清らかな心と体
2021-09-02(木) 06:50:08 テーマ:ブログ
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安倍総理はアベマリア♪を英語で歌ってもOK♂♀ですヨ(=^◇^=)
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削除動画◆https://youtu.be/uAfEtkNjWHg
2010(平成22)年12月12日(日)
福山雅治 魂リク「Midnight Blue Train」弾き語り
オールナイトニッポン サタデースペシャル”魂のラジオ”
福山雅治 荘口彰久 2015.03.14 23:30~25:00
福山雅治「レコーディング日に偶然、浜田省吾と」(アルバム『魂リク』の『Midnight Blue Train』https://youtu.be/Te_Fe8kpoS4
スタンダードになった珠玉のアイドル・ポップス「まちぶせ」の初代歌唱者といえば…本日は三木聖子の誕生日
2015年12月12日 執筆者:馬飼野元宏
1956年の今日、12月12日は、三木聖子の誕生日。アイドル・ポップス史に残る珠玉の名作「まちぶせ」の初代歌唱者である。
三木聖子の歌う姿を最初に観たのが何の番組かは忘れたが、ポニーテールの可愛らしい女の子が、マイクを両手で持って歌う姿に、新人らしいフレッシュさの中に翳りを感じ取ったことを覚えている。それ以前に、彼女は数本のドラマに顔を見せていたが、そのうちの1本が、沢田研二が三億円事件の犯人を演じたTBS『悪魔のようなあいつ』で、沢田の脚の悪い妹役だった。
1976年6月25日のデビュー曲「まちぶせ」は作詞・作曲が荒井由実、編曲は松任谷正隆。この時期、ユーミンはバンバンに提供した「『いちご白書』をもう一度」と自身の「あの日にかえりたい」の大ヒットで、一大ブームを起こしていた。三木聖子が所属する渡辺プロダクションとユーミンの接点は、75年8月のアグネス・チャン「白いくつ下は似合わない」の楽曲提供が最初。とはいえ、まだニュー・ミュージックのアーティストに、新人歌手のデビュー曲を任せるのは冒険だったであろう。
「まちぶせ」はフランソワーズ・アルディの「さよならをおしえて」をヒントにしており、スタッカートを強調したメロディ、一見循環コードのように聴こえるオールディーズ風の味付けがなされている。サビの「好きだったのよあなた」の声がかすれ気味だが、そこがかえって切なさと切実さを強調している。ユーミンが三木聖子に聞いた実体験を歌詞に織り込んだ詞は、この時代にしては積極的な女の子像で、従来の歌謡曲にないリアルなものであった。
B面の「少しだけ片想い」はユーミン前年のアルバム『コバルト・アワー』に収録された、こちらもオールディーズ調の曲。シンガー・ソングライターの持ち曲がそのままアイドルに流用されるケースは極めて珍しかった。実際、74年のアルバム『ミスリム』収録の「魔法の鏡」も、76年にアイドル女優・早乙女愛がシングル発売しており、当時22歳だったユーミンの描く10代少女の主体的な感情や自意識は、アイドル・ポップスに直結可能だったのである。
三木聖子が所属していたNAVは、キャニオン・レコードの系列で、所属歌手のほとんどがアイドルという異色のレコード会社であった。楽曲制作にも歌謡界のヒットメーカーを重視せず、気鋭のニュー・ミュージック系ライターを積極的に起用していた。「まちぶせ」のバックは鈴木茂、林立夫、後藤次利らで、唯一のアルバム『聖子』にもティン・パン・アレー系列のメンバーが多数参加している。「まちぶせ」はそんないくつもの出会いが生んだ、新しい時代のアイドル・ポップスであった。
最後に三木聖子を観たのは、77年の春。レギュラー出演していたTBS『ぎんざNOW!』のエンディングで、3作目のシングル「三枚の写真」を歌っていた。松本隆の作詞、大野克夫作曲のスロー・バラード。ポニーテールの髪を下ろし、寂しげに歌う姿が印象深かったが、程なくして彼女が結婚・引退したことを知る。三木聖子は3枚のシングルと1枚のアルバムを残してこの世界から去っていった。
「まちぶせ」に再びスポットを当てたのは、甲斐バンドのベーシストからキャニオン・レコードのディレクターに転身した長岡和弘。彼が抱える渡辺プロのアイドル、石川ひとみの新曲にこの曲を選んだ。当時、美人で歌唱力も高いが3年間ヒットのなかった石川ひとみは、この曲で歌手生活の区切りになっても悔いはないという思いがあったという。現役アイドルがカヴァー曲を歌う例は珍しかったが、松任谷正隆も原曲と同じ演奏メンバーで、前回で納得いかない部分を修正してのリアレンジを施した。石川版の「まちぶせ」は81年4月21日に発売され、オリコン・チャート6位まで上昇する大ヒットとなり、デビュー4年目にして彼女の代表曲となった。
96年には遂に、作者自身が荒井由実名義で歌った。この年のユーミンは夏に独身時代のナンバーを歌うプロジェクトがあり、これに先駆け「まちぶせ」がシングル発売されたのである。レゲエ風にアレンジされ、40代のユーミンがアイドル顔負けの振り付けで歌う姿はパロディにも思えたが、「まちぶせ」に描かれた少女の心理が、女性にとって年齢を重ねても変わらぬ永遠の感情であることを証明したともいえる。珠玉のアイドル・ポップスがスタンダードになった瞬間でもあった。
http://music-calendar.jp/2015121201
〝今〟という現実にむきあいながら〝明日〟の見えない若者の心情をそのままに反映したアルバムだった・・・はっぴいえんどのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』制作秘話
2015(平成27)年08月05日(水) 執筆者:小倉エージ
1970(昭和45)年08月05日(水)、はっぴいえんどのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』が発表された。林静一が手がけたアルバム・カバーに描かれた製麺所の看板にちなんで後に「ゆでめん」と称されることになる。70年の4月以来、岡林信康の『見る前に跳べ』への参加をきっかけに岡林のライブでバックを務める一方、独自の活動を始めていたはっぴいえんどは、アルバム発表直後の
1970(昭和45)年08月09日(日)、岐阜県の糀の湖で開催された第2回全日本フォーク・ジャンボリーに出演し、岡林信康のバックを務めると同時に彼ら自身の演奏を披露した。「朝」を幕開けに♪12月の雨の日♪、「春よ来い」など「ゆでめん」からの主要曲に加え、遠藤賢司の「雨上がりの街」を演奏したが、
‡♪12月の雨の日♪の冒頭で大滝詠一が「暑くてやりにくいんですけど」と触れているように、収録された作品の大半が〝冬〟を背景にした作品が収録された「ゆでめん」の記念すべきお披露目のステージにしてはいささか不似合なものだった。前後して「ゆでめん」からの作品はラジオで放送されはじめたが、やはり暑い夏の真っ盛りだっただけにそれもまたいささか不似合なものだった。おまけに〝(音が)ひきずるように重い音!〟、〝歌詞が聞き取りにくい〟といった声も耳にするなど、当初「ゆでめん」の評判は芳しくはなかった。音楽誌での評価も様々だったが、岡林信康との共演や独自のライヴ活動、加えてURC初期の作品がそうだったように東京の最新情報を伝える各地の放送局の番組などを通じてはっぴいえんどと「ゆでめん」の評価は高まり、翌年のニューミュージック・マガジン(現ミュージック・マガジン)の4月号で日本のロック部門の1位に選出された。〝日本語のロック論争〟の発端のひとつになったものだが、それでもはっぴいえんどの存在は日本のフォーク、ロックを知るファン層に限られていた。日本のロック史、日本のポピューラ・ミュージック史における重要な存在としてその業績、影響などが一般に知られるようになったのは、「ゆでめん」の発表から10年以上を経てのことだった。私が細野晴臣に出会ったのは新宿の花園神社近くにあった「パニック」にエイプリル・フールの一員として出演していた時のことだった。初めての出会いにも関わらず、好んだ音楽が似通っていたことを知り、話が弾んだ。その際、エイプリル・フールの解散と新しいバンドの結成の話を教えられた。それは「バッファロー・スプリングフィールドやモビー・グレイプみたいなバンド!」というものだった。アート音楽出版に勤務しURCの制作を担当し、どうしてもロック・バンドのアルバムを制作したかった私にとってはそれこそ望んでいたものだった。細野晴臣のその言葉、好きなグループやアルバム、作品についての会話から得た細野晴臣への信頼こそが、すべてのはじまりだった。そして無謀にも細野晴臣が結成するバンドの作品や演奏を聞かないまま、レコーディングの話を進めた。そのメンバーは細野晴臣と同じくエイプリル・フールの一員だった松本隆。当初、ヴォーカルでの参加を予定されながらロック・ミュージカル『ヘアー』への出演が決まった小坂忠にとって代わって参加することになった大滝詠一。「ゆでめん」の録音が終了するまで進学かそれともプロのミュージシャンになるか決めかねていた鈴木茂。URCの制作を担当していた私は、当然、4人の経歴、音楽的な背景や結成の経緯を知っておくべきだったはずだが、それを怠っていた。それを知ったのは「ゆでめん」を制作して後、音楽誌に掲載された彼らのインタビューでのことだ。それよりも彼らが目指す音作りや音楽性について確認し、具現化することにしか関心がなかった。細野晴臣だけでなく松本隆、大滝詠一と拠り所にしたグループのアルバム、作品についての入念な会話を交わすことが重要であり、それ以外は必要もなかったからだ。はじめて彼らの作品、演奏を耳にしたのはレコーディングの実現の為に必要なデモ・テープを制作した時のことだ。大滝詠一によれば彼らの演奏を耳にしながら私は終始うつむいたままで、バッファロー・スプリングフィールドの「ブルバード」のコピー演奏を耳にして初めて反応したということだが、「ブルーバード」の演奏を耳にして演奏の技量を確認し、録音が可能なことを確信した。録音にあたって日本語のオリジナルであることを必須の条件とした私にとって、彼らの作品はそれを満たすものだったが、明らかに習作の段階であり、実際、「春よ来い」がほぼ完成していた以外、
‡♪12月の雨の日♪は「雨上がり」の段階であり、「足跡」が「田舎のコーヒー屋にて」を経て録音時に「かくれんぼ」となったように、リハーサルを重ねるうちに作品の歌詞、メロディーは修正が施され、タイトルが改められていった。
1970(昭和45)年03月18日(水)、麻布のアオイ・スタジオで初めてのレコーディングが実施された。URCは制作予算の関係から録音は使用料の安価な夜半を中心とし、ハウス・エンジニアの起用が基本方針だったが、はっぴいえんどの初回の録音ではメンバーの要望から吉田美奈子の兄で、当時は東芝EMIで様々な録音を担当していて吉田保があたった。もっとも、その日の録音は芳しくなく、キャンセルせざるを得なかった。最初の録音がキャンセルとなって後、
1970(昭和45)年04月09日(木)から新たに録音にとりかかった。その様子については「定本はっぴいえんど」を始め、メンバーが様々に語ってきているが、いくらか誤認もあり、それを訂正すべくレコード・コレクターズ誌2015年1月号の「特集はっぴいえんど」での拙稿「「ゆでめん」が出来るまで」で記してきた。彼らが目指した音作り、録音への取り組みについて触れたものだ。音作りもさることながら、作品そのもの、歌唱や演奏を見逃すことが出来ない。〝お正月〟〝こたつ〟〝お雑煮〟〝歌留多〟といった日本の正月の光景を描いた意表をついた歌詞が衝撃的だった「春よ来い」。家を飛び出てひとり暮らす若者の姿は、即座に永島慎二の「漫画家残酷物語」を思い浮かべずにはいられない。それが掲載された劇画誌の「ガロ」こそは60年代末期、何かを求める若者にとって欠かせないもののひとつだった。さらに「12月の雨の日」は、そこに描かれた雨の日の情景が所在のない若者の心情が浮かび上がる。松本隆は「はっぴいえんどにはほとんどラヴ・ソングが無い。でも、ラヴ・ソングの少なさにもかかわらず、はっぴいえんどが普遍的に皆に支持されてるって言うのは、画期的だと思う。あれだけラヴ・ソングが少ないバンドって、かつてなかったと思うし、これからも出てこないと思う」と語る。その例外としてあげられる「かくれんぼ」は男女間の心情の隔たりを描いたもので、当時、ほとんどないシチュエーションだった。そればかりか、その背景に垣間見られる雪景色から、つげ義春的な世界が思い浮かぶ。例外的なもうひとつのラヴ・ソング「朝」では男女間の在り様、恋人の存在を観察する男の心情の描写が興味深い。いずれも大滝詠一が曲を書き、ヴォーカルを担当した。ロック・ヴォーカルにとって不可欠とされたシャウトにとって代わる〝唸り〟の表現、一方で滑らかなクルーナー・スタイルでの取り組みなど、大滝の歌唱はすでに独自性を明らかにしている。自身が作詞、作曲を手がけた「いらいら」でもパワフルな唸りを聞かせている。作曲に対する姿勢、考えはまだ曖昧ななままで、それ以上に〝自分の声〟を見つけ出せなかったという細野晴臣だが、松本隆による都会の冬の雪の情景を描いた「しんしんしん」、〝音〟と意味の重なる語呂合わせに凝った「あやかしのどうぶつえん」や前衛詩的な「敵 タナトスを想起せよ」など、松本隆の歌詞に即したメロディーを手がけ、自身が作詞、作曲を手がけた「飛べない空」では批評性をのぞかせている。さらに〝しあわせなんて どう終わるかじゃない、どう始めるかだぜ、しあわせなんて何を持ってるかじゃない、何を欲しがるかだぜ〟という松本隆が手がけた歌詞が印象深い「はっぴいえんど」の作品としての説得力と重厚さは白眉というにふさわしい。鈴木茂はまだ作詞、作曲を手掛けるにいたらなかったが、
‡♪12月の雨の日♪の鮮烈なリード・ギターを始め、歌を生かし、反映したギター演奏で大きな役割を担っていた。さらに細野晴臣のベースやキーボード、松本隆のキック・ドラム、また16ビートのニュアンスを生かしたトップ・キット・ワークなど、演奏面での充実も見逃せない。2トラックからはじまり、楽器、歌、コーラスのダビング作業の多さから4トラックに移行し、それも4トラックの録音機は一台しかなく2、4トラックの録音機材を駆使しながら録音作業を進めたが、その手法は手探りだった。楽器の分離などの明瞭さにはかける音の塊、ひきずるような重さのものになったが、それが結果として重厚さ、ガッツのある〝音〟を生み出すことになった。「ゆでめん」は、〝今〟という現実にむきあいながら〝明日〟の見えない若者の心情をそのままに反映したアルバムだった。自分探しのアルバムでもあった。さらにその背景には60年代末と言う時代の空気が見え隠れする。他に比較できるものがない画期的なアルバムだった。発表から45年を経た今、懐かしさを覚える人は少なくないはずだ。発表当時もさることながら後年になったその真価が問われ、評価が一層高まることになったのは、作品自体が持つ普遍性によるのは明らかだ。今なお魅力のつきないアルバムである。
http://music-calendar.jp/2015080501
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┃2017(平成二十九)年アルバム年間TOP50┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛集計会社 オリコン
‡2016(平成28)年12月12日(月)から
2017(平成29)年12月10日(月)まで集計
①位 安室奈美恵『Finally』
②位 SMAP『SMAP 25 YEARS』
③位 嵐『「untitled」』
④位 AKB48『サムネイル』
⑤位 back number『アンコール』
⑥位 三代目J Soul Brothers from EXILE TRIBE『THE JSB WORLD』
⑦位 乃木坂46『生まれてから初めて見た夢』
⑧位 関ジャニ∞『ジャム』
⑨位 欅坂46『真っ白なものは汚したくなる』
⑩位 Hey! Say! JUMP『Hey! Say! JUMP 2007-2017 I/O』
11位 ONE OK ROCK『Ambitions』
12位 ゆず『YUZU 20th Anniversary ALL TIME BEST ALBUM ゆずイロハ 1997-2017』
13位 桑田佳祐『がらくた』
14位 スピッツ『CYCLE HIT 1991-2017 Spitz Complete Single Collection -30th Anniversary BOX-』
15位 TWICE『#TWICE』
16位 Kis-My-Ft2『MUSIC COLOSSEUM』
17位 米津玄師『 BOOTLEG』
18位 B'z『DINOSAUR』
19位 NMB48『難波愛~今、思うこと~』
20位 Hi-STANDARD『THE GIFT』
21位 KinKi Kids『The BEST』
22位 V6『The ONES』
23位 Suchmos『THE KIDS』
24位 Kinki Kids『Ballad Selection』
25位 GReeeeN『ALL SINGLeeeeS ~& New Beginning~』
26位 東方神起『FINE COLLECTION ~Begin Again~』
27位 NEWS『NEVERLAND』
28位 AAA『WAY OF GLORY』
29位 E-girls『E.G. CRAZY』
30位 GENERATIONS from EXILE TRIBE『涙を流せないピエロは太陽も月もない空を見上げた』
31位 SKE48『革命の丘』
32位 BIGBANG『MADE』
33位 DREAMS COME TRUE『THE DREAM QUEST』
34位 宇多田ヒカル『Fantome』
35位 Various Artists『ラブとポップ ~好きだった人を思い出す歌がある~ mixed by DJ和』
36位 ブルーノ・マーズ『24K・マジック』
37位 西野カナ『LOVE it』
38位 UVERworld『TYCOON』
39位 秦基博『All Time Best ハタモトヒロ』
40位 エド・シーラン『÷』
41位 Various Artists『ラ・ラ・ランド オリジナル・サウンドトラック』
42位 Superfly『Superfly 10th Anniversary Greatest Hits “LOVE, PEACE & FIRE”』
43位 A3ders!『MANKAI☆開花宣言』
44位 まふまふ『明日色ワールドエンド』
45位 THE YELLOW MONKEY『THE YELLOW MONKEY IS HERE. NEW BEST』
46位 堂本光一『KOICHI DOMOTO 「Endless SHOCK」 Original Sound Track 2』
47位 INABA / SALAS『CHUBBY GROOVE』
48位 BTS (防弾少年団)『LOVE YOURSELF 承‘Her’』
49位 Various Artists『ワイルド・スピード アイスブレイク サウンドトラック』
50位 EXILE THE SECOND『BORN TO BE WILD』
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https://ja.wikipedia.org/wiki/2017%E5%B9%B4%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD
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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃週間トップ第⑩位以内であった曲が全て、一つ残らず翌週に第⑩位圏外へ去った歌┃
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2011(平成23)年12月05日(月)付
2011(平成23)年12月12日(月)付 ※翌週はトップ10全てが初登場曲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%88#.E3.83.A9.E3.83.B3.E3.82.AD.E3.83.B3.E3.82.B0.E8.A8.98.E9.8C.B2
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┃ オリコン[週間]集計期間一覧 ┃
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●ランキング日付 週数 集計開始日 集計終了日
1977/12/12(月) 1 1977/11/28(月) 1977/12/04(日)
1983/12/12(月) 1 1983/11/28(月) 1983/12/04(日)
1988/12/12(月) 1 1988/11/28(月) 1988/12/04(日)
1994/12/12(月) 1 1994/11/28(月) 1994/12/04(日)
2005/12/12(月) 1 2005/11/28(月) 2005/12/04(日)
2011/12/12(月) 1 2011/11/28(月) 2011/12/04(日)
ランキング日付 週数 ●集計開始日 集計終了日
1977/12/26(月) 1 1977/12/12(月) 1977/12/18(日)
1983/12/26(月) 1 1983/12/12(月) 1983/12/18(日)
1988/12/26(月) 1 1988/12/12(月) 1988/12/18(日)
1994/12/26(月) 1 1994/12/12(月) 1994/12/18(日)
2005/12/26(月) 1 2005/12/12(月) 2005/12/18(日)
2011/12/26(月) 1 2011/12/12(月) 2011/12/18(日)
ランキング日付 週数 集計開始日 ●集計終了日
1971/12/20(月) 1 1971/12/06(月) 1971/12/12(日)
1976/12/20(月) 1 1976/12/06(月) 1976/12/12(日)
1982/12/20(月) 1 1982/12/06(月) 1982/12/12(日)
1993/12/20(月) 1 1993/12/06(月) 1993/12/12(日)
1999/12/20(月) 1 1999/12/06(月) 1999/12/12(日)
2004/12/20(月) 1 2004/12/06(月) 2004/12/12(日)
2010/12/20(月) 1 2010/12/06(月) 2010/12/12(日)
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┃ オリコン[年間]集計期間一覧 ┃1988(昭和63)年の[年間]はないヨ(=^◇^=)
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛1989(平成元)年の[年間]はないヨ(=^◇^=)
ランキング年度 ●集計開始日 集計終了日
2012(平成24)年 2011/12/12(月) 2012/12/09(日)
ランキング年度 集計開始日 ●集計終了日
2010(平成22)年 2009/12/14(月) 2010/12/12(日)
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1977年12月12日、中島みゆき「わかれうた」が初のオリコンチャート1位を獲得
2016年12月12日 執筆者:小貫信昭
本日12月12日は、中島みゆきの「わかれうた」がオリコンチャートの1位を取った日である。彼女にとって、初のナンバ-ワン・ヒットとなった。
この歌はいきなり、道に倒れて誰かの名前を呼び続けるというような経験をしたことがあるか…、みたいな問い掛けから始まる。しかしこちらに考える暇(いとま)を与えず、黄昏というのはお人好しなわけじゃないんだよ、などと、スタスタ次なる見解へと移っていく。
その際、イントロから鳴り響いているのは♪ブンチャッ ブッチャッという、戦前の日本の流行歌でいうなら「天然の美」とか、そうしたものを連想させるノスタルジックな雰囲気のリズムである(ただしあれは♪ブンチャッチャ ブンチャッチャの三拍子で、こちらは二拍子である。連想するものを広げるなら、ここで響くギタ-の音色も手伝って、ファドで演奏されるポルトガル・ギタ-のテンポの早い曲、みたいな雰囲気に聞こえなくもない)。
実は私は、かつて『月刊カドカワ』という雑誌で彼女のバイオグラフィ・インタビュ-をさせてもらった時、この曲に関しても本人に伺っている。その時の記事の該当箇所は、中島みゆきの膨大なデ-タが整理され、誰にでも見ることが出来る「中島みゆき研究所」というサイトにも紹介されていたので引用する。この曲のナンバ-ワン・ヒットによる、中島みゆきには“失恋ソングの女王”的な称号が与えられのことにもなるが、そのあたりに関する発言でもある。
ひとつのイメージが出来たでしょうね。"わかれうた"→"わかれ"→"つまりそういう歌をうたう人"っていう。もちろん、このヒットで私にひとつの看板が出来たわけですけどね。
1991年11月号の記事である。発言中の“→”は勝手に僕が執筆時にアレンジしたものだが、彼女が“ひとつの看板”という、比較的ポジティヴな表現をしているのは注目だ。その後、多くの別の“看板”も掛け替えつつ、数多くの名曲を世に生み出し、現在に至るわけである。
その「中島みゆき研究所」のこの曲の解説のなかに、とても興味深い記述があった。さらに引用させて頂く。「もともとこの曲は、コンサートのリハーサル用に作ったもので、自身のライブでは、なかなか真面目に唄うことが少ない」。さてこれ、どういう意味なんだろ?
まず、“コンサ-トのリハ-サル用”にわざわざオリジナル曲を作ることなどあるのだろうか? でも推測するに、リハの時、バンドの連中と息を合わせるため、コ-ド進行も初見ならぬ“初耳”でミュ-ジシャン達が乗っかってこれるような、そういうのをシャレでやってみた、ということではなかろうか。そしたら実に楽しくその場が♪ブッチャブンチャと盛り上がり、記憶に残るものになった、みたいな…。
その時、中島みゆきの意識のなかには、“さぁ、新たな作品へ向かうのよ!”みたいな力みは当然なく、無意識であったがゆえに、幼い頃から何となく親しんできた日本の流行歌といったものを無防備に正面から取り入れることにもなったのかもしれない。いや、取り入れる、という意識すらなく、どこか懐かしい流行歌の“名調子”を、気付けば体現していたということだろう。
さっき引用したなかの、「自身のライブでは、なかなか真面目に唄うことが少ない」というのは、そんな意識から生まれたものゆえに作品に対して取られてきたスタンスなのだと思われる。そういえば『夜会』の三作目である『KAN-TAN(邯鄲)』のステ-ジでは、実際に道に倒れながらちょっとコミカルな雰囲気で「わかれうた」を歌唱するシ-ンがあったっけ…。
まあこういうふうに書いてると、シャレで適当に作ったものが代表曲になった、みたいに受取られてしまうかもしれないが、これはあくまで“曲作りにおけるリラックス効果”みたいなことに関する推論であり、もちろん「わかれうた」が大名曲であることに変わりはない。
特に、多くの人々が指摘するのは、歌詞のあの部分だ。“憂い”を身につけた “あなた”が、名を上げる場所が国土地理院の地図にも記載のない“うかれまちあたり”であるあたりの詩情というか詞情というか、いやはや中島みゆきは天才やなぁ~、と、そう呟いてしまうのだ。
ちなみに「わかれうた」とは、この歌の主人公が歌のなかで口ずさむ歌のことであり、その時、彼女は別れの悲しみを抱えている。もしアメリカのポップ・ソングで使われる言葉にするならトーチソング(torch song)ということかもしれない。
さらに蛇足だが、我々はこの歌の主人公を哀れだとかって思う必要はない。なぜなら“彼女”は“わかれ”がクセになるほど出会いも多いのだ。けっこうモテてる。だから哀れだとか思う必要は一切な~~い! そうですよね、みゆきさん?
≪著者略歴≫小貫信昭(おぬき・のぶあき):1957年東京生まれ。1980年、『ミュージック・マガジン』を皮切りに音楽について文章を書き始め、音楽評論家として30年のキャリアを持つ。アーティスト関連書籍に小田和正、槇原敬之、Mr.Children、森高千里などのものがあり、また、J-POP歌詞を分析した「歌のなかの言葉の魔法」、自らピアノに挑戦した『45歳、ピアノ・レッスン!-実践レポート僕の「ワルツ・フォー・デビイ」が弾けるまで』などを発表。
http://music-calendar.jp/2016121201