学生時代、食べる物に困っていた時に触れた人の優しさ
学生時代に下宿して一人暮らしをしていた頃、学生の傍ら俳優の養成学校にも通っていた。生活はそれなりに充実していたし学校も楽しかった、でもとにかくお金がなかった…養成所の月謝や飲み代、遊びやらでお金を使い果たした翌月に残った食費は1ヶ月で1万円。。。一日の食費が300円…とにかく切り詰めた。安いお米を買って炊いた、今まで自炊した事のなかった僕が炊いた。一パックで5袋入っている298円のインスタントラーメンを買って炊いた、今まで自炊した事のなかった僕が炊いた。それでもお腹がすいた、それで思いついた、パン屋さんの事を。(この前、テレビか何かでパン屋でパンの耳はタダで貰えるみたいな事言ってたな~)こうなったら居ても立ってもいられない。僕は下宿先のアパートに停めているマウンテンバイクに飛び乗り駅前のパン屋に自転車を走らせた。それ程距離はないのですぐにパン屋さんに着くと何食わぬ顔で店内に入った。大学に近いという事もあり学生が何人かいた、女の子もいる。(パンの耳欲しい言うなんて恥ずかしいな~)僕は若かった、うぶだった。辺りを見渡した、さもやパンでも数個買おうかという面持で。チョコチップメロンパンに、お!フランクフルトのパンもある!!おいしそうやな~♪という面持で。そうこうしているうちに辺りにいたお客さんたちはさっさと買い物を済ませて店内から出ていった、他に新しいお客さんが入ってくる様子もない。「今だ!」まるで人造人間20号のように心でつぶやき店員さんにパンの耳を貰うよう声をかけようとした。中腰になってなにやら作業しているその人はアルバイトと思われる妙齢の美しい女性でした。パンの耳が欲しい言うなんて恥ずかしいけどここで食い下がる訳にはいかない。僕は意を決してその女性に声をかけた。僕「あの…パンの耳って置いてありますか?あの、、その、、」その女性はしばらく、はて?という表情を浮かべていたが事情を察してくれたのか、その後すぐに笑顔で女性「ありますよ^^50円しますけどいいですか?」僕は二つ返事でいいですよ、と答えるとその女性は工房の中に入りパンの耳を袋に入れて準備しながら店主と思われる男性と何やら話している。あ~なんか馬鹿にされてるのかな、持ち前のネガティブ思考が止まらない、走り出した列車は止まらない。(あ~早く外に出たいよ~)しばらくするとその女性が出て来てどっさりパンの耳が入った袋を僕に渡してくれた。こんなに入ってるなんて!僕はその女性に感謝しつつ50円を笑顔で手渡した。それでも恥ずかしくて僕はすぐに立ち去ろうとするとその子が無表情でカウンターからすばやく出てきた。その子は辺りにあるチョコチップメロンパンやフランクフルトのパン、他にもおいしそうなパンを何個かすばやく袋に入れて僕に手渡した。え?僕は唖然としていると「いいから、いいからとっときな」という仕草をして店主にバレないよう気遣ってくれたのか店外に僕をすばやく導いた、お金を払っていない僕を。あれからもう10年以上経ちますが今でも忘れない、それは
12月のクリスマスシーズンに彼女もいない飯も食えないひもじい僕の心が温まった瞬間だった。
http://storys.jp/story/9102
年末年始のJR利用客大幅減 帰省や観光旅行の自粛広がる
2021(令和三)年01月09日(土) 12:20 掲載 地域 生活 政治・経済
新型コロナウイルスの感染拡大の影響で帰省や観光旅行の自粛が広がり、年末年始の交通機関の利用客は大幅に減少したことがわかりました。
JR西日本広島支社によりますと、去年
‡2020(令和二)年12月25日(金)から今月
2021(令和三)年1月5日(火)までの12日間に新幹線を利用した人は、広島~岡山間でおよそ48万1000人と前の年に比べ70%減少しました。下りのピークは先月
2020(令和二)年12月26日(土)の3万人、上りのピークは今月
2021(令和三)年1月3日(日)の3万5000人で、年末年始としては過去最低を記録しました。またこの期間中、近距離券の発売件数は、広島駅で11万2600件と前の年に比べ62%減少していて、年末年始の人出は例年と比べて大幅に減ったということです。
https://www.tss-tv.co.jp/tssnews/000008382.html
セックス拒否で妻殺害51歳男、裁判所に一蹴された「我慢の半生」
2014(平成26)年02月14日(金) 21時0分 産経新聞 配信
男が妻を殺害した事件で、男の勤務先で妻の遺体を捜索する大阪府警の捜査員ら=平成25年5月、大阪府東大阪市(写真:産経新聞)
夫婦の性生活に不満を抱えた男は、理不尽にも妻=当時(49)=の命を奪う凶行に及んだ。殺人と死体遺棄の罪に問われたトラック運転手の男(51)の裁判員裁判で、大阪地裁は昨年12月、懲役15年(求刑懲役20年)を言い渡した。いかに妻に束縛され、我慢を重ねる生活だったか…。男は性生活をめぐる“苦悩ぶり”を法廷で切々と語ったが、傍聴者にとっては耳を疑う内容ばかり。凶行に及んだ動機を「セックスの誘いを断られた」と真剣な表情で吐露したが、裁判長からは「殺害するほどの事情とはいえない」と一蹴された。
■「常に我慢」を決意
《平成25年5月17日夕方から翌18日未明にかけ、大阪府東大阪市内の自宅で、妻の首を両手で絞めて窒息死させ殺害。同日午前9時45分ごろまでの間に、遺体を勤務先の駐車場まで軽乗用車で運び、埋めた》
男は初公判で起訴内容を素直に認めると、被告人質問では、妻に振り回されたという生活の詳細を明らかにしていった。
離婚歴が1度ある男は平成12年ごろ、仕事の配送先で妻と知り合った。結婚前に同棲(どうせい)生活を始めると、妻の要求は徐々にエスカレート。トラックの長距離配送で関東や九州に行った際、妻から「寝られへん。はよ帰ってきて」との電話があり、疲労した体にムチ打って高速道路を飛ばして戻ったことも何度かあった。
妻の要求に文句も言わずに従う理由について、男は「バツイチで失敗したくなかった。妻と一緒になるには我慢するしかないと思った」と説明。同棲(どうせい)から約1年後の15年末に結婚したとき、男はこう決意した。「自分が我慢すればうまくいく。常に我慢することを心がけた」。
だが、この決意が男の心を徐々に締め付けていく。
結婚後は妻の意向でマンション(約3千万円)を購入し、犬を同時に5匹飼った。男は「妻は潔癖症で犬の毛が付くのを嫌がり、面倒は私が見ていた」と供述。リビングに犬のスペースを作り、男は犬の毛が付かないように下着姿で世話をさせられたという。「妻が決めたルールに従うしかなかった」と声を落とした。
■セックスが“日課”に
被告人質問の話題は夜の性生活にも及んだ。
弁護人「妻には女性特有の病気があったか」
男「妻は子宮筋腫で生理痛がひどいと言っていた。痛みの解消のためにセックスをしていたが、あれはセックスではない」
弁護人「どういうこと」
男「毎日セックスをするよう言われたが、私が射精することは許されない。私も年だから射精してしまうと途中で終わるし、毎日できないから」
弁護人「どんな気持ち」
男「気持ちいいわけがない」
男が一度断った際、妻は「なんで言うこと聞いてくれへんの」と激怒。毎日の“義務”はその後もしばらく続き、1年半ほどで終わった。男は「助かったと思った」と振り返った。
18年ごろ、マンションから一戸建てに引っ越した。そこでは「アダルトビデオを見た夜はエッチする」というルールができた。ビデオを見ていない夜の場合、男が誘っても妻はきっぱりと断った。
ほかにもルールがあった。男が下着を脱ぎ、いざ事に及ぼうとすると、潔癖症の妻から「手、洗ってへんやろ」と注意された。「萎えますよね」。男は証言席でうなだれた。
■破産、別居、再び同居
一方で家計は圧迫されていた。検察側の冒頭陳述や男の供述によると、妻の発案で買ったキャンピングカー2台(計約540万円)に加え、以前のマンションと一戸建て(購入金額計約7500万円)のローンも残っていた。男は妻に言われて土日もアルバイトに出たが窮状は好転せず、22年に自己破産するに至った。
自宅の売却も余儀なくされ、男は妻と別居することにした。だが一人暮らしを数カ月続けたころ、妻から食事の誘いのメールが届き、23年9月ごろから同居生活を再開。2人は事件現場となるマンションに引っ越した。
正月やゴールデンウイークは、妻がビデオ店で映画のDVDを10~20枚借り、鑑賞する日々が続いた。男は「勘弁してくれと思った。でも、けんかを避けたかったので口には出さなかった」と打ち明けた。
■切れた「糸」
そして事件当日の昨年5月17日も、男は妻と映画のDVDを見てから寝た。だが欲情して目が覚める。隣で寝ている妻を誘ったが、妻は「手も洗っていないし、(アダルト)ビデオも見てないやんか」と拒んだ。
この一言が引き金となった。「また、そんなこと言ってと思って…。今まで我慢していたけれど、このときは、ずっと張り詰めた糸が切れた」。法廷で声を震わせ、当時を振り返った。
男は妻の体に馬乗りになり、両手で数分間にわたり首を絞めた。妻の胸に耳をあて、ゴクンと息が止まる音を聞いた。自分のしたことが怖くなった男は犯行の隠蔽を図った。
翌18日未明に遺体に布団を巻き、破れないよう布団袋を二重にして梱包(こんぽう)。遺体を車で勤務先の駐車場に運び、目撃されないよう警戒しながら穴を掘って埋めた。
遺体の腐敗により遺棄現場が沈下し発覚するのを防ぐため、セメントをまいて固めた。さらに妻の勤務先に電話し、「鬱病で出社できない」と伝えた。
不審に思った勤務先の関係者が大阪府警に通報。男は任意の事情聴取を受けた後に逃亡して九州や四国を転々とし、5月28日に徳島県で身柄を確保された。
■「ばかだった」と謝罪
「妻は、これからしたいことがいっぱいあったと思う。その思いを一生忘れずに死ぬまで償いたい。遺族にはつらく悲しい思いをさせ、私はばかでした。すみませんでした」
妻の遺族も被害者参加制度を利用して出廷していた。男は遺族に謝罪し、泣き崩れた。
‡ 地裁は12月25日の判決公判で、男に懲役15年を言い渡した。
裁判長は判決理由で「強固な殺意に基づく悪質な犯行」と指弾。情状をめぐる被告側の訴えを「被害者との生活に不満を感じていたにせよ、殺害に及ぶほどの事情とは到底いえず、身勝手だ」と一蹴した。
男は「死ぬまで償う」との言葉を忘れなかったのか控訴せず、1審判決はそのまま確定した。
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┃ 織田幹雄 ┃
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日本人初のオリンピック(金)メダリストだヨ(=^◇^=)O♂
1905(明治38)年03月30日(木) 広島県安芸郡海田市町 ※現:海田町稲荷町
1928(昭和三)年07月28日(土) 走高跳 1m88で8位
1928(昭和三)年08月02日(木) 三段跳 予選15m21トップ記録で決勝 日本人初金メダル獲得
1945(昭和20)年12月09日(日) 織田の提案で東京大学競技場 競技会開催。陸上競技愛好家が全国から集い織田も走高跳に出場。同日、平沼亮三を会長として日本陸上競技連盟(JAAF)新組織発足、織田はJAAF強化担当ヘッドコーチに就任。つまりこの日が日本陸上界復活の日となったヨ(=^◇^=)
1998(平成十)年12月02日(水) 神奈川県鎌倉市 93歳没
†1998(平成十)年12月25日(金) 国立競技場で織田幹雄お別れ会
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https://ja.wikipedia.org/wiki/織田幹雄
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日本人初の金メダリスト 広島出身 織田幹雄の「超人力」に迫る
2020(令和二)年06月16日(火) 20:00 掲載 TSSテレビ新広島 地域 生活 スポーツ
7月から開催される予定だった東京オリンピックと共に大きな注目を浴びるはずだった施設が、海田町にオープンしました。日本初の金メダリスト織田幹雄さんの知られざる物語に迫ります。皆さんはご存じですか。日本初の金メダルリストを。想像を超えた「人間の力」を。そして、その金メダルが今、広島にあることを。100年近く前に行われたアムステルダム・オリンピック。この大舞台、三段跳びで優勝を果たし、日本初の金メダルを手にした人物がいます。織田幹雄。当時23歳。この男の情熱が日本のオリンピックの歴史を切り開いたのです。織田さんの故郷、海田町に先月、その功績を称える記念館が誕生しました。ここには織田さんのことがよく分かるちょっとした仕掛けがあります。
【織田幹雄記念館・小谷幸子館長】「織田幹雄さんが三段跳びで金メダルを取られたときの記録を体感していただこうということで足型があります」通路の端に左右並んだ足型が。これは一体?「これが最後15メートル21センチ、着地したときの足型でじつはもっと向こうのほうにホップステップジャンプと足型が続いているんですスタートがこちらになります」織田さんが三段跳びで記録した15メートル21センチ。その着地点を実際の距離で再現してあるんです。
【やりとり】「(すごい距離ですね)結構挑まれます(挑まれます?挑みましょうか?挑んでみましょうか)」
【前田記者が三段跳びに挑戦】「全然ダメ。織田さんの1歩にもなりません織田さんは3歩であそこまで跳んだということですもんね)」
【織田幹雄記念館・小谷幸子館長】「その距離を目で見ていただくことですごい記録だというのが体感していただける」窓ガラスにはこの記録をつくったときのシルエットを再現、織田さんがどのようにして跳んだのかがわかります。このほかにも…
【織田幹雄記念館・小谷幸子館長】「走高跳びの記録です。こちらが織田さんが高跳びを始めて初めて記録を残されたのが157センチ15歳で跳ばれたときは織田さんの身長は157センチなかったということですから初めて跳ばれて自分の身長よりも高いところを跳んだわけです」17歳の時には高跳びで日本新記録を達成。驚くのは、その跳び方です。
【織田幹雄記念館・小谷幸子館長】「今高跳びというと背面跳びとかそういうイメージがあると思うんですが織田さんの時代は挟み跳びで(挟み跳び)挟み跳びで跳ばれてますね」なんとバーを足で挟んで跳び越える「挟み跳び」で残した記録なんです。生涯では192センチの最高記録を残しています。織田さんは15歳で陸上競技と出会いオリンピックのことを知りました。
【織田幹雄記念館・小谷幸子館長】「オリンピックという言葉を初めて聞いて日本の代表になりたいオリンピックに出たいという気持ちが15歳のノートなんですけどとてもよく表れていると思います。今と違って陸上に対する情報もすごく少ないですから自分で情報を集めてみんなの記録を調べたりどういうふうにしたら跳べるかという創意工夫をずっと重ねていかれた方なので」1928年、織田さんはシベリア鉄道でオランダ・アムステルダムのオリンピック会場へと向かいました。今では考えられない1ヵ月の長旅。移動中もトレーニングは欠かしませんでした。
【織田さんの日記から】
1928(昭和三)年08月02日(木)「8月2日。最後の日だ」出場したほかの競技は予選落ち。最後の競技が三段跳びでした。ホップ、ステップ、ジャンプ。織田さんが見出した6・4・5の黄金比で15メートル21センチを記録。競技場に掲げられた大きな日の丸は急遽、用意されたもの。日本人の優勝が予想外であったことを物語っています。
【織田幹雄記念館・小谷幸子館長】「開館にあたって秩父宮記念スポーツ博物館からお借りしているもので実物の金メダルが今9月までご覧いただける銀の地に金でメッキをしてあったんですね当時は全部純金ではなくて部分的にですが少しまだ金の輝きがあったりします」この金メダルと当日、胸に着けていたマーク、陸上競技のプログラムは今回、期間限定で特別に展示されているものです。
※織田さんは世界40ヵ国以上でコーチを務め生涯をスポーツの発展に尽くしました。そこには織田さんが伝えようとしたものがあります。晩年、小田さんは、「僕は一つの楽しみだったどんなに苦しいことがあっても成績が上がるあるいは人に勝てる楽しいんですだからどんなことでもやれたわけですだから今も私はスポーツは楽しくなきゃいけないそうでなくて苦しいんだったらスポーツの意味はないと思っている」という言葉を残していました。
https://www.tss-tv.co.jp/tssnews/000006347.html
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┃ 織田幹雄さん ┃
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2017(平成29)年07月14日(金) 更新 掲載日
■織田幹雄さんの生涯
☆幼少期☆織田幹雄さんは、
1905(明治38)年03月30日(木)に広島県海田市町(現・安芸郡海田町)で生まれました。身体は小さくても丈夫で、成績は優秀でした。学校から帰れば、近所の子どもたちと野山をかけまわっていました。この遊びを通じて、運動神経や強いバネが養われたそうです。人前でおしゃべりをしたり、何かやることは苦手な恥ずかしがりやさんでした。織田さんは6人兄弟の3番目。家の手伝いは何でもやりました。井戸から水をくみ、風呂を焚く。他の手伝いも、工夫をこらしながら進めると、面白いようにはかどったそうです。
☆陸上競技との出会い☆鼓浦尋常高等小学校(現・海田小学校)に通っていた織田さんは、両親に経済的な負担をかけまいと、中学進学をあきらめかけていました。小学5年のとき、担任だった檜垣先生が父親を説得し、念願だった広島中(後の広島第一中学、現在の広島国泰寺高校)に進学します。中学1年のとき、あがり症の織田さんは、人前で跳躍がうまくできませんでした。体操の教官・宇佐美先生から1週間の補講を受けて練習を重ねたところ、クラスで一番高く跳べたそうです。織田さんは大いに褒められました。それからすっかり体が楽になり、人前でも平気で跳躍ができるようになったそうです。織田さんの才能に気づいていた宇佐美先生は、アントワープオリンピックから帰った野口源三郎選手の講習会への参加を勧めました。その講習会で、織田さんは、陸上にいろいろな種目があることを学んだそうです。それまでは「陸上競技という言葉も知らなかった」と振り返っています。講習会の中で行われた記録会(走高跳)で、身長155cmの織田さんは、157cmのバーを越えました。(記録については諸説あり)「小さいのによく跳ぶな。君は練習すればきっと日本の代表になれるぞ。」織田さんは、野口選手にこう声をかけられました。この一言が後の跳躍人生のきっかけとなりました。そのころ、サッカー部に所属していた織田さんは、新設された「徒歩部」へ入部します。織田さんは、サッカー部以外は許されていなかった全国大会への参加を校長先生に直訴します。「きっと優勝します」そう言った織田さんに校長先生は身銭を切って遠征を許可します。夏休みの40日間、校長と交わした「優勝」という約束を胸に、練習を1日も休まず続けました。結果は見事総合優勝。織田さんは、運命的な出会いを重ね、さらに工夫しながら努力を続けます。そして、1923年(大正12)年に第6回極東大会(アジア大会の前身)の日本代表に選ばれます。
☆初めてのオリンピック出場☆1924(大正13)年、跳躍種目ただ一人の日本代表として、第8回オリンピック・パリ大会へ出場します。パリまでの40日間の船旅では、甲板を走ったり、マットを敷いて跳躍したりして調整しました。現地では積極的に外国の選手と練習しました。大舞台でも、もうすっかりあがることもなく、結果は三段跳で日本陸上界として史上初の6位入賞。大会後、「記録と勝負は別物である。独特の雰囲気のオリンピックでは、自分の力を出し切れるかどうかが重要だ。次期オリンピックをめざし、記録を1m伸ばす目標を立てた」と振り返っています。ところが、厳しい練習による怪我をきっかけに、スランプに悩まされます。「もう織田は駄目かもしれない」と限界説もささやかれました。そこで織田さんは試行錯誤を続け、海外の選手のものまねではなく、「跳ぶ」ということの基本に立ち返ります。「いつどこに力を入れるのか。効果的な体勢は、踏み切りは。」毎日毎日ノートに書き留めました。記録を集約すると、3度のジャンプの比率が、6:4:5のときに距離が一番伸びることがわかりました。苦心の末、「織田さんのジャンプ」が完成します。
☆日本人初のオリンピック金メダル獲得☆迎えた
1928(昭和三)年08月02日(木)、第9回オリンピック・アムステルダム大会三段跳で、15m21cmの記録で優勝。織田さんは、日本人初のオリンピック金メダリストとなりました。国旗掲揚台のセンターポールには、手違いにより外国のものの4倍ほど大きな日本の国旗が掲げられました。織田さんは、「自分がそこまでやれたのはやはり努力だった。人は主体性をもった努力・工夫が大事だ。それは人それぞれなりにやればできる。」と振り返っています。郷里・海田では、母校、海田尋常高等小学校グラウンドで、歓迎会(祝勝会)が開催されました。「多くの人の力があったからこそオリンピックで優勝者にもなれた。」と、心の中が満たされる思いであったそうです。
☆戦後のスポーツ復興☆大学卒業後、大阪朝日新聞社に入社。世界一のスポーツ記者をめざしながら、三段跳でも15m58cmの世界記録を出します。その後、第10回オリンピック・ロサンゼルス大会の後に第一線を引退しました。戦後の日本にとって、オリンピック金メダリスト・織田幹雄の存在はとても大きなものでした。パリ大会で顔見知りとなったGHQの体育スポーツ監督官ニューフェルドから欧米のスポーツ視察を勧められ、各国を巡り、最新の理論を学ぶとともに、世界中の選手の指導にあたりました。織田さんの世界各国での貢献が第18回オリンピック・東京大会の開催につながりました。旧国立競技場のこけら落としとして開催された東京アジア競技大会では、最終聖火ランナーを務め、同競技場の第4コーナー付近には、織田さんが金メダルを獲得したときの記録15m21cmと同じ高さの、通称「織田ポール」が建てられました。東京オリンピックでは、陸上日本代表チームの総監督を務めました。数々の功績が認められ、1976(昭和51)年、IOC(国際オリンピック委員会)から「オリンピック功労賞」を授与されました。織田さんは、「競技力の向上」を追及する一方で、高齢者のスポーツ「マスターズ」の普及などにも尽力しました。「喜びのないスポーツ、楽しみのないスポーツは本当の意味でのスポーツではない」と、国民の誰もがスポーツを楽しむ社会の発展を願っていました。最後まで陸上競技の発展に尽力し、1998(平成10)年、神奈川県において93年の生涯を閉じました。
■織田幹雄さんの展示などをしています
☆海田町ふるさと館☆2階企画展示室3で、金メダル、スパイク、ディプロマ(オリンピックの賞状)などの競技にまつわる資料のレプリカ、小学生時代の賞状のレプリカ、幼少期から晩年までの写真などを展示しています。映像で織田幹雄さんについて学ぶこともできます。
☆海田総合公園☆多目的広場横の芝生地に「織田幹雄氏 顕彰モニュメント」を設置しています。三段跳びの「跳躍」の軌跡をイメージした、放物線状のモニュメントです。表面には織田さんが金メダルを獲得したときの跳躍のようすや、生涯の経歴を表示しています。また、モニュメントの隣には、織田さんが金メダルを獲得した時の記録「15m21cm」を表示した体感ゾーンを整備しています。芝生地ですので、実際に飛んで記録の偉大さを体感することができます。
☆織田ポール(海田町内)☆織田幹雄さんがアムステルダムオリンピック三段跳で金メダルを獲得したときの記録と同じ高さ(15m21cm)の掲揚ポールを設置しています。設置している場所は、海田小学校、海田東小学校、海田西小学校、海田総合公園野球場です。
■織田幹雄さんの特集をしました■広報かいた平成27年5月号から平成28年4月号において、織田幹雄さんの特集を掲載しました。
☆世界人と成るべし ~海田町名誉町民 織田幹雄氏をたどる~
第01回 父・織田幹雄を語る(前編) 長男 織田 正雄さん
第02回 父・織田幹雄を語る(後編) 長男 織田 正雄さん
第03回 父・幹雄 次男 織田 和雄さん
第04回 運命の出会い
第05回 「かいたのみっちゃん」から「世界の織田幹雄」へ
第06回 スポーツは、楽しいけれども、一方で勝つことは、記録を作る以上に難しい。
第07回 選手からコーチ、監督へ
第08回 戦後のスポーツ復興
第09回 選手を変えるコーチの言葉
第10回 楽しいスポーツ
第11回 今に伝わる織田幹雄さん
第12回 織田幹雄さんから学ぶこと
https://www.town.kaita.lg.jp/site/miryoku/17607.html
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織田幹雄スクエアについて
2020(令和二)年04月01日(水) 開館 ※更新:掲載日
☆織田幹雄スクエアについて☆織田幹雄スクエアは、海田町の社会教育の拠点である「海田公民館」と海田町出身で日本人として初めてオリンピックで金メダルを獲得した織田幹雄さんを顕彰する施設「織田幹雄記念館」の複合施設です。隣接する広島県指定重要文化財・名勝の旧千葉家住宅と一体性を持たせることで、本町の学びと歴史文化の拠点施設となります。
https://www.town.kaita.lg.jp/site/modasquare-kyuchibake/114182.html
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┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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1991(平成三)年12月25日(水) ゴルバチョフ大統領辞任、ソ連が崩壊 ⇒ ペレストロイカ政策を推進し、国内の民主化と東西冷戦の終結をもたらしたソ連のゴルバチョフ大統領が、テレビ演説で辞任表明。連邦を構成する各共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソ連は崩壊した。写真は、ゴルバチョフ大統領の辞任を受け、クレムリン宮殿から降ろされるソ連の国旗=モスクワ【AFP時事】
1975(昭和50)年12月25日(木) シングルレコード♪およげ!たいやきくん♪発売。売り上げ枚数400万枚以上 ※2019(令和元)年記事追加
1989(平成元)年12月25日(月) ルーマニアのチャウシェスク前大統領夫妻が処刑される
2005(平成17)年12月25日(火) 山形県のJR羽越線で特急列車が脱線・転覆し、乗客5人が死亡 ※2019(令和元)年記事消滅
https://www.jiji.com/jc/daily
1968(昭和43)年12月24日(火) アポロ8号、史上初となる月の周回軌道に乗る ⇒ 米航空宇宙局(NASA)が打ち上げた有人宇宙船「アポロ8号」が史上初となる月の周回軌道に乗った。
‡1968(昭和43)年12月25日(水) アポロ8号は翌日までに月を10周し、
1968(昭和43)年12月27日(金)に地球に帰還した。写真は、「アポロ8号」から撮影された月の地平線と地球【AFP時事】※2020(令和二)年説明追加
https://www.jiji.com/jc/daily?d=1224
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2012(平成24)年12月25日(火) 大谷翔平、栗山監督と“初対決”
‡2017(平成29)年12月25日(月) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は12月25日だ。
写真◆札幌ドームの初マウンド。対戦相手は栗山監督だった
‡2012(平成24)年12月25日(火)、つまり、きょう札幌ドームで「サヨナラ公開イベント」をする前日本ハム、現エンゼルスの大谷翔平だが、2012(平成24)年のきょう、
‡2012(平成24)年12月25日(火)は、まったく逆のイベントがあった。
花巻東高のエース・大谷は、2012(平成24)年、秋のドラフト会議で日本ハムから1位指名されたが、かねてから強いメジャー志望があり、交渉は難航。1カ月半にも及んだ。
結果的に殺し文句となったのが、「二刀流」だった。投手としても、打者としても高い能力を持っていた大谷だが、自身もまったく考えていなかったコンセプトに大きく心が動いたという。さらに栗山英樹監督の「夢は正夢。誰も歩いたことのない大谷の道をつくろう」の言葉にも背中を押され、日本ハム入団を決意した。
‡2012(平成24)年12月25日(月)、まずは札幌市内のホテルで入団会見。背番号はダルビッシュ有が日本ハム時代に着けた11となった。そのとき「一投一打、最後まであきらめずにプレーし、高校時代に果たせなかった日本一を目指していきます」と語った大谷だが、それは2016(平成28)年に“正夢”としている。
会見後には札幌ドームに移り、ユニフォーム姿でマウンドに立つと、打席の栗山監督に向かいピッチング。さらに、その後は打席に入って栗山監督と“逆対決”。「何を投げても打たれそうな雰囲気があったので、消える魔球を投げました」と、栗山監督はボールを足元にポトリ。大谷は豪快なスイングで“消える魔球”を“消える打球”にし、スタンドまで運んだ。
あれから5年、2度目の栗山監督との対決はあるのだろうか。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2012(平成24)年12月25日(火) 二刀流挑戦!大谷翔平が日本ハム入団発表
‡2018(平成30)年12月25日(火) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は2012年12月25日だ。
写真◆12月25日のクリスマスに札幌で入団発表を行った大谷[右は栗山監督]
未踏の道を歩む決断を下した。メジャーか、日本かで悩み、揺れ動いた葛藤を断ち切り、ドラフト1位指名された日本ハムで投打の二刀流に挑む野球人生を選んだ。この日、大谷翔平が雪景色の札幌で日本ハム入団発表を行った。
札幌ドームではマウンドとバッターボックスにも立ち、栗山英樹監督と“模擬対決”も行い、よどみなく高みを目指すことを表明した。
「(投手と打者)どちらでも頑張っていきたい。チーム内のレベルも高いですけど、やるからには一流のところを目指して頑張りたい」
ただの投手兼打者でなく、プロでもトップレベルの「2人」の大谷翔平になる――。一部の有識者からは成功に疑問符もついているが、野望をかなえるために並々ならぬ決意も抱く。
これまでの既成概念を覆すスーパープレーヤーが球界に誕生するか。北の背番号11に全野球ファンからの熱い視線が注がれた。
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.195 ┃ 40円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1961(昭和36)年12月25日(月)増大号 契約更改でごねる
2018(平成30)年05月10日(木) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎契約更改で嘆いた野村克也
写真◆表紙は巨人・藤田元司
今回は『1961年12月25日増大号』。定価は10円上がって40円だ。前回までしばらくトレード話が続いたが、今回の本文巻頭は『契約更改ごねるスター選手に同情の声』。いわゆる“銭闘”だ。
南海では、本塁打王とMVPの野村克也がもめていた。月給は40万円ほどだったらしいが、提示は5万円上がって45万円。野村は悪くても50万円と思っていたので「話にならない」と保留(文中はすべて月給表記だった。年俸では480万円から540万円に。野村の希望は600万円となるか)。実績で劣る中日の森徹が65万円と言われていたから、かなり低い。
ケチと言われた南海の給料が全体に低めだったことに加え、野村の場合、テスト生で月給7000円からスタートしたこともあったようだ。つまりベースが低すぎたのだ。
「海のものとも山のものとも分からぬ新人でも大学出となると、すぐ20万円からスタートする。僕は7000円から出発し、これまでみじめな思いをしてきた。だいぶ会社を儲けさせたと思っているのだが……」
と野村は嘆く。3000万円、4000万円とも言われた当時の新人獲得の際の契約金高騰が、選手たちをかなりイライラさせていたのは確かだった。それにしても、もし今と比べ10分の1の物価だったとしたら、3000万円、4000万円は3億、4億。MVPで600万の10倍、年俸6000万が希望の野村が怒って当然だ。ほか4分で席を立ったという東映・張本勲の話もあった。
この号は全体として補強関係の記事が多く、『1962年プロ入りルーキー評判記』では12球団の新人たちが紹介されている。このうち巨人は城之内邦雄、宮田征典、柴田勲らが加わった。法政二高で、甲子園優勝投手でもある柴田については、
「柴田は野球のボールから生まれたような人で、非常に勘のいい選手である。バッティングは右へでも左へでも巧みに打ちこなすし、また脚力もすばらしい。投手よりむしろ打力を生かしたいような選手。投手としても外角低めいっぱいを突く速球、スライダーに威力があり、打者の呼吸を読み取ることもうまい。それに気性も激しい。スピードもあるし、まだまだ球威は出てくるだろう」
佐々木信也の連載対談では、選手兼任で西鉄の助監督となった豊田泰光が登場する。少しやり取りを抜粋しよう。
豊田 ただのコーチっていうんだったら、ただアドバイスするくらいですむからいいけどね。助監督なんて言うから困るよ。
佐々木 なにを監督するのか。
豊田 自分はまだ監督される立場なのにさ(笑)。だけどまだ、あと5年は伸び伸びやりたいね。プレー一本でやりたいんだ。またどうせ来年くらいは外されるだろうけど(笑)。
実際外れ、さらにトレードになった。
以下、宣伝。
週べ60年記念シリーズ『巨人編』『日本ハム編』『阪神編』が好評発売中です。
では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.501 ┃ 60円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1967(昭和42)年12月25日(月)号 川上哲治監督がコラムで広岡批判?
2019(令和元)年07月10日(水) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎コラム名は右向け右
写真◆表紙は巨人・堀内恒夫
今回は『1967年12月25日号』。定価は60円。
巨人・川上哲治監督がH紙(雑誌ではイニシャルも間違いなく報知新聞だろう)に「右向け右!」と題したコラムを掲載。その中の評論家を批判した箇所が物議をかもしていた。
抜粋する。
「現役での活躍が五、六年。大した成績を収めずにマイクや原稿用紙に向かっている人がいる。もちろん監督、コーチ経験が無である。こんな人たちがファンに対して野球を語る。自分の体験からの話ならまだしも、なかにはコーチや監督の心理状態まで踏み込んでくる。こちらにしてみれば笑止であり、迷惑である」
さらに現役時代、まるで走らなかった選手がマイクの前で「全力疾走が足りない」と言ったり、アメリカの野球を少し見ただけで「本場では」「向こうでは」とやたらに言う評論家を川上は、
「始末が悪い、うわっつらの評論家だ」
と書いた。また元巨人の評論家に対しては、
「巨人から出て評論家になった人は、ほとんど何かの感情を私に持っている。私のほうはまったく門を広げ、いつでも歓迎するつもりなのだが、狭量な人は私のほうに近づいてもくれない」
元巨人、アメリカ帰り、コーチ経験なし。間違いなく、ターゲットは広岡達朗だろう。
広岡も「あれは僕のために書いたのと違うかな」と言いつつ、
「こっちが相手になるような話じゃない。まず内容がマジメじゃない。監督の立場から評論家を斬るということ自体がおかしい。あれを読んで感じたことは、この人はさびしい人だなということです」
かなりの上目線だ。
なお、広岡は東京からコーチにと声をかけられていたが、正式に断った。
では、またあした。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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1997(平成九)年12月21日(日) オリックス・中嶋聡が捕手で最初のメジャー挑戦を断念
2017(平成29)年12月21日(木) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は12月21日だ。
写真◆中嶋の強肩は「メジャー級」と称賛されていた
1997(平成九)年シーズン後、FA宣言し、日本人野手メジャーを目指したのが、オリックスの中嶋聡捕手だった。プロ入団時から、その強肩が“メジャー級”と称賛され、チームに在籍した外国人選手のニール、フレーザーらからも「向こうでやってみたくないか。できるぞ」と言われたことで、徐々に「本場で実際に確かめてみたい」という思いが強くなった。
1997(平成九)年11月には自ら渡米し、アラン・ニーロ代理人とともに数球団のテストを受け、予想どおり守備面は高い評価を受けたのだが、バッティング面の不安と、中嶋が“メジャー契約”にこだわったこともあって、なかなか色よい返事をもらうことができなかった。
1997(平成九)年12月21日(日)は中嶋がメジャー入り断念を発表した日だ。
1997(平成九)年12月20日(土)、ニーロ氏がエンゼルスと最終交渉を行ったが、年俸25万ドル(当時で約3175万円)のマイナー契約しか提示されず、断念を決めた。この日、自宅前で取材に応じた中嶋は、「アメリカ行きはあきらめました。今後は手を挙げてくれている2球団(西武、日本ハム)と話し合います」とさばさばした表情で語った。
この知らせを聞き、残念そうな顔を見せたのが、オリックスの同僚・田口壮だった。中嶋がメジャー行きを決めた際にはイチロー、中嶋、当時エンゼルスの長谷川滋利とアメリカで自主トレをしようと計画していたのだ。「せっかくのプランもこれで暗礁に乗り上げましたね。まあ、来年以降、なんとか実現させますよ」と田口。中嶋はその後、西武入団。
‡1997(平成九)年12月25日(木)に入団会見を行った。
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.043 ┃ 30円
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1959(昭和34)年2月04日(水)号 特集 二年目の長嶋茂雄 ストーブ・リーグその後の主人公
2017(平成29)年12月9日(土) 11:07 2018年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3400号を超えている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎長嶋茂雄のオフの多忙な取材日程
写真◆表紙は南海・野村克也
今回は『1959年2月4日号』。創刊43号で定価30円だ。表紙は南海・野村克也のキャッチャーシーン。なかなか斬新だ。センターグラビアでは里帰りの密着もあった。センターカラーは青空バックで巨人・広岡達朗のゴルフ場での1シーンだ。
巻頭グラビアは残り少ない学生生活を楽しむ王貞治(早実─巨人)。そして本文巻頭が『2年目の長嶋茂雄』。オフの多忙な取材日程があったので抜粋する。
1958(昭和33)年12月15日(月) 11時半 スポーツニッポン座談会
1958(昭和33)年12月15日(月) 18時 NHK『私の秘密』
1958(昭和33)年12月16日(火) 12時 共同通信座談会
1958(昭和33)年12月16日(火) 19時 郵船ビル座談会
1958(昭和33)年12月17日(水) 12時 文化放送正月番組
1958(昭和33)年12月17日(水) 13時 平凡写真撮影
1958(昭和33)年12月17日(水) 14時半 ラジオ東京正月番組
1958(昭和33)年12月18日(木) 12時 ベースボール・マガジン社写真撮影
1958(昭和33)年12月19日(金) 12時 ベースボール・マガジン社写真撮影
1958(昭和33)年12月19日(金) 16時 毎日放送正月放送
1958(昭和33)年12月19日(金) 18時 東亜テレビ正月番組
1958(昭和33)年12月20日(土) 14時 巨人軍浴衣撮影
1958(昭和33)年12月20日(土) 16時 中日放送正月番組
1958(昭和33)年12月20日(土) 18時 日刊スポーツ座談会
1958(昭和33)年12月21日(日) 14時 たんぽぽ会招待
1958(昭和33)年12月21日(日) 14時半 報知新聞写真撮影
1958(昭和33)年12月22日(月) 早朝 千葉県野田サイン会へ
1958(昭和33)年12月22日(月) 18時 東亜テレビ正月番組
1958(昭和33)年12月23日(火) 11時 NHKテレビ正月番組
1958(昭和33)年12月23日(火) 15時 デイリースポーツ 座談会
1958(昭和33)年12月24日(水) 12時 文化放送正月番組
‡1958(昭和33)年12月25日(木) 長嶋茂雄 完全オフ日???????
1958(昭和33)年12月26日(金) 13時半 新宿コマ巨人軍の集い
1958(昭和33)年12月27日(土) 13時 東京新聞写真撮影
1958(昭和33)年12月27日(土) 17時 短波放送正月番組
1958(昭和33)年12月28日(日) 14時 東亜テレビ正月番組
1958(昭和33)年12月28日(日) 19時 石原裕次郎の誕生祝
1958(昭和33)年12月29日(月) 14時 文化放送正月番組
1958(昭和33)年12月30日(火) 早朝 埼玉サイン会へ
1958(昭和33)年12月31日(水) 17時 NHKテレビ座談会
1958(昭和33)年12月31日(水) 20時 朝日放送稲尾と対談
1959(昭和34)年01月01日(木) 浅草国際劇場に出演 1回目
1959(昭和34)年01月02日(金) 浅草国際劇場に出演 2回目
1959(昭和34)年01月03日(土) 12時 NHKテレビ正月番組 20時 NTV正月番組
1959(昭和34)年01月03日(土) 浅草国際劇場に出演 3回目
1959(昭和34)年01月04日(日) 浅草国際劇場に出演 4回目
1959(昭和34)年01月05日(月) 浅草国際劇場に出演 5回目 ※最後の出演
1959(昭和34)年01月05日(月) 12時 ベースボール・マガジン社座談会
1959(昭和34)年01月06日(火) 12時 大丸デパートサイン会
1959(昭和34)年01月07日(水) 10時 朝日ニュース正月番組
1959(昭和34)年01月07日(水) 15時 ベースボール・マガジン社森と対談
1959(昭和34)年01月11日(日) 09時半 NTV野球教室
1959(昭和34)年01月11日(日) 10時半 新潟県直江津へ。サイン会
1959(昭和34)年01月13日(火) 18時 東条会館千葉県人会サイン会
1959(昭和34)年01月15日(木) 早朝 こだまで東京へ。杉浦忠結婚式
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┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
┃ プロ野球仰天伝説 No.014 ┃ ONLINE
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「3センチ外れている」とつぶやいた榎本喜八の驚異の選球眼
2018(平成30)年1月6日(土) 11:06 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
だれもが一目置いていた実力
川上哲治も「天才」と評する打撃だった榎本
早実と毎日の先輩・荒川博を師匠とした荒川道場の一期生である榎本喜八。合気道を学び、心と技の両面からバッティングを追究した男だ。
1年目からレギュラーとなり、
1960(昭和35)年と1966(昭和41)年に首位打者。その打撃は、ムダな動作をなくし、人間本来の力を引き出す自然体のスタイルだった。
ただ、「バットを自分の腕のように自由自在に振る」「心が正しくないと野球はうまくならない」「自分の中に球を引き込み、腹の中でバックスイングする」など、その語録は合気道を知らない人間には奇異に映るものばかり。突然、ベンチで坐禅を組んだり、極端なまでに求道的な姿勢でいたりするなど周囲から誤解されることも多かった。
しかし、あの川上哲治(巨人)が「打撃の天才というなら僕ではない。榎本だ」と言ったように、その実力にはだれもが一目置いていた。
西鉄の稲尾和久が生涯で榎本にだけフォークボールを投げ、南海の捕手・野村克也は「打席ではすさまじく集中し、ささやきがきかない。際どいコースを審判がストライクを取ってくれた後、榎本が指を3センチくらい広げ、『これだけ外れている』とポツリ。実は私もそれくらい外れていると思っていた。そこまで正確に見ているのかと思って、びっくりした」と語っている。
榎本喜八(えのもと・きはち)
‡1936(昭和11)年12月25日(金)生まれ。東京都出身。早稲田実から
1955(昭和30)年に毎日(のち大毎、東京、ロッテ)へ。1年目から一塁の定位置をつかんで新人王に輝いた。
1960(昭和35)年、打率.344で首位打者に。
1966(昭和41)年にもリーグ最多の167安打で打率.351をマーク、2度目の首位打者になっている。
1968(昭和43)年に史上最年少31歳7カ月で2000安打を達成。
1972(昭和47)年に西鉄へ移籍し、同年限りで現役引退。
2012(平成14)年3月14日(水)死去。主なタイトルは新人王、首位打者2回、通算成績2222試合、2314安打、246本塁打、979打点、153盗塁、打率.298
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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