いため、機長は着陸をやり直す準備が必要であると考えていた。しかし243便は、片方のエンジンが止まってしまったため、もう一回上昇して着陸をやり直すだけのパワーを得ることが出来ないのだ。
そこで機長は再上昇できるように、停止したエンジンの代わりに速いスピードを保ったまま着陸を試みたのである。当然、速い速度での着陸は操縦も難しく、最悪の場合オーバーランして滑走路をはみ出し、大事故に発展する危険性もありうる。 その上、コックピットではさらなるトラブルが発生した。副操縦士は着陸のため、車輪を下ろすレバーを押したが前輪が降りたことを示す表示ランプが点灯しなかったのだ。車輪なしでの着陸は胴体着陸となり、大惨事に繋がることもある。243便は、『着陸速度が速い』、『前輪が出ない』という危機的状況で高度を下げ着陸態勢に入った。 幸い実際には前輪は降りていた。表示ランプが故障していただけだったのだ。そして、いよいよ着陸。なんとかオーバーランすることなく無事に機体は停止したのである。
事故発生からわずか13分間の出来事だったが、乗客たちにとっては数時間にも感じられたという。突如襲い掛かった困難に対する機長の的確な判断と乗員、乗客の協力によって、この奇跡の生還がなされたのだ。事故の調査を行なったNTSB・国家輸送安全局によると外壁に無数の亀裂が確認され、事前のメンテナンスの不備が指摘された。 奇跡。それは臨機応変な判断と、それを実行する勇気で、もたらされるものなのだ。
************************************************************
http://web.archive.org/web/20090418031447/http://www.ntv.co.jp/FERC
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%91%BD%E3%83%AA%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%81200X
https://www.youtube.com/playlist?list=PL_-f9xY02hovQpgxp6z2uuOvB_HbOTJKv
************************************************************
オバマ大統領、あきれた慰安婦発言 テキサス親父「勉強不足だ」
2014(平成26)年 4月28日(月)16時56分『夕刊フジ』配信
オバマ米大統領があきれた妄言を炸裂させた。韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領との共同記者会見で、慰安婦問題について「甚だしい人権侵害だ。衝撃を受けた」と語ったのだ。韓国・珍島(チンド)沖の旅客船「セウォル号」沈没事故を受け、支持率が急落している朴氏が起死回生を狙って訴えた「慰安婦=性奴隷」「強制連行」というウソにだまされたのか。「北朝鮮が核実験で挑発し、中国が軍備増強を進めているときに、米韓の大統領が語る話題とは思えない。オバマ氏は勉強不足。自国の公文書に『慰安婦は強制されていない』『戦時高級売春婦だった』とあるのを知らないのか」こう語るのは、夕刊フジ主催の講演会などのために緊急来日している「テキサス親父」こと、米評論家のトニー・マラーノ氏だ。確かに、オバマ氏の発言は突出していた。25日(金)の米韓首脳会談後、オバマ氏は朴氏と臨んだ共同記者会見で、元慰安婦らが日本政府による法的責任の認定や賠償を求めていることについて「(女性らの)主張は聞くに値し、尊重されるべきだ」と発言。さらに、日本に対して「過去を正直かつ公正に認識しなければならない」と強調し、日韓双方に「未来を見ることが日本と韓国の人々の利益だ」と前向きな対応を促した。米大統領が公式の場で慰安婦問題に触れ、人権問題だと非難したのは初めてとみられる。同席した朴氏は、元慰安婦らが高齢となっていることなどを指摘。日本に対して「誠意のある実践が必要だ」と述べ、早急な対応を促した。セウォル号沈没事故で、救助や捜索活動のもたつきや、政府高官の不祥事が続出して朴政権への失望が拡大するなか、朴氏にとっては想定外の「成果」となった。これに対し、日本政府高官は25日(金)夜、オバマ氏の発言について「韓国側に言わされているのではないか」と述べた。加藤勝信官房副長官も同日夜、BSフジの番組で、政治問題化を避けるべきだとする認識を示した。訪日時、米大統領として「沖縄県・尖閣諸島は日米安全保障条約が適用される」と初めて公言し、安倍晋三首相ら日本側を喜ばせたオバマ氏だが、慰安婦問題では日本の“譲歩”を求めた形となった。だが、これはおかしい。マラーノ氏が指摘した米公文書とは、太平洋戦争中の1944年、米軍が慰安婦から聞き取り調査した報告書で、ワシントンの国立公文書館にきちんと保管されている。ここには、《慰安婦は強制されたものではなく雇用されていた》《接客を断る権利を認められていた》《女性たちは大金を持って楽しんでいた》《洋服や化粧品など好きな物を買うことができた》《日本兵とスポーツやピクニック、宴会などをしていた》などと記されており、韓国が世界中で吹聴している「慰安婦=性奴隷」「強制連行された」といった主張がウソだと分かるのだ。■そもそも、日本と日本人を貶めている慰安婦問題は、元軍人の吉田清治氏が1983年に出版したフィクション本「私の戦争犯罪」と、朝日新聞が91年8月に掲載した「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」という事実誤認の記事で広まり、調査のずさんさが指摘されている93年の「河野洋平官房長官談話」で定着した■。拓殖大学の藤岡信勝客員教授は「オバマ氏は無知だ。きっと、慰安婦についてまともに調べたことがないのだろう」といい、こう続けた。この背景には、米国が第二次世界大戦を『ファシズムvs反ファシズムの戦い』と位置付け、当時の日本をファシズム国家として、自国を正当化させていることがある。日本国内にも『慰安婦問題はおかしい』『河野談話はおかしい』という意識が浸透してきたが、米国は東京裁判史観=日本悪玉論の変更を許さないという意識があるのではないか。日本としては米公文書などを示して、歴史的事実を証明していくしかない」前出のマラーノ氏は「目の前に危機が迫っているのに、70年も前のことに執着するのは異常だ。ただ、2国の良識的リーダー(オバマ氏と安倍首相)が、1国の非常識なリーダー(朴氏)と対峙しなければならない構図も考えるべき。オバマ氏は、朴氏が言ってほしいことを言ったが、『過去は過去にしまって、前に進め』と、日米韓の関係を壊さないように促している。実は、考え抜いた外交なのかもしれない」と語っている。
売春容疑で捕まった妻 夫への奇妙な「気遣い」〈週刊朝日〉
2014(平成26)年 4月28日(月)16時9分『dot.』配信
2014(平成26)年 5月 2日(金)『週刊朝日』号
多くの裁判を傍聴し、著書に「裁判長!死刑に決めてもいいすか」などがある北尾トロ氏は、売春容疑で捕まった妻の奇妙な「気遣い」を目にしたという。
* * *
被告席に若い女が座っている。まだ三十路にも達していないだろう。都内の路上で声をかけ、売春しようとした容疑だ。女は十分若くて美しい。法廷での受け答えもしっかりしている。高望みしなければ、働き口はいくらでもあるだろう。ということは、何か事情があるのだ。近頃の女性は気軽にAVに出たり、性風俗店で働くことに抵抗がなくなったと言われるが、法廷に出てくるその種の女性たちを見ていると、そんなのはごく一部の話だというのがわかってくる。多額の借金に追われているから、親への反抗心からぬかるみにはまって、母子家庭でフルタイムの仕事に就けず夜の仕事を選んだ、働かない夫に強制されて仕方なく……。好きでやっていたから捕まっても後悔してない、などと言う被告は見たことがない。この被告も、目的は金だった。夫はリストラされて無職。収入がないので、生活の破たんを防ぐために仕方なく夜の街に立っていた。夫にはナイショで売春していたらしい。稼ぐにはなんたって売春。これが若い女性の常識なのか。手段は良くなかったけど、被告は被告なりに内助の功を発揮しようとした。そういうことか。うーん、何かが引っ掛かる。なぜだろうと考えて、路上で男に声をかけるプロっぽい行為が不自然なのだと気がついた。性風俗店でいいではないか。そのほうが気楽だし、収入面でも安定する。店を選べば、空いた時間だけ稼働することだって可能だと思う。どうもこの事件、変だぞ。審理が進むにつれてわかってきたのは、被告と夫の奇妙な関係だった。夫は被告より10歳年上の中堅サラリーマン。酒やギャンブルもやらず仕事熱心なところに被告は惹かれ、親の反対を押し切って4年前に結婚した。まだ子供はいないが、夫婦仲は良いほうだ。夫には古風なところがあって、妻が働くことを望まず、専業主婦でいてくれと言われていたそうだ。近いうちに子供を作ろうと考えていたのだと思われる。ところが2年ほど前、予定が狂う。夫が勤め先をリストラされてしまったのだ。事情が変わったのだから、妻がパートにでも出ればいい。が、それができなかったところに事件の伏線があるのだ。リストラされたことを夫が隠したのである。「夫は家で仕事の話をしない人ですが、元気がないし、帰宅時間が早いことからおかしいと気がつきました。でも、なんとなく、リストラされたのとは言いだせませんでした。少しは貯金もありましたし、そのうち新しい仕事が見つかるだろうと考えていました」行くあてもないのに愛妻弁当を持って出かけていく夫。何も知らないふりをして見送る妻。仕事は見つからず、奇妙な生活が長引いていく。一円も振り込まれない給料について話題になることもなく、表面上は何一つ変わらない暮らしが継続されていく。この期間、夫は短期のバイトをしていたようだが、家に金を入れるほどの収入にはならなかった。ここからが妙だ。貯金が底をついたとき、妻はこう思いつめるのだ。定職に就くのはリストラを知っていることになり夫を傷つける。専業主婦の立場のまま、そこそこの収入がほしい。銀行振り込みは証拠が残るからダメ。そうねぇ、売春なんてどうかしら。スケベそうな堅気男を探して1回3万円。月に数人程度なら生活費の足しにしても目立たないのでは。おいおい、どうしてそうなる。聞いていて不思議だが、被告はそのように決め、半年ほど前から、おもにネットを使って相手を探すようになった。捕まったときは待ち合わせの場所に相手が現れず、スケベそうな男を選んで声をかけたらしい。それが運悪く警察官。被告はプロだからではなくアマチュア丸出しだったから、路上で客を捕まえようとして最悪の相手を誘ってしまったのだった。うまくやっているつもりだったが、夫は妻の変化にすぐ気づく。暇なので、外出する妻の後を追い、知らない男と会っているところも目撃した。でも、問い詰めることもせずにこう考える。リストラされたことを彼女は知っているが、知らないふりをしてくれている。たぶんフーゾクか何かの仕事だ。妻よありがとう。ボクもこの件は知らないことにするよ。ふたりとも相手に気を使い過ぎ。しかも、使う方向がおかしい。ごまかしと優しさは違うはずだ。かくして、夫は安定したサラリーマンを装う生活を続行。妻は幸せな専業主婦を演じ続ける。お互いに秘密があるため、あたりさわりのない話題を探すのに苦労したらしい。現状から目をそむけて、すべてをないことに。しかも、これはこれで成立するのだ。リストラされてるけど、夫がそれを言うまでは勤めていることにする。カラダ売ってるけど、妻がそれを言うまでは専業主婦だということにする。あうんの呼吸でそう決まり、妻が稼ぎすぎないように注意してもたらす金と、夫が借金してもたらす金で暮らしていた。「私の仕事さえ決まれば、すべて元に戻ると考えていました。妻をいまも愛しています。今回の件を責める気はありません」証言席で述べながら夫は泣いている。横で聞く妻の目にも涙があふれている。でも、ぼくにはそれも演技に見えてしょうがない。信じられない言葉が夫の口から飛び出したからだ。「仕事ですか? まだ決まっていません。職種や収入の面で希望と合致するものがなかなかなくて……」何も解決してないよ……。数カ月後、今度は夫の了解を得て、性風俗店で働く妻の姿を想像してしまった傍聴人は、ぼくだけではないはずだ。
【プロレス千夜一夜④/力道山との闘いで3億3千万円稼いだ”鉄人”ルー・テーズのプロレス哲学】
2011(平成23)年11月19日(土)
プロレスラーのファイトマネーは興行人気を始め、様々な要因に拠って高低があるが、最近の人気凋落振りを見ると悲惨さを感じぜざるを得ない。インディーの零細団体となればいくつものバイトを掛け持ちし、キャッシュの現金収入はなく、入場チケットが渡されるだけだという。その券を友人、知人、親族に売り捌いて始めてファイトマネーに変わるという「現代女工哀史」である。未来に夢も希望も持てない情けない現状を考えると、当然、有望な新人も入ってこないし、相撲、柔道、空手といった格闘技界からの大物たちにも無視され、スカウトする資金力もないのが現状だ。入団してくるのは学生プロレス崩れのハンパ者が大半である。大型化する他のスポーツ界と比べ、新人の身長が年々低くなっているのもプロレス界である。それだけ不人気、不作ということである。現役組も本音は引退したくても出来ずロートルになってもプロレスにしがみつくしか術がない高齢化時代の余波は不況プロレス界にも蔓延している。以前、69歳のマスカラスを俎上に挙げたが、それは日本人レスラーにも言えることである。晩年の力道山は38歳ですでに引退を考えていたという。無論、体力、気力の衰えを感じていたからである。プライドの高かった力道山だけに仮に突然の不慮の死が訪れなくても、引退し実業家の道を歩んでいたに違いない。今のロートル・プロレスラーには何とも耳の痛い話だ。こうしたプロレス凋落の負のスパイラル地獄に陥り悪循環の連鎖が続いている。だがプロレス黄金期はケタ違い、プロスポーツ界の花形であった。ミスター・プロレスと称されたルー・テーズがNWA世界チャンピオン時代のファイトマネーを覗いて見よう。力道山vsルー・テーズのNWA世界タイトルマッチが初めて行われたのは●1957(昭和32)年10月7日(月)(東京・後楽園球場)と●1957(昭和32)年10月13(日)日(大阪・扇町プール特設リング)であった。入場料は3500円、観客数は東京は3万人、大阪は2万2千人、2万7千人、3万人と新聞各社で発表が違っていた。この時テーズが手にしたファイトマネーはタイトルマッチ2試合で2万5千ドル(900万円)であった。ちなみに現在の貨幣価値に換算すると(昭和32年度大卒国家公務員給与9200円。平成19年度大卒2腫同172200円で≒18.7倍の数式に当てはめると)≒8415万円(=1試合450万円)という数字になる。馬場、猪木の全盛時においてもタイトルマッチ1試合で8415万円を手にしたことはない。まさにプロレス黄金時代の話である。試合内容を見てみよう。決して物見遊山ではなかったがテーズはNWA世界チャンピオンベルトを持参しては来なかった。NWA幹部が未知なる異国での万が一の不測の事態を考えベルト帯同を反対したと伝えられている。ということは同時に花相撲で負ける気、つまり2試合のタイトルマッチ契約を取り交わした時点で、第一戦では日本の英雄に花を持たせタイトル移動、第二戦で奪還…。三日天下とは言え日本のホームグランドで世界チャンピオンの座に就かせてもらえるのではないかという淡い期待を力道山は内心抱いていたわけであったが、先述した通りベルトを日本に持参してこないことから、それはただの一方的な願望にすぎないことを思い知らされたのであった。テーズはルールに関しても1本ずつを取り合い決勝の3本目にスパートするという緊張感が薄れる闘いを拒否し、ワン・フォール・マッチ(61分1本勝負=1分の休憩タイム)を要求してきた。このことは日本のリングで日本の英雄である力道山に1本(フォール)の花を持たすことすらも拒否してきたという厳しいものであった。それを知り、力道山はエキサイト。隙あらばセメントで仕掛けるストロング・レスで挑んでいった。一進一退の結果、時間切れのドローに終わった。しかし実際は正味59分20秒の時ゴングが鳴らされて終了。テーズのハンマーロックに決められた力道山の身の危険を感じたタイムキーパーが気を利かせたつもりで鳴らしてしまったのが真相であった。この試合でいきり立つ力道山の猛攻を躱しながらフルタイム稼働の体力消耗のしんどさを味わったテーズは、第2戦大阪ではオーソドックスなスリー・フォール・マッチ(3本勝負)で行うことを了承した。この大阪第二戦では1本目がバックドロップでテーズ、2本目は空手の猛攻撃で力道山。決勝の3本目エアープレーン・スピンに出たテーズがマットを5回回った時に力道山がロープを握り二人とも場外へ。無情にもゴングが鳴り響きは両者リングアウトでテーズの防衛という内容であった。テーズはその他にドサ回りの地方巡業(福岡、広島、神戸、名古屋、仙台、沖縄2試合)にも特別参加した(別項で掲載)。そのファイトマネーも2万5千ドル(900万円)で合計5万ドル邦貨で1800万円(同じく現在の貨幣価値に換算すると3億3千660万円)というビッグマネーを手中に収めたことになる。当時の日本は外貨規制が敷かれており、これだけのドルを調達するのは後援社であった毎日新聞社の枠だけでは賄えず、闇ドルに手を出したのではないかと噂もされていたようだ。テーズは試合オフの時はフレッダー夫人同伴で京都や他の観光(沖縄観光も含む)付きの贅沢で最高級の厚遇饗応を受けた。この日本遠征でプロレス・マーケットとしての市場性と力道山の手腕を高く評価したテーズと同行していたアル・カルシックNWA会長代理は日本にタイトル使用、管理の権限を約束したとされる(ベルトを持参しなかった負い目もあったという)。それが翌年の●1958(昭和33)年8月27日(水)ロサンゼルスで獲得したインターナショナルのタイトルであった。元々このタイトルのベルトは存在してなく(象徴だった)現物は日本で力道山が大枚を叩いて自腹で東京台東区のカップ製造業者に依頼し70万円で作成した。このインターナショナル選手権は実際は30分1本勝負で力道山が勝利したというのが真相のようである。グレート東郷の政治力、力道山の財力でインターナショナルというタイトルを誕生させた話は別項で述べたいが、とにかくグレート東郷に拠るとこのインターの権利金は力道山1代限りの貸与という条件で2万5千ドル説(900万円)とも5万ドル説とも言われている。当時の交渉人・グレート東郷が絡むと東郷の着服金がいくらか? 成功報酬込みなのか不透明でおまけにドンブリ勘定。実際の正規の金額も不透明で裏金を積んだ金額が提示され、力道山との駆け引きの材料となり、いくつかの説(金額)が生じたようである。ちなみに後に馬場が復活インターナショナルのチャンピオンの座に就いた時に支払った権利金、保証金は5万ドルだったと言われている。ルー・テーズのプロレス人生に大きな影響を与えたのはこの日本遠征であったのは間違いない。力道山死後も日本のプロレス界と密接に関わり日プロ、国際プロ、新日プロ、全日プロ、UWFと関係を持ちレスラーも馬場、猪木、大木、木村といったトップクラスやその猪木の弟子に当たる高田延彦の売り出しにも一役買い、その生涯の稼ぎは億単位であったと言われている。一方では「守銭奴」グレート東郷と組んで日本プロレス界を牛耳ろうと画策したこともあり、日本マット界でのテーズの威光の大きさは測り知れないものがあった。●2002(平成14)年4月28日(日)、心臓疾患により86歳で死去。テーズが晩年に語った日本人レスラーで強かったベスト3は第①位力道山、第②位猪木、第③位大木で、馬場の名は口に出すことはなかった。●1952(昭和27)年2月17日(日)、ハワイでの海外初試合のギャラは10ドルであったと言われる力道山もその生涯で手にしたファイトマネーは一説では20億円だったと言われている。黄金期全盛の当時、プロレスは「打ち出の小槌」であった。
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/shintaro001/article/18