帝銀事件・周辺住民たちから消えない影
2006(平成18)年09月25日(月)
今回は、戦後最悪の毒殺事件とも言われる帝銀事件の現場を歩いた。帝銀事件が起こったのは
‡1948(昭和23)年01月26日(月)、当時の帝国銀行(後の第一勧業銀行→みずほ銀行)椎名町支店に、3時の閉店後、ひとりの男が訪れた。東京都衛生課の職員と名乗るその男は「近くで集団赤痢が発生した」と伝え、「GHQが支給した予防薬」と偽って劇薬の青酸化合物を行員全員に飲ませた。16人の行員のうち12人が次々に死亡、かろうじて4人が生き残った。犯人は現金16万円などを奪って逃げた。同年8月にテンペラ画家・平沢貞通が犯人として逮捕され、55年(昭和30)に死刑が確定する。しかし、生存者の証言の食い違いや捜査の曖昧さなどから事実確認に問題があるとして、死刑確定後も繰り返し再審請求が行なわれた。結局、死刑は執行されないまま39年もの獄中生活を送った末、87年(昭和62)医療刑務所で平沢は死亡しているが、真相については諸説紛々、未だに謎とさている特異な事件といえる。12人が殺害された旧帝国銀行椎名町支店があった場所に向かった。西部池袋線・椎名町。池袋から1つ目の駅。人通りが多く、にぎやかな雰囲気の北口からその場所は歩いて約2分。駅のすぐ近くなのだ。
『ドキュメント 帝銀事件』(和多田進)によれば、椎名町支店は「木造平屋建ての質屋を改造した」ものだったという。現在の銀行の建物とはちょっとばかりギャップがある。何せ、戦後間もないころの話なのだ。現場は現在、マンションになっていた。濃い茶色の外観。外装の整った感じから、まだ新しい建物のように見られる。管理している不動産屋にきくと、入居が始まったのは平成16年2月だという。まだマンションができて2年と8ヶ月ということか。一人暮らしにはちょっと贅沢な1K、8万円台。帝銀事件を知ってるかと近所のあるおばさん(50代くらい)にたずねると、当たり前じゃない、という顔をされた。現場から50メートル足らずの距離の住人だ。
「まだ私が生まれる前のこと(事件)だけどね。ずっとここに住んでるから、ここらへんの人たちにちょくちょく聞いたりして。あそこの土地は、けっこういろいろ商売が変わったりしてるけど、長続きしないみたい。今はマンションができたけど、近所に住んでる者からすれば、住みたくないよ」。マンションが立つ前は不動産屋だった。その前は「飲み屋だか料亭だか」といった感じの店だったという。現場から小道ひとつはさんだところには、長崎神社がある。大きな神社というわけではないが、静かで趣がある。江戸時代は既に創建されていた神社で、この地域の鎮守として信仰を集めたとのこと(神社の立て札より)。かつて椎名町支店だった場所に立っていると、たまに鐘を鳴らすガラガラガラという音が聞えてくる。その音は神経質なものでもない。神社の木々があるせいか、金属音の角が取れて、いい具合に耳に届く。車通りも少ない。周囲の環境もいいし、事件を知らないマンションの住人にとってはかなりいい住環境と言えると思う。しかし、住人の全員が事件を知らないわけではなかった。やはり現場からほど近い場所にある不動産屋さん(男性・50代くらい)は、マンションの住人と「ちょっとした知り合い」なのだという。
「(知り合いは)事件のことについては知ってるよ。有名な事件だしね。このあたりで知らない人はいないでしょ。でもまあ、今さらっていうこともあるし、構わず住んでるみたいだけど。」マンションが立つ前は不動産屋だったと先に書いたが、不動産屋つながりでその経営者とも話をすることもあった。
「その不動産屋ができたのは、う~ん…、20年くらい前だったのかな…。やっぱり、お祓いはしてもらったみたいよ、ほら、そこの長崎神社で」。やはり、事件から何十年が経過したとはいえ、「縁起が悪い」気はしたはずだし、その気持ちは分かる、と男性は言う。
「人が10人以上も死んでるからねぇ。でも、いつまでもそんなこと言っててもしょうがないとも思うよ。実際、下の世代は縁起が悪いともそんなに言わなくなってるみたいだし、まあ、それでいいんじゃないの?」それでも、その男性に「あのマンション、すごくいい条件だったら住んでみたいですか?」とたずねると、「う~ん……」と少し真剣に考え込んで、「まあ、まあ……」とどっちつかずの回答を示すのだった。容疑者・平沢が39年もの長期間にわたって刑務所に入れられ、事件が実質的に白黒はっきりしていないまま現在に至るせいか、古い事件に関わらず現場周辺ではどこかまだ“過去の出来事”にはなりきれていない事件の認識のされ方を垣間見ることになった。何人かの話を聞かせてもらった年配の人、その人たちの顔に浮かんだ表情がそれを物語ってる気がする。(宮崎)
http://gekkankiroku.cocolog-nifty.com/edit/2006/09/post_4933.html
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コロナワクチンと帝銀事件!!!
2021(令和三)年03月24日(水) 12:22:49 1948年(昭和23年)、帝銀事件が起こった。帝国銀行椎名町支店に東京都防疫班の腕章を付けた男が突如現れる。「近くの家で集団赤痢が発生した。GHQが行内を消毒する前に予防薬を飲んで頂きたい!」と、行員にこう言い放った。防疫班を名乗る男は、「感染者の一人がここに来ている」とし、実際に自分もその予防薬を飲んでみせて、行員の不安を取り除いた。防疫班を名乗る男は、行員全員に飲ますことができるように「遅効性」の毒物を使用し、A液とB液の2回に分けて巧妙に騙くらかしたのです。上は厚生労働省のホームページからの抜粋です。そして、 予防薬を2回に分けて飲んだ行員12名は死亡したのでした。防疫班を名乗る男は、実は強盗であって現金16万円と小切手を盗んで逃走したのであります。(現在の貨幣では100倍相当)帝銀事件の生存者の証言によると、「男が自ら予防薬を飲んだので信用した」と証言しているのです。これが帝銀事件というものです。また、上はファイザー製コロナワクチンの添付文書です。重要な部分を拡大致します。
「劇薬」と実際に記載されております。しかも、目立たないようにコッソリと書かれています。なぜ?日本国政府は、至って健康な私達に「劇薬」を射たせたがるのでしょうか?なぜ?生後のBCGワクチンは1回接種であるにも関わらず、コロナワクチンはワザワザ2回接種にしているのでしょうか?それは、A液とB液に分けて、2回目のワクチン接種で確実に死に至るようにセッティングされているからではないでしょうか?ということで、次の動画をご覧下さい。先行して医療従事者がコロナワクチンを接種しているが、本当は何人が死亡しているのだろうか?
https://ameblo.jp/jam512412/entry-12664266809.html
BRULEE(ブリュレ)チョコレート
2019(平成31)年04月23日(火) 発売日
本物の焼き目にこだわったブリュレアイスです。アイスの表面をオハヨー乳業独自の製法(特許出願中)で加熱し、ブリュレの特長であるパリパリとした食感、香ばしくほろ苦い焼き目を再現しました。香ばしい焼き目の下には、カカオマスと赤ワインを使用した濃厚なチョコアイス。ほろ苦い焼き目がアイスのおいしさを引き立て、最後まで飽きずにお召し上がりいただけます。こんがりとキャラメリゼした焼き目は、これまでのアイスにはない、パリパリとした食感。砂糖を独自にブレンドして実現しました。
アルコール分:0.2%未満
https://www.ohayo-milk.co.jp/ice/15011.html
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人気爆発の濃厚焼アイス「BRULEE(ブリュレ)」、第2弾は“チョコレート”/オハヨー乳業
‡2019(平成31)年01月26日(土)
オハヨー乳業「BRULEE(ブリュレ) チョコレート」オハヨー乳業は、本物の焼き目にこだわったブリュレアイス「BRULEE(ブリュレ)」から、第2弾「BRULEE チョコレート」を4月22日に全国へ投入する。第1弾の「BRULEE」は2017年4月に発売し、売れ行き絶好調で約2週間で販売を一時休止。供給体制を整えエリアを限定しながら段階的に販売再開し、2018年8月、全国で再開を果たした。
〈関連記事〉絶好調で休止のアイス「BRULEE(ブリュレ)」、1年4カ月ぶり全国で販売再開/オハヨー乳業=https://www.ssnp.co.jp/news/milk/2018/07/2018-0718-1329-14.html
同商品最大の特徴は、「アイスを焼く」という新発想の製法による、これまでにない、表面のパリパリとした食感、香ばしくほろ苦い焼き目。商品開発の着想から実現まで約6年かけ、焼き目の技術、パリパリ食感の長時間維持にこだわっており、確かな美味しさで消費者(特に女性)の心をつかんだ。SNSでの口コミ効果もあって、カップアイスで実勢売価が税別298円(希望小売価格はオープンプライス)の高価格帯ながらも、一気に大人ターゲットのプレミアムアイスの仲間入りを実現した。昨年クリスマス時期には期間限定品を試み、今回は定番品の第2弾として「チョコレート」を投入、BRULEEのファン拡大とともに、トライアル購入を獲得し、2品体制で大きな商材へ育て上げる考え。「チョコレート」はキャラメリゼの食感、香ばしい焼きチョコの風味、フルーティーな酸味のカカオマスと赤ワインを使用したこだわりのチョコアイスで、パリパリとした食感でほどよい苦味のある焼き目との絶妙な組み合わせが特徴となっている。種類別はアイスクリーム、104ml。
https://www.ssnp.co.jp/news/milk/2019/01/2019-0125-1626-14.html
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┃ 國體護持編 ┃
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本編連載の國體護持編は、
‡2005(平成17)年01月XX日(X)より連載が始まりました。
2006(平成18)年11月07日(火)分を短編掲載最終分とし、
2008(平成20)年08月26日(火)には國體護持編の集大成として「國體護持」が完成し、ネットにて公開されました。当サイトでまもなく公開します「國體護持總論」は、昨年ネット公開された國體護持の改訂版となります。
國體護持は、http://aishitemasu.com/ にてご覧いただけます。
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┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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2019(平成31)年01月26日(土) テニスの大坂なおみ選手が全豪オープンを初制覇 ⇒ テニス女子の大坂なおみ選手が全豪オープンで初優勝。男女を通じて日本勢初制覇となった前年夏の全米オープンから四大大会に連勝し、アジア勢初の世界ランキング1位に就いた。【AFP時事】※2020(令和二)年記事追加
1956(昭和31)年01月26日(木) イタリアのコルティナダンペッツォで冬季五輪開幕 ⇒ 第7回の冬季五輪がイタリアのコルティナダンペッツォで開かれ、アルペン男子でトニー・ザイラー(オーストリア)が滑降、大回転、回転の3冠を達成した。回転では猪谷千春選手がザイラーに次ぐ2位となり、日本人選手として冬季大会初のメダルを獲得した。写真は華麗な滑りを見せるザイラー【AFP時事】※2021(令和三)年記事削除
1948(昭和23)年01月26日(月) 帝国銀行椎名町支店で12人が毒殺される帝銀事件が発生
1992(平成四)年01月26日(日) 大相撲で貴花田(後の貴乃花)関が史上最年少で優勝
https://www.jiji.com/jc/daily
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┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=榎本郁也
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‡2007(平成19)年01月26日(金) V奪還に向け巨人が宮崎で合同自主トレ
‡2018(平成30)年01月26日(金) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は1月26日だ。
写真◆自主トレとは思えぬ緊張感があった
2017年、4位に終わった巨人。Bクラスは2期目の原辰徳監督1年目の06年以来となる。
ただ、何となくダラダラしている(?)いまの巨人とは違い、あの年はチーム全体に危機感があった。その表れが、2007年1月26日、33選手が集まってスタートした史上初の宮崎での合同自主トレだ。前年も合同自主トレは行ったが、場所はジャイアンツ球場。今回は宮崎とあって全員が宿舎も同じ。寝食をともにすることでより一体感が深まる。
自主トレには小笠原道大ら新加入選手も参加。小笠原は「キャンプ前にチームメートと会えてよかった」と笑顔を見せた。練習内容は、とにかくハードで朝10時からスタートし、一番遅い選手は宿舎に戻るのが18時近くになった。
「宮崎に来ると、気分的に違います」
とは現監督で当時の選手会長・高橋由伸。この年、巨人は優勝、以後リーグ3連覇を達成した。もちろん、小笠原ら移籍選手の力も大きかったが、高橋由、阿部慎之助ら生え抜きもしっかり存在感を示した時代だ。
果たして、2018年の巨人はどうなるのか。(初出原稿で07年Vが阪神を大逆転、とあったのは08年の間違いです。お詫びし、訂正します)。
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http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180126-13
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┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.616 ┃ 70円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1970(昭和45)年01月26日(月)号 中日・江藤慎一の任意引退と荒川堯暴行事件
2019(令和元)年12月23日(月) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎愛犬と散歩中に襲われた荒川
写真◆表紙は左から近鉄・三原脩監督、太田幸司、あまり見えないけど佐伯勇オーナー
今回は『1970年1月26日号』。定価は70円。
「はっきり言います。江藤は来季の私の構想に入っていません」
1969年12月25日の午後、中日・水原茂監督がきっぱり言い切った。
実は、この日の朝、中日の球団の総務が、すでに任意引退を発表していた(あくまで球団側がだが)江藤慎一の事務所を訪れ(副業で自動車会社をしていた)、任意引退の書類に押印を求めた。
対して江藤は、
「私は今忙しい。それに直接、水原監督から、いらんとは聞いていない。いますぐハンコは押せない」
と突っぱねた。ならばと新外国人獲得のために海外に行き、23日、夜に帰国していた水原の会見となったわけだ。
水原はシーズン中から監督、コーチ批判を公言し、我が道を行く江藤を放出し、チームの引き締めをしたいと思っていた。
本来であれば、トレードで10勝程度の投手を獲得したかったのだが、江藤が「中日を出るときは引退のとき」と強行に主張したため、任意引退とした。
ドラフトで早大の谷沢健一、さらに今回の渡米でバビエリ(バビー)とミラー(ジョン・ミラー)を獲得したことで、「江藤の穴は埋められる」と思ったのだろう。
ナインやファンから猛反発もあるのではと言われたが、江藤に対し意外と冷ややかで、1月10日には名古屋市街で江藤の復帰を要求するデモがあるも、小規模なもので終わった。
1月5日にはドラフトで大洋に1位指名されるも拒否し、野球浪人を決意した早大の荒川堯が暴漢に襲われた。
この日の夜、愛犬を連れて散歩中にこん棒のようなもので頭と左腕を殴られた。荒川は、
「左の耳のうしろやられた。一発で頭がもうろうとし、抵抗できなかった」
と話している。この後、病院ではなく、吉田接骨師の治療を受け、後頭部打撲、左手甲打撲で全治2週間と診断された(写真では、なぜか右目のすぐ上にも治療の後がある。これからを考え、あえて公表しなかったのか)。荒川は「2人組だったが、顔は暗がりで見えなかった」と言っていた。
これまで荒川家には大洋ファンらしき男からの脅迫電話が何度かあり、警察でも荒川の大洋入り拒否をうらんだ計画的犯行ではないかとして捜査を始めた。
では、またあした。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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┃ プロ野球仰天伝説 No.034 ┃ ONLINE
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一本足打法と宮本武蔵の技を合体させた木俣達彦の“マサカリ打法”
‡2018(平成30)年1月26日(金) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
2種類あった“マサカリ打法”
木俣の“変則マサカリ打法”
マサカリ打法と言われた中日の捕手・木俣達彦のバッティング。実は、それは2種類あった。まず、いわゆる“基本マサカリ打法”だが、これはずっとあこがれていた巨人・王貞治の連続写真を裏焼きし(木俣は右打ち、王は左打ち)研究したものだ。
高いグリップから打ち下ろすスイングと、失礼ながら木俣の金太郎似(マサカリ担いだ♪)の風貌からマサカリ打法の名前がついた。ただ長打力はアップしたが、外に逃げる変化球にタイミングが合わない欠点があった。
1973(昭和48)年には打撃不振に苦しみ、毎晩のように200スイング程度を繰り返し、フォームも研究した。そのなかで「疲れてハーッと息を吐いたとき、偶然グリップが下がったらしっくりきた」と振り返る。
さらに剣豪・宮本武蔵の本にも書いてあった呼吸法を参考に試しているうちに、息を吸って構え、2度、短く吐いて振るとスムーズにバットが出ることが分かった。これがいわば“変則マサカリ打法”(写真)で、長打力は落ちたが、広角に弾き返せるようになる。
1974(昭和49)年には王と首位打者争いもし、初の3割をマークした(.322)。つまり「王さんの一本足と宮本武蔵の呼吸法の合作が、僕の打法になったんです」(木俣)。
木俣達彦(きまた・たつひこ)
1944(昭和19)年7月7日(金)生まれ。愛知県出身。中京商高から進んだ中京大を中退して
1964(昭和39)年に中日へ。2年目の
1965(昭和40)年に正捕手の座をつかむと、強打の捕手としてチームに貢献し続けた。ベストナイン5回。アイデアマンでサプリに詳しく、医学博士の異名も取った。
1982(昭和57)年限りで現役引退。通算成績2142試合、1876安打、285本塁打、872打点、20盗塁、打率.277
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http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180126-11
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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